案内された部屋の奥には通りに面した窓があって、意外と明るい。寝台はなく、木の床にじかに寝床がしつらえられていて、手足を洗う水盤が壁際に準備されていた。
 横幅よりも奥行きが少し長くて天井が低く、狭いことは狭い部屋なのだが、混みあった船での雑魚寝にすっかり慣れたイーツェンにとって、2人でゆっくりすごせるというだけでひどく贅沢に感じられる。人目も気にせず手足をのばせるとほっとして、イーツェンは寝床の毛布の上に座りこんだ。全身がくたくただ。
「足を見せて」
 シゼが屈みこむなり容赦なく足からサンダルを剥ぎ取って、イーツェンは呻く。
「痛い痛い痛い!」
 サンダルの革に貼り付くように乾いてしまった足の擦り傷が、無理にサンダルを脱がされ、めりりと剥がれる音がするようだ。その痛みが爪のむけた薬指にもつたわって、悶絶するほど痛い。
 毛布をつかんで全身を硬直させたイーツェンに、シゼは哀れみの目も向けなかった。たしかに自業自得の傷ではあるのだが。
「足がつめたい」
 足を両手で包みながら、シゼは少々、忌々しそうなほどの呟きをこぼした。これはまだ相当怒っているなと思いながら、イーツェンは爪の剥がれた足指をあらためようとするシゼの手を払った。
「痛いって!」
「何であんなところを降りるような真似をしたんです」
 部屋に用意されていた水盤を持ってくると、シゼは布を水に浸してイーツェンの傷を洗いはじめた。海に落ちた時の塩水ほどではないが、やはりしみる。文句も言えずにイーツェンは唇のはじを噛んだ。
「道に見張りがいたから、下に降りるにはあそこしかなかったんだよ。見た目ほど危なくはないよ」
 つけ加えてみたが、シゼの表情は一向にやわらがない。
「何日かたてば船に戻れたのに、あんな危険なことをして、何かあったらどうするんです」
「お前があんな証書や通行手形をよこすからだろうが!」
 思わず大声を出してしまってから、イーツェンは疲労でズキズキと痛むこめかみを指の腹で揉んだ。これでは駄目だ。
「船で、ジャスケの裁きが行われることも聞いたし、お前が巻きこまれるかもしれないと思ったし。いつお前がポルトリに来れるのかもわからない。私がいつ自由の身になれるのかもわからない。‥‥嫌だったんだ。怖いんだよ。船のこともポルトリのことも、私にはまるでわからないことばかりで、あんなところでもし離れ離れになってしまったら、もう2度と会えない気がする」
 不安が口からどんどんこぼれ落ちて、最後にはひどく早口になり、イーツェンは口をとじた。シゼは眉をよせて、イーツェンをじっと見ている。
「だからあんなところを降りたんですか?」
「そうだよ。案の定、お前は船倉なんかに押しこめられてたし」
「何日かしたら出してもらえましたよ」
「その間に何かあったらどうするんだ。船は全然見えないし、お前がどうしてるかとか、無事かとか、まだ船は動いてないのかとか、ずっとそんなことを考えているくらいだったら、どんな方法でも船に戻った方がましだ」
 半分ふてくされて、イーツェンはシゼをにらんだ。イーツェンが船に戻らなければと思ったのは理屈ではない。戻らないと、シゼのそばにいないと、物事が悪い方へ転がっていくような得体の知れない不安に背中を押されたからだ。勿論シゼに対して怒ってもいたが、怒りの大半が不安の裏返しだったこともわかっている。
 シゼはまだ納得できないような顔でイーツェンの顔を見ていて、イーツェンは裸足の足を引きよせて膝をかかえながら呻いた。
「わからないのか?」
「わかっています」
 あっさりと、そんな答えが返ってくる。じゃあ何故納得できない、とにらむと、シゼは後頭部の髪をかき回すようにしながらじっと考えこんでいた。
 こういう時のシゼをいくら押しても、どうしようもないのはよく知っている。自分の中で整理のついていないことは口にしない男だ。イーツェンは痛みの残る左肩を服の上からさすりながら、とにかく一休みしようかと部屋を見回していると、いきなり「入るよ!」と外から声がかかって扉があいて、その場でとびあがりそうになった。
