2日目の夜も、イーツェンはラウと体をくっつけて眠った。
 船内の、冷えてよどんだ空気にも慣れてはきたが、こうして毛布の下で人と身をよせあうと、長い1日の中でやっと体が暖まるようだった。
 シゼはどうしているのだろうと、イーツェンはぼんやり考える。同じ船に乗っているのに居場所ひとつわからないのが、何だか落ちつかない。別々に乗ると決めた時にはひとつの船の中でこんなに離れた気持ちになるとは考えていなかった。
 会いたいし、声が聞きたい。朝に目にしたシゼの表情を思い出しながら、イーツェンは湿っぽい毛布の下でもぞもぞと寝返りを打った。水夫たち──ラウの言うところの "船猿" たち──がひしめくようにぎっしりと眠っているので、その場だけの狭い隙間でどうにか体を返したが、ラウが少し空いた隙間を追いかけるように、イーツェンの背中にべったりくっついてきた。
 首輪の後ろにラウの息がかかるのを感じながら、イーツェンはまどろむ。この下層甲板の水夫たちもイーツェンの存在に慣れてきたようで、はじめの日ほど居心地は悪くないが、首輪のせいだろう、「わっか」とあだ名を付けられたのには参った。彼らはイーツェンがほんの一時期しかそこにいないことを知っていて、いちいち名前を覚えるような真似をしないのだ。
 上の甲板でも事情が同じなら、シゼはどんなあだ名を付けられているのだろう。だがしばらく考えても何も浮かばなかった。思ってみると、誰かがシゼをあだ名で呼んだところをこれまで見たことがない。
 ──会えたら聞いてみよう。
 一言二言交わしたところで、別にかまうまい。そもそも、知り合いであることを隠さなくともよかったのだ。人の注意を引くと面倒だから互いに知らないふりで乗ろうと決めたのだったが、この大きな船の中で、誰もそんな小さなことを気にしそうにない。旅の途中で顔を合わせたとか、宿が同じだったとか、いくらでも互いを知っている理由はあった。
 眠いのに、そんなことばかり延々と考えているのはシゼが恋しいからで、マリーシのこととか、調理場の仕事のこととか、鼠取りのこととか、風読みの話とか、色々と話したいことが溜まっている。海の旅にはイーツェンを怯えさせることもあったが、物珍しく楽しいこともたくさんあって、イーツェンはそういったものをシゼと分け合いたくて仕方なかった。シゼがはじめの日にのぼらされた帆柱の上から、見おろした景色はどんな風だったのだろう。船は、海は、あの高みからどう見えたのだろう。
 会いたいな、と考えながらまどろんでいると、周囲のいびきや歯ぎしりの向こうから弱々しい咳がひびいてきた。喉に痰が絡んだ苦しげな咳は、細く、湿っぽく、痛々しい。
 カナバの咳だろう。夕食が喉を通らない様子の彼を、ラウはしきりに気にしていた。だがカナバ本人は世話を焼こうとするラウを罵り、イーツェンには意味のわからない船乗り同士の侮辱を吐き散らし、しまいには頭に血がのぼったラウがカナバに殴りかかるのをほかの水夫が羽交い締めでとめるところまでいった。
 カナバの病が何だかわからないが、イーツェンはいい印象を抱いてなかった。肌の、乾いた生気のなさが不吉だし、イーツェンが知るこの2日だけでもみるみる弱っている。昼間、甲板で仕事をしているというのが信じられないほどだが、ロープさばきは誰よりうまいのだとラウは言った。その口調からすると彼はカナバを尊敬しているようで、そんなラウがカナバの世話を見ようとして邪険な拒否にぶつかっているのも痛々しい。
 咳は、途切れ途切れに続いていた。とにかく朝までもう一眠りしないと、とイーツェンは目を固くとじる。疲労が体の奥にきつい芯を作っていた。ラウと一緒にいる毛布の下は暖かいが、船に乗ってからずっと、緊張が消えない。
 咳に引き戻されながら、やっと眠りに落ちた時に最後に思い浮かべたのは、甲板で彼をまっすぐに見たシゼの顔だった。
 あの時、シゼの表情には何かがあった。イーツェンがそれまではっきりと見えなかった何か、まだ言葉にできない何かが。


 鐘──鐘が鳴っている。知らない音だ。
(弔いの‥‥?)
