船倉に仕掛けてある鼠取りの中をのぞき、鼠がかかっていればそれを箱ごと回収して海水に沈め、空なら中に仕掛けてある板に肉の脂を塗り付け直す。
「鼠に絶対かじられるなよ」
と、ホードは忠告した。
「傷から腐って指を落とした奴もいるからな」
親切なんだか脅してるんだかわからない。だが実際、船の鼠はイーツェンが知る鼠より一回り以上大きく、獰猛で、鼠取りの中で荒れ狂う彼らに肉をかじられるのは考えただけでぞっとする。
「ぎゃ」
足元にまとわりついてはきしむ、灰色の毛玉のような猫を踏まないようにしながら、イーツェンは文句を言った。
「鼠取りはお前の仕事だろう」
「ぎゅ」
相変わらず喉を絞められている最中のような声で啼いて、猫は馬鹿を見るような目でイーツェンを見上げたが、イーツェンが投げてやった鼠の死骸をくわえると、満足げにどこかへ持っていってしまった。普段どこにいるのか、気まぐれに姿を現してはこうして消える。
鼠の作業が終わると、マリーシを起こした。
マリーシは身繕いも寝台を調えるのも自分でやるので、イーツェンのする「世話」と言えば食事の運搬、部屋の掃除やごみの処理、水差しの水がなくならないよう注意することくらいだった。船乗りたちと違って、マリーシは飲み水の量を制限されていない。だが彼は最小限しか飲んでいないようだった。船に乗り慣れているのかもしれない。
朝の手洗い用の水──マリーシには真水が用意される──をイーツェンが持っていくと、もう寝床から出ていた彼は読んでいる本から顔も上げずに「船酔いは治ったか」と聞いた。
実を言うと、働いている間にまた胃が落ち着かなくなってきていたのだが、イーツェンは「はい」と応じる。働くのに支障はない。ホードには「軽くすんでよかったな」と言われて、喜んでいいのかどうかわからないイーツェンだった。あんなにひどく吐いたのは、子供の頃に流行り病にかかって以来だ。
マリーシはイーツェンの強がりを見抜いたように鼻先で小さく笑って、旅用の小さな水盤にうつした水で顔と手を洗った。イーツェンは1歩下がって、遠慮深く彼の様子を見る。
きちんと櫛を通した黒髪を丁寧に首の後ろでまとめたマリーシは、神経質で清潔な空気を漂わせ、どうしてか、イーツェンはふとレンギのことを思い出した。レンギはいつも人当たりよくおだやかだったが、時おりしんと潔癖なたたずまいを見せることがあって、マリーシはそれと似た孤高さを強くまとっていた。
顔をやわらかなリンネルで拭い、長い睫毛についた滴をまばたきで払うと、マリーシはイーツェンに水盤を下げるよう手で示した。イーツェンは、廊下の窓から水を捨てる。その時、通路をせかせかと行き交う船員たちの地味な服の中に鮮やかな金朱がちらついて、顔を上げると、船旅が終わるまで見たくなかった相手がそこにいた。
ジャスケは、満面の笑みで胸元に赤い飾りの帯布がついた上着をまとい、船内には似つかわしくない固い靴音を立てながらイーツェンに歩みよってきた。
「マリーシ殿に取次ぎを」
イーツェンは身をかがめて恭順のしぐさをすると、船室に戻り、ジャスケの訪れを伝える。マリーシの渋面はなかなかの見物だった。
薄い色の下唇を歯の間に噛んで、眉根に濃い皴をよせる。
「何の用か聞いたか」
「申されませんでした。うかがって参りましょうか」
そう言った時、扉を叩く音がして、振り向いたイーツェンの前にはもう丸っこい笑顔があった。朝から元気そうだ。
「これは、ご機嫌うるわしく──」
「ありがとう。わざわざご挨拶に来ていただいたことにお礼申し上げる。それでは失礼」
氷のような声で言うと、マリーシはジャスケの方を見ようともせず、組んだ膝に載せた本を怠惰な手でめくりはじめた。あからさまに追い払おうとしているが、居座ろうとする方の面の皮も厚い。ジャスケの笑みは小揺るぎもしなかった。
「お元気そうで一安心ですな。茶の仕度を」