「隣の部屋に準備できたよー」
 船乗りの声だ、と反射的に思って、イーツェンは現れた宿の下働きらしい男の顔をしげしげ見た。日焼けしているし体つきもいいから、やはり航海の季節には船で働いているのだろうか。何より、喉ではなく腹から出す独特の濁りのある声が、いかにも船乗りの声なのだ。海風の中ではそういう声のほうが、澄んだ声よりよく届く。
 何の準備だ、と思ったが、うなずいたシゼが鞘を片手に立ち上がって、イーツェンを手招いた。サンダルを履くと痛そうだったし、隣の部屋に行くのだろうと察して、イーツェンは裸足の足を引きずりながらついていく。
 案内された隣の部屋は、イーツェンたちの部屋と同じように奥に長く、狭い。床の上にでんと大きな丸桶が据えられていて、水が半ばまで張られていた。そばにもっと小さな桶や石鹸の用意もある。
 扉をしめると剣を壁に立てかけ、シゼは桶のそばの床から布と石鹸を取り上げた。
「脱いで下さい」
 何の説明もなく、単刀直入に言う。イーツェンは桶とシゼの顔を眺めてから、シャツに手をかけた。左肩が痛くて脱ぐのに手こずっていると、何も言わずにシゼが助ける。
 上半身裸になったイーツェンの体をくるりと回し、シゼはイーツェンの背中に視線を向けた。
「‥‥どうだ?」
 たじろぎを見せないようにしながら、イーツェンはたずねる。背中の傷がどのくらい醜く残っているのかイーツェンにはわからないが、シゼがそのことでイーツェンを見る目を変えたり、哀れんだりしないことはよくわかっていた。それでも背中に傷を感じると、緊張で身がこわばるのはとめられなかったが、うっすらと鳥肌が立つ肌寒さのせいにしてごまかせそうだ。
「随分よくなっています」
 答えるシゼの声は思いのほかに明るい。すっと背中から重いものが落ちたような気がして、イーツェンはうなずいた。シゼが言うならそうなのだろう。
 ズボンと下着を取って裸になると、桶の水に手を入れてみた。人肌よりはぬるいが、充分温かいのに驚く。わざわざ湯を運ばせてくれたのだ。
「お前は?」
 見ると、シゼは木のへらにへばりつくように固められた石鹸を、へらごと湯にくぐらせながら首を振った。
「後で」
「じゃあ、お先に」
 何だか変だったがそう断って、イーツェンは右手で桶のふちを握ってまたぎ、湯の中へしゃがみこんだ。体が冷えていたせいか、一瞬、驚くほど湯が熱い。手足の指先が熱を帯びてちりちりと肌がうずき、鈍っていた傷に一気に感覚が戻ってきた。痛みがいきなり鮮やかになる。
「!」
 前のめりになって必死にこらえるイーツェンの横で、シゼは石鹸を泡立てている。充分な泡を手にすると、彼は手桶ですくった湯をイーツェンの頭の上からかけ、濡らした髪を洗いはじめた。
「背中は大丈夫ですか?」
 そう聞いたあたり、気づかってはいるのだろうが、爪の傷やほかの体の傷を無視してかかるのは、まだ怒っているからだろうか。
 熱や痛みはすぐに落ちついて、イーツェンはシゼが桶のふちにひっかけた石鹸のへらを取ると、自分の手に泡立てた。桶の中にしゃがむと湯はみぞおちの上まであって、船で水浴びに使っていたつめたい海水のような肌を擦る荒々しさはなく、温かくて、肌当たりがやわらかい。なめらかな温度が体にじんわりと染みこんでくるのが気持ちよかった。
「うん。少しは痛いけど、普通の痛さだから大丈夫」
「‥‥背中に負担をかけたら、また傷めてしまうかもしれなかったんですよ」
 石鹸にまみれたシゼの指が髪の中に入りこみ、海風と長旅でごわごわになっている髪を洗っていく。そう言えばユクィルスの城から救い出された後、ルディスの城館で、シゼはやはりイーツェンを風呂に入れたのだった。体の汚れを洗い落としながらイーツェンはふとなつかしく思い出す。
