翌日、すまなさそうな顔をしたシゼに揺り起こされたのは、もう太陽が中天にのぼった昼間だった。あわてて勢いよく起き上がろうとしたイーツェンは、痛みが波打った左肩を押さえてもう1度敷布に倒れこんだ。
「大丈夫ですか?」
慌てたシゼの声に何度かうなずくが、咄嗟には声が出ない。骨に溜まっていた鈍痛が一気にはじけてあふれ出したようだ。
痛みがゆるむのを待ち、やっと息を整えながら、イーツェンはシゼの顔を見上げる。何だかまだ船の中にいるような気がして、何故ここにいるのかとシゼに問いそうになった時、昨日の記憶が嵐のように押しよせてきた。船を降りたのだ、彼らは。
(ゼルニエレードまでたどりついた‥‥)
横たわったままのイーツェンが下からのばした右手を、シゼが心配そうにつかむ。その手をイーツェンが引くととまどった顔をしたが、かまわず引き寄せ、イーツェンはシゼの肩をつかんだ。シゼはイーツェンに体重がかからないよう頭の横に手をつくと、求められるまま体を倒し、2人はゆっくりと唇を合わせる。くちづける寸前、シゼは小さく微笑したようだった。
イーツェンはシゼの唇を吸い、内側にしのばせた舌で歯の裏をなぞる。ざらついた舌をねぶると、シゼの溜息がくちづけの内側にあたたかく曇った。右手をシゼの髪に差し入れて、さらに強く引きつける。シゼの存在を確かめたかった。
イーツェンの好きにさせていたシゼが、不意にイーツェンの舌を強い舌でからめとると、上にいる体勢を利用して押しつけるように唇を貪る。主導権を奪い取った強い舌にうながされて、イーツェンはさらに口をあけ、荒々しいほどのシゼの舌の動きを受け入れた。お互いがそこに無事でいることを確かめ、互いを求めて、熱を分かち合う。
体温が上がって、肺に熱っぽい息が溜まり、胸の奥がひどく苦しい。肌が汗と熱に湿る。くちづけの合間に短く呼吸を継ぎながら、イーツェンは目をとじた。体に覆いかぶさるシゼの重みを抱きしめて、血が揺らぐような浮遊感に酔いしれる。
見えない枷が外れたかのように、自由であることを全身で感じた。航海を終えて船から降り、2人だけでいられる。こうして抱きしめあうことすら自由で、そのことがひどく幸福だった。できるならこのまましばらく動きたくない。
「‥‥起きてますか」
シゼが唇を離して、囁くように言う。彼の温度を体のすぐ上に感じながら、イーツェンは目をとじたまま笑った。
「起きてるよ。手を貸して」
シゼの手をつかみ、そろそろと体を起こしてみる。左肩は動かさなければ大した痛みはなかったが、シゼはしばらく肩を調べてから、筋を痛めたのではないかと言って心配そうな顔をした。
「すぐ治るよ」
なだめながら、イーツェンは右手の指でこめかみを揉む。目覚めの驚きと昂揚感が過ぎ去ってみると、一晩ぐっすり眠った筈の体はまだ疲労で重いし、骨の芯にちりちりとした冷気が居座っていて、体の奥が寒い。旅に疲れた体で無理をしたり、つめたい海に落ちたつけが回ってきているのかもしれなかった。
だるいが、休んでいるわけにもいかない。イーツェンは何とか起き出すと、シゼの手を借りて体をのばし、こわばっている筋肉をあたためて人並みに動ける状態になった。体中の至るところで筋肉がこわばっているのは、崖からおりる時に酷使したせいだろう。少しずつ鍛えないとな、と思って、イーツェンは溜息をついた。
イーツェンが体の調子をあちこち確かめている間に、シゼは下で昼食の仕度をしてくる。宿には昼食がついていないので、酒場の火を借りて、イーツェンがホードからもらった腸詰めを焼くのだ。
焦げ目が付くまで焼いた腸詰めとパン、薄いエールまで持ってシゼが戻ってくると、2人は部屋でのんびりと昼食を取った。2人で食事ができるのも久しぶりなら、時間に追われずにゆっくりと食べられるのも久々だ。ひとつひとつの小さなことが、今のイーツェンには楽しかった。
宿の向かいにあるパン屋で買ったパンは全体に黒っぽく、円板状で、表面に細かいひび割れが合って歯ごたえが固い。松の実が入っているのが香ばしかった。焼いた腸詰めの皮はねじれるようにはじけ、裂け目から肉汁がにじみ出している。一口かじると、香辛料を惜しみなく使った刺激的な味わいが肉の脂とともに舌の上に広がって、イーツェンは呻いた。
「うまいなあ、これ。羊と豚かな?」
シゼも大きく頬ばりながら、喉の奥でうなって同意する。山盛りの腸詰めを2人で平らげながら、イーツェンはしみじみと、リグに戻ったらユクィルスや旅先で食べた色々な食べ物が恋しくなるだろうと思った。だが、リグの濃厚なチーズや、羊の血と内臓までもを詰めた独特の匂いのある腸詰めも、今となっては心の底からなつかしい。冬の間、見るのも嫌になる塩漬けの魚と、からからになるまで燻製にした塩辛い羊の肉も。
