2日かかっても、あまり物事ははっきりしなかった。
シゼが酒場や賭け場で船についての噂を小耳にはさむ一方、イーツェンはジャスケが書いた契約書をあらためて眺め、刻印を帳面に写して役場に持っていった。大量の刻印を記録した本を見せてもらい、マルドラという国の商人が荷の封印用に使う印と同じ物だということを、半日がかりでつきとめる。
ジャスケの押した刻印は天秤と革袋を単純化したもので、商人の物というのは合点がいったが、マルドラという国をイーツェンは知らない。聞けば、海の向こうの大陸にもそういう国はないと言う。海峡に点在する島々をつらねた海洋国家の名前だとわかったのは、シゼが酒場の隅で騒ぐ学生の1人をつかまえて聞き出してからだった。
マルドラの国のことが多少わかったところで、ジャスケが使っている刻印が本物かどうかも、本物だとしてどんな意味があるのかもわからない。だが少なくとも、今は商人という顔をかぶっていることだけは、はっきりとわかった。
ジャスケの署名は長く、中にいくつもの名前が入っていて、そのあれこれを場合にあわせて使っているのではないかとイーツェンは思う。印章と同じように、名前もまた、あの男をさし示すすべにはならない。
船賃を払って正当に乗船した上、仕事までするのだ。ジャスケとの取引の裏を勘ぐる必要はないのかもしれない。だがそう思う一方で、イーツェンはジャスケに対する薄気味悪さを拭えなかった。
2人は船旅の準備をし、荷をぎりぎりまで減らして、残りを古手屋に売った。金の残りを数え、一部をポルトリで交換できる手形代わりの陶貨に変える。手数料は痛いが、必要な物は身に付けられた方がいいだろう。残りの細かな硬貨とあわせて陶貨を布に縫いこみ、イーツェンはそのひとつをシゼの剣帯の革の間に、ひとつを自分の布帯へ縫いつけた。
金を2人の間で分けるよう主張したのはシゼだったが、彼の本当の動機をイーツェンが理解したのは、2日目の朝のことだ。
まだ早朝の鐘が鳴る前に目を覚ますと、イーツェンは横にいるシゼのぬくもりにもぞもぞと身をよせた。それが癖になっている。朝はもうかなり肌寒く、窓に厚い板戸をたてていても、しのび入ってくる空気が冷たい。だが毛布の下は2人分の体温で暖かかった。
船に乗っている間はまたしばらく離れるのだと思うと、イーツェンは小さな息を噛み殺した。眠っている間、シゼの存在をそばに感じるのが当然のことのようになっている。離れたら眠れないということはないだろうが、また悪夢を見てしまうかもしれないと思うと、少し不安だった。
「イーツェン」
名前を呼ぶ息が耳元にくぐもり、シゼが少し動いた。起きているのは何となく感じていたが、思わずびくりとしてから、イーツェンは眠い声で返事をした。
「何」
「もし何かうまくいかなくても、あなたはとにかくポルトリに降りて下さい」
シゼの声は静かだったが、イーツェンははじかれたように起き上がった。毛布の中に冷たい空気がなだれこんで、慌てて身を亀のように縮めながら、うつ伏せでうずくまる。首に布を巻いてはいるが、とにかく首の輪は氷のようで、体の温度がそこから吸い出されるような気がする。
左側のシゼを見ると、シゼは左肘を起こして頬杖をつき、居心地のいい状態に戻ろうとじたばたしているイーツェンを眺めていた。部屋の天井もほとんど見えないほどの薄暗さの中で、イーツェンは毛布を首までひっぱり上げてシゼをにらんだ。
「何でそんなことを言う」
「船の上では何が起こるかわからない、イーツェン」
淡々と、シゼはイーツェンに反論しようのないことを言う。
「もし何があっても、あなたは、ポルトリで船から降りることだけを考えて下さい。ポルトリからゼルニエレードに渡ればリグの商館がある。そうでしょう?」
「そうだけど、何で」
