夏の嵐がおとずれ、城の壁に一晩中狼のうなり声のような風を叩きつけ、去った。落雷で南の砦の見張り塔が一つ崩落したとか、サギアの支流が氾濫して王室の荘園の一部が水に呑まれたとか、川港に停まっていた大きな運搬船が川岸に叩きつけられて二つに折れたとか、そんな話を、イーツェンは招待された午餐会の噂話やジノンとの会話の中できいた。
自分の住む塔が崩れればよかったのにと、少々投げやりに思ったりもしたが、とにかくイーツェンはリグの大使がしたためた見舞状に自分の名を連判でしるした。大使と言っても商館の人間であって、国との連絡と雑用係のようなもので、イーツェンは彼が去年着任した時を除いて顔を合わせたことがない。
そして、会いたくもなかった。こちらの知った相手ではないと言え、故国の人間に、鎖につながれたまま顔を合わせると考えただけで胃の腑がねじれる。たとえ服の下に隠れているとしても、鎖と枷でいましめられているという事実は揺るぎようもない。
夏の終わりにオゼルクは仕事で姿を消し、少しの間、イーツェンは平穏にすごしていた。ジノンは彼にカードゲームを教えはじめ、カードを一揃いもらったイーツェンはシゼにそれを教えて練習台に仕立てた。
ファーキマというそのゲームは互いの陣を遊撃のカードを使って守り、また攻めるもので、ややこしい点数計算がついて回る。イーツェンは、シゼに書き取りの練習代わりに点数記録をつけさせていた。
「‥‥あなたは、ジノン様に勝てない憂さばらしをしているでしょう」
ある日、勝負よりは計算と書き取りに苦戦しながら、蝋板と鉄筆をかかえたシゼがぼそっとつぶやき、イーツェンはにやりとした。
「バレたか」
とがめる視線をあげ、だがシゼも微笑を返した。
夏はそんなふうにすぎ、晩夏にオゼルクが城へ戻ってきたが、一度イーツェンを抱いたきりでせわしく姿を消した。避暑のために城内の王族の数も減り、人の目も少なくなると、イーツェンはエリテとともに裏庭の東屋で昼食をとったりもした。彼らが会話するそこから少し離れた場所に座り、茶の入ったグラスを手にエリテとイーツェンの様子に目を配りながら、シゼはどこかくつろいだ表情をしていた。
ふっと秋の気配を感じたと思ったらもう空の色は深く、五日の間つづく収穫祭のため、城内は様々に飾りつけられた。実のついた木の枝を編んで神々への感謝のために飾り、香り蝋燭をまるで篝火のように無数にともす。収穫祭の初日には大規模な晩餐が催され、イーツェンも天鵞絨の豪奢なマントをまとって上座の末席へつらなった。鎖をつけたまま、衣裳は借り物であったが。
収穫祭の直前にオゼルクが戻ったが、彼は何かに気を取られている様子で、イーツェンを時おりに呼びつけはしても、追いつめるように抱くことは少なかった。
南方で、小さな争いがあったという噂を、イーツェンは聞く。だが城内の様子は変わらず、外の気配を知ることも難しく、イーツェンは近ごろユクィルスの文字を読むことに熱中していた。エリテは次第に難しい本をイーツェンに見せるようになり、蔵書室から持ち出しが禁じられた高価な本を、イーツェンは読書用のソファに座って一日読みつづけた。
──知識も力だ。
そんなふうに、エリテも言った。いつかそれがイーツェンを守ることもあるだろうと。そんな日がくるかどうかはわからなかったが、イーツェンはエリテの言葉を信じた。いや、エリテその人を信じた。いつしか彼はエリテに信頼をよせるようになっていた。
シゼがいて、エリテがいる、その夏を、イーツェンは自分の境遇にもかかわらず楽しんですらいたのかもしれない。秋の訪れはあまりにも突然だった。その先に冬の予感が近づいていることにも、彼は気が付いていなかった。
その日、蔵書室を訪れると、エリテはシゼに作業室で待つようたのんでからイーツェンを手招きした。蔵書室の書架の間を抜けて目立たない裏の扉をひらき、物がこみあった窓のない内廊下を抜け、一度もイーツェンの行ったことのない部屋へ入る。
扉をとじると、エリテは壁の壁龕へ油燭を置いた。天井近くに小さな明かり取りの窓が並んで三つあいているだけで、部屋は薄暗かった。