 不吉な音で鳴ったあの鐘は、レンギの鐘だった。使者は首を持って帰るとオゼルクは言い、シゼが墓を掘り返し、だがそこになかったレンギの骨は、オゼルクの手に‥‥
 鐘。
 ぱちりと目をあけて、イーツェンは溺れかかっている人間のように大きく息を吸いこんだ。いくつもの記憶が泥のように混じりあって、夢と現実の境目が、一瞬、わからない。だが何かが自分を起こしたのはわかっていた。
(鐘?)
 周囲の暗闇にどよめきが沸く、その向こうから鐘がひびく。起こした上体が揺らいで、イーツェンはやっと自分が船に乗っていたことを思い出した。船の鐘が鳴っているのだ。まだ夜も明けていないと言うのに。
 あたりを慌てた声がとびかいはじめ、何か異常なことが起こっているのは明らかだった。起き抜けの朦朧も吹き飛び、毛布をもそもそとたぐって起き上がろうとしている間も、イーツェンの体は周囲の動きともつれてぶつかる。夜明け前の空気がかき回されて、首すじが冷たい。
 不安なまま状況を見極めようとしていると、ふいに上から光が降ってきて、イーツェンは目をしばたたいた。小さな明かりでも、闇の中では刺すようにまばゆい。
 光は、格子天井の間から落ちてきていた。上に誰かいるのだ。ガタガタっという音とともにあたり一面に大きな影が踊り、格子の一部が外れて、そこから梯子が降りてきた。それを下の皆が手早くつかんでがっちりと梯子の足を落ちつけ、たちまち昇降口ができる。
「朝番だけひとまず上がれ。後はいつでも上がれるように待機」
 誰かの声がぴしりと落ちてくると、あたりの騒ぎが一斉に静まって、男たちは次々と梯子をのぼりはじめた。ズボンを脱いで寝ていたものか、腰帯姿で足を剥き出しに、肩にズボンをひっかけてのぼっていく男もいる。
 そんな中、ラウがカナバを後ろから押し上げるように梯子を上がるのが見えて、イーツェンはひどく痛々しい思いで2人を見上げた。
「砂袋!」
 上からするどい声がとび、何人かが船倉の道具庫から砂の詰まった袋を持ってきてはかつぎ上げる。皆が、訓練を感じさせる速い動きだった。腰に短い湾刀を下げている者もいる。
 イーツェンはぬくもりの消えかかった毛布を肩にかき合わせ、身を震わせた。いったんとまっていた鐘は、また切迫したリズムで鳴り出している。
 夜の海で何が起こっているのだろう。そして今、シゼはこの船のどこにいるのだろう。


 船の揺れが大きくなっていた。横揺れというのか、進む方向と別の向きに、体が、時おり不安になるほど強く揺さぶられる。船倉の方からきしむ音がして、不安気に周囲を見回していると、背後から後頭部をかるく叩かれた。
「心配すんな、振り切れるさ」
 ぐるりと首を回した先に、見おぼえのある、頬が痩せた細い目の男がいた。イーツェンの荷物をあさっていた男だ。イーツェンが身をこわばらせたのにも無頓着で、男は寝起きの髪をかきまぜながらイーツェンのそばにあぐらをかいた。
 灯りが残されていったので、下層はぼんやりと明るい。その光の中で、イーツェンは男の表情を眺めたが、悪びれないあっけらかんとした笑みがあるだけだった。朝にはこの男にくってかかったラウも、昼には何事もなかったかのように2人で笑いあってたし、すぎたことは水に流すのが彼らの流儀なのかもしれない。
 それでも警戒心は拭えないまま、イーツェンは問い返した。
「振り切れるって、何を?」
 男は口をあけ、言いかけた言葉をいったんとめた。「丘ものが」という侮蔑が呑みこまれたのは、馬鹿でもわかる。イーツェンは質問を少し変えた。
「この鐘って何の鐘?」
「所属不明の船が近づいてきているっていう鐘さ」
 サヴァーニャの後ろにつけていたあの2隻の船を思い出して、イーツェンは奥歯を噛む。
「よくあること?」
 質問ばかりたたみかけられて、また男は「丘もの」という言葉が舌先まで出かかったように見えたが、とにかく答えた。