シゼが船旅を心配しているのはわかる。わかるが、何で今そんな不吉なことを言うのかと、イーツェンは頑固に言い返した。頬杖をついたシゼの輪郭は背後の闇にぼんやりととけこんでいるが、あらわになった首すじが少し寒そうだった。
考えこむ間を置いてから、シゼはぼそっと言った。
「いつも、離れると悪いことがおきる気がする」
「シゼ──」
シゼは切るように自分の言葉をかぶせる。
「リグまでもう少しだ、イーツェン。あなたはとにかくリグへ向かうことだけを考えるのがいい。ポルトリで手形を金にすれば、船代は出る」
「お前に何かあっても私1人で船を降りろと言っているのか?」
声がとがったのを感じて、イーツェンはつき出していた下唇を引きしめた。どれほど子供っぽい顔になっているかは、自分でも知っている。
「よしてくれ、シゼ。何もおこらないよ。ちゃんと船代も払うし、仕事もする。私たちはポルトリで一緒に降りて、一緒にゼルニエレードへ渡るんだ」
それ以上シゼの反論を聞かずに身をよせて、毛布の下でシゼの体に腕を回した。薄いシャツ1枚を通して、強靭なシゼの筋肉の感触が伝わってくるのを感じ、その奥にひそむ緊張を手の平で感じとった。シゼは本当に不安なのだ。
「シゼ」
「きっと、何もおこらない」
シゼの返事は溜息まじりだった。
「だから、何か起きた時には、とにかくリグを目指すと約束して下さい、イーツェン」
「‥‥‥」
答えないでいると、シゼは頬杖の身を起こし、毛布の下になだれこむ夜気とイーツェンの抗議を無視してイーツェンの肩をつかんだ。説教する気配を感じたイーツェンは振り払おうと身を引くが、その勢いが余って狭い寝台のはじから落ちかかる。あっと思った瞬間、肩にかかったシゼの手にぐいと引き戻され、イーツェンの体は半回転してシゼの上にのっていた。
さっさと逃げ出そうとしたが、起き上がろうとする腰の後ろを手で押さえられてじたばたともがいた。別にそこまでして逃げ出さなくてもいいのだが、何となく意地になる。だが宙を蹴った足に毛布がもつれ、逃げようとすればするだけ自由が利かなくなるのがわかって、イーツェンは思わず笑った。すぐ下のシゼが困ったような顔をしているのが、また何だかおかしい。
2人でもつれているうちに、体がごろりと半回転して、気付いた時にはシゼに組みしかれていた。シゼの右手がイーツェンの頭の横に置かれ、イーツェンの両足をまたいだシゼの膝が、毛布ごしに体を押さえている。それらと、イーツェンにかぶさるシゼの体の重み──手と膝で軽減しているが──が、イーツェンを寝台に縫いとめていた。
イーツェンはまばたきして、シゼを見上げた。たまたまとは言え、シゼがこんなふうにイーツェンの体の自由を支配する体勢になったことは、これまで1度もない。
反射的な恐怖がこみあげてくるのを待ったが、イーツェンの体はゆったりと力が抜けたまま、呼吸もごく自然なままだった。背中にも、いつも以上の痛みはない。
シゼは唇を結んで、眉のあたりに考え深げな影を溜め、じっとイーツェンの表情を見おろしている。少しでも緊張を感じとればすぐに引くのだろう。
ゆっくりと息を吸ったイーツェンは、シゼが同じように息を吸うのを見ていた。あわさった体から、呼吸の動きを感じる。
すぐ上にあるシゼの体が、呼吸ごとにその重さを変えていくようだった。イーツェンの体が呼吸で動く、その微細な動きを追うようにシゼの体が息で動く。まるで応えるような、その呼吸のひとつずつが、互いの体の中に染み入っていくようだった。
シゼの肩から毛布が半分落ちて、肌は夜気にひやされていたが、全身に流れる血の温度はふっと上がる。あたたかく強靭な体が自分の真上で呼吸をしているのを感じながら、イーツェンは体からさらに力を抜いた。
シゼといると、時おり、こうして息をしたり肌のぬくもりを感じることが、まるで奇跡のように思えた。呼吸、鼓動。シゼの体も、自分の体も、はっきりと生きて息づいているのを感じる──どうしてそんな当然のことが不思議に思えるのかは、わからない。