 シゼの手には、あの時のように壊れ物にふれるような気づかいはない。むしろ獣でも洗うような手つきで、丁寧だが容赦なく、とにかく髪を洗うという行為に集中しているようだ。だがあの時のやさしかった手よりも、今の遠慮のない手の方がずっとシゼの存在を近くに感じられて、イーツェンは強靭な指が髪の間をすべっていく感触に溜息をこぼした。
「イーツェン」
 ぼうっとしていると、頭を少し揺すられた。どうやら、シゼの言葉を聞き流していたらしい。イーツェンは輪のはまっている首すじを慎重に洗いながら、「うん」と眠そうに返事をした。
「そばにいる間は、私にもあなたを守れます」
 シゼのその言葉はあまりにも唐突にひびいて、イーツェンは肩を洗っていた手をとめた。シゼの方を見ようとするが、頭を押さえられているし、額から石鹸が垂れてきて、咄嗟に目をとじる。
 力強い指が、うなじのすぐ上から後頭部を揉むようにさすり上げた。シゼの手の動きに合わせて体が前後にゆっくりと揺れ、桶に水がはね返る音がひびく。
「でも、離れている間は、あなた自身にあなたの身を守ってもらわないとならない。いつもそばにいられるわけではないんです」
 幾度か頭から湯をかけて、シゼはまた石鹸を手に取った。イーツェンは顔に付いた泡を手のひらで拭うが、石鹸が染みて目を長くあけていられない。
「‥‥そんなに危ないことじゃなかったんだって」
 弱々しく反論はしたが、シゼの返事は溜息まじりだった。
「そういうことではなくて。あなたに、もう少し自分の身を大事にしてもらいたいんです。あなたは自分のこととなると、ないがしろにするところがあるから」
「私だって、もうそんなに弱くはないんだよ、シゼ。自分の面倒は自分で見られる」
「じゃあ何でこんなに傷だらけなんですか」
 いきなりシゼの手が左の二の腕にふれて、イーツェンはぎょっとした。岩ですりむけた腕の傷を、泡がついたシゼの指がなぞる。
「ここも」
 心臓の少し上を示され、顔を拭ってよく見ると、青黒く変色したあざがいくつも胸元に散らばっていた。落下しそうになって岩に打った時にできたものだろう。
「大した怪我じゃない──」
「動けないでしょう」
 左の二の腕、肩に近いところをシゼの手でつかまれて、イーツェンは身を硬直させた。シゼの手には力が入っていないが、腕から肩に走る鈍痛とこわばりのせいで、そこをつかまれると動くのが怖い。
「どうして、少し見てない間にこんなことになるんです」
 シゼの呟きは沈痛なほどで、イーツェンの不注意を責めるというよりは、その場にいなかった自分自身に責めを感じているかのようだった。イーツェンはむっとして右手でシゼの手を振り払う。こめかみに血が上って熱い。
「私はもうそんなに弱くはない、シゼ。この程度の怪我ならすぐ治る」
 心配してくれているのはわかる。わかっているが、もっと対等に扱ってほしかった。たしかに怒りまかせの考えなしの行動でもあったと思うが、それでもイーツェンには彼なりの理由があって、シゼが心配するからと言ってゆずれるものではない。
「私は大丈夫だ」
 何回も同じことばかり言いあっている気がする。イーツェンの言いたいことと、シゼの言いたいことがうまく重ならない。洗いかけの髪から滴る水を拭い、濡れた肌が冷えていくのを感じながら、イーツェンはどう言えばいいのかと言葉を探した。彼の背後に立ったまま、シゼは何も言わない。
「‥‥お前が心配してくれるのは嬉しいし、心配をかけて悪かったと思う。でも本当に大丈夫だったんだ、シゼ。私は山育ちで、あのくらいの斜面は子供のころからよく遊んだし、今の私でもおりられるのはわかっていた。ちゃんとたしかめた」
 シゼの顔を肩ごしに見ようとしたが、はっきりと表情が見えないのに焦れて、イーツェンはそれほど大きくない湯桶の中で体勢を回す。向き直ると、シゼのほとんど思いつめたように固い表情に胸の奥を突かれて、息がとまった。
