マリーシがポルトリで案内されたのは、島を回り込んだ先、腕のように海へ突き出した岬に建つ豪奢な客用の邸宅だった。
 ポルトリの建物は柱が長くて天井が高く、イーツェンから見ればひどく軽やかな印象を受ける。玄関から廊下にかけて異国の敷物や壺、タペストリーなどがあまり統一感なく飾られていて、ルスタの港町とはまた違う、雑多に文化が混ざり合った雰囲気があった。
 イーツェンはマリーシが与えられた大きな部屋の、召使い用の続き部屋に入った。床の上に用意された簡単な寝床と長箱しかない狭い部屋で、しかも窓には外れない木格子がはめこまれている。しかし久々に独りきりに慣れたことにほっとしながら、イーツェンは床に座りこんだ。揺れる船から動かない地面に上がってきた筈なのに、どういうわけか体が揺れるのだ。獣の背中に乗って旅をしていると、降りた後もに酔ったように体が揺れることがあるが、それを何倍もひどくしたようで、体の中がたぷたぷと波のように動きつづけている気がする。
 とりあえず、1人になったからにはこの堅苦しい服から着替えようとした時、自分が何も着替えるものを持っていないことに気付いた。わずかな着替えを入れておいた荷物は、中をあらためるからと上陸とともに持っていかれてしまったのだ。必要な物は身に付けているからかまわないが、この派手な服を脱がないと息がつけない。
 廊下に続く扉から顔を出すと、マリーシの部屋の前に立っていたポルトリの衛兵に見とがめるような目を向けられた。
「どうした」
「着替えが‥‥」
 言いかけて、イーツェンは言葉を切る。ここにやってきたばかりの奴隷が、いきなり着替えるものをくれと言うのは妙ではないだろうか。事情を話したところで、荷物が戻るまで部屋にいろと言われておしまいになりそうだ。
 咄嗟に話の向きを変えた。
「洗いたい物があるのですが、洗い場か井戸の場所を教えていただけますか」
「洗濯女を後でよこしてやる」
「それが、実は」
 と、イーツェンは声をひそめた。ポルトリの訛りは、キルロイの船乗りたちよりずっと聞きとりやすくて助かる。
「手を切ってしまいまして、いただいた服を汚してしまいました。主人には内密に汚れを落としたいのです。めでたい日に、血の着いた服を着ていては私が叱られてしまいます」
 本当に船の手すりで指を擦っていたので、その傷を見せながら、後半は少し哀れっぽく言葉を引いた。芝居だと見抜かれようがかまうものかと、ほとんど開き直っている。奴隷や召使いは芝居をするものだ。
 くるぶしまでの長いマントをまとった衛兵は、上から下までイーツェンを眺めてから、両手を打った。途端にどこからか──イーツェンにはどこからなのかまったくわからなかった──いかにも召使いという、質素でぱりっとしたなりの娘が現れる。
「水場に案内してやれ」
 兵が命じると、娘はうなずいて歩き出した。イーツェンは慌てて追う。ずんずん歩いていく娘にやっと追いつき、兵に聞こえないだけ離れたことを確かめてから前に声をかけようとした。
「あの──」
「忙しいから後にして」
 にべもなくぴしゃりと言われて、口をつぐむ。
 裏庭らしき場所の、屋根だけの東屋につれて行かれて、中央にある井戸を使ってもよいと言い渡された。忙しいという言葉通り娘はそのまま姿を消し、イーツェンは人のよさそうな洗濯女とともに取り残される。
 気さくな相手に船旅の話をしながら、イーツェンは上着についてもいない血を洗うふりをした。さらにシャツを脱ぎ、上半身は下着だけになって服の洗濯を終えると、彼は困り顔で洗濯女にたのんだ。
「乾くまでの間、何か着られるものをお借りできませんか?」