その感覚にぼんやりと浸っていると、頬に息がかかって、顔を近づけたシゼと視線が合った。探るような視線が許しを求めているのがわかったので、イーツェンは微笑して、右腕を持ち上げ、シゼの背中に回した。シゼの息がかかって思わずひらいた唇にあたたかな感触がかぶさり、2人は互いの息を分けあうようにおだやかなくちづけを重ねていた。
イーツェンは目をとじ、唇の内側にくぐもるシゼの息を吸い、入りこんできた舌に自分の舌を絡めた。弄うような動きをくり返すと、潤むようなぬくもりが、指先までしみとおっていく。
シゼの体が重みを増した。体重を支えていた膝をゆるめたのだろう。2人分の重みが動いて、寝台がたてる小さなきしみを、イーツェンはぼんやりとした意識のすみで聞いていた。
額にシゼの前髪がふれて、少しくすぐったい。シゼの舌に口腔をざらりと擦られると背すじに痺れが走ったが、2人の間にあるものはおだやかで、イーツェンの体はゆったりと弛緩しきっていた。昂揚と安堵感が同時に押しよせてきて、心が言いようもなく軽い。シゼの腕の中ほど安全な場所は、どこにもなかった。
呼吸を求めてシゼが顔を上げ、間近から、ほとんど額を合わせるようにイーツェンをのぞきこむ。低い声は少しかすれていた。
「とにかく約束して下さい。あなたは1人でもリグを目指すと」
「嫌だ」
ぼんやりとしたまま、イーツェンはほとんど反射的に答える。右手を上げて、シゼの顎から頬へと、今は少し険しい線を指の腹でなぞった。
「一緒だ、シゼ。そうでなければどこにも行かない。それに今度は離れたりするわけじゃない。同じ船に乗るだろ」
目をほそめてイーツェンを見おろしたまま、シゼは何も言わなかったが、やわらいだ目元を微笑がかすめた。首を振って、シゼは身を起こすと、イーツェンがしがみつこうとした毛布を容赦なくはぎ取った。
抗議しようとしたイーツェンの耳に、朝の一番鐘が聞こえてくる。思わず笑って手近にあるシゼの足を叩くと、起き上がったイーツェンは着替えに手をのばした。
港の中にある船役場に入ろうとしたイーツェンたちを、背後からジャスケが呼びとめた。2人を建物の中へ引っ張っていくと、交渉台をはさんで紙をばさりと台に載せ、のっけからシゼに署名するよう要求する。
その紙を、イーツェンは首をのばしてのぞきこんだ。シゼが字を読めない──少しは読めるのだが──のがジャスケにばれようがどうだろうが、中身をきっちり確認していない書類に署名させる気はかけらもない。
書面の中身は船員としての契約で、ポルトリまでの片道であること、驚くほど少ない賃金、1日1食は支給されることなどの条件が記してある。5日に1杯の酒、と細かに記された内容にイーツェンはまばたきした。
待遇の悪さを除けば普通の契約に見えるものの、気になる点は、怪我や「それにともなうあらゆる結果」に対する船長と船主の免責と、天候や風向き次第で航路を変える可能性が書かれている部分だったが、これを抜けとは言えないだろう。それでもひとまずジャスケに確認し、形式的な文だという返事だけをもらって、イーツェンはシゼに目でうなずいた。
シゼは台の横に立ててある羽根ペンをとり、インクをつけて署名をする。偽名でのもっともらしい署名の書き方は、イーツェンが教えてあった。名前の書き方ひとつで値踏みされることもある。
「では」
署名した紙を手にしてひらひらとインクを乾かしながら、ジャスケは白い歯を見せてニッと笑った。今日の彼はいかにも裕福な商人らしい毛皮の縁つきのふっくらとした上着にふくらんだズボン、背中の途中までしかない丈の短いマントをまとって、腰に巻いた幅広の革帯にはフェゼリス家の紋の焼き印があった。あの家とジャスケの関係もまた、イーツェンにはよくわからない。家の紋章をまとわせるとは、ただ取引相手の商人というだけではないのだろうか。
「フェゼリス家の紋をつけていくんですか」
