夕食の鍋の匂いがきついな、と思っていたらあっという間に気分が悪くなってきて、夕食を上級船員に配る頃には、イーツェンの内臓は体の中で好き勝手に動き回っているようだった。
マリーシの「毒味」をどうにかこうにか失礼なく終え、やっとのことでたどりついた甲板の手すりにしがみついて胃のむかつきを吐き出すと、周囲でも数人の男たちが同じように手すりをつかんで海にのり出していた。勿論、あたりの船乗りから罵声と嘲笑がとんでくるが、気にする余裕は誰にもない。
ぐらぐらと腹の奥で五臓が浮いている気がして、イーツェンはみぞおちを押さえた。船酔いの存在は聞いていたが、聞くのと体験するのとはまるで違う。顔にあたる海風も、水平線に傾く斜めの陽をはねる海面の美しさも、腹の底からこみあげてくる強烈な吐き気の前では無力だ。
数度、内蔵を吐き捨てんばかりの勢いで海に向かってえずくと、なけなしの昼食とマリーシの毒味が失せた胃が少しばかり軽くなった。ひりつく喉の奥まで、海風を吸いこむ。多少寒くとも、甲板の風は下層のこもった空気とくらべものにならない。
気付くと、船酔いに苦しんでいるのは若者や日焼けの浅い者だけでなく、いかにも船に慣れたいかつい体躯の男まで混ざっている。熟練の者でも、毎回こんなに苦しんだりするのだろうか。
イーツェンの左右で死人のように青ざめて手すりで震えている若者や、額を手すりにつけて動けない男など、自分よりはるかに具合が悪そうな様子を見ていると、少し元気が出た。「下には下がいる」という事実にすがるのは末路だが、今となってはすがれるものがあるだけましだ。
息をつき、桶で汲み上げた海水で口と顔を洗っていると、背後から大声が聞こえた。
昼間にイーツェンを叱りとばした男が、手すりにもたれている水夫の後ろから罵声を浴びせている。あれが甲板長だと小耳にはさんだが、荒くれ者をたばねるためか、罵りに容赦がない。時おり手にした棒鞭を振って、空気がするどく鳴った。
目をつけられてはたまらないと、イーツェンはよろよろする足取りで下甲板へ向かった。まだ胸がむかついて、1歩ごとに背中から首すじ、額に冷や汗が浮いてくる。故郷の熱いカルザ茶を、心底飲みたい。
シゼは大丈夫だろうかと、梯子をつかんで降りながら思う。出帆前の新入りの「歓迎」を最後に彼の姿を見ていない。どこで、何をさせられているのだろう。船酔いにかかっていないだろうか、と気になりつつも、正直、今のイーツェンには自分のことが1番心配だ。こんな状態が続いたら何の使い物にもならない。
「死にゃしねえよ」
ホードはイーツェンの様子を一目見ただけでそう言い、帳簿を持たせて、また樽の封印を確かめるよう命じた。「吐くならこれに吐け」と汚いぼろきれを渡してきたのは、親切というより始末のひとつだろう。
水樽と食料の数を数え、チョークで樽に印をつけて帳簿に記す仕事が済むと、空いた樽を上に運んで洗えと命じられた。イーツェンが自分にそれができるかどうか案じていると、ホードは「誰か見つくろって手伝わせろ」とうなった。
誰かと言っても、手伝ってくれそうな相手は1人しか知らない。いや2人か、と思いはしたが、イーツェンはシゼの手を借りる可能性を頭から押しやった。「新入り」たちは忙しく働かされているようだし、知らない者同士として乗船したのだ。おまけに別々でも大丈夫、と大見得を切った以上、すぐにシゼにたよるのはきまりが悪い。1人では何もできないとシゼに思われるのは、何とも切なく、腹立たしい。
シゼに対して自分の何かを証明したいという気持ちが、日ごとに強くなっていた。多分、シゼが「リグに戻ればこんなことは続かない」と、2人の間にあるものがイーツェンの今だけの気まぐれのように言った時から、ずっとそうなのだ。
──城には私しかいなかった。
彼はそうも言った。イーツェンが、ただ自分を守り、助ける相手としてだけシゼを必要としているかのように。
