翌朝、何とか起き出したものの、全身にこわばりが残り、何より右拳か痛んで使い物にならないイーツェンをホードは強く罵った。しまいに早口の罵倒を吐き散らしながらイーツェンを水場へ引きずっていくと、ホードはイーツェンの右手を海水の樽につっこんだ。
 皮膚の剥けた関節の背に塩水がぎりぎりとしみて、イーツェンは短い悲鳴を上げた。
「小娘みてぇに騒ぐな」
 うなるようにイーツェンを一喝し、ホードは細く裂いた布をイーツェンの拳に巻いた。きつく結ばれて、イーツェンは今度は何とか悲鳴を殺す。
 手当てを手早く終えると、ホードは元のように調理台の前に立った。
「さっさと豆のさやを剥け」
 肩ごしにイーツェンへ包丁を突きつけ、吐き捨てる。イーツェンは小汚い布の包帯に巻かれた右手を何回か握ってみてから、言われた仕事にとりかかった。


 拳を見れば何があったのかわかっただろうが、ホードは誰を殴ったのかイーツェンに聞きもしなかった。ただいつものようにイーツェンをこき使っただけだ。容赦ないが、イーツェンは何故かほっとしながら仕事に集中した。
 誰かが甲板で大物の魚を釣り上げたらしく、腕に余るほど太った魚が運びこまれて、イーツェンは仰天した。魚のあいた口にはイーツェンの腕も入りそうだ。
 口のとがった、刃のようにするどい背びれの魚を、ホードは調理台にぎりぎりのせると鮮やかな手つきでさばいた。床中に銀の鱗が散らばる中に突っ立って、切り身をぽいぽい煮立った鍋に放りこんでいく。たちまち調理場に魚臭い湯気が立ちこめてきて、イーツェンは辟易した。
 取り除いた内蔵を捨てるのかと思っていたら、ホードはそれに塩を振ってかき回すようイーツェンに命じる。
「‥‥何になるんですか?」
 生臭くぬるぬるした内蔵を指でかき混ぜながら、イーツェンはおそるおそるたずねた。ホードは何か短い名前を答えたが、舌の上でくり返そうとして、イーツェンは失敗した。言いにくい。まさか食べ物だろうかと恐ろしくなったが、聞くとまた怒られそうだ。
 キルロイの国の中でも、港町のルスタや船乗りたちには特有の訛りがあったり、聞いたことのない言葉が会話に混ざりこんでくることが多い。異国の人間が活発に行き来するので、異国の言葉や名前が何気なく使われているようだ。耳慣れない響きの言葉もあって、イーツェンもしばしば苦労していた。
 それにしても、調理場中が生臭い。魚の内臓をかきまわした指も生臭い。鍋の表面にぎとぎとと浮いてきた脂をすくいとる作業を終えると、イーツェンは小さな水桶を洗ってくるという名目で甲板へ這い出した。
 昼下がりの陽と、甲板を吹きすぎる海風にほっと息をつく。海水で桶を洗い、手足を洗った。手の匂いがなかなか取れずに閉口する。
 もう慣れてきて、海水はそれほどつめたく感じないが、濡れた肌に海風が当たるとふるえあがるほど寒い。爪先がじんと痺れて痛んだ。
 濡れた手を風に振って、溜息をついたイーツェンは、こわばりが残る体をのばして手すりの向こうを見つめた。出港の時は磨かれてつやつやしていた手すりも、海風に吹かれて雨に洗われた今は、ざらりとくすんでいる。甲板はいつも軽石を手にした水夫たちが膝をついて磨いているので、出港の時より白っぽかった。
 今もまた、水夫が甲板を磨く一方で、別の水夫が海水を甲板にまいている。甲板はいつも濡らしておかなければならないのだと、イーツェンはラウに教わった。木は乾くとちぢんで、甲板の間に隙間ができてしまうらしい。
 ラウのことを思うと、気持ちの奥に重い石を呑んだようだった。だが今はどうしようもない。海に向かって大きな息をつき、手すりから下がって振り向いた瞬間、イーツェンは正面に甲板長の姿を見て凍りついた。
