寒い。
 体が小刻みにふるえるのをとめられない。身の奥で凍った骨がカタカタと鳴っているようだ。
 ほとんど痛みのような寒さが体の芯に凝って、イーツェンは身を小さく丸めようとしたが、指を動かすのすらつらい。体が凍えきって、首の輪が氷のようだ。それとも本当に凍ってしまったとでもいうのだろうか。そうかもしれない。
 右肩を下にして横たわった体は、背後から抱きかかえられていた。背中にふれてくる体があたたかいのはわかるが、イーツェンの肌がそのぬくもりを感じとっても、体の奥までその熱が入ってこない。肌の表面ばかりに熱が溜まって、焼けついてしまいそうで、それが苦しい。
 イーツェンは少しの間もがこうとしたが、しっかりと腕でかかえこまれて、胸からへそのあたりまで丁寧な手のひらで何度も撫でられ、体から力が抜けた。動物をあやすように彼を落ちつかせるこの手を、彼はよく知っている。
 力がすべて抜けてしまうと、少しずつ肌の内側に沁みてくるぬくもりを感じた。やがて身ぶるいはおさまったが、相変わらず歯の根は合わず、何か言うこともできない。もっとも、言葉を作れるほど頭が回ってもいなかった。すべてが遠く、にぶい、それは夢のようでもあった。
 体の芯がまだつめたい。そこに氷でできた何かが棲みついてしまったようだ。
 かすれた息に入りまじって、唇から呻きがこぼれた。また手が、なだめるようにイーツェンの肌をすべる。その手は大きく、がっしりとした作りで、指と手のひらは固くざらついていた。イーツェンの体の形をたしかめるように、手はゆっくりと動いていく。肋骨、みぞおちのくぼみ、息をするたびに動く腹、腰骨。奴隷の暮らしとその後の旅で痩せたままの体をひとつずつなぞった。
 心の深くに、大きな安堵があった。この手は彼を傷つけたりはしないと、深いところで知っている。イーツェンはその手の感触に気持ちをまかせ、気持ちをゆるめる。
 なだめるようだった手の動きが、いつしか濃密なものに変わっていった頃には、イーツェンの呼吸も湿った短いものに変わっていた。背中に押し当てられた固い体へよりかかり、その体がしっかりと彼を支える感触と、手と指のゆるやかな動きに意識を集中させる。何も考えられないほどに心地よかった。
 指先がイーツェンの肋骨の下側をなぞり、みぞおちの周囲にゆっくりと円を描くように、少しずつ肌をあたためていく。じれったいほどの手はイーツェンの体の細かな起伏をひとつひとつなぞり、骨の形を追い、へその周囲に少しの間とどまって、腰骨までをなでおろした。
 腹の奥に、ざわめくような熱がともる。眠っているように体が動かなかったが、これが夢ではないのはわかっていた。イーツェンは小さく呻く。
「シゼ‥‥」
 耳元に息がくぐもって、背後からこめかみにくちづけられた。首筋に当たるシゼの髪は海水でごわついていて、くすぐったい。不意にイーツェンは笑い出したい衝動にかられた。身の奥に居座っていた重さが消え去って、体が軽い。
 もう1度、シゼの唇がこめかみから耳までをなぞった。強く抱きよせられたイーツェンは背後に体を預ける。裸の足が絡みあっていることにぼんやりと気付いたが、まだ体のどこにも意志が通っていないようで、指も動かせない。ただつたわってくるシゼの温度を肌が求めていた。
 シゼの手がへその周囲を動き、少しずつ下腹へすべった。イーツェンは溜息をこぼす。指は体の細かな起伏をなぞり、そうしてふれられるイーツェン自身、はじめて自分の形を感じるかのようだった。肌の内側がざわめいて、湿った熱が幾重にもひろがっていく。
 腰の奥に強い熱が動いた。肌の内側の熱がひびきあって、もっと強い熱を呼びさます。