思い出すたび、段々と腹立たしさが増す上に、胸の痛む言葉だった。心のどこかがからっぽになって、しんと痛む。その痛みはやり場がなく、時おり不意に心の表面に浮き上がってイーツェンをたじろがせる。
確かに、イーツェンが手をのばせる相手はシゼしかいなかった。だがほかの誰かではなく、シゼさえいればよかったのだ、あの日々に。もう2度とシゼに会うことはないだろうと思っていた間さえ、イーツェンは故郷よりシゼの思い出にすがっていた時の方が多かった。
何故わからない、とシゼを揺さぶってやりたいが、イーツェンにはシゼがそれを言う気持ちも理解できた。ほんの子供の頃に家族を失い、己の力で生きのびてきたシゼは、自分で自分の身を守り、1人で生きていくことに慣れている。彼はいつも人との間に明確な線を引いていた。おそらくそれを踏み越えたのは、レンギを守ろうとして肌を合わせた時で、そのことは最後に裏返ってシゼを深く傷つけた。
だからシゼは、いずれイーツェンも去っていくとどこかで勝手に決めて、頑固に動かない。また同じようなことがおこると思っている。そんな彼をそこから動かせるかどうか、イーツェンにはわからない。
だが彼は、シゼが言葉にしない部分──時おり向けるやわらかなまなざしや、抱擁、くちづけ、2人の体が毛布の下でくつろいでよりそう瞬間の濃密さ、そういったものを信じてもいた。
もうシゼに守られるだけではなく、自分の面倒くらいは見られるというところを真っ正面から見せて、シゼと対等に向き合いたい。そこからしか、彼らははじめられない気がする。
──頑張らないと。
とは思っているのだが、胃が体の中で好き勝手に浮き沈みして、決心も鈍りがちだ。しかも下層の暗さと、たちこめる饐えた匂いが気分の悪さに拍車をかける。イーツェンは海水ですすいだぼろ布で顔を拭いながら、太い柱や帆柱の根元がたちならぶ向こう側をのぞきこんだ。
調理場よりずっと船首よりのその場所には真上に格子甲板があって、上から光がさしこんでいるが、もうその光もおぼつかない。荷物や道具が大量におさめられた奥に何故か床が一段高く上がった一角があって、そこに十数人の水夫たちがより集まっていた。
毛布にくるまって寝ている男もいれば、わずかな明かりの中で賽を振る一団もいる。そのはじで唇を噛んで賽の目をのぞきこんでいたラウが、イーツェンの姿を認めてはねるように立ち上がった。
「リオン、賭けやっか?」
人なつっこい顔でにこにこと笑いかけてくるラウに、イーツェンも笑い返した。手伝ってもらおうという下心もあるが、この男の陽気な笑みには、イーツェンの警戒心を解く幼いあけっぴろげさがあった。
「手伝って…ほしいんだけど」
丁寧な言葉で頼みかかったところで、なじみやすい言葉づかいに直す。ラウは低い天井にぶつからないよう膝を曲げて笑みを浮かべたまま、わざとらしく首をひねってみせた。
「酒か肉をちょこっとちょろまかして持ってきてくれるかい?」
「ホードに指落とされたら、縫い付けてくれるなら」
冗談だということはわかってきたので、イーツェンも冗談で返す。船でどれほど食料が厳密に管理されているか、ラウが知らない筈もない。
案の定、さっぱり笑ってその話は流れ、ラウはまだ吐き気のおさまらないイーツェンを心配しながら樽洗いを手伝ってくれた。かわりにイーツェンは自分の荷物に忍ばせてある干し肉を少しだけ、こっそりと彼に分けた。イーツェン自身は食べる気分ではなかったが。
ラウは手持ちの水で湿した肉を、下層のすみでうずくまっている男のところへ膝で這うように持っていった。床が高くなっているのかと思ったら、実際には木の箱が隙間なく並べられていて、ラウの膝の下でカタカタと音を立てる。上の甲板では暗くなってから油燭を灯したりもしていたが、下層のここは灯りは支給されないのか、暗がりで、夜番以外の男たちが寝る準備に取りかかっていた。
