子供のころ、母が死んでからのイーツェンは導院に身をよせ、王の住まいする町にはたまに顔を見せるだけで、普段は導院の導師たちに学問や歴史を習った。子供を導院に預けて教育を受けさせるのは、格別に珍しいと言うほどのことではない。だからかなりの長い間、イーツェンは己がどういう立場であり、兄たちや妹とどう異なっているのか気付かなかった。
 人の噂話で、母が父ではない男と関係を持ち、ゆえに母も彼も王のそばから追放されたのだと知った時、イーツェンは導師の元へ行ってすべてを問うた。導師はゆったりとした仕種で香をともし、2人で座して向かい合うと、彼はイーツェンの問いのすべてに包み隠すことなく答えたのだった。問うのならば答えを聞く覚悟はあるだろう、と言って。
 その夜、イーツェンは眠れずに裏山へ入り、昼のうちによく遊んでいた斜面を両手両足を使ってがむしゃらに登った。頂きまで登れたなら何かが見えるような思いにせきたてられてのことだったが、慣れない夜闇の中では思った以上に体力が早く尽き、途中でくじけて結局下へ戻ったのだった。
 今、潮風の匂いがする闇の中で岩肌に指をかけ、足掛かりを探りながら、イーツェンはその夜のことを思い出している。世界で自分だけが、誰からも必要とされていないような気がした。切りつけるようなあの孤独、疲れ切ってこぼした涙、下まで降りきって大地に崩れ、頬に当たる草と土の香りに感じられた安らぎ。それでも深いところにくすぶっていた怒り。
 そうして、どれくらい横たわっていたのだろう。やがて導師の持つ灯りが近づいてきてはじめて、イーツェンは、自分がずっと見守られていたことに気付いたのだった。
 岩の間に右手の指をさしこみ、関節に力がしっかり入ることを確かめてから、肩を支点にしてゆっくりと体をおろす。足先で岩のくぼみを探り、左手で腰のあたりの岩の突起をつかんで体重を分散させた。
 屋敷の裏庭であらかじめ枝ぶりが手ごろな木にぶら下がって試してみたので、右手1本で充分体を支えられるのはわかっている。背中に無理な力をかけられないから、あまり遠い手がかりをつかんだり体を大きくひねることはできないので、そういう体勢は避けなければならない。
 やはり、上から見て感じた通り、岩にはあちこちに手足をかけられる場所があって、見た目ほどきつい勾配でもない。イーツェンは岩から体を離さないようにしながら、手足で探って足がかりをつけ、岩の斜面を慎重におりていく。まっすぐ下へ向かうのはさすがに危険なので、できる限りジグザグに斜面を横切りながら高度を下げていく方法を取った。
 月の光に岩は黒く、くぼみなのか何かの影なのかうまく見分けがつかない。ひとつずつ目と指で確かめながら、胸と腹を岩に付けたまま両手を岩に這わせ、体の均衡を保つ。体はまだ昔のバランス感覚を覚えているようで、足掛かりがしっかりと届きさえすれば、暗闇でも平衡を失うようなことはなかった。
 闇の中での崖のぼりは、イーツェンが夜中に挑んでからと言うもの、同年代の少年たちの間で遊びとしてしばらく流行った。子供が自分の勇気を示すいい方法だったのだ。ひと夏のうちに3人ほどが落ちて腕や肩を骨折したが、イーツェンは落ちたことがない。ずば抜けて早かったわけではないが、彼は岩の間に道を見つけ出すのが得意だった。
 今もまた、目と感覚をたよりに、イーツェンは少しずつ斜面を下っていく。吹きつける風に首すじの輪が冷えきって、全身がつめたくなってくるのがわかって、彼は唇を噛んだ。岩もつめたく、もう指先にちりりとした痺れがある。ここまで体が冷えるとは考えに入れていなかった。
 とがった石の角が肋骨の間にくいこむ。あまり胸に息を吸いこまないようにしながら、ふくらんだ岩をすり足で回りこみ、岩棚に体をよりかけて預けた。束の間自由になった両手をひらいては握って、血行を取り戻そうとする。自分の息が耳に早くひびいていた。
