マリーシの持つ帯を引きながら、イーツェンはマリーシを上甲板までつれて行った。マントを深々とかぶって足元を見ながら歩くマリーシの姿を、船内の船乗りたちは眉をひそめつつも無言で見送っていた。
 扉をくぐって甲板に出ると、帯を離したマリーシはつかつかと手すりへ歩みよった。風に吹きはがされそうなフードを両手でおろしながら、風上へ向けて顎を上げ、風の中に鼻を差しこむようにする。猫が遠くの匂いを嗅ぐようだとイーツェンは思って、ついサヴァを連想した。
 甲板に入る人々の視線が集まっているのはわかったが、イーツェンは当然のような顔をしてマリーシのそばに付き従っていた。おどおどしても今さらいいことはない。頭をまっすぐ立てて、彼にはいつもと同じように見える空と海を見つめた。深い青みを奥に呑んだ灰色の海の上を白い波がゆったりと走り、あちこちで波同士がぶつかっては力なく砕ける。今日はいつもより寒く、輪のふれる首すじがきりきりと冷えた。
 マリーシはイーツェンのように手すりをつかむこともなく、軽く広げた両足で揺れる甲板のバランスを取りながら、遠く、水と風の向こうへと見入っていた。マントに包まれたその姿は不思議に凛として美しく、イーツェンはまばたきする。マリーシの全身に静謐な気配が満ちて、イーツェンより少し低い筈の背丈全体をはっきりとした威容がふちどっていた。
 何をしているわけでもない。ただ海を見ているだけだ。だが、マリーシの全身にあふれる確信は力強く、あたりを圧するほどのものだった。シゼが剣を不動の位置に構えた時と同じ、揺るぎない強さが満ちている。
 呑まれたようにマリーシを凝視していたが、いきなり肘をつかまれてイーツェンの体はくるりと半回転した。目の前に、顎に筋が浮くほど力がこもった不機嫌そのもののアバルトスの顔がある。
「──マリーシ」
 イーツェンの上腕に、あざが残るのではないかというほどの力で指をくいこませながら、彼は抑えた言葉を吐き出した。
「こっちに来い」
 マリーシはフードの下の視線を海からはがさなかった。応じる声は静かだが、ひややかだ。
「お前の計算はどうなってる。大風が来るぞ」
「来い!」
 大声ではなかったが、するどい語気で言い放つと、アバルトスは左手をマリーシの肩に置き、右手でイーツェンを引きずるようにして船尾の高甲板へと歩き出した。扉をくぐり、ノックもせずに船長室の扉をあけて中へ2人を押しこむと、強い音を立てて扉をしめる。
 書き物をしていた船長が顔を上げ、3人の姿を見て目をほそめた。
「何があった」
「こいつが──」
「風が来るぞ」
 親指でマリーシとイーツェンをさしたアバルトスを、マリーシが強い口調でさえぎった。フードを勢いよく頭の後ろにはねのけて、船長に挑むような目を向ける。
 アバルトスが大きな息をつき、苛立たしそうに拳で自分の太腿を叩いた。
「知っている。もう航路を東よりへ取ることにした。帆のひらきを見ればわかった筈だ」
「そのまま行けば船は明日の朝には沈む」
 マリーシがきっぱりと言い切ると、部屋には凍りつくような沈黙が落ちた。船長は短い髭の散る顎を左手でかるく撫で、静かに、だが険しい声で命令する。
「説明しろ」
「南西方向から竜嘯(りゅうしょう)が来る」
 最初、竜が来ると言ったように聞こえて、自分の耳が正確に聞きとったのかどうかわからないままイーツェンは戦慄に首がつめたくなった。マリーシの声には強く暗い警告があった。
 船長は顎に指を添わせたまま、わずかに首を傾けた。首にかけてある鍵の鎖が擦れて小さな音を立てる。
「季節外れだ」
「ないことではない。この時期の航海でも12年前にエイドリスが難破し、31年前にはアルイェットが帆柱を折られた。今すぐ北へ転針してカルギアの汐目を目指せ。あれをこえれば潮は西へ向かう。竜嘯はその汐目の縁をこう──」
 マリーシはテーブルに広がっている海図に歩みより、指で海の上に曲線を描いた。
「回っていく。東へ逃げてはいずれ追いつかれるし、潮と風の方向が一致して奥海へ流され、逃げられなくなるぞ。カルギアの汐目をこえろ」
「竜嘯の予兆はない」