自分に命じられたのかと思って視線を泳がせたイーツェンをよそに、ジャスケは身をかがめ、机の下から小さな木箱を取り上げた。琥珀色の象眼がぐるりと取り巻いた、瀟洒だが上品なつくりの箱で、金の形をした留め金が前についている。箱を机の上に置くと、ジャスケは親指の腹ではじくように留め金を押し上げ、蝶番の蓋をひらいた。
中には淡い青の陶杯と、そろいの茶道具が入っていた。ジャスケは嫌な顔をしているマリーシには知らん顔でそれを並べ、イーツェンへ命じる。
「湯を持ってきてくれ」
「承知いたしました」
炉にもう火が入っているかな、と思いながら、イーツェンは頭を下げた。いいか、とマリーシに目で伺いを立てると、追い払うように手を払われて、部屋を後にする。
通路を歩き出した時、頭上からそろえた足踏みの響きが甲板を震わせた。イーツェンは格子甲板ごしに見上げ、眉をひそめた。かけ声が聞こえてくるが、水夫たちが帆のひらきを変える時のものとも違うし、足音がぴたりとそろいすぎている。しかも大半が靴を履いているような固い音だった。水夫は半数以上が素足だ。
格子の真下は埃が落ちてくるのでよけ、足取りをゆるめて、イーツェンはかけ声の内容を聞きとろうとした。右、左、下がれ、足変え、突け──
(剣の訓練?)
船上で何故に、と思ったが、確かにそろった足音はそう聞こえる。そう言えば、ルスタで酒場の娘に聞いた噂話には、この船には兵士が乗っているらしいともあった。
水夫の中にたたずまいの違う男たちが混ざっていることには、イーツェンも気付いていた。腰に湾刀を下げて薄い革の靴を履いた男たち。船の仕事もしているので特別な存在には見えなかったのだが、明らかにただの水夫ではない。
兵士だと思えば、あの体つきや油断のない身ごなしにも納得がいく──
船の上での剣の訓練は、何を意味するのだろう。他の船に襲われたり、船上で戦いがおこる可能性もあるということだろうか。イーツェンの脳裏には、サヴァーニャ号の航路をぴたりとついてくる正体のわからない2隻の船のことが浮かんでいた。もしあの船が襲ってきたら、彼らはこの海上で孤立無援のまま戦うのだろうか。
頭上から、剣と剣が打ち合う金属音が鋭くひびき、首をすくめながらイーツェンは下層へ急いだ。今になってまた、シゼの剣が彼の手を離れている事実が、心に重くかぶさってくるようだった。
幸い、ホードはもう炉に火をおこしていたが、炉全体が暖まる前だったので、イーツェンが2人分の茶に必要な湯を持って戻るまでに少し時間がかかった。
部屋に入った彼を出迎えたのは、水のような静寂だった。マリーシとジャスケは椅子に座っているだけで、何の会話もしていない。ジャスケはどこから取り出したのか糸で上を綴じた分厚い帳面を膝に乗せてぱらぱらと頁を繰っていたし、マリーシは腕組みして窓の外を見ていた。
その冷たい顔が戻ってきたイーツェンを見た瞬間にふっとやわらいで、驚きつつ、イーツェンは湯の入った錫の長杯をジャスケの前へ置いた。
ジャスケがそれを取ろうとした瞬間、マリーシが鮮やかな笑顔をイーツェンへ向けた。
「リオン。茶を淹れてくれ。ジャフィ殿の手をわずらわせるのは失礼というもの」
「かしこまりました」
ご主人様、とまでは付けずに答え、イーツェンは茶道具をジャスケの前から遠ざけると、茶を淹れ始めた。リグには豆で淹れる茶しかないが、ユクィルスで植物の茎葉を使う茶も見たので、やり方はわかる。茶瓶に葉と湯を注いでしばらく蒸らすくらいしか知らないが、何とかなるだろう。
2つの茶杯を並べて薄琥珀の茶を注ぐと、2人の前に出し、イーツェンは道具を下げようと盆にのせた。マリーシののんびりした声がその手をとめる。
「今はいいから、これを磨いてくれないか、リオン」
昨日はイーツェンの名など1度も呼ばなかったのに、ジャスケが現れてから立て続けに2度目だ。その意味を考えながら、イーツェンはマリーシの手から銀の1灯燭台と磨き布を受け取った。海の生き物が長い尾をくねらせるように台座に巻き付いた燭台は、薄青い銀に磨き上げられていて、どう見てもそれ以上磨く必要などない。
