薄暗い船内ではなく、こうして陽に満ちた明るい場所でシゼと向き合うのはひどく久々な気がした。シゼの銅色の瞳の奥は黒ずむように沈んでいて、まなざしは切りつけるようにするどい。見つめられて、イーツェンは息ができなかった。
マリーシはとがった声で言葉を重ねている。
「そこまで思いつめているならまず私に言え。愚かな真似をするな、馬鹿者」
言ったところであしらわれて終わりなのがわかっていたから言えなかったのだと思ったが、イーツェンは言い返さなかった。マリーシは無慈悲な人間ではない。だが身分の高い人間が格下の者に見せるやさしさは気まぐれで、そこに思いやりを期待することはできなかった。イーツェン自身、かつて身分が低い相手を思いやっているつもりでいても、結局本当に相手のことを見てなどいなかった気がする。こうして自分の首に輪をはめられて、はじめて見えた空隙だった。
結局、マリーシは自分にとって1番大事なものを優先させる。彼女にとってはそれが正しいことだからだ。わかっていたから、イーツェンにはほかに手段がなかったのだった。
「すみません」
シゼから引きはがすように視線をそらし、マリーシを見て、口に出してはそうあやまった。背後から腕をつかむ手はゆるまない。シゼの指が肌の内側までくいこんでくるようで、腕が熱い。
桟橋にのぼったラウがパタパタと音を立てて忙しそうに船小屋まで走っていく姿が見え、何故だかイーツェンは心細くなった。この状況をラウがどうにかできるわけはないのだが。
アバルトスは桟橋に立って右足に体重を傾け、胸の前で腕組みしながら彼らの様子を見ていたが、おもむろに口をはさんだ。
「とにかく、一旦上がれ」
「あ──」
「遠慮する」
イーツェンが口にしかかった承諾を、すぐ背後の声がきっぱりと断ち切った。マリーシがはじめて存在に気付いたような表情でイーツェンの肩ごしにシゼを見て、眉を上げた。
「俺の連れが色々手数をかけたようで、面倒を見てくれたことには感謝する。だが、先を急ぐ」
シゼの声はおだやかだが、その言葉の中心にはイーツェンがよく知る頑固なひびきが据わっていた。妥協するつもりなどかけらもない。はっきりと言い切られ、どうしてかイーツェンの方があわててしまう。
「あの、でも‥‥」
場に落ちた沈黙をとりつくろおうとしたが何も思いつかず、アバルトスとマリーシの顔を交互に眺めてうろたえていると、シゼが言葉を継いだ。
「船の上では世話になった。だがもうすんだことだ。船から降りる以上、返してもらう」
言うと同時にまだつかんでいたイーツェンの腕を引いた。イーツェンは船板に座りこんだまま後ろへずれる。すぐ背後からシゼの体の熱がつたわってきて、喉がカラカラに乾いた。
腕にくいこむシゼの手を見おろし、イーツェンはその指の強さをシャツの下の肌にじかに感じる。この手はイーツェンを離すつもりはない。それを感じて、ふっと体が軽くなった。
マリーシへ顔を向けて、イーツェンは頭を下げる。
「色々とありがとうございました」
「達者でな」
2人の様子を眺めていたマリーシはそれだけを言うと、ひょいと身軽に桟橋へとびうつった。あわてたようにアバルトスがその体へ腕を回して支えるのを見て、イーツェンは微笑ましいような、淋しいような気分を味わう。愛情ははしばしに見えるのに、彼らはそれぞれ離れた運命をたどる道を選んだのだ。
アバルトスが何かをマリーシに囁き、マリーシはからからっと笑うと、口に手を当てて叫ぶように言った。
「お前はクビだ、リオン」
それきり背を向け、従者を引きつれてさっさと歩いていってしまう。アバルトスは苦虫を噛んだような顔つきでそれを見送っていたが、イーツェンに何か言おうと向き直った時、ラウが船小屋のそばから陽気な声をはりあげた。
「こっちの船出しまーす! 2人もらってっていいっすか」
「わかった」