 アバルトスが苦々しく胸の前で腕を組み、マリーシの言葉をさえぎった。船長は海図を手元に引きよせ、眉根に皴を立てるとコンパスのような器具で海図の上を測りはじめた。アバルトスとマリーシが向き合っているのにも関心がなさそうだ。
 マリーシは長身のアバルトスをにらむように見上げてわずかもひるまない。何か、唇まで出かかった言葉を呑みこむようにしてから、かすれた声がその唇からこぼれた。
「信じろ、アバルトス」
 アバルトスの眉の間に厳しい線が刻まれる。2人は互いからわずかも視線を揺らさなかった。ひりひりと指先まで痺れるような強い緊張がはりつめて、イーツェンは彼らの間には一体何があるのかと、ほとんど茫然とした。敵同士なら、それは殺気と言っていいほど研ぎ澄まされたものだった。だがマリーシの声に敵意はなかったし、イーツェンの耳には今の言葉の裏に揺らぐ懇願のひびきが残っていた。
 アバルトスは海図の上に何か書きこんでいる船長をちらっと見てから、マリーシに視線を戻した。
「今のお前に、風が読めるものか。お前の名は風読みから外されている」
「風読みのことがお前にわかるものか」
 そっくり真似た口調で刺々しい言葉を投げ返し、マリーシは腰に手を当てた。イーツェンはどうするべきか迷っていたが、ついにアバルトスから凄まじい視線を流されて、後ずさりし、船長室からおとなしく退散することにした。
 音を立てないよう扉を小さくあけ、隙間から続きの通路部屋へとすべりだした時、後ろからマリーシのひややかな声が聞こえてきた。
「たとえはらんでいても、風は読める」
 ぎりぎりで後ろ手に扉をしめ、イーツェンは心臓がはねあがったような驚きをどうにか押し殺した。背中で扉にもたれて、はあっと息をつく。
 途端にその扉が内側にひらいて、ふたたび部屋の中に転がりこんでいた。
「わっ」
 背中からひっくり返るのはどうにかまぬかれたが、大きくたたらを踏んで、みっともなく腕を振り回しながらよろめいていると、ぐいと襟首をつかまれて引き上げられた。アバルトスの強い腕がとじた扉にイーツェンを押しつける。
「今のを聞いたな?」
 激怒の視線を向けられてイーツェンはどう答えるべきか目まぐるしく考えたが、ほとんどその沈黙そのものが答えになっていたようで、アバルトスの表情がさらに険しくなった。首の手に力がこもる。
「アバルトス」
 あきれた声で、マリーシが呼んだ。
「リオンはどうせ知っている」
 アバルトスはイーツェンの首根を扉に留めたまま、マリーシへするどく頭をめぐらせる。
「知ってる? 何をだ」
 それはイーツェン自身の疑問だ。何を?
 マリーシは、みすぼらしいマントに包まれた肩をかるく揺らがせた。唇のはじに小さな笑いがある。
「部屋付きの者が、相手が女だと、4日も気付かないわけないだろう」
 小馬鹿にした口調で言われて、アバルトスの目がゆっくりとイーツェンへ動いた。貫くような視線で問われたイーツェンは、不承不承うなずく。マリーシが女ではないかと、彼は2日目には疑っていた。華奢な首や指に気付いたのがきっかけだ。何しろイーツェンには、ジノンと会った聖堂からの帰り道でアルセタとユジーの2人組と旅をともにした経験がある。マリーシも、あのアルセタのように性別を偽っているのではないかと思い至るのは、それほど難しいことではなかった。
 アバルトスは、まるで長年の仇敵に対するような目でイーツェンをにらみながら、ざらついた声でマリーシに聞いた。
「脅されたのか?」
 馬鹿な、と内心あきれて、イーツェンは目をほそめた。手の中に握ったままの帯をさらに握りしめ、汗ばんだ手のひらで怒りを押し殺す。
「は、は、は」
 マリーシがおもしろくもなさそうな笑い声をたてた。その背後で忙しく海図に何か書きこんでいた船長は、海図をばさりと机からはがすと小脇に丸めて歩き出した。扉のはじで襟首を締め上げられているイーツェンに目もくれず、強引に扉をあけて船長室から出ていこうとする彼を、アバルトスが怒鳴るように呼んだ。
「どこへ行く気だ、デュオン」
 船長は踵を叩きつけるようにくるりと身を回して、アバルトスの胸元に指をつきつけた。
「お前も、今朝から風がおかしいと計算した。風読みも同じことを言う。なら俺は2人の話を合わせてもっとも安全な方へ船を持っていく。反論するなら5つ数えるうちにまとめろ」
