扉の隙間から、廊下に灯りが漏れ落ちている。ささくれだった廊下の床板を見ながら、イーツェンは唾を呑みこんだ。
出て行く時に部屋の灯はすべて落としたから、灯りがついているということは、シゼが先に戻っているということだ。
どうせ隠し通すつもりのないことだった。シゼがイーツェンの不在に気付こうが気付くまいが、イーツェンは話すつもりでいた。いたが。
喉元まで苦い後ろめたさがこみあげてくる。子供の頃、干した果物の見張り中に眠ってしまい、見事にカラスに食い荒らされた時の切迫した気持ちがよみがえった。少なくとも今回は自分で意図的に招いたことだが、それがいいのか悪いのか、判断がつかない。
頭をひとつ振って、イーツェンは階段の1番上の段をきしませ、3階の廊下に踏み出した。途端に部屋の扉が勢いよくあいて、イーツェンの心臓を縮み上がらせる。
シゼが薄暗い逆光の中でイーツェンをまっすぐ見ていた。表情まではわからない。イーツェンはなるべく普通の足取りで歩みよった。
「早かったな」
シゼは無言でイーツェンを見ていたが、彼が近づくと体をあけて部屋へ通し、イーツェンの背後で扉をしめた。イーツェンはマントの留め紐を外して、すっかり夜気に湿っぽく冷えたマントを肩から落とす。シゼの無言に、頬や首すじがひりつくようだった。
「何か目ぼしい話はあったか?」
そう言いながら寝台の上に放り出されている帳面を取り上げて、木箱の上に置く。出かけるから心配するな、と記した書き付けを、シゼはちゃんと読んだらしい。
背後で空気が動き、シゼがすぐそばに立ったのが気配でわかった。
寒いのに、体中は何故か汗ばむようだ。息をつき、イーツェンは振り向いてシゼと向き合うと、踵をしっかり床に据えて背をのばした。自分なりの考えを持ってやったことで、そこはゆずりたくなかった。
「何で黙ってる?」
いや、これはちがう。この言い方はまずい。イーツェンは自分の口調に肝を冷やし、やわらげようとすぐにつけ足した。
「言わずに出かけたのは悪かった」
シゼは、呼吸の数が聞きとれそうなほど近くに立ち、口を結んだままイーツェンの顔を眺めていた。口元は厳しく、かすかに左目が細くなって、眉の間にも険しい張りがある。肩に力は入っていないが、目のふちにきつい緊張があった。つい、イーツェンの口調は言い訳がましくなる。
「フェゼリス家の紋章が、ジャスケを迎えに来た馬車についていた。だから役宅までたしかめに行ってきたんだ」
「ジャスケ」
低い声で、こわばったおうむ返しにする。シゼの目の中にするどい光がはしって、イーツェンの答える声は固くなった。
「彼があの家と関係あるのなら、もしかしたら船に近づく手づるになるかもしれない」
「1人で行ったんですか」
今度こそ、その声にはイーツェンの背を冷やす威圧的なひびきがあった。イーツェンは唇を引く。悪いとも思っていたし、シゼの態度が心配の裏返しなのもわかっていたが、同時に苛立ちがこみあげてくるのをとめられなかった。何も、そんなに押さえつけるような物言いをしなくてもよさそうなものだ。
「悪いか」
「何かあったらどうする気なんです。あの男がどれだけ危険かあなたはわかっている筈だ」
「だから1人で行ったんだ」
言い返しながら、イーツェンは大きくなってきた声をどうにか低めた。この階に他の泊まり客はいないが、宿の者に聞きとがめられでもしたらまずい。
「1人なら、ジャスケはこの間のように私たちのどちらかを脅しの材料には使えない。私を無事に帰さなければ、お前が動くと思って用心もするだろう。2人で行くより話しやすい筈だ」
「それは──」
言いかけて、シゼは苛立った手を髪の間にさしこみ、イーツェンをにらんだ。
「あなたは物事のい面ばかりを見ようとしている。ジャスケはあの時のように、あなたを殺して運河に沈めることもできた」
「お前が悪い面ばかり見てるんだ」