アバルトスの返事をほとんど待たずに、ラウはすでに船小屋の仲間の手を借りて、浜に引き上げられていた船を沖へ押し出していた。2人の船乗りが乗った小船が波を越えると、自分はズボンから海水を滴らせながら桟橋を走ってきて、イーツェンの目の前にとびのる。海兵ももう桟橋に上がっているので、船の中にはイーツェンとシゼ、それに主計係の男だけだ。
「お客さんは表の港に回っておろしていきます」
はきはき言いながらラウはもやい綱をほどき、波の動きに合わせて桟橋を蹴る。イーツェンが茫然としているうちに、船は桟橋から遠ざかりはじめていた。
アバルトスは船が遠ざかるのを待たず、マリーシが去っていった方向へと海兵を引きつれて歩き出す。その後ろ姿が小さくなっていくのを見ながら、イーツェンは体から力が流れ出していくような気がした。たったこれだけで終わるのだろうか。こんな簡単なことだったのだろうか。
後ろからのびてきた手に剣をつかまれて、まだ自分がシゼの剣の鞘を握りしめていることに気付いた。あわてて手を離し、振り向くと、シゼと顔をつきあわせていた。
シゼはもうイーツェンの腕から手を離していたが、まだ左の二の腕に残った彼の熱を感じる。指の跡が、シャツの下の腕にくっきりと灼きついているのではないかと思うほど。
何か言おうと思った。この一晩分の痛みややりきれなさが体の奥に収まりきれずにまだふつふつと揺れ動いていて、わずかでも口をひらけば、すべてがあふれ出してきそうだ。唇がふるえて、イーツェンはそれを押さえるように下唇を噛んだ。船にはラウのほかにサヴァーニャ号の主計係の男も乗ったままで、人に聞かれたくない話をできる状況ではない。
シゼはまた眉をよせてイーツェンの顔を見ていたが、指先で彼の右頬にふれた。岩に擦った傷がちくちくする。
「何があったんです」
声は低い。同じ船に乗っている2人に聞かれたくないと言うより、もっと危険な低さだった。ほとんど人を脅しつけるような声音だ。
「何でもない」
「服に血がついている」
着替えたのに何故と思ったが、シゼが示した肩口に、たしかに血のような薄い染みがあった。髪に残っていた血が滴にまざって落ちたらしい。
「顔にも」
シゼの指が耳の近くの頬にふれる。拭いきれなかった分だろうか。血しぶきの生暖かさを思い出して、イーツェンは今すぐ体中を洗いたくなった。
「何でもない‥‥」
「何で足を引きずっているんです」
「足の爪が剥がれた」
どうしてこんな風に問いつめられなければならないのかと思うと、段々と答える声もつっけんどんになっていく。シゼはますます不機嫌そうに眉をしかめ、頬をするどくした。
「何で」
夜中に岩壁にへばりついていたからだよ、と思いながらイーツェンは力なく首を振って船べりにもたれた。疲れきっていて、感情がささくれだっている。こんな状態でシゼと言い争いたくはない。折角会えたのに、どうしてこんなやり場のない、とげとげしい気持ちを持て余さなければならないのだろう。
膝を抱えて目をとじていると、ギシッと船板がきしんで、シゼが隣に座ったのがわかった。ほかの2人には聞こえないよう、囁くように名前を呼ぶ。
「イーツェン」
その声がどこか切羽つまっているように聞こえて、イーツェンは目をあけた。シゼはぐっと唇を引き結び、目をほそめてイーツェンをのぞきこんでいる。まなざしはイーツェンの深くを見通そうとしているように真摯で、瞳の奥には痛みに似た感情が揺れていた。その目を見つめ、イーツェンはふっと肩から力を抜く。シゼの不機嫌の理由がやっと見えていた。
右手をのばして、イーツェンはシゼの膝をポンポンと叩いた。
「大丈夫。大した怪我はしてないから」
顔に擦った痕、シャツには血がついていて、足の爪も剥がれている状態で言っても説得力がない。案の定、シゼは信じた様子はなくさらに眉をムッとよせたので、イーツェンは笑ってしまった。