 女は下着姿のイーツェンを眺め、何て馬鹿な子だとあきれて首を振りながら、どこかから着古した大きな麻のシャツを持ってきてくれた。つくろう前のものだということで、袖にかぎ裂きがあるがイーツェンはありがたく上に着こむ。
 普通なら、考えなしだと怒鳴られて終わるだろうが、客人の奴隷だからか、丁寧に扱われているようだ。これを利用しない手はないと、イーツェンはさらにのどかにたずねた。
「船場にいる船乗りに主人から伝言を頼まれているのですが、どう行けばいいのでしょうか? 正門は私のような者が通ったら怒られそうですし‥‥」
 女は大きな溜息をつくと、今度は馬丁見習いの少年を案内役につれて来た。少年はイーツェンよりも4、5歳は年下で、いったん女の耳に届かない場所まで出ると、驚くほど口が汚かった。
 彼の口から、イーツェンはここがポルトリでも指折りの裕福な商人の邸宅であることを知る。商人は数年前に妻を亡くした中年の男で、マリーシが彼の妻になるのか、それとも彼の息子の妻になるのか、召使いの間では賭けが行われているという話だった。
 彼がマリーシをやたらと「橋の人」と呼ぶので、何かと思ってたずねると、歯切れのいい返事が戻ってきた。
「ここの家は橋の家って呼ばれてんのさ。島の方から来るには橋を2つ渡ってくっから。クソめんどくせえ。昔ここに住んでた奥方も橋の人って呼ばれてたんだってよ。俺は知らねえけど。年寄りってほんと、昔話がバカみてえに好きだよな」
 一言ごとにポンポンと悪態がはさみこまれる。やたら饒舌だが、「橋の人」であるマリーシの名をイーツェンに聞こうとはしないのが不思議だった。イーツェンもマリーシの正しい名を知らないから、聞かれてもごまかすしかないのだが、何も問われないのは何となく釈然としない。ここの召使いは名乗らない客人に慣れているのだろうか。
 邸内にも庭にも、イーツェンが見る限り大した人数はいないようだ。屋敷に入る時も主人の出迎えはなく、屋敷頭に部屋まで案内されただけだった。昔は商人の死んだ妻が住んでいたこの屋敷も、今はたまの客人用に保全されているらしく、贅沢な話だ。
 庭には馬房や倉庫や豚小屋、畑などが集まった使用人用の一角があり、少年はそのはじを畑の外を回る道に沿って歩いていく。道の右側は草地の斜面になっていて、斜面の先はさらに急勾配の岩肌が海まで落ち込んでいた。岬の上の高台から見晴らす景色は美しく、おざなりに立てられた杭柵の向こうには、海岸まで続く斜面と下に広がる海が見える。
 岩の多い浜辺に、木の桟橋が見え隠れしていた。それがはっきり見える一瞬をとらえて、イーツェンは指をさした。
「あそこに行きたいんだけど、ここから降りる道はないの?」
「山羊にでも乗ってけよ。首根っこ折れても拾ってやらねえぞ」
 あきれた声でうんざりと言われ、イーツェンは驚いて少年の後ろ姿を見返した。この程度の崖、リグなら子供の遊び場だ。だが少年はからかっている風でもなく、豚小屋の匂いに文句をつけながらさっさと歩いていってしまう。足取りをあわてて追いながら、イーツェンはちらちらと斜面の様子を観察した。
 岩肌の欠け方からしても、砂岩のように崩れやすい岩ではないし、岩の間に茂る草は茶色くなって勢いを失い、岩肌がほとんど露出している。手足をかける場所は充分あるように見える。
 ──今の彼には、無理か。
 小さなため息を殺して、イーツェンは岩が折り重なる斜面から目をそらした。船の仕事を通して前よりも体力は戻ったが、旅の疲労も溜まっているし、左腕は相変わらず肩より上には持ち上がらない。腕に体重がかかれば背中にどれだけの負担になるのか、自分でもわからなかった。