周囲に人が少なくて声が届かないのをいいことに、イーツェンは無躾にジャスケへたずねた。正体こそ知られていない──いない筈だ──が、ジャスケはイーツェンがただの奴隷ではないことは知っている。今さら非礼をとがめはすまい。
ジャスケは愛想よく微笑んだが、いつものごとく目は笑っていなかった。
「特使としての委任を受けておりましてなあ。名家の紋をつけるというのは実に重いものですよ」
大仰な溜息をついた口調は丁寧だが、まとわりつく慇懃さがこちらを小馬鹿にしている気もする。イーツェンは変におかしくなってきて、笑いを噛み殺した。薄気味悪く、いけ好かない男だが、もしかしたらあまり嫌いではない気もする。
「船は出るか」
と、不意にそれまで黙っていたシゼが口をはさんだ。ジャスケがうなずく。
「もう最後の水樽を運んでおりますよ。参りますかな」
契約書をくるくると巻いて腰の後ろの袋に差し入れ、先に立って歩き出すジャスケの背中で、シゼとイーツェンは視線を交わしてから彼を追った。
「風もまあまあ、午後の潮にのって船を出しますそうで」
のんびりと言って、ジャスケは港の埠頭を一望できる場所に立ちどまり、シゼに向かって埠頭の先をさした。埠頭の中ほどに柱が立ち、高い腕木に取り付けられた滑車にロープを通して、荷を吊り上げられるようになっている。今は荷夫や水夫たちが回し車に取りついてロープを繰りこみ、重そうな水樽を宙に吊って荷船に積みこんでいた。
「あそこへ行って、人足頭に仕事をもらっていただけますかな」
荷を肩にかついでそちらへ向かおうとしたシゼを、ジャスケは何気ない様子で呼びとめる。
「ああ、その前に剣をお預かりしましょう」
シゼだけでなく、イーツェンまでもが凍りついた。ジャスケは当然のような顔をして、唇の横にくぼみを作る。
「長剣を吊っている水夫や荷夫などおりませんよ。仕事には邪魔なだけですし、目を離せばあっという間に盗まれるのがおちでしょうなあ」
「私が──」
預かる、と言いかけた小さな声を、イーツェンは呑みこんだ。奴隷には、船乗り以上に長剣はそぐわない。だがシゼが大事に身のそばに置きつづけた剣をジャスケに渡すのは、嫌でたまらなかった。
つい救いを求めるように向けた視線の先で、シゼはむっつりと唇を引き結んでいたが、決断は速かった。剣帯から鞘を外して、ジャスケへ無造作にぽんと剣を放る。ジャスケが両腕でかかえるように大仰な動きで受けとめた。
あっけにとられてただ見つめるイーツェンへ、シゼは最後の一瞥を投げ、大股に埠頭の先へ歩いていく。剣のない剣帯だけが不釣り合いに重そうに見えたが、後ろ姿はたちまち荷運びの列にまぎれた。
──離れると悪いことがおきる気がする。
今朝のシゼの言葉が不意に頭のすみをよぎって、海風のせいだけでなくイーツェンは身震いした。言われた時はかるく流したが、こうしてシゼと離れるとひどく心もとない。体から何かがはぎ取られて、己の弱い部分が剥き出しになっているようだ。
息を呑みこみ、イーツェンはジャスケへ顔を向ける。できるだけ平静を装おうとしたが、ジャスケの細い目はイーツェンの中にあるものなど見通しているようでもあった。
イーツェンはジャスケのかかえた剣へ両腕をのばし、ことさらに丁寧な口調をつくろう。
「お持ちいたしましょう」
ジャスケは眉を上げたが、イーツェンへシゼの剣を渡して、大事に胸の前へかかえ持つイーツェンを見ていた。イーツェンは従順に目を伏せて奴隷らしい仕種を見せながら、低い声でたずねる。
「後で受け取りを書いてもらえますか」
視界のはじでジャスケは妙に上機嫌な笑みを浮かべ、イーツェンの要求に返事をしないまま、短いマントを翻して別の埠頭へと歩き出した。イーツェンが──奴隷が──後をついて来ることを疑わない足取りで。そして勿論、イーツェンは前を行く毛皮のブーツを従順に追ったのだった。