船は手慣れたラウの櫂さばきに乗って、灯台のある島の岬を回りこもうとしている。段々と見えなくなる岩の斜面を、イーツェンは指でさした。少しばかり得意げに、
「ゆうべ、あの斜面を降りたんだよ」
シゼは首を回してイーツェンの指の先を見た。視線が下から上へと動いてじっくりと斜面の高さを測る。こうして平静な気持ちで岩肌が鱗状に重なった斜面を見ると、イーツェン自身、よくやったものだと己の無謀を感心してしまう。
はあ、と大きな溜息をついて、シゼは肩を落とし、額に手を当ててしばらく動かなかった。
内湾を抱きこむような2つの岬に守られた内海の奥に、ポルトリの港がある。遠目で見ても大きな桟橋がひとつ海に向かって突き出していて、帆柱を立てた大きな商船が停泊している。小さな桟橋には手漕ぎの船が群れるように泊まっていた。
港の向こうには、隙間なく小石を敷き詰めたように建物がひしめきあっている。その先はすぐに斜面となって小高い丘がいくつも重なり合い、果樹が整然と植えられた丘の中腹にも集落がより集まっているのが見えた。
あれがポルトリか、と湾の前を横切っていく小船から、イーツェンは久々にのんびりした気持ちで景色を眺めやる。ここに降ろしてもらえば、次の定期船でゼルニエレードへ渡れるのだ。
ラウはさすがに少し疲れた表情で、汗を額ににじませながら櫂を漕いでいた。それにしても凄い体力だ、とイーツェンが感心していると、彼は不意に手をとめ、櫂を水面から抜いた。
「リオン、金持ってるだろ?」
「‥‥え?」
ぎょっとして、イーツェンはラウの顔をまじまじと見直す。何故いきなりラウがそんな話を始めたのかわからなかった。しかも漕ぐ手を休めてまで。
よもやと思うが、こんな海の上で追い剥ぎのような真似でもしようと言うのだろうか。
ラウはそんな相手ではない筈だ。そうは思いつつ、イーツェンの頭にはろくな給金も支払われない船猿の暮らしぶりがよぎる。ラウは「仲間からは盗まない」と言い切ったが、裏を返せば盗みをすることはあるのかもしれないし、船から降りようとする今、イーツェンはもう彼らの仲間とは言えまい。
櫂は水から上がっているが、船は惰性でゆっくりと海原をすべっていく。針路がポルトリの港にまっすぐ向いていないのは何故だろう。
シゼは船板に座って自然と片膝を立てている。その右手が、下に置かれた剣の近くに置き直されるのを視界のはじにとらえて、イーツェンは背すじが寒くなった。
──いや。
ラウは信じられる。旅の間に身に付いてしまった警戒心を抑えこみ、イーツェンは不安を追い払って、まっすぐラウの顔を見た。シゼは彼の疑心を感じ取ってしまう。
「少しならまだ持ってる。何で?」
ラウは日焼けした顔全体で、人の悪い笑みを浮かべた。
「ロッタン。ちょっと稼がねェ?」
船尾の方にいる主計係の男に声をかける。大きな帳面をかかえ、アバルトスたちがいない今、船尾にだらしなく寝そべった男は、髭だらけの顔を上げて面倒そうに「俺が7」と言った。ラウはあきれた顔をする。
「半々だろ。俺が漕ぐんだし」
「でかい口叩くな」
「わかったわかった。じゃあ半々で、エール1杯つけてやるから」
凄んだ相手を軽くいなすと、ラウはわけがわかっていないイーツェンへ視線を戻した。
「ゼルニエレードまで送ってやるから、銀2枚分でどうだ?」
イーツェンはぽかんと口をあけた。
「‥‥いいの?」
「俺ら、どうせ今から行くんだよ。水と酒仕入れに。だからわざわざロッタンが乗ってんの。俺らじゃ勝手に取引できねえから」
「急いで今日やるこたねェんだよ」
主計の男は不機嫌そうに呻く。主計係とは言え助手なので、船猿たちも気安く口をきく彼に、ラウはにやにや笑いかけた。
「お前はレードに泊まりがけで行きてえもんな。でっかいケツに顔つっこんで寝たいんだろ」
「ラウ、もしかして‥‥」