だがマリーシが寝台の前の床をさすので、狭い隙間に腰を落ちつけ、イーツェンは立て膝で燭台をはさむとなめらかな布で丁寧に磨きはじめた。ジャスケが何か言いたげに喉の奥で咳をしたが、イーツェンもマリーシもそれを無視する。
いかにも仕事に熱中しているように燭台を磨きつつ、イーツェンは目のすみで2人の様子を見ていた。マリーシが茶に垂らす蜂蜜を見て、今にも腹が鳴りそうになる。昨日食べた分は全部船酔いで出ししてしまったし、朝から水しか飲んでいない。ここを出たら、荷物にしまってあるチーズでもこっそりかじろうか──
「顔色が悪いな」
沈黙の2、3秒がたって、やっとその言葉が自分に向けられたものだと気付き、イーツェンはまばたきした。マリーシを見つめ、曖昧に微笑する。
「ご心配ありがとうございます。船に慣れていないもので」
「だろう」
固い、清潔な仕種で顎を引いてうなずくと、マリーシは口元で湯気を吹いているジャスケに平らな視線を向けた。
「船にも海にも慣れていない者を部屋付きにして、一体何の役に立つ」
「茶を淹れる用には足りましょうなあ」
ジャスケはのんびりと答える。イーツェンは会話が聞こえていないような顔をしながら、燭台に存在しない曇りを一心に拭い去るふりを続けていた。
「茶を飲みたがるのはお前だけだ」
「船上でこのように美味しいものがいただけるのは、望外の贅沢でございますな。旅をご一緒できて、大変にありがたいことで。重畳、重畳」
のらくらと返事をして、ジャスケはいかにもうまそうに茶を口に含んだ。マリーシは蜂蜜を入れた木さじで茶を怠惰にかき混ぜているばかりで、まだ茶杯を口に運ばない。今回はジャスケに毒味をさせているのだろうか。
「茶道具と雑仕はくれてやるから、1人で楽しんだらどうだ」
あまりジャスケに効いている様子はないが、マリーシの口調は辛辣だ。低く抑えている声にも苛つきがある。
ジャスケの笑顔は、彼の顔中に貼り付いたままだった。
「長年、あちらこちらと根無しでとびまわっておりますと、人とこうして楽しくすごせる時間がなつかしくてなりませんでな。我ら商人は、ほとんど旅の上で食べ、旅の上で寝ますゆえに、いやいや、お相手がいると茶の味も倍豊かになるというもの」
鼻を鳴らして、マリーシがイーツェンへ手振りをし、ジャスケをさす。
「話相手をしてさしあげろ。ご無聊だそうだ」
「では詩でも読みましょうか」
ジャスケへの当てこすりだとわかっていたので、イーツェンは軽く冗談で流した。
よもやマリーシが、
「よし」
と手を叩くなどとは思いもせずに。
ぎょっとして、燭台を磨く手をとめたイーツェンを、2人の目が見る。それまで物のように存在を流してきたくせに、2人とも今は妙にまっすぐイーツェンを凝視していて、イーツェンは内心慌てた。
「よいですな」
ジャスケまで鷹揚に賛同する。イーツェンは逃げ場を探して口をあけたが、何も言わずにとじた。マリーシはイーツェンにジャスケの相手を押しつけるつもりだし、ジャスケはどうしてかマリーシのその意図に乗るつもりだ。
2人が一致したところに、彼だけが反論しても勝ち目はない。イーツェンは覚悟を決めると唇を湿して息を吸い、水鳥についての詩の暗誦をはじめた。ユクィルスで覚えた詩のひとつで、飛び立っていく水鳥は不実な女の比喩だろうが、鳥の優美な翼の曲線や、下からちらりと見える風切り羽根の色をたたえる言葉が美しく、イーツェンの気に入りだ。
前に詩をこうやって誦じたのなど、いつだっただろう。ユクィルスの城での冬の小さな昼食会で、おぼろげな記憶があるが、あれはもう1年近く前のことになる。今やイーツェンは、首に輪を付けて海を渡る最中で、あの時イーツェンのそばに座って焼き菓子を頬ばっていたフェインは、ユクィルスの王を名乗る。人生というのは次の日に何が起こるか、本当にわからないものだ。
