船のつきあたりを区切って一室にしており、奥行きがないわりに思いのほか広い。と言っても上で見た船室に比べれば、だが。
壁に作り付けの低い寝台は上段が棚になっていて、本のようにとじた皮紙や小さな箱がいくつかおさめられていた。その向かいにある四角い窓には風よけの布が張られ、透過した光が、正面の椅子に腕組みして座る青年の怒りの表情をくっきりと照らし出していた。その怒りが自分に向けられたものでないことをイーツェンは願う。
巻きこまれたくないのだが、ジャスケがイーツェンを振り向いた。
「リオン。こちらの方がマリーシ様だ。よくお仕えするように」
それだけ言うと、もう話は終わったと言うように、この男はイーツェンがかかえたシゼの剣へ手をのばしてきた。イーツェンは鞘をかたくなに握りこみながら、なるべく非礼に聞こえないよう、だが頑として言い返す。
「受け取りを下さい」
シゼの剣を、ただ何の保証もなくこの男に渡せるわけはなかった。ジャスケの口元がかすかにこわばる。言いくるめられる前にと、イーツェンは意を決して青年──マリーシへ向き直った。
「紙をお持ちでしたら、1枚いただけませんか」
へりくだった態度は取りつつも、無躾は隠しようがない。キルロイの国に奴隷制はないが、ただの召使いとしてもこんな要求は非礼だろう。紙は安くはない。
マリーシは、表情そのものは大きく変えなかったが、だるそうにほそめていた目を見ひらいて、まっすぐにイーツェンを見た。目つきは鋭いまま、薄く結んだ唇の片はじを、かすかな笑いがかすめる。その笑みがいい意味なのかどうか、イーツェンにはわからない。
唇が動いて、
「ジャフィ」
ジャスケの通り名を呼んだ。「ジャスケ」と同じ、いつでも脱ぎ捨てられる名前にちがいない。
「これは何者だ」
「遠方より来た者でしてな。どこの家ともつながりはございませんよ」
「返事になってない」
まったくだ、とイーツェンも内心同意した。マリーシの平らな視線で値踏みされるのは落ちつかないが、ジャスケに上から物を言う人間がいるのは、正直、楽しい。
マリーシが肘掛けもない質素な椅子から立ち上がると、膝丈の長衣の裾を翻す大股でイーツェンの目の前へ歩みよった。狭い船室なのでほんの2歩だが、勢いがいい。
意外にもイーツェンよりも頭ひとつ低く、着こんでいる割に華奢に見えた。
「紙が必要か」
まっすぐ問われたイーツェンは、視線をそらさずにうなずいた。
ほとんど間を置かず、思いきり左頬をひっぱたかれる。耳の中をするどい音が抜け、数瞬置いて、頬全体に熱いような痛みが広がった。折れそうな膝に力をこめ、顔を押さえたい衝動をこらえる。動かず、イーツェンは真っ向からマリーシの視線を受けとめた。
振り上げられた右手は見えていたから、よけようとすればよけられたかもしれない。だがイーツェンはこの青年に仕えるために雇われたのだ。一時的とは言え「主人」に反抗を見せて、港に放り出されたくはない。従う気持ちはあるのだと、それだけは見せておきたい。
マリーシはイーツェンを打った手をぶらぶらと振りながら、彼に背を向け、窓際に作り付けられた細い机に寄った。引き出しから皮紙をひっぱり出し、肩ごしにイーツェンへ問いを投げる。
「書く物もいるか」
「貸していただければ恐悦でございます」
慎重に言葉を選んだイーツェンを無言のまま鼻で笑って、マリーシは手招いた。ペンとインクが乗った台を机に置いて、イーツェンに示す。
船のうっすらとした揺れと、くいいるようなマリーシの視線の中で、イーツェンはどうにか受け取りの文章をしたためた。最後にどう署名したものか迷った挙句、興味津々の顔つきで手元を見ているマリーシへ向き直る。
「分不相応なお願いであるのは承知しておりますが──」
マリーシは皆まで聞かず、イーツェンの手から羽根ペンを引ったくった。
