ラウは、カナバのことについてそれきり何も口にしなかった。イーツェンも聞かなかった。カナバの死の痛みは、ラウが自分で向き合わねばならないものだ。特に、彼が船猿としてこのまま船で生きていくのなら。
下層甲板の隅には、カナバがいつも横たわっていた小さな空間がぽっかりと口をあけていた。誰もそこで眠りたがらず、避けて、語ることもない。皆が示し合わせて、カナバをなかった存在にしようとしているようだ。柱の影にある小さな隙間だけが、そこに誰かがいたことを無言で物語りつづけていた。
きっといつかそれもなくなり、ラウの心の中にだけ、永遠に隙間が残っていくのだろう。
だがそれでも、痛みはいつか薄らぐ。イーツェンはそれを知っていた。今はどれほど耐えがたくとも、いつの日か。
その日はきわめて平穏にすぎた。朝から調理場の床に水を流して溜まった油や野菜くずをこそげ落とし、掃除が終わると、樽につめてあった塩漬け肉に湧いた虫を取り除く。塩の量が少なかったのか、肉の干しが足りずに水分が出てきたのか、いくつかの樽の肉に白い虫が湧いている。長旅になるとそいつもご馳走になるんだ、とホードは冗談でもなさそうに言った。
イーツェンは溜息をつきながら、うようよとうごめく虫を肉の間から払ったり引き抜いたりして、多少ましになった肉を、湯がぐらぐら湧いた鍋に放りこんだ。今日は肉がふるまわれる日だ。誰かは虫付きの肉に当たるだろうが、船乗りなら慣れたものだろう。
鍋の上には虫と入りまじって分厚い獣脂の膜が浮き、肉の匂いが調理場にたちこめる。今日は寒い日で、その温かさを求めて何人もの水夫が炉を囲みにやってきては、包丁を振りかざしたホードに「邪魔だ」と追い払われていた。
やがて風が強くなったらしく、船が幾度か転針し、当番以外の水夫たちも鐘で呼ばれて甲板へ上がっていった。
いい風だといいな、と思いながらイーツェンは上級船員の小さな食堂に昼食を運び、そこで博打に興じている酔っ払いの1人にしつこくからまれた。上級船員だけに邪険にもできず、困っていると、通りかかった雑用係に足を払われて持っていた空皿ごとけたたましく転んでしまった。
「何やってんだ、ボケ」
雑用係が悪態をついてイーツェンの首根をつかみ、引きずり上げる。乱暴に戸口へ押しやられて、イーツェンは足をもつれさせた。
「とっとと失せろ」
背後から罵声を浴びせられ、追い出される。酒と汗の饐えた匂いがする食堂から慌てて出ていきながら、イーツェンはほっと息をついた。あの雑用係の顔は知っている。嵐の番、医者を手伝っていたイーツェンが怪我の手当てをした男だ。肩をくじいたのだが、イーツェンが格別何をしたでもないのに、手を強く握って礼を言っていた。
今日助けてもらったのは、イーツェンの方だ。礼を伝えたかったが、目配せひとつでも周りに見とがめられそうだったので振り向くのは我慢した。船の上では色々あるが、こんな小さな助け合いもあちこちに転がっている。それがラウの言う「仲間」というものなのかもしれなかった。
午後には、またアバルトスがマリーシの部屋を訪れ、追い出されたイーツェンは下層甲板に戻りながら、アバルトスは一体誰に別れを言いに来ているのだろうと思った。マリーシにか、それとも腹の子にか。
昨日、アバルトスが部屋を訪れるまで、イーツェンは彼とマリーシの間にある緊張の正体に気付かなかった。だが、それはずっとそこにあったのだ。2人の視線や仕種、時に相手を苛立たせるために吐いているかのようなするどい言葉の裏に。
恋人を、他の男へ嫁がせるために護送していくというのは、どんな気持ちのものなのだろうか──