誰もジャスケの正体を知らない旅路の途中ならともかく、客分として滞在している貴族の家で、取るに足らない奴隷を殺しにかかるとは、イーツェンには思えない。ジャスケにとって危険ばかりが大きすぎる。甘く見ているつもりはないが、シゼの言うことは大げさにすぎるように感じられた。
「何かあってからでは遅い、イーツェン」
「でも何もしなかったら手遅れになるんだ。シゼ、わからないのか? 思ったより船がなくなるのが早い。酒場でもいい話は得られなかっただろう?」
これはシゼの痛いところを突いたようで、不機嫌な沈黙がイーツェンの問いをはね返した。ぎこちない沈黙が落ちる。内心地団駄を踏みたい衝動をぐっとこらえ、イーツェンは額を指の背でこすった。
「危険だからと言って避けてはいられない。わかるだろ」
「あなたはわかっていない」
つっぱねるように言い返して、シゼは両腕でイーツェンの肩をつかんだ。驚くほど強い手だった。イーツェンの体が反射的にこわばるのも構わず、シゼは間近に顔をよせてひとつずつ押し出すように、揺らぐ言葉を吐いた。
「何もわかってない」
強い力と視線に抑えられて、イーツェンは身じろぎもできなかった。シゼが何を言おうとしているのかわからないまま、そこにある怒りと失望だけが耳にひびく。肌がかっと熱くなった。
心を揺らす怒りや罪悪感が、煮えたぎったまま体の中にとじこめられてしまったようで、喉がつまる。動こうとしたが、シゼの手はイーツェンの肩をくいこむほど強くつかんでいた。自由を奪われることへの反射的な恐怖がつき上がり、心が裏返ったようで、一瞬何も考えられない。
歯を食いしばって、イーツェンは引きはがすように視線を反らす。声が震えないように押さえつけたが、自分の耳にも言葉は弱々しかった。その弱さがまたイーツェンの怒りを、深いところでかきおこす。何故いつも。
「手を離せ、シゼ」
「‥‥‥」
「離せ」
呻くような声でつっぱねると、シゼはイーツェンが崩れるのを恐れるようにゆっくりと肩から手を浮かせ、両腕を脇に垂らした。その顔は薄い灯火の下でも青ざめて見える。
イーツェンは何かを言おうとして、言葉が出ないまま、膝に手を置くと、身を前に丸めるように寝台に腰をおろした。
膝に乗せた手が小さく震えていた。シゼの顔を見ることができずに汚れた床に視線を据え、散らばっている藁くずを見つめる。自分がどんな表情をしているかわからない。シゼの目は、イーツェンの中の混乱を貫いて底にあるものを深く見通しそうで、それに耐えられる気がしなかった。頭に血がのぼって、冷静になれない。多分、お互いにそうだ。
沈黙の固さに肌がひりつく。シゼの靴先が左右に動いたが、彼はその場に立ったままだった。
イーツェンはこわばった眉間に指先を当て、目をとじる。1日の疲労と緊張で頭痛がした。
「ジャスケはいなかった」
なるべく感情をこめないようにして言った。
「フェゼリス家の若殿と狩りに行っていて、明日帰るそうだ。明日‥‥」
会いに行く、と言おうとして、イーツェンは言葉を切り、目をあけ、シゼを見上げた。たよりない油燭の灯りに部屋は薄暗く、シゼがどんな表情をしているのか、イーツェンの望むほどには見えなかった。
「明日、どうするか決めよう、シゼ」
暗い部屋に沈むように立つシゼの輪郭は、揺らがなかった。
それでも数呼吸置いて、シゼはうなずく。疲労が全身の血を鉛のように重くしているのを感じながら、イーツェンもうなずき返した。彼らの間にたちこめる沈黙は息苦しいほどに濃密だった。
シゼに説明しようと思っていたこと、言わなければならないと思っていた筈のことが何も出てこない。ここで何か言わなければ手遅れになる気もしたし、口をひらけば何かまちがったことを言ってしまいそうな怖さもある。
