息が喉で痺れる。指先まで苦痛に引きつって、鼓動が耳の中で乱れた。
2発目は、空を切る鞭の音が聞こえたが、背中に縄が叩きつけられた衝撃に視界が赤くくらんだ。縄には結び目があって、えぐりこむような衝撃と痛みが骨にまでぶつかる。柱に押しつけられた肌が痛み、いくら息をしようとしても、胸がつぶれたように空気が入っていかなかった。
背中をつたう生あたたかい感触に、イーツェンは恐慌を呑みこもうとする。汗だろう。血の筈がない。
だが、もし傷がひらいていたら──
3回目の衝撃で、その恐怖も残らず吹きとんだ。痛みに目の前が灼け、全身の筋肉がきつく硬直する。それでも悲鳴だけは上げずに、顎がきしむほど歯を噛みしめ、その間から切れ切れの息を吸った。どこまで意地が続くかわからないが、続くかぎり、痛みに屈した姿を人にさらしたくはない。それがイーツェンの決心だった。
口の中に鉄の味がひろがる。帆柱に左頬を強く押しつけているため、唇の左側が切れたのだ。舌にまとわりつく血を呑みこむ余裕もなく、次の一撃に備えて奥歯に力をこめた。
だが、次の鞭はいつまでたっても振りおろされなかった。
汗みどろの体で帆柱をかかえながら、イーツェンは荒い息をととのえようとした。耳の中に血の流れる音ばかりが轟いて、周囲で交わされている声は遠いうなりにしか聞こえない。何が起こっているのか背後を見ようとしたが、筋肉が痛みに硬直していて、体を動かすことができなかった。
いきなり帆柱をかかえた右手がつかまれ、柱から剥がされて、イーツェンはよろめいた。帆柱からは離れたが、足が立たずにその場に座りこむ。呆然と、目の前にしゃがみこんだアバルトスの顔を見つめた。
アバルトスはむっつりと顔をしかめ、拾い上げたシャツをイーツェンの膝に放った。
「立て。マリーシが呼んでいる」
「‥‥‥」
まだ耳鳴りがしていて、自分が聞いた言葉に自信のないイーツェンは、甲板長の姿を探して視線を揺らした。すぐそばに立っている甲板長は、縄鞭を使い走りの男に手渡し、いつもの棒鞭をかわりに手にしながらアバルトスに苦い声をかけた。
「しめしがつかねえんですがね」
「船の者ならそうだがな。リオンは客の部屋付きだ。罰を与えるのは主人の自分だと客に言われれば、それが筋というものだ」
「鞭をお貸ししますぜ」
冗談か本気かわからない甲板長の言葉を、アバルトスはイーツェンの腕をつかんで立たせながら、「今度な」と受け流した。
裸の上腕をつかまれて強く引かれ、シャツを胸元に抱えたイーツェンはどうにか歩き出す。力の入らない膝は今にも崩れそうで、1歩ごとに背中から頭頂まで痛みが抜けた。背中に火がついているようで、海風が当たるたび、じくじくとした痛みにあぶられる。
ふるえる左手でシャツを握りしめ、イーツェンの右手は無意識に腰を探った。癖になっている仕種で、布の腰帯がまだそこにあることをたしかめる。帯には手形の陶貨と、レンギのピアスが縫いこんである。
幸い、腰帯はゆるんだまま腰骨で引っかかっていた。アバルトスに引きずられるように歩きながら、体を動かすたびに背中に引きつる痛みをこらえ、甲板を見つめて、イーツェンはとにかく1歩ずつ歩いた。何も考えず。1歩ずつ、前へ。痛みや鞭打ちの恐怖よりも、最後にこちらを見ていたラウの表情から逃れるように。
どうやって梯子を降りてマリーシの部屋までたどりついたのかわからないが、イーツェンはやっとのことで部屋に入ると、許しも待たずにへなへなと床へ座りこんだ。全身に粘り着く汗は、甲板の風で凍るように冷えている。体がふるえるのをとめられない。ふるえが苦痛から来るのか、それとも恐怖や寒さからなのか、彼にはわからなかった。
頭上を2人の会話が通りすぎる。アバルトスの声は苦々しかった。
「こんなことに人を使うな」
「お前が動かなければ、私が甲板へ顔を出すだけだ。それではお前が困るだろうと思ったから先に知らせてやったんだ、感謝しろ」