 体の表面が冷えきって血のめぐりが悪いのに、体の内側にはさらにつめたい汗がにじみ出しているかのようで、動きが段々と緩慢になっていくのがわかる。だが焦るわけにはいかない。焦りは何よりも危険だし、なけなしの体力をさらに奪う。
 次の足場にしようと踏んだ岩がぐらつき、イーツェンはさらに遠い足場を足先で探った。体重が左足と岩をつかんだ右手にかかって、肩に重い疲労感がひろがる。体力切れははじめから心配していたのだが、途中で休みをはさんでいけば何とかなるだろうと考えていた。だがこのつめたい風の中でとまるのは、かえって命取りになりかねない。ゆっくりとでも、動きをとめることなく最後まで降りきるしかないだろう。
 右足の足場が狭い。イーツェンは両手で岩にしがみついて体を支えながら、左場所を置き直す場所を探した。何があっても手足の4つの支点のうち、3つが岩についていないと危険だ。岩のくぼみを素足の指がさぐると、足の裏に岩のとがりがくいこんでくる。
 そのくぼみに深く足をねじりこんだ時、親指の先が何かやわらかな泥のような塊を潰した。どうやら何かの虫の巣だったのか、足指の間をもぞもぞと小さな虫が這い回りだし、指先がちくちくした。イーツェンはその痛みを無視しながら、右手で低い手がかりをつかみ、肩の位置が重心から大きくずれないよう注意しながら体を下へとずり下げていく。
 不安定な体を左足と右手で支え、肩にずしりと重みがのった状態で右足の次の足場を探った。足指が、つるりとした岩の表面をすべって空振りする。
 腹を岩にしっかりと付けたまま、さらに体を下げた。右腕の筋肉が張りつめ、肩の内側は疲労感が粘りついたように重い。ピン、と細い糸のような痛みが右肩から背中にはしって、イーツェンは息をつめた。今はまずい。全身がぞっとひえて汗が噴き出す。
 その痛みは、訪れと同じように唐突に消えた。ほっと息を吐いて動き出そうとした瞬間、にぶくなっていた右手の指が岩からすべって、手がかりを失う。
「!」
 反動で後ろへ倒れこみそうになる体を、腰の辺りの岩をつかんでいた左手で引き戻した。ずずっと体が下へすべり、痛む左足が岩の隙間から外れる。鋭利な岩が親指を裂いて、鮮やかな痛みがはしった。
 滑り出した体が岩肌に強く擦れ、岩に押しつけた腹や胸、顔までもにざらりとした岩が痕を刻んでいく。口の中に土と鉄の味が入りこみ、ぱらぱらと細かな石が下へ落ちていく雨のような音に包まれて、イーツェンは首から背までぞっと総毛立った。岩ごと崩れれば、一気に下まで転がり落ちるしかない──
 岩の膨らみが腹を打ち、イーツェンは痛みと吐き気に呻きながら、滑落の速度がゆるんだ隙に、あるかなしかの岩のくぼみに右手の指を立てた。一気に体重がかかり、指の関節が引きのばされるような痛みに息を呑む。
 横にのばした左手が、丸く飛びだした岩の突起をつかんだ。体が揺られるようにとまる。だがどちらの支持もたよりなく、イーツェンは荒い息をつきながらぶらさがったままの右足と左足で交互に足場を探った。
「くっそ」
 くいしばった歯の間から悪態がこぼれる。船旅で、イーツェンは随分と口が悪くなった。だが口から気持ちを吐き出すことで少しばかり腹の底が軽くなって、焦りによるこわばりが引く。
 動きをとめ、大きく息を吸って、右足の指を岩の割れ目にねじりこむようにして足場を作った。左足はぶらさがったままだ。右手を次に置く場所を探したいのだが、目で探す余裕がない。岩の出っ張りにへばりついているようなこの体勢を早くどうにかしないと、身動きが取れなくなる。
 左手と右足に体重をかけ、イーツェンは呼吸をはかって右手を離した。左足を岩肌にすべらせて足がかりを探しながら、右足を曲げて膝を中心に体を下げていく。途中で左肩がひどくきしんだが、強い呻きを息とともに吐き出し、痛みに負けそうな意識を散らした。夜風に冷えきった背は自分でもわかるほどびっしょりと濡れている。汗だろうが、海風に含まれたひえびえとした湿気が背に重くへばりついているような気もした。