「盗み食いするなって何度も言われたけど、こりゃする奴も出るよなあ‥‥」
呟きながら指をなめているとシゼが妙に嫌そうな顔をしたので、イーツェンは眉を上げた。
「してないよ」
「‥‥あなたを丸めこめば、うまいものが食えるのではないかと言っていた水夫がいたんですよ」
「ああ、そういう声かけてくるのはいたよ。ホードが見つけ次第殴ってたら、そのうち誰も何も言ってこなくなったけど」
片足が義足の料理長を思い出して、イーツェンはなつかしく笑った。終わってみれば、結構楽しい船旅だった気がする。イーツェンが笑うのを見て、シゼも口のはじで微笑した。
そう言えば、シゼの船での暮らしがどんな風だったのかほとんど知らないのに気付いて、イーツェンはたずねようと口をあけかけたが、食事を終えたシゼはもう立ち上がっていた。イーツェンもあわてて手元を片付ける。
宿には今夜の分の金は払ってあったが、2人は戻ってこなくても大丈夫なようにと荷物をすべて持ち、宿を出た。荷を残さないのは、泥棒対策でもある。
宿の男に、リグの領事館か商館を知らないかと聞いてみたが、確実なところは何もわからなかった。ただ、海港の周囲よりも、川港を囲む地域の方に商業施設や役場が集まっているらしい。その地区の中心だという橋までの道を教わって、2人は宿を出た。
荷車が通りやすいよう、道の中央は敷石で舗装されている。だが左右は土のままで、道のはじにある排水の溝に足を取られないようにしながら、イーツェンは左足を引きずりながら歩いた。イーツェンの前を行くシゼは旅用のマントを羽織って左腰に剣を下げ、肩にはイーツェンの物より大きな荷を担いでいた。イーツェンの負担を減らすために、彼の荷物まで持ってくれている。
形だけの荷物を右肩にかけて、イーツェンはシゼの背中を負う。体重がかかるたびに爪のはがれた左の足指にびりりとした痛みがあったが、踵で歩くように心がければ、何とかしのげる痛みだ。シゼの足取りは、イーツェンが楽についていけるほどゆるやかなものだった。
天からふる陽の色は淡く、冬の予感をはらんで空は白っぽい。風にはもうかすかに冬の香りが漂っているようで、通りに面した家畜囲いの生け垣も半ばが茶色く、囲いの中に見える豚や鶏の数も少ない。冬に向けて口減らしをしているのだろう。
女たちも冬支度をはじめてか、道端に樽を据えて上に座りこみ、隣同士でにぎやかにしゃべりながら膝に乗せた羊の毛の塊を糸に紡いでいた。撚り上げられていく糸の先で、くるくると円錐形の重りが回っているのを横目で通りすぎながら、イーツェンは彼女たちの無遠慮な視線がシゼと彼とをじっくり値踏みするように見ているのに気付いた。旅の人間がそう珍しい町だとも思えないが、そんなに場違いだろうか。
「そう言えば、役人の顔あらため、結局来なかったな」
呑気に呟くと、シゼが肩ごしにちらっと振り向いた。
「朝、来ました。あなたは眠っていたので」
「あ、そうなんだ」
起こされもせず、そんなものですんだのかとイーツェンは感心する。このあたりは役人も呑気なのだろうか。もっとも、ああして糸を紡いでいる女性たちにかかれば、不審な人物などあっというまに目をつけられて通報されてしまいそうではある。
チチッと鳥の声がして上を仰ぐと、板で覆われた屋根から灰色のカヤクグリが飛び立っていくのが見えた。
教わった道をたどって、川沿いに出る。まるで牧草を固めたような大きな塊が、岸からつながれていくつも流れに浮いていた。麻を腐らせて繊維を取っているようだが、晩夏に採れる筈の麻の加工を、随分と遅い季節にまで行っているものだ。川の向こう岸には、流れに大きく張り出した足場があり、その上には作業用の小屋がよりかかりあうようにぎっしりと並び立っていて、イーツェンは足をとめて物珍しく眺めた。
染色、鍛冶、革なめしなど水を使う職人たちは多い。そうした職人地区なのだろうか。川のこちら岸にも、川から引き込んだ溜め池を囲んで3軒ほどの職人小屋が立ち、壁のない屋根の下では鍛冶師が農具の打ち直しをしていた。鉄床を叩く槌の音が甲高くひびいて、流れの音を消している。何も作業している様子がない小屋では、朝の漁から帰ってきた様子の男たちが小さな火を囲んで魚を焼き、陽気に酒を飲んでいた。
教えられた橋は、すぐにわかった。古びてはいるががっしりとした作りの橋で、何故か橋の上にはところどころ屋根がかけられている。橋の根元に足をとめ、イーツェンは首をのばして橋の上をのぞこうとしたが、特に屋根の下には何もないようだった。にぎわう季節には、橋の上で商人が売り場を広げたりするのかもしれないとは想像するが、今は橋番が1人、橋に上がる傾斜に座って煙管をふかしていた。