「名前を記せばいいか?」
「剣の受け取りの証人としての署名ですが、よろしいですか」
驚きながら、イーツェンはひとまず念を押した。後から何に署名したか知らなかったとしらばっくれられてはたまらない。
「またひっぱたかれたいか」
イーツェンをにらんで、マリーシはさらさらと流れるような手で複雑な署名をしたためた。無表情で成り行きをみているジャスケを手招きする。
「私が証人だ。さっさと受け取りの署名をしてしまえ」
「信用のないことでございますなあ」
「パラジャイを信仰する男には舌が3枚あるからな」
商人の守護神の名をにこりともせず言い放ち、ジャスケをうながして署名させる。イーツェンは、いささか正体をつかみかねる思いでマリーシを見ていた。美しく濁りのない発音と──とは言ってもイーツェンの耳にはやはり訛って聞こえるのだが──署名の見事さから言っても確実に貴族だろうが、どうして彼は、ジャスケにたよるようにして1人で船に乗っているのだろう。
殴られた頬が今さら痛んで、イーツェンは2人の注意を引かないようそっと指の腹で頬をさすった。図々しい頼みをした以上は殴られたことに驚きはないが、時おりしみじみと、奴隷が板についてきている自分が嫌になる。
だがそれも、この船がポルトリにつき、ゼルニエレードでリグの商館を見つけるまでのことだ。もうすぐ終わる。
ジャスケはマリーシに言われて印まで押し、即席の受け取り証書をイーツェンに渡した。イーツェンはそれでもためらい、心がはがされるような思いのまま、ジャスケの手にシゼの剣を渡す。ジャスケが無造作に脇の下へ剣をかかえこむ仕種に、気持ちが重くなった。
ジャスケはさらにひとつふたつ、心のこもっていないご機嫌うかがいを言い立ててから、イーツェンを置いて去った。狭い船室にマリーシと2人で残されたイーツェンは、ほっとしつつも心もとない。
どうするべきだろうと迷いながら、船室を目だけでざっと見回した。壁に掛かった上着、さらに上から羽織る丈の短い毛皮のマント、机の下には長箱と真鍮色の小ぶりな油燭、壁に作り付けられた狭い寝台、上の段の棚に並べられた皮紙の束、椅子と足置き。きちんと整理されているが、やはり狭い。
どう考えても、ここにイーツェンの眠る場所などない。どうするものなのかと考えをめぐらせていると、マリーシがパンと音を立てて手を叩いた。
「お前は下甲板に行って、厨丁を手伝え」
「かしこまりました。ほかに御用はございませんか」
反感を買わぬよう、イーツェンが慎重な態度でうかがいを立てると、マリーシはうるさそうに手を振った。あからさまにイーツェンを追い払いたがっている。
「私の昼食ができたら持ってこい。それまでは1人にしてくれ」
命令に従って船室を退きながら、下甲板というのはどこだとイーツェンは溜息をついた。この層ではなさそうだ。とりあえず、昇降口を見つけて、さらに下まで降りてみればいいのだろうか。
狭い船内で邪魔にならないよう荷を小さく持って歩き出す。シゼの剣が今やジャスケの手にあるということが、まだうまく心に落ちつかなかった。あの男に渡していい物ではない気がする。
──離れると悪いことがおきる気がする。
今朝はそう言ったシゼを笑って流したイーツェンだったが、シゼの剣を手放した今、その言葉がふと浮き上がって気持ちを揺らす。馬鹿な話だ。
今ごろどうしているだろう、と思った。もう船に乗っただろうか。まだ港で荷積みの作業をさせられているのだろうか。シゼを探しに上の甲板へ出てみることも考えたが、忙しく行き交う船乗りたちの中で簡単に見つけ出せるとも思えない。
200人、とジャスケは乗組員の数を言った。200人もひとつの乗り物に乗っているということが、イーツェンには想像すらつかない。リグの小さな集落では、住人全員をかき集めても200人に満たないことなどざらだ。