 頭をぴったりと布に包んでいる甲板長は、そのせいで顔全体が丸く見えるが、目は細く、唇はいつもきつく結ばれていて、愛嬌などかけらもない。太い首の筋肉は盛り上がった肩へとつながって、見るからに鍛え上げられた体は、今この瞬間にも鞭を振り上げそうな力に満ちあふれていた。
 距離は数歩あるが、じろりとにらまれた気がする。イーツェンは逃げ出したい気持ちを抑えて頭を下げた。甲板から拾い上げた樽をかかえて歩き出し、何も言わずに甲板長の横を通り抜ける。そばを通る瞬間、ぞっと全身がひえたが、甲板長は指先ひとつ動かさなかった。たまたまそこに足をとめていただけで、イーツェンのことなど目に入っていないのかもしれない。
 それならばと、振り向いて背中に舌でも出してやりたい気持ちを、腹の底で押さえつけた。今でも背中の傷がうずいて、鞭の恐怖に血がつめたくなるが、恐怖と同時に強い怒りがあった。皮膚の薄い内側で、憎しみに近いほどの怒りがあやうく息づいている。
 ──帰るためだ。
 頭の中で、その言葉をくり返し唱え、イーツェンは深く息を吸った。リグへ帰るために受け入れなければならない仕打ちだ。凍えきっていたシゼの肌を思い出す。イーツェンがリグへ帰る、ただそのために多くを耐えて、彼らはここまで旅をしてきたのだ。
 怒りを抑え、拳の布を巻き直しながら、イーツェンは低い入り口をくぐって甲板の中へ戻った。
 だが、いくら腹を据えても痛いものは痛いし、行き場のない腹立たしさはなかなか消えない。イーツェンは幾度も溜息をつきながら、からかい混じりの船乗りたちが「背中の模様を見てやろうか?」などとかけてくる声を聞き流して、調理場へ戻った。
 たちまち「さぼるな」とホードの怒鳴り声に頬を張られて、仕事に戻る。まだ調理場全体がどうしようもなく生臭いが、ホードはまるで気にならないようだった。
 2度ほど、ラウが調理場をのぞきこんだことに気付いていたが、イーツェンは作業に集中しているふりをして無視した。イーツェンが殴ったラウの顎はあざになっているようで、仲間たちからからかわれているのが聞こえる。
 悪いことをしたかな、と頭で思いはしたが、気持ちはほとんど動かなかった。感情の間に板挟みになったラウを可哀想だとは思っても、まだ腹の底に怒りが固まっていて、肌の内側がひりひりする。ラウと向き合えば、言ってはならない言葉を浴びせてしまうかもしれなかった。
 夕食の仕度と掃除を終え、樽の数を帳簿に付けてから、イーツェンは大工の手伝いをして一緒に空樽をばらした。水樽は膠で固められていて分解できないが、空になった食料の樽はたがを外して、樽板をばらばらにする。まとめてロープで縛ると、船倉の一角が思いのほかに片づいた。
 ポルトリへの寄港が近いのだろう。少しだけ気分がよくなって、イーツェンは炉の火が落ちるのを待ってから、毛布をかかえて調理場の隅にもぐりこんだ。まだ生臭いが、ここで眠るより仕方ない。
 ひどい1日だった、と思う。だが、それでも昨日よりはずっとましな日だった。明日はきっと、もう少しよくなるだろう。そう思いながら、眠りに落ちていた。


 だがイーツェンの次の朝は、調理場で寝ているところをホードに見つかり、尻を思いきりひっぱたかれた挙句に調理場から蹴り出されて始まった。
 呻きを殺して、イーツェンは顔を洗いに上甲板までようよう這いのぼる。新しい鞭打ちはもうほとんど痛まないが、背中全体に湿るような痛みが粘りついているし、体のふしぶしのこわばりが抜けない。拳もこわばっていて、最初に指を曲げるのが一苦労だった。
 甲板で他の水夫たちに混ざって海水で顔を洗い、ごわついた布で拭って、うがいをした塩辛い水を手すりの向こうへ吐き捨てる。水が飲みたくて仕方なかった。喉が渇いていると言うより、舌が粘ついている。支給される飲み水はもう樽の臭いが染みついていて、変なえぐみがあり、海水の方がまだ口にやわらかく感じられるほどだ。