「東回りは海賊はよく出る方だな。航路が長いから巡回船の目の届かねえところが多いんだよ。俺らもほかの船を襲ったりするしさ」
 聞き捨てならないことをあっさり言って、紙切れのようなものを口に含み、くちゃくちゃと唾液の音をたてる。何かの樹皮を乾かしたもので、空腹や喉の渇きを抑えるために噛むらしい。イーツェンもラウに分けてもらったが、酸っぱくて泥っぽいぼろ布を噛んでいるような味だった。
 こうして待つことには慣れているのか、男はごろりと転がって腕枕で目をとじてしまった。イーツェンはそう簡単には眠りに戻れず、肩に毛布をかけて膝を抱える。
 頭の中には新たな疑問が浮かんでいた。
 陸上で旅をしている間、街道は王や領主のものだった。少なくとも、特例が許された場所以外は。街道は法的に彼らの支配下にあり、街道での罪は王の名のもとで裁かれ、盗賊は王の刑罰を受けた。必ずしも治安が行き届いてはいないが、少なくともそれが定められた法の形だ。
 だが、海はどうなっているのだろう。
 海で略奪や殺戮が行われた時、それを取り締まるのは誰の権力、誰の法なのだろう。
 それともこの広大な海原に、法はないのだろうか?


「法がないわけないだろうが」
 マリーシはあきれた目でイーツェンを眺めた。半分とじたような瞼の下から心底馬鹿にした目を向けられて、イーツェンは「丘ものは」という言葉が空中に漂っているのを想像した。マリーシはそれを実際に言うほど品は悪くないが、直に言われた方がましかもしれない。
「じゃあ、誰の法の下なんですか?」
「今いる場所から陸地が見えるか?」
 逆に問われ、イーツェンは考えこんだ。朝の陽が出てすぐにマリーシの部屋へ追いやられたので、今朝の海は見ていないが、少なくとも昨日は陸地の影もなかった。
「いえ、多分」
「つまりここは、陸地の支配者の及ばぬ場所だ。だが──」
 右手の指だけ上げてイーツェンの反問をとめ、マリーシは一瞬、言葉を整理する間を置いてから、いきなり子供に説明するかのような噛み砕いた口調になった。
「2つの国にはさまれて両方が見える海の場合、お互いの話し合いの元に権威の及ぶ範囲を定める。どちらからも見えない遠海の場合、主要な航路を特定の国が司ることがあるが、それも1番近い国の同意あってのことだ。だから、海の上でも王の支配が及ぶ場所はある。航海が増える頃になると、艦船を出して、通る船から通行料を取ったりもする。もっともそういった場所は、ごく一部の領海にすぎない」
 船が旋回を始めたのか、体にねじれるような力がゆるくかかって、イーツェンは後ろ手に棚をつかんだ。今日は、これまでで一番揺れている気がする。
 マリーシの話は続いていた。
「海の上で機能する法とは、船ひとつひとつにそなわるものだ。ひとたび海に出れば船はそれ自体がひとつの国で、船長はその王となる。船同士の間には慣例によって定められた様々な法があり、追い抜きの方向や旗による挨拶など、それらは海の上では破ってはならないものだ。逆に言えば、それ以外の制約はない」
「‥‥他船を襲ってはならないという法は、ないんですか」
「ない」
 マリーシがにっと笑うと、唇の右側に深いえくぼができた。意外なほど子供っぽい口元になる。
「襲う方は襲い返されたり皆殺しにされても文句は言えないし、船籍がわかればその国に賠償を求めたりもできるがな。互いに襲わないよう、条約を結ぶ国もある。だが基本的に、襲ってはならない法は船乗りの間にはない。座れ」
 ぐらぐらしている足元を見抜かれて、小さな椅子をすすめられた。礼を言って腰をおろし、イーツェンはつい天井を仰ぐが、上の甲板で何が起こっているのか、知るすべは何もない。鐘はずっと前にやんでいたし、時おりにかけ声が聞こえるだけだ。ずっとこんな状態が続いていた。