 それは、久々の情動だった──いや、イーツェンが自分の体に許した、久々の情動だった。城でなじんだ、中身のない強烈なだけの欲望ではない。もっと深いところからゆるやかに体がほどけていくような、やわらかで、あたたかな何か。気持ちと体がひとつに溶けていくようだ。
 体の奥に棲みついていた恐怖が、砂のように崩れていく。自分が何を怖がっていたのか、イーツェンは知っていた。ぬくもりのない、底のないうつろな快楽。自分の中から醜いものが無理に引きずり出されていくあの感覚が、今でもイーツェンに悪夢を見せる。どこまでも落ちていくしかない悪夢を。
 だが、今イーツェンを愛撫しているのはシゼの手で、背中から彼をかかえこんでいるのはシゼの腕だった。その腕が必ず自分を受けとめるだろうと、イーツェンは知っている。シゼは何があってもイーツェンを支えた。いつでも、必ず。
 シゼの手のひらが腰骨にそって這い、右の太腿の付け根へゆっくりとすべってきた時には、イーツェンの牡ははっきりと屹立のきざしを見せはじめていた。下帯の上から手のひらでさすられて、思わず息を呑む。シゼの手が下帯をゆるめ、布の間から入りこんでイーツェンの牡を握りこむと、根元から先端へと丁寧な指でなぞった。敏感な薄い皮膚を指先で擦り、くびれをさすって、ふくらんだ先端に親指の腹を滑らせる。
 シゼの手の中でそれは固く屹立し、呼び起こされた熱と衝動が腰の奥に揺らいだ。イーツェンはかすれた息を呑みこもうとしながらきれぎれに喘ぐ。牡全体をシゼの手がしごきあげ、ざらついた肌に擦られる荒い快感に足先が引きつった。やさしいくせに、シゼの愛撫にはどこか容赦のないところがあって、それがイーツェンの中にある最後のためらいを押し崩す。
 呻き声がこぼれたイーツェンの唇を、シゼの左手が覆った。その手のひらに夢中でくちづけ、舌を這わせると、潮風の匂いが口の中にひろがる。酸いような汗の匂い、シゼ独特の、土と鉄の混ざったような匂い。シゼの存在がイーツェンの感覚を満たしていく。
 シゼの指がしっかりとイーツェンの牡を握りこみ、しごきあげる、その動きに合わせてイーツェンの腰が揺れた。はじめはゆっくりだった互いの動きはやがて荒々しくなり、重なりあう2人のリズムは強く、早く、一瞬ごとに高まっていく。
 どろりと濃密な熱が腰の芯に溜まり、揺らぎ、シゼの愛撫のひとつごとに、快感が全身にひびきわたった。頭の芯が白く灼けるような、短い、だが強烈な絶頂とともに、イーツェンはシゼの左手の中でくぐもった声をこぼし、彼の手の中に吐精する。
 息が喉の奥に熱くくぐもった。全身がふるえて、砕けた快感のかけらにまだ気持ちが翻弄されている。
 体の力がすべてどこかへ流れ出してしまったようで、ぐったりと横たわりながら、イーツェンは数度またたいた。荒い息がやっと鎮まっていくと、自分たちがどこにいるのか、やっと頭がまともに働きはじめる。
 もぞもぞと体を動かして狭い場所で寝返りを打ち、シゼに向き直った。表情が見えるほど明るくないが、シゼはおだやかな動作で毛布のはじで手を拭い、いつのまにか半分はがれていた毛布を2人の上へ引っぱり上げる。
「シゼ──」
「黙って」
 おだやかに命じられて、それでも何かを言おうとしたが、シゼの右手がイーツェンの首の後ろへ回った。まだ力の入らない体を引きよせられる。
 シゼと唇が重なって、イーツェンはすぐに自分の唇をひらき、シゼにしがみつきながらすべてを受け入れた。裸の肌がふれあい、まるでひとつの体のように手足を絡ませあって、ゆったりとした船の揺れに身をまかせる。シゼの舌はおだやかにイーツェンの唇の裏を這い、舌をなぞって、彼らは互いに互いの息をわけあいながら、長い間そうして揺られていた。
 イーツェンの意識がぼやけていく。体も気持ちもあたたかかった。空気はつめたく、首輪の金属は首にはりつくようで、彼らを包む毛布は湿っぽく、体の下の床もざらついていて痛い。だがここにはシゼがいる。
