海鳥が頭上で鳴き交わしている。まるで、梢をするどい風が抜けるような音だった。
 黒い斑点のある大きな白い翼を見上げ、そう言えば、航海中にほとんど海鳥を見なかったとイーツェンは目をほそめた。いくら鳥でも、翼を休める陸が近くにない海原では生きていけないのだろうか。
 昼頃短い雨が降り、格子甲板を通して下の甲板にまで雨粒が落ちてきたが、今は薄い雲を透かして青空が見えている。陽の光は曇っていたが、海風は昨日よりまだあたたかく、船べりに立っていても服の下に鳥肌が立つほどのことはなかった。
 頭をめぐらせ、イーツェンは帆が巻き上げられた帆柱を見上げる。ポルトリが見えたと言うのに、何故かすべての帆がたたまれ、船上を通り抜ける風を受けとめる帆は1枚もない。帆柱の間を走る無数のロープだけが、やる方なく揺れていた。
 目を凝らせばポルトリの灯台の屋根の形まで見えるというのに、何故ここで船をとめ、投錨したのか、イーツェンにはわからない。中央の帆柱に旗を揚げてポルトリ側と忙しく旗信号でやり取りをしていたと水夫が話していたが、その信号が何を示すのかは誰も知らなかった。
 目を向ければ、ポルトリの港が見える。ポルトリは「島」という呼び名からイーツェンが想像していたよりはるかに大きく、正面に港が見える。港は陸の内側に大きく湾曲し、石積みの堤防で両側から抱かれるように守られていた。ルスタで見たほどではないが、大小様々な船が停泊しており、彩りのよい帆が鮮やかだ。
 港の向こうは大地から丘が起き上がったような斜面で、建物の並ぶ側と、果樹などが植えられているらしい側と、くっきりと区分けがされているようだ。冬が近い丘には全体に灰色がかって、ところどころに常緑の深い緑の木々が見えた。
 東に面した斜面には、まるで子供がぎっしりと積み木を並べたように建物が段になって丘を覆っている。きらきらと白い壁の表面が光るのは、何かが塗られているからだろうか。遠くから一望しているせいかすべてが作り物のように見える。だがずっと見ていると、時おり港に人の動きのようなものが見えた。
 ポルトリまで、あとほんの少し。耳をすませば町の鐘の音がはっきり聞こえてきそうなほどなのに、白く泡立つ波頭が船と陸地を隔てている。
 溜息をついてポルトリから視線を引きはがし、イーツェンは船尾にある上甲板へと向かった。船長から呼び出されているのだが、一体何の用だかわからない。マリーシかジャスケに関することにちがいないと思いつつ、海風を吸いこむ喉はからからだった。
 船尾の高甲板をくぐって中へ入り、船長室の扉の脇に立つ海兵を前に、奴隷らしく目を伏せた。アバルトスのたばねる海兵の一団が乗船しているのは知っていたが、こうして革の大きな肩章や胸当て、腕甲を身に付け、どう見ても戦うには大きすぎる剣──儀礼用の大剣だろうか──を両手で床について直立している姿は始めて見る。さすがに迫力があって、近づくだけで気圧されていた。
「船長に呼ばれてきました。マリーシ様の部屋付きです」
 じろり、と男に上から下まで眺め回されて、身がすくんだが、「入れ」とあごをしゃくられて、イーツェンは扉をあけた。
 船長室の中には、船長の男とアバルトス、そしてイーツェンが予期していなかったことにジャスケがいた。3対の目がまっすぐにイーツェンの方を向く。心臓までじわりと汗をにじませ、イーツェンは目を伏せて恭順の意を表しながら、声をかけられるのを待った。
「礼法は身に付いているか」
 前置きもなくいきなり問うたのはアバルトスだった。イーツェンは床に目を据えたまま殊勝に答える。
「ひととおりは、存じております」
 キルロイの礼法はかけらも知らないが、ユクィルスのそれとかけ離れているとも思えない。輪付きの奴隷に求める礼法など、どうせひたすら礼儀正しく低姿勢にふるまう程度のものだろう。
 目を伏せたままのイーツェンの耳に、ジャスケのほがらかな声が聞こえてきた。
「それは重畳。身支度をさせて、すぐにでも陸へ参りましょう。あちらも待ち遠しくしておられましょうしな」
 陸、という言葉に鼓動が思わず早くなる。だがどうも普通の上陸ではなさそうだ。ジャスケと一緒に上陸させられるのは、何とも不吉で、避けたいのだが。