 いつのまにか、後部甲板に小さな人だかりが出来ていて、イーツェンは風がしみる目を擦りながら何気なくそれを見た。10人あまりの水夫たちが何かを囲んでいる。雑用に使われている少年の1人が砂袋をかついで運んできたのを見て、ふと嫌な予感に腹の底が固くねじれるのを感じた。
 目を凝らせば、水夫たちの足の間から、甲板に薄汚れた帆布が広げられているのが見えた。ぼろぼろの布の上に何かが横たえられている。
 何か──いや、誰かだ。
 イーツェンは、手すりをつかんで海風に体を支えながら、男たちが骸の上に砂袋をのせ、両腕で重りを抱かせて、帆布で左右から全身を包みこむのを見ていた。集まっているのは下層の船猿たちばかりで、航海士や甲板長も知らぬ顔でそれぞれの仕事をしている。ただ1人、アバルトスだけが長衣の裾をはためかせ、胸の前で腕を組み、骸の頭側に立って死者を見おろしていた。
 反射的に口の中で死者への祈りを唱えて目をとじ、イーツェンは海風に小さく身をふるわせた。波の音が一段と高くなったようだ。
 船で死ぬと、亡骸は重りを抱かされ、帆布にくるまれて波の間に沈められる。もし自分が死ねばこの海に投げこまれるのかと思うと、山育ちのイーツェンには、深遠に呑みこまれてしまうような恐ろしさしかない。永遠にそのまま、海の底で眠るのだ。
 かつて、自分はユクィルスで死ぬのだと覚悟した時、死を受けとめるのはそれほど難しいことではなかった。心底戦慄したのは、死した後、永遠に異国の地で眠らねばならないと悟った瞬間だ。レンギが死んで、その骸がユクィルスに埋められると聞いた時、イーツェンはその事実に打たれた。
 リグの民として生まれたからには、いずれ必ず山に還る──それを当然と思って育った。なのに、イーツェンは故郷と離れたユクィルスの土の下に1人で埋められるのだ。レンギが孤独に葬られたように。それが、異国で死ぬということだった。
 ユクィルスに来る前、そのことをわかっていなかったわけではない。2度とリグには戻れないのだと、覚悟したつもりでいた。だが実際にリグを離れ、なじんだすべてのもの、彼を育て慈しんだすべてのものを離れ、空の色も雲の流れも違う異国の地で無残な日々をすごして、イーツェンは初めてその意味を知った。異国で生きるということ。そして、そこで死ぬということ。リグの大地に彼が還ることはない。彼の母、その父母、そしてまたその父母と、古くからリグの民がその骨を埋めて来た山に、イーツェンの居場所はない。
 それを悟った瞬間の、骨が凍るような孤独を、イーツェンは帆布に包まれる骸を見ながら思い返す。だがイーツェンが山に還りたがるように、船乗りはこの深く恐ろしい海に還りたいのだろうか。それとも彼らにとっても、海に沈むのは孤独な最期なのだろうか。
 額に乱れる髪を払い、イーツェンは骸を囲む男たちを見た。いつものように甲板は忙しく人々が動き回り、ロープを点検しては巻き直し、見つけた甲板の隙間にまいはだを叩きこんで修繕する音がひびき、交代の見張りが帆柱をのぼって見張り台に上がっていく。
 にぎやかな船上で、死者を囲む一角だけが沈欝であった。帆布の上に屈みこんだ男が錐で布に穴を刺し、針を通して、縫い合わせていく。その周囲で、男たちは互いの背に腕を回して歌いはじめた。
 海風のうなりのような暗い歌声は、帆を打つ風の音と入りまじって波の上へ流れ落ちていく。イーツェンは滴の残る頬を指の背で拭い、拳にうずく痛みにたじろいだ。右拳の背、皮膚の向けた指の関節は薄いかさぶたになり、赤黒い変色がにじんでいる。
 その拳をゆっくりと握り、指の骨が痛みに熱を持つのを感じながら、イーツェンは弔いを歌う男たちの中にいる後ろ姿を見つめた。潮風にさらされて乾いた栗毛の髪を首の後ろでくくり、肩を落として顔をうつむけ、周囲と声を合わせて歌うその姿は打ちひしがれて、全身を包む悲しみが、彼を一回り小さく見せていた。