 ゆっくりとシゼの唇が離れ、イーツェンの唇の横から耳元までくちづけがなぞった。イーツェンは溜息をついてシゼの首の付け根に顔をうずめ、彼のぬくもりを全身で味わう。やわらかな溜息をこぼすと、そのまま安らいだ眠りの中に沈んでいった。


 嵐の置き土産はかなりのもので、水夫と大工は総出で甲板の隙間にまいはだ──麻と油を混ぜた物なのだと、ラウはイーツェンに説明した──を叩きこむ作業や、ロープの点検、継ぎ直し、付け替えなどに追われた。
 嵐の海に落ちた水夫のことは船内で名前が囁かれていて、だがイーツェンにはそれが誰だかわからななかった。一瞬だったのだろうか。嵐の波を、イーツェンは直にこの目で見ることはなかったが、凄まじい力で船を翻弄していたその波は、まるで怪物であっただろうとそれだけはわかる。そんな中に呑みこまれて、すべてが消える。その瞬間の冷酷さを思って小さく身ぶるいした。
 イーツェンは船内の片付けを手伝い、水をブラシで集めて拭き取ったり、ちぎれたロープの切れ端をほどいて繊維をばらばらにする作業をした。こんなものでも後で使うらしい。
 マリーシによれば、船体は無事でも、これだけの嵐に揉まれると波で船体のあちこちにねじれが出て板の継ぎ目から水が入ってくるとのことで、実際、水夫たちは班を組んで交代でポンプに付きっきりになっていた。
「‥‥大丈夫なんですか?」
 水が入ってくると聞いて不安になったイーツェンが問うと、マリーシは面倒そうに手を振った。
「明日までもてば大丈夫だ。船体のねじれは多少は戻る。駄目なら捨てられるだけ荷を捨てる」
「完全には直らない‥‥」
「港につくまで、ポンプは昼夜分かたず動かすことになろうな」
 何でもないことのようにマリーシは言ったが、イーツェンはシゼのことを考えていた。折角嵐をくぐり抜けたのに、無理にこき使われたりしないだろうか。
 せめてもう少し会いたいな、と溜息がこぼれた。イーツェンが目をさました時、シゼの姿はすでになく、イーツェンはきちんと服を着せられて毛布にくるまっていた。一瞬何もかもが夢だったのかと思ったが、体に残る記憶はあまりに鮮やかだったし、毛布には精液の匂いが残っていて、イーツェンはつい赤面した。吐瀉の痕がついた服と一緒に甲板で毛布の汚れも洗ったが、その間もずっとシゼの手の感触が脳裏から消えなかった。
 その毛布はシゼのものではなかったが、嵐の混乱の中で毛布の持ち主に誰もこだわらなかったのだろう。甲板の手すりに巻いてロープで結んでおいたら、いつも洗濯をやらされている下っ端の水夫ががまとめて取りこんでいた。洗濯係がいても、多くの水夫が航海が始まってから滅多に着替えず、船には独特の饐えた匂いがたちこめている。
 嵐が去った船内には気だるさと活発さが同時に漂っていて、嵐を乗り越えた高揚と疲労感が水夫たちの顔に入りまじっていた。イーツェン自身、緊張の反動とほっとした気持ちが混ざって、何だかぼんやりしている。できるなら暗がりにもぐりこんで猫のように身を丸め、丸1日くらい眠っていたい。
 そう言えばサヴァは嵐の間どこにいたのだろう、とイーツェンは猫のことを思った。
 マリーシの水差しに水を満たして部屋を整え、イーツェンは調理場の片付けに戻ったが、猫の姿は見なかった。調理場の棚の扉は固定してあったが、棚の中身がぐちゃぐちゃにかきまわされてしまっている。蜂蜜の壺が割れて、道具にべったりと蜜がついたのには閉口した。
 冷えと疲れで背中の痛みがじくじくとうずく。あらかた片づけが終わると、イーツェンは調理場のすみに座りこみ、もらったワインをすすった。今日の夕食には、全員に1杯ずつの酒がふるまわれたのだ。それほど酒を飲まないイーツェンではあるが、今日の酒はありがたい。