問いかけた言葉を、イーツェンはラウの視線を受けて呑みこむ。もしかしたらイーツェンをゼルニエレードまで送っていくために、ラウは疲れているのにわざわざ主計をのせたこの船の漕ぎ手を買って出てくれたのではないだろうか。
小首を傾げてイーツェンの顔を見る、ラウの表情はやさしい。その表情のまま、彼は小馬鹿にした口調で言った。
「でねえとレードまで泳いでいこうとすんだろ、お前」
「しないよ!」
「さすがに懲りたか? 銀2枚でいいか」
それはおそらく定期船の相場よりもずっと高い。だがイーツェンはシゼに視線で了解を取ってから、ラウにうなずいた。ポルトリに滞在すれば金もかかるし、何よりこの方がずっと早い。
「手形だから、両替しないと駄目なんだけど」
「そっちはまかせとけ」
楽しそうに安請け合いをすると、ラウは櫂を水の中に入れてふたたび船を漕ぎ出しながら、ニヤッとした。昨夜イーツェンを待ちながら、彼も眠っていない筈なのに、元気だ。
「ちとかかるから、寝てていいぞ。今度は落ちても拾ってやらねえけどな」
「落ちないよ」
言い返しながらふと視線を感じると、シゼがまじまじとイーツェンを凝視していた。あまりいい目つきではない。のばした指でイーツェンの首すじの髪にふれ、彼は顔をしかめた。
「濡れてる」
「海に落ちて」
イーツェンはなるべく何事もなかったかのように言ったが、ほとんど同時にくしゃみが出た。髪の表面は乾いたが、まだ内側はシゼがふれてもわかるほど濡れているし、さっきからずっと寒くて仕方ない。
鼻をすすってマントをまた体に巻き直そうとしていると、シゼが無言で腕をのばしてイーツェンを引き寄せた。一瞬迷ったが、主計の男は後ろでもういびきをかいているし、ラウに見られて困るようなことでもない。イーツェンはおとなしくシゼの左横に座ると、抱きよせられるままにもたれかかった。ずきずきうずく頭をシゼの肩口にもたせかけていると、イーツェンの腰に回ったシゼの左腕がしっかりと彼の体を支えた。
船首に背を向け、こちら向きに座って櫂を漕いでいるラウからは丸見えだが、もう気にしないことにして、イーツェンはぐったりと体の力を抜いて目をとじた。
少し間があって、シゼの息が額にかかったと思ったら、前髪の上から短いくちづけが額にふれる。人目のあるところでそういうことをする男だとは思っていなかったので、イーツェンは驚いて視線を上げたが、シゼは何事もなかったかのようにイーツェンの肩をマントできっちり包み直し、もう1度腕を回した。
体を預けると、指先までつまった鉛のように重い疲労に眩暈がした。服ごしに感じるシゼの体温がじんわりと体に染み込んできて、さっきからとまらなかった小さなふるえが段々とおさまっていく。
「ほかに何をしたんです」
耳元でシゼが囁いた。こめかみにあたたかい息がかかって、イーツェンはふっと呼吸をつめる。
「‥‥怒ってるのか?」
そう聞いたのは、きっとまだ不機嫌そうな顔をしているだろうと思ったからだ。シゼの返事は短かった。
「怒ってない」
「怒ってるだろ」
イーツェンは目をとじたまま、少し笑う。怒ってないなんて嘘をつけ、と思いながらシゼの温度によりかかって、彼はつぶやいた。
「何で身分証をよこしたんだ。私が1人で先に行くと思ったのか?」
「ないと、いざと言う時に身動きが取れない」
「それがどうした。お前と一緒でなければ、私はどうせどこにも行かない」
無言のまま、シゼの左手がマントに包まれたイーツェンの肩口をなでた。その手はやさしい。やはりこうして近くにいるのはいい、とイーツェンは細い溜息をついた。シゼのぬくもりや手の感触を感じていると、あれだけ怒りにささくれていた気持ちがなだらかになって、心にあいていた穴が埋まっていくような気がする。イーツェンを思って、そのためにあんな行動をしたのだと、素直にシゼの気持ちを受けとめられる。
「馬鹿」
とは思うが。
「2度と、あんな真似をするな」