 夜が明けると、下でうつらうつらしていたイーツェンはホードに叩き起こされ、マリーシの部屋に上がって待つよう命じられたのだった。嫌がられるだろうかと思ったが、マリーシはイーツェンを予期していた様子で、落ちついてかまえていた。船が追ってきているということも、朝方の鐘も大した問題ではないかのように。
 イーツェンへの説明は終わったか、今もまた、マリーシは膝に本をのせてめくりはじめていた。
 状況がわかっていないのは自分だけのような気がする。椅子に座ったイーツェンはちらちらと窓に視線を投げていたが、ついに耐えられなくなって立ち上がり、窓へ歩みよった。
 窓には風よけの白い紗が張られていて外は見えないが、近づけば、あるいは透かして──と思った時、マリーシが言った。
「あけて見てみろ」
 ありがたく紗の枠を上げ、頬を打つ風に顔をしかめつつ、イーツェンは顔を出して外を見る。思うより目のすぐ下に波が立っていることにぎょっとした。押してきた波が船に当たって散る、その場所だけが、灰色の海の中で強く白く泡立っている。
 川の波とまるで違い、海の波は横からも押しよせて、海面をうねらせ、とがった先端を押し上げては船体にぶつかり、砕けた。
 その動きを見ていると、また酔いそうだ。イーツェンは目をそらして海の上を探そうとした。
「その窓は左舷側だから船隊が見える筈だ」
 マリーシがイーツェンの背中に向かって、興味がなさそうな声で言う。イーツェンは首をつき出して、髪がばさばさに吹かれるのもかまわず目を凝らした。船首の一部を区切った部屋なので、窓から船の舳先と横腹までは見えるが、船体の膨らみに邪魔されて後方までは見通せない。
 首をのばして見ようとしていると、船が波に当たる音が大きくひびいて、イーツェンはまたたじろいだ。波は大して高くないように見えるのに、船体にぶつかり、砕ける音は高く、本当に何かが壊れるような音だ。風もまた船体を叩いてうなり、下から細かなしぶきをすくい上げてはイーツェンの顔に散らした。
 目をほそめ、イーツェンはマリーシの言う通り、左舷の波の上に船隊を見た。3隻──いや、4隻、見える。
 いつのまに2隻増えたんだ、と喉が乾いて、イーツェンは窓枠をつかんだ指に力をこめた。風に吹かれて、首の輪がひしひしと冷えてくるのが忌々しい。
「何隻いる?」
 マリーシが聞いた。窓の外が見えるわけもないだろうに、まるでイーツェンの見ているものがわかるようだ。
「4隻います」
「艤装はわかるか」
 そう言ってから、マリーシは言い直した。
「帆柱が3本の船はあるか」
「‥‥1隻」
「帆の色は灰色か」
「2隻が灰色で、2隻はもっと茶色がかって見えます」
「帆柱が3本の船の、主帆の上の旗は見えるか?」
「それは、ちょっと‥‥」
 イーツェンの視点からでは船と船とが重なり合って見えることもあって、状況がどうなっているのかわかりにくい。さらに乗り出そうと小さな窓に身を押しつけた時、サヴァーニャ号が左に旋回をはじめ、窓が4隻の船の方をまともに向く形になって、イーツェンは驚いた。追ってくるのだから、尻を向けてまっすぐ逃げなければならないのではないだろうか。
 だが、見ていると、後ろの4隻も、方向を変えながら互いに交錯しているのが段々とわかってくる。大きい船なのだが、どれも思いのほか素早く帆のひらきを変え、船首の向きを変えていく。
 魅入られたように凝視していると、そのうちの1隻がいきなりがくりと速度を落とし、右手に大きく航路を曲げながら他の3隻から遅れた。
 その様子と、船の帆の数や形を──見て取れる限り──マリーシに伝えると、マリーシの声に微笑が浮いた。
「1隻振り切ったな」
「どうやって‥‥」
「風上をふさぐんだ。完全に風上を抑えられれば、風下に落ちるしかない」