 左肩が上へ引きずられて、体重がまともにかかり、肩から背中へ稲妻のような激痛が抜けた。イーツェンは右手で岩肌に露出した木の根をつかみ、細い根を手の間でぶちぶちとちぎりながら、その奥にある太い根をどうにか拳の中に握りこむ。
 左肩をゆるめるが、炎を呑み込んだような痛みは一向にへらない。左足で見つけたとがった岩角に両足をのせると、右手がくいこむほど木の根を握り、岩棚にしがみついて体勢をととのえた。ふるえる左手を体の横におろす。まだ体の周囲を細かな砂がすべりおちていく。
 岩によりかかり、呼吸をととのえながら、左肩の燃えるような痛みがおさまるのを待った。
 涙がこみあげてきて、顔が熱い。自分が何を泣いているのかよくわからなかった。疲労のせいか、それとも痛みか。体の奥底には苦しいほどの怒りがどよもしている。シゼへの怒りもあったし、自分の利のためにイーツェンを利用しようとするマリーシや、ジャスケへの怒りもあった。もっと遠いものに対するどうしようもない怒りもあった。
 汗で粘つく首すじや頬に、風で吹き散らされた髪が張りついて邪魔だ。口の中の黒髪を吐き捨て、子供のように鼻をすすり上げて、イーツェンはまた動きはじめた。


 波の音がゆるやかな夜風の向こうにはっきりと聞こえている。昼間に聞くと穏やかな音なのに、闇の中で聞くと、どこかへ引き込まれてしまいそうな得体のしれない音に聞こえるのが不思議だった。
 疲労困憊の息を体の底から吐き出し、イーツェンは岩と小石の混ざった浜に膝からへたりこんだ。亀のようにうずくまって、しばらく呼吸をととのえる。やがてのろのろと座り直し、足にサンダルを履きはじめた。足の指に数箇所ひらいた傷が痛むし、左足の中指は爪が剥けてしまったが、どうにかサンダルの中に足を押しこむ。
 岩に擦ったせいで、手も足も、顔まで痛かった。左肩には何度か力をかけねばならず、姿勢を変えるのもためらうほどの痛みが今も肩全体に居座っている。幸い背中はほとんど痛まなかったので、思っているよりも癒えてきているのかもしれないが、今はそのことすらどうでもいいほど肩が痛かった。
 海風で、喉も唇もからからに乾いている。暗い浜辺に何とか立ち上がり、腰高の岩に手を置いて体を支えながら、イーツェンは海の方へ目をやってどうしたものかと途方に暮れた。暗くて、ほとんど何も見えない。このまま歩いていって大丈夫だろうか。
 その時、暗がりから軽く石を打つ音がした。2度、そして間を置いて1度。
 それはラウが、彼が見つからなかった時に小船の船べりを叩けと教えた音で、イーツェンは足元から石を拾うと、岩を同じように叩いた。
 やがて、石を踏む足音が近づいてくる。
「リオン?」
「ラウ」
 力が抜け、イーツェンは岩に腰を預けて息をついた。久々に出した声は自分の耳にもたよりなく、しゃがれていた。
「こっちにいる」
「お前、全然来ないから──」
 心配そうなラウの声は突然途切れ、彼はたよりない月の光の下でイーツェンの前に屈みこんで顔を近づけた。
「どうしたよ。大丈夫か?」
「大きな声出すな」
 ぼそぼそと呟きながら、イーツェンは破れた袖で顔を拭う。汗とも涙とも血ともつかない──あるいは全部がいりまじった──粘りを拭い去り、口の中から鉄の味を唾と一緒に吐き出した。
「ラウ。水ある?」
「飲め」
 乱暴な手で水袋を押しつけられて、イーツェンはありがたく水を喉に流しこんだ。からからの喉に水がしみこむ。さらに飲もうとすると、こわばっていた喉に水が詰まってむせ返った。体中の筋肉が、内も外もがちがちに緊張したままだ。
「どうしたんだよ」
 ラウが心配と苛立ちをまぜた声で聞く。イーツェンは濡れた口元を拭いながら答えた。
「大丈夫。行こう」
 よろよろと歩き出すイーツェンを見かねて、ラウは彼に肩を貸した。情けないが、ありがたい。すがるものがなければまたその場にしゃがみこんでしまいそうなほどイーツェンは体力を使い果たしていた。こんなにつらいとは思っていなかった。もし途中でやめられるものならば、やめていたかもしれない。