 イーツェンが忙しく考えていると、アバルトスがつめたい声を出した。
「いや、ポルトリには合図を送った。じき向こうから迎えが来る筈だ。お前はそれまでに身支度をととのえて、マリーシのそばで待て」
 後半はイーツェンに向けられた命令で、それをはっきりと聞きとるふりをしながら、イーツェンは顔を上げてジャスケの表情を見た。いつものように派手な装いをした男は厚い唇に慇懃な笑みをたたえていたが、その両目は氷のようだった。アバルトスをまっすぐ凝視している。船長はいつものように大きなテーブルによりかかるようにしながら広げた海図を眺めるそぶりをしていたが、彼の右肩が少し下がり、右腰に短い室内用の剣を吊っていることにイーツェンは気付いた。無論、アバルトスも帯剣している。彼らは何かにそなえているかのように、ジャスケから意識をそらさない。
 じわりと嫌な寒気が背ににじんで、イーツェンは後ずさった。扉を守るように立っていた兵の様子が脳裏をよぎる。
 出ていこうとした時、ジャスケがやわらかな声で言った。
「手回しのよいことでございますな」
「これまでよくやってくれた、ジャフィ殿。礼を言う」
 アバルトスの口調はほとんど棒読みで、何の感情もこもっていない。
「貴殿のおかげでつつがなく物事が進んだ」
「そう言っていただけるとは、まことにありがたいことで」
 ジャスケの返事もからっぽだった。
 心にもない会話を背にして、イーツェンは船長室を出た。そこに待ち受けていたのは船長の雑用係の男で、彼は甲板に立たせたイーツェンのシャツをはぎ、容赦なく頭から海水をかぶせて汚れを落とすと、上級船員の部屋を使ってイーツェンに見慣れない装束を着せた。
 ふくらんだ裾を紐でしばったズボンに、キルロイ名産の深い赤に染められた麻のシャツ、まるで女性用のように腰が細くしぼり上げられた胴衣。黒に近い灰色に染められた胴衣には革の肩当てがつき、後ろの裾は尻までの長さがある。シャツの袖には肩口からずっと一列に金属の鋲が打たれて、やたらと重く、手首の折り返しには刺繍が施されている。
 何とも居心地の悪い服だ。布帯を胴衣の内側に無理矢理しめこんでいるので、余計にきついのかもしれない。だがレンギのピアスや手形の陶貨を縫いこんだ帯を手元から離すわけにはいかず、イーツェンは自分が船旅で痩せたことに少し感謝した。シャツも胴衣も、イーツェンには少し大きい。
 赤に濃灰という派手な組み合わせに物おじしながら、その格好のまま、イーツェンはマリーシの部屋に押しこまれた。
「意外と似合うな」
 待っていたマリーシが唇のはじを上げる。彼女自身すでにいつもの部屋着を着替え、足首までの長い衣を赤い幅広の帯で締めている。細かく編み上げた髪は丸い帽子のような頭布の中に押しこまれ、帯と同じ赤い飾り石で布の上を飾っていた。
 見慣れない格好の上に、うっすらと白粉をはたいて唇と目蓋のふちに紅を差しているものだから、なまめかしく、視線を向けられたイーツェンはどきりとした。これまでマリーシの服は性別のわからない、おそらくは男性向けに仕立てられたものをまとっていたが、この服は女服だろう。襟が長く、丸められた襟先に幾重にも刺繍が施され、薄黄色の長衣全体にも小さな白い玉飾りがついている。白いきらめきが服の表面に留まっているようで、上品だった。
 綺麗だなあ、と素直に思って、イーツェンは少し見とれた。ユクィルスの貴族の豊麗な女装いとはまた違う凛としたいでたちで、豪奢であるのに、船の上に立っていても似合いそうだ。靴先が長いサンダルも歩きやすそうで、全体に飾り刺繍が施され、いかにも軽やかだった。海国の女性というのはそういうものなのか、マリーシにはいつも、風に顔をまっすぐ向けているような強靭さがあった。
「あなたについてポルトリへ上陸するんですか」
 イーツェンは少しばかり無躾に問う。マリーシは、小さな窓のそばに据えた椅子にゆったりと座ったまま、うなずいた。部屋の中もいつの間にか片付けられ、書き物箱や本もしまいこまれて、寝台の足元にあった長箱が部屋の中央に引き出されていた。これがマリーシの荷物らしい。