 途方に暮れて振り向いたイーツェンに向かって、マリーシはまた子供に説明する口調になった。見おろすような態度は変わらないが、無知な相手に物事を説明するのには慣れているのか、苛つく様子はなかった。
「船はどうやって進む、リオン」
「風で‥‥」
 実際に子供に戻ったような気分で、イーツェンは窓際から不確かにマリーシを見た。マリーシはうなずく。
「帆に当たる風を進む力に変える、それが帆船というものだ。もし吹く風が遮られれば、風が弱って前に進めなくなる。わかるな?」
「はい」
「つまり、別の船が風上を覆ってしまえば、その帆で風を奪える。風下の船は風を充分に受けることができなくなり、船足は落ちる。船はな、すぐ速度を上げたりとまったりできる代物ではない。1度船足を落としてしまえば、その船はもう追ってはこられない」
「‥‥‥」
 言われたことを頭の中で整理できるだけの間、イーツェンは黙って、それからまた窓の外をのぞいた。離れた1隻は、たしかにもう見るからに小さくなっている。残る3隻は、まだ互いに距離を置きながら先を争っているようだ。2隻がもう1隻の航路を塞ごうとしているように見えて、風のしみる目をしばたたいた。
「あの4隻は、仲間じゃないんですね」
「ちがう。2隻はこの船の護衛船だ」
「ああ‥‥」
 やっと色々と呑みこめて、イーツェンは思わずひとりで赤面した。追ってくる2隻を不審なものだと思っていたが、考えてみればそれなら昨日からもっと厳重に見張っていた筈で、甲板の誰もが後方のあの船を気にしていないのは明らかだったのだ。夜半、しのびよってきた2隻のみが、海賊──か何か──だ。
 サヴァーニャ号がまた左側に針路を曲げ、イーツェンはマリーシが言ったことを考えていた。
(──その窓は左舷側だから船隊が見える筈だ)
 何故左側に船がいる、とわかったのか。イーツェンはマリーシを見て、相手も自分を見ているのに気付いた。何故かためされている気がして、彼はマリーシにまっすぐ向き直る。
「左舷側が風上なんですね。だから船がそちらにいるとわかった」
「そうだ。襲う時も追う時も、相手は風上から入る」
 決まり切ったことを、と鼻先であしらわれた。風上というのは帆船にとって絶対的に有利な位置なのだ。今も背後では2隻が残る1隻を風下に落とそうとしているし、サヴァーニャ号も左側──風上へ少しずつ航路を向けている。そこまではイーツェンにもやっと理解できた。だが。
 窓からの風が吹きこんで髪を乱し、壁に掛かった布を揺らす。小さな窓を通ってきた風には、何の向きもない。ただ窓からなだれこんでくる、それだけだ。
 紗の張られた風よけをしめ、留め金を掛けて、イーツェンはしぶきに湿った髪を耳の後ろへ払いながらたずねた。
「どっちが風上か、どうしてわかったんですか?」
 何か言うかと思った。イーツェンがくる前にあらかじめ窓をあけて確かめていたとか何とか──だが、マリーシが見せた邪気のない微笑に、イーツェンは虚を突かれる。
 マリーシは椅子をさした。
「すぐに終わる。うろうろせずに、鐘を待て」
 言われた通りに椅子に腰をおろし、イーツェンはマリーシを眺める。無躾なのはわかっていたが、警戒をといて微笑するマリーシは、昨日までとまるで別人のように見えた。気分屋なのか、イーツェンの存在に慣れてきたのか。人見知りなのだろうか。
 頭上から甲板のかけ声が遠くひびき、イーツェンは落ちつかない視線を窓へ投げた。2隻が守っていたということは、襲われるのは予想の内だったのだろうか、それともこの航路はそんなに危険なのだろうか。
「もし、追いつかれてたら‥‥」
 夜の内に乗りこまれていた可能性もあるのではないかと、身が冷たくなる。
「この船にはアバルトスがいるから平気だ」
 水差しを取って水を含みながら、マリーシはさらにつけ加えた。
「海兵の長だ。船上で、あの男が誰かに負けたのを見たことがない」