どうにかして彼らが一緒になる道はなかったのだろうかとも思うが、立場や地位が邪魔をしたのかもしれないし、人の心には色々な形がある。運命はままならないものだ。
考えながら歩いていたので、水夫から呼びとめられていることにしばらく気付かなかった。船猿の、顔しか知らない相手が「わっか!」と大声でイーツェンを怒鳴ると、昼食の肉の匂いが漂う息で言った。
「ジャフィとかいう商人が、部屋に来いってさ」
「今、忙しい」
反射的に嘘をついて、イーツェンは早足で調理場に戻った。ジャスケはマリーシに関する情報をほしがっているのだろうが、渡せるものは何もない。マリーシを裏切る気はなかった。
この航海の間でマリーシに親しんだということもあるが、今やマリーシやアバルトスの側についたほうがより確実にポルトリにたどりつけるだろうという判断も、イーツェンにはあった。彼らの方が、船では力がある。
もしイーツェンがジャスケに情報を売り渡していると思えば、マリーシもアバルトスも容赦しないだろう。ジャスケを無視すると後が怖そうだが、言われるまま会いに行くのも怖い。航海が終わるまで、とにかく避けられるだけ避けるしかあるまい。あと何日もない筈だ。
──剣はどうにかして取り戻さないと。
調理場で手仕事を探しながら、イーツェンはジャスケに預けたシゼの剣のことを考え、顔をしかめた。預かり証はあるが、それが力を持っている内に引き換えにする必要がある。証人として預かり証に名を記したマリーシは、どれだけ後ろ盾になってくれるのだろう。
嵐で一時は航路をそれたが、後の航海は順調で、船はもうじきポルトリにつく。そう水夫に聞いたせいでもう半分到着したような気になりながら、イーツェンはあれこれと考えをめぐらせた。湿っぽくない毛布にくるまって揺れない寝床で眠りたいし、こびりついた船の匂いや垢を風呂で落としたい。饐えた匂いのする古い水ではなく、あたたかい茶や香りのいいスープが飲みたい。
とりとめなく考えを広げながら小さな石の刃を研いでいると、調理場の入り口から誰かが入ってきた。通路からの音がさえぎられ、煉瓦の壁に影が動くのでわかる。
水場から振り向いたイーツェンは、そこにシゼの姿を見て、思わず立ち上がった。
シゼはひどく疲れているように見えた。嵐で受けた船体の損傷のうち、ひどい水漏れはどうにか船大工が直したらしいが、今でも昼夜問わずポンプでの水の汲み上げ作業が続いている。新米の船乗りが担当に付けられるポンプ仕事は過酷なものだと聞いて、イーツェンはシゼを心配していた。
すっかり汚れてくたびれた服をまとい、珍しいほど気怠げに、シゼは炉のそばまで歩いてくると、火にかかっている大鍋へ目をやった。夕食用の、豆と芋を煮た上に大麦を放りこんでどろどろの粥にした代物である。お世辞にもうまそうとは言えない。
「まだもうちょっと煮るけど」
我ながらどうでもいいことを言い、イーツェンはさらにどうでもいいことをつけ加えた。
「今日は茸も入るよ」
後で、乾燥茸を入れる予定である。
シゼはイーツェンの言葉をやけに重々しい顔で聞いていた。その顔を、炉の火と柱に架かった油燭の灯りの中で、イーツェンはしみじみと眺める。よく知っている顔の筈なのに、時おりシゼの顔はそれまで見せたことのない陰影を見せて、彼をはっとさせた。今もまた、少し痩せたのか、頬から顎にかけて削いだようなするどい線が見える。イーツェン自身もそうだが、甲板の海風と制限された飲み水の少なさで唇は乾き、塩気の多い食事のせいで表面が荒れていた。ついその口元をじっと見ていると、シゼがきまり悪そうに身じろいだ。
ホードは足が痛む様子で船医のところへ出向いているので、調理場には彼ら2人だけだ。だが、シゼの背後の通路は時おり水夫たちが行き来する。