もう少し船に慣れたらシゼを探しにいこう、と決心し、イーツェンはひとまず不安を心のすみへ押しこめた。とにかく今は、己の仕事と居場所を見つけるのが先だ。
船では自分の面倒は自分で見る、とイーツェンは覚悟を決めていた。シゼに余計な心配や負担をかけないためにも、この船旅は1人で切り抜けなければならない。
帆柱の向こう側、壁際の隔壁の中に昇降口を見つけ、はしごをつかんで下に降りた。船の下層は暗く、まばらな灯火が柱にくくりつけられているが、光はほとんど行き届かない。低い天井からロープがあちこち垂れ下がり、壁際には袋や箱などの荷物が固められていて、よけながら歩いていたイーツェンは、背後からばんと背中を叩かれた驚きでつんのめりそうになった。
「悪い、悪い」
振り向くと、イーツェンに縄ばしごで手を貸してくれた歯欠けの水夫が、陽気にあやまった。目尻が切れ上がった大きな目に好奇の光をいっぱいに溜め、イーツェンを上から下まで見る。陽に焼けていて年齢が不詳だが、もしかしたら思っていたよりずっと若いのかもしれない、とイーツェンは感じた。
「探し物かい?」
「調理場を」
「そいつはケツの方だ、こっち来な」
船尾のことらしい。甲板の下に入ってしまえばイーツェンには船がどちらを向いているのかもわからないが、とにかく腕をひっぱられて歩き出した。
柱のくぼみにひっかけられた油燭にはどれも硝子のほろがかかり、火がうつらないよう最大限の注意が払われている。そのぼんやりとした灯りに照らされた下甲板は、1層上と違ってはっきりと廊下のような通路があるわけではなく、間隔の狭い柱の間がところどころ隔壁で仕切られたり、帆布で部屋のように囲われているだけだ。とにかく天井が低く、せせこましく、うっかりすると足元の荷物に足を取られそうだし、換気の窓もないので息苦しい。
ふいに、窓のない理由に思い当たって、イーツェンの背すじがぞっと恐怖で凍りついた。船の腹まであった海面の様子が、まざまざと脳裏をよぎる。
船内の甲板を2度にわたって降りてきたここは、あの海面の下なのではないだろうか。だから窓がない──つけられないのではないだろうか。
今にも周囲の壁を破って海水があふれ出してきそうで、イーツェンは胸に息をつめた。前の水夫に手を引かれていなければ、その場に凍りついてしまっただろう。全身につめたい汗がにじみ出して、足がもつれそうだった。
柱の影からは、黄色っぽい灯火がちらちらと、宙に浮くように光っている。ふと、こんな光を前にも見たことがあると思った。リグで。行方のわからなくなった子供を探すために隊を組み、深く山を掘りこんだ鉱洞の中まで捜索した時だ。周囲からのしかかるような深い土の圧力を感じながら、地の奥を探し、柱に架けた小さな灯火を道しるべにして、地上へ戻ったのだった。
──地の深みも、水の深みも同じことか。
そう思った時、いきなり頭上から光が降りそそいできてイーツェンは仰天した。大した光ではないのだろうが、この暗がりでは何よりもまばゆく輝いて感じられる。
見上げると、天井の一部が格子になっているのがわかった。それもすぐ上の天井だけでなく、さらに上の天井──上の甲板まで、格子の床が重なり合って、その向こうから陽光が射している。大きく光を遮りながら横切る形のない影は、上甲板を歩く人々のようだった。
思わず立ちどまっていたイーツェンを振り向き、水夫が笑った。
「蓋を取ったんだよ」
「蓋?」
「今朝砂をまいて掃除したから、甲板に蓋をしてたのさ。いつもは開けっ放しだ」
かぼそい光でも一気にあたりの闇がやわらぎ、その仕組みにイーツェンは素直に感心した。体の内側に巣喰っていた恐怖感もいくらかほどけて、息も楽になる。
「あんたほんとに船はじめてなんだな」