 少年は、庭師がカブの畑の手入れをする横を抜けながら、今度は海風のせいでろくな野菜が育たないと毒づいている。「イモとかイモとかカブとかカブとか!」と忌々しそうな口調が呪いでもかけるかのようで、イーツェンはつい笑ってしまった。
 イモでもカブでも、この季節になっても好きに野菜を作れるのは、イーツェンにしてみればうらやましい。リグではもう、風の当たる斜面には何も実らない。冬のさなかに食わされたしなびた塩漬けのカブを思い出し、イーツェンは苦手だったあの味すらなつかしくなった。
 少年は半分ほど水が溜まった溜め池を迂回して補修しかけの堤を靴の裏で蹴りながら悪態をつき、ついでのように「あそこがゴミの穴な」とイーツェンにごみ捨ての穴を指さして教え、その先にある裏門へとやってきた。茶色くなった生け垣の間に木の格子戸があり、大きな横桟がかんぬきがわりに渡してある。
 少年はその桟を抜いて生け垣に立てかけると、格子戸から外へ出た。岬の裏を浜までおりていく道に出たところで、イーツェンは彼に声をかける。
「下まではわかるよ、ありがとう」
 のぼってきた道だから、道はわかるし、浜におりれば桟橋のたもとの船小屋にラウたちがたむろっているのも見当がついている。
 だが少年は首を振った。
「一緒でないと張り小屋の前を通れないよ」
 そんなのあったっけ、と思ったのも束の間、すぐに道を見おろす位置に構えられた高台の小屋が見えた。行きはマリーシの乗った輿に遮られ、見そびれていたのだ。
「お客さんが来るといっつも見張りが厳しくなるんだよ。夜は柵で塞いじゃうし」
 ぶつぶつ言う少年の声を聞きながら、イーツェンは小屋の前に立っている見張りの男へ一礼した。マリーシの身の安全は充分に守られているようだとほっとする一方で、岬へこっそりおりていくのは難しそうだとため息を呑みこむ。1人で屋敷を抜け出そうとしなくてよかった。
 道はくねりながら浜へと向かって次第におりていく。見はらした海には3本の帆柱が独特のサヴァーニャ号の姿はなく、海ぎりぎりまでせり出した丘に遮られて港が見えないだけだとわかっていても、イーツェンは胸苦しくなった。いつの間にかあの船が消えていて、シゼも船とともにどこかへ去ってしまったような不安が足をせき立てる。
 あり得ないと思っていても、もしあの海原の向こうにシゼが消えてしまったら、イーツェンはどうしていいのかわからない。
 もっとも、船にはイーツェンの荷物の大部分も残したままだし、旅の書類もあの中だ。どうせすぐに船に戻る。一生の別れでも告げるかのようにこちらを見おろしていたシゼの顔を思い出して、イーツェンは何だか腹が立ってきた。何も、あんな顔で送り出すこともあるまいに。
 何故シゼは、遠い旅立ちを見送るような顔をしてイーツェンを見ていたのだろう。それともあれは、イーツェンの中にある不安が見せたものだったのだろうか。
 苛々したり、悶々としながら歩いていると、岩に波が打ち上げる音が大きくなってきて、右回りに斜面を下っていく道もゆるやかになった。
 岬を回った内側にかかえこまれた小さな船着場には、小船が3隻係留されている。そのうち1隻はラウが漕いできた船だ。マリーシたちをつれてきた大きな手漕ぎ船は島の主港に移ったのか、もう見えない。海には数隻の漁船が出ているのが見えたが、どの船も桟橋からは遠く離れたところで網を打っていた。
 波にせり出した木の桟橋の根元には、嵐ひとつで吹き飛ぶんじゃないかとイーツェンが心配になるような掘立て小屋がある。
