何とも言えない悪臭をたてる煎じ薬を持っていくと、マリーシはそれを杯に移して、顔をしかめながら飲んだ。やはり顔色が悪い。
 朝は元気だったんだが、まさか今ごろ船酔いなのかと迷って、イーツェンは声をかけた。
「少しお休みになられますか」
 マリーシはすぐには答えず、薬草の茶を飲みながら腹を押さえた。首を振って、空の杯をおろす。それを再び満たすイーツェンへ不機嫌そうな目を向けた。
 マリーシはいつも高襟の服を着ているのだが、騒動で起こされたせいか、今朝はいつもの上着のかわりにゆったりとしたガウンをまとっていて、襟元からのぞく細い首が少し寒そうだった。イーツェンは不自然にならないよう気を付けながらマリーシの首を眺め、杯を持つ指先を見つめ、色の薄い唇の形を見た。船には慣れている様子だが、とても船仕事のできる体つきでもないし、傷のない指は細くて長い。
 大上段の態度がなければ、マリーシはきわめておだやかで理知的な相手だった。まあずっと船室にとじこめられていれば、刺々しくもなるだろう。事情はほとんどわからないものの、ここにいるしかない様子のマリーシに、彼は若干の同情をおぼえていた。
 マリーシは、飲み終えた杯の中をしばらくのぞきこんでから、湿った息をつき、棚とテーブルに手をついて立ち上がった。寝台で靴を蹴り脱いだが、上掛けの中にもぐりこむ様子はなく、イーツェンを呼ぶ。
「リオン」
「はい」
 こそこそっと出ていこうとしていたイーツェンがその声に引き戻されて振り向くと、マリーシは寝台を寝椅子のように使って、体を横向きに横たえていた。頬杖の下に枕を入れている。
「その‥‥」
 と、机の下に積んである小さな本の山をさした。
「赤い表紙の本」
 イーツェンは下の方から、山を乱さないように、やや作りの小さな本を抜く。手にしてみると、表紙は古びていて、背表紙のかがりにも修復の痕があった。
「どれでもいいから読んでみてくれ」
 ひらいてみると、中は詩集だった。丁寧な手で為された飾り写本だ。キルロイではほとんどユクィルスと同じ文字を使うので、読むのにほぼ支障はないが、イーツェンは当惑した。書式も、リズムも、見慣れたものと違う詩をどう読めばいいのかわからない。学んでいない。
 辛抱強く待っているマリーシへ、恐る恐る問い返した。
「私は訛っておりますので、キルロイの詩はお聞き苦しいかと‥‥」
「うまく読めとは誰も言ってない」
 しかし下手な詩など誰が聞きたいだろうか。ためらいつつ、マリーシには気晴らしが必要なのかもしれないとイーツェンは心を決めた。息を吸い、背すじをのばして、狭い室内に充分なだけの声で読みはじめる。
 詩のあちこちには知らない記号がいくつも付いていて、抑揚か何かの指示ではないかと思ったが、すべて無視する。口に出してみるとあちこちに短い間があり、切れ味のいい言葉がたたみかけるようにつらなった詩で、海をたたえて勇猛な、そしてたまに滑稽な詩文は意外とイーツェンの舌によくなじんだ。
 美辞麗句ではなく、物々しいほどの荒さにあふれた詩は、キルロイの国の人々の船乗り気質が表れているのかもしれない。2編目の後半は意外にも、海に沈んだ恋人への祝福を切々と海の女神に願う詩で、イーツェンが赤面するほどのあからさまな表現を混ぜながら、恋人への思慕と情熱を歌っていた。これは旋律のある歌なのではないかと、イーツェンは読みながら思う。リグなら誰かが節をつけて踊り出しそうな、生き生きとした流れのある言葉だった。
 2編を読み上げてからマリーシを見ると、寝台に身を横たえたまま目をとじていた。寝たのだろうか、と本をとじ、表紙をくくるリボンを結んで脇机に置く。今ごろ下ではホードが戻ってこないイーツェンに怒り狂っているだろうが、そもそもマリーシの部屋付きをするために乗船したのだから、こっちが優先だろう。調理場はその気になれば他の手伝いを呼べる。