イーツェンは炉の鍋の様子をたしかめてから、シゼの手首をつかんだ。近づくと、シゼの服にあちこち汚水の染みがあるのがわかる。船底に溜まる臭水の匂いがむっと鼻をついて、イーツェンはシゼが気の毒になりながら、つかんだ手を引いた。
「こっち」
調理場を出たところでさすがに手を離し、船倉へ向かって歩き出す。いかにも手伝いをつれているように堂々と下層甲板を歩き、ロープで区切られた船荷の間へ分け入った。樽を動かすのに人手を借りたりすることはあるので、水夫と一緒に荷の奥へ行くのはそれほど珍しいことではない。
そう自分に言い聞かせながら、何故かやたらと後ろめたい気持ちを押し殺して、イーツェンは暗い樽の奥へ入っていくと、外から見えないのを確かめてその場へしゃがみこんだ。後ろをついてきていたシゼもしゃがみこむ。
「早ければ、1、2日でポルトリが見えてくるという話ですよ」
「うん。聞いた」
ほとんど暗闇に近い中で、樽の後ろにかがんで、2人は顔をよせあわせながらぼそぼそと言葉を交わした。
「手は大丈夫ですか?」
「うん」
イーツェンはうなずく。シゼの低い問いを聞いていると、体と気持ちの緊張がほどけて、我知らず肩に入っていた力が抜ける。だが、火の番を離れたのがばれるとホードから大目玉を食うので、あまりここでゆっくり隠れてもいられない。隠れていたいのは山々だが。
鼻がふれるほどシゼに近づくと、船や、ロープに染みこんだ油や、船底の悪水の匂いの向こうに、鉄と土の入りまじったようなシゼ独特の匂いがした。イーツェンはシゼの首すじに顔を押しつけて大きく息を吸いこみながら、両腕をシゼの背中へ回す。船底のつめたい空気の中でシゼの肌も冷えていたが、こうして体をふれあわせると不思議なほどあたたかい。
力強い体によりかかったイーツェンの背を、シゼの腕がかかえこんだ。
「どうかしましたか?」
心配そうな声が耳元で囁く。イーツェンはシゼの背に両腕でしがみつきながら、呟いた。
「どうかしてなきゃ駄目か?」
「‥‥イーツェン」
「お前がそばにいないと、淋しい」
ぽつりと本音をこぼして、目をとじる。淋しいというのも本当は少し違う。あるべきものが欠けてしまったような、どこかにうずめられない隙間があいているような、空虚さがいつも抜けない。
シゼの指がイーツェンのこめかみあたりをなでた。体を離そうとする。
「匂いが移る」
「誰も気にしないよ」
イーツェンはシゼの首すじに顔をうずめて、肌の温度をたしかめながら、くぐもった声で答えた。どうせ船内も水夫も色々な匂いが染みついているし、イーツェンだって汗やら旅の汚れやらでもう自分の匂いになどかまっていられない。
背中に回っていたシゼの腕から緊張が抜け、彼は何も言わずにイーツェンを抱きしめた。4日前の嵐の日の濃密な記憶が肌のすぐ下でうごめいて、肌全体がざわっとした熱を帯びる。シゼの髪に指をさし入れ、顔を傾けて、イーツェンは闇の中でシゼの唇を探した。
シゼの手がイーツェンの首の後ろにすべりこんで、首の輪にふれないようにしながら頭を支え、ためらいのない唇がイーツェンの唇を覆う。どちらの唇も船の暮らしで荒れて乾いていたが、ひらいた唇からすべりこんできた舌はひどく熱かった。
舌と舌が絡み合うざらついた感触に、イーツェンは呻きを殺した。シゼの舌の熱が、生々しいほど体の芯に染みこんでくる。
シゼに主導権をゆだね、イーツェンはくちづけに身を預けた。シゼの唇は荒々しいほどだったが、つたわってくる情熱はあたたかで、やさしい。せきたてられるように互いを確かめあいながら、イーツェンは故郷を離れてからほとんど感じたことのない深い安堵と、幸福感に満たされる。