「ポルトリから迎えが来ればな」
「ジャフィの話が詐欺かもしれないというのは、嘘だったんですか」
 口がすぎるのはわかっていたが、イーツェンは状況をつかみたくて必死だった。自分がどうなるのか、さらにはシゼがどうなるのか、まったく先行きが見えない。もしこのままマリーシにつれられて下船したら、シゼと離れ離れになるのではないだろうか。
 マリーシの眉のあたりが苛立ちに曇ったが、声は淡々としたままだった。
「本当の話だ。だからアバルトスは使者を先んじて送り、独自に婚姻の話をまとめようとした。もし使者が役目を果たしていれば、ポルトリから迎えが来る。このことは、アバルトスと私しか知らぬことだ」
「なら、何も──」
 はじめから、ジャスケを船に乗せる必要はなかったのではないかと喉元まで出かかって、イーツェンは口をつぐんだ。彼の立場では出すぎた問いだし、答えはわかっていた。彼らはジャスケを、自分たちの目くらましに使ったのだ。
 マリーシの婚姻がここまで秘密裏にすすめられてきたということは、キルロイの王や議会など、表向きの許可は得ていないのだろう。風読みの流出には神経質なキルロイで、アバルトスが動けばきっと目を引く。ジャスケや仲間に手配をさせることで、人の注意をそらしたのだろう。事が成就した際には、ジャスケに責任をかぶせることで、アバルトスやマリーシへの責めを回避することもできる。
 どちらが本当に利用した側だったのか。
 いや、双方が相手を利用しようとしたのだ。結局どちらが勝ったのだろう。船長室にいたジャスケとアバルトスの様子を思い出し、イーツェンは重苦しい気持ちを振り払った。彼らの争いはどうでもいい。イーツェンにとって大事なのは自分のこと──そして、シゼのことだ。
 迎えが来れば、イーツェンもマリーシについてポルトリへ渡ることになるようだが、果たしてその先に何が待つのか。
 息を深く吸って、イーツェンは冷静になろうとした。
「どうして、私がお供するんです」
「ポルトリに降りたくないのか?」
 降りたいに決まっているが、何の面倒もなくこの船と縁を切りたいのだ。言葉にすると刺々しくなりそうだったので黙っていると、マリーシは片手でひらりと宙をなでた。
「お前はジャフィに金を払って船に乗ったろう」
「ええ」
 何の関わりがあるのかと、イーツェンは眉をひそめる。マリーシの話の持って行き方が気に入らない。
「半金を、まだ払ってないだろう」
「‥‥ええ」
 たしかにそうだ。ジャスケに全額払うのは怖かったので、残る半金はポルトリについてからということでお互い手を打った。
「その契約をアバルトスが買い取った」
 イーツェンは無表情を保った。エサを投げるように切り札を投げて、マリーシはイーツェンが感情的にとびつくのを待っている。ジノンならこの状況をどうさばくだろうと考えながら、彼はゆっくりと呼吸を置いた。出口はどこにあるのだろう。
「では、アバルトスに半金を払えばいいんですね。いつ払えばいいですか?」
「お前が一働きしてくれれば、船代のことはなしにしてもいいそうだ」
「お断りします」
 できるだけやんわりと言ったつもりだったが、口にした拒絶は強くひびいた。マリーシが怒るかと思ったが、肩をすくめただけだ。
「そう言わずに、私と一緒に船を降りなさい。でないとお前の無事を保証できない」
「脅すんですか──」
 信じられない、と衝撃を受け、衝撃を受けたことにイーツェンは自分で驚いた。マリーシの部屋付きとして10日あまりの船旅をしたからと言って、所詮、身分の高い相手と奴隷の下働きだ。脅されようが使い捨てにされようが、何の不思議もない筈だった。裏切られた気持ちになる方がおかしい。
 マリーシは細い顎を指先でつまむようにした。子供に言い聞かせるような、辛抱強い口調になる。
「船の上にいては、お前が危険なのだ」
「どうしてですか」
「お前は、ジャフィに告発されるかもしれないからだ」
「告発?」
「あの男には船内に仲間がいる」
 腕組みして、マリーシはさっぱり話に付いていけないイーツェンを眺めた。