マリーシはそう答えながら、寝台から引きはがした毛布をイーツェンの膝に落とした。イーツェンはためらったが、苦痛だけでなく寒さも耐えがたいものになっていたので、おずおずと毛布を取った。きめの細かなリンネルと毛織りの布を表裏に合わせた上等な毛布だ。やわらかなリンネルの側で鞭打ちの痕を擦らないよう慎重にくるまったが、布が背中にふれた瞬間、痛みに息を呑む。
彼が声を立てないように煩悶している間も、2人の会話は進んでいた。
「お前はもう少し立場をわきまえろ、マリーシ。とにかく婚姻の儀がすむまではお前がポルトリに渡ったことを知られるわけにはいかん」
「うまくいかなければこっそり持ち帰らねばならないものなあ」
妙に愉快そうに言うと、マリーシはどこかから取り出した硝子の瓶を手にイーツェンの前に膝をついた。
「ほら。飲め」
栓を取ってイーツェンの手に渡そうとするが、ふるえる手が瓶の首すらしっかり持てないことを見てとると、イーツェンの指に瓶をつかませた上から自分の手を重ね、イーツェンの口に運んだ。
口に流れこんだのが酒だということだけはわかったが、イーツェンは味わうこともできずにむせ返った。喉から熱気と刺激が上がってくる。目がつんとして涙がにじんだが、茫然としていた意識の焦点は戻ってきた。
「‥‥すみません」
咳をして、口元を拭う。
「船医を呼ぶか?」
マリーシは瓶を片付けながらたずね、イーツェンは黙ったまま首を振った。痛みはいずれ消えるし、船医の顔など見たくもなかった。あの男だって、誰がケシの酒を盗んだかわかっていた筈だ。
「深くは傷ついていない。ちょっとはがれたくらいだ、寝れば治る」
そう頭上からふってきたアバルトスの言葉は優しくないが、イーツェンの考えていることと大方一致していた。結び目はあったがそう太い鞭ではなかったし、打たれたのも3回だけだ。落ちつけば鞭の痛みは消える。背中の奥の痛みは残るかもしれないが、それを今さら船医がどうこうできるとは思えなかった。エナでも消せなかった痛みだ。
まだぶつぶつ言いながらアバルトスが出ていくと、イーツェンは溜息をついてシャツに手をのばした。マリーシがイーツェンの肩の毛布をつかむ。
「背中を見せてみろ」
逆らう理由も気力もなく、イーツェンは毛布を落としてマリーシに背を見せた。彼の背に鞭傷があると、甲板長に教えたのは誰だったのだろう。眠る時にうまく体勢が取れず、しきりに動く理由をラウに聞かれて、背中の痛みのことを話したことがあった。ラウが言ったのか、それを聞いていた誰かが告げたのか。
背中は、傷の表面が擦れて血が出ているようだった。マリーシは布を押し当ててその血を拭うと、ぎこちない動きのイーツェンを手伝ってシャツを着せた。
「一体何があった?」
マリーシの問いは、今日の鞭打ちに対するものではない。イーツェンは毛布にくるまり、冷えきった体をできるだけちぢめて、膝をかかえた。
「えらい人のうらみを買ったんです」
「逃げるためにポルトリへ?」
「私は、逃亡奴隷ではありません」
そこだけは言っておかないと、また別のところから危険がふってきそうな気がする。イーツェンは両手に顔を埋め、疲れた息をついた。
「書類を見ますか?」
「いや、興味ない。この先に行くあてがなければ、ポルトリで仕事をやろうか」
今朝から、人の言葉を聞き違えたかと疑うのは何度目だろう。イーツェンはのろのろと顔を上げ、椅子に座って小首をかしげているマリーシを見上げた。何故マリーシがそんなことを言うのかわからない。
ぼうっとマリーシを見ているだけのイーツェンへ、マリーシが、例の辛抱強い口調で続けた。
「お前は、早いうちから私が女だと気付いた。だが何も言わずに黙って距離を取った。普通の召使いは身支度の手伝いを申し出るものだ、リオン」
「‥‥あなたは、船乗りのように早起きして、自分で身支度していたから」
「それが、私を女と思った理由か?」
痛みからくる緊張で体中がきしみ、疲れきっていたが、イーツェンは膝をかかえてうなずいた。会話をしていると、色々なことから気がまぎれる。
「きっかけの、ひとつです」
