全身を打った衝撃の後、時がとまったかのように、すべての動きがゆるやかに感じられた。痺れるようなつめたい水に押しつつまれ、自分の体が水をかき分けるように沈みこんでいくのを、イーツェンはほとんど他人事のように感じていた。
音が遠ざかって、耳にざわざわとした反響だけがこだまする。あいていた口の中に塩辛い海水があふれ、体はとびこんだ勢いのまま水の中でゆっくりと回転した。
海水のつめたさに全身に鳥肌が立った。波が体を横に転がして、イーツェンはつめようとしていた息をいくらか吐き出してしまう。息が続くうちに上へ行かないと、と焦るのに、光のない真っ暗な水の中ではどこが上なのかまるでわからない。体が回って、平衡感覚を完全に失っている。
水の中でやみくもに手足を動かすと、手に人の体が当たった。ジャスケだろう。イーツェンを海に引きずり落とした元凶はいつもまとっていた凝った上着はどこへやったものか、そのシャツの背中をつかんでイーツェンは波の上へ顔を出そうとした。ジャスケを指針にしてやっと波から鼻先を出した途端、波のうねりで全身が持ち上げられて、ジャスケを離してしまうと同時に、大きなしぶきが顔全体に叩きつけられた。
波が体を気まぐれに持ち上げている間に深く息を吸いこもうとするが、しぶきも吸いこんでしまって、鼻の奥から目の裏までキンと凍るように痛む。浮き上がった体がまた沈んで、横波を頭の上までかぶった。切れ切れにしか息の吸えない肺が熱い。重く水を吸った服が体にまとわりついて動きづらく、どんどん体が沈みこんでいくようだった。
「リオン、ちゃんと浮くからバタバタするな!」
頭の上から怒鳴り声がふってきた。浮き沈みしながら聞いているため途切れ途切れに聞こえる。耳の周囲で水が鳴るせいで、ラウの声の方角も、近いのかどうかもわからなかった。
咳こみながら、イーツェンは言われた通りもがくのをやめ、手足をゆったりとのばしてみた。波にシャツがあおられて前のめりに体が倒れるが、腕を広げて、どうにか顔を水面から浮かすことに成功する。だが体の動きが鈍く、このままじっとしていたら芯まで冷えてしまいそうだ。
カンカン、と櫂で船べりを叩く音がする。水面から顔を上げ、波しぶきの合間に息を吸いこみながら、イーツェンは小船が案外近くにいるのを見て少しだけ安堵した。
漕いでいた勢いでかなり先まで進んでしまった筈だが、転針して戻ってきてくれたのだろう。ラウなら彼を助けてくれる筈だ。まだあたりは薄暗いが、お互いが見えないほど離れてはいない。
ラウが長い櫂をこちらへのばすのが見えて、イーツェンは水を右手でかきながら少しでも近づこうとした。左肩は岩を下った時の痛みがまだ残っていて、動きが大きく制限されている。
全身が重く、粘りつく海水に動きを妨げられて、息が切れた。はっ、はっ、と短く荒い呼吸が、自分の耳に波よりうるさい。船の上では大した波があるようには感じられなかったのに、今は波が抜けていくたびに体が上下や前後に揺さぶられて、息がまともにできなくなる。水を飲まないように顔を上げたら体が大きく水の間に沈みこんで、イーツェンは喘いだ。さし出された櫂へ手をのばす。
いきなり視界がひっくり返ったのはその時だった。船が見えなくなり、白んできた夜空が目の前を素早くよぎって、頭はそのまま海の中に沈められる。自分が立てた声は泡になって海中に散り、頭蓋のなかでわんわんと反響がひびいた。
首に太い腕が巻き付いていて、動けない。肘打ちを入れようとしたが、水の中では動きが鈍く、背後の体はびくともしない。イーツェンは水を必死で蹴り、波の上に顔を出して息を吸いこんだ。鼻の奥まで海水が入ってつんと痛い。
「じたばたするんじゃねえ」
首輪の上、喉元に強い力が加えられる。イーツェンはひゅうっと喉で音を立てながら短い呼吸をくり返し、首に回っている腕をつかんだ。ジャスケがどうしてイーツェンを沈めようとしているのか理解できないが、このままでは殺される。
