準備と腹ごしらえを終えた後、当番以外の船乗りたちはほとんどが中甲板と下層甲板に転がって眠っていた。
 窓は鎧戸をおろした後に補強の材木で封じられ、灯りの使用は禁じられて、格子天井から入ってくる光だけでは誰がどこにいるのか見渡してもわからない。中甲板でもそうなのに、下層甲板は昼間から暗がりに沈んでいて、周囲から押しよせてくる音がやけに大きく聞こえた。船体のきしみ、揺れ、船底から聞こえる水の音──この4日間で慣れた筈のすべてが、今や嵐の前触れではないかとイーツェンの神経を刺す。
 ホードに言われたように、イーツェンも眠って備えようと思ったのだが、いちいち船の揺れが気になって眠れない。はじめはそうでもなかったのに、段々と不安がつのり、心臓の鼓動が速くなって、気付くと呼吸がひどく浅い。
 怖いのだ、と何度目かの寝返りを打った後、イーツェンは自分に認めた。心底怖い。嵐も怖いがそれより一体何が起きるかわからない、この宙ぶらりんの状態が怖い。自分がどうなるのか、シゼがどうなるのか。
 毛布の中に頭までもぐりこみ、船の音やカナバの咳をできるだけ遠ざけて何とか眠ろうとしていると、背中からラウの声が囁いた。
「リオン?」
「ごめん」
 息をついて、イーツェンは毛布の中でもう1度寝返りを打ち、ラウに向き直る。ラウは今し方まで甲板の仕事をしていて、休憩を取りに戻ってきたのに、イーツェンが落ちつかなくては眠れまい。
 ラウはイーツェンと同じように毛布の中にもぐりこんで、2人は毛布を頭の上まで引っぱり上げ、夜更かししている子供のように囁きかわした。
「眠れないんだろ?」
「うん‥‥」
「俺もだ」
 そう、声になるぎりぎりで囁いたラウは、だが妙に楽しそうに感じられて、イーツェンは眉をよせた。案の定、ラウは続ける。
「冬の竜嘯に出会うなんて、すっげえ。一生の語り草だぜ」
「‥‥‥」
「知ってるか? 竜嘯は竜の息吹から生まれるんだって。あれに吹かれても死ななけりゃ、次に海で沈んでも竜が守ってくれる」
 ラウの言うことはまるで、膝をすりむいた子供が親に「明日おこる悪いことがひとつ減った」と慰められたのをそのままくり返しているようで、イーツェンには絵空事のようにひびいたが、何も言わなかった。はげまそうとしているのなら気持ちは嬉しいし、ラウが本気で信じているならそれに文句をつけたくない。
 かわりに、昼から気になっていたことを聞いた。
「ラウ。船に女の人が乗るのって駄目なもの?」
 最初の日、ラウは「女と死人が船に乗るのは不吉」だと言ったのだ。マリーシが男のなりをしているのはそれも理由なのかもしれない、そう思って聞いたのだが、ラウの返事はあっさりしたものだった。
「海の女神が嫉妬するからね。でも客で乗る女はたまにいるよ」
「ふうん」
 特にそれほどのこだわりがあるわけでもないらしい。まだ今ひとつ、イーツェンは船の慣習が呑みこめない。
「俺が乗ったことのある船には、女の船長もいたよ」
 ラウの言葉にイーツェンは驚き、そのまま2人は毛布をかぶって、ひそめた声で話をした。ラウが船で見たことのある不思議な物。夜更けに水平線を走っていく虹色の炎、全身に棘が生えた奇妙な魚の話、金色の鱗を持ち、船と同じほどに長い海蛇。
「お前はどんなとこで育った?」
 そう聞かれたイーツェンは「海のない場所」とだけ言って、リグの名は口にしなかったが、かわりに山の話をした。枯れ葉におりた朝露がすべて凍りついて、地面に光の粒をちりばめたような冬の朝。春に川の氷が割れて谷に鳴りひびく恐ろしい音、生まれたての子羊の何とも言えない匂い、谷の底で発した囁きが山の中腹にいる者にまではっきりと届く、不思議な谷の話。