 やがて腹の底がぼうっとあたたかくなって、棚にもたれ、頭を後ろに預けた。いきなりあぐらの膝に誰かが手を置いて、見おろすと、のしのしと猫がのぼってくる。当然のようにイーツェンの足の上におさまると、猫はそこで丸くなり、ぼろ布を丸めたような塊になってしまった。ついイーツェンは笑ってしまう。人の心配をよそに、この船で1番何事もなかったかのような顔をしているのはサヴァかもしれない。
「何だ、掃除に使われたいか?」
 そう言って、雑巾のような小汚い毛皮をなでると、猫は断末魔のような呻きを上げた。喉を鳴らしているらしい。
 波が多少おさまってから、炉に火を入れたので、調理場はほかの場所よりあたたかかく、静かだった。大工の助手が壁の煉瓦のひび割れに漆喰を塗っているだけで、ほかにさしせまった仕事はない。ホードは足が痛む様子で、珍しく風に吹かれに甲板に上がっていた。船倉で水に濡れていた芋を床に並べて乾かしていて、これは明日の食事に使う。
 のんびりと酒をすすっていると、戸口に影が動いて、ホードが戻ってきたのかとイーツェンは顔を上げた。だが、かわりにシゼがそこに立っているように見えて、重い瞼をこする。それからもう1度よく見ると、やはりシゼがそこに立っていた。
 シゼは戸口に手をかけ、ちらっと調理場全体に視線を走らせてから、猫に膝を占拠されて立てないイーツェンを見た。もう夕方なので炉に火が入っていても調理場は暗いが、シゼの口元に浮かんだ微笑ははっきりと見えて、イーツェンも笑みを返した。
 ひとつうなずき、シゼはそのまま戸口から姿を消す。少しだけ残った酒を飲み干し、イーツェンは猫の尻をぽんぽんと叩いた。
「もうポルトリまで何もおこらないといいなあ」
「ぎゅ」
 のどかな相槌をもらって、イーツェンはあくびをする。船旅がこんなに大変だとは思わなかった。船に乗りさえすれば後は港につくだけだと思っていたのが、今となっては信じられない。
 誰もが疲れきっているからだろう、その夜はいつになく静かで、いつもは咳や痛みの声を上げるカナバも壁のそばでおだやかに眠っていた。酒を分けてやったから、とラウはくたびれきった様子で言って、イーツェンのそばにもぐりこむや、たちまち深い寝息を立てはじめた。イーツェンも痛む背中でうまく眠れる体勢を探し、目をとじる。
 ポンプは夜の間も動かさないとならないので、ラウも夜中の当番に出ていった筈だが、それに気付くこともなく、イーツェンは朝までぐっすり眠った。おだやかな眠りだった。
 まさか、目がさめるのとほとんど同時に水夫たちに甲板へ引きたてられていくなどとは、思いもしていなかった。


 思ったより寝すごしてしまったようで、もう海の上に朝日がしっかりとのぼっていた。
 甲板に立たされ、目の前の甲板長ににらみつけられたイーツェンは、まさか朝寝坊で叱られるのかとわけもわからず困惑した。だが下層にはまだつぶれるように眠っている水夫たちもいたし、イーツェンは甲板長の仕事と何の関係もない。ホードなら叱るかもしれないが。
 甲板長は丸顔で、髪をきっちり布に包んでいるので、余計に顔全体の丸さが際立っている。睫毛が濃く目も大きいので、笑えば愛嬌があるのかもしれないが、眉間と口元に厳しい線が濃く刻まれて、この険しい顔が笑ったところなどイーツェンには想像ができない。
 つっ立ったイーツェンの胸元に、甲板長が棒鞭をつきつけた。
「船での盗みは厳しい罰を受ける」
 返す言葉を失って、イーツェンはまたたいた。周囲を遠巻きにする水夫たちにちらりと目を走らせるが、なじんだ顔はない。
 正面の高甲板に視線をあげると、甲板の上の帆柱の前に船長が立ってこちらを見おろしているのが見えた。きっちり飾りボタンがしめられた上着の胸元まで見て視線をそらしてしまったので、どんな表情をしているのかはわからない。ただ、何かとんでもないことになっているのではないかという嫌な予感が全身を満たした。