幸い、言葉を取り違えることもなく無難に語り終えると、イーツェンは胸元に手を当てて頭を下げた。マリーシが膝を叩いて、笑う。
「どうして、これはなかなか」
「使いどころが見つかったようで、ようございましたな」
ジャスケは詩を読む間からずっとイーツェンの顔に視線を当てたままで、今もにこやかに世辞を言いながらイーツェンの目を見ていた。イーツェンは視線を伏せ、そろそろ磨きどころのなくなっている燭台にまた手をのばす。視線を感じて頬がひりひりした。
そのまま2人は、互いに礼儀正しく空虚な会話を交わし、やがて茶を飲み干したジャスケは立ち上がった。マリーシにうながされて、イーツェンはジャスケを見送りに部屋の外へ出る。
通路に立つとジャスケの手が扉をしめ、彼はイーツェンの顔をしげしげと見た。
「ユクィルスの詩だな」
ジャスケには珍しく単刀直入な物言いに、イーツェンはまばたきする。それから完全には視線を合わせないまま、用心深くうなずいた。
「以前、ユクィルスの方に仕えておりました」
「奴隷になる前、ユクィルスで教育を受けたか」
何かを確かめるような問いも、その言い方も、ジャスケの口から出てくると気に入らない。通路に水夫たちの姿がないことを確かめて、イーツェンはひそめた声で言い返した。
「お互い詮索なし。その約束だ。あなたが何も言わない限り、私も何も言わない。あの夜見たことも」
ジャスケが連れを殺したこと、それをイーツェンが見たことをあらためて言うのは危険だったが、牽制の必要があった。ジャスケの目的がなんであれ、踏み込まれたくないのはお互い様だ。それ以上ジャスケに何か言う時間を与えず、彼は扉をあけて部屋の中にすべりこんだ。
後ろ手で扉をしめたイーツェンを、マリーシが顔を上げて見る。
「ユクィルスの詩だな」
思わず、笑い出すところだった。何故マリーシが「詩を読もう」などという馬鹿な冗談に乗じてきたのか、イーツェンはやっと理解する。ジャスケの相手をしたくないだけでなく、彼はイーツェンの正体を読みにかかっていたのだ。リグの詩を語らないだけの判断が働いたのは、果たして幸運だったのだろうか。それとも、誰にも出所がわからないだろうリグの詩の方がましだったのだろうか。
「そうです。私は奴隷になる前にユクィルスで学んでいましたし、奴隷になってからもユクィルスの貴族に仕えていました」
嘘ではないが、真実とは微妙な距離をあけて、雑に説明する。茶杯を片づけようと手をのばすイーツェンを、マリーシの声のするどさがとめた。
「それがどうしてあの男の奴隷になった」
「ちがいます」
思わず、奴隷にあるまじき苦々しい声を向けてしまった。わざと攻撃的な言い方をして相手の反応を見る、それがマリーシのやり方なのだというのは昨日と今日で呑みこんでいたが、この言われようは看過できない。誰がジャスケの奴隷になりたいものか。
体を起こして、背中で両手を組み、イーツェンは椅子に座っているマリーシを見おろした。
「あの方は私の主人ではない。ただ、ポルトリに渡るために乗船の口利きをしてもらっただけです」
「何と引き換えに」
「あなたの世話をするほかに? 結構な金を取られましたよ」
礼儀正しく返事をしようとしたが、つい皮肉っぽい口調が混じった。昨日からの船の暮らしで疲れがたまったイーツェンには、腹の探り合いをする余裕が残っていない。
まずい、と腹の底に力をこめて自分を制すると、マリーシへ向ける視線をやわらげた。
「私はとにかく、ポルトリに降りたいんです」
マリーシはまだ眉の間に皴をよせたままイーツェンを見つめていた。
「何でだ」
溜息をついて、イーツェンは声を落とした。
「主人に言われて、人をたよっていく途中です。誰とは申せませんが、そのために旅をしております」