「はな、せ」
「おとなしくしてないと沈めるよ」
かすれてはいたが、ジャスケの声にはいつもの粘るような慇懃さが残っていて、逆にそれが恐ろしげだった。ひとまず暴れるのをやめたイーツェンに背後からのしかかるように首に腕を回し、ジャスケは船べりに立っているラウへ声をかける。
「櫂をのばせ」
ラウが動かないでいると、ジャスケはまた平坦につけ足した。
「お前のお友達に沈んでもらうか」
次の瞬間、イーツェンの喉に腕を巻いたまま、ジャスケがまともに体重をかけてのしかかった。イーツェンの抵抗も空しく、2人分の重みを支えられずに彼の頭はたちまち波の下に沈む。
恐ろしくてたまらない。無数の泡つぶがはじけるような音が耳を満たしている。海水が入りこんでくる口をとじたが、息が苦しくなってあけた時、やっと水の上に首が引きずり上げられた。左肩に激痛が走って、イーツェンは叫びかかったが、喉から出たのは切れ切れの咳だけだった。
海水がしみる目をしばたたかせるイーツェンの耳元で、ジャスケの声がまたくり返した。
「櫂をのばせ」
本当にこれはジャスケなのだろうか。小さく頭を回して、イーツェンはまだ自分の首に腕を回している男の顔を見た。肉のついた丸っこい顔は確かにジャスケの顔だが、まるでぞろりと何かを剥いだようにその顔は冷徹そのものだ。だがこの顔──人殺しの顔を、イーツェンは川旅の途中で、ジャスケが仲間の1人を容赦なく処分した時に見たのだった。
殺される、とイーツェンは思う。もしラウがジャスケを船の上に助け上げればイーツェンはその場でお払い箱になるし、ラウも船を漕ぐ役が終われば用済みだ。どうにかしないとならないが、動けない。
ラウは、船の上からジャスケの方へ櫂をのばしている。平べったく削られた櫂の先をつかもうとジャスケがもう片手をのばす。イーツェンをかかえる腕に力がかかって、イーツェンは体が沈まないよう足で必死に体の下の水を蹴った。全身から力が流れ出してしまったようで、うまく手足が動かない。水というより鉛の中にいるようだ。
ジャスケが櫂をつかもうとした瞬間、ラウが怒鳴った。
「リオン、沈め!」
同時にジャスケの顔面めがけてぐいと櫂を突き出す。よけようと体を倒したジャスケの腕はますますイーツェンの首にくいこんだが、イーツェンは大きく息を吸いざま波の間に沈みこんだ。
暗い水中で必死に腕を振りほどく。途端に髪をつかまれて、水中でジャスケともみあった。腹を思いきり押し蹴ると手が緩んで、イーツェンの体はやっと自由になる。
息を継ぐために海から顔を出し、ラウの方へ向かって泳ぎ出した。凍えきって重い体の中で、左肩ばかりが燃えるようだ。体が傾いで波に翻弄されながら、イーツェンはラウが呼ぶ声をたよりに水をかいた。
すぐ後ろに人が迫ってくる気配を感じた。今度こそジャスケにつかまったら殺される。何が何だかわからないが、それだけはわかる。イーツェンは息を大きく吸って目をつぶり、もう1度潜った。
海の波が、沈もうとする体を執拗に押し戻してくる。故郷の川や淵とは全然違う水だった。だが水をつかむようにして何とか潜ると、感覚だけをたよりにラウの方向を目指して水を蹴った。波が体をつかんで揺さぶるため、思うように泳ぐことができず、たちまち息が足りなくなる。
顔を上げた時には船を見失っていて、イーツェンは恐慌に陥りそうになった。
「リオン!」
目が痛くてよく見えない。目をしばたたき、イーツェンはラウの声の方へ向かう。櫂を手に船べりに足をかけているラウの姿が見えた時には、体から力が抜けてしまいそうだった。
わずかに残った力をかき集め、水を分けて進む。だがラウは櫂を両手につかんだまま、それをイーツェンにのばそうとはしなかった。
「ラウ、たすけて──」
切れ切れに、イーツェンは口元に押しよせる波を吐き出しながら呻く。ラウは「リオン、早く!」と怒鳴るだけでこちらに手をさしのべるでもない。