 たたみかけるような言葉の勢いにイーツェンは驚いた。船長は、甲板でも命令に必要なことは言うが無駄口はかけらも叩かず、いつも無口にしている男だ。
 アバルトスは溜息とともにイーツェンの襟首から手をゆるめ、扉があけやすいように彼を押しやった。
「いや。船長が決めたのなら、俺に言う資格はない。すまん」
 短くうなずいて謝罪を受け入れ、船長はいつものようにもつれた髪を翻して部屋の外へ大股に出ていった。
 アバルトスはあらためてイーツェンの腕をつかみ、マリーシへ向き直った。
「本気で竜嘯が来ると思うか」
「竜嘯って何ですか」
 無視されるか怒られるのを覚悟しつつ、イーツェンは反射的に口をはさんでいた。駄目なら後でラウかホードに聞こうと思っていたのだが、意外にもアバルトスの方が、眉の間に皴を立てながら返事をした。
「ザカーナル海を回っている強い風の塊だ」
「嵐ですか」
「ただの嵐ではない」
 今度口をはさんで説明をはじめたのはマリーシだった。また例の、子供に何かを説くような口調になっている。普段そうやって誰かを教えているのかと、イーツェンはこんな場合なのにおかしくなった。
「普通の嵐と異なり、海の上で風がより集まっていきなり生まれる。生まれればその力が絶えるまで、ただ海の上を回り続ける。通常の方法では予測することができん。かなり珍しいが、とても危険でね。キルロイに風読みがいるのは、そもそも竜嘯を避けるためだ」
 へえ、と感心しながら、イーツェンには腑に落ちるものがあった。リグにも、空から嵐の訪れを読んで山道を案内する一族がいるのだ。雪の微細な色を読みとることで、ほかの部族にはできない冬山の旅までも成し遂げると言う。風読みは、それと同じことを海でしているのだろうか。
 しかし感心ばかりしている場合ではない。マリーシは、人々がそれほど警戒する嵐が来ると言っているのだ。逃げ場も、隠れ場所もないこの海のただ中で。
 イーツェンへの説明を終えたマリーシは、アバルトスへ平らな視線を向けた。風読みという自分本来の立場に戻っているためか、体にまとう空気は確信に満ちていて、おだやかだ。
「忘れているようだが、私は12年前の竜嘯を読んだ。子をはらんだからと言って風読みの力は消えない、アバルトス。少なくとも私は違う」
 マリーシは自分の腹部に手のひらを置いて、奇妙な微笑をうかべた。
「竜嘯を呼ぶとは、私の子は風読みとして生まれる運命なのかもしれんな?」
「──」
 アバルトスは溜息をつき、イーツェンへと扉の方へ顎をしゃくった。
「外で待て」
 会釈して、少しほっとしながら扉に向いたイーツェンの背中を、険しい声が追った。
「ひとつでも口外したら舌を抜くぞ」
(もしお前がゆるしなく口をきいたなら、舌を切る──)
 沈黙を命じたローギスの声がふっと耳の中で囁いて、イーツェンは背中の芯に氷のような痛みをともした。アバルトスの言葉はただの大仰な脅しだ。わかっていても、根付いた恐怖の記憶は、時おり現実の感情と入り混じって区別がつかない。
 心がすくんでいたせいだろうか、続きの間に入った時、イーツェンはそこに人がいることにすぐには気付かなかった。扉を後ろ手にしめて、通路と部屋の中間のような通り間に立ち、イーツェンはどうしようかと迷った。甲板に様子を見に行くか、言われたようにマリーシをここで待つか──
 その時、視線の左端に派手な色が動いて、はっとしたイーツェンはジャスケと鼻をつきあわせていた。
 ジャスケは、一体どうやって誰にも見とがめられずにここまできたのか、赤いふちのついた襟なしの黒いビロウドの上着をまとい、袖の下からよく火ごての当てられた白いシャツをのぞかせている。こうして顔の顔を見合わせても、そこにいないかのように感じられるほどの気配のなさに、イーツェンはぞっとした。いつもの慇懃な笑みもなく、ほそめたジャスケの目はまるで2つの切れ目のようで、石のように温度のないまなざしでイーツェンを見ていた。
 喉元──首輪のすぐ上、顎の下のやわらかな部分に氷がふれているような感触があって、イーツェンはその場に固まった。見ずとも、それが何かの刃であることは知れた。