「戻ってていいよ」
 イーツェンがそう言うと、少年はうんざりしきった顔で元来た道をのぼりはじめた。イーツェンは小さな岩と砂がいりまじった斜面を歩きにくいサンダルでおりながら、岩の間で地鳴りのようにくぐもる波の音に近づいていった。海はおだやかなのに、波音は大きく聞こえてくる。
 桟橋に係留された船の中で何人かの水夫が寝そべって昼寝し、何人かが糸を垂らして釣りをしている。イーツェンが丸木の表面を削り落とした不規則な桟橋を歩いていくと、船の中から昼寝中だった男がむくりと起き上がって、桟橋にとびのった。
「似合ってたのに」
 ラウは残念そうに、赤いシャツと長い胴着を着替えたイーツェンを眺めた。嘘つけとイーツェンは思ったが、とりあえず浜辺の岩場まで戻って、他の船乗りたちに声が聞こえない場所で海を見ながら並んで座った。
「ラウ。用があるって何?」
「うん」
 イーツェンが船を降りる時、後で来てくれとラウが耳元に囁いたのである。昼寝で少し厚ぼったくなった目をこすってから、ラウはうなずき、腰の後ろにくくり付けてある大きめの麻袋に手を入れた。折りたたんだ書類をひっぱりだしてイーツェンの手に押しつける。
「お前に渡してくれって」
「何──」
 くたびれた皮紙をひろげた瞬間、イーツェンは目の前が赤くなるほど一気に頭に血がのぼるのを感じた。かつて覚えがないほどの強烈な怒りが噴き上がって、腹の底からこみあげる熱い渦が体中の血を沸騰させる。腹が熱いのに、顔と指先からは血の気が引いていた。
「くそったれ」
 くいしばった歯の間から船乗りのように乱暴な悪態がこぼれる。知っている限りの罵倒を、今ここにいない男の顔へ向けてあびせかけてやりたかった。
 書類をたたむ手が大きく震える。指先が凍えたように冷たくて、肌の上を虫がざわつくような不快感が覆い尽くしてくる。喉の奥がからからで、ざらついた海風の匂いに吐きそうだった。
「リオン?」
 ラウがためらいがちに話しかけてくるまで、イーツェンはラウの存在をすっかり忘れていた。驚いて、それから自分がどこにいるのかやっと思い出し、イーツェンはたたんだ書類をぶかぶかのシャツの内側へしまいこむ。怒りに駆られてなくすわけにはいかない。
「お前、大丈夫か?」
「大丈夫。ありがとう」
「お前に必要な紙だって聞いたけど‥‥」
「うん。大丈夫」
 いささか棒読みで、イーツェンはつっけんどんにくり返した。ラウが誰にそれを言われたのか、聞くまでもない。船からおりる前、イーツェンはシゼへの伝言をラウにたのんだのだが、察するにシゼは逆にラウにたのみごとを持ちかけたようだった。それをラウに八つ当たりするのは間違っているのだが、とにかく頭の中がシゼへの怒りで一杯で、まともな返事ができなかった。
 シゼは、イーツェンが荷物にしまいこんでいた、旅のための身分証と通行証の一式をラウに持たせてよこしたのだ。これがあればイーツェンだけでもポルトリからゼルニエレードへ渡ることができるだろうし、ゼルニエレードの港も通れる。
 こんなものをよこして、1人で旅の先へ行け、と言うつもりだろうか? 行くとでも思っているのだろうか。イーツェンが船に戻ることを、2人でこの先へ旅を続けることを、シゼは望んでいないのだろうか。まさか、船から降りるつもりがないとか。
 ──だから、離れるのは嫌だったのだ。
 こめかみを親指の関節の背で押し、イーツェンは口の中で力ない悪態を呟いた。離れるから、シゼは何が起こってもいいようにイーツェンに書類を持たせようとしたのだし、離れているイーツェンは今さらシゼに文句も言えず、シゼの気持ちの裏を疑ってしまう。彼らの間にある信頼がどれほど脆いものなのか、その脆さがいたたまれない。