「ジャフィが船に乗せたのがお前だけだと思っているのか? ほかにも大勢いる。その中に、必ず仲間がいる。アバルトスはそれをあぶり出そうとしたが、うまくいかん」
「私は、ちがいます」
「それは知っている。お前が役に立たないのはジャフィもわかっていた筈だ。だがあの男はお前を私の部屋付きにつけ、目立たせることで、自分の仲間に注意が行かないようにたくらんだ。お前は囮のようなものだろう」
 役に立たなくて悪かったな、とイーツェンは声に出さずに思ったが、顔に出ていた様子で、マリーシが笑った。
「悪く思うな。お前は、ああいう男が手先にするには人の品がよすぎる」
 ほめられたのかごまかされたのか、微妙なところだ。イーツェンがうなずいて流すと、マリーシは真顔に戻った。
「アバルトスはあの男を船上で裁きにかけるつもりだ。ポルトリから証人が来れば、ジャフィが婚姻の話をでっちあげていたとわかるからな。仲間の存在を問い詰められれば、あの男はきっとお前を指す。お前はそれに対して身の証が立つか?」
「‥‥‥」
 イーツェンは黙った。ジャスケの仲間などではないが、船内で何度か声をかけられているし、そもそもジャスケのつてで船に乗り、マリーシの部屋付きとして働いていたのは本当だ。しかも、イーツェンは盗みの罪で鞭打ちまで受けている。
 ジャスケが言いつのれば、イーツェンを罪の道連れにするのは簡単なことだ。アバルトスや船長は、どちらの言うことが本当かなど歯牙にもかけまい。輪つきの奴隷がどうなろうと、彼らが眉ひとつ動かすとは思えない。考えたくないが、もしジャスケを裁けるのなら、彼らはイーツェンの首をたやすく吊るすだろう。
 マリーシはサンダルの爪先でかるく床を叩いた。
「おとなしく船を離れろ」
「‥‥連れも一緒に降ろしてもらえませんか」
 聞きはしたが、マリーシが首を振る前から無理だろうなという気はしていた。マリーシにシゼをつれていく理由はない。しかしイーツェンは食い下がった。
「彼もジャフィの口利きで船に乗ったんです。置いていって、巻きこまれては困る」
「あれの口利きでのった船乗りなど山ほどいる」
 だから面倒なのだとマリーシは手を振り、言いつのろうとするイーツェンを一蹴した。
「お前が一番目立っていた。あの男が引っぱり出すなら、お前だ。とにかく私の付き人として来い、2、3日たったら船に戻してやるから」
 何日も付き合うつもりはなかったが、マリーシの言い方がそれ以上取りつく島のないものだったので、イーツェンは反論しなかった。たしかに、マリーシと一緒に船を離れるしかないようだ。
 問題は、どうやって無事に早く船に戻るかだ。
 マリーシは、イーツェンがすべてを呑みこんだと確信している口調で続けた。
「お前には私の付き添いと部屋付きとして、来てもらう」
「女性の部屋付きは、女性がするべきでは‥‥」
「ポルトリの者は輪付きが男でも女でも気にはせん」
 結局、奴隷は人であるというよりも物に近い。イーツェンは口の中がひどく苦くなった。いくらたっても、物のように扱われることには慣れない。
「リオン」
 いつの間にか考えこんでいたことに気付いて、はっと顔を上げる。マリーシは腕組みしたままイーツェンを見つめていた。
「すべてを見極めるまで、私には信頼できる者が必要だ。ジャフィを排除したところで、ポルトリに仲間がいないとは限らない。彼らが行動を起こすなら数日のうちだ。その間は、何があってもおかしくない」
「‥‥‥」
「お前が来てくれないと困る」
 マリーシの言葉に、イーツェンは驚いていた。彼女に信頼されているなどと思いもしなかった。
 もっともそれは、「少なくとも悪さはしない」程度の信頼であるのかもしれない。イーツェンは人をだましたり傷つけることに慣れていない。それを見極められている気がした。
 マリーシはイーツェンを利用しようとしながら、彼女なりにイーツェンを守ろうともしている。そのことをやけに憂鬱に感じながら、イーツェンには答える言葉が見つからなかった。望むような出口など結局、どこにもないのかもしれない。