体が重くて、まるで誰かにしがみつかれているかのようだった。喘ぎながら、イーツェンは鈍くなっている右手で水をかく。頭がぼうっとしてきている。寒いとかつめたいと言うより、ただ全身が痛くて、思うように動かない。
どうやって船までたどりついたのか自分でもよくわからなかった。もうじき手をのばせば船べりがつかめそうなほどの近くまできた時、不意にラウが櫂を振り上げた。
思わず凍りついたイーツェンの横に、櫂は重いうなりをあげて振りおろされる。何かに当たった音がして、イーツェンは反射的にそちらへ顔を向けた。
イーツェンの背後にいつのまに迫っていたのか、そこにはジャスケの姿があった。顔の半分を手で覆って何かをわめいている。指の間からあふれてくる血の筋を、イーツェンは呆然と見た。
手の間から見えるジャスケの半顔は目がつり上がり、憤怒がたぎって、まるで知らない男に見えた。彼のことを、結局イーツェンは何も知らない。
次の瞬間、空気を裂くような音を立て、櫂が再び叩きおろされる。ぐしゃっと何かがつぶれるような音がして、咄嗟に目をつぶったイーツェンの顔に生暖かいしぶきが飛び散った。
全身のふるえがとまらない。押しつぶされたような肺で必死に息をついていると、肩のあたりを軽くつつかれた。我に返ったイーツェンは、半ば感覚の失せた手で櫂の先にしがみつく。櫂に引かれて船べりにたどりついたイーツェンを、ラウが後ろの襟首をつかんでいともあっさり船に引き上げた。
イーツェンは船板にぐったりと倒れ伏し、体を抱いてガタガタと全身をふるわせる。声を出そうとしたが、歯の根も呼吸もろくに合わない。
「な、なんで‥‥」
ジャスケを殺したのだ、と問いたかった。ラウの一撃にははっきりとした殺意がこもっていたからだ。イーツェンを救うのなら1度でよかった。
ラウはイーツェンの上にかがんで彼の体を引き起こし、前のめりにしゃがみこませて、背後に回った。イーツェンを後ろからかかえこむと、両の拳を握り合わせてみぞおちにあて、何の警告もなくいきなりイーツェンの腹をしめあげる。
腹の内側までえぐりこまれるような容赦のない衝撃に、イーツェンは前のめりになって咳こんだ。呑みこんでいた水を吐き出す。喉が焼けるように辛い。
「ちょっ、と、ラウ‥‥」
かがみこんで呻くイーツェンの背中を何度か叩いてさすると、ラウは櫂を拾って櫂受けにはめこんだ。船板に突っ伏したままのイーツェンの耳に、また櫂で漕ぐ規則正しい音と、いつもと変わらない明るい声が聞こえてくる。
「航海の途中で変な船が出たろ」
「うん‥‥」
たしかに航海が始まって3日目の未明ごろ、正体不明の船に追われたことははっきりと記憶に刻まれている。イーツェンは相槌のようなものを呻いたが、ラウに聞こえたかどうかはわからない。
「あん時、こっちの船のケツに灯りを吊るして目印にしやがったのが、あいつだ」
「‥‥‥」
まだ咳をしながら、イーツェンは両肘を船板について上体を持ち上げ、ラウの顔を見た。誰かがサヴァーニャ号に灯りを吊るして目印にしたのだと、マリーシも言い、ジャスケか、その手の者だろうと疑っていた。
「知ってた、のか?」
「船ん中のことはおおよそ船猿の目か耳に入るもんでさ」
ラウは船を漕ぎながら、何でもないことのように言う。イーツェンは痺れてうまく回らない舌で、少し舌足らずにたずねた。
「何で報告しなかったんだ? 船長とかに──」
「客のモメごとに首つっこんでたまるかよ。下手すりゃこっちの首がとんでおしまいさ」
ラウの返事は素っ気ない。イーツェンがどう答えていいかわからず、うずくまっていると、やがてぼそっとした呟きが聞こえた。
「でも仲間を危険に晒すヤツは許さねえ」
歯の根が合わず、ろくな返事ができない。イーツェンは気持ちが悪くなってもう1度船べりから吐くと、ぐったりと船にもたれ、ずぶぬれの体をできるだけ船べりにちぢめた。自分の肌の感覚がほとんどない。指を曲げるのも一苦労だ。骨同士が凍りついてしまったように全身がこわばっている。
