船の上を風が通るたびに縄が揺れ、そこにしがみつくしかない男たちの体を揺らす。シゼの体が縄から離れそうなほど左右に揺らいで、イーツェンは首筋の毛までそそけ立った。
 頭上の光景に呑まれていたため、耳元で低い声が囁いた瞬間、驚いて酒壷を取り落とすところだった。
「新入りの歓迎だ」
「歓迎?」
 思わずつっぱねるように返して、相手を見る。あの、ラウという名の陽気な水夫が彼に笑いかけていた。笑ってうなずいたラウは拳を宙に突き上げ、「魚にそのケツ食わせるぞ!」とイーツェンの耳が痺れるほどの声で怒鳴る。
 それから言葉を継げないイーツェンへ、機嫌よく歯を見せた。色のついた木の実でも噛んでいたのか、歯の一部が鮮やかな赤に染まっている。
「そうさ。船に乗るなら船乗りのやり方で、でけえ玉が2つぶら下がってるところを見せなきゃならねえ。どんな丘ものでも、一発あれをやれば度胸がつく」
 イーツェンは表情を平静に保とうとしつつ、つい聞きたくもないことをたずねた。
「落ちたらどうするんですか」
「運がなかったってこったな。ここからなら港まで戻してもらえるだろうから、墓に骨も入るしさ。墓がありゃな」
 さっぱりと明るい、底意のない言い方と、内容がつり合わない。眉をしかめたイーツェンを誤解したのか、ラウは説明をつけ足した。
「航海の最中に死んだ奴は、海に沈められる。死人と女をのっけるのは不吉だよ」
 そう言いながらラウの手がイーツェンの持つ酒壷にのび、イーツェンははっとその手を押しやって壺をかかえこんだ。悪びれもせず、ラウはニコニコしたまま手を引く。
 もう1度ちらりと上を見ると、シゼの姿は見張り台にかなり近づいていた。もうかなり高い。手を滑らせるようなことがないように祈りながら視線を引きはがし、イーツェンはラウにたずねた。
「船長室はどこですか?」
「ん」
 イーツェンと同じほどに頭上に気を取られたまま、ラウは船尾の高甲板をさした。
「あそこの扉をくぐればわかる。でもな、あんた、そんなご丁寧な口を俺らにきかなくてもいいんだぜ。どうせ同じ穴蔵住まいさ」
 同じ、というのがよくわからないまま、イーツェンは「ありがとう」と礼を言い、こみあった人の間を肩で抜けながら後尾に向かって歩き出した。
 周囲がどよめくたび、頭上を見上げたくなる。胸の内で強くなった鼓動は一向におさまらなかったが、イーツェンはとにかく船長室へ急いだ。シゼを気にして用がおろそかになったり、罰せられたりしてはシゼにも悪い。お互い自分のことは自分で片づける──それが船に別々に乗りこむにあたっての、暗黙の了解でもあった。
 幸い背中から悲鳴が聞こえてくることもなく、誰も縄から落ちてこないうちにイーツェンは高甲板の扉にたどりついた。内側にあいていた扉の隙間から中をうかがってから、足を踏み入れる。
 そこは城の待合廊下のような、通路と部屋の性質を合わせ持った空間だった。箱や樽がいくらか積まれてはいるが、整然として、下甲板の混みあった狭さとは比べものにならないほどゆったりと余裕がある。正面にさらに扉があって、色の違う赤と茶の木を組み合わせた上円形の飾り扉は、明らかに船のどの部分よりも格調が高かった。
 イーツェンは拳の背で扉を叩いて、声をかけた。
「酒をお持ちしました」
 入れ、という返事で扉をあけて中へ入る。船長室は、扉と同じように赤と茶の板をモザイクに合わせた美しい壁で飾られ、奥に寝台と窓、手前に大きなテーブル、本と道具を収めた腰高の棚が据えられている。扉に厚みがあるのか、部屋の中では、甲板の喧騒が綿でくるんだように小さく聞こえてくるだけだ。