川幅はおよそ30歩ほどか、川の表面は絹を投げたようになめらかだ。上流には張り出した砂州があり、その周囲で乱れた水流が筋のような盛り上がりになって時おり川の上をすべってくる。砂州をさらに回りこんだ向こうには、荷船や漁の船が並んで係留された川港があり、イーツェンたちは橋を渡らずに港の方角へ歩き続けた。港へ着く前に道を右へそれて小さな草地を横切り、洗濯物がひるがえる路地を抜けると、広い道へと出る。
港から町の広場までまっすぐに通されたその道は、宿の主人によれば町で一番広い道だ。港に近いあたりには宿や酒場、飯屋が雑多に肩を並べているが、やはりにぎわいの季節はすぎたのか、人はいるものの至ってのんびりした雰囲気が漂っている。そこを抜けると通りの空気は一変し、2階建ての建物が肩を並べるように通りの左右に建ち並んだ。2軒ごとに建物の間を奥へ入っていく路地がそなえられていて、その路地までも石で舗装されているところを見ると、どうやら奥へ荷を運びこむ荷道のようだ。建物の裏に倉庫があるのだろうか。
これが商館にちがいない、とイーツェンは唾を呑んであたりを見回す。建物の中には、1階部分だけが奥にひっこみ、張り出した2階部分の下に樽や荷箱を積み上げているところもある。だが今はその荷物も歯抜けで、建ち並ぶ商館の正面扉は、あいているものもしまっているものもあり、通りには奇妙にがらんとした空気があった。
ひとつひとつの建物に視線を走らせていたが、建ち並ぶ商館のひとつ、灰色の壁と狭い横幅の建物に、イーツェンの目は吸いよせられる。行く手の右側だ。正面の木の扉はしまり、外からはまるで人気のないその建物の、扉の上に描かれた鳥の羽根の印をみた瞬間、イーツェンはシゼを追い越して走り出していた。
体重がかかるたびに激痛の走る左足と、左肩のきしみを無視し、道ばたの溝をさらっている物乞いの横を通り抜けて走る。この世の終わりのように息を切らせて建物の前に立つと、イーツェンは1段のぼって、扉の表面を拳で叩いた。
「誰か! 誰かいるか!」
シゼが横に立ち、何も言わずにイーツェンの右肩から荷を取った。イーツェンはふるえる指で扉の上の鳥の羽根の意匠をさし、扉に打ちつけられた木札に焼き捺されたリグの名をさす。鳥の羽根は鷹の羽根を表し、正式な国紋を持たないリグはしばしばその意匠を国の印として用いる。
「シゼ。リグの商館だ」
とうにわかっていただろうが、シゼはうなずくと、呼び鈴の紐のようなものを探してか扉の周囲を見回した。イーツェンはまた右手のひらを扉に叩きつける。誰もいないのだろうか。もう、リグへ引き上げて、冬に向けてこの商館はとざしてしまったのだろうか。
「誰か!」
人の気配を感じない。誰も答えない時間がのびるたび、喉が締めつけられて胸全体が苦しくなり、腹の底からこみあげてくるつめたさを飲み下して、イーツェンは怒鳴った。
「誰かいないのか!」
答えはない。本当に誰もいないのだろうか。リグへと去って? まだここは冬ではないが、山が冬になる前にリグへ戻るのならば、とうに旅立っていないと間にあわない。イーツェンの曖昧な記憶だと、商館には冬の間、誰かが残って春の取引に向けた準備をしていた筈なのだが、あらゆる状況が変わった今、どうなっているのかがわからない。
イーツェンは目をとじ、扉の表面に拳を押し当て、もう1度叫ぶだけの息を胸に溜めようとする。リグへの細い糸をたぐるようにしてここまで来て、また彼らはここで立ちどまらなければならないのだろうか。
「誰か──」
「誰だ?」
声は扉の中ではなく、イーツェンたちの横からした。イーツェンは目をあけ、眩暈をこらえながら建物の横から出てきた黒髪の男を見る。隣の建物との間の路地から出てきたばかりの男は、30代半ばほどで癖のない黒髪を首の後ろでくくり、やや灰色がかった焦茶色の目でイーツェンとシゼをいぶかしげに見ていた。口元から顎までの線が細く、下唇の弧がくっきりしている。額が広くて目尻側の目のふちの陰影が奥に深い、その顔立ちと、薄褐色の肌の色はまぎれもない山の民の顔だった。
相手もイーツェンの顔をまじまじと眺めてから、また視線をいぶかしく細めてイーツェンの首の輪とシゼとの間を素早く見比べた。不確かな表情で、だが不愉快そうに唇を歪め、イーツェンへ曖昧な手振りをする。
「リグの‥‥?」
どうして奴隷の首輪をしているんだとか、その男は何者だとか、色々な問いが後ろに隠れているようだったが、どう聞いていいのかわからない様子で言葉を切った。
イーツェンは答えようとしたが、喉に大きな塊が使えたようで何も言えない。ただ、自分はたしかにリグの者なのだとそれだけでも伝えようと大きくうなずいた。