「カナバ。‥‥食えよ」
もう日も落ちかかり、目を凝らさなければ見えない柱の影に、骸のように痩せた男が毛布を体に巻き付けて身を丸めていた。そこに人がいることに気付いていなかったイーツェンは、息を呑む。
「うるせえ、あっちいけ」
ぶつぶつと言い返した水夫の体は肉を削いだように薄く、唇や口元にしわが浮き上がり、頬骨が極端につき出して見える。ほとんど抜け落ちた眉の下から、こればかりはするどい眼光がラウをにらんだ。
ラウは周囲にたむろう水夫たちに聞こえないよう、声を落として、だが強い語調で囁く。
「肉だ。食えよ」
「役に立たねえガキだ、てめえは。酒持ってこいよ」
しわがれた声で呻いたが、ラウがじっと見ていると、カナバは彼がさし出していた肉を引ったくって口に放りこんだ。
どう見ても病人だ。肌全体が乾き、黒ずんで、近くで見ると表面を細かなひび割れが覆っているように見えた。首が極端に痩せたのか、細い首根の小汚い襟元に皮膚が幾重にもたるんでいる。元々こんな風に痩せた男ではなかったのだろうか、とイーツェンはぞっとした。
カナバが何か不機嫌に呟きながら腹に手を当て、ラウが心配そうに眉をひそめた。
「痛むのか?」
「もうじき袋のお世話になる番だなぁ、カナバ!」
あぐらで円座になって賽を振っていた男の1人が陽気な声ではやした。ラウが口元に笑みを浮かべるが、それは無理に作った笑みのようにイーツェンには見えた。言い返した声にも、強い張りがある。
「じじいが袋なんかにおとなしく縫い込まれるもんかよ。中から破って出てくらあ」
「安心しろ、俺が砂袋3つくらいつめこんでやるからよ」
男の言葉に、円座の仲間がどっと笑った。
「てめえの口に砂つっこんでやろうか」
そのラウの呟きは低いもので、すぐそばにいたイーツェンにしか聞こえなかっただろう。思わずぎょっとしてラウの顔を見たが、ラウはさっぱりと男に背を向け、もそもそと固い肉を呑みこもうとしているカナバにかがみこんで何か言葉をかけていた。
それから、イーツェンをのぞきこむ。
「まだ気分悪いか。平気か?」
平気かどうか正直わからないが、船酔いからくる気分の悪さより、1日が終わった疲労でイーツェンは眩暈がした。朝、この船に乗りこんだばかりだとは、とても思えない。
ラウに言われるまま、調理場に置きっぱなしの荷物を取ってくると、毛布を出して船倉の床に身を丸めた。床に木箱が並べられた上で皆で寝るのだが、荷物はその箱の中に押しこむ。横たわった体の下がガタガタと揺れた。
目をとじる。下層甲板全体にたちこめる饐えたような匂いも、流れの悪い空気の重苦しさにも、半日で慣れた。だがむかつく胃と、体が沈みこんでいくような疲労の間で、イーツェンはすぐには眠れなかった。緊張で気が昂ぶっているし、毛布をかぶっていても寒い。あたりが湿っぽいのだ。
周囲に人の気配が立ちこめているのも落ちつかない。寝返りひとつ打つだけの隙間もなかった。寝やすい体勢を探して足を動かした際、誰かの頭を蹴った。これまでも雑魚寝の経験はあるが、まるで荷物のように皆が狭いところに押しこめられていて、息苦しい。
いびきや呻くような声、歯ぎしりや寝言の向こうに、コホ、コホと力ない咳が聞こえる。ラウがカナバと呼んでいたあの男のものだろうかと、イーツェンは気になった。あの男は明らかに病んでいる。それが何故船に乗っているのだろう。
「気分は?」
思ったより耳のそばでラウの声がして、驚いた。平気、と低く答えると、毛布の中にラウがもぞもぞともぐりこんでくる。自分の毛布も2人の上にひろげて、彼はイーツェンの背中にぴたりと身をくっつけた。
首の後ろに息がくぐもった瞬間は思わず緊張したが、ラウがイーツェンの背に額を押しつけるようにしておさまってしまったので、イーツェンは体の力を抜いた。ラウの体はぐったりとして、あたたかく、動物になつかれているような感じだ。