 深呼吸をくり返してイーツェンが気持ちを落ちつけている間、ラウはとがった石を使って岩にはりついた貝を集めていた。イーツェンが平静を取り戻したのを見はからって、軽い口調で話しかけてくる。
「ケンカすんなら手え貸すぞ。ま、お前がキッチリ殴れることは知ってっけど」
 わざとらしく顎を撫でてみせるラウに苦笑いして、イーツェンは腹の底から強い息を吐き出し、海風の匂いがする空気を吸いこんだ。海の上で嗅ぐ風と違って、この岩浜で吹きつけてくる湿った風はどこか生臭くて重い気がする。魚の匂いとも違うのだが、完全に海だけの匂いでもない。
 数回呼吸を入れると、全身でざわついていた苛立ちが少し鎮まった。服の上から、書類をしまった場所を押さえる。シゼはイーツェンがどうなってもいいように、行動の自由がきくようにと、これをラウに預けてくれたのだ。
「殴ったりしないよ」
 呟いて、イーツェンはラウが彼の顔をじっとのぞきこんでいるのに気付いた。心配しているまなざしが少し面はゆくなって、返事がわりに笑みを作る。
「用って、このことだったの?」
「ん。悪いな。わざわざ上のお屋敷から。あそこでけえだろ」
「行ったことある?」
 たずねると、イーツェンがおもしろいことでも言ったようにラウはけらけらと笑った。
「俺らみてえな船猿はあんなところにつれてってもらえねえよ。せいぜいここで匂いを嗅ぐだけさ」
 曖昧にうなずき、イーツェンは首の後ろをかいた。首輪の下の皮膚が擦れて、たまにひどく痛がゆい。自分たちが乗ってきた小船をじっと眺め、海を眺めた。今ごろ船では何が起こっているのだろう。アバルトスはついにジャスケと対決しているのだろうか。シゼが巻きこまれたりするようなことはないだろうと思いながら、胸苦しさと胸騒ぎが消えない。
 ──やはり離れるのは間違いだった。
 心の内で呟いて、ラウの方へ向き直ると、ラウはまだ心配そうな顔をしてイーツェンを見ていた。
「ラウ」
「何だ」
「サヴァーニャ号に戻りたいんだけど、船の漕ぎ方、教えてくれる?」
 ラウはあっけにとられた顔をしてから、問答無用の勢いでイーツェンの頭をはたいた。


 岬から屋敷までの道をのぼり、洗濯場に干しておいたシャツと胴着を回収し、イーツェンは屋敷の裏口から中へ入った。時間を取りすぎた。部屋に戻ろうと早足で廊下を歩いていると、身なりのいい青年が前から歩いて来るのが目に入った。布帯をゆったりと巻いて上着の裾を垂らした服装には飾り気がないが、召使いの服にしては仕立てがよすぎる。
 イーツェンは廊下のはじに身をよせ、目を伏せて相手が通りすぎるのを待った。だが足音は何故かイーツェンの目の前でとまり、何か用かとイーツェンが顔を上げると、青年の視線はイーツェンの首の話と顔とを無遠慮に見比べていた。
 つかつかとイーツェンに歩み寄り、彼は上着の打ち合わせから糸で結んだ手紙のようなものを取り出して手渡してくる。とまどうイーツェンの手のひらにさらに数枚の銅貨を握らせた。
「人の目にふれぬよう、主人のところへ持っていけ」
 それだけを言いおいて、さっさとまた歩きはじめてしまう。イーツェンはぽかんとしたが、呼びとめて事情を聞くのは許されていないと感じて手紙を袖の内側に隠した。マリーシへの手紙だろうか? 首の輪や、あからさまに山の民であるイーツェンの顔立ちから、彼がマリーシの部屋付きだと見分けたのだろうか。この屋敷の召使いに言付けず、わざわざ彼にたのむということは、秘密の手紙なのだろうか。だが、誰から?