 ラウの話が時にイーツェンに荒唐無稽に聞こえるように、ラウもイーツェンの話を話半分で聞いているようで、イーツェンはそれがおかしかった。同時に、リグをひどくなつかしく思い出す。もう雪はふっているだろう。子供たちは洞窟の奥へ雪を大量に運びこみ、夏の間に物を貯蔵するための氷室の準備をさせられているのだろうか。
 そんなことを話しながら、いつの間にか眠りに落ちたイーツェンは、体を揺さぶられてとび起きた。あたりは完全に真っ暗で、油燭の灯りも格子甲板の天井からの光もない。夜になっているのかどうかもわからない。
 ぐらっと床が傾いて、イーツェンはあわてて床に手をつき、すべっていきそうな体を支えた。誰かに揺さぶられたのではない、船の揺れで目をさましたのだ。
 傾きがとまったかと思うと、下から大きな浮遊感が体を持ち上げ、じれったいほどゆっくりと傾きが戻っていく。戻るだけでなく、大きく逆に傾いて、船体のあちこちできしみが上がるのをイーツェンは血が凍る思いで聞いた。
 頭上では船の鐘が鳴り出している。周囲を人々が動き回る気配はあったが、自分の鼻も見えないような暗闇で、イーツェンは床に手をついて這った。床に敷かれた木箱が体の下でガタガタと鳴る。これは床に固定されているからひっくり返ったりしないとラウは言ったが、建て付けが悪くて、とても安心できない。
 毛布を引きずって壁まで近づく間、人に幾度もぶつかったが、互いにかまう余裕はなかった。イーツェンは柱の近くの壁によりかかり、柱に片腕を回して体を落ちつけようとした。揺れがひどくなったらそうやって柱のそばにいるようにとラウに言われたのだ。
 闇の中では船体のきしみや荷箱が揺れる音とともに、水夫たちの話し声がひびいていた。いつもと同じ、当直に甲板へ上がっていく男たちの、軽口や互いを馬鹿にした親しげなからかい。船が、誰かにわしづかみにされたように揺れているのに、彼らがいつも通りなのがイーツェンには信じられない。
 通路の奥、昇降口の上から薄い明かりが落ち、誰かが早口で命令した。その内容はイーツェンには聞こえなかったが、下の闇の中で水夫たちが一斉に「おう!」と大きなかけ声を上げる。狭い通路に肩を並べて足で船床を踏みしめ、頭上を仰いで薄明かりに目ばかりがギラギラと光る男たちの姿は、イーツェンが一瞬息を呑むほど勇猛であった。
 途端、彼らは一斉に動き出し、闇の中を次々とものすごい早さで上の層へのぼっていく。まるで獣の群れが何かをめがけて心をひとつにしたような、獰猛な秩序がそこにあった。
 見送って、イーツェンは毛布を肩にかけ、揺れの中で柱にしがみついて、空気のつめたさに身をふるわせた。いつこんなに寒くなったのだろう。下層ではまるで時間がわからないが、少なくとも朝の鐘はまだ鳴っていない。夜明け前だろうか。
 周囲からは、今は呼ばれていない様子の水夫たちの話し声が聞こえる。イーツェンは何かにしがみついていなければならないというのに、彼らはこの程度の揺れはものともしないらしい。だがそれを気恥ずかしく思う余裕もなかった。足元を誰かに持ち上げられ、放り投げられたような浮遊感と、続く揺り戻しに悲鳴を殺す。
 いつはじまったのかもわからない。いつ終わるのかもわからない。イーツェンにとっては長い、それが嵐の始まりだった。


 何がおこっているのかまるでわからなかった。船というのは大体左右に揺れるものだと思っていたのに、体は左右だけでなく前後にも激しく揺さぶられ、柱に頭からつっこみそうになった次の瞬間には逆の方向へ引きはがされる。
 体は傾き、さらに傾いて、時おりイーツェンは、まさに今船が海底へ向けて沈んでいるのではないかと怯えた。至るところで船体が砕けそうにきしみ、正体のわからない何かが床のすみからすみまで転がって音を立て、壁にぶつかる。まさかあの猫ではないかと、馬鹿なことを考えたりした。
 まるで、自分が爪の先ほどの小石になって、箱の中で転がされているようだ。