 ラウは泣いているのだろうかと、イーツェンは思う。散り散りに消えていく歌の中にかすれた嗚咽が聞こえる気もしたが、それは海風が耳をかすめるうなりのようでもあった。
 船尾でロープを垂らしていた航海士が、測った船の速さを怒鳴り、それを聞いた航海士長と甲板長が早口にしゃべり出す。かき消されていく歌に背を向け、イーツェンは下甲板へと降り、そこで船乗りの1人から、夜の間にカナバが息を引き取ったのだと聞かされた。もっとも、聞く前から、イーツェンには死者の名はわかっていたが。


 マリーシは、またあのひどい匂いがする茶をイーツェンに煮出させ、眉ひとつ動かさずにそれを飲んだ。吐き気を抑える薬草なのだろうが、呑んだ方が具合が悪くなりそうな匂いである。
 不機嫌そうな無表情で飲み干した杯を置き、マリーシは眉間を指先で揉んだ。船旅ももう8日目になるが、相変わらず髪も服装も清潔に保っていて、朝夕の水盤1杯分の水で身だしなみを整える手際はさすがだ。
 しばらくの間、イーツェンにキルロイの詩を読ませて退屈をつぶしていたが、マリーシは気が散る様子で、袖に付いた飾り紐をいじり回していた。イーツェンの言葉が途切れたところで、袖口を見ながらぶっきらぼうな問いを放つ。
「故郷はもう近いのか?」
 慎重な手で、イーツェンは詩の本をとじた。マリーシはイーツェンが故郷へ帰るべく旅をしているのは知っているが、リグの名は知らない。
「半ばまでは来ましたが」
 用心深く答えたイーツェンを、マリーシは鼻先で笑った。
「何故故郷を離れた。売られたのか?」
「戦争に、私の国も巻きこまれて。故郷を離れなければならなかったんです」
 この答えに、マリーシの表情にふっと影がよぎった。右目を細めて、体を前に倒し、組んだ膝に頬杖をつく。
「家族は?」
「国に残っています。知る限り、皆、元気な筈だと」
 そう答えながら、妹のメイキリスの笑顔が脳裏に浮かんで、イーツェンは胸の奥があたたかくなった。メイキリスはもう好いた男と結婚しただろう。祝いの場にいられないことは残念だったが、今のリグには少しでも希望が必要だし、部族の間を固める婚姻は新しいリグの礎になる筈だった。
 物問いたげに首を傾けたマリーシに、イーツェンは微笑した。
「妹も、今ごろは嫁いでいるかと思いまして」
 マリーシも微笑した。
「それは帰るのが楽しみだな」
「はい」
 マリーシが無邪気な笑みを見せるのは珍しい。身ごもった体で船室にとじこもって旅をしていれば無理もないが、いつも彼女の表情には用心深い、鬱屈したものがあって、イーツェンはそれが気にかかっていた。
 貴重な笑顔を見ると、つい明るい話を続けたくなって、つけ加える。
「妹が子供の頃から好いた相手で。いっときは、どうにもならないのではないかと周りもやきもきしたものです」
 話しながら、故郷は今どうなっているのだろうとイーツェンは思った。イーツェンの中ではリグは元のリグのまま、3年近く前に後にしてきたリグと変わらないのだが、帰っても元のような景色が彼を出迎えてくれるとは限らない。いや、リグは変わっただろう。2年あまりもユクィルスに支配され、大きな通商路であった街道を崩して塞いだ。その痛手を受けて、今のリグがどんな風であるのか、どう変わったのか、イーツェンにはまるで想像ができなかった。
「戻ったら、家族とゆっくりすごせ」
 マリーシのその言葉は、イーツェンがはっとするほど優しい。思わずまたたいた彼へ、マリーシは今度はうっすらと影を帯びた微笑を向けた。
「お前の妹は幸せ者だ。私の兄は、私が身ごもったと知った時、その父親を誰にするか考えはじめるような男だ」
「‥‥誰にするか?」
 意味が理解できずに、イーツェンはおうむ返しにした。マリーシは肩をすくめる。