呆れたように水夫は言って、イーツェンが見落としそうになった昇降口から下層へ降りた。昇降口など上から下までひとつにまとめて設置すればいいと思うが、妙に入り組んでいるのは、城と同じように防備のためなのだろうか。
1層下ると、格子ごしの光はかろうじて入りこんではいるものの、やはりあたりは冬の夕暮れのように薄暗い。柱の間に渡された腰板の向こうに樽や箱がぎっしり積まれているのが、ぼんやりと見えた。
明るみの漏れてくる部屋がひとつだけあるが、後は折り重なるぼんやりとした影ばかりで、その向こうから何とも言えない嫌な匂いと、ギシギシという木のきしみ──船のきしみだろうか──が流れてくる。空気にまざっているのは湿っぽい腐臭だろうか。何だか、首すじがひやりとした。
「最下甲板だ。俺たちの寝床さ」
水夫はそう言って、イーツェンの顔をしげしげ見た。
「俺はラウって呼ばれてるけど、お前は?」
「リオン」
人なつっこい口調で問われるとつい「イーツェン」と答えてしまいそうになるが、どうにか書類上の偽名で応じた。もっとも、呼び名と書類の名前がちがうのは奴隷には珍しくない。気まぐれに好きな名を付ける主人が後を絶たないためだ。
「いい名前だな」
誰にでも言っているのだろう、底意のない晴れやかな口調で言うと、ラウはイーツェンの背中を親しげにどつき、唯一灯りのともっている部屋へ押しこんだ。こんなに遠慮なく背中を押されるとぎょっとするが、感じたのはひどく鈍い痛みだけで、イーツェンは気分が明るくなった。自分で恐れているより、背中はずっとよくなっているのかもしれない。
そこは船内には珍しく、しっかりした壁に囲まれた部屋だった。内側の壁はレンガ貼りで、イーツェンは驚く。壁の内側に、薄いレンガがびっしりと貼られているのだ。床も同じようにレンガ敷きだった。
船内としては広いがやはり窮屈な部屋は、中央に大きな炉が据えられ、炉の周囲もレンガで囲われていた。
ルスタの川港に到着した時に見たのと同じような、枠の内側に鉄の炉がはめこまれた炉だった。あれは、移動式の屋台のために木枠に鉄の炉を入れこんであったのだが、ここでは防火のためだろう、レンガで組んだ四角い枠の中に鉄炉がおさめられている。泥炭らしきものが燃える炉の上には天井から太い鎖で大鍋が吊るされ、ぐつぐつと何かが煮えたぎる表面で、白浮きした脂が揺れていた。
部屋の中はその蒸気が回って、外よりは暖かい。火の明るさとぬくもりにほっと息をついたイーツェンの肩を、ラウが陽気に叩いた。
「お客さんの飯作るんだろ。皿から肉1枚かすめといてくれたら、恩に着るぜ」
「え──」
冗談かと思いつつ受け流せずにイーツェンが困っていると、レンガの壁に反響するようなだみ声が怒鳴った。
「ちょろまかした肉切れの分だけてめえの肉を削ぐぞ!」
イーツェンはぎょっと立ちすくんだが、ラウはからからっと子供のような笑い声を上げた。慣れた冗談らしい。
「俺をスープ鍋にぶちこむなら、アバルトスの皿に目玉を盛ってやってくれよな。皿からあいつに挨拶してやるよ」
「へらず口も叩けるように舌も盛ってやるから、とっととそのケツを上甲板まで持ってけ。甲板長の娘の餌食になりたかねえだろ」
がらがらにしゃがれた声は太く、迫力があったが、その持ち主も相当なものだった。炉の向こうからむくりと立ち上がった男は肩幅が大きく、岩を積んだように体が頑丈に張っていて、長いボロ切れをかけて胸前に垂らした首も、熊のように太い。その男が立つだけで、部屋が一気に狭くなったようだ。
脅すようににらまれても、ラウはまるでたじろがずに手を振った。
「新入りを取って食うなよ」
「うるせえ、とっとと行け」
野太くすごまれたラウはイーツェンにちらっと笑みを向けると、小走りに去った。イーツェンは肩に荷をかけたまま立ち尽くしていたが、気を取り直して大男に顔を向ける。