これもゆずれない。
顔を上げてシゼの表情を見ると、心なしか神妙なおももちをしているように思えた。わかったか、と肘で脇腹をつつくと、シゼはひとつうなずいてからイーツェンの襟元を見た。また眉根が険しい。
「誰の血なんです」
「ジャスケ」
シゼの顔色がさっと変わって、何か言いかけるのを、イーツェンは先に制した。
「死んだよ。‥‥ラウが櫂で殴った」
ラウにはひそめた2人の会話は聞こえていない筈だが、ちらっと視線を向けると櫂を漕ぎながらにやっと笑った。先の欠けた片方の前歯のせいか何だか間が抜けていて、憎めない笑顔だ。イーツェンも小さな微笑を返すと、シゼによりかかったまま目をとじた。
「後で全部話す。一晩寝てないんだ」
吹きすぎる海風は寒いし、左肩にはまだうずくような痛みが居座り、足先もじんじんと痺れていたが、呑気なあくびがこみあげてきた。体と気持ちの緊張がほどけ、骨がなくなったように自分の重さを支えるのすら億劫になってくる。
シゼの肩に右頬を擦りつけると頬の傷が痛んだ。昨夜の自分の無謀が思い出されてきて、イーツェンは体が揺れないように笑いを噛み殺さなければならなかった。緊張の反動か、昨夜のことがやけに滑稽に思えてくる。振り返ってみると、よくこうして五体満足でシゼと一緒の船に乗っていられるものである。
ひどく足元が浮わついていた。ゼルニエレードへ向かっているのだということが、まだどこかで呑みこめていない。航海は、もう終わったのに。
──長かった。
うつらうつらと意識を漂わせながら、ついまた溜息がこぼれる。かかった日数以上に長い航海だった。だが海を渡って、目的の場所はもう目の前だ。
櫂の音と波の音が規則正しく入り混じり、ラウが前を行く小船と何か大声で言い交わしている。裏の桟橋から出たもう1艘の船も、ラウたちと一緒にゼルニエレードへ向かうらしい。やはり水の買い付けだろうか。この小船にどの程度水樽が積みこめるものかイーツェンには疑問だが、ゼルニエレードでまた別の運搬船を手配するのかもしれなかった。
時がたっても、イーツェンの体を支えるシゼの手はゆるまなかった。イーツェンはシゼの体に身を合わせるようによりかかって、シゼのぬくもりにたよる。今は少しでもそばにいたい。もう2度と、あんな風に離れたくはなかった。
シゼも同じ気持ちなのかもしれないと、支える手の強さに思う。離れるのが不安なのはきっとイーツェンだけではなかったのだ。
(──返してもらう)
きっぱりとマリーシとアバルトスへ向けて、シゼは言い切ったのだった。イーツェンの主人のような物言いをすることでマリーシやアバルトスの支配力を真っ向から拒否した、あの言葉はひどく強いものだった。あのシゼの言葉と意志がなければ、イーツェンはまたうやむやのまま巻きこまれてしまったかもしれない。
色々とまだ心に引っかかることは残っていたが、あの時シゼがイーツェンの腕をつかんで引いた、その力の強さは素直にイーツェンの気持ちにしみとおっていた。その手の強さを忘れまいと、イーツェンは思う。強くくいこんだあの指の感触が、肌から消えても、心からは消えないように。
静かに揺り起こされて目をあけた瞬間、イーツェンは自分がどこにいるのかわからなかった。体が不安定な波に揺られている感覚から、船に乗っているのはわかる。サヴァーニャ号ではなく、もっと小さな船だ。
小船に乗ってサヴァーニャ号へ向かっている途中だったっけ、と頭が混乱し、次の刹那、体を抱きこんでいる強い手に気付いてはっとした。昨夜からの記憶が切れ切れに頭をよぎっていく。ジャスケ。マリーシ。腕をつかんだシゼの手。
まばたきをくり返すイーツェンを、シゼが両腕でかかえるようにして抱きおこした。のぞきこむ顔は心配そうに曇っている。
「立てますか」
「うん‥‥」