イーツェンは視線を切って下を向き、冷えきった足から靴をはがすように脱いだ。右の親指がずきりと痛んだ。ユクィルスの牢にいた間にろくな食事をとらなかったせいか、足の爪が少し変形してしまったのだが、近ごろそれが痛み出して、指の内側がうずく。
足の親指を軽くもみほぐして、イーツェンはシゼの方を見ないまま、毛布の中にもぐりこんだ。
固い木の寝台になけなしの藁を敷いただけの寝台は寝心地のいいものではないが、それでも旅路の途中のように道ばたで寝るよりはるかにましだ。だが、今日はのばした手足が冷たく、指先にまでひりひりとした感情が満ちて、眠りに落ちるのにひどく苦労した。心が不安定な塊を呑んだようで、気持ちがぐらぐらと左右に揺れる。
それでも結局は疲労が勝り、どうにか眠りに落ちた。──と感じた次の刹那、イーツェンは息が苦しくなって目をあけた。
闇を払おうとするように目をしばたたく。だが灯りひとつない部屋は塗りつぶされたように暗く、イーツェンは自分がどこにいるのか集中して思い出さねばならなかった。目を一瞬とじたくらいの感覚しかないが、少しの間、眠っていたようだ。
毛布の中で足を動かすと、目の前の壁につきあたった。背中でシゼの息づかいを聞きながら、イーツェンは無意識のうちに息をつめていた。
2人で離れて眠れるほど広い寝床ではない。いつものように互いに身を添わせ、背中にシゼのぬくもりを感じていたが、そのことは今日はイーツェンの気持ちをあたためなかった。体中がひえびえとしている。眠った筈なのに、きつい緊張と疲労に、指先までが固い。
ぼんやりと闇に視線を這わせながら、イーツェンは昨夜のことは一体何だったのだろうと思った。シゼが怒ることも、反対することも、はじめからわかっていた筈だ。実際、イーツェンはもう少しうまく説明できるつもりでいた。なのに何故、あんな風にしか言えなかったのだろう。
あれほど心をかき乱した怒りが消えてみると、すべてのことが馬鹿馬鹿しい。自分の怒り、シゼの頑固な反応、それに対するイーツェンの態度。
考えれば考えるほど、わずかに残っていた怒りも、気力も、どこかから抜けていくようだった。そもそもどうして自分が怒ったのか、イーツェンにははっきりとした答えがない。子供の頃から思い返してみても、彼はあまり人に面と向かって怒ったことがなかった。そもそも誰かと、今のシゼほど深く近づいたことがあるだろうか。
溜息をついて、イーツェンはまた目をとじた。
「シゼ。‥‥ごめん」
ぽつりと闇に言葉を落として、毛布の下で身を丸める。シゼが眠っていないことはわかっていた。イーツェンが目を覚ました気配で起きたのかもしれないし、はじめから眠っていないのかもしれない。そのあたりを考えるとまた罪悪感にさいなまれそうで、イーツェンはまとめて頭のすみに押しやった。とにかく全部、考えるのは、陽が出てから。明るいところにいる時だ。
背後で毛布が動いて、イーツェンの腰骨の上にシゼの腕がのった。ほんのわずか、互いの間にあった隙間が埋められてはじめて、イーツェンはそこにあった隔たりの大きさに気付く。
その隙間をうめ、シゼは背中からイーツェンの体にゆるやかに腕を回すと、彼の首すじにあたたかな溜息がくぐもった。長い息を、シゼは吐き出す。
「いや。私も‥‥すまなかった」
押し出すような響きに、イーツェンは目をとじたまま微笑した。混乱していたのは彼だけではないのかもしれない。シゼの声は低く抑えられていたが、そこには彼らしくない困惑が聞きとれた。
「あなたが私に言おうとしなかった理由はわかる、イーツェン。すまない。だが‥‥やはり危険だ。言わずに行くのは、本当に‥‥」
声が途切れて、イーツェンの右腕の上から体に回されたシゼの腕に、緊張がこもる。イーツェンは目をとじ、自分の足にふれるシゼの足の強靭さを感じながら、呟いた。
「わかっている。もうしない。だけど、お前も私の話を聞いてくれなくては駄目だ、シゼ」