奴隷ひとりで乗船することの珍しさは、どうやっても消しがたい。あらかじめ考えていた言い訳を言いながら、ふっとイーツェンの心がなごんだ。この言い抜け方を作ったのはシゼで、彼は、できるだけ真実に近いことを言う方がいいとイーツェンに忠告した。
──あなたは嘘が下手だから。
そうシゼは言ったのだが、イーツェンは納得いかない。シゼの方が嘘が下手だと思うのに、言ってもシゼは聞かなかった。
しかめ面をしたままのマリーシに小さな笑みを向け、イーツェンはさらに声を落とした。
「誓ってもいい。私は船賃を払った客として、ただポルトリへ行くだけです。ポルトリ行きは数少ない。船に乗るために、あの商人にこちらの部屋付きをたのまれて、引き受けました。お嫌であるならばこちらにはなるべく伺わないようにいたします」
今でもあまり寄りつかないようにしているが、そのことは言わずにおいた。
「私は確かに奴隷ですが、この船では誰が私の主人でもない。お仕えはいたしますが、何でもすると言うわけではありません」
ましてや、ジャスケのためには。それも言わずにおいたが、マリーシには伝わったのが小さな眉の動きでわかった。
腕を組んで肩をそびやかしたマリーシは、値踏みする目でイーツェンを眺めやる。
「お前の主人が誰か知らんが、躾はなってない」
返事を求めている様子はなかったので、黙っていた。奴隷としてもっと頭を低く垂れなければならないのはわかっているが、彼らの命令には従順に従っているつもりだ。それで何故マリーシもジャスケも満足しないのか、イーツェンはうんざりしていた。何かに巻きこまれてたくはないのだ。
マリーシは灰色の目で、まだじっとイーツェンを見ていた。彼の目はほとんど黒に近いほど濃い灰色で、深い色の向こうにある物を読ませない。
「あの男は嫌いだ」
低い響きの声で、ぼそっと呟いた。イーツェンは無言で苦笑を噛み殺す。大いに賛同したいが、かろうじて立場をわきまえ、黙ったまま茶器を盆に乗せて頭を下げた。
「ほかに、御用は」
「たよる相手はポルトリにいるのか」
扉に手をかけ、イーツェンは小首をかしげて答えを避けた。マリーシは目をほそめてイーツェンを見ている。
「お前が力を貸してくれるなら、私もポルトリでお前に力を貸してやる」
「私は、自分の力の及ぶ範囲であなたに仕えます」
妙な含みを持たせないよう、イーツェンは淡々と言葉を保った。
「ご用があれば、その都度お申し付け下さい」
それ以上の言葉を待ってでもいるように、マリーシはイーツェンを見つめていた。神経質な指先が、膝に置かれた本の革表紙をはじく。細い指は、まるで学者の指のようにすらりとして陽に焼けておらず、爪先まで綺麗にととのえられている。
「あの男に何も言うな」
低い声で、マリーシは呟くように言った。
「ただ‥‥何も。教えるな」
イーツェンはうなずき、マリーシに背を向けて扉から出た。早く昼食の仕度を手伝いに行かないと、ホードにどやしつけられる。考えてみれば、今1番彼の「主人」に近い立場なのは、シゼよりもマリーシよりも、あの調理場の大男なのかもしれなかった。
獣脂で四角く固めた豆や野菜の塊を切り分け、パンを二切れつけたものが水夫たちの昼食だった。脂が口に残って後味が少しえげつないが、こってりと腹に溜まる。上級船員にはそれにチーズと、杏に似た干し果物がついて、船長たち数人にはさらに焼いた卵が加わった。
船客がどれほどいるのかわからないが、彼らは上級船員の食堂がある上の甲板で食べるらしい。例によって帆布で区切った一角に木の卓を据えただけだが、ジャスケもそこに来るのだろう。
幸い、航海士たちの世話係の水夫がそこでの給仕を買って出たので、イーツェンはかわりに船長室へ食事を運ぶことになった。
「失礼します」
声をかけて船長室へ入ると、そこにいたのは船長ではなく、昨日顔を合わせたもう片方の男──鷲顔で黒い目の男だけだった。テーブルから顔を上げた男は計算盤とペンを手にしていて、イーツェンは謝罪まじりの微笑を向ける。