まだ少しぼんやり答えながら、イーツェンはどうしてか自分が汗だくなのに気付いて額を拭った。寒いのに、汗が肌の内側から押し出されるように次々とにじんでくるのが気持ち悪い。
ふっとするどい息を吐き出して、頭をすっきりさせようとしながら周囲を見回した。
どれくらい眠っていたかわからないが、見たことのない港が目の前に迫っていた。ルスタやポルトリなどのいかにもにぎやかな港とは見るからに空気がちがっていて、全体に古びた港と家並みが目に入る。
港の正面左側には太い川が流れこんでおり、河口から砂州が扇型に大きく広がって、古い桟橋のひとつはその砂州に半ば埋もれそうに見えた。川を中心にして作られた町なのか、川を囲む高台の上に白っぽい壁の建物がひしめきあっている。川と海から遠ざかると、あっというまに建物の数もまばらになって、獣を飼う大きな囲いが遠目でもやけに目立った。
内陸に入っていくにつれ畑がふえ、道が林をよぎった向こうにちらりと別の町の影が見えた。川から引き込まれた溜め池が、畑の間で陽光をはね返してきらりと光る。
イーツェンの視線は宙を仰ぎ、なだらかな平地の向こうまで流れる。遠く葦のような茶色い影が大地を覆ったさらに遠く、青くかすんで切り立つ山々を見た。
この方角から見る山は見慣れない形をしていたが、厳しくそびえたつ、あの峰のどこかにリグがある。
それを思うと、喉がしめつけられて体全体が痺れるようだった。ここまで来たのだ。
「川から砂が流れこんで埋まっちまう前は、けっこー栄えた港だったって話だよ」
ラウは背をねじって船の行く手を見ながら、器用に船をはじの桟橋へよせていく。主に使われているのは川から離れた3本の桟橋のようで、小船ばかりがつながれているが、中には帆柱の付いた船もある。さすがに桟橋のあたりは人が集まっていて、多少のにぎわいを見せていた。
先についていた仲間の船の横につけると、ラウはもやいを桟橋に立つ男に投げ渡した。船べりから海をのぞくと、すぐ船の下に泥のような海底が見えて、船から降りても歩いていけそうだとイーツェンはぼんやりと魚の影を眺めた。
疲れが一気に出てきたのか、体が何だかうつろでたよりない。桟橋からラウに手を引いてもらって陸にのぼったが、イーツェンはふらついた。
「大丈夫かよ、お前」
「うん。ちょっと疲れただけ」
正直に言って、イーツェンはまた汗を拭った。シゼが自分とイーツェンの荷の両方を持って桟橋に立ち、短く言う。
「宿を探そう」
「‥‥商館」
リグは領事館と商館を兼ねてこの町に場所を借り、人を送っていた筈だ。街道が通っていた西側──アンセラやユクィルス側との交易の方が盛んだったが、こちらでも砂糖や塩の買い付けなどは行われていたとイーツェンは記憶している。現在の状況がどうなっているのかわからないが、カル=ザラの街道が崩された以上こちら側の商路の重要性は増している筈で、ゼルニエレードの商館も保たれているにちがいない。
だがシゼはきっぱり首を振った。
「一休みしてからだ」
「ホントだよ、お前顔真っ青だぞ」
あきれ顔でラウはそう言うと、港をうろついている子供を1人つかまえて、宿屋への案内と荷物運びを勝手に言いつけた。その後ろでは帳面をかかえた主計の男が港の卸し商と話を始めていて、周囲を伝令の子供がパタパタと足音を立てながら駆け回っている。さっき海から見た印象より、実際の港はにぎやかだ。ルスタやポルトリのような華やぎはないが、空気の中に生き生きとした動きがあった。
港の一角には女たちが出張って、数人がかりで腹をひろげた魚を干している。港を漂う風の中に、魚臭い匂いが深く混ざりこんでいた。
港と町とは自由に行き来できるらしく、役人による誰何を受けることもなく、イーツェンたちは町に通じる道を歩き出した。いいのかと思ったが、どうせ後で役人が宿に顔をあらために来るとラウが言うので、イーツェンたちは客引きの子供に引かれるままに港の近くの建物に入った。太い木の梁を豪快に組み合わせた入り口をくぐると、宿屋の1階部分は酒場になっていて、まばらな客が思い思いに酒を飲んでいる。