男は腰から垂らした布の前掛けに手の平をなすりつけながら、じっとイーツェンを観察していた。太い眉の下にある目は、意外につぶらだ。白髪まじりの癖のある髪を乱暴に首の後ろでくくり、同じようにちぢれた口髭が口元から顎にかけて密集している。眉も太く、鼻も横に広く、顔の作りもごつごつと大きく、イーツェンはふいにリグで言われる「山人」のことを思い出した。リグの子供は皆、「山にひとりで入ると山人にさらわれる」と脅されて育つ。山人はさらった子供のうちいくらかを山人として育て、残りをさばいて食うという話だった。
目の前にいる男は、イーツェンが子供の頃に想像した「山人」そのものの姿をしている。いるものだ、とイーツェンはつい感心した。
「何の用だ、坊主」
うなるような声に、さらに船乗りたちと同じ訛りが色濃くついているので、意味が聞き取りづらい。耳がなじむまで大変そうだ。
「船室の部屋付きとして雇われたのですが、上のお方からご自分の昼食ができるまでここを手伝えと言われまして」
「ああ‥‥あんたがあの箱入りの客の面倒を見るのか」
マリーシの存在はもう有名らしい。そして男の苦虫を噛んだような口調からいくと、あまり評判はよろしくないようだった。
イーツェンは部屋のすみの小さな水場をよけて、自分の荷物を壁際におろした。壁に作り付けられた横長の調理台は脂が染みついてギトギトと光り、横の柱から吊られたいくつもの革の道具入れはどれも重そうだ。
台の下に芋と豆の籠を見つけて、これを剥けばいいのかとイーツェンは男を振り向く。男は左手で長い木勺を持って鍋をかき混ぜていたが、その右手にじたばたと動くものを見て、イーツェンは目をしばたたかせた。男の指に尻尾をつかまれてぶら下がり、必死に宙をかいているのは、どう見ても灰色の短い毛に全身を覆われ、鼻っつらだけが少し白い鼠であった。
まさか鍋の具は、と思った時、男はそれをイーツェンへ向けて上げた。
「腹減ってるか?」
「‥‥そこまでは」
果たして船乗りは鼠を食わねばならないほど食事に困るものなのだろうか、とイーツェンが鼠を平ったい目で見ていると、男はしゃがみこみ、尾で振り回した鼠を床のレンガに叩きつけた。そのまま、部屋の隅の暗がりに放り出す。
「後でサヴァが食うからな」
誰だ、と思ったが、それよりイーツェンは男の右足に目を奪われていた。かがんで起き上がる時の膝から下を折りたたむ仕種ではじめて気付いたのだが、ズボンから突き出た男の右足は、ただの木の棒であった。
男はイーツェンの視線をとらえると、太い唇のはじを持ち上げてにやりと笑った。
「見るのははじめてか」
「痛くないんですか?」
義手はユクィルスの城で見たことはあるが、義足は──目の前の物は足の形すらしていなかったが──はじめて目にする。これまでは、服や靴に隠れて気付かなかったのかもしれない。
「そりゃ痛えよ」
あきれ顔で言って、男は壁を指でさした。
「ひとつ向こうが食料倉庫だ。塩漬け肉の箱があるから、一箱こっちに運んでこい。封印を剥がしたり、ちょろまかしたら前歯がなくなるぞ」
さっきも肉を取るなとラウを脅していた。そんなに肉が大事かと思いながら部屋を出ようとするイーツェンを、だみ声がさらに追いかけてきた。
「酒樽に手を付けたら奥歯もなくなるぞ!」
船乗りというのはみんなそんなに手癖が悪いものなのか、それともこの男が苦労性なのか。悩みながら、イーツェンは次の警告をもらう前に小走りに急いだ。
調理場の手伝いは、忙しく叱りとばされながらもなかなか面白かった。義足の男は容赦なくイーツェンをこき使い、大量のスープと、冷たい肉とチーズを重ねた昼食を手際よく準備した。加えて、それぞれの甲板にビスケットの樽が支給されるらしい。