シゼが半歩前に出て、イーツェンの背中の下に支えるような手を置く。静かに言った。
「リグの民を送り届けに来た。中で話ができるか?」
男はためらったが、やがてうなずいて手招きし、自分が来た路地を奥へ入って行った。イーツェンはいつの間にか自分たちが野次馬の視線を残らず集めていたことに気付いたが、もう従順な奴隷のふりもできず、シゼにすべての荷物を持たせたまま先に立って歩き出してしまう。気ばかりが急いてどうしようもない。
建物の壁の間を抜けると、意外なほど広い中庭に出ていた。周囲の建物と共有した中庭なのだろう、建物で四方を囲われた空き地のすみには屋根だけの馬小屋や水場がそなえられ、庭の中ほどで男たちが小さな火を囲んで串に刺した魚を焼いていた。庭の向こうには横に長い大きな煉瓦造りの建物があって、どうやら倉庫のようだ。壁の前に数台の手押し車が並べられていた。
火を囲む男たちの1人が、イーツェンを先導してきた男を見て立ち上がった。やはり山の民の顔立ちをしているが、より彫りが深く、口元に薄い髭を生やしている。リグか、あるいは近縁の民。なつかしさがはじけるように胸を満たして、イーツェンは立ち尽くした。
「どうした、カーザ」
火のそばからやってきた男が、イーツェンたちを案内してきた男へけげんそうに問う。カーザはイーツェンとシゼを親指でさした。
「お客さんだ」
後ろから右腕をつかまれてイーツェンはとびあがりそうになったが、すぐにシゼの手だとわかって、肩ごしに心配そうなシゼの顔へ微笑した。大丈夫だ、と言いたいが、言葉が出ない。
カーザともう1人の男は、何か頭をよせてひそひそと言葉を交わしていたが、すぐに髭の男がイーツェンたちを手招きした。
「屋根の下へどうぞ」
イーツェンはうなずいて、答える言葉を選ぶ。
「招きに心より感謝する。あなた方の屋根に常に光の恵みと、風の守りがありますように」
かつて習慣的に口にしていた言葉だからか、意外なほどすらすらと平静に言葉が出た。イーツェンの返事を聞いた男の目の奥に驚きの光がともる。リグの者同士の挨拶ができるかどうか、イーツェンを見きわめようとしたのだろうが、格式がある筋の者がする返事が戻ってきたことで意表を突かれた様子だった。
カーザが商館の裏の扉をあけて、先に入る。髭の男はイーツェンとシゼを中へ案内しながら自分の胸元をさした。
「ハンサイと言います。サンザルの息子で、ファルカタの族衆でしてな」
建物の中は薄暗く、足を踏み入れた瞬間、慣れない目には一瞬すべてが影に沈みこんで見えた。イーツェンのすぐ背後にはシゼがいて、それをはっきりとつたえるように、イーツェンの背中の下側にシゼの手が軽くふれている。その手の感触がなければ、男たちが話すなつかしいリグの訛りを、夢の中のものだと思ってしまいそうだった。
リグの民だ。彼らがここにこうして商館を構えつづけているということは、リグは無事なのだ。そのこともイーツェンは胸に噛みしめる。
さらに内扉をくぐって客間のようなところに案内され、イーツェンとシゼが布をかけた木の長椅子に腰をおろすと、カーザが窓の覆いを外して陽の光を部屋に入れた。
がらんとした室内は、細い木の桟を格子に組み合わせた壁に囲まれていて、格子の中は漆喰で塗られている。壁には紐に通した牛の角が魔除けとしていくつか吊るされているが、ほかに飾り気はなく、部屋の隅には長箱や蓋を外した樽が物入れとして置かれているだけだった。いかにも最近片付けたように見える。
カーザは、自分とハンサイの座る椅子を探してくると、イーツェンたちと向き合って据えた丸椅子にどかりと音を立てて陣取った。ハンサイはもう少し行儀よく座ると、膝に肘をのせてイーツェンへ身を傾ける。
「それで、あなたは?」
態度は礼儀正しいが、視線は警戒に満ちている。カーザの視線もシゼとイーツェンとの間をゆっくりと見比べて、ひとところにとどまらない。
イーツェンは痛むほどこわばった喉に唾を呑みこみ、言葉を押し出した。
「私は、リグの柱たるウィハクの息子、イーツェン。リグの王ウィハクの第三子だ。彼は、シゼ」
イーツェンがシゼについて説明する間もなく、2人はたちまち蒼白になり、カーザが椅子を蹴立てて立ち上がった。
「馬鹿な! 王子は異国で亡くなったと──」
イーツェンが口をはさむ前にその顔が今度は激怒でみるみる赤らみ、カーザはイーツェンにつめよろうとしたが、獣のような身ごなしで立ち上がったシゼが割って入った。そのシゼを無視して、カーザはさらにイーツェンへ近づこうとしたが、シゼが二の腕をつかんで低く恫喝する。
「下がれ」
「離せ! お前ら何者だ! 王子ならどうして奴隷の首輪など──」