リグでは冬に暖を取って何人かで一緒に眠ることもあるし、こういうのは慣れているのだが、今は少し奇妙だった。シゼはどこで眠っているのだろうと、ラウの体温を感じながら考えてしまう。下層では姿を見かけないのだが、上にいるのだろうか。下層に押しやられる水夫と、上で眠る水夫との差があるのか、明日にでもラウに聞いてみようと思った。
冷えていた体が、毛布の下にくぐもった2人分の体温で暖まってくると、疲れが一気に意識を重くする。こみあげてくるしつこい吐き気を数度飲み下して、口の中が苦いまま、しまいにやっとイーツェンは眠りについた。暗くひびく船のきしみが、眠りの中までも聞こえてきていた。
翌朝、まだ真っ暗なうちにラウに叩き起こされ、イーツェンは毛布を丸めると、寝ていた下の箱に入れた。
足音をしのばせて甲板に出る。船首に明かりが吊るされていたが、月も細く、足元もよく見えない。何より海が塗りつぶされたように黒く、その向こうからざわざわと波の音がひびいてくるのが怖い。その海に小さな光が揺れているのを見てぎょっとしたイーツェンを、ラウが「後ろに船がいるんだよ」と笑った。互いの目印のために、船首と船尾に灯りを架けておくのだと言う。
頭上から帆のきしむ音がして、また足がすくむ。知らん顔ですたすたと歩いていくラウの背中を、イーツェンはおっかなびっくり追った。
甲板にはほかの人影もあったが、そう多くはない。何人かは当直で、残りはイーツェンたちと同じように起きたばかりのようだ。
桶で海水を引き上げ、顔を洗い、口をゆすぐ。未明の風と水の冷たさに体がふるえた。船酔いはほのかに腹の底に居座っているだけだが、全身に重い疲労がこびりつき、背中の芯に鈍い痛みがあった。動くのに支障はないが、イーツェンは腰に手を当てて背中を用心深くのばした。
ラウは人のいない船べりへ歩いていって、手すりにもたれ、指をのばした。
「ほら」
朝の風は驚くほど冷えびえとしている。身をすくめながら、イーツェンはラウがさした水平線がほのかに光っているのを見た。雲の下側がわずかに白み、濃い灰色の雲の陰が立体的に浮き上がっている。周囲をつつむのは灰色の闇だったが、下からの朝日が強まるにつれ、空の上側に赤っぽい光の筋が生じてきた。世界の裂け目が赤く光っているようだ。
陸地での夜明けとは違い、空の光の変化を海が刻々と映していくのが面白く、イーツェンは手すりをつかんで見つめた。ラウは背を丸め、手の甲に顎をのせて、手すりにもたれかかる。
「朝が一番いいよ」
呟いた。力が抜けているその体は、イーツェンがはじめに思っていたより細い。小船を漕いでいた時は全身の筋肉がいっぱいに膨れ上がっていたので気付かなかったのだが、ラウの体には余分な肉がなく、すねや手首は細かった。
船の食事だけで生きているならそうなるだろうと、イーツェンは思う。乾いた堅パンと水でどの程度腹の足しになるというものか。力仕事だというのに、下っ端の水夫たちの食事はあまりにもみすぼらしい。
「帆が重くなってるから、上手回しとかはやなんだけどな」
上手回しが何だかわからないまま、イーツェンは明るみのさす空にそびえる帆を見上げた。影のように巨大にのしかかる、それはまるで船の翼のようだ。
「帆が重い?」
「湿気を食うからさ」
「じゃあ雨の時とか‥‥」
「つらいつらい」
陽気にうなずいて顔を撫でる、その手のひらは傷だらけで、固い皮膚がごつごつと盛り上がっている。関節の内側には大きなたこがあり、イーツェンの手とはまるで違う。長年船に乗ってきた者の手だ。最初に会った時も、ラウは熟練の手つきで小船を操っていた。
なのに、彼は奴隷の首輪をつけたイーツェンと自分を「同じ穴蔵住まい」と言って、対等に扱った。奴隷同然の職というのは確かにいくつかあるが、船乗りがそこまで低い仕事ではないのは、ルスタですごした数日でよくわかっている。