「お邪魔して申し訳ありません。船長にお食事をお持ちしました。ご一緒にこちらで召し上がられますか?」
相手にどう呼びかけたものかわからず、言葉を途切らせた。今日、甲板で船長が号令を下しているのは見たが、こちらの男が何者なのかはわからないままだ。
「アバルトス」
ぴしりと打つように、男がそう言った。イーツェンは小さな礼をする。
「アバルトス様」
口にしてみると、聞き覚えのある名だった。どこで聞いたのだろう。だが思い出す前に、アバルトスの問いがイーツェンの意識を引いた。
「マリーシはどうしている、リオン」
「お元気にすごされておいでです」
食事の皿を脇机に並べながら、イーツェンは名を知られている驚きを隠した。それにしてもこの男、昨日も同じ問いをした。それほど気になるなら会いにいけばよさそうなものだ。大した距離じゃあるまいし。
「誰か客が訪れたか?」
「ジャフィ様が先ほどお立ち寄りになられました」
注意深く、ジャスケの船上での名前を伝えると、アバルトスは目の上にかかる黒髪を手袋の指先で払いながらうなずき、考えこんだ。しなやかな黒革の手袋はどう見ても船での作業に似つかわしくはない。腰に下がっている細い剣身の剣も、船乗りのものではないだろう。
彼もまた、兵士だろうか。水兵たちの訓練を思い出しながらちらりと腰の剣に目をやって、イーツェンは間近に見た鞘の美しさに驚いた。細長い黒革を鞘の形に固く編み上げた珍しいつくりの鞘で、革の切り口を金で染めているため、金がちらちらと編みの中に折り重なって見える。まるで、金糸と革を編み合わせたようだ。
剣の柄も剣身と同じように細めで、丸みを帯び、握りやすいよう突起を付けた木肌を黒漆で美しく仕上げていた。柄頭に血のように赤い革が巻き付けられているがそれだけで、特別きらびやかなあしらいはない。だが高価で、洒落たつくりだった。
へえ、と感心した視線が、鞘に巻かれた鞘受けにとまった。鞘を剣帯へ吊るための留め革だが、その表面に、焼き印が捺されている。
何度か見た印だ。この船を持つフェゼリス家の紋章──に、よく似ているが、いくつか要素が加えられているようだった。小さな焼き印なので細部までは読みとれないが、明らかに本家のものではない。分家か、個人の紋なのだろうか。
不自然なほどとどまっていた視線を引きはがし、イーツェンは部屋の酒壷を取って、酒杯の準備をはじめた。
「お食事をこちらでお召し上がりになりますか、アバルトス様」
「いや。お前はジャフィ殿とどこで知りあった?」
またか。
「川旅の途中で、同じ船に主人とともに乗り合わせまして、私をポルトリに向かう航路に乗せるよう骨折っていただきました」
何故ポルトリに、とか主人はどこだ、と聞かれると思って答えの用意をしていたが、イーツェンの事情には興味がないようで、アバルトスの次の問いはその川旅についてだった。船のたどった航路、いつジャスケが乗りこんできたか、どこで船がとまったか、商いをしていた様子はあるかについてなど、矢継ぎ早に詳しく聞きただされ、イーツェンは首すじが汗ばんだ。記憶している限り、何とか答える。
アバルトスの声はおだやかだったが、うっすらと鋭いものが覆ったような、聞き流せない怜悧さがあった。余計な言葉も費やさない。ジャスケのことについて聞きただし、イーツェンが大して役に立たないと判断したか、アバルトスは髪を額の上へかきあげて息をついた。
「マリーシにまた誰か近づいたら報告しろ」
「マリーシ様がよいと申されたら、そのようにいたします」
イーツェンは今度こそ、返事から皮肉っぽいひびきを消すことができなかった。
虚を突かれた様子で、男の手が額にとまった。イーツェンを見る目をついっと細める。マリーシとそっくりな目つきだった。上から人に物を言うことに慣れ、他人が従うと信じて疑わない者の目だ。