塩漬けの肉は薄く塩をまぶしただけのものだったが、航海が短いうちは、保存の浅い肉で充分なのだろう。かかえるほどの大きさの豚の肉を言われた個数に薄く切り分け、チーズとともに浅い箱に積む。男はスープを持ち手のついた木桶に分けて、それを持つようイーツェンに手で示した。
イーツェンは桶の下げ手をつかんで、重さを試し、手を離した。膝の高さまである桶は肉の脂が浮いたスープが入っていて、見かけよりずっと重い。
「すみません、持てません」
断るイーツェンを、男は包丁の脂を布で拭いながらじろりと見た。殴られても仕方ないと覚悟を決めて両足に力をこめながら、イーツェンは淡々と続けた。
「背中を痛めているので、これは無理です」
「何でだ」
ぶっきらぼうな問いかけが戻ってきた。悪態と命令はまくし立てるが、それ以外には無口な男で、イーツェンの名前も聞かないし、イーツェンも彼の名前をまだ知らない。
「鞭打ちを受けて」
事実を告げているだけなのに、口にした瞬間、痛みの記憶が這い出してきそうになる。だが表情を変えず、イーツェンは平静を保った。もう終わったことだ。残った傷と、イーツェンは妥協しながらつきあっていかねばならない。今のように。
男は、太い眉の下の目をほそめてイーツェンを上から下まで眺め回し、イーツェンの首すじが熱くなるまで首の輪を凝視した。
「見せてみろ」
ぎょっとしたが、やむなくイーツェンはシャツに手をかけた。男に背を向けて壁際に立つと、2枚重ねたシャツの裾を布帯から引き抜き、肩甲骨ぎりぎりまで上げて背中をさらす。冷たい空気に撫でられて、鳥肌が立った。
背後からの男の声は笑いを含んでいた。
「罪人かあ」
「いえ」
服をおろして振り向きながら、イーツェンは否定する。男の目を見てつけ加えた。
「高い身分の方のご不興を買ったもので」
「ご不興、ね」
男は脂でギトつく木勺を鍋から引き上げて、鼻を鳴らした。
「どこで躾けられた」
言葉遣いが丁寧すぎておかしいらしい。もっとも、ユクィルスの城ではどれほど位の低い奴隷や召使いでもこの程度の口はきいたものだ。船の上でどのくらい言葉を崩していいのかわかるまでは、非礼で誰かの不機嫌を買うより、笑われていた方がましだった。
肩をすくめて、イーツェンはスープの入った桶をさした。
「治っていれば持ちます。でも今は無理です。すみません」
ふん、と男はまた鼻を鳴らすと、カツカツと右足の義足をレンガに鳴らして出ていった。イーツェンは、木箱に薄く切った肉とチーズを交互に積み重ねて、作業を進める。これと乾いたビスケットが水夫の昼食だ。スープをふるまわれるのは、一部の限られた船乗り──船長や航海長、甲板長など──だけだということだった。
それにしても、箱に積まれた食事の量を目の当たりにすると、どれほど多くの人間がこのサヴァーニャ号に乗り合わせているのかあらためて茫然とする。
船の雑役として乗りこんだシゼも、きっと皆にまじってこれを食べるのだろう。
白い脂が表面に冷えた肉を箱に積み並べながら、イーツェンはふと不安になった。いくら何でも、もう乗船しているだろうが、まだシゼの姿を確かめに行く余裕がない。
まさか、とこみあげる不安を、心で打ち消す。ジャスケには、船代の残り半金はシゼが払うと言ってあるし、シゼを船に乗せなければ金が入らないのはよくわかっている筈だ。イーツェンとシゼを引き離したところで、あの男には何の得もない。
そう思っていても、顔を見ないと安心できない。昼食を配り終えたら時間がもらえるだろうかと考えていると、義足の音を立てて男が戻ってきた。その後ろをタールのしみがついたよれよれのシャツを着た水夫がついてきて、スープの桶を持った。イーツェンは、肉とチーズを盛った箱を運ぶよう命じられる。