頭に血がのぼって、怒鳴りながらどんどん大声になるカーザを、言葉の途中でシゼが強い力で突きとばした。足をもつれさせたカーザは後ろへたたらを踏み、倒れている自分の椅子に引っかかって、もんどり打つように床へ倒れこんだ。イーツェンは息を呑んで彼らの様子を凝視する。
シゼは立ったまま、倒れたカーザを見おろす。さすがに剣に手をのばす様子はなかったが、シゼの後ろ姿と声は強い怒りに満ちていた。
「客に取る礼儀か」
「まったくだ」
と、ハンサイが椅子に座ったまま同意したので、イーツェンは驚いて男の顔を見た。ハンサイは、口元から顎に生やしている薄い髭を手のひらでつるりと撫で、真っ赤な顔で起き上がったカーザへ困ったような視線を投げた。
「失礼した。ですが、その‥‥つい10日ほど前に、王子の弔い品をゼルニエレードの領主に頂いて、送り出したばかりでしてな」
「‥‥‥」
イーツェンは咄嗟に言葉がない。ハンサイは身をかがめると、どうにか椅子の脚から足をほどいて床に起き上がったカーザの頭を、ポンと平手ではたいた。ほとんど同い年のように見えるのだが、ハンサイの方がずっと落ちついていて、どうやら立場も上のようだ。
「こいつも気持ちが入ってしまって、泣いたばっかりでしてな。王子の名を聞いただけで頭に血がのぼってしまったんでしょう」
「‥‥それは大変、申し訳ない」
何故自分があやまっているのかわからなかったが、イーツェンは本当にすまない気持ちになってあやまった。ジノンはイーツェンが生きていたことと、恩赦を受けたことをユクィルス国内に向けて布告した筈だが、リグまで、そしてこの地まで情報が伝わるのには時間がかかるのだろう。
──弔い品。
人が自分を死んだこととして扱っている事実を聞いても、心の奥で何かが凝ったようで、感情は揺れなかった。誰か、別の相手の弔いのことを聞いているようだ。生きているのだから贈り主に返さないといけないのかな、とか、どんな品目の弔い品だったのかということには興味があったが、それをここで聞くのはさすがにはばかられた。
イーツェンは手をのばし、まだ立っているシゼのマントの背中を引いた。
「大丈夫だ、シゼ。下がって」
シゼはイーツェンの横へ戻ったが、椅子に座ろうとはしなかった。2人を威嚇するように立ったままじっと見おろす彼の姿に、イーツェンは胸の奥の緊張がゆるむのを感じる。シゼはいつでもイーツェンを守ろうとしてきた。あまりにもたくさんの苦労をかけてきた、彼にもこれで少しは報うことができるのだろうか。
カーザは倒れた椅子を直してきまり悪そうに座り、イーツェンの姿を上から下まで無遠慮に見た。旅に疲れ果てて、頬には派手な擦り傷を作り、体にあわない大きめのシャツには船旅の落ちない汚れがこびりついている。おまけに首には奴隷の輪を巻いて、自分がどれほど王子らしからぬ格好をしているかはわかっていたので、カーザのうさんくさそうな視線にイーツェンはおだやかな微笑を返した。
「紙とインクか、蝋板を。名前を書くから」
顔を知る相手ならともかく、彼を直接知らぬ相手に、王子であるといくら言葉を尽くしても仕方ない。だがリグの民ならば、王族の名前を見ればその名の持つ力がわかる筈だ。
言われてそのことに気付いた様子で、ハンサイがぱっと顔を明るくして立ち上がった。彼が早足で部屋を出て行った間に、イーツェンはもう1度シゼのマントを引いて、椅子に座らせた。
「大丈夫だって」
カーザが不審そうな目でシゼをにらんでいるのが気になって、イーツェンはシゼにぼそぼそと囁く。シゼはイーツェンを見てうなずいたが、その肩にこもっている力は一向に抜けなかった。
警戒というより緊張なのかもしれない。ここを越えれば彼らの旅は大きく変わる。2人だけで、あるかなしかの道しるべをたぐるように旅をしてきた日々はもう終わろうとしている。ほっとする一方で、それは少し淋しくもあった。リグへ帰ろうとしながらも、このままずっとシゼと2人だけで旅を続けていくような錯覚が、イーツェンのどこかにも棲みついていたのかもしれない。
ハンサイは、薄い石板をはめこんだ木の書板を持って戻ると、葦のペンとともにイーツェンに渡した。イーツェンは書板を膝の上に乗せ、ハンサイがさし出す器の水にペンを浸けて、石の上に自分の名を──真実の名を──記しはじめる。なめらかに磨き上げられた灰色の石の表面はしっとりときめ細かく、水を吸うと濃い灰色の線がくっきりと浮き上がった。
真実の名。リグの王族として与えられた名を、イーツェンは記そうとしたが、途中でふるえる手をとめて大きく呼吸しなければならなかった。キル=ヴァン=ニェス。音をひとつひとつの文字で記すのではなく、言葉全体を一文字として綴っていく高位文字。今はもう使う者も少ないその文字を用いた署名は複雑で美しく、その形にも秘められた力があると言う。