「──」
「私はお前に話す、お前は私の話を聞く。それから、私はお前の話を聞く。どうだ? のるか?」
なるべく軽く言うと、シゼの体が小さく揺れて、彼が笑ったのがわかった。その笑いが心に澱んでいた塊をほどいて、イーツェンもかすかに笑った。
背後のシゼに体を半分預けるようにして、イーツェンは互いの笑いが肌の内側にひびくのを感じた。シゼが時おり見せる笑みや濃密な感情は、いつもそうやって、イーツェンの肌の下に染みこんでくる。
だからあんなに怒ってしまったのだろうか、とふと思った。昨夜対峙した時、シゼの怒りや失望があまりに強くつたわってきて、イーツェンは反射的に自分をかばおうと反発したのだろうか。
「のった」
シゼの声がイーツェンの耳のすぐ横で囁いた。その声も、そのまま肌の内側にするりと入りこんできそうな気がして、イーツェンの息が喉につまる。
暖を取るためにこうして人とよりそって眠るのは故郷でも珍しいことではなかったが、その時間がこんな風に親密なものであったことは1度もなかった。互いの息づかいが重なり合い、ふれている体がゆるやかな呼吸につれてゆっくりと沈みこむ。
「次は、もっとうまくやろう」
「次やったら怒りますよ」
ぼんやりと呟いたイーツェンに、シゼがムッとしたような声で返事をした。イーツェンは毛布の下で探り当てたシゼの腕をつねる。
「ちがう、うまく話し合おうと言うことだよ。それに、今日だってもう怒ってただろ」
「そうですか?」
本気か、ごまかしているのか、少し眠そうにくぐもった声からはよくわからない。大きなあくびをして、イーツェンは背後のシゼと体の重みを預けあいながら目をとじた。
船の手づるも得られていないし、明日どうするかも解決していない。だが、明日のことは明日考えよう。
そう決めると、もう眠りに引きずりこまれる重さに逆らうことができなかった。
誰かが扉を叩く音に、イーツェンは重い目蓋をあけようとしながら呻いた。眠りから無理に意識を引きはがそうとするが、どうにも全身が言うことをきかない。頭の中が曇っている。
扉を叩く音はやまない。誰だ一体、と忌々しく毛布を押しのけ、冷水をなすりつけられたような寒さに身震いした。目は1度にさめる。
シゼが、扉の前に据えた長箱を動かしているところだった。誰だ、と手振りでたずねてみたが、首を振る。
溜息をつき、イーツェンは火の気のない部屋の寒さに肌が粟立つのをこらえながら、枕元にたたんだシャツをひっつかんで頭からかぶった。誰が来たにせよ、ここは奴隷が出迎えるべきだろう。
靴をつっかけて立ち上がり、髪に1、2度指を通しただけで、イーツェンはシゼにかわって扉の前に立った。シゼは用心深く壁際に体をよせ、左手に持った剣をいつでも抜けるように構えを取っている。
また扉が叩かれ、イーツェンは持ち手をつかんで引いた。相手が部屋の中へ入ってこれない程度の狭さでとめて、早朝の訪問者の顔を確認しようとした彼は、息を呑む。
扉をしめるべきかどうか、一瞬の迷いは、即座に隙間にねじりこまれた片足によって選択の余地を奪われた。
「おはよう」
足首までのたっぷりとした長衣に身をくるみ、首回りに暖かそうな毛皮を巻いたジャスケは、イーツェンの顔を見てにんまりと笑った。
どうするべきかわからずに立ちつくしたイーツェンの肩を、シゼが後ろから引いた。割りこむように前に出て、扉の向こうのジャスケへ静かに問う。
「何か用か」
「ご挨拶ですな。探していると聞いたから、こうして重い身を運んできたと言うのになあ」
相変わらず人を食ったような、そして今は見下すような言い方に、イーツェンは体中の血が凍りついた。シゼへ首を振る。ジャスケをたずねた屋敷では偽名を使ったし、滞在している宿も教えていない。彼がこちらを探し当ててくるなど思いもしなかった。一体どうやってここがわかったのだろう?