 傷つけたいわけでも、怒らせたいわけでもない。ただ、不安をかかえたままあそこでじっとなどしていられなかった、そのことはわかってほしかった。それすら認めてもらえないのならば、イーツェンはどうしたらいいのかわからない。
「シゼ──」
 シゼが身をかがめる。彼の両腕がイーツェンの体に回って、濡れた体がいきなり抱きしめられ、イーツェンは目を見ひらいた。
「シゼ?」
 ごわごわしたシャツの感触が裸の肌を擦る。そのシャツがたちまちしんなりと水を含んでいくのも肌に伝わってきて、イーツェンはもう1度シゼを呼んだ。
「シゼ」
「あなたを見くびっているから言っているわけではない、イーツェン」
 シゼの息が肩口にくぐもる。イーツェンはそろそろと右手を持ち上げ、もたれるようにイーツェンの首すじに顔をうずめたシゼの髪にふれた。イーツェンの髪からぽたぽたと落ちる水滴がシゼの髪も濡らしていく。
 シゼの声は低く、イーツェンの肌の上にじかにひびく。
「あなたが、この程度の怪我でひるんだりしないことも知っている。だから、怖い」
 体をつたう湯はあっというまに温度を失っていき、裸の肌に部屋のつめたい空気がちりちりと這う。だがシゼの抱擁はあたたかかく、体がつつまれるような安心感に、イーツェンは気持ちに張りつめていたものが溶けていくのを感じた。
 シゼの頭に頬を預けて、ちくちくと頬を擦る髪の感触に目をとじる。
「本当は、結構怖かったんだ」
 呟くように打ち明けた。
「でも絶対、お前のところに戻らなきゃいけない気がして。あんなところにはいられなかった」
「‥‥これはあなたの旅だ、イーツェン」
 シゼの腕がイーツェンの背をなでる。傷を手のひらがなぞるように動いた。
「私の役目はあなたを安全に保つことだ。あなたが身を危険にさらす原因に、なりたくはない」
 顔を上げ、イーツェンはシゼの髪を軽く引いて、シゼの顔も上げさせた。間近にのぞきこむと、シゼの目の中にある沈むような痛みがはっきりと見える。何かを削るようにしてすぐそばまで近づいていかないと、奥に秘めたものが見えてこない男だった。
 後悔、怒り、失望、罪悪感。絡むように入り混じったシゼの痛みを、まるで味わうように濃厚に嗅ぎとりながら、イーツェンはひそめた声で囁いた。
「証書と手形をラウに持たせたのを、悪かったと思ってるのか?」
「‥‥‥」
 重々しく、シゼはうなずく。それもまたシゼがやけにかたくなな理由か、と思い、イーツェンはシゼのうなじに回した手で彼を引き寄せ、下から唇をふれあわせた。シゼはイーツェンだけでなく自分も責めているのだ。
 唇の上にシゼの溜息のような息がくもって、痺れるようなさざなみが肌の内を走った。
「あんなこと、2度としないでくれ。離れても大丈夫なようにとか、考えないでくれ。私は1人では先へ行かない。1人でリグへ向かうくらいなら、お前と一生船に乗っていた方がましだ」
 語尾が自分で思うよりも激しくなって、言い切る唇がふるえた。シゼは驚いた様子で目元をこわばらせる。
「リグは──」
「お前と一緒だから意味があるんだ」
 髪からまた石鹸まじりの水が滴ってきて、イーツェンは指先でそれを払い、小さく笑った。
「でも、ごめん。ちょっと考えなしだった。次はもう少し安全な手段を考える」
「‥‥‥」
 シゼはまだどこか意表を突かれた表情のままイーツェンを見ていたが、ふっとその肩から力が抜け、イーツェンの背中を抱く手が肩骨を包むように動いた。引き寄せられて、イーツェンはシゼにしがみつきながら桶のふちごしに身を傾ける。
 シゼの唇は、室温になじんだイーツェンの唇と同じほどにつめたかった。だが唇の中は驚くほど熱く、彼らは互いの熱をむさぼるように舌を絡ませる。シゼの手が裸の背を張って、イーツェンはふっと体の中にたぎった熱に息をつめた。はねた水音が耳にやけに大きくひびく。
 一瞬の情熱はすぐにおだやかなぬくもりへと変わり、ゆっくりと唇を味わうようにしてから、シゼは体を離した。溜息をこぼして、彼はイーツェンの頭をポンと叩く。シゼの顔もイーツェンの髪から落ちた水滴で少し濡れていた。