 色々と面倒な気分をかかえて部屋に戻ると、扉の前に立つ衛兵からマリーシが随分前から待っていると告げられた。イーツェンはあわてて元の服に着替え、いささか堅苦しい気持ちでマリーシの前に立った。
「どこへ行っていた」
 不機嫌に問われて、「岬の船に忘れ物をして」と答える。マリーシは鼻先で笑ったが、それ以上イーツェンの嘘を問いつめようとはしなかった。女服をまとって髪を背中までおろしており、化粧はほとんど取っているが、唇の紅はあでやかだ。
 ひろびろとした部屋の正面には、背丈ほどの高さで幅の極端に狭い窓が3つ並んでいて、岬の方角からの光が部屋の奥までさし入ってきている。壁は白い漆喰に黄色い土を混ぜて塗られたもので、混ざり合った色むらに素朴で美しい味わいがあった。右手の壁の中央には薄紅の染料で、不思議な生き物の絵が描かれている。体の上半分が人間だが、下半身は魚の尾に変化している半獣の姿だ。
 それは人魚というのだと、マリーシは部屋に入った時にイーツェンに教え、「まだつかまえたことがない」とつけくわえた。
 こういうものは神々の眷族だろうから、つかまえるのはまずいんじゃないかとイーツェンは思ったが、異国の風習に口を出せる筋合いはない。描かれた生き物は優雅で美しく、海にいる間に出会っていたらと想像するのは楽しかった。海にはどんな生き物がいるのか、結局イーツェンはあまり見ることなく航海を終えてしまった。
「少しおとなしくしておけ。アバルトスの手配で館の警備は厚くなっている」
 イーツェンは眉をしかめた。
「あなたの身に何かの危害が加えられると?」
 その考えは気に入らない。そう思うなら、アバルトスはマリーシのそばにもっと信頼できる護衛をつけるべきなのだ。たとえそれが、この屋敷の主の体面をつぶす行為なのだとしても。
「いや」
 マリーシは首を振る。
「だが、少し騒がしくはなるだろう。噂を聞きつけたポルトリの有力者は私に会いたがるだろうしな。明日から誰に会うか、どういう順番で会うか、よく考えねばならん」
 面倒そうなマリーシの言葉で、イーツェンは廊下で渡された手紙のことを思い出した。これもそうした動きのひとつなのだろうかとマリーシに渡すと、印のない蝋封を砕いて中を一瞥し、彼女は微笑した。
「そう、こういうことだ。お前に取り持ってもらおうとする輩も出てくるだろう。人は輪付きを道具としか思わないからな」
「だから私をつれてきたんですか」
 質問というよりはそれは単なる確認で、マリーシもそれをイーツェンの独り言のように無視した。だが、何故わざわざイーツェンを選んでつれてきたのか、やっとマリーシの利益が見えてきて、イーツェンは何となくほっとする。何を求められているかわからない状態は不安だ。
 奴隷は、そもそも物のように扱われたり存在を無視されたりするが、輪付きの奴隷はその中でも特に立場が弱い。イーツェンは自分が奴隷になるまでその差に気付いたことがなかったが、奴隷を扱い慣れた人間は輪付きを人とも思わないところがある。むげに辛く当たるのではなく、ただ人として扱わず、気にも留めないのだ。それは多分、輪付きが大体は奴隷の立場から脱することなく、一生誰かの奴隷であり続けるためなのだろう。決して誰かに逆らったりしないと思われている。
 イーツェンならば普通の召使いにはできない様々な情報を集められると、マリーシとアバルトスは踏んでいたようだった。事実、イーツェンは今日の行動を思い返して、もし自分が輪付きでなければあれだけ警戒心なくあちこちに行かせてもらえただろうかと思う。もしかしたら、輪付きであるということは彼が思ってた以上に便利に使われるものなのかもしれなかった。
 手紙の文面をあらためて確認しているマリーシの顔を眺め、イーツェンは彼女の椅子へ1歩寄った。マリーシが座っているのは籐で編んだ大きな椅子で、扇型の背もたれ部分に赤く染めた籐が模様として編みまれている。
 マリーシは椅子に体を預けてゆったりとした長衣の下で足を組み、生まれながらにこの部屋の主人であるかのように悠然とかまえていた。腹のあたりに膝掛けを掛けているのは子供への気づかいだろう。
 強い女性だ、とイーツェンは思う。そして自分でそのことを承知している。他人を利用し、自分が利用されることにもためらいがない。
 だから怖いのだ。