愕然としているイーツェンを、シゼが後ろ手に横へ押しやった。ジャスケから見えない方へ。イーツェンがおとなしく従うと、シゼは1歩引き、ジャスケを部屋に入れないまま腕を組んだ。
「ここがどうしてわかった」
「入れてもらえればご説明しますがね」
シゼの目がちらっとイーツェンを見る。イーツェンはまだ考えの収拾がついていなかったが、無言の問いに答えてうなずいた。ジャスケの言うなりにして主導権を握られたくはないが、彼を追い出せば騒ぎになるだろうし、少なくとも部屋の中におさまれば、2体1で対峙できる。それが何かの頼りになるかは別にして。
シゼが小さな吐息をつく、その息が口元に白く曇って、イーツェンはひえびえとした寒さに首をすくめた。木箱の上にきっちりたたんで置かれたマントをつかんでまとい、向き直ると、ジャスケが室内へいかにも堂々と歩み入ってくるところだった。
椅子などない狭い室内で、座るには寝台か物入れの箱しかない。当然のようにシゼはどちらも勧めず、扉横に肩をもたせかけながら足で扉をしめた。退路を断っている。左手にはまだ剣を持っていて、いつでも抜けるよう右手は体の横へ自然に垂らされていた。イーツェンはシゼの左側へ動き、シゼが守れる範囲に入ると、奴隷らしく目を伏せて立つ。
ジャスケは小さな灯りとりの窓に歩みより、半開きの板戸を全部あけ放った。声音から仰々しさが、拭われたように消える。
「どうしてあの船に乗りたい?」
船? と、イーツェンは床を見たまま目をまたたかせた。屋敷では、船のことなどおくびにも出していない。
真実に気付いたのは次の瞬間だった。ちらっとジャスケを見て、弱い逆光に立つ男の目がシゼだけでなくイーツェンの様子を油断なく見ているのを確認し、イーツェンは心を決めて頭を上げた。どんな奴隷も許されないような、まっすぐで高い姿勢を取って、ジャスケの視線を受けとめる。
「私たちが船主に頼んだ伝言を聞いたんですね」
横に立つシゼの肩がこわばったが、イーツェンをとめようとする様子はなかった。イーツェンはジャスケの細い目の中に笑いのようなきらめきを見て、果たして自分がただの奴隷でないことを裏付けたのはまずかったかと危ぶんだが、どうせジャスケはわかっていた筈だし、もはや後戻りはできなかった。
イーツェンの言葉にジャスケは否定も肯定もしなかったが、その必要はなかった。昨日船を探す間、船の持ち主や荷主に届くよう、イーツェンたちは船役場に伝言を残してきたのだ。その時の手応えからまず伝わるまいと思っていたのだが、ジャスケの耳には届いたらしい。
船主か、荷主か、役場とつながりがあるのか、とにかくジャスケがあの船の関係者であることは間違いないだろう。
「運んできた荷物を、今度はあの船を使って海路で運び出すんですか」
なるべくあっさりした言い方で、だがイーツェンはいかにも確信ありげに踏みこんだ。迷いを見せればつけこまれるし、少しずつ手の内を探れば、足元を見られる。
ジャスケの眉がぴくりと動いたのを見て、ほんのかすかな満足感を味わったが、余裕などかけらもなかった。伝言を無視することもできたのに、ジャスケはわざわざイーツェンとシゼに会いに来たのだ。彼らだと知っていて訪れたのだろうか? そうだろう、とイーツェンは思う。でなければ知らない相手に会いに1人で宿の部屋に来るような真似はしないだろう。
「狩りに出かけている」筈のジャスケがこの早朝にルスタの町で何をやっていたのかは、イーツェンの想像の外だが、狩りの言い訳を隠れみのにして動き回っていたのではないかという程度の予想はつく。
昨夜、召使いの女が教えてくれた噂話から、イーツェンはジャスケの運んでいる荷物の内容に多少の見当をつけていた。だが、それをここで言うのは得策ではない。当たっていればジャスケの弱みを握れる一方、いらぬ敵意も買う。外れていれば、折角の手札が何の意味もなく消えるだけだ。
聞かれるより前に主導権を握ろうと、イーツェンはジャスケをまっすぐに指でさし示した。
「あなたの御用をおうかがいしましょうか」
ジャスケの細い眉がついっと上がった。口調はまた慇懃なものに戻っていたが、どこか横柄さがにじみ出している。