 イーツェンを何より怯えさせたのは、地の底からひびくような轟音と、骨を揺さぶる振動だった。波がこれほど凄まじい音を立てるのか、それとも何かイーツェンには想像もつかないものの音なのか、船が外から押しつぶされているのではないかというほどの音が四方八方から押しよせ、船体がふるえる。今にもすべてを粉々に砕きそうな、巨大な獣が喰らいついて船をむさぼっているような、そんな獰猛な音であった。
 船内にいる筈なのに、あちこちで水音がした。1度など上からしぶきのような物が落ちてきてイーツェンの顔を濡らし、海水だと言うのは味でわかったが、どこからの水なのかひどく不気味で仕方ない。凍るようなその水を闇の中で拭って、イーツェンは波がすぐ頭上まで覆っている想像を頭から追い払った。もう船が海中にいて、今にも四方から壁を突き破って海水がなだれこんでくるのではないかという、馬鹿げた考えがなかなか消えない。
 交代の時間がきたのか、また上層から灯りがのぞいて、船員が何か怒鳴り、水夫たちが昇降口に押しよせた。さすがに皆、壁に手を当てて揺れをこらえているが、次々と梯子をのぼって消える姿をイーツェンは信じられない思いで見つめた。この波風の中、一体水夫たちに何ができると言うのだ。まさか帆を上げているわけでもあるまいに。
 また体がぐっと下から持ち上がったかと思うと、船体が斜めに傾く。
 傾いて、落ちる──
 イーツェンは柱にしがみついた。胃と心臓が体の中でひっくり返る。反響するきしみと轟音と、耳の中で鳴る鼓動の区別がつかない。
 水夫たちの体ももつれて壁に叩きつけられた。船が2つに折れるのではないかと言うほどの、ほとんど叫びのようなきしみが上がり、まだ船は落ちていく。一体海の上で何がどうなっているのか、あの巨大な船が波にどれだけ持ち上げられたのか、イーツェンには信じられない。腹の底から吐き気がこみあげたが、さっき手持ちの布の中に吐いたのも胃液だけで、もう胃は空だ。
 強い衝撃とともにイーツェンの全身が柱に押しつけられ、次の瞬間、足元から突き上げるような揺れにはじかれて、逆の方向にはねとばされそうになった。
 水夫たちがまばらな歓声を上げる。大波をひとつ乗りきったのだ──と彼らの興奮した怒鳴り声からイーツェンは悟ったが、同じように祝う気になどとてもなれない。
「わっか!」
 耳元で、誰かが繰り返しイーツェンのあだ名を呼んでいる。この揺れの中でまさか自分が呼ばれていると気付かずにいたら、ついに耳を引っぱられて、悲鳴を上げたイーツェンは水夫の誰かと顔をつきあわせていた。
「船医んとこにラムをたっぷり持ってけってさ」
「無理だよ!」
 ほとんど悲鳴そのものの声で、イーツェンは抗う。だが水夫はイーツェンの尻を蹴るようにして柱から引きはがすと、酒樽のある船倉の方へイーツェンを押しやった。イーツェンはすぐさま床に這いつくばったから、転がしたと言う方が近い。
「手伝ってやるから先行ってろ」
 もう1度尻を蹴とばされて、イーツェンは膝をついたまま酒樽の方へ向かった。眩暈と吐き気と船の揺れで、自分の体をまっすぐに保つこともできない。這うようにして酒樽までたどりついた時には、すぐ後ろに水夫が道具を持って戻ってきていた。自分でやれよ、と思いながらイーツェンは道具を受け取る。もっとも、彼らは多分どの樽をあけていいか知らないのだ。
 水夫は小さな灯りの箱も持ってきていて、イーツェンの揺れる手元を照らした。船でしか見たことのない金属製の四角い箱の中に収められた灯りで、覆いに入った細かい切れこみから光が洩れてくる。炎や油が外にこぼれ出さない仕組みが施されているようだ。