シゼから離れている間、何よりも恋しかったのはこの絆だった。シゼとつながっていると感じられる、深い絆。こうしてふれていると体中が飢えたようにそれを求めるのがわかる。この絆がイーツェンをつなぎとめ、支えつづけて、ここまで彼をつれてきたのだ。
濃密な一瞬の中で、シゼもイーツェンと同じほどにくちづけに没頭している様子だった。舌と唇で互いを愛撫し、もっと深い熱を求めながらくちづけを深める。シゼの舌の貪欲な動きが生々しく口腔を這って、イーツェンの背すじをやわらかな痺れが抜けた。
戻らなければならないのは頭のすみでわかっていたが、離れがたい。シゼの背に手のひらを這わせて、締まった背中の筋肉をなぞりながら、力がこもった筋肉の動きを指先で確かめた。シゼの息が2人の唇の間からこぼれて、イーツェンの荒い息と重なる。
もっとシゼに近づきたかった。もっと、重なった肌がどちらのものかわからなくなるくらい、どちらの息なのか、どちらの鼓動なのかわからなくなるほど近く。
周囲で荷がきしみ、シゼが顔を上げた。イーツェンも溜息をつきながら顔を離し、それからもう1度体を預けてシゼの下唇を舐めた。シゼの湿った息が唇にかかる。
シゼの指の背が、イーツェンの顎から頬へとゆっくりとなぞりあげた。いつもの犬でもなでるような手つきではなく、ゆっくりと確かめるような指の動きに、イーツェンの荒い鼓動がさらに早くなる。ただ頬をなでられただけなのに、闇の中でその指はひどく淫靡に感じられた。
「もう少しだ」
ふいにイーツェンを引きよせ、両腕でかかえこみ、シゼが耳元にくぐもった声で囁いた。指先がイーツェンの首の後ろにすべりこみ、つめたい金属の輪をなでる。
「もう少し、頑張れ」
目の裏が熱くなって、イーツェンは目をとじ、シゼの肩口に額をうずめた。
「うん」
しばらくそのまま、2人は暗闇の中でただ身をよせあわせていた。
やがて、またシゼが呟く。
「イーツェン。マリーシは信頼できる相手ですか?」
「悪い相手ではないよ。どうしてだ?」
シゼに預けていた体を起こし、言葉を交わしやすいよう顔を近づけたまま、イーツェンは囁き返した。
「ジャスケに対して、あなたを守ってくれそうですか」
何故そんなことを聞くのか。嫌な予感がこみあげたが、聞き返す前に、イーツェンは問いへの答えを考えこんだ。
「簡単に見捨てはしないと思うが、私情を入れてまでは肩入れしてくれないと思う。どうした?」
「あなたはどちらにつきますか?」
「──ジャスケに何を言われた、シゼ」
腹の底に怒りがふつふつと動く。ジャスケが近づいてこないのを安心していたが、あの男はシゼの方に何かの圧力をかけにきたのだろうか。
シゼははっきりと答えない。襟首つかんでしゃべらせられればそうしたいが、まず無理なことはわかっている。イーツェンは考えを必死でめぐらせた。
ジャスケに、イーツェンやシゼを脅す決定的な力はない筈だ。彼はイーツェンの正体も、ユクィルスに追われているということも知らない。シゼがジャスケの殺した男の死体を隠す手助けをしたことはあるが、ここでそれがジャスケの使える手札になるとも思えない。
ただ、ジャスケがイーツェンをマリーシへの間者として──イーツェンが承知していなくとも──送りこんだ形になっているのは確かで、それをジャスケに持ち出されると、風向きがあやうくなりかねない。イーツェン自身はジャスケに協力しているわけではないが、今となってはマリーシの事情を少し知りすぎている。ジャスケがうまく水を向ければ、マリーシはまた彼を疑うかもしれなかった。
そして、アバルトスはマリーシを守るためなら何でもするだろう。むしろイーツェンにとってはマリーシよりアバルトスが怖い。