 扉や窓の外に誰かがいても聞こえないほどマリーシに近づき、イーツェンは声をさらに低めた。
「私は船に戻ります」
 マリーシは手紙の表面をはじいていた指をとめ、馬鹿を見るような目つきでイーツェンを見た。だがイーツェンは引き下がらない。
「私の連れがあの船に残っていますし、あなたもこの屋敷では安全でしょう。私がおそばにつくまでもないと思います」
「泳いで戻るのか?」
 必要とあればそうする、と言ってやりたいが、ほぼ冬を迎えた海がどれほど冷たいかはイーツェンもさすがに知っている。
「小船を使う許可をいただけないでしょうか」
 正面きってたのんでみたが、マリーシからはやはり「2、3日待て」という同じ返事しかもらえなかった。うなずいて、イーツェンは続ける。
「もし小回りのきく連絡係が必要になるなら、今、岬の船小屋にいるラウという水夫を使ってみて下さい。頭も回るし、目はしも利く。風読みに対する忠誠も厚い」
「ラウ?」
「行きに小船を漕いでいた水夫です」
「船猿だろう」
 ほとんどにべもなくマリーシが切り捨てる様は、おそらく多くの貴族や商人が「輪付き」を石ころのように見下す姿と同じなのだろう。それは悪意によるものではなく、ただ彼らには、相手の存在が見えないのだ。
 イーツェンは、マリーシが時おりするような辛抱強い口調になっていた。
「船猿がいなければ、船は動かないでしょう。彼らは船のために命を危険にさらして死ぬまで働く覚悟ができています。私などよりずっと風読みの価値をわかっているし──」
「だから買われやすい」
「ラウは、大丈夫ですよ」
 それより自分の方が危ないと、イーツェンは思う。今、もし誰かがシゼとそろってゼルニエレードの港へ送り届けてくれると約束したら、大体のことはしでかしてしまいそうである。マリーシの前で、そうと口に出せはしないが。
 結局マリーシははっきりといつイーツェンを船に帰すか言質を与えることはなかった。イーツェンは夕食会に出向くマリーシの身支度を手伝い、送り出して、彼女が不在の間に色々と自分の仕事を片づける。
 マリーシが戻る前に寝台をととのえ、戻ってきたマリーシの用がなくなるまでそばにいてから、隣の部屋に下がった時には、夜はかなり更けていた。
 マリーシが寝つくだけの時間を見はからい、イーツェンは控えの間の扉をあけて廊下へ出る。予想通り、部屋の前に立っている夜番の兵士の刺すような視線に対し、イーツェンは手にかかえた青いベールを見せた。マリーシのものを、勝手に長箱から拝借してきたのだ。
「荷運びの際にほつれてしまったので、直すよう申しつかったのですが、うまくいかず‥‥主人は明日これを身に付けたいと申しておりますので、できたら針子の方に明日までに直していただくわけにはいかないでしょうか」
 途方に暮れた顔でたのみこむと、兵士は召使い部屋の位置を教えてくれた。消灯の時間まではわずかしかないが、誰かつかまえれば何とかしてくれるだろうと言う。
 イーツェンは身を低くして礼を重ね、その場を離れた。
 暗い廊下を、ほろのかかった小さな油燭を手に歩き、角を回ったところでほろの周囲に厚い布をかけて光を隠した。城内の巡回などで、足元だけを照らすために油燭に覆いをかぶせるが、それに似たものを寝床の布を使って作ってきた。布が熱くなるので、長くは使えない。
 息を殺して、イーツェンは昼間に確認した道筋をたどる。召使いが使う通路を通って、裏口の掛け金を外し、表へすべり出た。できるだけ身を低くしながら足元を用心深く照らし、裏庭を通る。やがて、岬へ通じる急斜面の上へと出た。
 月は満ちる半ば、身を隠すにも足元を見るにもたよりない光が、地上をぼんやり照らしている。夜に見る斜面は黒々とした牙のような岩に覆われて、闇に吸いこまれた彼方から地の底を打つような波音がひびいてきていた。イーツェンはその斜面の前に立ち、息を吸いこんだ。
 油燭の火を落として、足元にそっと置く。目をとじて、昼に刻みこんだ斜面の形を頭の中に思い描いた。子供のころ、こんな程度の斜面は彼らの遊び場だったものだ。
 サンダルを脱ぎ、紐を結び合わせて腰帯から下げる。冷えきった大地が足の裏から体の熱を吸い取り、指先がちりりと痺れた。
 闇の向こうから吸いこまれるような波音がとどく、その方向へ、イーツェンは用心深く1歩を踏み出した。