 テーブルに海図を広げてのぞきこんでいる男は、質の良い灰色に染めた腰丈の上着をまとい、鍵のついた鎖を何本か胸元にぶら下げていた。髪は撫で付けられているが、癖が悪いのか、ところどころたてがみのようにふくらんでいる。上着の下の腰に、刃が広く寸のつまった湾刀を下げているのがちらりと見えた。
 彼はイーツェンが入室しても顔も上げなかった。かわりに、テーブルの手前側で尻を半分テーブルにのせて一緒に海図をのぞいていた男が、鷲のように鋭い顔をイーツェンへ向けた。こちらは珍しいほど細身の仕立ての高襟上着をまとい、腰に、これもイーツェンが見たことのないほど細い剣を吊っていた。
「そこへ」
 脇の小さなテーブルを、手袋に包まれた手で示す。
 この2人の男のどちらが船長なのかと、イーツェンは酒壷を置きながら目のすみで2人をうかがった。どちらも肌の色は濃いが、鷲顔の男が髪も目も黒く、肌の色が元から強そうなのに対し、金髪の男の肌はほかの船乗りたちのように、いかにも見事に焼けた赤銅色だ。相変わらずイーツェンに見向きもせず、海図に屈みこんで手にした小さな道具で海図の上を測りながら、何か口の中で呟いていた。こちらの方が船乗りらしく見えるし、船長は金髪の男だろうか。もう片方は何者なのだろう。
 手早く酒を置いて、棚の酒杯をそばにそろえ、ほかに足りないものがないことをたしかめてから、イーツェンは一礼して立ち去ろうとした。
 ふいに、鷲顔の男がたずねた。
「マリーシの様子は?」
 驚きを隠し、イーツェンは目を伏せた。イーツェンの首の輪から、彼が何者かわかったのだろうか。
「お変わりなくおすごしです」
 実のところ、調理場の手伝いで忙しくて様子を見に行く暇などなかったが、正直に言っても何の得もあるまい。
 案の定、男はそれで納得したようにうなずいた。
「暇だろうから話相手にでもなってやってくれ。だが、部屋からは出すな」
 部屋から出てもこの船の中で行くところなどないだろうと思ったが、従順にうなずき、イーツェンは一礼して外甲板へ戻った。
 途端に押しよせてきた口笛と歓声にたじろいで、拍手の先を目で探す。頭上を仰いでもみたが、帆柱までかかった縄の道にもうシゼの姿は見えず、イーツェンは爪先立って甲板にできた人だかりの向こうをうかがった。
 ぐったりと座りこんだ男たちを水夫が囲み、肩を叩いてやったり、頭をぐしゃぐしゃに撫でたりと、手荒にいたわっている様子が見えた。「新入り」たちの多くがすでに縄をのぼりきってきたのか、この冷たい風の中でも汗だくで、中には甲板にひっくり返っている者もいる。周囲の男が彼らの背を叩くようにさすったり、水の入った袋を渡していた。
 新入りの1人が水の袋を受け取ろうとしたが、震える手でうまくつかめない。それを横からシゼがつかんで、一口飲んでから男に回してやった。イーツェンはやっと船乗りたちの肩ごしにそれを見つけ、ほっと肩の力を抜く。
 甲板に座りこんで額の汗を拭ってはいるが、シゼに怪我などの気配はない。彼の肩を船乗りの誰かが叩き、シゼが何か言い返して、あたりの全員がどっと笑った。そうして体を揺らして笑いあっている彼らの様子を見ると、そこにはたしかに濃密な空気が生まれていて、もしかしたら荒い「歓迎」にも何かの意味があるかもしれないと思いながらイーツェンは歩き出した。背中を這う小さな震えはまだ消えなかった。