 斜面を下った後半は、もう滑り落ちたら落ちたでその方がずっと楽だろうと投げやりに思っていたほどだ。足の爪も剥がしてしまったし、手の爪もずきずきと痛んで、指先にまだ行き場のない熱がうずいている。
 それでも波の音の方へ、ラウに導かれて近づいていくと、心の奥からじわじわとなけなしのやる気がにじみ出してくる。ここまでやりとげたのだ。ここでやめるわけにはいかない。
 夜の海は音ばかりで、近づいていくと闇に吸いこまれてしまいそうだったが、ラウは迷うことなくイーツェンをつれて桟橋の方へと歩いていく。近づくと、桟橋の上に覆いをかけて足元だけを照らすようにした油燭が置かれていた。
 足音をしのばせて桟橋を歩く。そばにある船小屋の中では水夫たちが寝ているのだ。足の下で木がきしむたびに息をつめながら、イーツェンはラウが示す小船に乗りこんだ。体が痛くて、ラウが船を足で寄せてくれている間に、ほとんど這うように船に転がりこむしかなかった。
 ラウは桟橋の上の油燭を拾い上げると、軽い動きで船にとびのった。もやい綱をとき、足で桟橋を蹴って海へ船を出す。
 音が立たないよう櫂を波の間へさしこみ、静かに沖へ出ると、両舷の櫂受けに櫂をはめこんで、ラウは力を入れて船を漕ぎはじめた。岸に近いうちは波に引き戻されて思うように進めないように見えたが、すぐに安定したリズムをつかみ、闇の海へと平然と漕ぎ出していく。
 汗だくだった体に海風が吹きつけ、イーツェンは凍えそうな体を小さくちぢめた。四方の闇から波の音が押しよせてきて、あっというまに感覚を満たしてしまう。船から落ちそうで怖くなって、彼は船べりを強い手で握りしめた。
 ふっ、ふっ、と規則正しい息の音とともに、櫂が水音を立てる。島の突端にある灯台の灯りが闇に浮き上がるように光っていて、ラウはそれをたよりに島を回ろうとしているらしい。針路に背を向けて櫂を漕ぎながら、何度か振り向いてラウは進む先をたしかめていた。
 イーツェンは船板に座りこみ、足の間に油燭を置いて、ほのかな熱に左手をかざす。油燭の覆いの間からこぼれる灯りはわずかなもので、ラウの表情までは見えなかった。
 どんな顔をしているのかな、とイーツェンは思う。沖の船に戻りたいから小船の扱い方を教えてくれとイーツェンがたのむと、ラウは呆れきった顔で「できるわけねぇだろ」と一蹴し、かわりにこの役を買って出てくれたのだった。
「ラウ」
 闇の中で、イーツェンは溜息をつきながら声をかける。
「こんなことして大丈夫?」
「お前にだまされたことにすっから気にすんな」
 ギイ、ギイ、と櫂のきしみをたてながら、呼吸を乱さないよう合間を取ってラウが陽気に答えた。
「俺は、急ぎのお使いをのっけてるだけなんだから」
「うん‥‥」
 たしかにそれもイーツェンが練った計画のうちだが、ラウがうまく切り抜けられるかどうか、イーツェンにはわからない。もしばれたらラウが一体どんな罰を受ける可能性があるのか、さっぱり見当がつかないのがまた怖い。
 ラウの声はあくまで呑気で明るいものだった。
「お前には借りがあるしさ」
「こんなことしてもらうほどじゃないよ」
「じゃ、戻るか?」
「いや、それは──」
 かまをかけられているのはわかったが、イーツェンはうろたえた。戻りたくはない。ラウは素知らぬ様子でせっせと船を漕いでいる。闇の中だと言うのにどこへ進んでいるか、彼にはためらいがない。
「‥‥それは、嫌だ」
 少し置いてイーツェンが呟くと、ラウは低い声で笑った。
「そりゃそうだよな。あのガケのぼって帰るのはやだよなあ」
「‥‥‥」
「にしてもお前もよくやるよ。俺も猿だけどさ、お前も猿並み。頭ん中も」
 ぽんぽんと言うとラウはイーツェンの前に置きっぱなしの油燭の金属の覆いを半分上げ、光が多く洩れるようにしてから、小船の横の金具に吊るした。海面がほの黄色い光に照らされた瞬間、波の下で黒い影がさあっと散るのが見え、イーツェンはぎょっとする。
 頭上には灯台の光が近づいていた。海が島の突端を回りこんでいく。黒く闇に沈んだ島の形はほとんど見えないが、その向こうから、遮られていた光がひとつ、またひとつと表れてくる。