埠頭の小船には2人の若い水夫が乗りこんでいた。彼らが片足を船に、片足を船着き場に置いて船が揺れないよう踏んばる間に、ジャスケが慣れた様子で埠頭から船へ1歩で乗り移る。
イーツェンもジャスケに続こうとしたが、船を支えていた2人はさっさと足を船の中に戻し、片方はもやい綱に、片方は長い櫂に手をのばしていた。
揺れる船と船着き場の間には、大股でまたぐほどの隙間があり、冷たい波が船の腹を叩いている。渡し板もなければ誰かが手を貸してくれる様子もなく、イーツェンはたじろいだが、さっさと船を出そうとしている男たちの様子に焦って、船着き場のはじに足をかけ、思いきって跳んだ。
勢いがつきすぎていて、着地とともに船が揺れたが、どうにか肩にかついだ荷物や剣ごと船の中へ転がりこんだ。ジャスケは積みこんである荷の間に体を落ちつけ、剣をかかえたままイーツェンもそれにならった。
船は、イーツェンたちが川で乗ったような底の平らな舟ではなく、胴が丸く底の深い船で、上げ底の船板があちこち外され、荷が船底から積まれていた。
もやいを解いた水夫が船着き場を蹴って船を海に向け、舵を抱えこむように船首へ座りこんだ。船のやや後ろ寄りに座ったもう1人の水夫は、長い櫂を両舷の軸受けにはめこみ、ゆっくりと漕ぎはじめる。船首に背を向け、たわめた上体をしなやかにのばしながら櫂を引いては、水面から斜めに櫂を抜き、波に滴を振り落としながら始めの位置へ戻す。
なめらかな動きに、イーツェンは感嘆した。漕ぎ手の水夫はそれほどたくましくは見えないが、動きに力強さが満ちている。肌は濃い蜜色で、イーツェンと同じように生まれによる色なのか、それとも船仕事で灼けたのかはわからない。赤みのまじった栗毛を首の後ろで無造作にくくって、あちこちほつれてくたびれた粗末な服を着ていた。
行く手に背中を向けたまま、リズムを崩すことなく船を漕ぎつづける。足を船板の横木に踏んばり、ぐっと櫂を引くと、首すじから肩にかけての筋肉が盛り上がるのがゆるい襟元から見えた。海風が冷たいというのに、男の額にはふつふつと汗の珠が浮きはじめていた。
見事な動きを、魅了されたように見入っていたイーツェンは、船が波の山に押し上げられて我に返った。体がぐらりと揺れ、小さな悲鳴が口からこぼれる前にぎりぎり噛み殺す。船を通じてつたわってくる波のうねりは、川船に乗っていた時とはまるで違うもので、ゆさりと底から体を上下に揺すぶり、どこかへ抜けていく。
ほっと一息ついたと思ったら、また波の上に船が持ち上がって、船体が傾いた。船板の横木を指の関節が白くなるほど握りしめ、イーツェンはあっという間に人の顔が判別できないほど港と離れていることに驚いた。
また船の下をうねりが抜ける。海を眺めれば至っておだやかに見えるのに、近づいてくる波はひどく凶暴な動きをしていた。もっとも、そう感じて船にしがみつこうとしているのはどう見てもイーツェンひとりだけで、残りは皆平然としていたのだったが。
うねりが体を上下させ、イーツェンは顔をしかめた。体が揺すられた後、1拍遅れて内臓が追いかけていくようで、腹の底が何とも落ちつかない。シゼの剣を左手で抱えこみ、イーツェンは内心の動揺を見せまいと、剣の鞘を握る手に力をこめた。
余裕がなかったせいで、沖に停泊している帆船に近づいたことになかなか気付かなかった。目を上げた時には巨大な船が水面からそびえているのが間近に見え、イーツェンは息を呑む。まだ少し距離が残るにもかかわらず、船の威容はイーツェンの上にのしかかってくるようだった。
曲げ木を細長いうろこのようにびっしりと重ね合わせた船体は黒っぽいタールが塗られて、波に洗われる部分はつやつやと光っていた。甲板は層になっているのか、近づくと、船の中央の舷側が1段低くなっているのがわかる。赤と黒で塗られた手すりの少し下にはたくさんの木の装具が取り付けられていて、それぞれ丸い車のような物からロープが上に向かってぴんとのびていた。