「ラウ。何で親切にしてくれるんだ? そりゃ、すごくうれしいけど」
思いきってたずね、眉をひそめたラウの表情に慌ててつけくわえる。
「でも私は奴隷だ。身分は誰より低い。ラウは、自分のことを同じようなものだと言ったけど──」
「船猿って知ってるか、リオン?」
イーツェンが知らないのは承知の上だろう。彼が答えを探す前に、ラウは続けていた。
「船ん中で飼われてて、船同士の間で売り買いもされる。それが俺らだよ、イーツェン。名前が違うだけで俺らも奴隷さ」
「‥‥ルスタに、奴隷制度はないと聞いたけど」
「首輪をつけられたりはしないけどな」
無躾な目でイーツェンの首の輪をじろじろ見て、ラウは左の袖を肘までまくり上げた。肘の内側、皮膚がやわらかな部分──船乗りらしくそこまでしっかりと日焼けしていたが──に、黒い曲線と赤い星を組み合わせた簡単な入れ墨があった。
袖をおろしながら、ラウは肩をすくめる。
「俺らは船にへばりついてる猿なのさ。陸では生きていけない」
まだ、よく理解できない。イーツェンは眉をひそめ、甲板にぞろぞろとのぼってきたほかの船乗りに聞こえないよう、ラウへ身を傾けた。
「普通の船乗りと違うってこと?」
「やつらは船に乗るのが仕事だけど、俺らはここしか居場所がない」
明らかに納得できない顔をしているイーツェンの鼻先を、ラウがのばした指ではじいた。朝日のさしこむ茶色の目は、あたたかに光っていた。
「俺は、7つの時から船に乗ってる。それまではハルビサっていう港で物乞いをして暮らしてた。この入れ墨と引き換えに最初の船に乗って、後はもう、皆一緒さ。俺らの名前は船の上にしかない。陸に降りたら、どこにも名前がない」
ラウの説明はそれでもイーツェンには足りなかったが、おぼろげに事情は呑みこめてきた。親の顔も知らず、7歳から船に乗り、船上で生活してきたラウには陸での身分がないのだ。
たしかめるためにたずねた。
「証明書類とか持ってないってこと?」
「ないよ」
面倒そうに、ラウは手を振ってその問いを消し、下に戻ろうとイーツェンに背を向けた。もうすぐ起床の鐘が鳴る筈だ、とぶっきらぼうに言う。嫌いな話題だったようだ。
船上にうっすらと漂っていた朝もやが、光の下でどんどん薄らいでいる。甲板に起き出してきた水夫たちの間を抜けてラウを追った時、イーツェンは、手すりに手をかけて布で顔を拭っているシゼを見た。
相変わらず剣帯をしているので、一目で視線が吸いよせられる。もっとも道具を吊る革帯や飾り帯をしている男はほかにもいて、イーツェンが最初危惧したほどその剣帯は目立たなかったが、首すじまで芯が通ったような立ち姿をイーツェンが見まごう筈はなかった。
シゼは、周囲の仲間や船としっくりなじんだ様子で、通りかかった誰かとかるい挨拶を交わす。その姿を、イーツェンは安堵と羨望の思いで見た。決してつきあいのいい、打ち解けやすい男ではないくせに、シゼには相手が受け入れてしまうような存在感とそれだけの力があった。それがいつも、イーツェンにはうらやましい。
ふとシゼが顔を上げ、まっすぐにイーツェンを見た。朝の白っぽい光に照らされて、顔にぼんやりと青い影が落ちている。イーツェンを見つけた瞬間に目元がやわらいで、唇に小さな笑みが浮いた。イーツェンを探していた、そういう目だった。
そのままシゼめがけて走り出したいようなひどく子供っぽい衝動を腹の底で押さえつけて、イーツェンはすぐに目をそらす。かるくシゼの方にうなずきを投げて、ラウの背を追った。
血の温度が上がって全身が一気に目覚めたようだった。軽い足取りで梯子を降りながら、シゼの笑みを思い出して、イーツェンも微笑する。
お互い元気で、ポルトリを目指す船に乗っている。大切なのはそれだけなのだ。