 海の上に星のような光が転々と落ちているのを、イーツェンは目を見ひらいて見つめた。闇のように見える水面が、その部分だけ光をぼうっと照り返していて、光が二重に見える。
「あれ、みんな船の灯り?」
「そうだよ。でねえと夜釣りの船同士でぶつかっちまうだろ」
「夜に釣りするの?」
「光で魚が集まるからよく取れるらしいぞ」
「へえ‥‥」
 自分の周囲の黒々とした海と、時おりうっすらと光る波を眺め回して、イーツェンはぞっと身をこわばらせた。勢いで出てきてしまったが、夜の海はまるで人の立ち入ってはならない奈落のようで、恐ろしくてたまらない。
「右手後ろ側、中指方向見てみろ、リオン」
 前からラウの言葉がとんできて、イーツェンはまだこわばった体を用心深くひねって後ろを見た。真横に腕をのばしてひろげた指で方角を数える方法は、航海の間に教わっている。
 言われた方角には、ぼんやりと遠い明かりが闇の間に浮いていた。星にしては低くて大きいが、ほかの船の灯りからはすっと抜け出したように高い光だ。見ていると、ラウがつづけた。
「あれがゼルニエレードの灯台だ。俺らはあの港はレードって呼んでるけど」
「あれが?」
 ゼルニエレードは国名でもあるため、同名の港を船乗りたちは区別して呼んでいるらしい。イーツェンは目をじっとほそめて、闇に浮く白っぽい光を見つめた。光を増幅するレンズを使っているのか、その光は幾重にもにじんで不自然にふくらんで見える。どのくらい遠いのかはまるでわからないが、こうして灯台の光が届く距離に来たのだと思うと、我知らずため息がこぼれた。何と長かったのだろう。
 姿勢を戻し、イーツェンは寒さにふるえそうになる体を縮め、膝を引き寄せる。体が冷えたせいで肩の痛みが少しおさまってきているのはありがたかった。
「ラウはレードに行ったことはある?」
「あるよ。今回も多分、水を調達しに行くと思うな。ポルトリの水は高えからさ、時間がある時はじかに陸地まで取りに行くんだよ」
「じゃあ始めからあっちに船つければいいんじゃないの?」
 黙っているとしんしんと身が切られるように夜気が沁みてきて、イーツェンはどうにか気をまぎらわせようと話を継ぐ。
「喫水が深い船には向かない港なんだよ。どうせ荷はポルトリの市場でさばかなきゃならねえし、入港税を2回も取られんのも嫌なんじゃね」
「あそこまで、手漕ぎ船だとどのくらいかかる?」
「四半日ってところかな。お前、あっちに行きてえの?」
「‥‥うん」
 うなずいて、イーツェンは膝をかかえ、首の輪があまり夜風に当たらないよう首をちぢめた。金属の輪は氷のように冷えて、温度と体力が輪を通して吸い取られていくようだ。
「たよりになる相手がいるのか?」
「‥‥家族がいる」
 逃亡奴隷か何かだと思われているのだろうか。まるで自由民に聞くようなラウの問いが少しひっかかったが、イーツェンは深く聞くのをやめた。今はそれどころではない。
「そうか。会えるといいな」
 ゼルニエレードではなく、イーツェンが目指すのはもっとその先の山あいだと知れば、彼は何と言うだろう。リグの名など知っているだろうか。
 ──家族がいる。
 自分で口にした言葉がしみじみと沁みてきて、イーツェンは息を呑みこむようにしながら波の上に揺れる遠い光を見つめた。もう、随分と近づいた。きっとじき会えるだろう。
 皆は今ごろどうしているのだろう、とこみあげてきた思いに喉がつまった。きっと彼らはイーツェンが死んだとあきらめているだろう。そのことが父や兄たちに重荷になってなければいいのだが。イーツェンは自分の意志で、ユクィルスの人質となったのだが、父や兄が彼に対する罪悪感を背負っているのではないかと思うと、いたたまれなくなかった。
 国を出る時はそんなことまで考える余裕もなく、自分のことだけで一杯だった。自分の決断が彼らを傷つける可能性を考えもしなかった。18だった自分を、イーツェンは遠い存在のように思う。次の春で、彼がリグを去ってからもう4年になるが、年月以上のものがイーツェンを変えてきた。リグに戻ったとして、元の自分には戻れまい。