マリーシが女で風読みだと言うだけでなく、腹に子供がいることや、その父親がアバルトスであることまで知っているとわかれば、下手をすればアバルトスはイーツェンの口をふさぎにかかるかもしれない。
じっと考えこんでいた時、いきなり足に生暖かな毛むくじゃらが押しつけられ、イーツェンは仰天してとびあがった。勢い余って箱荷にぶつかる彼をシゼが抱きとめる。
「むぎゃあ」
蹴り払われて怒りの声を上げた猫を見おろし、イーツェンは心臓が飛び出しそうな喉元を押さえた。猫は慣れた動きでひょいひょいと樽をのぼっていく。
「びっくりした‥‥」
呆然と呟くと、シゼがかすかに笑いの息をこぼして、イーツェンの頬をなでた。その声も手もやさしかった。
「もう、戻らないと」
「私はマリーシにつく」
シゼの手をつかんで、イーツェンは囁いた。シゼはジャスケのことをイーツェンに相談しに来たのだ。イーツェンの結論を知らせないと、彼の身動きが取れない。
「わかった」
シゼは理由を問おうともせず短くうなずくと、イーツェンの手を握り返してから離した。イーツェンは立ち去る前にあたりを見回したが、もう毛玉はどこにも見えない。
樽の間を歩いて戻りながら、低く言った。
「ジャスケには強気で構えろ。色々言うだろうが、あの男も船の上では身動きが取れない」
シゼはもうそれには答えず、イーツェンを追いこして区切りの縄をくぐり、上の甲板へ続く梯子へと歩いていった。イーツェンも少し遅れてその後ろを追いながら、調理場へ戻ろうとする途中でふと首すじにちりりとした違和感を覚える。顔を回すと、下層甲板の一角で仮眠をとっていた筈のラウが頭を上げて彼らを見ていた。
イーツェンはラウにうなずいてから調理場へ戻り、鍋の様子を確認して、石刃を研ぐ作業に戻った。ついでに、その小さな砥石を使って自分の食事用の短剣も研ぐ。しっかり握るのも難しいやわな持ち手と、手にすっぽりおさまるほどの小さな刃だが、こんな刃でも研いでおけば何かの役に立つかもしれない。
やわらかい刃を注意深く研いで先端をとがらせながら、イーツェンはジャスケの目的を考えた。イーツェンをマリーシの部屋係に押し込んでのけたことを見ても、ジャスケはこの航海やマリーシの婚姻に一枚噛んでいる筈だ。マリーシの正体を隠して乗船の手配をするためにジャスケの名が必要だったのではないかと、イーツェンは推測していた。キルロイの王や有力者に隠した航海ならば、アバルトスの名も使えない。
だが、ジャスケの目的は必ずしもマリーシたちの目的とは一致していない。どちらもそれを知りながら、相手を利用しようとしている様子だった。
航海が始まって3日目、正体の分からない船がこのサヴァーニャ号を追ってきた。護衛の船がそれを阻んだが、マリーシによればあの船は風読みの──マリーシの──身柄を奪うための船で、あの船を誘導するためにサヴァーニャ号の船尾に何者かが灯りを吊るしていたと言う。マリーシは、それもジャスケの仕業と見ているようであった。
ジャスケは誰かのために、風読みの身柄を手に入れようとしているのだろうか。そのためにキルロイの貴族に取り入り、様々な手配をしたのだろうか? だが、こころみは失敗した。
ならば今、彼は目的を果たすために何をするだろう。イーツェンに何を望むだろう。あの1度の襲撃だけにすべてを賭けるような男には見えない。もっと抜け目なく、こんな時のための計画を立てている筈だ。
そもそも、あの男は何者なのだろう。商人の顔をしてはいるが、本当に商人なのだろうか。それとも風読みの身柄すら彼にとって「商品」だということなのだろうか。