「あの人は──」
 何も考えずに言いかけた口を慌ててとじたが、もうすでに遅い。ひたと据えられたマリーシの目に先をうながされて、イーツェンは首をすぼめた。
「‥‥風読みだと、聞きました」
「風読みの流れ、な」
 ぎょっとしたイーツェンを、マリーシがおかしそうに笑う。イーツェンの無知をおもしろがっているのかもしれない。
「水夫どもは、噂話をしないと夜も明けない。どこまで聞かされた?」
「流れには、風を読む力はないと」
 叱りとばされるのを覚悟で、恐る恐るそう言ったが、マリーシはただうなずいただけだった。目をとじて、指先で眉根を押さえる。ふと、顔色が悪いような気がしたが、朝の光のせいなのかはかりかねて、イーツェンは細い作りの顔を見つめた。
「アバルトスの父親はフェゼリス家の男でな。息子を風読みにしたかったんだが‥‥」
 独り言のように呟いて、マリーシは灰色の目で低い天井を眺めた。
「こればかりは、いくら金があってもね」
「風読みというものを私はよく存じ上げないのですが、生まれ持った才が必要なものなんですね」
 注意深く言葉を選び、イーツェンはそれが質問のように聞こえないよう気を付けた。本当は風読みが何をするのか、噂されているように呪師の一種なのか、知りたくてたまらないのだが、秘密を探っているなどと取られるのは困る。ただの好奇心がするどくはね返ってくるのは、怖い。だがやっぱり知りたい。
 マリーシは長い溜息をついた。
「生まれついた者しか風読みにはなれない。アバルトスは、風読みを作る方法を探しているがな」
「作る?」
「風を計算することができる、と言い張っている」
 その口調には笑いがあったが、冷たいものではなかった。アバルトスがイーツェンに2度もマリーシのことをたずねたように、マリーシも同じ船に乗るアバルトスのことを気にしているのだろうか。友人にしては奇妙な2人だ。敵意は感じない一方、そこにあるものが何なのか、イーツェンには温度がつかめない。
「できるんですか」
 思わず好奇心を剥き出しにした問いを、マリーシは片手で払い、立ち上がった。1歩ふらついたように見えたが、イーツェンが助けに立ち上がるより早く寝台の前にかがみこんで、長箱から革の巻き袋を取り出す。
 椅子に戻ると、膝の上でそれを広げた。内側は細かく仕切った小物入れになっていて、油紙の包みや牙の入れ物がところせましと差し込まれ、まるでエナが持っていた薬入れのようだった。
 マリーシは包みのひとつを取って、イーツェンへ手渡す。
「下で煎じてきてくれ」
「まだ、火が入っていないと思いますが」
 急に顔色が悪くなったマリーシを案じつつ、イーツェンは包みを受け取った。失望させたくはないが、ホードは警戒がおさまるまで炉に火を入れないと言った。当然だが、船内は火の扱いに厳しい。
 また無言で手を払われた。「言い訳はいいからさっさとやれ」と言うような手に溜息を殺して、イーツェンは下層甲板へ向かったが、調理場に付いたのとほとんど同時に、頭上から警戒解除の鐘が鳴りひびいた。


 いつもにも増して不機嫌なホードは、灰をつめた鉄の箱の中で火種が消えているのを見て、さらに不機嫌になった。イーツェンは八つ当たりで叱りとばされる前に、油燭をひとつ取って戻り、細い木の焚きつけから火をおこす。
 炉の冷たさに熱を吸われて、火はひどく消えやすい。それを何とか守りながら泥炭全体に火が回りはじめた頃には、船全体にいつもの騒がしさとゆるい秩序と、水夫たちの不満と冗談まじりの声が戻ってきたのを感じた。やはり随分と、空気が違うものだ。
 火をおこすと、マリーシの部屋から持ってきた茶瓶に包みの中を入れ、水を注いで火の上の枠にのせた。乾燥させた何かの茎葉だが、空にした包みの匂いを嗅いでみて、イーツェンはその悪臭に驚いた。
 ──これを呑むのか?