部屋の外、通路に面して、荷物を引き上げるための昇降台がそなえられていた。その台に水夫とイーツェンが食事をのせ、紐を引いて上の甲板の鐘を鳴らすと、ガラガラと滑車が回って台が引き上げられていく。
へえ、と感心しながら、イーツェンは水夫と一緒に往復してすべての肉とスープを上へ送った。
調理場に戻り、部屋のすみでもぞもぞと動く毛玉のような塊にぎょっと立ちどまる。灰色の毛玉にやはり毛玉を丸めたような丸い尾がついていて、その尾を振り回しながら、それは肩ごしにイーツェンをつり上がった目でにらんだ。
「ぎゅ」
首でも絞められているような啼き声を立てる。
イーツェンはまばたきして、この上なく薄汚れた猫を見おろし、その前足が鼠の死骸を押さえているのに気付いた。調理係の男は鼠の死骸を「サヴァ」にあげると言っていたが、これがその「サヴァ」らしい。
何気なく1歩近づいた途端、毛玉全体が空気を吹きこんだように大きく膨れ上がった。獲物をイーツェンから守ろうと肩をいかめしく構え、猫は牙を剥いて威嚇する。
「ごめん、ごめん」
つい何度もあやまりながら、イーツェンは猫から離れた壁際をつたうように動き、すみにある水場へしゃがみこんだ。籠に積まれた作業用の石刃や包丁、木勺などを、手が痺れるような水を使って洗う。作業に使うのは海水で、これで汚れを落とした後、鉄の刃物は真水で拭うようにと男からきつく言い渡されていた。真水は肉よりも貴重なのだ。
レンガで囲われた水場のすみには栓があって、それを抜くと、溜まった水がどこかへ流れ出していく。下層のここから、水がどこへ流れていくのかは謎だった。まさか船底に穴があいているわけもあるまいが。
「これを船長室まで届けてこい」
背後の声に、イーツェンは手から水を振り落としながら立ち上がった。調理係の男が、右手に酒壺を下げて立っている。陶製の壺の口は、木栓がはめられた上から蝋を垂らして封じられていた。
壺を受け取るイーツェンへ、男はうなるような声でまた警告する。
「途中でちょろまかそうと思うなよ」
人を何だと思っているのかと、イーツェンは一瞬、あきれた。それが顔に出たのだろう。男の、岩のようにごつい手が素早くのびるや、イーツェンの襟首をつかんでねじり上げていた。イーツェンの首など一ひねりで折ってしまいそうな拳から、染みついた脂の匂いがむっとたちのぼる。
顔を近づけ、男は噛みつこうとでもするように歯を剥き出した。
「いいか、お屋敷と違って船の上では、絶対に、何も、盗むな! どんなに長い航海で、どんなに腹が減っても、喉が渇いてもだ。丘ものにはわからねえだろうが、それが船の絶対の掟だ」
イーツェンが唾を呑みこんでうなずくと、今1度ゆさぶってから、男の手が離れた。
「‥‥私は、物を盗んだりしない」
鞭打ちを受けた奴隷など誰も信用しないのかもしれない、そう思いながら思わず呟いたイーツェンの耳を、男の手のひらが軽くはたいた。力は入っていなかったが、耳の上から打たれるとひどく大きな音が頭蓋の内に響いて、眩暈がする。
「口ごたえするな」
男はまだ火を呑んだような目でイーツェンをにらんでいた。
「特に上甲板にいる時には、誰に何を言われても、言い返すな。わかったか、丘もの」
丘もの、とこの男の口から出ると、ラウに言われたのとは違って見下されている気がする。イーツェンの胸の内で反骨心がむくりと頭をもたげ、彼が表情に出さないようにしたそれを、男はまたも見抜いたようだった。うなるような溜息をつく。
「航海を無事終えてぇだろうがよ」
その声は相変わらずガラガラ声だったが、口調はやわらかい。イーツェンはまっすぐにこちらを見据える男の真剣な表情にたじろいだ。
「そんなに怖いところなんですか」
船のことを言ったのか、上甲板のことを言ったのか、自分でもわからない。男は右肩をちょいといからせて、イーツェンがかかえたままの酒壷へ顎をしゃくった。
「とにかく船長室まで持ってけ」