髪から滴る海水が、顔から首すじへ流れこむ。口のはじをなめると、塩水だけでなく血の味までして、イーツェンはぞっとして顔を拭った。ジャスケの頭に櫂が振りおろされた瞬間の音と、生あたたかなしぶきの感覚はしばらく忘れられそうになかった。
やがて頭上から、船乗りの声が近づいてくる。視界に入ってきたサヴァーニャ号の舷側には、数人の船乗りたちの姿と、その中央に腕組みしているアバルトスと船長の姿があって、イーツェンは溜息をついた。
もうひとつ、越えなければならない壁がある。安息はなかなか来ない。
やっとのことで縄ばしごをつかんでのぼり、甲板へ転がり落ちるように降りたイーツェンを、アバルトスは眉を寄せて見おろした。彼が何か言うより早く、ラウがイーツェンの後ろに立つ。
「報告しまっす──」
勢いよく言いかかったラウを、アバルトスは右手を振って黙らせた。イーツェンとラウのそれぞれに顎をしゃくる。
「来い」
まだずぶぬれでガタガタふるえているイーツェンに、ラウがまた肩を貸してくれた。半分運ばれるように甲板を歩きながら、イーツェンはあたりを見回すが、早朝にしては甲板に出ている船乗りの数が多い。だが、その中にシゼの顔はない。
奇妙なことに、上級船員たちがほとんど皆そろっているように見えた。珍しいことだ。しかも彼らがのきなみマントをはおった正装なのに気付いて、イーツェンは眉を寄せる。何かがここで起こっていたのは確かだ。
後ろで、甲板長が誰かにジャスケの死体を回収に行くよう命じている声がした。その言葉を聞きながら甲板をさまよったイーツェンの視線が、ふと帆をたたみあげられた横桁にとまる。帆桁からは長いロープがまっすぐ下に吊るされていて、それを見た瞬間、彼は足元を崩しそうになった。
どう見ても、人を吊るすためのロープだ。
──処刑?
誰かを吊るすことなく結ばれたロープの先端だけが風に揺れている。マリーシは、ジャスケは船上で裁かれるだろうと言っていた。これはジャスケの処刑用に用意されたものなのだろうか。だからジャスケは船から逃げようとして、海に落ちたのだろうか?
アバルトスは2人を空の船長室につれていき、扉を音を立てて蹴りしめた。吹き抜ける海風がなくなっただけで一気に温かくなったように感じて、イーツェンはぐったりと溜息をつく。頭の芯がぼんやりとしていて、アバルトスの最初の問いを聞き逃していた。
何か言われたのはわかるが、何を言われたのかわからない。イーツェンがすっきりさせようと頭を振ると、あたりにぽたぽたと髪から水滴がとんだ。その間にラウがしゃべり出している。彼の声すら、ところどころ途切れたように意識に入ってくるだけだ。
「‥‥襲われたと思って──」
ラウは、ジャスケが誰だかわからなかったが、あの男がイーツェンを殺してさらに小船を奪いにかかるだろうと感じて恐ろしくなり、櫂で打ちのめしてしまったのだとアバルトスに説明した。堂に入った嘘である。
「暗いので手元が狂って、まともに入っちまいまして」
殺すつもりはなかったと、平然とした様子でつけ加える。あまり堂々とラウが嘘をつくのでイーツェンは何だか眩暈がして、次に大きなくしゃみが出た。体のふるえがとまらないし、頭が痛い。
アバルトスはラウの作り上げた報告を聞くだけ聞くと、「外へ出ていろ」と命じてラウを部屋から追い出した。つかつかとイーツェンへ歩みよる。
「ここで何をしている」
「‥‥‥」
怒りのこもった顔を見つめ、イーツェンはふっと考えこんだ。マリーシからの言付けを持って船までやってきたふりをするつもりだったのだが、アバルトス相手に今から嘘をつき通す気力が自分の中に残っている気がしない。
それに、もうその必要はない気がした。
大きな溜息をつくと、アバルトスの手がのびてきて濡れた襟首をつかんだ。
「何かあったのか?」
「ジャフィを処刑するつもりだったんですか? 何か証拠が出たんですか」