 マリーシはイーツェンの動きに気付いたのか、目をあけると片手を頭の下に入れて枕にし、口元だけで笑った。
「どこで読み方を習った。奴隷になる前は何をしていた?」
「導院で育ちました」
 嘘ではないが、自分が孤児であったかのように聞こえるよう、イーツェンは注意深く言葉を選んだ。王族の教育として、リグの文字とともに、ユクィルスや周辺の国で使われる文字を習いおぼえた。詩の読み方などはユクィルスの城であらためて習ったのだが、そうしてあの城で学んだことが、今になって何かと役立っているのは皮肉なことだった。城には学者や優秀な学生が食客として多く抱えられていたので、彼らと会って話を聞いたり、新しいことを学ぶのをイーツェンは数少ない楽しみにしていた。
 もう用はないか、と気配でうかがうと、マリーシはさっきよりは顔色のよくなった顔を天井へ向け、唇を小さく動かして呟いた。
「その詩は恋歌だ。古い伝説を詩にしたものでな、伝説では、結局最後がどうなったのか誰にもわからない。女神が恋人を思う女の気持ちにほだされて、愛する男を海の底から返してくれたとも言うし、男をふたつに裂いて半分を地上の恋人に投げ与えたとも言う」
「‥‥‥」
「リオン、人を好きになったことはあるか?」
「それは──」
 あまりにも突然の問いだったので、イーツェンは茫然とした。思考がとまった頭の中にぽんとシゼの顔が浮かんできて、またそれに動揺し、うまいごまかしも思いつかない。何か余計なことを言いたい衝動がこみあげてきたが、無理に呑みくだした。
 言葉を失ったイーツェンをじっと眺めていたマリーシは、ふいにクッションの枕に頭をのけぞらせ、子供のように笑い出した。
 どうしてか、首筋に血がのぼるのを感じながら、イーツェンはその場に立ち尽くす。マリーシは額に左手を当てて笑いに肩を揺らしていたが、右手を振って彼を扉の方へ追いやった。
「もういい、行っていい」
 ひどくきまりが悪いまま、イーツェンは会釈だけ残し、ほとんど逃げるように部屋を後にした。調理場で自分を待ち受けているホードの怒声を聞いて、ほっとする。すぐに食事の準備を手伝いはじめた。
 マリーシが、イーツェンの運んだ煎じ茶を毒味なしで飲んだことに気付いたのは、しばらくたってからだった。


 昼すぎ、海水を汲みに甲板へ出たイーツェンは、数人の水夫たちがロープで帆を引く訓練をしている様子を見かけた。甲板長が銅鑼を鳴らすようなだみ声で怒鳴り、移動する列にうまく入れずにロープをまっすぐ引けていない男の尻を思いきり蹴上げた。
 その間も甲板長の口から吐き捨てられる言葉には命令と罵倒が入り混じっていて、聞いているだけで凄まじい。甲板長は荒くれ者を一手にたばねるからか、当人もそれ以上の荒くれ者に見えて、イーツェンはとにかく彼に近づかないようにしていた。
 今回も、できるだけ遠くを通ろうとして、だがイーツェンはふと足をとめた。しごかれている新入りの中に、シゼの姿がある。額に汗を光らせ、彼は列の中でロープを引いていた。
 そう言えば今朝、イーツェンの手から茶瓶を取ったシゼの手には細かなささくれがあって、イーツェンはそれが気になっていたのだ。やはりロープでついた傷だったのだろうか。
 帆のひらきを変えている男たちの中でも、ロープの後ろ側についた数人のが明らかに不慣れな1団で、慣れた船乗りたちのように号令と同時に動くことができない。その中にいるシゼも、船乗り特有の大きな抑揚がついた号令を聞きとるのに苦心しているようだった。前の人間の動きに注意を払い、瞬間にどちらにも動けるよう力を溜め、できるかぎり停滞なく動き出そうとしている彼の様子を、イーツェンははらはらしながら眺めた。
 しかしそうして集中し、きびきびと無駄のない動きで命令に従って動くシゼは、1人だけ兵士のような固い空気をまとっていて、あきらかに周囲と違和感がある。シゼはどこにいてもシゼらしくて、つい口元がゆるんだ。