イーツェンは空になった盆を手にした。
「マリーシ様にお仕えするのが私の仕事ですので」
言い終わるのとほとんど同時にアバルトスが1歩近づくや、ひょいと手をのばしてイーツェンの額を打った。手袋をした指先で、軽いそれはほとんど遊ぶような手だったが、ぴしりと痛い。
驚いて動きをとめたイーツェンを見て、アバルトスは唇のはじでニヤッと笑った。
「では、聞いておけ。あれに従え。いいな?」
その声は打って変わってあたたかく、イーツェンはとまどった。子供のように額を打たれたきまりの悪さも相まって、何とも返事のしようがないまま、彼は一礼して船長室を出る。
心臓に悪いことに、アバルトスはイーツェンのほんの1歩背後をぴたりとついてきていた。硬質なブーツの音でそれがわかる。
彼の顔面に扉を叩きつけないよう注意して、イーツェンは表の甲板に出た。潮の匂いと陽光にほっとしながら、船長の姿を探す。食事を用意したことをつたえないとならない。
だが、彼がきょろきょろしている間に、アバルトスの声がすぐ耳元で怒鳴った。
「デュオン!」
途端、甲板上の全員の目がアバルトスの方向を一斉に見た。たるんだロープを輪に巻いている水夫も、甲板に水をまきながら磨いている男たちも、小さな鋸を持ち出してきて何かを作っている大工も、船べりで釣りをしている男も。大勢の目がアバルトスに、そして自分に集まって、イーツェンはぎょっと身をこわばらせる。
「何だ」
高甲板の上から返事があって、イーツェンははじかれたように振り向いた。膝までの長い上着をまとった船長が仁王立ちで雲を眺めている。風のせいでいつもにも増してもつれた髪の下から目がちらっとイーツェンを見たが、逆光で、表情は見えない。
「お食事を、用意いたしました」
あやうくどもりそうになりながらイーツェンが伝えると、船長はただうなずいて空の色に目を戻した。その間にアバルトスが離れていくのを足音で聞きとって、イーツェンは安堵の息をつく。
皆の視線も興味を失って離れ、イーツェンは桶のそばへ歩いていくと、海水を汲み上げて手と顔を洗った。海水が乾くとまた肌がひりついたりべたついたりするが、とにかく頭をすっきりさせたい。
「大丈夫か?」
足元で声がして、下を見るとラウが甲板磨きの軽石を手に、熱心に甲板を磨いていた。1日中誰かが甲板のどこかを磨きつづけているような気がするくらい彼らはこの作業に熱心で、そのためかどうか、甲板の表面はかなり白っぽい。
「うん」
ラウが怠けていると見られないよう、イーツェンは会話していないようなふりで答え、その瞬間に気付いた。
(──アバルトスの皿に目玉を盛ってやってくれよな)
ラウがその名を口にしたのだ。昨日、ホードと交わした冗談の中で。
たずねたいことがいくつもあったが、甲板長が棒鞭を持って大股にのし回っているのが目のすみに見えて、イーツェンは口をつぐんだ。下に戻る前に甲板にぐるりと目を走らせたが、やはりシゼの姿はどこにもない。
一体、どこで何の仕事をさせられているのか。どうにかラウから聞き出せないかと思いながら、空気の澱む下層甲板へと戻った。
聞く機会は意外と早く訪れた。
マリーシに昼の給仕をし、毒味もすると、イーツェンは調理場の鍋で肉の塊をゆでながら、豆の鞘を剥いていた。ホードは足が痛む様子で、船医のところへ行くと言い残して消え、イーツェンは鍋に浮いてくる白い脂を器にすくい取りながら、夕食の仕度をしていた。この脂を傷にも塗るし、しまいには灯りにも使うと言う。
当番の交代なのか、どやどやと調理場の外を足音が交錯していたが、通路からラウが頭をつっこんだ。
「大丈夫か?」
上でも聞かれたのを思い出して、イーツェンは苦笑する。
「アバルトスってそんなに怖い人?」
「怖いって言うか」
何かを思い出したのか渋面を作って、ラウは調理場に入ると豆の箱にどっかり座りこんだ。服のあちこちにタールや汚れの染みがついている。