逆に問うたイーツェンに、アバルトスは妙な顔をした。奴隷が反問したのだから当然だろう。だがマリーシがそのことを確かめにイーツェンを送ったのだとでも思ったのか、彼はあっさりと答えた。
「港に囮を上陸させて、出迎えに来た連中をとらえた。あの男との関係を吐いたよ。朝になったらそっちにも知らせを出す予定だった」
「ではもう、マリーシ様に身の危険はないと考えてよろしいですね」
冷えきった唇が鈍くて、言葉をはっきり形作るのも一苦労だ。まだ襟をつかんでいるアバルトスの手の熱すらありがたい。
「私は、船を降ります」
イーツェンは一言ずつ区切りながら、はっきりと言った。アバルトスは眉を寄せたままイーツェンを顔をじっと見ている。
「航海の残りの半金を払って、もう1人の連れと一緒にポルトリへ降ります。そのために戻ってきました」
「マリーシは承知の上か?」
「はい」
嘘である。が、マリーシには朝の着替えの中に置き手紙を忍ばせてきた。事後承諾というやつだ。
イーツェンは射るようなアバルトスの視線をまっすぐに見返した。ジャスケがいなくなった今、アバルトスにしてみればイーツェンを手の内に置いておく必要性はほとんどない。イーツェンがジャスケを通じて何かするのではないかと疑う必要も、動きに目を光らせておく必要もない。今となってはイーツェンはただの──少しばかり事情を心得すぎた──奴隷にすぎない。マリーシはもう目的の場所について安全に守られているのだし、アバルトスがイーツェンを強く引きとめる理由はないのだ。
アバルトスの手が襟から離れたかと思うと、顔に近づいてきてイーツェンはぎょっとしたが、彼の指は右頬の手前でとまった。
「顔をどうした」
岩で頬を擦ったことを今さら思い出し、海水が染みる痛みにイーツェンは顔をしかめる。あまりにあちこち痛くて、意識がどこかひとつの痛みに集中できないでいる。
「船から落ちる時にぶつけたみたいです」
岩の斜面を夜中に降りました、などとあやしまれるようなことを言えたものではない。考えてみれば服も泥だらけであちこち破れているのだが、濡れ鼠のみすぼらしさでそのあたりが目に付かないのがありがたかった。
部屋の外から朝一の鐘の音がして、錨を下ろしていても船乗りは定刻通りに動くのかと頭の隅で感心しながら、イーツェンはまだ痺れている両手を握り合わせた。声がふるえたのは寒さのせいばかりではない。
「下船許可をいただけませんか」
非礼を承知でたたみこむと、アバルトスはまだ何か考えている様子のままうなずいた。何を考えているのか、イーツェンはあえて気にしないようにしてほっと安堵の息をつく。片付けるべき問題が山積みで、なけなしの気力がつきる前にどうにか全部を片付けなければならないのだ。とにかく今は前に進みつづけるしかなかった。
イーツェンの荷物は、ラウが自分の荷箱に一緒につめて保管しておいてくれた。下層へ戻ると、イーツェンはまずその中から着替えを引っ張り出してきて濡れた服を替える。
「何だ、いつ戻ったんだよわっか」
「顔で甲板拭いたのか?」
からかいまじりの声が周囲からとんでくるが、おおむね声音はどれもあたたかい。力ないうなずきで応じて、イーツェンは乾いた服にできるだけ手早く着替えた。ジャスケのせいで身に付けていた物がすべて水浸しになってしまった。シゼのよこした書類も、イーツェンが腰帯の裏に縫いこんでおいた陶貨やレンギのピアスも。
書類は油紙に包んであったが、さすがに水の中に落ちてはどうしようもない。余分の服にはさんで水気を取るのがやっとだった。
残る荷物を小さくまとめてひとまとめに縛っていると、目の前にぼとぼとと肉の腸詰めが落ちてきて、イーツェンはぎょっと手をとめた。
顔を上げると、ホードが苦虫を噛みつぶしたような顔で立っている。今日も調理場を手伝わなくちゃならなかったっけ、と反射的に考えてしまって、すぐにその混乱した考えを打ち消した。いや、イーツェンはもう船を降りるのだ。
「持ってけ」