研いだ短剣の刃に、こっそりと貴重な真水をかけて砥石の粉を洗い流し、イーツェンはにぶい光が刃の上に溜まるのをじっと眺めた。ジャスケが何者であるとか、何が狙いであるとかは関係ない。ここまできて、あの男にも誰にも邪魔はさせない、ただそれだけだ。
翌日、イーツェンは朝の身支度の水をマリーシの部屋へ持っていくと、前の日にジャスケに呼ばれたことを伝えた。行かなかったことも。
「ああ、アバルトスの周りもうろうろしているらしい」
マリーシは香りのする枝を噛んで口をすすぎながら、うなずいた。イーツェンに櫛を手渡す。イーツェンが背後に回って髪に木の櫛を通しはじめると、彼女は声を低めた。
「あの男はこの5、6年、キルロイ近辺で商売をしながら、貴族の便利な手足になっていてな。いつも1人で動いているが、あちこちの国に通じた仲間がいる。どこかの手先だろうが、どこの手先か誰も知らん」
「間諜と言うことですか」
「いや。自分が名乗るように、商人かもしれん。ただ、何でも売り、何でも買う──物であろうと、情報であろうと。そういう商人の群れもいる」
イーツェンが長い髪の細かなもつれを取る間、マリーシは櫛が引く方へ軽く首を傾けた。
言葉と裏腹に、マリーシの言い方からは、ジャスケの正体について大体の見当がついているかのような余裕が感じられた。ふいにマリーシが頭だけで振り仰ぐと、立っているイーツェンをちょいちょいと手で招き、耳を近くに寄せるよう命じる。イーツェンの耳元に囁いた。
「ポルトリの貴族と風読みの婚姻をこっそり取り結んだのもあの男だが、この話は大掛かりな詐欺ではないかと疑う向きもあってな」
「詐欺?」
仰天したイーツェンは、マリーシを無躾にまじまじ見つめた。マリーシは薄い微笑を口元に溜め、うなずく。
「本当にポルトリの有力者と結婚の話が進んでいるとは、限らないということだ。風読みの身柄を騙し取るために仕掛けられた芝居の可能性がある」
「‥‥‥」
もしマリーシがポルトリについたとして、無駄足になると言うことだろうか。とんでもないことを言っている割に、マリーシには動揺のかけらも見えない。イーツェンが言葉を見つける前に、彼女はおだやかな口調で続けた。
「ジャフィに会ったら、その話をしてみろ。こちらが疑っていると。私とアバルトスの会話を耳にはさんだとでも言って」
「‥‥会いたくないんですが」
助け船なのかけしかけられているのか、それともこれは命令なのか、イーツェンは用心深くマリーシをうかがいながら返事をする。空気が重くならないよう、にっこり笑って、櫛を飾り箱へ片付けた。
「会って楽しい相手ではないもので」
「利口だな」
マリーシも笑ってうなずき、イーツェンがほっとしたことに、それ以上強く押そうとはしなかった。
彼らの間にはさまれたくはない。だがいざとなったらマリーシに守ってもらうだけの足掛かりは作っておかないとならない。中立にいられると思っていたのが間違いで、もしかしたらはじめからマリーシの側についていた方が話が楽だったのかもしれないが、今となってはもう遅い。イーツェンはあれこれ考えをめぐらしながら、ポルトリが近いと思ってゆるみかかっていた気持ちを引き締めた。
無事ポルトリへ降り、そしてジャスケやマリーシたちともきっちり離れる。そこまでは、何があっても頑張り抜かねばならない。
(もう少し、頑張れ)
シゼの囁きを思い出しながら、肺に大きく息を吸いこむ。あと少し。だがその少しが、きっと、思っているよりも難しいのだ。
そう覚悟していても、午後になって、甲板で洗った汚れ物をかかえて中甲板を歩いている目の前にジャスケが現れた時には、イーツェンは心の底からげんなりした。
だが、ジャスケは予期したようにイーツェンをどこか話ができる場所につれて行こうとはせず、すれ違いざまに肩に手をかけて足をとめさせると、イーツェンに上機嫌な笑みを向けた。