「俺らのこと虫くらいにしか思ってねえみたいで、口もきかないよ」
「ふうん」
「風読みの連中にも、結構優しいヤツはいんのにな」
「へえ」
取れない豆の筋を爪でこそぐようにしながら相槌を打って、一瞬たってからイーツェンは眉をひそめた。
「風読み? アバルトスが?」
キルロイにそう呼ばれる人々がいて、風を読んだり、時に風を操ったりするという噂は聞いていた。呪師だとも言われているが、わからない。風読みの存在は不出である。
ラウは一瞬ためらうそぶりを見せたが、イーツェンがじっと見ていると、結局話好きの性格が勝ったらしい。身をのり出してきた。
「風読みの一族だよ。でも "流れ" だけど」
「流れ?」
「風をつかむ力のない奴のことさ。本当の風読みとは違う」
風読みへのはっきりとした憧れに、ラウの声が熱っぽくなった。イーツェンはもっと話を聞こうとしたが、ラウは時間を気にした様子で立つと、凝った筋肉をのばすように両肘をつかみ、上へのびた。
去っていきそうな様子に、イーツェンは慌てて、ずっと聞きたかったことを聞いた。
「ラウ。新入りの人たちって、どんな仕事してるの? その‥‥あまり、甲板で見ないから」
これ以上ないほど不自然な聞き方になってしまって、壁に頭をぶつけたいくらいだった。ラウは腕をおろしてけげんにイーツェンを見おろし、同じようにいぶかしそうな口調で、だがとにかくは答える。
「帆をまかせられない連中は甲板磨きか、あか水取りのポンプに付いてるよ」
「あか水って?」
「‥‥これだから──」
「丘ものは」
ラウの溜息にイーツェンが声を合わせ、2人は顔を見合わせてにやりとした。ラウは手をのばしてイーツェンの髪をぐしゃっとかきまぜてから、早足に出ていく。
「ごめん、後でな」
慌てたように駆け出していった姿に少し後ろめたさを覚えながら、イーツェンは1人で豆をむく作業に戻った。ラウは何だかなじみやすくて、古い友人のような心安さがあるが、あまりそこに甘えないようにしないとならない。旅が終われば、もう会うこともない相手だ。この旅の間、どれほどそういう相手に出会っただろう。いまだにイーツェンは、そういう時の距離の取り方がわからない。
豆をむき終わって芋に取りかかった頃、ホードが義足をカツカツ鳴らしながら戻ってくる。彼は開口一番「あか水って何ですか」と聞いたイーツェンを、まるで気がふれたように見た。
「何ですか」
そろそろ、この男の体の大きさやぶっきらぼうな態度、怒鳴るようなガラガラ声にも慣れてきたイーツェンは、笑顔で応じる。「丘もの」として馬鹿にされるのにも慣れた。
ホードは口の髭を震わせて大きな息をついたが、答えてくれた。
「船底に溜まる水だ」
「何で溜まるんです?」
ホードの太い眉の間に、まるで描いたような皴がくっきりと2本、縦に入った。眉根がこぶのように盛り上がる。
「船に水が溜まるのは当たり前だ」
「‥‥当たり前なんですか」
ぞっとしながら、イーツェンは川船のことを思い出していた。たしかに、木の継ぎ目から水が染みてきた船もあった。木の皮の繊維と油を練ったものを継ぎ目に叩きこんで水止めをしていたが、確かに船乗りの誰ひとり慌てた様子はなく、イーツェンたちの動揺などどこ吹く風だった。
しかし、見晴らす限り海しか見えないこの大海に浮く巨大な船に、ひたひたと海水が染みて溜まっているというのだろうか。想像すると足元が凍りつくようだ。
本当に、いつか沈むんじゃないかと不吉なことを考えながら、イーツェンは呟いた。
「ポンプで汲み上げてるって聞きました」
「汲まねえと沈むだろうが」
陽光のようにはっきりと単純な真実。
忘れていた筈の吐き気が、体の内側をぞわぞわと這いのぼってくるのを抑えようと、イーツェンは深呼吸をした。ポルトリに1日でも、1刻でも早くつきたい。揺れない、沈まない、確固とした大地に足をつけて立てる日が待ちきれなかった。