膝のあたりに散らばった腸詰めを見おろし、それからホードの顔を見上げて、イーツェンはまばたきした。ホードは返事も待たずに背を向け、痛む様子で足を引きずりながら去っていく。
「‥‥ありがとう」
声をかけたが反応はなく、小さく笑ったイーツェンは集めた腸詰めを油紙にくるんで荷の中へつめこんだ。ぼそぼそになるまで燻製にかけた腸詰めは中の羊肉にスパイスが利いていて、乾燥豆と一緒に煮込むとえらくうまいのだ。船の中では主に上級船員たちの食事に使われる、贅沢な品だった。
荷物をまとめ終わった時、下層にいる船乗りたちがざわついて、イーツェンが顔を上げるとアバルトスが2人の兵を引きつれて歩いてくるところだった。航海がないので、下層に溜まった船猿たちは手持ち無沙汰な様子で賽振りなどにかまけているのだが、皆が慌てたようにがさがさと掛け金を集めて隠そうとする。
彼らには目もくれず、アバルトスはイーツェンへ顎をしゃくると、船倉の奥へ歩み入った。イーツェンはひとまず荷を置いてアバルトスへ続く。
船倉の1番奥に鍵のかかる区画があって、この中の荷にはイーツェンは手もふれたことがない。1度きり、荷を数えに入る許可を出されたことはあるが、その時も航海士の見張り付きだった。
その船倉の扉にかかった重そうな錠前を、アバルトスが無表情で外す。イーツェンがじっと見ていると厚い木の扉がきしみを上げてひらき、できた隙間から海兵が1人で入っていった。
アバルトスは扉を片手で押さえたまま、イーツェンを見る。視線が当たった頬が虫でも這うようにちくちくしたが、イーツェンは無視して扉の向こうへ視線を向けていた。
「あれはどうしている」
あれ、が何であるかはすぐわかる。イーツェンは慎重な口調で答えた。
「いつもの通りです」
少し機嫌が良くなった以外、マリーシの様子にさしたる変化はない。素直に伝えると、アバルトスの唇のはじが上がった。子供も元気だと思いますよ、と言ってやったらどんな顔をするのかと思いつつ、イーツェンは口をつぐんだままでいた。わざわざ狼の尾を踏みたくはない。
待っていると、やがて船倉の扉の向こうから、海兵が1人の男を押しやるように出てくる。男の顔を見た途端、イーツェンは安堵に膝から力が抜けそうになるが、さだかでない足元をどうにか踏みしめた。
アバルトスが低く確認する。
「お前の連れか」
無言のままうなずき、それからイーツェンは最低限の礼儀を思い出して小さな声を押し出した。
「そうです」
「そうか?」
その問いは、今度はシゼへ向けられていた。アバルトスには、シゼとともに知人を頼る旅をしていて、そのためにジャスケにたのみこんで乗船の手配をしてもらったのだと説明はすませてある。
シゼは後ろに回した両手を海兵に取られたまま、囚人のように立っていたが、アバルトスの問いに眉をしかめてうなずく。口を真一文字にとじ、彼は不機嫌に見えた。
──何故、お前の機嫌が悪い。
疲れきっているというのに、むしろ疲れきっているからか、イーツェンは腹の底がムカムカした。機嫌が悪いのはこっちだよ、とほとんど反射的ににらみつけてから、アバルトスに見られているのに気付いてあわてて表情をとりつくろう。
「荷物をまとめろ。ポルトリまで船を出す」
アバルトスの簡潔な言葉に、シゼは妙に不機嫌そうな顔のままイーツェンを見た。海兵はとらえていたシゼの手を離し、扉の錠前を元のようにかける。船倉の奥に何人とじこめられているのか知らないが、ジャスケを船上裁判にかける前に、ジャスケの関わりで船に乗った者をまとめて船倉へ押しこめたらしかった。船に入りこんでいるであろう協力者を封じるためだろうが、シゼが船倉に閉じこめられていると聞いた時、イーツェンは彼が何かやらかしたのかと心胆が冷えたものだ。
戻ってきてよかったと心底思い、アバルトスに交渉してシゼをそこから出してもらったと言うのに、シゼ当人はイーツェンの顔を見てもうれしくもなさそうである。
「あの」