 風が帆に音を立てている。
 また朝と風が変わったのか、右舷に風が回っているようだ。早く進むにはどちらがいいのだろうと見上げても、複雑に角度を違えて張られた帆がそれぞれどういう役目をしているのか、イーツェンにはさっぱりわからない。
 号令とともに帆が大きく動きはじめ、イーツェンは怒鳴られる前に帆の動く帆柱から遠く離れた。今朝の4隻の船はどうなったのか、もう海原に船影はひとつもなく、ただ陽の方角にぼんやりと島の影が見える。ああいう島にほとんど人は住んでいないのだとラウは言った。
 海の上には時おりに白波が走り、蛇のようななめらかな動きで海面を這っては、吸いこまれるように消えていく。航海に慣れると、こうしてわずかな時間を盗んで甲板に立ち、潮風の向こうを眺める瞬間には、何とも比べがたい解放感があった。
 1度など、茂みのように大きく絡まった海藻の塊に海鳥がとまって、白い羽根を小さくすくめたまま、どこへともなく流されていくのを見たこともある。鳥もまた船旅をしているようで、鼻回りだけ黒い鳥を見ながらイーツェンはおかしくて仕方なかった。
 もっとも、いつまでも呑気に海を見てはいられない。甲板の用を済ませて下に戻ると、ホードに命じられてまた食料の箱や樽の確認をし、数や状態を帳簿に付けた。それから鼠取りを見て回って、どこからかのそりと出てきた猫に溺死させた鼠の死骸を放ってやる。またこの鼠が丸々と太っているのが、何だか腹立たしい。
「お前はずっとこの船に住んでるのか?」
 口からぶらぶらと鼠の尾を下げて間抜けた面をしている猫へ、イーツェンは暇つぶしに話しかけた。愛想のまるでない猫で、汚れを拭いた雑巾のように汚らしい毛皮だが、イーツェンはサヴァが結構好きだ。
「ぎゅ」
 余計なことを言わないのもいい。気が向けば、喉に蛙がつまったような短い返事をしてくる。
「船、楽しい?」
「ぎ」
「それ、うまいか?」
「ぎぃ」
「ふーん」
 樽の影に鼠取りの箱を設置しながら呑気に呟いていると、頭上からくすくす笑いがふってきて、イーツェンはとび上がるほど驚いた。
 いつの間にか箱の山にもたれるようにラウが立ち、大きな口をいつもの陽気な形に曲げてイーツェンを見おろしている。その足元をサヴァがぱっと駆け出して、消えてしまった。猫の失せた空間を見送って、イーツェンは照れ隠しに苦笑する。まるで相手が言葉をわかっているように話しかけるなんて、リグでは物の判断がつかない子供がすることだ。
 立ち上がったが、ラウが荷の間に立ったままなので、出ていけない。船荷を積んだ船倉の一角は、水夫にとって、命じられない限りは足を踏み入れてはいけない場所なのだが。
 とまどったイーツェンは、近くで見るラウの笑みがどこかこわばったもので、下がった肩に力がこもっているのに気付いた。
 ラウがふいに大きな溜息をつき、腹の底からどきりとする。
「大丈夫? カナバがどうかした?」
「じいさん、シュラウドで足引っかけて落ちた」
 シュラウドというのは、はじめの日にシゼがのぼらされていた、手すりから帆柱の上までをつなぐ索道である。ラウの重い息にイーツェンはあの高さを思い出して青ざめた。まさか。
「それで‥‥」
「そんだけ。外れた肩入れて、今はロープのつなぎをやらされてる」
 命に別状がないのはよかったが、神妙な顔でうつむくラウがひどく哀れに見えて、イーツェンはそっとたずねた。
「休ませてもらったりできないの?」
「死ねば長いこと休めるってさ」
 誰かの──甲板長か?──口真似をしているようにラウは嘲って、裸足の足元を見つめた。船底はギシギシと周囲から音が押しよせてきて、そうして黙っていると、暗がりから色々なものが迫ってくるような強い圧迫感がある。いや、迫ってくるのは暗がりそのもののような気がした。