「だが私にそれを言うつもりはなかった」
「ええ」
人の秘密は人のものだ。好奇心は山ほどあったが、イーツェンは理由もなくそれを暴く気にはなれなかった。
マリーシは頬に薄い笑みをうかべていた。
「お前は教育を受けているし、躾もできている。勘もいい。私がもしポルトリに根を下ろすことになれば、お前の使いどころがある」
「‥‥‥」
口を1度あけてから、それをとじ、イーツェンはゆっくり首を振った。マリーシが本気なのかイーツェンの反応を見ようとしているのかはわからないが、たとえ本気の申し出でも、誰かのために仕えるつもりなどなかった。ここで告げることはできないが、イーツェンには行く先がある。
それに、マリーシが探しているのはただの召使いではない、もっと複雑な目的に使う相手だ。すでに何かに巻きこまれているのはわかっていたが、これ以上深く入りこみたくはなかった。ジャスケとマリーシの駆け引きにはさまれるのも御免だ。鞭打ち3つは、充分に痛い代償だった。
マリーシは長衣の膝を組み、前髪を額から払いながら、うなずいた。瞼に少し厚みがあって、女の格好をして薄い唇に紅をさせばきっと彼女はあでやかな姿になるだろうと、イーツェンはぼんやり思う。
背中にはまだ痛みがうずいていたが、緊張がほどけてきて、体が疲労で重くなっていた。イーツェンはまた両手に顔をうずめ、ゆっくりと息をついて、ラウのおののいたような青白い顔を脳裏から追い払おうとした。
(今にも泣きそうな目をしていた‥‥)
泣きたいのはこっちだ、とずきずきするこめかみを親指で揉んだ。こうしてじっとしていればそれほどつらくはないが、起き上がろうとすれば全身が悲鳴を上げるだろう。だが、どこかで起きて体をほぐささないと、痛みが体に凝って大変なことになる。
両手で頬からこめかみまでをさすりながら、とまらない溜息を殺していると、マリーシがそれまでとかわらない口調でたずねた。
「あの金髪の男はお前の連れか?」
イーツェンは一瞬、どう応じたものかわからなかった。船に、金髪の男はそれほど多くない。
「誰ですか」
用心深く問い返しつつ、床に据えていた視線を上げてマリーシを見る。マリーシは口元に皮肉っぽい笑みを浮かべていて、そんな表情をすると、いかにも女の子っぽい。だから最初は仏頂面ばかりしていたのだろうか。
「お前を助けるよう私を脅したぞ」
イーツェンは、口の中が乾くのを感じた。
マリーシは愉快そうだ。
「この部屋に押しかけてきて、お前は物を盗んでいない、船の上での正義に誇りはないのかとこの私につめよった。あれは無礼な男だな」
「‥‥すみません」
ごまかすこともできず、イーツェンは口の中で謝罪を呟いた。頭がくらくらする。アバルトスを動かしたのはマリーシだが、そのマリーシを最初に動かしてイーツェンを救ったのはシゼだったのだろうか。
そのことを考えていると本当に涙が出てきそうで、イーツェンは下を向き、唇を噛んだ。シゼはいつもイーツェンのためにどんな手段もいとわない。
マリーシの問いは遠くに聞こえた。
「あれは誰だ?」
誰だ、とあらためて聞かれると困る。イーツェンは切れた唇の左端を擦った。
「‥‥一緒に、ポルトリの先まで行くんです。私を故郷へ帰すと約束してくれた」
マリーシの目元がふっとやわらいだ。
「故郷へ戻ろうとしているのか」
イーツェンは無言でうなずく。
故郷はどこか、とマリーシは問わなかった。イーツェンが答えないとわかっているのだろうか。リグの名を、イーツェンはラウにも言っていない。シゼ以外の誰も信用できない、誰もたよれない旅だ。はからずも、そのことを今日も思い知らされる形になったが。
船の揺れに身をまかせながら、散らばりそうな気持ちを持て余していると、マリーシがぽつりと呟いた。
「故郷はいいものだ。帰れる場所があるのなら、それを大切にしろ」
その声にはイーツェンにはつかめない感情がにじんでいたが、気にかけるには、彼はもう疲れすぎていた。痛みさえなければ、このまま眠ってしまいたい。