 シゼに会いに行こうとしたのだが、あまりに船内で自分の格好が目立ってろくな身動きが取れない。あちこちに人の目があるのだ。イーツェンは自分の荷をまとめるふりをして下層甲板へ降りると、昼寝中のラウを叩き起こして、シゼへの伝言を頼んだ。
 ポンプ係をしている筈だ、と言うとラウはすぐに呑みこんだが、今ひとつ納得できていない様子だった。
「お前ら、知り合いだったのかよ」
「一緒にポルトリで降りようって言ってたんだ。2、3日で船に戻るから心配しないように伝えてほしい。もし、先にポルトリに降りたら──」
 イーツェンが戻るより先にシゼが船から降りて入れ違いになったら、どうすればいいのだろう。
 必死で考えこんだイーツェンへ、ラウが哀れむように助け船を出した。
「蛸蛸って酒場があるよ。そこのオヤジに言づてしな。船乗りは大抵そうしてる」
「変な名前‥‥」
「だからすぐわかるだろ」
 ぺしっと額を平手で叩かれた。それに抗議しながらイーツェンは、この船でラウと出会えたのは幸運だったのだろうと思う。船乗りらしく陽気で、無遠慮で、しかも身勝手だが、ラウといるのは楽しくて、ほとんど友のように感じられる相手だった。
 だがその礼を言葉にする前に、ラウがイーツェンの耳に口をよせ、
「最後の記念にしゃぶってやるよ」
 とか言い出したものだから、感傷的な気持ちも吹きとんだ。イーツェンはラウの脛に容赦ない蹴りを入れて、マリーシの部屋に戻る。戻る途中、彼を探しにきた海兵に首根っこをつかまれ、迎えの船が海上に見えていることを告げられた。


 ポルトリの迎えの船はサヴァーニャ号よりはるかに小さかったが、イーツェンがこれまで見た中で最も大きな手漕ぎ船だった。船内の下層甲板に漕ぎ手がいるのだろう、船の胴から柄の長い櫂が海へつき出され、それが船の両側にずらりと、およそ20本ずつ並んでいる。
 その櫂が寸分たがわず呼吸をそろえて動く様は壮観だった。同じ速度で規則正しく波をかき、しぶきを散らして海面の上に抜き上げられ、船首の方へ回してはふたたび波にさし入れられる。船の両側から突き出した長い櫂が一斉に動いて船が進むその様に、イーツェンは思わず巨大なムカデを連想した。
 サヴァーニャ号の舷側には正装の海兵がぞろりと立ち並び、その威容の中央に、背後で手を組んだアバルトスが立っている。近づいてくる相手の船の甲板には、やはり礼装の、一見すると騎士のような男が仁王立ちになり、まだ距離があるというのによく張った長い声で挨拶の辞を投げてきた。
「大いなる海風と嵐をこえ、海神の守護を得て我らが島によくぞ参られん!」
「このさだめは海が望んだものと見える」
 アバルトスが同じようによく張った独特の声で返す。ユクィルスと違って、キルロイの者も、このポルトリの者たちもあまり格式ばったやりとりは好まないようで、続く互いへの挨拶は短かった。
 船の鐘が鳴りひびく。イーツェンは落ちつかない気持ちでその音を聞いていた。落ちつかないのは、横にいるマリーシのせいもある。船旅すべてを通して平静を保ってきたマリーシは、迎えの船が見えること、そしてその船がマリーシを迎えると旗で合図してきたことを聞くと、その双の目に涙を溜めたのだ。
 今、その顔は、キルロイ名産の鮮紅に染められた長いベールの下に隠れている。
 マリーシは礼装で立つ船長の左腕を取り、2人でよりそって甲板に立ったまま、身じろぎもしていなかった。ベールの裾が海風を含んで踊り上がる、その激しさだけが彼女が心に押しこんでしまった激情をうつしているようだ。
 ポルトリの使者は、まるでキルロイの朱と対をなすような海の青を身にまとい、不思議な紋様を縫い取ったマントを風に翻しながらサヴァーニャ号の甲板に立った。背は少し低く、ずんぐりとして、熊のように頑丈そうな体つきの男だった。軽そうだが美しい紋の入った胸当で上半身を覆っている。彼はポルトリの貴族の名らしきものを述べ、その口上を短くアバルトスに伝えた。
 いくつかの、だがやはり短い儀礼の言葉が交わされると、アバルトスは脇へのく。
「花嫁を迎えに参られよ」
 マリーシの名も、彼女が風読みであることも、身ごもっていることも、交わされる言葉には表れていなかった。使者はうやうやしくマリーシと船長の前に出ると、侍従が持ってきた盆を船長にさし出す。色とりどりの絹が盆の上に積まれている。