機嫌よくラウの背を追って下層へ戻ったイーツェンは、皆が寝ていた船倉のすみへ歩みよった。夜番だった者以外、ほとんどが起きて甲板へ這い出したそこはうつろに見えたが、まだ残っている男たちもいた。その1人が、何かの上にうずくまっている。
気分でも悪いのかとイーツェンが目を凝らした瞬間、前にいたラウが獣のように床からはねて、男にとびかかった。
「てめェ!」
2人の男の体が転がって、床に並べてある木の箱がガタガタと鳴る。男はラウを振りほどこうとしたが、ラウは目にもとまらぬ早さで腰帯の中から何かを引き抜き、浮かした両膝を宙から男の腹に叩きこんで馬乗りになるや、男の喉元にそれをつきつけた。
夜番あがりの男たちがすみで寝ていたが、喧嘩は慣れっこなのか、寝たまま頭を回して様子を見る者はいても誰ひとり起きてこない。誰かが「静かにしろクソガキ」とだけうなった。
「ラウ──」
手元に何を持っているのかは見えないが、ラウの殺気はただごとではない。全身にぎらぎらとした気迫がみなぎった彼は牙を剥いた獣のようで、イーツェンはラウが男の喉をかき切るのではないかと心配になった。
なるべくおだやかに名を呼び、近づく。下に組みしかれた男はもがくのはやめていたが、下から両手でラウの肩をつかみ、太い指を肩の筋肉にくいこませていた。荒々しい息づかいが暗い下層甲板にひびいている。
近づいたイーツェンは、あたりに散らばっている物に気付いてぎょっとした。革の袋の中にしまわれている筈の、それはイーツェンの荷物だ。毛布と一緒にまとめて箱の中へ押し込んでいった彼の荷物があからさまに広げられ、あさられているのを見て、顔から血の気が引く。
ラウは手に握った物を男の喉に押し当てたまま、左手で襟首を揺さぶった。
「仲間からは盗まねぇんだよ!」
「こいつは仲間じゃねぇだろうが」
顔に無精髭が散った角張った顎の男は、ラウを押しのけようと肩の手に力をこめながら吐き捨てた。ラウは何か言い返しかけた言葉を呑みこんで、頭を後ろに引いて勢いをつけると、男の顔に唾を吐きかけた。それも、2度。
イーツェンは男の足元に転がっている、紐で筒に巻いた皮紙を拾い上げた。ジャスケの受け取りだ。それを脇に抱えると、彼は男とにらみあっているラウに声をかけた。
「ラウ。手を離せ」
ラウは答えない。殺気立った目が男をにらんで、全身に今にもはじけそうな荒々しさが満ち、聞こえていないのではないかとイーツェンはあやぶんだ。声は届いていても、言葉がまるで耳に入っていない。
「ラウ──」
「ラウ」
柱の影で丸まっていた男が体を起こして、重い声でラウを呼んだ。カナバの声を聞いたラウははじかれたように立ち上がるや、下の男の脇腹に蹴りを入れる。鈍い音にイーツェンはひるんだ。
「こいつから盗るのは俺から盗るのと同じだと思え。次やったら甲板長の前に引きずり出すぞ」
吐き捨てて、ラウは手にした物を男に向かって突きつける。それは、イーツェンが芋の皮や豆の鞘を削ぐのに使っている石刃と同じような物に見えた。切れ味はよくないが、人の喉くらいなら力で切れる。
蹴られた男は呻きながらラウから距離をとると、脇腹をかばってうずくまり、ラウをにらんだ。ラウは立ったままにらみ返す。緊張でぴんと引きつった薄暗がりにカナバの弱々しい咳がひびいた。
イーツェンは溜息をついて右手を広げ、それだけでは駄目だったので、指を慣らして2人の注意を引いた。実際には、あたり中の人間の注意を引いた。夜番明けでつぶれている男たちも寝たまま頭をめぐらせてイーツェンを見たし、上の甲板から戻ってきた水夫たちまでイーツェンの周囲で足をとめた。
召使いを呼びつける作法をこういうところでひけらかすのはまずかったかもしれないが、イーツェンはとにかく何事も起きなかったような顔でちらばった荷物をかき集めて、男の前に置いた。時間が足りなかったのか、中は大して荒らされていないようだ。
「全部見ていいよ」