 港も出ないうちからこれでは、一体この先、どんな船旅になるのだろう。無理に船に乗りこんだことがよかったのかどうなのか、今さらイーツェンの胸の奥でたじろぐものがあった。
 だが、もう戻れるわけもない。
 まだ高い声がとびかう甲板を背後に、昇降口の梯子を下層に降りたところではじめて、イーツェンは胸につめていた息を大きく吐き出し、冷えきった手で額を擦った。何が何でも、目の前にあるものを乗り越えていくしかないのだ。シゼも、イーツェンも。


 調理場へ戻ると、予想通り「遅い」と耳元をはたかれ、マリーシのために用意されていた食事とワインを持たされた。
 こんなものまで船にあるのかとイーツェンが驚くような銀の盆にのせられているのは、あぶったチーズと蜜を乗せた薄切りのパン、焼いた腸詰めに辛そうなソースがとろりとかけられている。イーツェンのよく知らない、赤みがかった小さな果実まで添えられていた。
「つまみ食いするなよ」
 例によって例のごとく警告され、イーツェンは素直にうなずいて調理場を後にした。昇降台に盆とワインの壺を置くと、自分は上の層に行って、巻き上げ機を回して台を上まで引き上げる。滑車に噛んだ歯車を足踏みレバーで回していくもので、使い方を呑みこむまで少し手間取ったが、使ってみると逆回り防止の爪までついているのがわかって、イーツェンはその仕組みに感心した。
 こういう船文化からきたのか、ルスタの町でも、滑車とロープを組み合わせた機構をいくつも見た。リグにも滑車はあったが、これほどまでに複雑な物は見た記憶はない。人や獣の力にたよって物を動かすリグに比べ、獣も使える人手も限られる船のために編み出されてきた技術なのだろう。
 盆を持ち、イーツェンはマリーシの船室へ向かった。頭上の甲板からはカンカンという鐘の音が船全体に鳴りひびく。刻を伝える鐘かと思っているのだが、街の鐘とは違う鳴らし方で、どうやらこれにも「丘もの」にはわからない船の流儀があるようだ。
 異国へ来たということ以上に、見知らぬ世界へ放りこまれてしまったような気がする。右も左もわからないことばかりだ。とにかくポルトリにつくまでがんばって切り抜けるしかないが、風がよいことを切実に祈った。
 マリーシの部屋の扉を叩いて中へ入り、折りたたみ式の小さな食卓を据えて、食事を並べる。壺から瀟洒な銀の高杯に注いだワインはとろっとした琥珀色で、これもイーツェンには珍しい。
 マリーシは、イーツェンの給仕をつぶさに見ていたが、一礼して下がろうとした彼へ酒の入った己の杯をさし出した。
「ほら」
 うながされたイーツェンはまばたきする。苦手だったユクィルスの濃厚なワインとは違って見えるが、すきっ腹に酒など入れたくはない。
「お酒は遠慮させていただきたいのですが」
 そう言うと、何がおかしいのかマリーシは肩を揺らして笑った。
「馬鹿、毒味をしろ」
 あけっぱなしになった口を、イーツェンは余計なことを言う前に慌ててとじた。マリーシは冗談でイーツェンをからかっているようには見えない。
 だが──毒味?
 一体ジャスケはイーツェンを何に巻きこんだのだと、あの男の狡猾な笑みが脳裏をかすめた。この船内で、マリーシが毒を盛られる可能性があるのだろうか。
「飲め」
 杯の脚をつかんだ細い指がうながす。銀の器の中で揺れる酒を、イーツェンは凝然と見つめた。マリーシは本当に毒の可能性を考えているのか、それとも陸にいる時からの習慣になっているだけなのかがわからない。入っているとすれば、どんな毒なのだろう。ユクィルスの王が酒杯に盛ったような毒か、それともやはりルスタにはルスタの毒があるのだろうか。