 荷崩れしないようロープで留められていても、ガタガタと揺れる荷の間に入るのは怖い。崩れてきたらひとたまりもない。イーツェンは勝手に1番手前の酒樽に決めると、荷止めのために打ちつけられている横板にしがみつきながら樽の蓋を取り、中に革袋を放りこむようにしてたっぷりと酒をすくった。幸い、酒が大量にこぼれ出すほど船が傾く前に3つの酒袋を満たし、必死で蓋を戻す。木槌で叩く手が震え、酒の匂いでもっと気分が悪くなったが、イーツェンは「飲め」と口に当てられた袋に逆らわず強い酒を一口飲んだ。
 水夫も大きく酒をあおってから、袋の口を縛った。甲板に出ていたのか、彼も頭から足先まで濡れている。イーツェンの手に酒袋を渡した手は氷のようにつめたく、イーツェンは男が寒さで歯の根も合っていないことにやっと気付いた。
「船医んとこに持ってけ」
 男がふるえていなければ、イーツェンは抗っただろう。上の層の船医の部屋まで自分がたどりつけるかどうかイーツェンにはわからない。だが重い酒袋を左手に下げ、右手で荷止めの板にしがみつきながら、うなずいた。水夫たちは甲板で波をかぶって働いたのだ。それに比べて、船内のイーツェンにふりかかる災難と言えば、船酔いと揺れであちこちに鞠のように転がされることくらいだ。
 灯りも持っていけと言われたが、断った。持つ余裕がない。壁によろよろとしがみつき、やっとのことで昇降口までたどりつくと、今度は梯子に1段ずつしがみついて、振り落とされないよう必死で上へ這いのぼった。
 上の層の床へ転がった時には、ほとんど泣きたい気分で、ひどい吐き気をこらえて喘いだ。すぐ真上から何かが全力で船を叩いているような音がする。ドン、ドンと落ちてくるそれが、波が甲板や船体を叩く音なのだと気付き、イーツェンはぞっとした。
 ここでは船倉の荷物がきしみあう音はしないが、かわりに波の音がひどく近い。床はあちこち濡れていて、至るところで水夫たちがひしゃげた粉袋のように転がっていた。手足をついて這うように進むしかないイーツェンは、手に当たるびしょ濡れの服にぎょっとしては、薄闇の中で目をこらして相手の顔を見ようとした。よもや、シゼもこの嵐の中で甲板で働かされたりしているのだろうか。彼がどこにいるのか、イーツェンはひどく不安だった。
 頭上から大声で、面舵や取舵とせわしない舵取りの指示がふってくる。船尾にある舵棒に取りついている男たちへ、上甲板から指示が伝言されるのだ。この嵐で舵が何の役に立つのか、そもそもどっちに進むか誰がどうやって判断できるのか、とイーツェンは思うが、指示は矢継ぎ早に出ている。
 酒袋をかかえたまま床を這いずりながら、イーツェンはこの仕事を言いつけられたことに少しだけ感謝した。目先の仕事に集中できるからか、さっきより恐怖心が薄れている。水夫たちの顔をのぞきながら、びしょ濡れの床に伏せるようにして進んだ。
 上から水がボタボタと滴ってきてぎょっと見上げると、天井にわずかな光が見えた。格子天井のある部分のようだ。今は格子の上に蓋をしているが、隙間から船内へ容赦なく水がふってきている。下層に洩っていたのもこの水だ。
 大きく船が傾くたび、亀のようにうずくまって、船医の部屋にたどりついた時にはイーツェンは疲れ果てていた。薄暗い部屋に転がりこんで、膝をついたまま医者に酒袋を渡すと、壁際で身を抱えて吐こうとしたが、胃から喉までが焼けるように痛んだだけで何も出てこなかった。本当に胃がからっぽなら、胃の中で転げ回っている物は一体何なのだ。
 船医が後ろからイーツェンの尻を蹴った。
「手伝え、わっか」
 もはや逆らう気力もなかった。
 船医の部屋はきちんと壁で区切られた船室だが、イーツェンがこれまで見たどんな治療の部屋とも違っていて、まるきり医者の部屋らしくなかった。薬の匂いもしない。ただ船の至る所と同じ、木とタールと海、それに海旅を幾日も続けた人間たちの饐えた匂いだけだ。