 イーツェンは何かで沈黙をやわらげようとしたが、ラウが思い切ったように口をひらくのが先だった。
「俺ら、ずっと一緒の船で働いてきたんだ。もう‥‥多分、10年くらい。昔さ、船が嵐で難破して漂流した時も、一緒だった。口べらしに航海士が船猿を船から放り出せって言ったんだけど、カナバは夜の間にそいつをこっそり海に沈めちまった。誰にもわかんないように」
 息を吸った。
「俺も手伝った。もう船猿が2人、船から放り出されてて、次に樽に乗っけて流されるのは俺だったんだよ」
「‥‥‥」
「あいつはいっつも俺を助けてくれたけど、何で俺には、あいつが助けられないんだろうな」
 ラウらしからぬ小さな声でぼそっと呟く姿に、イーツェンは何も言えなかった。その無力感は、よく知っている。何もできず、ただ物事が悪くなるのを見ているしかない。それがどれほど人の気持ちを痛めつけるか、彼はよく知っていた。
 ギシッと船体がきしみ、しっかりと縛りつけて固定された荷がカタカタと音を立てた。下層にこもった空気は湿っぽく、航海3日目ともなるとうっすらとした腐臭が漂っていて、イーツェンはふと奴隷として押しこめられた地下牢を思い出していた。あそこには、2度とそこから出ていけないのではないかと思うほど、人を打ちのめすような、濃密で光を通さない闇があった。
 あの闇の底で、イーツェンは無力だった。いや、奴隷に落とされる前、あの城にいる間ずっと、イーツェンは無力だったのだ。何がおこっても逆らうすべもなく、ただ物事が悪くなっていくのを見つめていた。
 あの時の無力さは、怒りとなって今も彼の内側にくすぶりつづけている。それは普段は気付かない、暗い、粘るような怒りで、だが時おりにイーツェンはその存在を心の奥に感じた。その怒りがここまで、イーツェンの旅を支えても来たのだ。2度とあの無力な自分に戻りたくはない。だから、歩き続けてきた。
 ラウがホードに食ってかかった剣幕を思い出し、イーツェンは湿った溜息をついた。あれはホードに向けての怒りではない。ラウの内側にも、己に対する怒りがあるのだろう。
 ラウの顔をのぞきこんだ。
「船医は何て?」
「あいつは肉切ったり縫ったりするだけだから駄目だ」
 苦々しげに言われて、おかしくもないのに思わず苦笑してしまった。ラウはイーツェンの頭をかるくはたく。
「ほんとだよ。ホードの足をぶった切ったのもあいつさ」
「船の上の事故だったのか?」
「強風で帆柱が折れたらしい。俺は知らないけどさ。ホードは帆柱に絡まったロープを外そうとして柱にのぼってて、一緒に帆柱ごと海に落ちたんだと。その時、膝から下がつぶれた。頭がつぶれてりゃよかったのに」
 毒づくが、その言葉には憎しみが欠けていた。船乗り連中は二言目には互いを罵る。活発な毎日の中で、それが会話の彩りになっているようだ。
 案の定、少し考えて、ラウはつけ足した。
「その前はいい船乗りだったって話さ」
「ふうん‥‥」
 ホードが出帆の時、調理場で歌っていたのは、やはり船乗りの歌だったのだ。イーツェンはうなずいて、ラウにさらに近づいた。ラウがいていい場所ではないし、イーツェン自身、もう戻らないとならない。
 だがラウは下がろうとはせず、距離をつめたイーツェンによりかかるように体を預けてきた。イーツェンの耳元で低く呟く。
「せめてケシ入りの酒をくれりゃあな。あのクソ医者」
 ラウの方が頭半分大きく、両腕で体をかかえこまれるような状態になって、イーツェンは相手の背中をなだめるように叩いた。荒々しい船仲間の中で、ラウが弱音を吐けるのはイーツェン相手だけなのかもしれない。ポルトリにつけばイーツェンが船を降りてもう戻ってこないことを、ラウは知っている。だから弱みを見せても平気なのだろう。ただこの時だけの──