鞭の傷だけでなく、体の芯にも痛みを感じた。鞭打ちの衝撃と恐怖、緊張。そういったものが背中の内側の古い傷をひらいていくようで、イーツェンは目をとじた。首にはりつくほどに冷えた金属の輪が忌々しい。これがなければ、こんな風な踏みつけ同然の扱いは受けまい。少なくとも、もっと抗うことができただろうに。この輪が首にある限り、たとえ奴隷制のないキルロイでも、イーツェンの声などなきに等しい。
今でもまだ、この輪は見えない鎖でユクィルスにつながれているかのようだ。イーツェンのすべてを踏みにじったあの国に。
また溜息をつき、イーツェンはシャツの上に結び直した腰帯を指で探った。革であてた裏の上から、指先のかすかな引っかかりで、内側に縫いこんであるレンギのピアスの包みをさぐる。
レンギを最後まで城に縛りつけていた足首の輪のことが、脳裏によみがえった。シゼがレンギの墓を掘った時、それだけが土の中に残されていたと言う、腐食した金属の輪。
ふいに喉の奥にこみあげてきた熱い塊を、イーツェンはどうにか飲み下した。レンギは死ぬまであの城から逃れられなかった。故郷への帰還を望むことすらできなかった。彼の国はもう失われていたからだ。
イーツェンはまだ輪をはめたままだが、城を抜け出し、ユクィルスを去り、海を渡って少しずつリグに近づいている。たとえ嵐があろうと、多少の鞭打ちにあおうと、今この時も、彼とシゼはリグに向かっているのだ。それが何より、そして唯一、大事なことなのだと、指先のかすかな感触は彼に向かって語りかけてきているようだった。
マリーシの昼食の仕度にやっと調理場へ現れたイーツェンへ、ホードは「さっさと手伝え」とぶっきらぼうに命じただけで、何も言わなかった。
全身のきしみをできる限り無視して、イーツェンはいつものようにホードを手伝う。もう水分が抜けきってぼさぼさになった手で砕けるほど固いパンに、細かく割った豆を獣脂で固めたものを塗り、チーズをのせた。
マリーシの食事には、そのパンを蜂蜜と水で煮て、豆を入れた粥を作った。マリーシは、イーツェンが料理から目を離さなかったかどうかたしかめたが、毒味はさせなかった。
背中の、擦れた傷にシャツがあたって、動くたびに体の内側と外側の両方が痛い。だが動けないほどの痛みではなく、時おりの強い苦痛をどうにかやりすごしながら、イーツェンは夕方までいつもの雑用をしてすごした。鼠取り、帳簿つけ、掃除。ホードを手伝って、肉をゆでる大鍋に浮いてくる油をすくい取ったり、樽の奥で、猫に少しだけ愚痴ったり。
下層甲板をうろうろするイーツェンを見ても水夫たちはほとんど何も言わず、何人かが「命拾いしたなあ、わっか」と軽口でからかった。イーツェンは適当な返事だけして、後は無視した。どうせ彼らだってイーツェンが盗人でないことは──薄々は──わかっている筈だ。だが、仲間を守ることを選んだのだ。
それは責められまい、と思う。船の上での作業は命の危険を伴う。互いを信頼していなければできないような仕事も多い。命を預けあう船乗り同士、船猿同士の絆は強いものなのだろう。
結局のところ、イーツェンは他所者であり、丘ものなのだ。
──どうせ、あと何日かの航海だ。
それきりイーツェンはこの船をおりて、もう水夫たちの誰とも会うことはない。こちらも割り切っていかないと身が持たないと心を引き締めて、イーツェンは作業に集中した。ひたすら働く。そうしていないと、余計なことばかり考えてしまいそうだ。
「リオン」
名を呼ばれたのは、調理場の奥の水場にしゃがんで、芋の皮むきに使う石刃のはじを研いでいる時だった。しゃがんだまま振り向こうとしたが、肩の付け根に痛みが走り、イーツェンは溜息をつくと立ち上がってから振り向いた。
ラウは、火を落とした炉の向こうに立っていた。イーツェンを見る目は怯えたように大きく、肩は落ちて、体の横に腕をだらりと垂らしている。拳を、しきりに握ったりひらいたりしていた。