 寝台すらない。低いテーブルが奥に据えられているが、棚もなく、イーツェンが扉のない入り口から見かけるたび、医者はいつも何が入っているのかわからない長箱に尻をのせて噛み煙草をくちゃくちゃと噛んでいた。
 今はその床いっぱいに水夫が転がされ、うずくまり、テーブルの上にも誰かが横たわっている。船医は床にいる男たちを大きな手振りで示した。
「酒を飲ませてやれ」
 足の踏み場もない部屋でイーツェンをのりこえ、船医は壁に肩をつけて揺れをやりすごしながら、テーブルで寝ている男へ近づいた。体を起こしたイーツェンは酒袋のひとつをつかみ、床に転がっている男の頭を膝にのせて、袋の注ぎ口を唇にあててやる。
 男の全身はつめたい海水に濡れそぼり、全身がふるえていた。下で毛布にくるまっていたイーツェンですら寒気を感じるほどだったのだ、甲板でつめたい波に打たれて嵐に吹かれた男たちは骨まで凍えているにちがいない。
 酒を飲ませ、そのへんからつかんだ布で取れるだけ髪や服の水気を取ってやる。そうしている間にテーブルの上の男が絶叫し、イーツェンは袋を取り落としそうになった。船医が波の轟音に負けない大声で怒鳴る。
「肩が外れてるぐれぇで泣き言抜かすな!」
 それからイーツェンの方へ向かって怒鳴った。
「飲んだヤツは出てけ!」
 ぶつぶつ言いながら、まるで死人が動くように、酒を飲んだ水夫たちは部屋を這い出していった。残った男たちを同じように面倒を見ながら、恐怖と船酔いで、寒いのにイーツェンの体中に脂汗がにじんでいた。手を動かしていると少し気がまぎれはするものの、はっきりと物が見えない薄暗さから人の呻きが聞こえてくるのが恐ろしい。
 揺れの中でイーツェンは袋を落として、あたりに酒をぶちまけてしまった。床に這っている水夫たちがそれを奪いあい、船の傾きをものともせず酒袋に口を当てて酒をむさぼる。この寒いのに上半身裸の男もいて、濡れた服が体温を下げて危険なのはイーツェンも知っているが、暗闇で革袋をつかみあう手や、裸の背中がぬめりと光るように浮き上がるのは恐ろしい光景だった
 突然、耳元で銅鑼を打ち鳴らしたような凄まじい音がして、イーツェンは仰天した──いや、ほとんど麻痺した。体を直接打たれたような、耳の外側と内側から同時に叩かれたかのような衝撃音だ。
 意識がとんでいたので、誰かに口を押さえられるまで自分が叫んでいることに気付かなかった。揺さぶられ、壁に押しつけられている。イーツェンはもがき、口から相手のつめたい手を外して、空気を求めてあえいだ。
「今の──」
「雷を知らねえのか、わっか」
 下層の船猿たちの1人だ。イーツェンの頬をパチンと叩く。
「気合い入れろ! 竜が吠えはじめたぞ!」
 また世界が裂けるような轟音がとどろき、イーツェンは身をちぢめた。全身の筋肉がこわばって、背中の芯に強い痛みの予兆があるが、吐き気と恐怖でそれすらどうでもいい。
 周囲から、怒鳴るような歌声が湧き上がる。水夫たちが放り出した足で床をどんどんと蹴りながら大声で何かを歌い出す。そんな中、イーツェンは医者に首根を引っつかまれてテーブルへつれていかれると、またかつぎこまれてきた水夫の足に刺さった木片を医者が引き抜く間、男の足を押さえさせられた。男は歯の根が合わぬほどにふるえていて、体は死人のようにつめたい。
 医者は暗い中でも意外としっかりした手で傷を洗って布を巻くと、その男も部屋から追い出した。床に、ぺっと噛み煙草を吐き捨てる。
「こりゃ、帆布が何枚かいるかもなあ」
 医者の呟きに、イーツェンは反応する気にもならなかった。船で死人が出れば、帆布で骸をくるんで海に沈めるという話はラウに聞いている。だがもう、誰を布にくるむというより、船ごと沈まなければそれで充分だろうと、投げやりな考えしか浮かばない。
 いきなり後ろから、ひやりとした腕が首すじを巻いた。
「リオン、酒くれ」