イーツェンは皮紙の積まれた棚を見回して、エリテの顔を見た。埃っぽくはないが、漆喰の壁が剥き出しで、どこか黴臭い部屋だった。
「ここは?」
「倉庫の一つ。今は、使われていません」
エリテはそう言うと、壁際に置かれた背のない丸椅子を指した。イーツェンは杖を持って立ったままのエリテを回り込み、丸椅子を二つ取って、床に据える。椅子はおそらく踏み台も兼ねているもののようだったが、座るのにも安定していて、二人はうすぐらい部屋の真ん中に顔をあわせて座った。
エリテが何か話があるのだと、イーツェンは薄々悟っていたが、作業室ではなくここまで来た理由がよくわからなかった。シゼに聞かれたくない話なのかもしれないが、それならシゼを使いに出せばいい。エリテにしては、奇妙なほどあからさまな態度だった。
エリテは椅子に座って横木に左足をのせ、右足をだらりとのばし、杖を膝に置いてイーツェンを見つめた。ゆるく編んだ栗色の髪が炎の色を受けて飴色に光る。灯りのとどかないところでは、髪はほとんど黒く見えた。
じっと見つめられて、イーツェンは落ち着かない気分のまま背すじをのばしてエリテを見返した。エリテが何を言おうとしているにしても、それはきっと大切なことだと、彼は心の深いところで感じていた。そして、エリテにとっても語りづらいことなのだと。
──4年前の話だろうか。オゼルクとの‥‥
それとも、シゼとの?
唇を結んで、イーツェンはじっとエリテを見ていた。どんな話であろうと、エリテが話すのをただ待つ。考えてみればエリテの本当の名も知らないが、彼はエリテを信頼していた。
エリテが口をひらいた。
「国へ、戻されることになりました」
「‥‥え──」
「多分、今日があなたに会う最後になると思う、イーツェン」
イーツェンは混乱したまなざしを見開いた。エリテがこの国の民ではないことも知らなかったし、「戻される」という言葉の意味もつかめない。多少の事情はあるにせよ、彼は城に雇われてここにいるのだと、イーツェンはそう思っていた。
イーツェンの表情を見て、エリテはふっと微笑した。
「やはり。シゼは言ってないのですね? 彼らしい」
「何を‥‥」
エリテが椅子に座ったまま身をかがめ、左足のブーツの留め金を外した。エリテはいつもやわらかい鹿皮の、少しつくりの大きなブーツを履いている。ふたつの革帯を外すと、彼は靴の踵を持ってブーツから足を抜いた。
イーツェンは凍りつく。エリテの足首には、何の飾り気もない鉄色の輪がはめられていた。足から抜けないように留め部を金属で溶接された──それは、奴隷の輪だった。
茫然と顔をあげたイーツェンの前で、エリテはゆっくりと靴を戻し、帯をとめて、体を上げた。イーツェンの太腿あたりを仕種で示す。
「前は、あなたと同じものをしていました。足を痛めてからは、印としてこれをつけられています」
「まさか──あなたも──」
喉で息がつまり、イーツェンはすがるようにエリテの目を見つめる。茶色の瞳の中に静かな光を見て、イーツェンは唇を噛み、背中をのばした。声をととのえる。
「あなたも、他国からの人質だったのですか?」
「そう」
エリテはうなずき、手に持った杖の丸い握りを指先で撫でた。
「16年前です‥‥私が、はじめてこの城へ来たのはね。私の国はフェイギアと言います。あの時はまだサリアドナと言った。その国がユクィルスの同盟国だったチェンリーカに攻め落とされ、王族の何人かはチェンリーカの人質に、私を含めた二人がユクィルスに来た」
すなわち、エリテはフェイギアの王族だと言うことだ。
16年──
イーツェンは物も言えずにエリテを見つめる。16年の間、人質として、エリテはこの城で暮らしてきたのだ。
「いっしょに来た一人は、二年後に病で死にました」
エリテは温度のない声で言った。彼の中にも色褪せた苦痛が刻み込まれているのだと、イーツェンは悟る。古い傷は風化するだけで、消えることなくエリテの中に残っていた。
フェイギア──その名を、イーツェンは思い出す。だが彼の知る「フェイギア」は国の名ではなかった。チェンリーカの中に組み込まれた自治都市の名だった。すでに国としての枠組みを失っている。
イーツェンの顔に疑問を読んだか、エリテはおだやかな声で説明をはじめた。