「洗いましょう。風邪を引く」
「うん」
 イーツェンは余韻で少しぼんやりとしたままうなずいて、さめてきた湯の中で体をちぢめる。納得したのかどうかはわからなかったが、シゼの声は落ちついていて、イーツェンの髪を流す手はやさしかった。
 イーツェンは残った湯を体にかけ、手早く汚れを落とした。本当なら蒸気のこもった岩風呂でじっくり体をあたためて、旅の垢を残らず落としたいところだが、今はこうして湯で体を洗えるのが何よりありがたい。この町にも公衆浴場はあるのだろうが、奴隷の入浴が許されるものかどうかわからないし、許されたとしても、イーツェンは背中をシゼ以外の誰かの目にさらす気にはなれなかった。
 髪を洗い流すと、シゼはイーツェンの着替えを取りに隣の部屋へ戻り、その間にイーツェンは桶から出て体を布で拭った。部屋には火がないから室温は肌寒いほどなのだが、船での骨に染みてくるようなじめついた空気に慣れてしまったせいか、さらっと乾いた冷気は心地よいほどだった。
 シゼが持ってきた着がえの服は、船旅の間に海水で洗ったせいでごわついている。だが洗った体に服をまとうと気持ちがさっぱりとして、湿った髪を右手で整えながら、イーツェンはこみあげてきたあくびを噛み殺した。シゼがイーツェンの肩を押しやる。
「部屋で休んでいて下さい」
「お前は?」
「湯を替えて、湯浴みしてから行きます」
「背中洗おうか?」
 言いながら、またあくびが出た。シゼに笑われる。
「部屋の閂は中からおろしておいて下さい。声をかけます」
「うん」
 いたところで何の役にも立たなさそうだと判断して、イーツェンはおとなしく前の服を抱えて部屋へ戻ると、言われた通りに扉に小さな閂をおろした。
 じっとしていると本当に眠ってしまいそうだったので、自分の荷物を広げて中の確認と整理を始める。ジャスケのせいで海水に濡れてしまった証書と手形を慎重に床に広げて乾かし、にじんだ文字をどうにかできないかとしばし眺めてから、手を出さない方がいいだろうとさじを投げた。文字も署名も読めるから、支障はなかろう。
 船旅の間ずっと身に付けていた帯の縫い目を切り、革の裏当ての間に縫いこんでいた物を慎重に取り出した。レンギのピアス、残った手形の陶貨。ピアスはまた大切に布に包んでしまいこんだ。
 汚れた服は宿の洗濯女に頼むか、明日、水場を借りて自分で洗えばいいだろう。岩場を下りる時に着ていたシャツも取り出し、ほつれやかぎ裂きをどうにかできるかどうかためつすがめつして、とりあえず後で考えることにした。ポルトリの屋敷で無理にもらってきたものだが、かぎ裂きと汚れさえどうにかできれば売れなくもなさそうな、それなりの仕立てのシャツだ。
 もしこの町で助け手が得られなければ、彼らはどうにか道案内を探して陸路でリグへ向かわなければならない。そうなると、残りが少なくなってきた所持金の中、持ち物はすべて大切になる。破れたシャツすら例外ではない。
 荷物から引っぱり出したぼろ布を、歯を使って細く裂くと、爪の剥がれた左足の薬指に巻いた。薬指だけだとすぐ外れそうだったので、小指も一緒に巻いて、結び留める。足がもそもそして気になるが、仕方ない。まだ傷は少し湿っていたが、変色もしておらず、膿むことはなさそうだった。寒い季節になると、傷が化膿する心配が減るのはありがたい。
 荷物の整理を終わらせ、乾きかけのつめたい髪にさわってみると、久々に洗ったせいなのか髪がもつれにもつれていた。イーツェンは櫛のかわりになりそうなものを探してみたが、手ごろなものが見つからず、手櫛であきらめる。もさもさにはねている気がするが、自分からは見えないのでこの際、気にしない。
 かわりに、少しはましになるだろうと紐でくくろうとしたら、左手を上げるだけで肩が痛む。紐を手に苦心していると、扉の向こうからシゼの声がした。