そのロープは、イーツェンが見上げた空までまっすぐ張られ、高くそびえ立つ帆柱と帆桁に絡みつき、滑車をくぐって、複雑に張り渡されていた。
帆柱の途方もない高さを見て、イーツェンは乾いた喉に唾を呑みこんだ。帆柱は全部で3本そびえ立ち、上下に2枚ずつの帆が、長い帆桁で取り付けられている。今は帆はたたまれているが、すべての帆柱に大きく帆が張られて風がみなぎったら一体どんな光景になるのか、想像もつかない。そしてその帆が受けとめる風の力で、これほどに大きな船が海を渡るということに、胸がどうしようもなくざわついた。
これは、まるで翼だ。海を渡るための。
髪が湿った海風をはらんで散り、イーツェンはこめかみから髪の筋を払いのけて、大きな目で近づく船を見上げていた。
帆柱の上に動く物を見つけて目を凝らす。甲板からはるかに離れた高みを人が自在に動き回っているのが見えて、また驚いた。船乗りというのも凄いものだと感心する。
小船は帆船の左舷側に寄り、漕ぎ手が片方の櫂だけを水から抜きながら船を回すと、海に櫂を立てて、見事に帆船の脇に船をとめた。櫂を持ち上げ、数回、規則正しく帆船の胴を叩く。
手すりの向こうから誰かの頭がのぞいて、間を置かず、縄ばしごの塊が宙を踊りながら落ちてきた。櫂を操る水夫がふれそうなほどぴたりと帆船の脇へ寄せると、舵を取っていた男が縄ばしごを取った。
ジャスケが立ち上がると、イーツェンに手で合図をして縄ばしごをつかみ、小太りの体には似つかわしくない軽やかな動きでひょいひょいと舷側をのぼっていった。
イーツェンは慌てて荷物を右肩に担ぎ、シゼの長剣をかかえて立ち上がったところで途方に暮れた。
荷物か剣のどちらかだけなら何とかなりそうだが、両方持って縄ばしごを上までのぼれる自信がない。片方の腕が完全に利かなくなる。剣帯がなくては剣を吊ることも出来ないし、イーツェンの布帯では、落ちないよう鞘をさしこむのも無理だ。
荷物の中にどうにか剣を入れようかと、あたふたと荷をおろしかかった時、後ろから聞き慣れない、どこか甘い響きのある声がした。
「持ってやる」
驚くイーツェンに、櫂を濃いでいた水夫がにっと歯を見せて笑った。前歯の片方が欠けている。顎が鋭いので横顔が大人っぽいが、近くでまっすぐ向き合うとイーツェンとそう変わらない年のようで──下手をすると年下かもしれない──人なつっこい笑みを浮かべて頭半分上からイーツェンをのぞきこんでいた。
それにしてもひどい訛りで、聞いた言葉が正しいのかどうか当惑して、イーツェンはその場に立ち尽くした。胸元にかかえた剣に手がのびてきて、反射的にかばうようにかかえこむ。
「これは──」
「両方持ってのぼれねえだろ、あんたらオカモノはさ」
オカモノ? と返しそうになって、陸の人間を呼ぶ水夫言葉らしいと気付いた。それを言った男の声や瞳は明るく、笑ってはいたが、イーツェンを馬鹿にしている風ではなかった。
イーツェンが奴隷だというのは首の輪で一目でわかるだろうが、その奴隷の荷物を持とうというのだろうか。イーツェンは驚きを隠して相手の水夫を見つめ、うなずくと、肩から外した荷物を手渡した。
「これをお願いできますか」
「あんた、訛ってんなあ」
呆れられて、つい笑いそうになった。思うことはお互い同じだ。
船の上から誰かが早口で怒鳴った。水夫は上を向いて怒鳴り返し、軽々とイーツェンの荷をかつぐと、ぽんと船を蹴ってまるで猿のように身軽に縄ばしごに取りついた。そのままするするとのぼっていく。
イーツェンは唾を呑みこんで、小船の舷側に立った。押しよせた波が帆船の腹にぶつかって打ち返され、小船は時おり大きく横揺れして、波に濡れた船のふちに足をかけたらつるりと滑りそうだ。
「裸足でのぼりな!」
上から声がふってきた。すでにほとんど縄ばしごをのぼりかかった位置で、水夫が片手を離してイーツェンを見おろしている。