 考えていても仕方ない。意を決すると杯を取り、イーツェンは杯の正面の模様を避けて、横から一口飲んだ。強い甘味と粘りを含んだ酒がとろっと舌の上に広がる。香草が入っているのか、鼻に向けて清涼感がすっと抜けた。刺激の強い味だ。
 予期せぬ味わいだったので、驚いているうちに一口分を呑みこんでしまった。イーツェンはじっと見つめるマリーシの前に杯を戻す。
「どうぞ」
 だがマリーシは酒を手に取らず、今度は食事を手で示した。
「こっちもだ」
 たじろぐイーツェンへ、食事用の小さな短剣を渡す。イーツェンは溜息を呑みこんで、腸詰めのはじを切り分けはじめた。空腹なのでありがたくはあるのだが、何とも複雑な気分で、上等な食べ物も舌には味気なく感じられた。


 幸い、毒に倒れることもなくイーツェンが毒味を終えると、マリーシは食事を平らげ、酒だけを手元に残してまたイーツェンを追い出した。
 調理場に戻ろうとしたイーツェンは、船内にさっきまでとちがう活気が渦巻いているのに気付いた。頭上の甲板から船乗り言葉が矢継ぎ早に怒鳴り交わされているのが聞こえるし、船内の通路を水夫が慌ただしく駆けていく。
 それをよけながら下に降りると、調理場の男が余ったパンとチーズをイーツェンによこして「食え」と一言命じた。ありがたくかぶりつくイーツェンの前で、男は豆の入っている箱に座りこんで右の太ももをさする。痛むのだろうか。
 棚へよりかかり、半分目をとじて、男はうなるようにイーツェンへ聞いた。
「お前、船に乗ったことねえんだろ」
「ないです」
 ぱさぱさのパンをどうにか呑みこもうとしながら、イーツェンはくぐもった声で答える。渡し船や川船なら何度も乗ったが、それはきっと彼らにとって「船に乗った」の勘定に入らないだろう。
 男は不機嫌そうに唇のはじを曲げた。よくそうやって曲げるせいか、口元にくっきりと深いしわが刻まれている。
「じゃあ、今のうちに食っとけ」
「何ですか」
「すぐわかる」
 そう言って、男はふっと上を見上げた。何だ、と思った時、船上の鐘が短い間隔で打ち鳴らされる音がイーツェンの耳にも届いた。
「あれは──」
 男の上げた右手に、問いかけた口をつぐむ。男は上を見たままじっと鐘に耳を傾けていて、集中した顔には、イーツェンにはよく読みとれない感情の揺らぎがあった。何か、イーツェンには理解できない何かが、そこに剥き出しになっているような。
 イーツェンはまばたきして、薄ぼんやりした明かりの中で男を見つめ、そこにあるものを嗅ぎとろうとした。顔の表情だけではなく、体つき、首や肩からにじむ緊張、天井を通して甲板上を見通そうとでもするような顔の向き、まっすぐな視線。すべてが何かを語っている。
 危険や異常、警戒といったものは感じられない。男の意識はすべて上に向かい、太ももに乗せた拳や肩には力がこもって、彼は身の内にはじけとびそうなものを抑えこんでいるようにも見えた。緊張と集中。まるでシゼが剣を構えた時のようだとイーツェンは思う。
 違うのは男の皮膚のすぐ下で、行き場を失った力が震えている、その様だ。ぐっと引きしめられた顎のかたくなな線から、男がどれほどの意志で己を抑えているのかがわかる。
 長く鳴りひびいていた鐘はその音をやっととめたが、男はそのまま上を見上げていた。イーツェンが息苦しくなるほど、そのまなざしはひたと据えられて動かない。ひりひりと肌に伝わってくるものは、怒りや興奮ではなかった。これはもっと湿った、暗い──
 憐憫? 痛み? ‥‥憧憬?