「よく働いているようだな」
「‥‥ありがとうございます」
驚きを覆い隠して、イーツェンは一礼する。ジャスケはまだイーツェンの肩に指をくいこませたまま、打ち明け話でもするように顔を近づけて囁いた。いつもの奇妙に慇懃な抑揚はなく、訛りのかけらもないのが不気味でもあった。
「ポルトリで仕事を頼まれてくれれば、礼ははずむ。風向きがいいようならここを訪ねてくれ」
イーツェンの帯と服の間に紙の切れ端をさしこんで、ジャスケはそのまま去っていく。イーツェンは当惑したまま、少しの間丸っこい後ろ姿を見送った。周囲を通る人目も多い通路で、何故ジャスケがわざわざイーツェンを呼びとめて思わせぶりな態度を取ったのか、まるで理解できなかった。
──何かの脅しだろうか。
だが脅すならもっと色々言ってきそうな気がする。
意図が読めないまま、考えこみながら暗い下層へ降りたところで、今度は当番帰りのラウに腕をつかまれた。調理場の横の壁のへこみにイーツェンをひっぱりこみ──半分以上体が通路にはみ出しているが──と、ラウまで声をひそめる。
「リオン。脅されてんのか?」
「え?」
ぎょっとして、イーツェンはラウの心配そうな顔をまじまじと見つめ返した。ジャスケとのやり取りを見ていたのだろうか、事情を知らないものが見て「脅されている」と思うほど、剣呑な空気を漂わせていたつもりはないのだが。
「奥までつれこまれて、何かされてたんじゃねえのか?」
「‥‥奥?」
「昨日──」
そう言われて、やっとイーツェンは昨日のことを思い出した。シゼと一緒に船倉へ行ったのを、ラウが見ていたのだ。
昨日はあの後、ラウの当番とイーツェンの時間が合わなくてろくに話をする時間もなく、先に眠っていたイーツェンの毛布にラウが夜中にもぐりこんできたくらいの記憶しかない。だがイーツェンにこうしてつめよる顔を見ると、ラウは昨日からずっと、言いたいことを引きずっていたらしい。
思わず長い溜息をつくと、ラウは誤解を深めた様子で眉根をきつくした。
「やっぱりそうなのか?」
「ちがうよ」
ぶっきらぼうに否定してから、これではラウにも悪いと、イーツェンは説明をつけ加えた。
「樽の間に噛んでた縄を取ってもらうのに手を借りたんだよ。別に、何もない」
ラウはまだ疑う目をしている。
「すげえ困ってた顔してただろ」
「そう? 頭痛かったからかな。猫がいきなり出てきてびっくりして、荷物に頭打っちゃって」
事実を混ぜながら嘘をつき、イーツェンは内心溜息をついた。深刻そうに見えたとしたら、それはジャスケのことをどうするべきか考えあぐねていたせいだ。
まだ納得していない様子のラウの腕を、ぼろ布を抱えた手でこづいた。
「心配ないよ、大丈夫。困ったことがあったら相談するから」
「お前さ──」
ラウは何か言いたげなまま、だが船の装具のことで仲間に呼ばれて、そちらへ小走りに去った。ほっとしたイーツェンは調理場へ戻り、洗ってきた布を棒にかけて壁の鉤に渡す。
昨日の昼食に肉を煮た時、上に浮いてきた脂を別の鍋にすくっておいたのだが、一晩たってその中では冷えた脂の塊が分離していた。白っぽい塊をすくいとって、脂用の壺に移しながら、イーツェンはマリーシの言ったことを考えた。
結婚話が大掛かりな詐欺ではないかと言いながら、マリーシはそのことを心配しているようではなかった。ジャスケに聞かせるための作り話なのだろうか? だが実際、いかにもジャスケがやりそうなことではある。