金も、レンギのピアスも、腰帯に縫い込んで裏をあててある。もともと荷物の中に金目の物は残していない。旅に必要な書類は金にならないから盗られる心配はしていなかったが、油紙にきつく包んだまま、袋の返しの内側に入っているのは最初にたしかめた。
「盗るような価値のある物はない。だろう?」
男は数度まばたきをして、ラウが吐きかけた唾を手の甲で拭いながらイーツェンの目を見ていた。ゆっくりとうなずく。
「ああ‥‥何もなかった。悪かったよ」
イーツェンは笑みを返した。荷の中に糧食の袋はあるのだが、男がイーツェンの言う通りに「何もない」と答えるのはわかっていた。そこには何もない、だから大したことではない。そうやって丸くおさめたい筈だ。彼は2度とイーツェンの荷にふれないだろうし、他の水夫もこれでイーツェンの荷物に対する興味をなくす。
「裕福な人のお世話をしているからって、こっちの身に付く物は垢くらいだよ」
奴隷の間でよく言われる冗談をとばすと、周囲から切れ切れの笑いが起こって緊張がゆるみ、イーツェンの背を誰かが叩いた。
「ここで2日くらい寝りゃ匂いも染みつくさ」
「垢はちょっと海水を浴びりゃあ落ちるし、なあ?」
「丘ものは垢だらけなんだろ」
からかう声には親しみがこもっていて、イーツェンは笑いながら荷物をかき集め、元のように革の中に押しこんで縛った。その頃には頭上で起床の鐘が鳴り出して、人々が忙しく、だが手慣れた様子でとび出していく。
イーツェンの荷をあさっていた男も周囲と軽口を叩きながら出て行って、見送ったイーツェンはほっとした。ラウのためにも、あまり深刻なしこりを残したくはない。もしかしたら船乗りというのはこんなことは日常茶飯事で、あっというまに水に流してしまえるものなのかもしれないが。とにかくイーツェンは、ラウに必要以上の面倒をかけたくはなかった。
ラウは、よろよろしているカナバの肩の下に腕を入れて彼の体を支え、立ち上がった。イーツェンは歩みよってたずねる。
「大丈夫?」
天井の格子ごしにさしこんでくる朝の光で見たカナバは、思ったほど年寄りではなく、40を越したくらいに見えた。痩せ衰え、見るからに肌には生気がなく、イーツェンは胸全体が締めつけられる。死の気配が色濃く漂っているのがわかった。
ラウはカナバを揺すり上げて、両足でしっかり立たせながら顔をしかめた。
「2、3杯海水を浴びせりゃしゃんと仕事するさ」
そうは言ったものの、自分でそれを信じている顔ではない。イーツェンは歩き出した2人の道からよけた。
「船医に見てもらえないの?」
「無理」
短く切り捨て、ラウは肺の息をすべて吐き出すような大きな溜息をついた。
「じじいも、乗る時までは何とかしゃっきりしてたんだがな。ラムも効いてたし」
そこまでして陸に残りたくないのだろうか。イーツェンは割り切れない気分のまま、カナバの体を半分抱え上げるようにして出ていくラウの後ろ姿を見送った。
ラウは、弱いものを放っておけないたちなのだろう。イーツェンの荷をあさっている男にとびかかった彼はまるで子供を守る獣のようだったと思って、イーツェンは小さく微笑した。彼はイーツェンが自分と同じようによるべのない身だと思って、力になってくれているのかもしれない。
「ラウ。ありがとう」
声をかけると、ラウは振り向かず、カナバを背をかかえこむ右手の指をひらひらさせた。梯子にたどりつく頃にはカナバも自分の足でしっかりと歩き出し、意外な素早さでのぼって行く彼を見届けてから、イーツェンは調理場に入った。
途端に、容赦のない力で頭をはたかれる。
「痛っ」
「朝は炉の掃除をしとけ」
さっき調理場をのぞいた時には空だったのに、いつやってきたのか、仁王立ちのホードがイーツェンの胸元に柄の長いブラシを押しつけた。イーツェンはおとなしく受け取って、冷えた炉に向き直る。背後から相変わらず低い雷のような声がした。
「さっさと終わらせて鼠取りに行ってこい」
今日も、長い一日になりそうだった。