「誰にしたら得か、と言うことだ。どんな男であれ、今の私を娶った男は風読みの父親になる。大きな名誉であり、大きな貸しだ。相手の男と私がたとえ1度も会ったことがなくともかまわないらしい」
 何と答えたらいいかわからず、イーツェンは曖昧にうなずいて、直接の返事を避けた。深い事情は知らないが、マリーシが身にまとっているのはキルロイの権力の糸で、それを彼女は身をもってどこかへ結ぼうとしており、ジャスケやアバルトスもその糸の周囲でそれぞれの思惑を結び合わせようとしている。旅を無事終えるためにも、これ以上そこに足を踏み入れたくはない。
 だが、いつも冷静なマリーシの表情を一瞬よぎっていった無残な色は、イーツェンの胸を息苦しくするほどのものだった。幻かというほどのわずかな刹那、それは跡形もなく消えうせる。
 何と言っていいのかわからなかった。マリーシが同情されたがっているようには見えないし、奴隷が気休めの言葉をかけたところでうるさく払いのけられるだけのような気もする。だが、沈黙の重さを会話でどうにかやわらげようと、イーツェンは話の接ぎ穂を探した。
「‥‥風読みの子は、必ず風読みになるものなんですか?」
 聞いてしまってから舌先を噛んだが、もう遅い。好奇心が先に立ってしまうのは、我ながら悪い癖だ。もっと無難な話題はないのかと内心自分を蹴とばし、イーツェンはマリーシが答えるまでの数秒、息をつめた。
「ふむ」
 何故か機嫌よく、マリーシは頬杖の指先を口元に当てる。
「皆がそうなれば、アバルトスは〈流れ〉などと呼ばれることもないのだがな」
「‥‥‥」
 たしかに。アバルトスは、風読みの血を引きながら風読みの力を持たない男だ。キルロイでそれは「流れ」と呼ばれるらしいが、ラウがイーツェンに教えたその呼び名にははっきりとした軽蔑があって、それもまた残酷な話だった。アバルトスが、自ら生まれや力を選んだわけでもある枚に。
 イーツェンは溜息を殺して立ち上がった。下がる前に無躾な質問を詫びようとした彼の先を制して、マリーシが言葉を継ぐ。
「私のこの子はきっといい風読みになる。私が、そう育てるからな。キルロイが風読みを通して他国と絆を結べば、もっと大きな海易の道を作ることもいずれ可能になるだろう。海の道は、まだまだ遠くへのびる」
 その声に満ちた誇りが、イーツェンの心を突いた。
 多分、これは彼女の選んだ運命ではない。望んでもいない。だがそれでも、マリーシは誇りを持って自分と子供の未来を見据えている。身ごもった体で国を離れ、顔も知らぬ相手に嫁ぎに行くというのに、マリーシは運命に頭を垂れてはいないのだ。
 その強さは、母になるものの強さなのだろうか。
 空の杯を手にイーツェンが下がろうとした時、扉を誰かが叩いた。5回をふたつに分けてリズムをつけた、変わった叩き方だ。イーツェンがマリーシの表情をうかがうと、彼女はイーツェンに答えるよう手振りで示した。
 あけた扉の向こうに、アバルトスが立っていた。間近に顔をつきあわせてどきりとしながら、イーツェンは頭を下げる。
 アバルトスは無言で扉の桟に拳をあて、部屋をのぞきこんだ。いつもの裾が斜めに仕立てられたマントは羽織っておらず、草色のシャツと体にぴったりした灰色の胴衣をまとって、飾りのついた肩章をつけている。この船旅の間、イーツェンや水夫たちがみるみる薄汚れていくと言うのに、アバルトスやマリーシ、ジャスケまでもが自分を身ぎれいに保っているのが、イーツェンには心底不思議であった。
 「マリーシ」
 低い声で呼びかけたアバルトスは、扉口から動かない。招かれるのを待っている様子が、彼には珍しかった。
 振り向くと、マリーシは微笑を浮かべてイーツェンに手を振ったが、その視線はまっすぐにアバルトスを見ていた。2人の間にひりりとした感情がはりつめるのを、イーツェンは肌に刃がふれるように感じとる。
「もう下がっていい、リオン」