 背にした扉からは、船長室に残った2人の低い話し声が聞こえてくる。イーツェンにそれを聞きとる余裕はないが、ジャスケがゆっくりと動いて、右耳を扉に押し当てた。イーツェンは首に当たる刃を避けようとしてぎりぎりまで首を上げるが、刃はぴたりと肌についてくる。
 息をつめ、喉ができるだけ肌にふれないよう首を引きしめながら、イーツェンは横目でジャスケを見た。ジャスケの顔からはつるりと何かがはがれ落ちたようで、丸っこい顔には何の感情もない。常に明るく慇懃でのっぺりとした陽気さをたたえた顔は、今や石に彫った仮面のようだった。半分とじた瞼の膨らみの下にある両の目も、瞳に光がなく、まるで死人の目だ。その目でイーツェンを見返して、ジャスケは左手の人さし指をゆっくりと自分の唇の前に立てた。
 イーツェンはジャスケの刃が離れていくまで、己がふるえていることに気付かなかった。ジャスケは扉から耳を離して立つと、人さし指を今度はイーツェンの唇の前に持っていき、イーツェンの口を封じる仕種をしてから、ひどく細い刃の短剣を袖の内側へすべりこませた。
 イーツェンに背を向け、積まれた荷箱の間を歩いていって、床にかがみこむ。一体何をしているのかとイーツェンが声も出せずに見ていると、ジャスケはその床の一部を蓋のように引き上げて、中の梯子を降り、音を立てることなく器用に中からそれをしめた。床だけが残り、イーツェンは幻視でも見たような気持ちでまばたきする。船内に昇降口はひとつではないが、ここに通じる物があるなどとは知らなかった。
 ジャスケが消えてからも、喉に刃の感触がはりついていて、靴裏が床から生えたように動けなかった。怖い男だというのは充分わかっていたつもりだが、今目にしたジャスケの姿を自分の中でどう解釈したらいいのか、まだ混乱している。
 扉があく音がして、慌てて脇へとびのいた。仏頂面のマリーシが口の中で毒づきながら扉を叩きしめて、後ろからとんできたアバルトスの声を断ち切る。さっさと歩きすぎようとしたマリーシは、だがイーツェンの顔を見て眉をひそめた。
「どうした?」
 イーツェンは首を振りかけ、思い直して、ジャスケがしたように自分の唇の前に指を立てた。人を黙らせる仕種。それから、その指でジャスケが消えた床をさした。
 マリーシは形のいい眉をきつくひそめたが、ふっと表情が微笑に変わって、頭の後ろからたぐり上げたフードを深くかぶった。
「戻るぞ」
 イーツェンへ手をさしのべる。イーツェンは左手に持ったままの帯の片方をマリーシへ渡し、甲板へと続く扉をあけた。どこか高みから鐘の音が響き出している。


 甲板はいつもより人が多く、誰もが慌ただしく動きはじめていて、おかげでマリーシに視線を向ける者も少なかった。
 船内に降りると、そこも出帆の時以上の人でごった返していた。木槌の音が甲高く響き、ロープや板を持った水夫が早足で動き回っている。船内の区画を区切っていた帆布がかたはじから取り除かれ、荷物もどこかへ片付けられたり、ひとところにまとめられて、船内はがらりとその様相を変えはじめていた。それが嵐への備えなのだと悟って、イーツェンは背中が寒くなる。至るところに、何か大きなものが迫り来る予感が満ちていた。
 自分の部屋まで戻って扉がしまるや、マリーシはほとんど引きはがすようにフードを取り、マントの紐をほどいて、足からマントを脱ぎ捨てた。拾ったマントを無造作にイーツェンへ投げる。言葉は少し優しかった。
「すまんな。面倒をかけた」
「いえ」
 イーツェンはマントの裾を留めたピンを抜きながら生返事をした。聞きたいことは山ほどあるが聞いていいものかと迷っていると、マリーシの方が早く口をひらいて、機先を制した。
「ジャフィがいたのか?」
 イーツェンは、唇を噛む。
「言えないんです」
「馬鹿げてる」
 ふん、と鼻を鳴らしたマリーシに、マントをたたむ手をとめて、イーツェンは言葉を選んだ。
「どちらの側にもつきたくないんです。私は、ポルトリへ行きたいだけなので」
 ジャスケの刃物の感触と、イーツェンを見据えていた温度のない目を思い出すと身がこわばった。何よりこの船旅を無事にすごすのが大事だ。
「ただ‥‥」
 言葉を切り、イーツェンは椅子に座っているマリーシを振り向いた。
「あの男には気を付けて下さい」