 しゃがれているが、ラウの声だ。イーツェンが振り向くと、間近で見るラウは上半身裸で髪が濡れそぼり、肩が落ち、疲れきっている様子だった。イーツェンは壁にかけておいた酒袋を取ってラウに渡してやる。
 ラウはむさぼるように酒を飲むと、船医に向き直り、よろめいてテーブルに手をついた。
「なあ、たのむ──」
「駄目だ」
 答えはにべもない。ラウは濡れた前髪をかきむしるようにしながら、
「いっぺんだけでいい。痛がってんだよ!」
「ケシは俺だって勝手にゃ使えねえんだよ。ラムなら持ってっていいからたらふく飲ませてやれ」
 その言葉が終わらないうちに誰かがカナバを担ぐように入ってきて、部屋の隅におろした。イーツェンの位置からはテーブルの影になって、ただでさえ暗い中でほとんど様子は見えない。ラウが「カナバ」と呼んですっとんでいかなければ、それが誰かもわからなかっただろう。
 雷が鳴りひびき、甲板のあちこちから声を合わせた歌声が聞こえてくる。船のきしみが一層ひどくなったようだ。恐怖が多すぎて、まるで麻痺したようなにぶい感覚の中、イーツェンはのたうち回っているカナバの姿と、何か叫んで彼を押さえつけようとするラウの姿を見ていた。
 また雷が鳴る。耳が痺れて、音が遠ざかった。よろめいたイーツェンは、不意に逃げ出すようにその部屋を出ると、膝をつき、身をかがめて吐いた。


 扉を手のひらで叩くと、マリーシはすぐに顔を出し、通路にかがみこんでいるイーツェンを見て血相を変えた。
「馬鹿、こんなところで何をしている!」
 自分でもよくわからず、イーツェンは言葉を失った。揺れの中で彼はもう1度シゼを探したのだが、混沌と暗闇の中に彼の姿は見つからなかったのだ。マリーシの様子を見よう、という考えは思いついた時にはまともなものに思えたが、こうして這うように部屋にたどりついてみると、とてつもなく愚かなことをしている気がした。
「入れ」
 言われてイーツェンは扉につかまり、よろめき入ると、床に座りこんだ。マリーシの部屋はすっかり荷物が片付けられて棚の扉もロープでくくられ、余分な椅子とテーブルもどこかへ消えていた。
 マリーシは寝台に座って、柱に体をもたせかけた。楽なガウンをまとい、髪も服装も多少乱れてはいるようだが、この船の混沌の中で彼女はこの上なくおだやかに見えた。
 イーツェンは揺れに転がされるように寝台の足元に近づき、呟くような声でたずねる。
「大丈夫ですか?」
「何がだ」
「その‥‥悪阻とか」
 マリーシの腹のあたりへ曖昧に手を振った。マリーシが裸足の足をのばして、イーツェンの肩を蹴る。女性だと思うととんでもなく行儀が悪いが、そのことにかまう余裕もイーツェンにはない。
「お前は、人のことを心配している場合か」
「すみません」
 寝台にしがみついて答えながら、イーツェンは窓の方から光が入ってきているのに気付いて目をしばたたいた。窓の鎧戸はしまっているが、その隙間からうっすらと明るみが入ってきている。
 だが身の痺れるような雷もまだ鳴っているし、凶暴な揺れも相変わらずだ。陽が顔を出すとはとても思えないが、そう言えば、船内も前より少し明るかった気がする。
「もう少しがんばれ」
 マリーシが寝台のはじをつかんで揺れを殺しながら、イーツェンに声をかけた。
「ここからまた吹き戻しが来る」
「‥‥‥」
 イーツェンは溜息をついて目をとじたが、すぐ気持ち悪くなって目をあけた。
「こんな風なのに、帆を張ったりするんですか?」
 少しでも気をそらしたくて、さっきから不思議だったことをたずねる。マリーシは膝掛けを広げながら、海からの轟音に負けない声で答えた。
「多分、1番小さな帆を使っている。最低限で船を操って、できる限り嵐の外側へと向かうんだ」
「この風で‥‥船を操れるものなんですか」
「デュオンは腕がいい」