 ちらちらと揺れる光の間を抜けて、ラウの操る小船は沖へと向かっていく。どの光がサヴァーニャ号なのか一体どうやってわかるのかと思っていると、やがてラウの方からイーツェンに声をかけた。
「ほら、あの高いとこの光がサヴァーニャだ。もうじきだよ」
 黙りこんでいたイーツェンをなぐさめるつもりなのか、その声は明るくて、やさしい。イーツェンはうん、と小さくうなずき、寒さにふるえる体を小さくして、まだ遠く見える光を見つめていた。


 すぐ、とラウは言ったが、この時間は潮の流れが逆らしく、ラウの力強い漕ぎをもってしてもなかなか光は近づかず、いつしか水平線のはじがうっすらと白みはじめていた。
 夜明け前は、空気がはりつめて一番つめたくなる時だ。海を吹き抜けてきた風が全身から容赦なく体温をはぎとり、イーツェンはラウに話しかけられてもまともな返事ができないほど歯の根が合わなくなっていた。
 まだ陽はのぼっていないが、空全体が薄ぼんやりとしてきて、闇一色だった彼方から空と海の境い目が少しずつ浮き上がってくる。錨を下ろしたサヴァーニャ号の巨大な影も目を凝らせば暗い波の上に見えるほどになり、イーツェンの目にもその船に3本の帆柱がそびえているのが見て取れた。
 それにしても巨大な船だ、と思う。こんなものが海に浮いているというのが今もまだイーツェンには信じられないし、こうしてじかに目にしていても、何かにだまされているような気すらする。
 痺れる指先に息を吹きかけながら、イーツェンは近づいてくる影をぼうっと目で追っていた。もうすぐだ。
「何か変だな」
 呟いたのはラウだった。イーツェンは眠りから醒めたようにはっとして、かすれた声で問う。
「何が?」
「甲板に灯りがついてる」
 そうかな、と目を凝らすと、ラウが言うように帆柱の下の方にうっすらと明かりが当たっているような気はした。下から見上げているので、船体にさえぎられて甲板の様子は見えない。
「早起きしたとか?」
 言った途端、ひどく間抜けなことを言ったのに気付いた。船乗りが早起きしたからって、貴重な油を使って甲板に火を灯したりはしないだろう。聞こえなかったのか、無視することに決めたのか、ラウは返事をしなかった。
 片方の櫂を水に入れたまま、上手に船を回してサヴァーニャの方へ針路をまっすぐに向けると、ラウは船の横にかけておいた灯りを取って頭上で大きく回した。
 途端、ふっつりと火が消えて、ラウは舌打ちする。
「油切れかよ」
 少し明るくなってきた時でよかった、とイーツェンは心底ほっとしながら船べりにしがみついた。今ならどうにかサヴァーニャ号の姿も見える。
 ラウがまた櫂に手をかけた。ずっと漕ぎつづけで疲れているだろうに、イーツェンに文句ひとつ言わずにサヴァーニャ号を目指してくれる彼が、イーツェンにはありがたかった。疲労と手足の痛み、くすぶったままの怒りなどに神経がささくれだっていて、一刻も早く船につくことで頭が一杯だった。
 マリーシのそばを勝手に離れ、こうして小船まで使ってしまっているというのに、本来なら感じるべき焦りや不安を感じる余裕すらない。冷静に考えるのはとうにやめていた。今ここで平静を取り戻してしまったら、もう1歩も動けない気がする。
 船べりにしがみつき、少し高くなってきた波をやりすごそうとしながら、イーツェンはもう1度後ろを振り向いた。漁の船はほとんどが引き上げたのか、海上に残る光は港で停泊している数隻の船のもののようだ。
 その向こうに、うっすらと浮いて見える光がゼルニエレードの灯台のものなのか、イーツェンにはもうわからない。空全体がほのかに白んできて光が見づらくなっている。だがイーツェンは目をほそめてその光をじっと見つめた。あそこにたどりつくために、ここまでがんばってきたのだ。あの場所に、あの向こうに、シゼと一緒に行くために。
(一緒に)