 遠く、鉄と鉄がぶつかり合う音がして船体がきしみ、イーツェンは体を揺さぶる揺れにとびあがった。明らかにこれまでの波の揺れとは違う。
「錨を引き揚げてる」
 低い声が男の口からこぼれたのだと、その唇が動いていなければわからなかったかもしれない。声はそれほど低く、男は見上げる姿勢を崩さなかった。
「その勢いで行き足をつけんだ」
「行き足?」
 話しかけられているのかどうか確信が持てないまま、イーツェンはつい問い返した。
 案の定、男は口の中でうなっただけでイーツェンには返事をしない。どこからかやってきた猫がその膝にとびのって素早く身を丸め、落ちついてしまった。
 また船がきしみ、イーツェンは目を大きくして左右を見回した。錨を引き揚げているということは、ついに出港か。これほど大きな船の錨は想像もつかないほど重そうだ。体を揺らす揺れとともに柱にかかった道具袋が少し振られているが、不安定に見えるのはそれだけで、棚には物が落ちないよう留め木が打ち付けられ、大きな物は縄や釘で固定されている。刃物や、散らばりそうな小物は棚ではなく、床の箱に収められていて、うっかりとびだしたりしないよう気配りされていた。道具をきちんと、そしてすぐに片づけろと男に怒られた理由を、イーツェンは悟る。
 カン、カン、とまた鐘が鳴り、耳に届くその数を数えた。鐘は船の上での「言葉」だ。イーツェンが苦戦する船乗り言葉と同じでまだ謎が多いが、意味を覚えれば何かの役に立つかもしれない。
 その鐘に絡みつくように聞こえてきたのは、ぼそぼそとした、妙な抑揚の歌だった。
「錨を巻け、帆を張れぇ──」
 海の底からひびくような声にぞっと背をこわばらせて、イーツェンは男を見る。歌は、うっすらひらいた唇の間から漏れていた。
 男は甲板を見上げたまま、途切れ途切れに歌を呟き、イーツェンはいくつかの言葉をどうにか聞きとった。
 ──帆を張って、女神の元へ誰よりも早く参じろ、鱗を持つ生き物すらかなわぬほどに早く‥‥
 船乗りの歌だろう。川でも、帆を上げたり急流で船を回す時、船乗りたちは呼吸を合わせるために皆で歌い合わせていたものだ。だが目の前の男の口からこぼれる歌には、陽気さや一体感はなく、しゃがれた声にまとわりつくのは言いがたい痛々しさばかりだった。男の膝の上におさまった猫が、暗い声に合わせて毛玉のような尾を揺らしている。
 船がまたきしむ。その音と男が呟く歌が入り混ざり、ひびく船室で、イーツェンは残りの食事を口に押しこんだ。少しだけ許された水を飲み、マリーシが使った銀の食器を取ると、彼はたよりない光の下で丁寧に磨きはじめた。


 船がどんな風に航海しているのか、イーツェンは甲板に出てみたくて仕方なかったが、しばらく我慢して調理場の掃除と、食料と酒の樽を数える仕事に没頭した。 
 調理場に近い船倉の一部が食料倉庫として縄で仕切られていて、塩漬けの肉や魚、腸詰め、麦などの樽がぎっしりとつめこまれている。どれもきっちりと封印がされていて、あければわかるようになっていた。樽や箱にチョークで書かれた記号の読み方を教わり、イーツェンは樽を数えて、使った物と残った物を帳簿に記した。
 とにかく食料と水に対しては管理が厳格で、自分の割当をこえて勝手に取った者は上甲板で鞭打ちにされるのだと言う。
 その作業をすませてやっと、調理場で使う海水を汲みに上甲板へ行く許可が出た。出港からすぐは甲板が忙しいので用はなるべく控えるらしい。調理係の男は、何故か歌の後は少し口がなめらかになって、イーツェンに船での作法をいくらか教えてくれた。
 空の桶を手にして、イーツェンは上甲板へのぼる。甲板に足を踏み出したその場で、揚々と風をみなぎらせた帆を見上げて、彼は立ち尽くした。
 まるで船上に巨大な花が咲いたようだ。中空にさしかけられた帆は生き生きと風をはらみ、風の動きにつれて呼吸でもするように、帆の表面がゆるやかにうごめいている。帆桁から幾重にも交錯して下へのびた無数のロープがきしみながら揺れていた。帆柱の様子からも感じてはいたが、そうしてひろげられた帆はあまりにも巨大で、船の左右に大きくはみ出し、もし帆が落ちてくれば船を完全につつんでしまいそうだ。