「用があるのはそちらだと思いましたがな」
「私たちの用はご存知でしょう。ゼルニエレードかポルトリまでまで船に乗せてほしい。正当な船代は支払う」
言いながらイーツェンが右側のシゼへ目を向けると、気配を感じた様子のシゼと視線が合った。用心深く表情を消してはいるが、シゼの目の中に、拒否や怒りは感じられなかった。
このまま交渉していいということかな、と思いながら、イーツェンはジャスケへまっすぐに顔を戻した。気に入らなければ何かの方法で知らせてくるだろう。
ジャスケは腕組みして、窓枠によりかかっていた。窓に面した道からざわつく音がのぼってきて、町があっという間に目覚め始めたのが伝わってくる。港町のにぎわいに聞き入るように、男の顔は奇妙に静かだった。
「旅の目的は」
「知人をたよって行く」
そう告げ、ジャスケがさらに問いかかる気配を、イーツェンは先に制した。
「あなたは私たちの目的を聞かない、私たちはあなたの目的を聞かない。それで如何です?」
ふうむ、と息のような相槌を呟き、ジャスケは顎をつまむような仕種で指をすべらせた。川旅の時ともまたちがう、細い毛皮を縫い付けた以外には装飾のない、だが見るからに厚地で上等な長衣を着ている。ルスタの習慣にもっと詳しければ、その服がどういう位階のものなのかとかわかるのかもしれないが、イーツェンにはそこが歯がゆい。
ジャスケの正体、目的、すべてが不明だ。少なくとも彼がここに来た理由がわかるまでは、油断もできないし、余計な情報は与えたくなかった。
「東に航路を取る船なら何でもいいんですけど。ご存知ありませんか」
のどかに聞いてみると、ジャスケは考え深そうな顔になった。
「ポルトリへの船便は税を高く取られますので、今年は商船は嫌がりますなあ」
昨日あれだけ聞き回ったのにその話は初耳で、イーツェンは内心あきれた。船乗りはそこまで知らないとしても、役場の人間くらいは教えてくれてもよさそうなものだ。だが所詮、旅の奴隷と剣士に聞こえてくる話など限られているということか。どう見ても異国の人間で、異国の話し方をするせいもあるのだろう。
「何で関税が高いんです?」
「条約の破棄がありましてな。新しい税の取り決めができておらんので、互いに取り放題と言ったところで」
のんびりと怖いことを言うと、ジャスケは胸の前でパンと両手を打ち合わせた。にんまりと頬をゆるませる。
「成程、成程。お困りなら力をお貸ししなくてはなりませんなあ。幸い、船の方に口利きをして差し上げられると思いますよ」
ほっとするよりも、イーツェンの背すじを小さな寒気が這った。とびつきたいのはやまやまだが、ジャスケがただの親切心でそんなことを言い出すわけがない。だが、変に反発して乗船の話を反古にしたくもない。うまい取引に持ち込みたいが、どうしたらいいものか。
立ちつくした彼の横で、それまで黙っていたシゼが静かに口をひらいた。
「条件は」
「口の固い奴隷を探しておりましてなあ」
「売り物じゃない」
ぴしりと上から打つように言って、シゼは腕組みした。珍しい。いつも剣を取りやすい体勢を保つため、彼は滅多に腕を組まないが、そうして威圧するように立つと全身に力が満ちて、同じ部屋にいるのが息苦しくなるほどだった。鍛えられていても大柄ではないのに、こういう時のシゼの凄みがどこから出ているのか、イーツェンにはよくわからなかった。殺気というものだろうか。
だが無論、ジャスケはそれだけでおとなしくなるような男でもなかった。世間話の途中のように、顔の前で手をぱたぱたと振る。
「いや、いや。船旅で部屋付きの世話係を探しておりましてな。身分のある方なもので。おしのびの旅ゆえ大仰なことにはできませんが、それなりの礼作法を心得た者となるとなかなかおりませんで」
奴隷なんていくらでもいるだろうに、とイーツェンは思ったが、口をつぐんでいた。案外、本当に探すのが難しいのかもしれない。この国は奴隷の売買は禁じていないが、奴隷の身分そのものは認めていない。奴隷はただ、他国から流れ曖昧な形で使われたり、また売られたりしていくものなのだった。