 盗み、と甲板長は言った。船旅が始まって2日目の朝に自分の荷をあさられた以外、思い当たることはない。ホードの言葉に忠実に、イーツェンは何ひとつつまみ食いしたこともなければ、誰かの持ち物に手を出したことなどないのだ。
 ヒュン、と甲板長の棒鞭が空を切る。するどい音に身がすくんだが、イーツェンは平静な顔を保とうとした。怯えてはならない。後ろめたさだと取られれば厄介なことになる。
 甲板長の視線をとらえ、あくまで下手に、イーツェンは口をひらいた。
「私は、何も盗んではおりません」
「なら嵐が引けた後、何であちこちうろついて首をつっこんでた」
「それは‥‥」
 言えずに、イーツェンは言葉を途切らせる。まずい。甲板長の目が一層するどくなったのを感じて焦ったが、何と言ったものだろう。人の毛布の中や柱の影までのぞきこんでうろうろしていたのは本当だ。
「‥‥人のものを盗むためではありません」
 ますますあやしい答え方になってしまって、イーツェンは内心頭をかかえた。何故こんなことになっているのかわからないが、たとえここでシゼを探していたと正直に言ったところで、また別の厄介に巻きこまれそうな気がする。しかも、今度はシゼと2人で。
 甲板長が唇のはじを下に曲げて、噛み煙草で黄ばんだ歯の一部を剥いた。イーツェンは息を深く吸って、言いかえる。
「怪我をして動けない人がいるかもしれないと思ったんです。あんな嵐ははじめてだったから、気になって」
「医者に頼まれもしないのにか」
 何ひとつ信用していない声で上からぴしゃりと言い返されて、イーツェンは黙った。ホードのガラガラ声とはまた違う、甲板長のだみ声と叩きつけるような調子には、いつも怒りと暴力の気配があって、イーツェンはそれが怖い。自分にそれが向けられると、心臓の上がきりりと痛くなってくる。
 海風が首すじを冷やし、身が小さくふるえた。ゆるやかな風が帆を打って、頭上からはためく音がやけに大きくひびく。だがそれよりも、空気を裂く棒鞭の音の方が強い。
「船医の部屋からケシの酒がなくなった」
 甲板長に言われて、イーツェンはぽかんとした。
「まさか、それを──」
 1歩踏み出しかかって棒鞭で制される。だが拳を握って、最後までは言い切った。
「私が盗んだと? 一体、何のために」
 ケシの種を使って作ったチンキを酒に溶いたものを、痛みを消すための薬として用いることは知っている。リグにはそもそもケシがないが、ユクィルスでも怪我の治療に使われるのを見たし、エナもチンキを瓶につめて持っていた。
 だが何故そんなものを盗んだと言いがかりをつけられなければならないのか、イーツェンは怒りを腹の底に押しこめて甲板長を見据えた。甲板長は険しい表情をたたえたまま、ゆっくりとイーツェンの横を回る。
 目でその動きを追ってはいたが、いきなり膝裏を蹴られて、イーツェンは前につんのめり、甲板に膝から崩れた。他の水夫と同じように甲板長も裸足なのがわずかな救いだが、膝に痛みが走った。
 前に右手をついて体の均衡を取ろうとした瞬間、背中に強い衝撃を受けてイーツェンの肺から息が叩き出された。火花が背骨にそってはじけたようだ。悲鳴だけは歯を噛んでこらえた。
 棒鞭の先がイーツェンの背中の痛みをなぞった。
「背中の鞭傷の痛みに、ケシを使ったんじゃねえのか?」
 否定しようとしてイーツェンは息を吸ったが、甲板長がしゃがみこんで耳元で怒鳴る方が先だった。
「てめえが荷物に手をつっこんでるのを見た客もいるんだよ!」
 信じられない思いで顔をはね上げ、イーツェンは甲板へ必死の視線を走らせた。目立つ色の服を探すが、見えない──ジャスケは甲板にはいない。だがあの男がイーツェンを弾劾した「客」であることをイーツェンは疑わなかった。ほかの誰にも理由がない。