 身を引いたアバルトスの横を抜け、イーツェンは言われた通りに部屋を出る。しばらく歩いてから振り向くと、暗い甲板廊下にアバルトスの姿はもうなく、マリーシの部屋の扉もとざされていた。


 イーツェンは粗い表面の紙にのたくるような自分の字をにらみ、数を頭の中で足し引きして、出た数字を書きこんだ。紙の質が悪いので、書きにくい。樽の間に置いた角灯を頼りに、しゃがみこんだまま何とか帳簿を付け終わる。
 それから、インクの瓶に木で栓をして、背後を振り仰いだ。さっきから後ろに人の気配があるのは感じていた。相手から何か言ってくるかと、それを待っていたのだが。
 ここで何しているんだ、と喉に用意していた言葉は、そこに立つラウの表情を見て、消えた。
 ラウはまるで、一夜で年を取ったかのように見えた。頬はうっすらと削いだようにこけ、いつもの溌剌とした明るさはかけらもなく、押せばその場に崩れてしまうのではないかとイーツェンが怖くなるほど、力ない立ち姿だ。亡霊のように、存在感がない。
 肩を落とし、疲れきったうつろな表情で、ラウはイーツェンが立ち上がるのを黙って見つめた。目の下が落ちくぼみ、憔悴しきったまなざしはむき出しの痛みに満ちていて、イーツェンはするどく息を吸った。ラウの痛みが生々しく伝わってきて、呼吸が苦しくなる。
 ラウは何も言わず、ただ途方に暮れた子供のように立ち尽くしていた。イーツェンが手をのばすと、のろのろとした動きでその手を取る。最初は力の抜けた手だったが、強く握ると、やがてラウの手が絞るような強さでイーツェンの手を握りしめた。
 ラウを殴った右手が、その力にじんと痛む。あれはもう2日前のことだ。ついさっきのことのようにも、もっと遠い昔のことのようにも思えた。
 あれほど生き生きとしていたラウの目が、今は魂を失ったかのようにうつろで、イーツェンを通りこしてどこか遠くを見つめているようだ。イーツェンはラウの目から視線をそらさなかった。力なく、うっすらと絶望に覆われたラウの表情は、イーツェンに取って見慣れたものだった。ユクィルスの城で奴隷として地下牢で働いていた頃、周囲の奴隷たちや、囚人の顔に浮かんでいた表情と同じだ。いや、きっとイーツェン自身もあの時、こんな風に無力で希望を失い、うちのめされた目をしていたにちがいなかった。
 明るい、陽の光のようなラウの笑みをなつかしく思いながら、イーツェンはラウの右肩をつかむ。ラウは喉の奥で、傷ついた獣のような呻きを洩らし、ほとんど倒れかかるようにしてイーツェンにしがみついてきた。
 まるで離れると溺れてしまうかのように、ラウはイーツェンの肩に顔をうずめ、イーツェンの息ができないほど強く両腕を回す。イーツェンはまだ体に残る痛みやこわばりを無視しようとしながら、ラウの背中をかるく叩いた。
 こんな時、どんな言葉が役に立つだろう、と思う。ただただ無力にイーツェンにしがみつくラウを、いったいどんな言葉が救ってやれるのだろう。
 何か正しい言葉を探そうとしながら、イーツェンは何も言えなかった。もしかしたら、どこにもそんな言葉などないのかもしれない。
 かわりに両腕でラウの背を抱きしめ、なだめようとなでる。ラウの全身は悲嘆にこわばり、肌は熱く、ふるえていた。
 無言で、声を殺しながら、ラウはイーツェンの肩口に顔を伏せて泣いている。イーツェンの首の輪にラウのくぐもった泣き声と熱い息がかかった。その嘆きもつらいが、イーツェンにはラウがそれほどまでに痛みを押し殺そうとしている様子がつらい。
 息を喉につまらせ、全身を弱々しく痙攣させて、ラウは何か呟いた。船底からひびくきしみに邪魔され、引きつった切れ切れの言葉を聞きとろうと、イーツェンは耳をできるだけラウの口元に近づける。
「みんな、ああなるんだ」
 ラウの声は、子供のように泣いていた。言葉を吐き出そうとして、そのたびに体がふるえる。