 あれ、と思ったのは、ラウがよりかかるだけでなく、かなりの力をこめてイーツェンを抱きこんだ時だ。胸がぴたりと合わさって、シゼの固いがしなやかさを秘めた筋肉質の体とはまた違う、骨ばっているのにごつごつと筋肉が盛り上がったラウの体を、自分の体で感じる。
 同時に耳元であたたかい息がくぐもって、イーツェンは背中に回していた右手でラウの首すじから後ろ髪をつかみ、ひっぱった。
「ラウ」
「すぐすむよ」
 ラウの声も、イーツェンの背中を抱いた腕も優しく、だが声には切羽つまったような痛みがにじんでいた。よせた体からは汗とタールと潮の匂いがする。船乗りの体に染みついた匂いだ。
 抱きこまれたまま荷箱に押しつけられて、イーツェンはなじんだ恐慌がのぼってくるのを待ち受けた。何もおこらない。どういうわけか、あまり怖くないし、嫌悪感もない。ラウの太腿がイーツェンの足を割ろうとした時にはぎょっとしたが、恐慌にはほど遠く、ただ困惑して、イーツェンはつかんだままのラウの髪をさらに強く引いた。
「ラウ。駄目だよ」
 半ば形を持ったラウの欲望が腰に押し当てられている。左手でラウの肩をつかんで押しながら、イーツェンはとにかくラウの頭を自分から引きはがした。ラウは不満の呻きを上げるが、髪はゆるめてやらない。
「だって、リオン」
 誰かに通路から聞かれないよう声をひそめてはいるが、ほとんど泣き言のようにイーツェンを呼んだ。そうやって苦しかったりつらい時に勢いで人の体温を求めるのは馬鹿なことだと、言ってやりたい。情動や快楽に逃げても何の解決にもならないことは、イーツェン自身、身にしみてよく知っている。だがそんなことをラウに説く時間もないし、場合でもない。
 ラウの胸に両手を置いて互いの距離を保ちながら、イーツェンはただ単純に、真実を言った。
「好きな人がいるんだ」
 床に置いた油燭が放つ薄い明かりの中でも、イーツェンを見つめるラウの目がふた回りも大きくなったのがわかった。
 イーツェンの腰に回されていた手が離れて、だらりと力なく下がる。よろめくように1歩下がったラウは、次の瞬間、両手で自分の口を押さえて盛大に吹き出した。笑い声を殺そうとして殺せず、頭を前後に振って体中で笑う。しまいには、狭い通路にしゃがみこんで体をかかえこむように笑いつづけた。
 イーツェンは段々むっとしてきて、ラウの太腿を爪先で蹴る。
「何かおかしい?」
「‥‥お前の首輪、ほんとに奴隷用か?」
「えっ」
「犬並みじゃねえの。俺、そんな頭あったかいこと言うヤツ初めて見たよ」
 何も深い意味はないらしい。
 溜息をついて、イーツェンは床に置いてある小さな箱形の油燭を拾い上げた。ラウはまだ笑っているが、箱によりかかってやっと立ち上がった彼からは切羽つまったような緊張は消え、くつろいで、いつものさばけた陽気さが戻っていた。
 手をのばし、イーツェンの髪をつむじからぐしゃぐしゃにかきまぜながら、ラウはまた笑った。
「ばっかだなあ」
「何でだよ」
 思わず口をとがらせて言い返すと、今度はその口元をつねられた。面と向かって笑われたのは今日2度目だ。1度目はマリーシに、今度はラウに。一体何がおかしい。
 だがイーツェンがつめよる前に、ラウはニヤッと笑い、身を翻して狭い荷物の隙間を小走りに去っていってしまった。イーツェンも帳面をかかえて戻ろうとした時、積んだ樽の上から自分を見おろす黄色い目に気付いてぎょっと凍った。
「ぎぃあ」
 また変な鳴き声を立て、妙に訳知り顔のサヴァは、鼻を宙にさしこむような仕種でふんふんと空気の匂いを嗅ぐ。イーツェンはひとつ首を振り、船倉を出て調理場へ戻った。
 その夜、悪びれもせず、ラウはイーツェンと同じ毛布の下にもぐりこんできた。イーツェンは苦笑するしかない。だがラウの気持ちもよくわかった。陽気にしているが、彼は不安なのだ。獣が身をよせあうようにイーツェンに身をよせようとしていて、昼間にラウからイーツェンが感じ取ったのもそういう痛々しさだった。だから怒れない。