客の中に船乗りの数は思いのほかに少なく、農夫や商人のような姿の男の方が多い。テーブルはひとつもなく、土の床に長箱や古樽が並べられているだけだ。
シゼがカウンターにいる宿長と話をまとめている間、何故かのこのことここまでついてきたラウがイーツェンを酒場のはじへ引っぱって歩き出した。何かと思ったら、暗がりで酒を舐めるように飲んでいる年寄りが両替屋らしい。
「うちはお得だよ」
欠けた歯の間から息を洩らしながら笑みを見せる老人に、イーツェンは曖昧な笑顔を返して、手形の陶貨をひとつ交換してもらう。ほかの両替屋の相場と手数料を聞かないと、全部換えてしまうのはさすがにためらわれた。仕方のないことだが、ルスタで両替した時と比べて明らかに目減りしている。
おおっぴらには出来ない取引なのか、こっそりと硬貨を手に隠して、彼らはやり取りを終えた。途端にラウがイーツェンの手から銀2枚を拾い上げ、離れた席にドサリと座りこむや上機嫌な顔でエールを注文したので、イーツェンは笑ってしまった。
「港に戻らなくていいの?」
「1杯引っかけてから戻るさ。お前は上に行けよ、待ってんぞ」
言われて肩ごしに見やると、離れた柱にもたれるようにしているシゼが彼らの様子を見守っていた。上陸したことでほっとしたのか、シゼの表情や肩の線はいつもよりやわらいで見えた。
「あれだろ、お前が好きなのって」
通りかかる給仕娘の尻を無遠慮に撫でてお返しの平手をよけながら、ラウは口のはじを上げた。イーツェンはまばたきする。船でラウに迫られた時に「好きな人がいる」と断って大笑いされたのを思い出して、頬の上が熱くなった。
「‥‥うん」
否定したところでラウは信じまい。
「ふうん。野郎とどうこうしてえってのは俺にはよくわかんねえなー。やっぱ女に限るよ」
あんまりしみじみと深刻そうに言われて、イーツェンはまばたきした。何を言い出すかと思えば。
「船で言いよってきたくせに」
「しょーがねえだろ。船にゃ男しかいねえし。お前はツラかわいい方だから」
好き勝手言っているラウのこめかみを指の背でこづくと、ラウは楽しそうに笑ってから、運ばれてきたエールをごくりと大きく飲んだ。目をほそめる。
「もう海に落ちんなよ」
「わかってるよ。‥‥ラウ」
少しラウの方へ屈みこむようにして、イーツェンは声を低めた。
「もし船から陸に上がりたい時が来たら、この町にあるリグの領事館か商館をたずねてみて。リグのイーツェン、とたずねれば、きっと力になってくれるから」
「ふうん?」
ラウは目をほそめる。
「それがお前の名前?」
「もしまた会えたら、わかるよ」
イーツェンがそう答えて、2人は笑いあった。ラウは一気に残りの酒を飲み干し、せわしない動作で立ち上がる。イーツェンがシゼのそばへ歩みよってから振り向くと、その時にはもう大股の後ろ姿が走るように外へ消えていくところだった。イーツェンは胸を突かれるような淋しさを呑みこんで、それを見送る。
最下甲板にたちこめる暗さ、湿っぽい船の悪臭。イーツェンにとっても記憶に生々しいあの暗がりへ、ラウは戻っていくのだ。
ああは言ったが、きっともう会うことがないのはお互いにわかっていた。ラウが本気で陸に上がりたがっていると思ったわけではない。だがどこかに逃げ道があるとわかっていれば、つらい日々をすごす時の心持ちも少しはちがってくるかもしれない。あの船底の暗闇でうずくまって眠る時に、少しでも希望を感じられるならば。
航海が無事に終わったのはうれしいが、別れはいつもに増して淋しい。出会ったものを何もかも、ひとつずつ後ろにおいて進まなければならないのはわかっていたが、胸の奥に重い何かが溜まっていて、イーツェンはシゼに腕を引かれるまでそこから動くことができなかった。