 また腹が立ってきて、イーツェンは背中の下側を手で探った。シゼがよこした書類は布に包んでシャツの内側に縫い付けてある。このために屋敷の敷布を1枚裂く羽目になった。
 1人で行けると思うのかと、シゼの顔を見て問いたい。シゼがイーツェンを思って旅に必要なこの書類をよこしたのはわかっていた。だがそれでも、たとえ何があってもイーツェンが1人でリグへ向かうと思っていたのかと、シゼの本心を問いただしてやりたかった。ここまで2人で苦しいことも辛いことも一緒にくぐり抜けてきた、そのことを何だと思っているのかと。
 リグへは帰りたい。それはイーツェンのむき出しの真情だ。だが、シゼを置いてリグへ向かうことにどれほどの意味があるだろう。シゼにとってこの旅は「イーツェンをリグへ返す」ための旅であるのだろうが、イーツェンにとってもはやこの旅も、シゼも、それ以上の存在だった。シゼが欠けてしまえば、自分の半ばが欠けてしまうのではないかと思うほどに。
 ──どうしてお前にはわからないんだ。
 くやしさがこみあげてきて、イーツェンは奥歯を噛んでうつむく。酔うから波は見たくないのだが、やり切れなくて仕方なかった。好きだと言って、かけがえのない存在なのだとシゼに伝えたつもりでも、きっと彼には届いていないのだ。イーツェンを信じていない。
 何に怒っていて何が悔しいのか、もう自分にもよくわからなかった。疲労と寝不足、それに手足の傷からじんじんとひびく痛みで、頭の芯がぼうっとしている。とにかくシゼの顔を見ないとおさまりがつかない。彼が無事で、イーツェンと一緒に船を降りるまでは、腹の底がからっぽになったようなこの空虚な感覚は消えないのだろう。
 ばしゃん、と妙に近いところで波音とは違う水音がした。櫂さばきが変わったのかと、イーツェンは船べりによりかかったまま、ラウの方を見ようと顔を上げる。
 その時、不意にラウが何かを叫んだ。何だったのかイーツェンには聞きとれない。未明の海はうっすらとした暗がりに包まれて、波の間に何かが聞こえて視線を向けた時、その濁った影の中からぬっと何かが現れた。
 イーツェンの頭の中に咄嗟によぎったのは、マリーシの部屋の壁にあった腰から下が魚の半人半獣の絵だった。驚きのあまり息が喉につまって、細い悲鳴のような音を立てる。
 波の間からかすれた声がひびいた。
「助けてくれ──」
 その声には確かに聞き覚えがあって、ぎょっと体がこわばった。まさかと思いつつ、声の主を彼は知っている。だがどうしてジャスケがこんなところに?
 波をかぶっているその顔をもっとしっかり見ようと、イーツェンは船べりから身をのり出す。さっきの大きな水音はジャスケが海に落ちた音だったのだろうか。もしジャスケなら、と言うか誰であっても、海に落ちたのなら早く助け上げないとなるまい。このつめたい海の中ではあっという間に体力が奪われて、命があやうい。
 ひときわ大きな波が小船を持ち上げ、うねる水が船の下を抜けていく。足の下が空洞になったような浮遊感に船べりを強く握りしめ、イーツェンは爪に走った痛みにたじろいだ。指も爪も、岩を降りた時の負担でズキズキと痛む。
 ラウがまた怒鳴った。今度ははっきりと聞こえた。下がれ、と。小船は何故かぐんと速度を上げて影のそばを容赦なくすぎていこうとする。
 体勢を立て直しながら、何でだ、とイーツェンが問おうとした時、氷のようなこごえた手に手首をがっしりとつかまれていた。ジャスケのもう片手は船べりにしがみついていて、船に這い上がろうともがきながら、男はまるで握りつぶすような力でイーツェンの手首を握りしめ、波によって後ろに引きずられる体重をかけた。海の底からのびてきた死人の手なのではないかと思うほど、その手はつめたい。
 反射的に振りほどこうとしてイーツェンが体勢を崩した時、また波が大きく船を傾ける。ジャスケが狙いすましたようにぐいと手を引き、イーツェンの体は前のめりで一瞬だけこらえたが、次の瞬間、彼はつめたい海に頭からころがり落ちていた。