 マリーシはにっこりした。この状況でよく笑えるもので、少しうらやましい。
「舵が滑らないように流錨も流してるしな。そうでなければもっと揺れるぞ」
 よくわからないままうなずいたイーツェンは、大きく傾いた床に足裏を押し当て、寝台の足元にしがみついてどうにか体勢を保った。
 不意に甲高い音が頭上からひびきわたり、イーツェンは身をすくめる。ただ荒れ狂う風が鳴らすように切れ目なく乱打される鐘の音に、マリーシも頭上を見た。
「誰か落ちたな」
 イーツェンの背すじがぞっと冷えた。
「落ちたって──海に?」
「だろうな」
 宙で何かの印を描いてマリーシは祈りの言葉を呟いたが、イーツェンは祈るどころではなかった。そもそも祈ろうにも、海の神々は彼の神ではないし、今この船の上で誰に祈っていいものかわからない。山の神に祈るとかえって海の女神の不興を呼びそうで、それも怖い。
 誰が落ちたのだろう。荒れ狂う海に落ちたなら、決して助かるまい。
 身をふるわせ、イーツェンは膝を引きよせて奥歯を噛んだ。いくら探して見つからなかったシゼのことが頭をよぎり、まさか、と幾度も打ち消す。わずかな訓練はしていたが、何の経験もない彼をこんな天候の中で甲板に出したりはするまい。出す筈がない。きっと今ごろ、ポンプについて船底に溜まった水を汲み出している。
 ──その筈だ。


 どうしても不安になったイーツェンはマリーシの部屋から医者のところへ戻り、誰が落ちたのかわかるかと期待したが、手足をくじいたり甲板で何かに体を打って骨折した男たちが運びこまれるだけで、混乱のうちに時間がすぎた。
 吐き気と空腹と緊張、恐怖、それに疲労。まっすぐものを考えられないほどに疲れ果てたイーツェンはどこかで気を失うように眠ってしまったらしく、揺り起こされた時、何が何だかわからなかった。どこまでが悪夢で、どこからが現実だったのか一瞬、わからない。
 医者がつめたい手でイーツェンの頬を叩いた。
「ホードを手伝いに下に行け」
「‥‥‥」
 無言で立ち上がると、体中がきしみ、壁に手をついていても体がよろめいた。骨が抜かれたように全身がたよりない。どうやら、船の揺れよりもイーツェンの体の方が揺れているようだ。
 壁をつたって歩きながら、イーツェンは下層甲板へ向かった。波は随分と落ちついたのか、おそるおそる立って歩ける程度には船の揺れもおさまっている。窓はとざされたままなので船内は暗く、至るところの床がびしょ濡れで、その上に疲れきった水夫たちが転がって、毛布や服を体の上にかけて眠っていた。
 途中でこらえきれなくなり、しゃがみこんで少し休んでから、イーツェンはどうにか梯子を降り、調理場まで戻った。調理場は壁から棚がひとつ落ちて道具が散らばっていたが、ホードはかまわず、壁によりかかって義足の右足を浮かせながら肉を切っていた。
 イーツェンを見て、うなる。
「野郎どもが共食いを始める前に飯だ」
 まだまっすぐ立ってはいられないほど揺れているのに飯なんか腹に入るか、と思ったが、イーツェンは黙って手伝った。感覚がぼんやりと麻痺して、言われたことをしている方が楽だ。
 火が使えないので、食事は塩漬けの豚肉を切り分けた、塩辛くてつめたい肉と固いビスケットだ。2回連続で肉が配られるとは豪気なことだが、その分後からつけが回ってくるのだろうか。
 イーツェンがあまり使い物にならないと見た様子で、ホードは別の水夫に食事を配らせた。イーツェンは意地の残りだけでマリーシには食事を運び、その途中、上の甲板で船乗りたちが大声で歌っているのを聞いた。帆を張る時の歌だ。
 聞きながら、嵐はすぎたのだと思った。嵐はのりきった。だから彼らはその歌を歌っているのだ。
 なら、シゼはどこにいるのだろう。誰が海に落ちたのか誰もはっきりとは知らず、それぞれ違う名前を言った。「新入りが落ちた」という言葉も聞いた。