 その帆の受ける力がどれほどのものか、イーツェンはほとんど畏怖に圧倒される。船の周囲を波がゆきすぎ、イーツェンの足の下で船全体がゆっくりと揺らいでいた。海が船の後ろへ向かって流れていく。これがすべて、風の力なのだ。
 船から陸地が見えたが、ぼんやりと海に這い出した影のようで、それがルスタの港なのかどうかイーツェンにはもうわからなかった。遠く、海風にぼやけて建物の見定めがつかない。近くの海面を見ると船はかなりの速度で進んでいるように思えたが、陸地はほとんど動いていないようにも見えるのがおもしろい。
 風が甲板から巻き上がるように吹いて、ギイッと帆柱全体からきしみが上がり、帆を打った風が強い音を立てた。高い帆柱がしなったように見えたのはイーツェンの目の錯覚だろうか。宙に垂れたロープの間を、風がするどい口笛のように甲高く通り抜けた。
 思わずつっ立って見ていたイーツェンは、肩を強くこづかれてつんのめった。振り向くと、頭髪全体を布で覆った丸顔の男が眉を吊り上げてイーツェンをにらんでいた。よく焼けて、肩の筋肉が強く盛り上がり、いかにも船乗りという風体だ。
「丘ものがうろつくな、邪魔だ」
 すみません、とイーツェンが謝罪を言う前に男はつかつかと歩き去り、今度は膝をついて甲板磨きをしている若い水夫を早口に怒鳴りとばした。男の腰に棒鞭が下がっているのを見て、イーツェンは眉をひそめる。近づかない方がいい相手だ。
 男の号令とともに水夫たちが走り集まり、口々に叫び交わしながら、帆桁につながるロープを大勢で引きはじめた。
 イーツェンは見とがめられないよう素早くそこから遠ざかろうとしたが、甲板の揺れに足を取られそうになる。下にいる時よりも船の揺れが大きいと感じたが、それは、うっかりすると手すりの向こうの海に転がり落ちそうな恐怖感のせいかもしれない。
 船尾近くに設置されている木桶を海に放りこみ、桶についた縄をたぐって引き上げる。船に引きずられる桶を水圧に逆らって引き上げるのは意外な重労働で、さらに、船体に桶が当たるたびに水がこぼれてしまう。
 何とか水を残して手すりごしに桶を上げると、持ってきた手桶に海水をうつす。その間、甲板上には、帆のひらきを調整する男たちの独特の掛け声がひびいていた。
 つめたい海風が、濡れた手や金属の輪がはめられた首にひりひりと痛む。甲板に立つ一瞬ごとに背骨がひえていくようだ。だが深い青を灰色の紗で覆ったような海に視線を引きよせられ、凝然と見つめていると、海全体がざわざわとうごめいているように見えてきた。
 こうして近くで見る海は、ところどころで色が違う。それもまるで、切ったようにある場所を境にして灰色になったり、白っぽくなったりしているのが不思議だった。水はまざりあっている筈なのに、あれは何の色なのだろう。
 陸はさらに遠ざかり、うっすらと地平線を這う影のようだ。だがあまり孤立感がないのは、サヴァーニャ号の後ろに2隻の帆船が見えるからかもしれない。2本の帆柱を持つその船は、サヴァーニャよりも小型の帆船で、それぞれ帆柱の上に色旗をかかげていた。
 旗の意味は、イーツェンにはわからない。旗の先に紐のような細い布がつけられているが、あれも何かを表しているのだろうか。わかったところで何かの役に立つわけではないが、周囲の状況が理解できないというのは、思った以上に落ちつかないものだった。鐘、船乗り言葉、旗。自分の周囲で異国の言葉が話されているような気がする。
 船の上というのはそれ自体がひとつの異国だな、と思いながらイーツェンは桶をかかえ、下に戻った。


 マリーシの部屋を嫌みを言われながら掃除し、船内の油燭のほろを磨き、夕食の手伝いに調理場へ降りる。
 刻の鐘がまだ理解できないので、時刻がよくわからないのだが、男が夕食の仕度を整えはじめたのはイーツェンの腹時計からすると夕方にはまだ時間のある頃だった。船の夕食は早いようだ。