 閂を上げて扉をひらき、湯浴みを終えてさっぱりとしたシゼに向き合って、イーツェンはくんくんと鼻をうごめかせた。
「林檎?」
「下でもらいました。どうぞ」
 果物の甘い匂いに吸いよせられるように、イーツェンはシゼがさし出した左手に乗った小ぶりの果実に見入ってから、手に取った。
 黄色みがかった赤の林檎は虫食い穴だらけで、果実の尻は少しとがっている。イーツェンのよく知っている山林檎とはかなりちがうが、何しろ果物を食べるのは久々だ。かぶりついて、口の中にあふれ出した酸味たっぷりの果汁に笑い、イーツェンは半分ほどをあっという間に食べた。
 その間にシゼは林檎と木の実を持った籠を床へ置き、剣を壁に立てかけて、しかめっ面で濡れた髪に指を通す。その仕種で思い出して、イーツェンは林檎を頬ばりながら、髪留めの紐をシゼへさし出した。
「結んでもらえるか? 自分でうまくできない」
 シゼはうなずいてイーツェンを寝床に座らせると、後ろに回って首すじで髪をまとめた。首輪ぎりぎりの肌を、指先がなぞる。
「かぶれてますね」
「そう? つめたいからなるべく肌にさわらないように動かしてたら、擦れちゃったみたいで。汗はかかない分、暑い時よりは楽なんだけど」
「首巻きを探さないと、山への旅は無理ですね」
「うん。真冬になったら首がもげそう」
 ユクィルスの冬ならまだしも、リグの冬にさらされたら、首の輪が凍りつきそうだ。嫌な想像をして自分で顔をしかめ、イーツェンは重くなってきた瞼をこすった。
 シゼはイーツェンの横に腰を下ろすと、籠の中から林檎を取った。船では新鮮な果物などまず食べられないし、塩気の強い味ばかりで唇も舌も荒れる。新鮮な歯ごたえと、口に広がる酸味のある果汁の滴りは、彼らにとって久々の贅沢であった。
「ジャスケはどう死んだんです?」
 林檎をかじる音を立てながら、そんなことを平然と聞くシゼに、イーツェンは溜息をついた。あまり思い出したくないのだが、仕方ない。
「ラウが櫂で頭をひっぱたいた」
「どうして」
 シゼは眉をひそめる。イーツェンは言葉を探した。
「彼が船に対する裏切り者だと、ラウが知ってたからだと思う。船乗りは、船への愛着が強いから」
「ジャスケが何者か知ってたんですか?」
「それはなさそうだった。船尾に明かりを吊って、ほかの船を誘導したのがジャスケだと知っていただけだ」
 ひとつうなずいて、シゼは考え深げな顔で芯だけになった林檎をかじっている。イーツェンは指を舐めながら呟いた。
「何者だったんだろうな、ジャスケ」
「アルミタラの商人かもしれません」
 まばたきして、イーツェンはシゼへ向き直った。
「何だそれ」
「アガインが、国外の仲間と連絡をとるために使っていた連中です。各地につながりを持つ商人組織だという話ですが、細かいところまでは知りません」
 久々にアガインの名を聞いて、イーツェンは少しぎくりとした。ルルーシュの武闘派としてユクィルスの王侯に戦いを挑もうとしていた男は、今もなお行方が知れないのだろうか。ユクィルスを後にしてしまった彼らにはもう知るすべもないことであったが、イーツェンは時おり、アガインやエナ、アンセラの再興を願っていたセクイドのことを思い出しては、彼らの運命がどうなっているのか案じていた。
 だがシゼの声には何の感慨もなく、彼はただ事実を淡々と思い出しているだけのようだ。そこに余計な感情は読みとれない。
「アガインの話によれば、元々は傭兵組織だったものが、戦争のために物資を融通するうちに商業組合になったのだとか。ユクィルスにあまり数がいるという話は聞きませんが、海の向こうまで仲間の網を張りめぐらせているそうです」
「商人の組合なら、ジャスケが身分を隠す必要もないだろうし、私も聞いたことがあると思うんだが」
「秘密の組合です。お互いのつながりを使って商いもしますが、政治的な乱を引き起こし、品薄になった穀物を高値にして儲けたり、武器を売りつけるようなことも過去にしてきたと」