 薄暗い船内のあちこちをのぞきながら、イーツェンは眠っている水夫たちの顔を確認して回った。濡れた体を毛布にくるんで寒さに歯を鳴らしながら眠っている男の顔をたしかめ、頭までかぶった毛布の中ものぞきこむ。暗がりをかぎ回るように見て回ったが、誰にもイーツェンをとがめるほどの元気は残っていないようだった。
 嵐が行きすぎて、船内は奇妙に静かだ。静まった波の音、おだやかな船体の揺れ、時おり闇から聞こえてくる人の呻き。まるで夢を見ているような気がした。
 ──どこにいる。
 頭上から、ぽたりと水が落ちてくる。体が冷えただけではなく、イーツェンの歯も小さく鳴りはじめていた。身震いをとめようと、彼は自分の肩を抱くようにしながら船内を歩き回る。どこかにいる筈だ。
 荷物を上げる昇降機の横をのぞきこんで、1度は見逃したが、ふたたび目を凝らし、影の奥にぼろ布の塊のようにうつ伏せで眠る影を見つけた。息をつめて、顔をのぞきこむ。何度も期待して、何度も失望した。
 今度こそ、そこに横たわっているのがシゼだとわかった時、イーツェンは体中の力が抜けてその場に座りこんでしまった。シゼは体に毛布を掛けてはいるが、髪は濡れ、ふれてみた頬は冷えきって、小さくふるえていた。冬の海のつめたさを思って、イーツェンは息が苦しくなる。
「服を脱げ、馬鹿」
 呟いて、イーツェンは毛布をはぎ、暗がりでシゼの濡れたシャツを引っぺがしにかかった。濡れた服は体温を下げて危険だ。シゼはぼんやりと目をあけてイーツェンを見たが、何も言わず、ただなすがままになっていた。疲れきっている。
 濡れてはりついたシャツを剥がしている時、シゼの腰に剣帯がないのに気付いてイーツェンはぎょっとしたが、すぐに頭側に丸めて置いてある剣帯が目に入った。
 ズボンも脱がすと、濡れた服は絞れるだけ絞ってから脇に置き、毛布の中に手を入れた。毛布も水気を吸って湿り、つめたいが、シゼの体はそれ以上にひえきっている。溜息をついてイーツェンは自分の服を取ると、下帯ひとつになって毛布にもぐりこんだ。昇降機と壁の間の隙間は狭くて埃っぽいが、身をよせれば2人分、どうにかおさまる。
 シゼの肌に自分の肌を押し当てて、まるで氷を抱くようなつめたさに、イーツェンは悲鳴を呑みこんだ。肌がはがれるのではないかと思うほどつめたい。うつ伏せで眠っているシゼの背中に腕を回し、両足の間に自分の足を入れ、毛布のかわりにイーツェンがシゼを半ば覆うような体勢にする。裏表をひっくり返した毛布をかぶってシゼを抱く手に力をこめながら、イーツェンはふるえ出す歯の根を噛んだ。シゼが起きられないのも無理はない。彼の体は芯まで凍えている。
 あっという間にイーツェンの体も冷えきり、こめかみから首筋まで痛みの糸が張りきったようだった。背中の痛みも、重く、深く体の奥に入ってくる。シゼをあたためるというより、シゼと一緒に凍えているようで、このまま2人で凍りついてしまいそうだ。
 だが、そのままひたすらこらえていると、きつく押し当てた肌の間にわずかなぬくもりがにじんだ。それをたよりに、イーツェンはシゼに覆いかぶさったままひたすらに待つ。
 シゼの背を撫でながら、しなやかな筋肉と、肌に残る古傷を手のひらでなぞった。兵士だったのだから当然だが、シゼの体にはいくつかの傷があって、いつの日かイーツェンはその由来を聞いてみたかった。シゼが話してくれるなら。
 シゼが、大きな息をついた。心なしか体のふるえもおさまってきた気がする。イーツェンはもう1度シゼの背に腕を回し直し、冷えた肩にくちづけると、しっかりと体を密着させて目をとじた。船の揺れが相変わらず体を揺り動かすが、それはもう強いものではない。体中がこわばって真冬のように凍えていたが、心の中はおだやかだった。
 嵐はすぎたのだ。