 大丈夫かな、と案じながら茶瓶を眺めていると、ラウの切迫した声が聞こえてきた。
「たのむよ。1杯くらいかまやしねえだろ。1杯飲めばしゃんと動くよ、いつもそうだろ?」
 あまりあからさまにならないようちらりと見ると、ラウは調理台に向かって豆を潰しているホードへすがりつかんばかりに懇願していた。ホードは大きな背中をラウに向けたまま、振り向かずにうなる。
「てめえらにくれる酒はねえ。勝手に酒飲んだら甲板長に背中の皮剥がれんぞ」
「ホード──」
「うるせえ」
 豆を潰す棒で、ホードは調理台が揺れるほど強く叩いた。色々な物が台の上で踊る。
 イーツェンは2人からできるだけ距離を取り、調理場の影の中にじりじりと下がった。ラウとも目を合わせられない。悪いとは思うが、酒樽に手を付けたら、ホードはイーツェンも甲板に引きずり出すだろう。そもそも酒をすくう道具も、栓を叩く木槌も、自由には使わせてはもらえない。
「動けねえなら港に残りゃあよかったんだ。てめえらが酒飲ませて船に乗っけた挙句がこのざまかよ、ああ?」
 ホードの怒りは声にも、力の入った肩の盛り上がりにも明らかで、彼を取り巻く空気までもが怒りで震え出しそうだった。イーツェンはじっと息を呑みこむ。
 だがラウは引き下がることなく、頬を紅潮させ、唾を吐かんばかりにホードへくってかかった。
「カナバを港に残して行ったら、あっという間に駆け場の連中があいつの骨までしゃぶっちまう。陸に俺らの場所があるかよ? あんただって、陸に上がったらどうしようもねえから船に乗っかってんだろうが。俺らは、船に乗ってなきゃゴミだ」
 苦々しい笑いはまるでラウらしくなく、イーツェンは胸がしめつけられた。この暗く狭い下層甲板にしがみついてなければならないほど、彼らにとって、陸での扱いはひどいのだろうか。
 ホードはまた調理台を叩く。こめかみに青筋を立てた男は、歯の間から怒りの声をきしり出した。
「陸で腐ろうが船で死のうが、変わるかよ。てめえらはどこにいたってゴミだろうが」
 ラウの目が燃えるような光を帯び、全身に獣のような力が満ちた。まるで一回り大きくなったように見え、イーツェンはラウが今にもホードにとびかかるのではないかと身をこわばらせる。ホードは巨躯と言ってもいいが、片足は義足だ。
 ラウは顔全体を紅潮させ、ぎらつく敵意を体に溜め、噛みつかんばかりにホードを罵った。もはや声を抑えることも忘れている。
「じゃあてめえは何だ! ゴミ以下か? お情けで船に乗っけてもらってる船乗り崩れが!」
 その瞬間、ホードが調理台から包丁をとり、ラウめがけて分厚い刃を投げた。イーツェンは驚きの声をたてる。
 刃はラウの肩すれすれをかすめ、調理場の戸口のすぐ横に大きな音を立てて突き立った。
 その音が消えても、誰も、何も言わなかった。ラウは拳をホードの方へ突きつけたままにらみつけ、ホードは調理台へ片手を突いて、かすれた息に肩を上下させていた。それまで聞こえていた下甲板の話し声までぴたりとやんでいるのに、イーツェンはぼんやりと気付いていた。
 マリーシの茶瓶から湯気が白くたちのぼり、蓋がカタカタと動く。そのかすかな音すらひどく大きい。すべてが凍りついたようだった。
 その時、調理場の入り口からシゼが歩み入ってきて、イーツェンは今度こそ本当に仰天した。口をあけたが、何も言葉が出てこない。