 口をあけ、イーツェンはまたその口をとじた。何回かまばたきをして、シゼの顔をしげしげと眺める。それはルルーシュと同じような、人目から隠れて連綿と続いてきた組織ということなのだろうか。だがルルーシュには、弾圧されてきた信仰を保ち、自らを再興するという目的があったのに対し、そのアルミタラの商人組合は、金を儲けてはその金で人をあやつってさらに金を儲けることが目的のようにしか思えない。組合のそんな得体の知れなさは、たしかにジャスケの持つ得体の知れなさとぴたりと重なる気はするのだが。
「‥‥ジャスケがその商人だと? 何でお前が? いつから?」
 考えがまとまらないイーツェンの問いに、今度はシゼがまばたきした。
「1度、隙を見て、ジャスケの船室にしのびこんで荷物を調べたのですが」
 さらりと怖いことを言う。イーツェンはシゼをまじまじと見つめることしかできなかった。
「アガインに付いていた時に見た、アルミタラの割符によく似たものが荷物の中に隠してありました」
「割符」
「2つ合わせてぴたりとはまる、お互いの符丁に使うものです。ジャスケのものは骨に焼き印を押したもので」
 と、シゼは丸い形を指で作る。骨を小さな円板状に削ったもののようだ。
「2つあわせると、紋章のようなものが作れるのだと思います」
「‥‥へえ」
 イーツェンはわけもなく何度か首を上下させてうなずいた。シゼはジャスケの弱みを握るためにそんな思い切った行動に出たのだろうが、見つかったらどうするつもりだったのだ。イーツェンの行動を無謀とそしれた立場ではあるまいに。
「船倉から出た時、アバルトスと話していたのはそのことか」
「あれはジャスケの仲間の目星が付いたので、その情報を取引していました」
 相変わらず何でもないことのように言う。シゼにとっては本当に何でもないのかもしれない。驚きを通りこしておかしくなってきて、イーツェンは右側にいるシゼへよりかかると肩に頭を乗せ、こみあげる笑いをこらえようとした。
「一緒に船倉の中に入れられてた連中か」
「ええ」
「どうしてわかったんだ?」
「手持無沙汰だったので、皆で賽遊びをしていたのですが、小銭が尽きた時にジャスケが持っていた銀貨を場に出した男がいました。ジャスケから、かなりの金をもらうような仲だったということです」
「‥‥どうしてジャスケのだとわかったんだ」
「私たちがジャスケに払った銀貨だったんですよ」
 一瞬黙って、イーツェンは少し馬鹿らしくなりながら、もう1度問いをくり返した。
「どうしてわかったんだ」
「銀貨のはじに傷をつけて印にしておいたでしょう」
 そう言えばそんなこともしていたな、とやっと思い出して、イーツェンはシゼに体を斜めに預けたままうなずいた。盗まれた時の用心だとシゼは言っていて、イーツェンにはそれが役に立つのかどうかピンと来なかったのだが、それがこんなところで本当に役に立つとは。
「アバルトスは、それで信じた?」
「多分。裏を取らなければなりませんが、材料にはなるでしょう。引き換えに、あなたに何の咎めもなく船から降ろすと同意してくれた」
 シゼは前を向いたまま、食べ終わった林檎の芯を籠の中に放りこんだ。イーツェンはよりかかった体をさらに深く添わせると、シゼの唇のはじにくちづける。
「ありがとう」
 道理で、アバルトスは最後におとなしくイーツェンから手を引いたわけだ。
 船では、離れている時間の方が遥かに長かった。だがその間もずっと、シゼはイーツェンを守るためにあらゆる手段を探してくれていたのだった。
「‥‥私も、あなたと一緒にリグまで行きたい、イーツェン」
 低い声で、シゼは呟くように言った。宿の外、窓の下を通りかかる魚の呼び売り商人の声と、その商人が振る鐘の音に消されそうなほど、その声は静かだった。
 イーツェンはシゼの背に右腕を回して、片手だけで彼を抱きしめる。シゼは一呼吸置いて、つづけた。