この名の書き方を、イーツェンはあのユクィルスの城に与えられた一室で、時間をかけてシゼに教えたのだった。それが城を去るシゼの助けになると信じて、そしてシゼに彼のことを忘れてほしくなくて、シゼに自分の名を与えた。1年ばかり前のことが、遠い遠い昔のことのように思える。
息をまた吸いこみ、吐いて、イーツェンは向かいにいる2人の男の視線を感じながら名を書きつづけた。この真実の名は、ユクィルスの裁きで衆目の前で告げた時に失っているのだが、自らを証するためにこれを名乗ることは、きっとまだ許されるだろう。
書き終えると、イーツェンはペンを椅子に置き、書板を持ち上げ、逆に回してハンサイたちの方からまっすぐ見えるようにした。左腕の痛みでぎこちない彼の手から、シゼが書板を取り上げ、ハンサイとカーザの目の前に示す。
2人は稲妻に打たれたように、水で記されたイーツェンの署名に見入っていた。彼らの顔はどちらも蒼白で、唇をぐっと引き結んだカーザの目のふちにみるみる涙が盛り上がる。
誰も、何も言わない。シゼはイーツェンの名を持って身じろぎもしない。カーザが濡れた目で、まるで大事な宝を見るようにイーツェンを見て、ハンサイはしゃがれた咳払いをした。言葉を失っているようだった。
ふいに、イーツェンは心の奥で何かが破れた気がした。ここまで平静にかまえていた心の内側が何の前触れもなくくつがえり、名付けられない荒々しい激情が体を内から揺すりながら一気にかけのぼってくる。とてもじっとしていられずに立ち上がろうとしたが、体中が強くふるえて、自分の体重すら支えられそうにない。イーツェンは息を荒く吸いこみ、両手を胸の前で握り合わせ、荒くなった呼吸をととのえようとしたが、うまくいかずに体を前に倒した。
「イーツェン」
シゼが強い声で呼び、すぐに強靭な腕がイーツェンの背をかかえこむ。
「水か気付けの酒を!」
するどいシゼの指示と、それを追うような慌ただしい足音を意識の外で聞きながら、イーツェンは喘いだ。雲が陽を覆ったように、視界がすうっと暗くなる。
「イーツェン。落ちついて、息をして」
背中をシゼの手がさすった。大丈夫だと言いたいが、喉がつまって声が出ない。そもそも自分が大丈夫なのかどうか、イーツェンには自信がない。
「何だ、一体」
どこかから呆気にとられたような声がした。ハンサイの声でもカーザの声でもないその声は、イーツェンの記憶の中の何かを刺激する。忘れていた遠い記憶。息をとめて、イーツェンは汗ばんだ顔を上げる。
部屋の入り口に、足首までの長衣をまとって、金糸で縁取りされた聖布を両肩から胸前まで垂らした、だがそれ以外は質素ななりの神官が立っていた。黒髪を目の上まで垂らし、山の民には珍しい鋭角な鼻が少し傲慢な印象を与える。だが広い口元は笑みをたたえたようにいつもやわらかく、目に強い光があって、その顔は時おり大人の男のようにも少年のようにも見えた。扉にかけた右手の指には、絡みつくような黒い刺青が入っている。
イーツェンは彼の姿を見て、口をあけた。3年半前、旅立つイーツェンを見送る人々の中に、この顔があった。
だがイーツェンが何か言う前に、カーザが忙しく身振りをまじえながら上ずった言葉をはさんだ。
「ザイン、今、この方が──」
イーツェンの顔を見たザインはさっと眉を寄せ、衣がするどく擦れる音を立てて大股に部屋に歩み入った。イーツェンの目の前に片膝を着いて、顔を下からまじまじと見上げる。
「イーツェン王子? 天地神明にかけて、何だって、一体全体こんなところに沸いて出たんだか」
なつかしい声だった。渡りの神官だったザインはイーツェンがいた離宮のそばにしばらく住みついており、イーツェンがユクィルスに旅立つことに決まってからは、深刻になる周囲をよそにあくまで明るくふるまいつづけて、旅立ちの時にまでイーツェンを見送りながら笑って手を振っていた。彼の陽気な笑顔は、イーツェンの記憶に長く焼きついていた。
とうに、リグを離れているだろうと思っていた。五柱神を奉じて旅をするのがザインの暮らしだった筈だ。だが何故かザインは、ゼルニエレードにあるリグの商館の中にいきなり現れて、イーツェンを名を呼んでいる。もう随分と長い間、シゼしか呼ばない名前だった。
イーツェンはふるえつづける体を押さえようと、胸に強く拳を押し当てながら、前かがみの姿勢でザインへ弱い笑みを向ける。視界がうるんだ。
「‥‥リグへ、帰る途中なんだ」
しゃがれた声で、それだけしか言えなかった。だがザインは悟った様子でにっこりと微笑した。彼にはわかったのだ。イーツェンの体はまた大きくふるえ、揺らぐ体をシゼが両腕でしっかりと抱きかかえた。