 カナバは眠れないようで、弱々しい咳がつづき、うるさがった周囲の男たちが数枚の毛布を無理に上からかぶせたが、くぐもった息の音はきしむ船の音の向こうからも何故かよく聞こえる。
 ラウは、いつものように体をくっつけて後ろからイーツェンの首すじに額を押しあてていた。カナバの引きつれた息を聞くたびにその体がこわばり、イーツェンの腰に回された腕に力がこもる。
 やがて、眠りについたラウの体が重くなって、イーツェンもまた、眠りやすい姿勢を探してから目をとじた。下層の空気はいつもひえている。その寒さから逃れたいのは、イーツェンだけではないのだった。


 4日目ともなると航海にも少しは慣れてきて、甲板で誰を避ければいいかもわかってきた。甲板長は勿論、背の低い航海士も怒りっぽいのでひたすら避け、船長のいるところでへまをしでかさない。船長の目を気にした船員にやたらと激しく怒られるからだ。
 年かさの副航海士は、上級船員の中ではおだやかな方だ。航海助手はまだ若いので水夫たちにも馬鹿にされ、上職からは怒鳴られていて、少し可哀想だった。
 朝方に甲板に出たイーツェンはまず、それぞれの位置を特定しようと顔をめぐらせた。帆が今朝はやけに重そうで、風が弱いのだろうか。船足は重いが、その割に海は波立っているように、イーツェンには見えた。
 空気を裂く細くするどいうなりが聞こえたのは、その時だ。まさか、とはじかれたようにイーツェンは顔を向け、次の瞬間ひびいた湿った音に凍りついた。
 まぎれもない、鞭が人の肉を叩く音だ。
 中央の帆柱の周囲に人の輪ができていて、囲みの中では甲板長が、いつもの棒鞭ではなく短めの革鞭を振り上げて立っていた。平たい革の鞭で、途中に数個の結び目が作られているのがおぞましい。その結び目が背中を砕くようにくいこんできた痛みがよみがえって、イーツェンはただ立ち尽くした。
 帆柱の前に1人の水夫が立ち、太い柱を両腕で抱かされ、剥き出しの背中を打たれていた。脱いだシャツは腰帯からだらしなく垂れ下がり、男は肌を打たれるたびに呻いて、背をそらした。
 男の背中全体に、見事な筋肉が盛り上がっていた。痛みで全身に力が入り、すべての筋肉が限界まで緊張しているのだ。その背中に赤黒い痕が何本も、無残に交差していた。
 甲板長が右手を振り上げ、慣れた動きで力をこめて振りおろす、その1発ごとに、肉を打つ音とくぐもった苦鳴が上がる。男の全身はもう汗まみれで、弱い陽を受けた肌は赤黒く光り、破れた皮膚から血が汗と混じって震える体を這い落ちた。
 帆柱にしがみついた全身を痛みに痙攣させながら、男は両足で甲板を踏みしめ、膝を踏んばって耐えた。1発、また1発。
 喉の奥から苦い吐き気がこみあげてきて、イーツェンは自分も鞭打たれているかのように強く歯をくいしばった。目を離したいが、視線をつかまれたように離せない。ただ宙を踊る鞭と水夫の背中に増えていく鞭痕を見つめていた。
 多分、鞭打ちは10に満たなかっただろうが、それは半刻ものように感じられた。甲板長が怒鳴り声で終わりを告げると、背中が赤く腫れ上がった男はそのまま甲板に倒れこんだ。仲間の水夫が急いでその背に海水をかけ、男がのたうち回るのを見ながら、唾を呑もうとしたイーツェンの喉は火傷でもしたかのように痛んだ。つめたい汗でシャツが背にはりついていた。
 ぐったりした男の体を、仲間が下から肩を入れて支え、船医の元へ急ぐ。脇へのいてそれをやりすごし、イーツェンはかかえていた油汚れの布を持って船尾へ歩き出した。
 すでに人だかりはほどけて、めいめいが仕事に戻り、甲板にはいつもの忙しい気配が戻ってきていた。いつものことなのだろうか。
 イーツェンは甲板長の目に留まらぬよう身をちぢめて甲板の隅にうずくまり、汚れのこびりついた布を洗った。海水は手につめたく、風に吹かれて凍える指先は小さく割れている。寒いのにこめかみが熱を持っていて、心臓の鼓動がなかなかおさまらなかった。