しゃがんで作業をしている足元に、がさっと何かが落ちて、イーツェンは反射的にそれを拾い上げた。ジャスケがよこした紙だ。帯に差しこまれたのをやっと思い出して、脂のついた指先で広げて見る。薄く添いだ皮紙を細く切ったもので、青い石を砕いた高価なインクで短い言葉が綴ってあった。神殿通りのアビナ、と。ポルトリについたらここに行けということか。
イーツェンが本当にジャスケの申し出を受けるとでも思っているのか、ジャスケの意図が読めないまま、イーツェンはそれを小さくたたんでしまいこみ、ホードに怒られる前に仕事に戻った。この紙を使う気はないが、もしかしたらマリーシたちがジャスケの正体を探る役に立つかもしれない。
ラウと身をよせあって眠っても、その晩は妙に冷えて、イーツェンは何度か目をさました。船底のひえびえとした空気に慣れたつもりでいても、よどんだ空気の湿り気が体温を奪っていく。それに、首の輪が肌にはりつくほどに冷たくて、内側に輪が縮んでくいこんでくるような錯覚をおこすほどだった。
「‥‥リオン?」
毛布を首の上まで引き上げようとしていると、イーツェンの肩口に頬をのせているラウが眠そうに呟いた。
「どうかしたか?」
「ごめん、何でもない」
水音や船体のきしむ音、周囲のいびきの中で、イーツェンは声をひそめて囁き返した。揺れがいつもより大きく、時おり体が左右にごろりと倒れるほどだが、もうそれにも慣れた。ラウと互いの体に腕を乗せて体勢を安定させながら、腹の底に居座る寒さを無視して眠ろうとする。
「‥‥リオン」
耳元にやわらかな息がくぐもった。イーツェンはラウの脇腹に乗せた手でポンと叩いて、聞こえているとつたえる。
少しの間、ラウは何も言わなかった。眠ったのかと思った頃、また小さな声が聞こえる。
「俺さ、元々は陸地の生まれなんだ」
「‥‥うん」
「3つの時に親が死んで、港の女会に引き取られた。皆は覚えてないと思ってるけど、ほんとは俺、まだ覚えてるんだ。港に来る前、何て呼ばれてたか」
イーツェンは薄く目をあけた。自分の鼻も見えないほどの闇でラウの表情はわからないが、よりそった彼の体はやわらかで、緊張や悲しみは伝わってこなかった。
奴隷はしばしば、主人が変わると名前を変えられる。あからさまに所有の力を示すためだ。船猿も、前の暮らしとは別の名で呼ばれるようになるのだろうか。
「それがラウの本当の名前?」
ラウはぼそぼそと呟く。
「自分の名前って気は、もうあんまりしないけどさ」
そう言いながら、彼は幼い頃に親が呼んでいたその名を、今でも胸の奥にしまって忘れていないのだ。
「何て名前?」
小さく姿勢を変えてラウに向きながらイーツェンが何気なくたずねると、ラウはイーツェンの体に長く腕を回し、聞き返してきた。
「お前の名前は?」
闇の中で、イーツェンはまばたきだけをくり返して、咄嗟の返事ができない。沈黙の向こうで、ラウが小さく笑う息をこぼした。
「とりかえっこなら教えてやるよ」
いつからリオンという名を偽名だと思っていたのか、どうしてわかったのか、困惑したイーツェンが聞けないでいるうちに、ラウはイーツェンの体を左腕でかかえこんで安らかな寝息をたてはじめた。
翌朝、朝の鐘で起き、顔を洗いに上甲板へ出たイーツェンが見たのは、右舷の手すりにもたれて波の向こうへ口々に歓声を上げている船乗りたちの姿だった。
彼らの視線の先には、海上に散る黒い点のようないくつもの船影と、その向こうの水平線から浮き上がる、今はまだ小さな陸の影があった。
「女だ!」
「酒だ!」
はしゃいで半ば踊り出さんばかりの男たちの後ろで、イーツェンはただ揺れる甲板に立ち尽くしていた。
あれが、ポルトリ──彼らの目的地なのだろうか。
目を離せば消えてしまいそうな波の上の影を見つめて、それが幻ではないと確かめるまで、彼はそこから1歩も動くことができなかった。