周囲の声が遠ざかって、まるで渦の中にいるように無数の雑音しか聞こえなくなる。地上にいるのに、溺れそうだ。イーツェンはシゼの体にしがみついて、強く抱き返してくる力にすがった。どうしてか、自分の中の何かが崩れてしまったようで、体も心も言うことをきかない。指先が凍りついたようにつめたくなる一方で、熱病にかかったかのように小さな痙攣が体を幾度も通り抜けた。
建物の中のどこかに体を運ばれて横たえられる間も、イーツェンはまるで他人の体のようにすべてを遠く感じていた。頭を抱えられて、蜜を薄めた湯のようなものを少しずつ飲まされる。起きようとしたが、シゼの声と手が彼をなだめて、とにかくあたたかな湯を飲み切った。
しばらく、言われるままにまどろんだだろうか。
ふっと意識が焦点を結んで、気がつくとイーツェンは自分をのぞきこんでいるシゼの顔を見上げていた。
部屋の中が薄暗くて、シゼの表情はよく見えない。体にかけられている毛布から右手を抜き、イーツェンはシゼへ手をさしのべて、頬にふれた。
ひどく静かだった。互いの息が聞こえてくるほど。体の下にもやわらかな感触があって、自分が寝台か寝椅子のようなものに横たえられているのはわかったが、体の芯が重くて起き上がる気になれない。シゼの顔に確かめるようにしてふれてから、手をおろそうとすると、シゼの手がその手をつかんで指を握り合わせた。手にこもる力で、彼が心配していたことがわかる。
「ごめん」
呟いて、イーツェンは溜息をついた。自分が情けない。
シゼは首を振る。
「旅の疲れが出たんです。ここにいればもう安全だから、ゆっくり休んで」
そうか、とイーツェンはぼんやりしたまま考えた。もう夜をどこでどうやってすごすか、どうすれば安全に眠れるか、毎日のように思いわずらう必要はないのだ。名を偽って旅をする必要も、奴隷としてあらゆる相手にへつらう必要もない。リグやユクィルスの癖が言葉についているのではないかと自分の発音を気にすることもないし、シゼとの間柄を人に偽らなくてもいい。
シゼの手を握りしめて、握り返す力にほっとする。本当に彼らは、2人でここまでたどりついたのだ。
「シゼ‥‥」
「最後の荷が、冬の前にリグへ向かうそうだ」
冬の前にと言ってももう冬は目の前だろうに、とイーツェンは目をまたたかせた。山はすでに冬だろう。どう旅をするのかと問いを口に出す前に、シゼがおだやかに続けた。
「春になると雪解け水が入って川の流れが速くなるので、その前に川をのぼって、山の途中にある町で春まで待つのだと」
「そうなのか‥‥」
春になる前に、山へは戻れるということなのだろうか。頭に綿でも詰まったようで、どこかイーツェンには言われていることの実感がない。あまりに長い間、リグへ戻ると思いつめて決心していたその裏で、もしかしたらリグへたどりつくことなどできないのではないかという恐怖も心の奥には根深くこびりついていた。その恐怖と身構えがまだ自分の中に残っていて、今の現実を信じさせまいとしているようだった。信じた瞬間に、すべては崩れてしまうのではないかと。
体が奇妙なほどにうつろだった。現実味がない。どうして素直に喜べないのか、イーツェンは自分で自分の心を扱いあぐねる。ずっとここまで来るのを望んできた筈だ。
シゼがイーツェンの指をほどくと、手をのばして、イーツェンの額から髪をやさしい手で払った。
「よかったですね。リグへ帰れる」
「ん‥‥」
「水、飲みますか」
うなずくと、シゼの腕が背中の下へ入って、力が入らないイーツェンを易々と抱きおこす。その動きで体のあちこちが痛んだが、それすら遠いもののように感じるほどイーツェンは疲弊していた。口元に当てられたのはひんやりとした白錫の杯で、そんな高価なものを使わせてもらえるのも、思えば久々だった。もう奴隷ではないのだと、唇に当たる感触に実感する。
イーツェンが水を半分ほど飲むと、シゼは杯を置き、イーツェンの背を左腕で支えながら身をかぶせるようにしてもう1度イーツェンを寝かせた。イーツェンの体をやわらかな感触の寝床に横たえ、シゼはそのまま敷布に肘をついて、イーツェンを間近から見おろす。息がかかるほどの近くまで顔がゆっくりと近づいて、またとまった。
シゼのまなざしはやさしい。イーツェンは微笑した。今朝、目を覚ました時のことを思い出していた。あの時に感じた希望を。
「‥‥リグへ行こう、シゼ」
ここが目的ではない。この先へ、一緒に行くことが目指した道だった筈だ。