イーツェンは黙ったまま、濡れた手をズボンで拭い、ラウに正面から向き直った。ラウは目を伏せ、また拳を握る。ホードは上に帳簿を届けにいっていて、調理場には2人だけだが、入り口の外を水夫たちが通りすぎ、何人かがちらりと好奇の目を向けた。
先に呼びかけたくせに、ラウは言葉を失ったように立ち尽くしていた。目元が憔悴し、顔色の悪い彼を哀れに思う気持ちもあったが、イーツェンは唇を結び、あくまで挑むようにラウの顔を見つめた。
まるで古い友人に裏切られたような痛みが心にくいこんでくる。イーツェンはそれを無視しようとした。たった何日か、同じ船に乗り合わせただけの相手だ。それ以上の何もない。ただ出会って、ただ離れる。それだけのことがいつも難しいのは何故なのだろう。
「‥‥俺‥‥」
沈黙に耐えきれなくなったか、ラウの唇がふるえた。薄暗い調理場の灯りを受けて、大きな目のふちがうっすら光っていた。
イーツェンは奥歯を噛みしめる。ラウの傷ついたような表情が我慢ならなかった。かわりに鞭を受け、痛みを引き受けたのは誰だと思っているのだ。イーツェンは、あの場でラウを告発することもできた。誰が聞かなくとも、あの場で彼の盗みを大きく声にすることはできた。その声を呑みこんだのは、少なくとも、こんなふうに傷ついた顔を向けられるためではなかった。
ラウの声はかすれていていた。
「俺、お前の傷があんなひどいなんて知らなくて──」
「だからどうした」
ほとんど反射的につっぱね、イーツェンはラウへ向けて1歩踏み出す。ラウはたじろぎ、青ざめた顔でうつむいた。イーツェンの腹の底が怒りでつめたくなる。
「知っていたら違っていたとでも? 古傷が軽ければ、鞭で打たせても心が痛まないか?」
「リオン」
顔を上げ、懇願するような目でイーツェンを見つめる。ラウは雨に濡れた子供のようだった。イーツェンはくいしばった歯の間からやっと押し出すように、短い言葉を吐く。
「放っといてくれ」
「俺──」
また言い訳がましく口をひらく。
不意に、自分でも驚くほどの怒りにつかまれて、イーツェンはラウの襟首を引っつかむと、固めた右拳を船乗りの頑丈そうな顎へ叩きこんだ。ラウはよろめき、驚愕の表情で顎を押さえ、イーツェンは岩を打ったような衝撃にはじかれた右手を振った。するどい痛みが指を駆け抜けて肘まで走る。涙が出そうなほど痛い。
ラウは、炉を囲む煉瓦の壁に手をかけて、体を支え、呆然とイーツェンを見ていた。
イーツェンは視線を引きはがすように彼に背を向け、水場にしゃがみこみ、あちこちが欠けた丸い砥石に石の刃を当てる。しばらく砥石を引く作業に集中してから後ろをたしかめると、そこにはもう誰もいなかった。
拳で人を殴るなとイーツェンに最初に説いたのは、彼が育った導院の師の1人だった。人を殴ると、己が痛むのだと。
シゼも、イーツェンに剣を教えている時、人を殴るなと言った。「人の拳は思うほど固くない」と彼はさとした。もし骨に当たれば、拳の方が痛む。だから最後の手段でない限り、拳を使うなと。
夜中、調理場のすみにうずくまったイーツェンは右手を押さえ、それぞれの言葉をしみじみ思い出していた。何をするにも、指が締め上げられているように痛い。腫れはひどくないので骨は無事な筈だが、その判断にも自信が持てないほど、右手の拳が痛い。
忠告には従うべき理由がある。じんと熱いこぶしを腹に押し当ててうずくまり、イーツェンは膝に額をあてた。背中の痛みから少し気がそれるのだけはありがたい。
煉瓦がはりめぐらされた調理場は、炉の火を落とした夜は全体につめたい。調理場には夜の出入りを禁じられていたが、ホードにつるしあげをくらうのは覚悟の上で、イーツェンは毛布を持って炉の影にもぐりこんでいだ。ほかに行き場がない。上の層には居場所がないし、ラウのそばでは眠りたくない。カナバの弱々しい息の音を聞きながら、ラウのそばに横たわって、自分が眠れるとは思えなかった。
毛布を肩にかけ、身をちぢめて、少しでも体を安めようとした。気持ちが崩れそうなほど疲れきっているのに、拳は痛いし、背中はきしむし、頭の芯がじんじんと熱くて、心の焦点がさだまらない。ラウの、呆然とした顔と、痛みをたたえた目が振り払えなかった。