イーツェンは急いで脱いだ靴のひもを結び合わせ、肩の前後にかけた。裸足になると足の裏がじんと痛むほど冷たいが、たしかに靴裏よりずっとすべりにくい。左手にしっかりかかえた剣を確かめてから右手をのばし、縄ばしごの縄をつかんだ。波の揺れにあわせて大きく足をのばし、縄ばしごの段を足の裏でとらえる。ざらついた麻縄が足裏の皮膚をちくちくと刺した。
思いきって船を蹴ると、勢いがついて縄ばしごごと帆船の船腹にドンとぶつかり、衝撃をこらえてイーツェンは両手で縄にしがみついた。目の下に渦巻く波が見え、腹の底が恐怖によじれる。足の下に何もない。海がぽっかりと口をあけているだけだ。
船体によせる波がぴちゃぴちゃとはねる音が、下からイーツェンめがけて這いのぼってくる気がした。不安定な縄ばしごが左右によじれる。
息を呑みこんで、イーツェンは右手で縦の縄を握り、重心を安定させながら縄ばしごをのぼりはじめた。体重のかかった場所が大きくたわんで縄が足にくいこみ、体がはしごごとくるりと回りそうになる。
縄で横木をくくったはしごならリグで慣れている。雪で入り口が閉ざされた建物から、よくはしごで新雪の上におりたものだ。気さえ落ちつけば、これも同じようなものだろう。
下が冷たい海であることを無視しようとしながら、イーツェンは右手で体を引き上げ、剣をかかえた左手で目の前の縄をつかみ、また右手を上にのばした。ぎこちないのぼり方だが、剣を持っていなくとも、イーツェンの左腕は真上にはのびない。無理な力をかけて肩を痛めないようにしようとしたが、筋肉が体の内側で引きつれるのがわかった。
無駄に速度をあげず、ずしりとした剣をしっかりかかえたまま、ひとつずつ縄の段をのぼった。縄の繊維が刺さった手の平は汗ばんでいる。
「よし、よし、その調子」
さっきの甘い声が上から彼を励ましている。その声が段々近くなって、仰いだイーツェンの目の前に手すりから顔をつき出したあの水夫がいた。欠けた歯を見せてニヤッと笑うと、手をのばしてイーツェンの襟首後ろをつかみ、手すりごしに力まかせに引きずり上げる。
手すりをつかんで体を前にのめらせ、かかえられながら、イーツェンはほとんど甲板へ転がり落ちた。荒い息を整えながら立ち上がって、イーツェンは水夫に礼を言った。
「ありがとうございます」
「大事な剣かい」
イーツェンへ荷物を手渡しながら、水夫はちらっとシゼの剣へ目をやる。イーツェンが運びづらい剣をまかせようとしなかったことを言っているのだろう。
「預かり物なので」
目を伏せて慎重に答え、イーツェンは視界のすみにジャスケの手招きをとらえた。甲板に上がってみると思ったほどに横幅は広くないが、とにかく船上は人の数が多く、至る所にロープがとぐろを巻いていて、数人の男たちが歩き回りながら怒鳴り立てては船乗りたちを忙しく働かせている。
もう1度礼を言おうかと顔を向けた時には、水夫はすでに大きな巻き上げ機の回し車に取りついて、数人で声を合わせてロープを巻きはじめていた。帆桁の滑車に通したロープで、船に荷物を引き上げているようだ。
ぼやぼやしてはいられないと、イーツェンは荷をかついで早足に甲板を歩き出した。船乗りたちの大半は裸足で、踏み出したイーツェンの足裏も湿った甲板を直に踏む。雨でもなければ波も高くないのに何故甲板が湿っているのか不思議に思いつつ、そばを走り抜けていく誰かをすんでのところでよけた。皆が忙しそうで、イーツェンの存在はいかにも邪魔だ。
めまいのようなものを感じながら歩いていたが、どうも船そのものが揺れているのだと気付いたのは、ジャスケのそばまで寄った時だった。川船の揺れには慣れていたが、こんな大きな船が左右にうっすら揺れているというのがまた何だか恐ろしい。
ジャスケはイーツェンが近づくと、さっさと踵を返して歩き出した。その足元はイーツェンなどより余程確かだ。