 水で煮込んだ肉に麦を足して濃い粥を作り、イーツェンが驚くほど大量のスパイスをすりつぶして放りこむ。鍋からの湯気をうっかり吸いこんだイーツェンは、涙が出るほど咳こむ羽目になった。
 しかし、料理の量がやけに少ない。頭ごなしに怒られるのを予期して男にたずねると、案外普通に「水夫と猿は堅パンを食う」という返事が戻ってきた。だから彼らのためには何も調理する必要がない、ということだろう。しかし。
「猿?」
 船にいる動物は猫と鼠だけではないのだろうか。信じがたい思いで聞き返したイーツェンを、男は面と向かって笑いとばした。
「馬鹿、猿が船に乗ってるわけねえだろ」
 自分で言ったじゃないか、と喉までこみあげたが、イーツェンは黙っていた。口ごたえが嫌われるのは身にしみている。気が向けば説明してくれるだろう。
 だがその時、ひょいと入り口に影が動き、ぼさぼさの総髪を無造作にくくった眠そうな目の男が調理場に頭をつっこんだ。口元をくちゃくちゃと動かしながら不明瞭な発音で言う。
「酒もらってくぞ、ホード」
 調理係の男は、脂にギトついた太い指を入り口に立つ相手へつきつけた。
「てめえにくれる余分な酒はねえ」
「1人、索具で腕を切った。縫うからな。酒なしでやると暴れる」
 口の中で何か噛みながら、もっそりと返す。腰帯のない長い上着をだらりと羽織っている様子は水夫には見えない。船乗りたちは、何より動きやすい格好を好むものだ。甲板上の危険な作業を見ればそれも納得いくが。
 船医かな、とイーツェンは男を少し疑い深い目で見た。唾液の音を立てて動く口からのぞく歯は驚くほど黒ずんでいて、噛み煙草の葉が絡みついている。
 ホードはうなって、鍋の中に海水を注いだ。
「坊主」
 イーツェンを呼ぶと、棚の小さな水差しをさす。
「あれの半分までラムをくれてやれ」
「わかりました」
 うなずいてイーツェンは水差しを取ると、隣の船倉に行って使っていい酒樽を探した。勝手に封印をあけると怒られる。酒樽を調べ、ラムの入った樽を見つけると栓を抜き、筒の道具を使って中から酒をすくい取った。
 暗い中で手元を狂わせないよう集中していると、後ろをついてきていた船医がもそもそと言った。
「ホードのところに来た子鼠と言うのはお前さんか」
「‥‥さあ」
 イーツェンは水差しを別の樽の上に置き、酒樽の栓を木槌を使って押しこむ。
「私は、船室のお世話係を言いつかっておりまして」
「ああ、口に蜂蜜をつめたようなしゃべり方をするというのもお前さんの話だったかい」
「さあ‥‥」
 そうとしか応じようがなく、イーツェンは言葉を濁した。鼠だの蜂蜜だの、よくわからないものにたとえられても困る。
 向き直り、酒の入った水差しを渡すと、男の口から噛み煙草の苦い匂いが強く漂ってきた。リグの薬師やエナなどは、いつも乾いた薬草の何とも言えない香りがまとわりついていたものだが、目の前にいる男からは、煙草と汗とタール混じりの船の匂いしかしない。
「ホードの包丁で指を落とされたら、俺んとこに来いよな。うまくくっつけてやる」
 冗談なのか本気なのかわからない口調でぼそぼそ言うと、船医らしき男は背中を丸めて船内のどこかへ戻っていった。
「何か言ってたか、あいつ」
 調理場へ戻ったイーツェンに、今度はホードがうなるようにたずねた。船医の最後の一言をイーツェンが伝えると、歯を剥き出しに、髭のまばらな頬全体を持ち上げるようにしてニッと笑う。
「あいつんとこなんか行ったら、耳の穴縫い合わされるのがオチだ。沈む時にも海水が入らなくていいけどな」
 その悪態は楽しげで、きっとこの2人は仲がいいんだろうな、と思いながらイーツェンはできあがった肉入りの粥を大きな器に分けた。部屋のすみに押しやったままの自分の荷物が視界のすみに入る。夕食が終わったら、寝る場所を探さなければなるまい。
 すでに下層甲板のすみで毛布をかぶって寝ている男たちをあちこちで見たので、自分もああやって寝るのだろうと見当はつくが、船のどこで寝ていいのかがわからない。よもやシゼのそばでというわけにはいかないだろうな、と呑気に考えていたら、熱い粥を指先にこぼして小さな悲鳴を上げてしまった。