 よく絞った布を持ち帰って調理場の壁で干すと、下層のごみを集めてまた上がっては海に捨て、昼まで細かな使い走りをしてすごした。甲板で帆を引く訓練をしているシゼの姿をふたたび見かけて、少し気分がよくなる。
 下層の掃除をしていると、休憩に戻ってきたラウが鞭打ちの顛末をおもしろそうに教えてくれた。甲板にたるんだロープはきちんととぐろに丸めておくのだが、それをあの男がいい加減にしたせいで、ロープの途中に結び目ができたのだと言う。鞭打ちはその罰だ。
 それだけのことで、とイーツェンは拍子抜けしたが、ラウは当然ととらえているようだった。
「午後の仕事休めるし、いいよなあいつ」
 本気か冗談かわからないさばけた口調でそう言って、彼はまた忙しく姿を消した。今日はカナバの調子がいいらしく、朝からラウの機嫌もいい。このままつづいてくれることを祈って、イーツェンも仕事に戻った。
 昼が近づくと昼食の準備をするホードを手伝い、マリーシに食事を運んだ。何故か部屋の窓があけ放たれて湿った潮風が入りこみ、部屋の至る所でぱたぱたと本の頁や布がはためいているので、許可を取ってから風よけをおろす。
 今日の食事には、山羊の乳に蜂蜜を加えて温めた飲み物がついていた。今回は毒味を命じられ、イーツェンがそれに用心深く口をつけると、発酵させたものなのか、何とも言えない酸い匂いが生あたたかく口の中に広がる。リグでも似たような、だがもっと固い飲み物があって、冬の間に湯で溶いて飲んだ。それを思い出しながらどうにかむせることなく飲みこみ、ほかの毒味も終えると、マリーシに食事を勧めた。
 堅パンを煮こんだ薄い肉汁を食べ終えたマリーシが、ふっと思いついたように聞いたのは、イーツェンが食器を下げようとしている時だった。
「空の色はどうだった?」
「‥‥いつもと同じかと」
 甲板に出ても特に何も気付かなかったイーツェンがそう答えると、軽蔑したような溜息が戻ってきた。
「同じ色なわけあるか。空は毎日色が違う」
 怒っていると言うより、子供にあきれているようなどこか優しい言い方だった。
 困惑するイーツェンをよそに、マリーシはこめかみを指先で叩いて考えこんでいたが、椅子から立つと長箱の前に膝をつき、蓋をあけて両手であさりはじめた。何かぶつぶつと呟く。服を引っかき回しているようだ。
 やがてイーツェンを振り向き、頭の上から爪先まで眺めてから、何故かマリーシは渋面になった。
「お前、フードのついたマントを持ってるか?」
「はい」
「持ってこい」
「はい?」
 聞き返したが、マリーシが「2度は言わない」という顔でにらんできたので、やむなくイーツェンはうなずいた。
「わかりました」
 まず空の食器を下げ、下層甲板の床に並んだ箱から、蓋に刻まれた印をたよりに自分の荷物を探し出す。そこから引っぱり出したよれよれのマントを持っていくと、案の定マリーシは嫌な顔をしたが、自分の体にそれを羽織った。
 胸元の紐を結び、フードを頭にかぶってうんざりと呟く。
「臭う」
「‥‥洗う暇がありませんで」
 思わず真面目に答えながら、イーツェンはマリーシの姿を眺めた。灰色のマントをまとってフードをかぶっているが、マントの前がいい加減にあいているので服装が丸見えだ。
 足首丈の青い長衣の上に、灰色と青を入り混ぜて織られた尻までの胴衣をまとい、腰に赤い布の飾り帯を巻いている。キルロイの血と呼ばれる美しい赤はこの国の名産だ。その腰帯には、銀糸で紋様のようなものがかがられていて、布を広げればマリーシの正体につながるものが刺繍されているのではないかとイーツェンは疑っていた。
 胴衣の胸元には鳥の翼のような凝った縫いとりがある。マリーシが無頓着にマントの紐を結んだせいで、色鮮やかな飾りまでがよく見えた。