と、イーツェンはさっさと立ち去ろうとするアバルトスを引きとめる。まだ何かあるのか、とにらんできた彼へ、さっき荷物から引っ張り出してきた皮紙をさし出した。
「ジャフィ殿に剣を預かってもらっていたので、あの方の部屋にあると思うんです。探しに行ってもいいですか」
シゼの様子は気になるが、剣を置いていくわけにはいかない。シゼの剣を人質のようにジャスケに取られたのも、今にして思うと腹立たしかった。
アバルトスは丸まっている皮紙を片手の一振りで広げ、中を見て、心底うんざりした顔になった。証人であるマリーシの署名を見つけたのだろう。本名の署名ではないが、この署名を無視できるものならしてみろと挑戦的な気持ちでイーツェンが見ていると、アバルトスは面倒そうな表情を隠しもせず、預かり証を海兵に手渡した。
「探してやれ」
イーツェンはほっと息をつき、ジャスケの部屋に向かう海兵を追いながら、途中で自分の荷物を拾う。シゼも付いてきているだろうと疑っていなかったが、振り向いた時、シゼは何故かアバルトスと顔を寄せて話をしており、視線を向けたイーツェンへ先へ行くよう素っ気ない合図をよこした。
イーツェンはどっと疲労が押しよせてくるのを感じながら、剥がれた爪が痛む足を引きずるようにして海兵の背を追った。
サヴァーニャ号に戻ってきてからは拍子抜けするほどあっさりと事が進み、昼にもならぬうちに、イーツェンはシゼの剣をかかえてポルトリへ戻る小船に乗っていた。
冬空めいたうっすらとした雲は漂っているが、空に満ちる光は明るく澄んでいる。この季節にしては陽がやわらかだったが、マントを毛布のようにして身をくるんだイーツェンは、まだ体の芯に居座る寒さに身をふるわせていた。凍えた何かが体にも心にもべったりとへばりついているようで、しんしんと寒くて仕方がない。
気持ちが一向に上がってこないので、余計寒い。
シゼと、一言も口をきいていないのだ。
ずっと周囲に人の耳があるので、確かにあまり親しげに言葉を交わすのははばかられるのだが、それでも何か言ってもいいだろう。声をかけるとか。だがシゼは、ろくにイーツェンの方を見もしなかった。
始めは腹立たしいばかりだったのが、こうしてラウの漕ぐ船に揺られていると、何だかしみじみと気持ちが淋しくなってくる。泣きたい気持ちがこみあげてきて、取り繕いようもなく疲れ果てているのがわかった。怒りをかきたてるだけの体力が残っていない。
ラウは船首に背を向けて船を漕いでおり、イーツェンは彼と向かい合う形で座っているので、お互いに適当な軽口でも叩ければもう少し気分も軽くなっただろうが、陽気な水夫は今や無駄口ひとつ言わず、黙々と櫂を漕いでいる。
それも当然だ。前を向いて座っているイーツェンは、後頭部に刺すようなアバルトスの視線を感じていた。どういうわけか、ポルトリへ戻る小船の中央には、海兵2人をつれたアバルトスが悠然と腕を組んで座っているのである。
ラウが規則正しい息を吐き出しながら、全身の筋肉を使って小船の櫂を引く。まだ疲れた様子も見せないのがさすがだ。膨れ上がってはなめらかに動く肩の筋肉をぼんやりと眺めながら、イーツェンはシゼの剣をかかえ直した。無事ジャスケの荷物から探し出した剣を、彼はシゼに返そうとしたのだが、アバルトスはイーツェンが持つという条件で小船への持ち込みを認めたのだった。
使いこまれた革鞘の手ざわりと、ずっしりとした剣の重さを抱えこんで、イーツェンは溜息を殺した。シゼは船尾の方に座っている筈だが、振り向けばアバルトスと目が合うだけだろうし、また不機嫌な目をシゼが向けてきたら平静でいられる自信がなかった。
剣を両手で強く抱えこみ、丸い柄頭に額を当てる。波の音がぼんやりと周囲を流れ、体が上下に揺すられて、段々と周囲の景色が薄らいでいく気がした。意識を散らしていると、痛みも遠いもののように感じられてくる。
ごん、と足を蹴とばされ、爪が剥がれた足先まで走った痛みにすんでのところで悲鳴をこらえた。いつの間にか眠っていたらしく、鞘を握りしめる指の関節が固くこわばっている。ほとんど涙目でにらむと、ラウが口元を少し上げて、櫂を動かしながら船の行く手へ顎をしゃくった。