「場所が──」
「いっとう上まで出て、誰かに聞け。甲板長と航海士には近づくな」
言われてもそれが誰だかイーツェンには見分けようがないのだが、男はそれきりイーツェンに背を向けて、義足の音を立てて調理台へ歩みよる。木の足に、猫が慣れた様子でじゃれついた。
とにかく、偉そうな人は避ければいいのだろう。自分を納得させたイーツェンは、壺をかかえ直して、うす暗い廊下へ歩み出した。
上甲板へ出た瞬間、陽光のまぶしさと、あたりにたちこめる叫びに立ちすくんだ。
光に痛む目をしばたたいて、甲板にあふれんばかりの水夫の数に仰天する。人の間を進もうとすれば必ず誰かにぶつかりそうなほど、至る所に水夫たちがいた。裸足の足を踏みならす彼らは空を見上げては腕を振り上げ、口々に何か叫んでいるが、訛りがある上に大勢の声が重なって割れていて、何を言っているのか聞きとれない。
イーツェンが下層にいるうちに陽はすっかり中天にのぼっていて、手すりの向こうの水平線は貴石の粒をまいたように美しく光っている。だが甲板の上には、ひどく獰猛な熱気が渦巻いていた。
目をほそめ、イーツェンは男たちの視線を追って頭上を仰いだ。帆桁にかかっていた荷揚げ用の縄はもう取り払われているが、帆はまだ巻き上げられたままだ。
中央の主帆柱にはふたつの帆桁が取りつけられ、それぞれ巨大な横桁の下に帆が重そうにたくしあげられている。空へそびえる長い帆柱の途中には丸い見張り台があるのだが、台の根元から10本近い縄が両側の舷側へ向かってぴんと張られていた。縄同士の間隔は下へと広がり、段になるよう横縄が渡してあるため、まるで宙に細長い三角形の網が張りかけられているようだ。
その網を、両側の舷側から、数人の水夫が見張り台めがけてのぼっていた。足元のあやうい宙空で、横風を受けて揺れる縄を手でつかみ、たわむ横縄に足をかけ、1段ずつ上がっていく。ぞっとする眺めだったが、イーツェンが乗船した時にも同じ光景は見た。何故今になって、船乗りたちはこうも興奮してはやし立てているのだろう。
見ていると、右側をのぼっている男の足がロープから滑り、宙にぶら下がった。その瞬間甲板からどっと歓声と笑いが沸き上がり、縄に足を戻そうとする男を煽りたてる。誰かが錫の杯を手すりに叩きつけ、甲高い金属音が次々と鳴った。
「落ちろ!」
叫びに耳を打たれて、イーツェンは呆然とした。縄にしがみつこうともがく男は、もう7、8身長分ほどの高みにいる。あそこから落ちれば、明らかに命があやうい。
息をつめた時、男は縦の縄に足首を絡め、やっとのことで体勢を立て直した。ふいに大きく吹いた風に縄全体がたわみ、揺らぎ、全員が縄の上で動きをとめて揺れをやりすごそうとする。
周囲に渦巻く嘲笑の中、頭上を見上げたイーツェンは、全身の血が凍りついた。のぼっている水夫たちの中にはもう見張り塔までつき、そこからさらに帆柱の上に向かって新しい縄をのぼりはじめている者もいるが、半数余りは明らかに慣れない動きで縄にしがみつき、下からはやし立てられて、のろのろと上を目指している。
その中に、いかにも場違いな剣帯をつけたままの男がいた。靴を脱ぎ、裸足の足指をロープにかけ、横風の中をひとつずつ上に向かってのぼっていく。浅褐色のシャツに、灰色のズボン。裾は船乗りがよくするように、足首へすぼめてひもでくくられている。
あの服を、彼はルスタで旅支度として買ったのだ。
イーツェンの背後でまた誰かが野卑な罵倒を叫び立てた。腰抜け、玉なし、空気頭──
だがその声すら遠く自分から隔てられて聞こえた。落とさないように酒壺をかかえこみ、イーツェンは頭上をくいいるように見つめる。
おぼつかない手つきでつかんだ縄だけをたよりに、帆柱に向かって宙をのぼっていく男たちの1人は、まぎれもなくシゼであった。