 船長はそれを受け取ってから、航海士長に渡すと、マリーシの手を使者に託した。マリーシと使者の手は船長の手の下で握り合わされ、ベールに胸まですっぽり包まれたマリーシは、使者に導かれて船べりへと歩き出す。
 イーツェンは、ベールをまとったままのマリーシが船べりの梯子を軽々と降りていくのを見送りながら、海兵の男たちがそろえた声で祈りの言葉を唱和する、海鳴りのようなひびきにひるんだ。マリーシの身の回りの物が入った小さな袋を肩にかつぎ、彼は船尾へ歩き出す。
 目立たないよう、船尾の舷側に縄ばしごの鉤がかかっていた。船の錨はおりているが、それでも船体はゆるやかな波の動きに合わせて揺れている。海に転げ落ちないよう手すりをしっかりつかみ、よいしょと口の中で呟きながら、イーツェンは体を手すりの外に出して足で梯子を探った。見つけ出した梯子の段を、指の関節が白くなるほど握りしめながら、1段ずつ下へと降りていく。重心が偏るたびに梯子がねじれて、体が振られてしまう。慣れない服が動きにくい。
 波音が近くなってくると、足のすぐ下から底なしの海に呑まれてしまいそうな不安に指がこわばった。下を見たいが、それも怖い。足の下に白い波が泡立って船体にぶつかっているのを見れば、全身がすくんでしまうこともわかっている。
「まあだ途中だぞ!」
 降りる速度が鈍ったのを見たのだろう、下から楽しそうにはやし立てられた。イーツェンは顔をしかめ、胸の内で悪態をつきながら、すぐ背後で櫂が船べりを叩く音を聞くまで梯子を降りつづけた。
「ほら」
 合図でとまった時には、すぐ下に小船が待っていた。船板に立ち上がったラウが手をのばしてイーツェンの肩から荷物を取り、イーツェンをすがりつく梯子から容赦なく引きはがして、船に引きずりこむ。海面がすぐそばまで迫ってくる小船は波にあおられ、左右に大きく揺れていたが、ラウは平然と船に立っていた。
 へたへたと座りこんだイーツェンは、すぐさま木の船べりをつかんだ。小船と言っても10人ほどは楽に乗れそうなものだが、ここまで乗ってきた帆船とあまりに大きさが違いすぎる。海風に波のしぶきを顔に浴びせられてぎょっとしながら見ると、船べりの向こうがもう海なのだ。手をのばせば、海面にふれられるだろう。
 視線を上げると、サヴァーニャ号の船体がまるで目の前にそびえる壁のようだった。木が襞のように折り重なった船体には波しぶきの痕が焼き付くように残り、目を凝らすと、ところどころ白っぽい貝殻や海藻類がへばりついていた。
「しゃんとした格好してんだからしゃんと座れよ」
 そう言うラウは楽しそうで、船底から拾い上げた長い櫂を、両舷の櫂受けにはめこんだ。船首に座る水夫がちらっと振り向き、日焼けした顔でにっと白い歯をむき出しにする。
 イーツェンはラウをにらんだ。すぐ背後にアバルトスの海兵の1人が座っているので、声を抑える。
「前の船に引っぱってもらうんじゃないの?」
 ポルトリから来た船の船尾と、この小船の船首はロープでつながれている。曳航してもらうのにどうして櫂が必要なのかと思うが、ラウは哀れむような目でイーツェンを見た。
「どうやって回頭すんだよ。頭引き回されたら転覆すんだろ。停まれねえし」
「‥‥‥」
 一言もない。
 イーツェンはシゼへの伝言のことをラウに聞きたくて仕方ないのだが、後ろに座る海兵が気になって、勝手な会話ははばかられた。海兵の中でもひときわ位の高そうな男で、深朱のふちのついた濃灰の上着をまとい、胸にキルロイ五座のひとつ、名門フェゼリス家の紋の入った紋章帯をつけている。どうやら騎士のようだ。
 イーツェンは、自分が今まで乗ってきた船を見上げた。旅のはじめ、ジャスケも自分のことを「フェゼリス家の名代だ」と言ってフェゼリスの紋をつけていた。だが今、舷側に立つ見送りの人々の中にそのジャスケの姿はない。
 ポルトリの使者に陸へ招かれたアバルトスは、「明日参上する」と断った。「本日は船で片付けねばならない用がありまして」と言ったアバルトスの声音には、ひどくつめたい刃があった。