「あなたの帰る国を、見てみたい。決して‥‥あなた1人で先へ向かうのを、望んで証書を託したわけではない」
 それだけを言って、黙りこんだ横顔は静謐だった。イーツェンはもう1度、彼の頬にくちづけを落とす。湯浴みをしてもなお、お互いの体や服からはまだ海や船の匂いがするが、これも日ごとに薄らいでいくのだろう。
「一緒に行こう、シゼ。私もお前にリグを見せたい。ユクィルスのような大きな町や城も、ルスタのように華やかな港や人ごみもないが、私の育った、大事な場所だ」
 目をとじ、シゼの肩に頬をのせて、イーツェンはシゼの体のぬくもりに半身を預けた。シゼが左手をのばして、イーツェンの太ももを軽くつかむ。
「川向こうに商館がまとまっている地区があるそうです。今日はゆっくり体を休めて、明日、行ってみましょう。きっとリグの人たちが見つかる」
「うん」
「夕食には、兎の煮込みをたのんであります」
「兎、久しぶりだな‥‥」
 体が重くなってきて、イーツェンはますますシゼにもたれかかりながら眠い声で呟いた。がらがらと、荷車の車輪がはねる音が下の道から聞こえてくる。だが、周囲にいつも人がいて海や船の音が絶えなかった船での暮らしをくぐり抜けてみると、町の音は何もかもがやけに静かに思えた。耳をすませば、シゼのおだやかな呼吸が聞こえてきそうだ。
 こんな風にただぼんやりと、シゼと一緒にいられるのはいつ以来のことだろう。彼らが周囲を気にせずに会話を交わせたのは、まだ海を渡る前だったことを思い、イーツェンは小さく笑った。シゼが身じろいで、何か聞きたそうにする。
「‥‥いや。遠くまで来たと思って」
「そうですね」
 シゼの返事はどこか上の空のように聞こえた。イーツェン自身もうつらうつらしていて、もう半分上の空だったが。
「一緒でよかった、ほんとに‥‥」
 時おりの、短い言葉を交わすうちに、イーツェンはいつのまにか眠ってしまっていた。
 夕食だと起こされた時にはしっかり寝床に寝かしつけられていて、もうあたりは夜になっていた。
 起き出したイーツェンは、シゼが手に入れてきた軟膏を怪我にすりこみ、温かい兎の煮込みをおいしく平らげ、また林檎を食べて、幸せな気持ちでもそもそと毛布にもぐりこむ。疲労が全身を石のように重くしていた。
 わずかも目をあけていられないほどの眠気の中で、やがてシゼが毛布をからげて横へすべりこんできたのを感じる。ひえびえとした空気に肌が粟立ったのも一瞬、すぐに背中にシゼのぬくもりがよりそって、イーツェンは口の中で寝言めいた言葉をこぼしながら、そのぬくもりの方へもぞもぞと動いた。
 腰骨の上からシゼの腕が回されて、彼の体を抱きとめる。服は脱いで寝床に入ったので、下着ごしにシゼの手の温かさを感じた。
 船旅の間、常に体のどこかしらに巣喰っていた警戒心や恐怖感が、跡形もなく溶けていく。イーツェンは眠りに逆らって、自分を包むぬくもりを一瞬でも長く味わおうとした。
「‥‥一緒に行こう」
 多分、そう呟いた、そんな気がする。昨夜、闇の中を岩にへばりつくようにして降りていた時も、闇を敷いたような夜の海原を小船で渡っていた時も、イーツェンはそのことだけを考えていた。シゼと一緒に、リグへ向かうのだと。
 リグに帰った先、2人の運命がどうなるのかはわからない。シゼがそれを不安に感じているのも知っている。だが、こうして一緒によりそってさえいられれば大丈夫だという確信が、イーツェンにはあった。
 2人でいたからこそ、イーツェンは生きのびて、ユクィルスを逃れ、海を渡って、ついにここまでたどりついたのだ。自分にそんなことができるなど、かつての彼なら思いもしなかっただろう。シゼと一緒であることで、彼は多くのものを乗りこえてこられた。
 明日に何が待っていようと、2人が一緒でありさえすれば、それも乗りこえていける。必ず、その先まで進んでいける筈だ。
 祈るようにそう思いながら、イーツェンはシゼのぬくもりによりそって深い眠りへと沈んでいった。