「サリアドナはチェンリーカに攻め落とされた後、属国としてどうにか生きのびたのですが、7年ばかり前に騎士団を中心とした大きな反乱がおこって、チェンリーカがそれを平定し、サリアドナという国はそこで滅びました」
「‥‥‥」
「それでも、ユクィルスの城は私を解放しませんでした。もしサリアドナの王家の残党が再び国を興したなら、私の血筋を根拠にそこの王権を主張することもできますからね。事実、サリアドナの残党はチェンリーカの議会と交渉を重ね、フェイギアという新しい自治区を勝ち取った。国という体裁は取れませんが、フェイギアは都市の支配者に王冠を授けます。あれは、かつて王国であった名残りですよ」
その話は、イーツェンも記録で読んだことはあった。あまりに遠い、他人事の記憶でしかなかったが。
「しかしフェイギアの新議会は、古い王家の血筋が戻ることを拒んだ。かつてサリアドナを滅亡に導いた者たちだとして王家の者を断罪の裁判にかけ、王家の血統を通じたユクィルスの影響力を拒みました。ユクィルスはフェイギアから手を引き、私は人質としての価値を失いましたが、城に飼われるような形で残されて、王家の身分と名を捨ててこうして生きながらえた」
──だからエリテは、「司書」を意味する職名だけで呼ばれ、その名を呼ばれないのだ。
失われた名前の意味を、イーツェンははじめて悟る。今、彼の目の前にいるのは、国を失い、戻る場所を失い、身分を失って、名をも封じた人間なのだった。
めまいを覚えて、イーツェンはかるく頭を振った。
「‥‥ですが。国に戻されると言っても、もう、国はないのでは‥‥」
「サリアドナの国はもうありませんが、フェイギアに戻されます。今年になって議会が私の身柄の返還を要求し、それをユクィルスが呑みました」
「‥‥‥」
そんなところに戻って、はたしてその身は無事でいられるのだろうか。不安がイーツェンの喉元をつかんだ。エリテは彼の顔を見て微笑する。
「故郷の地に戻るのは、それほど悪いことではありませんよ、イーツェン。私の心はずっとあそこにあった。この城ではなくね。そこに帰れるというのがどういうことなのか、あなたなら、わかるでしょう」
「でも──」
「もうさだめられたことです。私は大丈夫。心配なのは、あなたのことです」
真面目な顔でイーツェンをまっすぐに見つめる、エリテの目は優しかった。
「リグは地理的な要害に守られているので、そう簡単に攻め落とされたりはしないと思いますが、何があるかわからない。ユクィルスの国はまだどこか若く不安定で、そのためか、外の国を攻めることを好みます。どうなるかはわかりませんが、あなたは、きちんと覚悟しなければいけない」
イーツェンはエリテの視線を受けとめ、無言でひとつうなずいた。
「城の人間に心を許してはいけませんが、彼らを味方につけるよう心がけて、身を守るすべを講じなさい。自分に価値をつけなさい。そして、投げやりになってはいけない」
ちらっと、悪い右足を見下ろして、苦い微笑をうかべた。
「‥‥私のようにね」
「4年前──」
たずねかかって、イーツェンはたじろいだ。だがエリテは静かな顔でイーツェンを見て言葉の先を待っている。
イーツェンは、抑えた声でつづけた。
「塔から身を投げたと、うかがいました」
「そう。もう4年になりますね」
エリテはあっさりうなずいたが、ふいにその目は遠くを見たようだった。
「いろいろなことがあった‥‥イーツェン、人は、自分で思っているほど強くはない」
「‥‥‥」
「でもその弱さにすら、耐えなければなりません。強くあることだけが答えではない。私はあの時それがわからず、絶望に目がくらんで、一番近い逃げ道を選ぼうとした。あれこそ恥ずべき怯懦でした」
首を振った。口調は淡々としていた。
「木に引っ掛かる形で命をとりとめたのは、僥倖か、神々の皮肉というべきか‥‥足が動くようになるまで、半年かかりました。今でも右足がよく動かないのは、あなたもご承知の通りです。この傷が、私の愚かさをつねに私に知らしめる」
背すじをのばし、まっすぐにイーツェンを見つめると、エリテは口調をおだやかなものにあらためた。