 脅しだ。イーツェンの運命など自分の一言でどうにでもなるのだと。
「私じゃない」
 抗議したが、自分の耳にもその言葉は弱々しくひびいた。商人の客の言葉と奴隷の反論では、とても太刀打ちできない。ジャスケがイーツェンを名指しした段階で罪は決まったのだ。もしイーツェンの首に輪がなければこうまで問答無用の扱いは受けなかっただろうが、今となってはどうしようもなかった。
 イーツェンの髪をつかんで首を後ろに引き上げながら、甲板長が高甲板へ向けて怒鳴った。
「10でいいか?」
「かまわん」
 あっさりと船長の返事が戻ってくる。まさかと思って身をこわばらせたイーツェンのシャツがたちまちはぎ取られ、剥き出しの背中にあたる海風のつめたさだけでなく、全身の肌が総毛立った。そのまま引きずられて、中央の帆柱を抱かされる。頭上で帆が風に鳴り、帆柱が動いた。
 肩ごしに振り向くと甲板長は棒鞭のかわりに縄の鞭を手にするところで、太い眉の下からイーツェンをじろりとねめつけた。
「動くなよ。数を足すぞ」
「‥‥‥」
 抗おうとした口を、イーツェンはとじる。どうしてこんなことになったのか、まだ彼は混乱していたが、何を言っても聞き入れられないのがわかった。何の証拠もないのに、罰せられるべきはイーツェンであるのだとはじめから決めこんでいる。物がなくなったら誰かが報いを受ける、それが船の法であることは聞いていたが、何の身の覚えもないのに、どうして彼が罪をかぶらなければならないのだろう。
 帆柱の根元には太いロープが幾重にも巻かれている。そのロープに膝を押し当て、太い柱に両腕を回して、イーツェンは周囲の野次馬の顔を見た。2日前の鞭打ちを人垣が取り巻いていたように、今も遠巻きの船乗りたちが、イーツェンの背に鞭が振りおろされる瞬間を待っている。
 眉をひそめた顔もあれば、ただおもしろがっている顔もあった。気持ちが乱れて視線が定まらず、イーツェンは浅い息を何度も呑みこむ。肌にあたる海風のつめたさにもかかわらず、もう全身がじっとりと汗ばんでいて、膝がふるえた。
 その時、人々の間に、身じろぎもせずイーツェンを見ている青ざめた顔が見えた。イーツェンはまばたきして、ぼやけそうな視界を払う。軽口を叩きあう数人の水夫の肩の向こうからイーツェンをじっと見ているラウの顔は、ほとんど色を失っていて、彼は今にも崩れそうに見えた。
 その顔を見た瞬間、わかった。
 誰がケシの酒を盗んだのか。わかった瞬間、心臓の上で何かがはじけたようで、イーツェンはきつく目をつぶったが、ふたたび目をあけても、ラウはまだ手すりの前に立って亡霊のような顔でイーツェンを見つめていた。
 誰もが知っていた筈だ──知っている筈だ。誰があの酒をほしがっていたのか。
 イーツェンはラウの目を見ていられず、また目をとじた。嵐の後、カナバはいつもの咳もなく静かに眠っていた。あれは嵐の疲れとふるまい酒のおかげだとイーツェンは思っていたが、そうではなかったのだろうか。
 水夫たちの多くも、船医も、誰が盗んだか知っている筈だ。だから彼らは仲間のかわりにイーツェンをいけにえにさし出したのか。ゆきずりの人間、ポルトリで船をおりる「丘もの」の奴隷を。
「10だ」
 甲板長の声とともに、背中に縄鞭の先が垂れた。イーツェンは目をあけて甲板に視線を据え、息を吸う。鞭の感触に体が引きつるのをとめられなかったが、怯えを外には見せるまいと歯を噛んだ。どれほど怯えているか、今この瞬間にも悲鳴をこらえているのだと、誰にも悟られたくはなかった。
 予告なしの一撃が背中全体を痛みで灼き、イーツェンの体は帆柱に押しつけられて、くいしばった口元から呻く息がこぼれた。