無言のままうなずくと、シゼは身を傾けて唇を重ねた。イーツェンはためらわずに口をひらいてシゼのくちづけを受け入れながら、重い右腕をシゼの背中へ回し、厚地のシャツの背を抱いた。強靭な筋肉が手のひらの下で動いて、シゼがより深く唇を重ねようと体勢を変えたのがわかる。イーツェンに体重をかけないよう注意しながら深く体を覆いかぶせ、毛布ごしに胸を合わせて、シゼはイーツェンの唇の内側をゆっくりとなめる。その舌は、イーツェンが舌先でねだるとさらに深いところまで入ってきた。やわらかに、2人は吐息を交わすようにくちづける。
やさしいくちづけだった。シゼがいつもイーツェンを気づかう、その抑制を愛しくも思うし、時には厄介だとも思ってしまう。
もっと、と舌と唇で無言のままねだりながら、イーツェンはシゼのシャツの背を指の間にきしむほどつかんだ。上にいるシゼの重みがわずかにイーツェンの体にかかる。イーツェンに負担がかからないようにシゼは巧みに体を浮かせていたが、覆うようにかぶさったシゼの体の感触にイーツェンは全身が安らいでいくのを感じた。強靭な体の感触とくちづけの熱さが体に染み込むにつれ、心の中でばらばらになっていたものが、あるべき場所へとおさまっていくようだ。
今、この瞬間が夢でも幻でもなく、現実なのだと。シゼのくちづけに自分をゆだねながら、イーツェンはあふれ出してくる驚きや安堵を噛みしめた。さっきはあまりに多くの感情が湧き上がってきてすぐには受けとめ切れなかったが、今なら大丈夫だ。シゼがいれば、彼は大丈夫だった。
イーツェンの中の変化を感じとったかのように、シゼの舌が情熱的に彼の舌を絡めて吸い上げた。唾液がたっぷりとまざりあって、濡れた音が互いの舌先に絡みつく。むさぼるように求めあう舌が、ひどく熱っぽい。唇にシゼの歯が押し当てられて、イーツェンはもっと口をひらいてシゼの歯の先を舌でなぞった。
切迫した情熱が、シゼのそのくちづけにはあって、どうかしたのかと問いたいが、そんな言葉や理性の入りこむ隙間が見つけられなかった。獰猛なくちづけに溺れるように、イーツェンはシゼの背を右手で抱きながら、喉の奥で呻く。
「んっ‥‥シゼ‥‥」
唇が離れると、思わず物欲しげな声がこぼれた。なだめるように唇のはじにくちづけられる。口の中にはまだシゼの匂いと味が濃密に残っていて、イーツェンは名残りを味わうように自分の唇の裏をなめた。2人の唾液が混ざり合って、牡の匂いがふっとたちのぼる。
まだ体を起こさずに間近から射るように見おろすシゼの目の中には、はっきりと欲情の光が揺れていて、銅色の目は欲望に黒ずんで見えた。イーツェンは握ったままのシゼのシャツを引く。シゼがほしいと、素直に思う。その「ほしい」は単に肉体的なものではないのだが、体で伝えるのが、時に一番わかりやすいのだろう。言葉で伝えられることはもうたくさん伝えた気がした。
シゼは何かを言いかけたが、言葉を呑みこみ、彼はまたイーツェンの上に覆いかぶさった。イーツェンの顎や耳元を、唇がなぞるように這う。イーツェンがくちづけを求めて顔を動かすと、シゼは少しだけ体を引いてイーツェンと額を合わせ、低い声で囁いた。
「あなたをここまでつれてくることができて、よかった」
「‥‥お前がいなかったら、ここまで来られなかったよ」
イーツェンはそう呟き、まだつかんでいるシゼのシャツを引いてくちづけをねだる。シゼはそっとイーツェンに唇を重ねたが、ついばむような軽いくちづけからは、さっきまでの切羽つまったような情熱はもう消えていた。
「イーツェン」
耳元にくちづけながら囁くシゼの声は、イーツェンの肌に直接染みてくるようだった。
「私は、誇ることのない生き方をしてきた。だが‥‥あなたをここまでつれてきたことだけは、誇りに思う。きっと、一生、ずっと」
「シゼ‥‥」
これほどそばにいて愛しいのに、不意に胸が締めつけられて、シゼの名を呼ぶ声はかすれた。
シゼの唇がイーツェンの頬をなぞる、その唇は旅の間の海風で荒れている。イーツェンの額をなでて乱れた髪をかきあげる指先も、船の過酷な仕事でごわついて、細かな傷に覆われていた。
「もう、眠って。何も案ずることはない。何もかも、うまくいく」
低く囁く声は心をからめとる糸のようで、イーツェンは眠気と疲労の中へ沈みこんでいく。
やがて、ぼんやりした意識の片隅に、シゼが部屋に入ってきた誰かと低い声で話しているのが聞こえてきた。商館の者とも、起きてきちんと話をしなければならないのではないかと思いながらも、イーツェンは全身を包む安堵感の中でまどろみつづけていた。シゼにまかせておけば、大丈夫だ。今は眠って、体を休めて、それからリグへ向かえばいい。
(──何もかも、うまくいく)
シゼのその囁きが彼を安堵させる。
今度こそ、何もかも。
それから2日間、熱を出したイーツェンは朦朧と眠りつづけた。
目を覚ました時、シゼの姿は商館から消えていた。
[第六部完]