 ジャスケはどうなるのだろう。どうなろうとかまわないが、気にはなる。思えばおかしな縁だった。あの男のおかげでこうしてポルトリにまで来られたのだが、今ひとつ感謝する気にはなれず、イーツェンは前に停まっているポルトリの迎えの船に視線を向けた。イーツェンたちの小船からは見上げるしかない高さの船で、こうして後ろから見ると、船の両側にずらりと並んだ長い櫂が余計に不気味だった。
 錨を巻き上げる音がひびく。冬なのにやけに上から照る陽が白く、強い気がする。だが頬にあたる濡れた海風はつめたい。
 イーツェンは不意に喉までこみあげてきた大きな不安の塊を呑みくだそうとした。全身の肌がざわついて、指の爪先まで寒気がひろがる。
 1人で船を降りることになるなどと思ってもいなかった。それが不安でたまらない。
 錨を上げる音がとまり、ポルトリの船が大きな銅鑼の音を鳴らす。船の中からおそらく漕ぎ手たちのものだろう、声をそろえた掛け声が上がり、櫂が一斉に海面から引き上げられ、そろって海水の粒を巻き上げた。
 頭上でサヴァーニャ号の鐘も鳴りひびく。どこかぼんやりした気分で見上げたイーツェンは、いつのまにかサヴァーニャの舷側に水夫たちが鈴なりになっているのを見て仰天した。マリーシを迎える儀の間は禁足がかかっていた様子で、水夫たちは誰も甲板に顔を出していなかったのに。
 アバルトスと船長のそばにはさすがによらないが、手すりにぎっしりとつめかけた水夫たちの中には船猿たちの顔もある。皆が歯を見せて笑い、はやしたてる後ろから甲板長が「半分は逆へ戻れ!」と怒鳴るのが聞こえて、イーツェンは笑ってしまった。いや、船が傾くのは笑いごとでも何でもないが、船乗りたちの陽気さがもうなつかしい。
 彼らは口々に祝福の歌をがなりたて、肩を組んで、今にも踊り出さんばかりに見えた。マリーシの正体、そして婚姻についてどう知っているのかはわからないが、船乗りたちはとにかく花嫁を誇らしく船から送り出そうとしている。何の屈託もない。
 がくんと体が後ろにつんのめって、あわててイーツェンは体勢を戻した。前の船が海上を滑り出し、ロープで引かれた小船が波の間で大きく上下する。進行方向に背を向けて座っているラウが肩ごしに舳先をにらみながら、左右の櫂を上手に使って船のバランスを取った。そう言えば、初めて出会った時も、ラウは船と港をつなぐ小船を操っていた。
 鐘の音と船乗りのだみ声が、頭上を動いていく。どよもすような歓声がひときわ高くひびきわたり、顔を上げたイーツェンはポルトリの船の舷側に立つマリーシの姿を見た。角度が悪いので船体に遮られてよく見えないが、赤いベールでそれとわかる。マリーシの頭から胸元までを包んだ赤いベールは、炎のように揺れていた。
 次の瞬間、マリーシがそのベールをつかんで頭から引きはがした。陽に顔をさらし、頭上で1回ベールを振って、海風の中に手放す。波を圧するような歓声の中、燃えるように鮮やかなベールは風に巻き上げられて宙で踊り、サヴァーニャ号の方へ流されて、波へ落ちた。
 数十の櫂が同時に波へ入り、同時に波を切る。船の速度は上がり、イーツェンは船べりにしっかりと指をかけながら、遠ざかるサヴァーニャ号に並ぶ水夫たちの顔を見上げた。
 誰もがマリーシの方を見ている中、まっすぐにイーツェンだけを見ている顔があった。
 腕を振り上げて騒ぐ男たちの中で、シゼはおだやかな表情で手すりに肘をかけてイーツェンを見おろしていた。息をつめ、遠ざかっていくその姿を見つめながら、イーツェンは不意に耳の底に鳴るシゼの声を聞く。
 ──あなたはとにかくポルトリに降りて下さい。
 何が起こっても、イーツェンはただリグを目指すことだけを考えろと、シゼは言ったのだ。出港の前に、イーツェンにそれを約束させようとした。それはまるで、離れることを予感していたような物言いだった。
 指先までちりりと凍るような痺れが走った。船との距離はあっという間にひらき、シゼの姿はすでに周囲の人垣に埋もれて見分けられない。だがイーツェンはいつまでも船から視線を離すことができなかった。