ラウの痛みはわかる。いきどころのない無力さの中で、彼はカナバのために思いきった賭けに出た。もし立場が逆で、苦しんでいるのがシゼだったら、イーツェンは盗みでも何でもしただろう。
わかるが、だからと言って背の痛みがやわらぐわけもなかった。そして、心の中でうずく怒りが消えるわけも。
拳を押さえ、イーツェンは体をきつく二つ折りにして、口からこぼれそうな呻きを殺した。ラウの目──甲板でイーツェンを見つめていた、おののいたあの目、血の気が引いた顔がくりかえし浮かんでくる。彼はあの表情で、イーツェンが鞭打たれるのを見つめていたのだろうか。イーツェンに殴られたラウは、ひどく傷ついた、脆い顔をしていた。
知ったことではない。ラウがどう傷つこうと、イーツェンの殴った顎が痛んでいようと、すべてはラウが自分で招いたことだ。先に傷つけたのは、ラウの方だ。
イーツェンは膝に額を押しあて、数度、深い呼吸をこころみた。至るところが痛い。体だけでなく、心の内側までも。ふれる方法のない場所が、どうしようもないほどに痛かった。
調理場の炉の影に疲れた身を丸めて毛布をかぶり、まどろもうとしたが、眠りはなかなか訪れてこなかった。痛みはにぶく重苦しい何かに変わって、身の内に粘りついたまま、息が苦しい。いくら呼吸をしても、体の奥まで息が入っていかないようだった。
真っ暗な闇の中でうずくまりながら、きしむ船体の音と船底からのぼってくる水の音を聞いていると、まるで船が海の底に向かって沈んでいるようだ。
寒いのに汗ばむ体を丸め、イーツェンは痛みの記憶を頭からしめ出そうとした。ラウの目、鞭打ちを宣告する甲板長の声、空を切る鞭の音。口の中にひろがった血の酸い味、こわばった筋肉の中を走り抜ける寒気。こびりついて離れない、するどい恐怖。
つめたい首の輪を指の腹でなぞり、イーツェンはユクィルスの城で受けた2度の鞭打ちのことを思い出していた。もうすぎた痛みだ。あの屈辱も、絶望も、すべて終わったことだ。
だがその残滓が自分の中に巣喰っていることを、イーツェンは知っている。彼の背中に傷が残ったように、イーツェンの内側にも傷が残っていて、生乾きの傷から底のない恐怖が沁み出してくる。
──弱いからだ。
溜息をつき、イーツェンは頭から毛布をかぶってうずくまった。今でもまだ、すぎた筈の痛みに追いかけられている。いつかどこかで、あの時の恐怖に追いつかれる気がしている。今日のように。
甲板で鞭打たれた時にイーツェンの中にはじけた痛みは現実のものだけでなく、過去の痛み、記憶の中の恐怖でもあった。打たれた痛みと記憶の痛みとどちらが強かったのか、イーツェンにはわからない。
いつかあの痛みが消える時があるのだろうかと、彼は思う。背中の痛みだけではない、心の内側に灼きついて離れない、影のような苦痛を拭える日は来るのだろうか。
毛布をかぶっていてもしんとした冷気が染み入ってきて、イーツェンはこわばった背中が許す限り小さく体を丸めた。こうして、誰の体温も感じずに1人で眠るのも久しぶりだったが、そのことを考えたくもなかった。
気持ちが息苦しくざわついたまま、最後は重苦しい疲労に引きずられて眠ったらしい。次に気付くと、イーツェンは床にころがって、自分の上にかがみこむぼんやりとした影を見上げていた。
ほとんど暗闇に近い中で、だが影の背後からのわずかな明るみが輪郭をぼんやりふちどっている。イーツェンは反射的に手をのばそうとして、瞬間、体中が引きつれた。全身の骨を固い糸で縛り合わされているようだ。こわばりが筋肉を引いて咄嗟に動けない。
何故動けないのかわからず、一瞬、背すじがつめたく汗ばんだ。それから記憶が押しよせるように鞭打ちのことを思い出す。何もかもが悪夢のような気がしたが、きしむ体は現実のものだった。
背中の痛みよりも、筋肉が硬直していて全身がうまく動かせない。ゆっくり、体の反応を見ながら持ち上げた右手を、固い手がつかんだ。