 マリーシはイーツェンに手を振る。その仕種でまた、豪奢な服装があらわになる。
「お前は下に戻ってろ。私は上に行かないとならん」
 無言のままイーツェンはマリーシに近づくと、勝手にマントの紐をほどき、胸元の重ねを深くしてから内側にある隠し紐で結び直してやった。これで前が隠れる。次は机の上にある飾りピンを勝手に取ると、床に膝をついて、マントの裾のあわせをピンで留めた。これでどう動いてもマントがはだける心配はない。よく油を染みこませて手入れされた上等な鹿皮のブーツが不似合いだが、足元はどうしようもない。どう見てもあやしい姿でもあるが、もしマリーシを知っている人間が見ても判別は難しいだろう。着こんでいるせいで、ほっそりした体つきも目立たない。
「リオン──」
「甲板にあなたの顔を知っている人はいますか?」
 正体を知られないのが、マリーシにとって重要な筈だ。確認のためにたずねると、マリーシは何故か不承不承うなずいた。
「多分、半分くらいは私を知っている。でもとにかく上甲板に行かないと」
「風を読みに?」
 いきなり動きをとめてイーツェンを射抜くばかりに見据えた灰色の目へ、イーツェンはおだやかに説明した。
「あなたは追ってくる船が左舷にいると知っていた。風が左舷から吹いていると、窓からの風だけで読んでいた。風読みはそういうことができるのでしょう? 甲板に出るのならもっと深くかぶって」
 有無を言わせずフードを形のよい鼻先まで引っぱり下げると、マリーシは、前が見えないと文句を言った。だからイーツェンが必要になるのだが。
「乗船の時はどうやったんですか」
「紗をかぶった。あれなら中からは透けて見える。なのに、アバルトスめ、取り上げやがって‥‥」
 紗をかぶってうろうろされたくなかったのだろう。イーツェンは短い帯を見つけ出すと数回折り束ね、片方のはじをマリーシに握らせて、逆側を自分が持った。これで視界のきかないマリーシを引いていける。
 アバルトスの名を聞くと、人を見透かすするどい目と怜悧な声がよみがえった。
 ──部屋からは出すな。
 最初にマリーシの様子をイーツェンに確認した時、彼はそう命じた。イーツェンがマリーシを甲板につれて行けば、アバルトスの直接の命にそむくことになる。
 扉に向かったイーツェンは把手を握り、マリーシから見えないよう唇を引き結んで、大きく息を吸いこんだ。
 アバルトスは不服従に寛容なたちには見えない。奴隷の反抗を彼はどう見るだろう。マリーシへの忠誠と見るか、それとも鞭打ちに値する愚かな行為だと見るか。
 喉に息がつまり、一瞬、肺に空気が入っていかなかった。全身をうっすらと汗が覆い、骨の奥までつめたい汗が吸いこまれていくようだ。まばたきし、奥歯を噛んで、その恐怖を腹の底に押しこめる。彼を動かすものはマリーシへの同情でも、ましてや忠誠でもない。イーツェンには直感があった。
 マリーシが風読みであること、それを隠して船に乗っていることは、昨日確信を持った。そのマリーシが上甲板に出たいと言い出したのだ。イーツェンのマントまでかぶって。ただの気まぐれでないのは、真剣な目を見ればわかった。マリーシはこれまで1度も、部屋にとじこめられていることに対しては文句を言ったことがない。
 風読みが風を読みたがっている。それはひどく重要なことに思えた。
 手を貸さなくとも、マリーシは必ず上に出るだろうし、そうなればいずれイーツェンが怒られるのだ。どうせ怒りを買うなら自分の直感を信じたい。
 それに、近くで見てみたかった。噂にしか聞かないキルロイの風読み、それが一体どんなふうに風と会話をするのか。風読みとは何であるのか。この時を逃せば、自分が一生不思議に思ってすごすだろうことを、イーツェンは知っていた。
 そしてこの好奇心を、明日には後悔してるかもしれないことも。