「あなたもつらいことが多くあるかと思いますが、心して。己を失わず、どれほど己に失望したとしても、決して絶望してはいけない。自分自身を憎んではいけない。きっとあなたなら、出口を探し出せる。‥‥わかりますね?」
イーツェンは、思いもかけずにひどくうろたえる。こんなふうに人にまっすぐ語りかけられたことなど、ほとんどない。エリテの声の中にある信頼のひびきが、彼を揺り動かしていた。
何と言っていいのかわからないまま、唾を呑み込んで、彼はうなずいた。
「‥‥はい」
イーツェンをじっと見つめていたが、エリテはローブのふところから小さな包みを取りだした。薄いリンネルで何かをつつんで麻紐で口をくくったそれを、彼はイーツェンにさしだす。イーツェンがのばした手のひらに、そっと置いた。軽い。
けげんな顔のイーツェンへ、エリテは微笑を向けた。
「あなたへ。お守りがわりに」
「開けても?」
「どうぞ」
ゆるい結び目をほどき、イーツェンは手のひらの上で慎重に布をひらいた。中に何かが入っているとは思えないほど軽い包みだ。用心して布のはじをもちあげると、そこには小さな翡翠のついたピアスが片方のっていた。
イーツェンは顔をあげ、エリテの左耳にいつものピアスがないのを見た。エリテは微笑したまま、
「私が国から持ってきたものと言えば、それだけです。‥‥サリアドナはね、小規模ながら、翡翠の産地でもあるんですよ」
エリテが16年間大切にしてきたものをもらってもいいものなのか、イーツェンは一瞬迷った。だが自分を見つめるエリテの顔を見て、彼は心を決める。エリテは、言葉だけでなく何かを、イーツェンのために残そうとしてくれているのだ。それを受け取ろうと思った。エリテの気持ちを受けとめたかった。
それは自分のためでもあり、エリテのためでもあった。
イーツェンは手の中にピアスを握り、小さな感触を肌に感じながら、頭を下げた。
「ありがとう、エリテ。‥‥ひとつ、わがままを言っても?」
「言ってみるだけなら」
と、いたずらっぽくエリテは微笑する。イーツェンも微笑したが、すぐに真剣な顔になって、彼はそっとたずねた。
「名前を教えてもらってもいいですか」
意表をつかれたのか、エリテは少し目をみひらいた。少しおいて、彼はうなずいた。
「‥‥レンギ。レンギサール、です」
言いづらそうなその口調から、彼がどれほど長い間、その名を使っていないのかわかった。イーツェンは手をのばす。杖を持ったエリテの手の上に手を重ね、彼は静かに呼んだ。
「レンギ」
「‥‥イーツェン」
顔をあげ、エリテは──レンギは、囁くような声で言った。
「あなたに会えてよかった、イーツェン。シゼをよろしく」
イーツェンはまばたきした。
「シゼは‥‥シゼはあなたが好きですよ、エリテ──レンギ」
少しあわてて言い直す。レンギはくすっと笑った。
「私たちは、はじめから最後まで友人でしかなかった。それは‥‥色々ありましたが」
さらっと言って、
「3年間、シゼは私の護衛役をしていました。私が塔から身投げするまでね。彼が‥‥私を、受けとめてくれたのは、同情からですよ。あの人は優しいから。私はあの時、いろいろなことが重なってどうにも不安定になっていたんです。それをシゼは全部受けとめて、支えようとしてくれた。それなのに‥‥私は、本当に愚かでした」
「でも‥‥」
「シゼはあなたが好きなんですよ、イーツェン。私にはわかります」
レンギはそう言ってイーツェンの手から手を抜き、杖を床について支えにしながら椅子から降りた。イーツェンもあわてて椅子から立ち、二つの丸椅子を元の壁際に片づける。その様子を見ながらレンギが小さな溜息をついた。
「シゼを傷つけたのは私です。シゼはまだ自分を責めている。でもあなたがいれば、彼は一人ではない。私は、安心して国に戻れます」
「レンギ‥‥」
「これ以上の議論はなしですよ」
唇に左手の指をあて、明るく笑った。
「楽しくお茶を飲みましょう。三人でね」
これが最後になるから、と、声に出しては言わなかったが、その目がたしかに語っていた。イーツェンは息をつめてうなずき、足を引きずるレンギの後ろについて歩きはじめた。