 シゼは何事もないかのように落ちつき払った様子で、壁に刺さったホードの包丁を1動作で引き抜いた。調理場の壁は全体に煉瓦を貼ってあるのだが、道具を吊ったり棚を固定するために木の桟が数ヶ所むき出しになっていて、包丁はそこに深々とした跡を残していた。
 そのままラウを通りすぎ、シゼは調理台へ包丁を置く。同時に、後ろ手にラウを押しやって、出ていけと合図をしたのがイーツェンの位置から見えた。
「‥‥‥」
 言葉が出ないまま、イーツェンはやっと口をとじる。蝿がとびこまなかったのは幸運だった。
 まだ信じられないが、どう見てもやはり、2人の間を分けるようにそこに立ち、ラウが出ていくのを黙って待っているのはシゼ本人だった。ラウたちと同じように航海の汚れが服につき、裸足だったが、腰には相変わらずなじんだ剣帯を巻いている。
 シゼはイーツェンを見ていなかったが、彼の注意があたり全体に払われているのはわかる。それを感じると同時に身の内にたわんでいた力がふっとゆるみ、イーツェンはこわばっていた肩の緊張をといた。シゼがいれば大丈夫だ。
 ラウが、シゼの背中へ向けて何か言いかけたが、イーツェンは首を振ってそれをとめた。幸い少しは頭から血が下がったか、ラウはたじろぎ、唇を噛むと、激しい足音を残して調理場から出ていく。イーツェンはほっとした息をついた。
「‥‥あんたは」
 ホードは調理台に両手を置き、半分体重をかけるように前にのめりながら、歯の間から声をきしり出す。足が痛むのだろうか。
 シゼはホードへ向けてうなずいた。
「上から、昼食を鐘ひとつ早めろと言うことだ。船長室には4人分運んでほしいと」
「わかった」
 ホードはうなって、太い指でイーツェンをさした。
「さっさとその臭えヤツを上へ持ってって、用を済ませてこい」
 言われて気付くと、マリーシの茶瓶で沸いた煎じ薬の湯気は独特のにおいであたりを満たしはじめていた。元の茎葉ほど臭くはないが、やはり濃く重い、奇妙な匂いだ。どこかで嗅いだことがあるような気もするが、思い出せない。
 イーツェンは布で熱い茶瓶の取っ手をつかんだ。伝言を終わったシゼが背を向けて出て行ったので、丁度、背中を追うように調理場を出ることになる。
 シゼは足取りをゆるめて昇降口に歩きながら、イーツェンが追いつくと、低くたずねた。
「大丈夫か」
「うん」
 お互い誰に聞かれてもいいようなやり取りにとどめながら、イーツェンも声を抑えた。梯子の下で立ちどまったシゼは、肩ごしにイーツェンを見る。表情はいつものように注意深く、まなざしはまっすぐだった。
「昨日‥‥甲板で吐いてた」
「ああ」
 見られていたのか、とイーツェンは顔をしかめた。
「もう平気。そっちは?」
 船酔いのことを聞いたのか、船での仕事を聞いたのか、自分でもよくわからないが、シゼは喉の奥でうなずくような返事をして梯子をのぼった。上からのばした手でイーツェンの持つ茶瓶を受け取り、イーツェンが梯子をのぼるのを待ってから渡す。
 ポン、と手がイーツェンの肩を叩いて、銅色の目でイーツェンを確かめるように見つめてから、シゼは踵を返した。イーツェンは熱い茶瓶を持ち、人とぶつかったり船の揺れで足元をあやまらないよう、注意深く歩き出す。早足のシゼとの距離はすぐに離れて、船内の薄暗さの中に見失ってしまったが、気持ちの中に暖かなものが残っていた。
「‥‥あ」
 マリーシの部屋にたどりつく寸前、思わずがっかりした呟きを洩らす。会えたことにあまりに驚いたせいで、いつもどこにいるのか、何の仕事をやらされているのか、聞くのをすっかり忘れていたことにやっと気がついたのだった。