下から見た時にも気付いたことだが、船の前後の甲板が、まるで甲板の一部を平屋根で覆ったように高くなっていた。その上でも男たちが忙しく立ち働いている。船尾へ歩みよったジャスケは、その高甲板の下へ入っていくあけっぱなしの扉をくぐった。イーツェンも続く。
甲板の内側は、左右が狭い部屋に区切られた細い通路だった。壁ではなく帆布を張って分けられているようだ。とにかく狭い。船室ということか、寝床のように毛布がひろげてある場所もある。その区画のひとつに、階下へはしごでおりていく昇降口があった。
木のはしごを降りて甲板の下へ進むジャスケを、イーツェンはぴたりと追う。狭い船内はあちこちから聞こえる声や頭上からの船員の怒鳴り声が反響し、薄暗く、小さな窓からの光だけでは足元がおぼつかない。
船の内側もあちこち帆布や隔壁で区切られ、天井や壁から大量の道具やロープの切れ端のようなものが下がっていたりして、何ともせせこましい。太い丸柱が天井から床まで貫いていて、そのそばを通ったイーツェンは、わずかに斜めにきしむその柱が帆柱の根元であることに気付いて驚いた。その横を抜け、ジャスケは1番奥のつきあたりにある扉を叩いた。
「失礼いたします」
慇懃に言って、押しあける。木の扉だが、船内の狭い作りに合わせて小さく、イーツェンは首をすぼめるようにしてジャスケに続いた。
「返事をしてから入れ」
ぴしゃりと上から叩きつけるような叱咤がとんできて、たじろいだ瞬間、奥の椅子に腰かけた人物と目が合っていた。
端麗な青年だった。どことなく線が細いが、今は怒りのために鼻筋から口元にかけてくっきりときつい陰影が浮いている。細い眉を吊り上げてジャスケをにらむ顔には怒り以外の表情が乏しく、そのせいか、どこか生気に欠けて見えた。
肌の色はイーツェンよりも浅く、ルスタの住人に多い、やわらかな蜜色だった。首の後ろで布に編み込んできっちりとまとめた黒髪を背に垂らしている。丁寧に仕立てられた黒い高襟の上着をまとい、上着のふちには細い毛皮がかがりつけられていた。胴には幅の広い布の飾り帯を巻いていて、その上品な白さが薄暗い船室でも目を引く。両耳に2つずつ色の違う輪を下げているが、身の飾りはそれだけで、上等そうないでたちと飾り気のなさがそぐわなかった。ルスタの人間は何かと色石を身に付けるものだが。
船乗りではありえない。しかし貴族にしては格好が地味だ。それとも旅姿だとこんなものだろうか、と相手を値踏みしていたイーツェンは、まっすぐににらみつけられて慌てて目を伏せた。
腕組みした青年の、自分の腕にくいこむ指の関節が、力が入って白くなっているのが見えた。
「これは誰だ」
とがった声を向けられ、自己紹介したものかと迷う。奴隷制度のないこの国で己がどう振る舞うべきか、イーツェンにはわからない。わからないことばかりだ。異国にいるのだから当然ではあるが。とにかく害の少ない道を探すしかなく、大抵は黙って様子を見ることになる。
「リオンと申しましてな」
ジャスケがかわりに答えてくれて、認めたくはないがほっとした。
「リオン」
じっと、肌の1枚下を見透かすように青年はイーツェンを見つめて、低い声で呟く。どうするべきか迷ったまま、イーツェンは頭を低くして床を見た。それはジノンが旅の書類を作る時に勝手に決めたイーツェンの偽名だが、旅の間ほとんど呼ばれることもなかったので、こうして正面きって言われると違和感があった。
「部屋付きを1人つけると申したでしょう」
ジャスケの話し方はイーツェンやシゼに対するものと変わらず、この男が青年を上に見ているのか下に見ているのか、それすら伝わってこない。誰に対してもこうなのだろうか。
「首に紐を付けずとも海にとびこみやしないぞ」
物騒なことを刺々しい口調で言い返して、青年はジャスケを冷たい目でにらむように見つめた。不穏な空気の中で、イーツェンはシゼの剣をかかえたまま立ち尽くす。
面倒な航海になりそうだった。