「大丈夫ですか?」
静かな囁きとともに、シゼは起き上がろうとするイーツェンを手伝う。ほとんどシゼにすがってようよう上体を起こすと、つめたい煉瓦の床に座りこんで、イーツェンは両肩を動かしてみた。背中が新たな痛みに引きつれるが、状態は恐れていたほど悪くはない。気がする。
「大丈夫みたいだ」
「本当に?」
重ねられた問いに、イーツェンはシゼの顔を見た。夜が明けているのか、調理場の入り口はわずかに明るいが、炉の影にしゃがみこんでいるシゼの表情はほとんど見えない。
だが、シゼの声には押し殺した痛みがあった。
夜明けとともに動き出す水夫たちの足音が、調理場の外をすぎていく。そちらへちらりと視線を流してから、イーツェンは握ったままのシゼの手にかるい力をこめた。
「うん。あちこちこわばってるけど、背中はそんなに痛くない」
シゼは少しの間、何も言わなかった。ロープを握ってか、それともポンプ作業でか、握った手はざらついていて、イーツェンはふと胸の奥が苦しくなる。本当に、ここまで彼らは一緒にどれだけのことをのりこえてきただろう。イーツェンをリグへ帰す、ただそれだけのために。
暗がりの中で、低く、囁くようなシゼの声がした。
「すまない」
驚いて、イーツェンはまたたいた。
「どうして?」
「‥‥まにあわなかった」
シゼの手を握って、彼には咄嗟に返す言葉がなかった。シゼからつたわってくる痛みは、彼がまるで予期していなかったものだった。
昨日、そしてこの一夜、シゼがどんな気持ちですごしていたのか──イーツェンははじめて思い、強く恥じた。彼の痛みは彼だけのものではないのだ。イーツェンと同じように、もしかしたらそれ以上に彼の痛みを分かち合う相手がここにいる。それなのに、自分の痛みや怒りだけで目がくらんでいた己がひどく愚かしく思えた。
左手をのばし、イーツェンはぼんやりした暗がりの中でシゼの頬にふれた。頬骨から顎までの、ざらついたするどい線を指先でなぞる。
「お前が、とめてくれた」
だが答えはない。
シゼの顎に力がこもっているのを指の腹で感じながら、イーツェンは呟いた。
「大丈夫だ、シゼ。こんなこと何でもない」
安心させようとした言葉だったが、口にした瞬間、それが真実であると気付いた。3回、それも軽めの鞭で打たれただけだ。肌もほとんど破れていない。この痛みはやがて跡形もなく消える。それが一体何だろう。たかが鞭だ。
何でもない。そうはっきり言葉にすると、心から澱のような重さがきれいに流れ去るのがわかった。彼らは2人とも無事で、ポルトリへ向かう船に乗っている。それが望みで、それだけで充分だったのだ。今、この時も。
レンギのピアスのことを思いながら、イーツェンは微笑した。そう、これだけでいい筈だ。
「ありがとう」
呟いて、イーツェンは顔を近づけ、シゼの唇に唇でふれた。シゼはそれを、マリーシに談判して鞭打ちをとめさせたことへの礼と思っただろうが、それ以上の思いをこめて乾いた唇をふれあわせてから、イーツェンは体を引いた。
「もう行って」
床に膝をついているシゼの太腿をぽんと叩く。今にも朝の鐘が鳴れば、ホードも起きてくる。シゼはためらったが、イーツェンはもう1度、少し力をこめて叩いた。彼は大丈夫だと知らせる。
シゼが気が進まなさそうに調理場から出ていくと、イーツェンは慎重に手足をのばして、よろよろと立ち上がった。気持ちはすっかり晴れていたが、体の痛みやぎこちなさが消えるわけではない。数日はつらい日が続くことだろう。
ひどく不器用に全身を動かし、少しでも筋肉をゆるめようとしながら、イーツェンは溜息をついた。自分の感情や痛みで気持ちがいっぱいで、シゼがどう感じているか考える余裕もなかった。昨日のことで彼もまた傷ついているのだと、そのことを考えていなかった。何て愚かだったのだろう。
──ラウもまた、そうだったのだろうか。
己の痛みだけに目がくらんで、イーツェンのことを思う余裕などなかったのだろうか。
右の拳が、また強く痛む気がした。