「2日前、夜中に船が近づいてきたことがあったろう」
 いきなり話が変わってとまどいつつ、イーツェンはマリーシを見つめたまま、先を待った。
「あの夜な。誰かが船尾の窓の外に明かりを吊るしていた。この船に目印を付けた者がいるのだ。追ってくる船に光で合図を送った」
「‥‥‥」
「もし奴らがこの船に乗りこみ、アバルトスの海兵でさえ彼らをとめられなければ、私以外の全員が船と一緒に沈められただろう。目をつぶっていれば無事に航海がすむというものでもないかもしれんぞ、リオン」
 あれもジャスケのたくらみだったと言いたいのだろうか。マリーシの唇には薄い笑みがあって、アバルトスを誰かが越えてくることなどあり得ないと信じている様子だったが、だからと言ってイーツェンはおだやかな気持ちではいられない。
「あれは、あなたが狙われたんですか」
「私以上に価値のあるものなどこの船にはないからな」
 傲慢というわけでもなく、マリーシは事実を述べる口調でそう言った。イーツェンは溜息をついて、腰高の棚に尻の後ろでよりかかった。認めたくはないが、船での労働とそれ以外の騒動が溜まって体の芯が重い。居座った背中の痛みが悪化はしていないのが救いだった。
「あなたが、風読みだから」
「私が風読みではないからだ」
 ぽかんとして言葉を失ったイーツェンを見て、マリーシは楽しそうに笑った。だが、膝に置いた指先は上着の裾を神経質にいじっていて、彼──彼女──は、見た目ほど落ちついてはいないようだった。アバルトスと対立したせいか、嵐の訪れを予見したためか、それはわからないが、イーツェンに話すことで気持ちを落ちつかせようとしているのか、少し早口だ。
「子をはらんだ風読みは、伝統として、その間だけ風読みの名を解かれる。私はフェゼリス家の風読みだが、船に乗るには王の許可がいるし、異国の港へ降りることもできん。キルロイの風読みは不出だからだ。風読みである間は」
「‥‥今は、違う」
「そうだ」
 マリーシは唇の下のくぼみに人さし指の背を当てて考えこんだ。
「あの船がどこの国のものであれ、もし風読みがさらわれれば、キルロイはその国に容赦はしない。だが今の私は風読みではないし、王陛下も長老も私が海に出ていることすら知らん。これ以上安全に風読みを手に入れる方法はない」
 その「風読みであって風読みでない」マリーシが何故わざわざ危険を冒し、ジャスケと同じ船で、船員たちにも存在を知られないようにしてこの船に乗っているのか。しかも、身ごもっている体で。
 イーツェンが考えをまとめようとしていると、扉を誰かが叩いた。誰なのかと小さくあけて、イーツェンはぎょっと立ちすくむ。そこには、さっき見た時と寸分変わらぬ目立つ身なりのジャスケが、今度は笑みを浮かべて立っていた。
 扉を足でこじあけるようにして頭を室内につっこみ、マリーシを見ると、ジャスケの笑顔はさらに大きくなった。
「こちらに戻られていましたか。甲板にお出になったご様子ですが、あまりおすすめできませんなあ」
 マリーシが招くより先に、狭い船室へ肩から問答無用で入ってくる。イーツェンはマリーシを視線でうかがったが、ひとつうなずきが戻ってきて、脇へのくとジャスケを通した。
 マリーシは椅子に座ったまま腕組みする。
「大風が来る。それを嗅ぎに行ったのだ。お前も船と一緒に沈みたくはなかろう」
「まことに、まことに」
 人を苛立たせる慇懃さでうなずいて、ジャスケは太い指を宙でひらひらさせた。
「傷がついては困るお身柄でございますからなあ。くれぐれも、お慎み下さいますよう」
「くどい」
 マリーシは扉の外へ向けて大きく手を振った。
「リオン、お前は下に戻って荷の固定を手伝え。ジャフィ殿、これで失礼させていただく。私も部屋を片付けないとならんし、あなたは己をどこかに留めるロープを探した方がよろしかろう」
 その言葉に応じてイーツェンはジャスケのために扉をあけたまま、脇で待った。ジャスケが体を左右に揺らすように悠然と出ていくと、あらためてマリーシへ頭を下げ、退室する。