「俺もああなるんだよ、リオン。結局、みんな、魚のエサだ」
 言葉もないまま、イーツェンは筋肉が密についたラウの背をなでる。何も言えなかった。それはイーツェン自身、レンギの死を見た時に思ったことだ。自分もこうして、異国で骨になるのだと。
 ラウの、かすれて船のきしみに消えそうなこの叫びは、あの時イーツェンが放ちたかった叫びでもあった。
「‥‥あいつみたいになるしか、ないんだ」
 消えていくような声で、ラウは呟く。イーツェンは両腕で彼の熱い体をかかえこんで、無言のまま、暗い船内に漂う遠い水音を聞いていた。


 その夜、イーツェンは下層のすみで、ラウと同じ毛布にもぐりこんで2人で眠った。
 湿っぽい、冷たい下層甲板で、互いに身を寄せ合わせてぬくもりを分かち合いながら、イーツェンは遠い闇を見つめていた。ラウの寝息が肩口にくぐもっている。やっと眠りに落ちたのだろう。
 体の芯に強く疲労感が張っていたが、イーツェンは眠れなかった。落ちつかない気持ちを鎮めようとラウの寝息に耳を傾けるが、いつもは気にならない船体のきしみや周囲の寝言が、今はやけに鮮やかに耳に届く。
 ラウが身じろぐ。イーツェンが毛布の下で背中をなでると、ラウはイーツェンにさらによりかかって、また眠ってしまった。
 つたわってくるぬくもりに心を集中させながら、イーツェンも目をとじる。イーツェンが仕事を終え、調理場を片付けてラウの寝床にやってくるまで、彼らはほとんど言葉を交わさなかった。ただ2人で無言のまま毛布にもぐりこみ、無言のまま身をよせあわせた。傷ついた獣がするように。
 こうして人の肌のぬくもりによりそう、それがどれほど痛みをやわらげるものか、イーツェンは知っている。時に言葉が届かない痛みであっても、言葉など聞きたくないほど痛みにとらわれている時でも、人の体のあたたかさはつたわってくるものだ。
 それをイーツェンに教えたのはシゼだった。寝息に揺れるラウの体に腕を回して、イーツェンは目をとじ、シゼとこうして身をよせた夜のことを思い返す。シゼはいつも揺らがずそこにいて、イーツェンの痛みを一緒に分かち合おうとしていた。
 今のラウに、少しでも安らぎを与えられればいいと願いながら、イーツェンはすぐそばでくり返される寝息に耳を傾ける。ラウの寝息だけでなく、下甲板は無数の船猿たちの寝息やいびき、歯ぎしり、寝言などに満ちていた。
 ラウの体がやわらかくなり、深い眠りに落ちたことがわかる。彼はイーツェンに半分体をもたせかけるようにして、イーツェンの肩口に額をくっつけて眠っている。いつもながらに、こうしてよりそう相手がシゼではないというのは、イーツェンには何だか奇妙だった。時おり寝息の下から何かを呻くラウの背をなでながら、イーツェンはぼんやりとシゼのことを考える。
 シゼは、あまり言葉でイーツェンを慰めようとしなかった。余分なことは言わない性格でもあるが、彼はきっと言葉の届かない、ただやりすごすしかない痛みの存在を知っているのだろう。だからいつも、彼はイーツェンによりそうことで痛みを分かち合おうとしていた。悪夢や痛みがイーツェンをとらえるたびに、シゼのぬくもりが彼を引き戻した。
 闇の向こうにとりとめのない視線を向けて、体に残る緊張をゆるめようと、イーツェンは深い息をついた。眠れない。眠りの中でもしがみついてくるラウの姿に、自分の姿を見る気持ちだった。
 苦しくてどうしようもなかった時、イーツェンにはシゼがいた。だがそのシゼには痛みを分かち合う相手はいたのだろうか。彼には誰か、こうして苦しみを預ける相手がいたのだろうか。
 いつか、とイーツェンは願う。いつの日か、シゼがつらい時、こんな風にそばにいるのがイーツェンであるように。シゼが彼を支えてくれたように、イーツェンがシゼを支えられる日が、いつか、来るように。