イーツェンは目をしばたたいて、近づいてくる桟橋を見つめた。
目の前にあるものが一瞬、呑みこめなかった。見覚えのある桟橋と岩浜がすぐ目の前に近づいてきている。
小船はポルトリ正面の港ではなく、島の突端を回りこんだ小さな桟橋に今まさにたどりつこうとしていた。小石まじりの灰色の浜が広がる向こうには、岩だらけの鱗のような斜面がそびえ立っていて、その中には昨夜イーツェンがしがみついて途方に暮れていた岩棚がある筈だ。仰いでも斜面と丘の上の木々にさえぎられて、そこに屋敷の影は見えない。
──戻ってきたのか。
鞘をつかむ手のひらがつめたく汗ばみ、イーツェンはアバルトスを振り向きそうになる自分をこらえた。アバルトスがイーツェンの言葉ひとつを信用して彼らを解放してくれるわけがないのは、予想のうちだった。もしかしたらと望みをかけなかったわけではないが、そんなに甘い男の筈がないのは知っている。
だが、桟橋に立って彼らを待つ細身の姿を目にした時には、心臓が胸の中で泳ぐような動揺を覚えた。彼女を裏切ったような後ろめたさを拭い去れない。マリーシがイーツェンを巻きこんだのは彼女の身勝手だが、彼女にしてみれば、イーツェンに裏切られたようなものだろう。
「挨拶をした方がよかろう」
アバルトスの声が後ろから聞こえてきて、イーツェンは苦笑した。マリーシに会わせて、イーツェンの嘘の裏付けを取るのが目的だろうに。
岩浜に打ち寄せる波の音が近づいてくる。波がぶつかって砕ける音が風の中で幾重にも重なり合い、鎖のように次の波音へとつながっていく。寄せては引くその音を聞きながら、イーツェンは感覚の鈍った背中をのばし、顔をまっすぐに上げた。
とにかく、シゼをポルトリにつれてくることには成功したのだ。またしばらくマリーシに付き従って働かなければならないとしても、シゼがポルトリに滞在しているのだとわかっていれば何ほどのこともない。多少の罰なら、甘んじて受ける覚悟もしている。
桟橋の上で2人の連れを従えたマリーシは外出用の長衣をはおり、編んだ髪をくくり上げてその先を風に揺らしている。唇に紅をさした姿はほかに何の飾り気がなくともあでやかで、崩れたところのない立ち姿に凛とした気品が満ちていた。イーツェンは小さな微笑を浮かべる。もし一生奴隷の身分から抜け出すことができないのならば、マリーシは望める限りの、1番いい主人だったのかもしれなかった。
ラウは上手に船を回しながら桟橋につけ、櫂を海底に挿して行き足をとめると、桟橋の杭をつかむ。もやいの綱を手早くかけはじめた。
「片が付いた」
アバルトスが船の中からそう言い、桟橋へとびのる。ジャスケのことだろう。うなずいたマリーシはアバルトスの身をかわすようにして前へ出て、桟橋のはじからひょいと跳んだ。
軽い1歩で船にとびのったマリーシの反動で船が揺らぐ。イーツェンが意表をつかれて茫然としていると、彼の目の前に立ちはだかったマリーシが右手を振り上げ、思いきりイーツェンの左頬を張った。耳までビリリと痺れてイーツェンの体がよろける。後ろから誰かの手がのびてきて二の腕をつかみ、体を支えてくれなければ、船べりにぶつかっていたかもしれない。
「身を投げたかと思ったぞ。命が惜しくないのか」
マリーシの、殺気を感じるほどするどいまなざしに見据えられ、イーツェンはたじろぐ。彼女の声には怒りだけではない切羽つまった響きがあって、それが何故か彼をいたたまれない気持ちにさせた。
その時、背後からイーツェンの腕をつかんでいる手にさらに力がこもり、肩ごしに振り向いたイーツェンはそこにシゼの姿を見て喉元に息をつまらせた。シゼはまるで痛みをこらえるような、だが強い目でイーツェンをまっすぐに見ていた。
シゼにつかまれた箇所がいきなり強い熱を持ったようで、眩暈が、体の芯から頭までくらりと抜けた。