 ジャスケは数歩先を歩いていて、イーツェンが恐れたように彼を振り向いたり呼びつけることもせず、船客が泊まる船室の一角へと消えた。一体何をしに来たのか。イーツェンは帆柱をぐるりと回ってジャスケから距離をあけ、周囲で立ち働く男たちの邪魔にならないよう気を付けて時間を稼いでから、下に向かった。
 あたりの窓は鎧戸を落とされてから木の材で打ち付けられ、補強されている。暗い船内を下層に戻ると、船倉でも人々が集まって樽や箱荷に保定のためのロープをかけていた。元からほとんどが固定されているが、さらにロープを張り、崩れても支えられるよう、柱の間に渡した太い板を荷止めとして打ち付ける。下層には滅多に現れない上級船員が、灯りを持って大声の指示をとばしていた。怒鳴り声がひびきわたって騒然とする船内は、まるで別の船のようであった。
 調理場からぬっと顔を出したホードが、いきなり大声でその上級船員へ怒鳴ったので、イーツェンはとびあがるほど驚いた。
「流錨だ、トリッシ!」
「用意してある」
 船員は怒鳴り返したが、ホードは壁を拳で叩いてさらにわめいた。
「予備の帆を使って余分に作らせとけ!」
 イーツェンにとって信じられないことに、船員はホードよりも大きな声でわめき返した。
「わかったよ、てめえは煉瓦の煮込みでも作ってやがれ!」
 ホードは満足げにニヤリとして頭を引っこめようとしたが、通路に突っ立っているイーツェンに気付いた。
「手伝え」
 短く言われて、イーツェンは調理場へ入る。正直、この喧騒の中で自分にも仕事が与えられるとほっとする。居場所がないし、肩身が狭いのだ。
 調理場でも、上の鉤から下がっていた大鍋はすでに撤去され、棚の足元にくくり付けられていた。炉の火も早々と落とされて、鉄の蓋がしっかりとかぶせてある。
 塩漬けの豚肉が入った箱が調理場の奥に運びこまれていた。ホードはそれに向かって手を振る。
「飯を準備しろ。連中の腹につめこんでやらねえと」
 つめたいままの肉を切り分け、薄く固いパンと交互に積んだ。ホードが肉をいつもより厚く切っているのにイーツェンは気付く。
 その準備の間にも、木槌を持った大工見習いの男が忙しく駆けこんできて調理場を点検し、棚が勝手にひらかないよう板で固定したり、危険な物が表に出ていないか細かく確認していくのを見ると、今ひとつ現実味のなかったイーツェンにもじわじわと緊張が押しよせてきた。
 この船は一体どうなるのだろうとも思うし、今さら、泳げないと言っていたシゼの言葉が心配にもなってくる。この大海のただ中では、どんな名人であってもどこへも泳ぎようがないだろうが、それでもシゼは心細いかもしれない。何でも人並み以上にこなすシゼが、泳げないとイーツェンに告げた時のきまりが悪そうな顔を、イーツェンはよく覚えている。
 くそっ、といきなりホードが毒づき、驚いて見ると男は右足の膝──おそらく義足との接合部分を、手でさすりながら髭面を歪めていた。イーツェンはおそるおそる聞く。
「痛みますか」
 当たり前だ、と怒鳴られるかと思ったが、ホードは頬に深いしわをつくってニヤリと笑った。目に高揚した光がある。彼が何故うれしそうにしているのか、イーツェンには理解できない。
「ああ。嵐の前はいつも痛みやがる。こりゃ、来るぜ」
 そうか、とイーツェンは憂鬱な気持ちでうなずく。イーツェンの背中も少し痛んでいるが、このつめたく湿っぽい船の中ではいつも痛むので、何の予兆でもなかろう。
 2人でとにかく準備を終え、食事を配りに上層へ行くと、船内からはほとんど帆布の仕切りは消え去り、窓がとざされて暗い甲板で、水夫たちがあちこちで横になって仮眠を取っていた。
 準備は大体済んだのか、船の中は妙に静かに感じられる。男たちがあるいは座り、あるいは横になって備えている様子にはまさに嵐の前の静けさといったおもむきがあって、イーツェンはまた気分が滅入った。船に乗りこめればそのうちポルトリにつくと思ったのに、物事はいつも思い通りにいかない。
 今思えば、何故あんなに必死になってこの船に乗りこんだのかが不思議だった。こんな船旅になるとわかっていれば、きっと彼らはルスタで冬をこえる決心をしていただろう。
 だが、旅はいつも明日に何が待つのかわからない。肝心なのは、それが何であれ、とにかくその日をのりきることだった。そうすればまたもう1日、ちがう明日がやってくる。