ジャスケはシゼににっと笑いかけてから、その笑みを貼り付けた顔をイーツェンへそのまま向けた。
「礼作法は身につけておられそうですしなあ。ちがいますかな?」
「どなたのお世話を?」
自分の正体を聞かれるのが嫌で、イーツェンは眉をしかめて聞き返す。ジャスケは首を振った。
「事情があって、今申し上げるわけには」
「‥‥‥」
「計算と読み書きができるとも伺いましたが」
問いに、イーツェンはうなずいた。港で船を回っていた時、どうにか船の仕事でも探せないかと思って、そのことも言った。ジャスケが港町の情報に通じていて、イーツェンが港で落とした話がすべて筒抜けなのは明らかだった。
他に何を言ったろう。どうせその場限りだからと余計なことをしゃべってないだろうかと、イーツェンは喉の内側がこわばるのを感じた。その時に必要なこと以上は言っていないつもりだが、何がどこで絡まってどんな絵を作るかわからない。常に油断してはならないのだ。
ジャスケは丸っこい頬を、つるりと下から撫で上げた。
「それは重畳。少しばかり仕事もしていただくことになりますが、ま、大したものではありませんでな。そちらの方も」
と、シゼを見る。その顔はいかにも親切そうだった。
「船の下働きくらいは準備できますかねえ」
裏腹に、口調は挑発的だ。しかし当然のように、シゼの表情は小揺るぎもしない。
シゼが組んでいた腕を解くと、ジャスケの体がぎくりとこわばった。シゼは何も言わずに寝台へ歩みより、水差しを手にして一口水を飲んだ。ジャスケには目もくれないまま、イーツェンにも水を満たした杯を持ってくる。
イーツェンはこんな場合にもかかわらずこみあげてきた笑いを噛み殺し、水を飲んで、ジャスケへまっすぐに目を向けた。
「ひとつ、はっきりさせておくけれど、私は体は売らない」
ごくおだやかに、だがきっぱりと言い切ると、ジャスケが途端に顔をしかめた。
「人買いのように見られるのは心外ですなあ」
その顔と声があまりに嫌そうだったので、イーツェンは思わず笑ってしまいながら、人買いという言葉にまた背中がうそ寒くなるのを感じていた。たしかに、そういう可能性もあるのかもしれない。
朝の時間をつぶして話し合った結果、ゼルニエレードの近くの島、ポルトリまでの船旅と船代の詳細を書面にしてジャスケの署名と印章を入れることで、イーツェンは承知した。ひとたび船に乗ってしまえばそんな書面が役に立つかはわからないが、ないよりはいい。
話の最中に聞き出したところによると、ジャスケはあの船の船主の1人だった。何人もがひとつの船に出資し、それぞれ船が上げた利益の権利を得るのだという話で、船自体はフェゼリア家の物だが、そうして航海ごとに複数の人間が船主となるのだとジャスケは説明した。よくできている、とイーツェンは感心する。だが疑問もあった。
「商船ではないと聞きましたが」
どうやって利益が上がるのかとイーツェンが眉をひそめると、ジャスケは右肩をそびやかした。
「積荷がないということではないのでな。商船として荷は運んでおらんが」
質問するたびに、微妙に含みのある答えを返されて苛々するが、イーツェンは辛抱強く粘ってどうにか知りたいことの大半は聞き出した。航海は5日から10日の予定であること、200人も船乗りが乗りこむ巨大な船であること、ジャスケもポルトリに用があるので乗船して行くこと。
ジャスケの要求した船代はイーツェンの胃が痛くなるほどのもので、払えばセンドリスが用立ててくれた金の半分以上が消えることになる。センドリスから借りていなければ、払えたかどうかすらあやしく、イーツェンは心の中で感謝を呟いた。
イーツェンとシゼはジャスケに金の存在だけ見せて払えることを証明し、前金を渡すのは拒否した。当たり前だ。出港の時に半金、ポルトリについたらもう半金を払うことで、ジャスケは同意した。
「出港は2日後か、その日に風が悪ければ風がよくなり次第ということで。朝の二番鐘までに船役場に顔出しをしていただけますかな」
意外なほどてきぱきした口調であれこれのこと──自分で準備する食べ物や、1日の水の割当て分、いざという時のための命綱を買っておくことなど──をイーツェンとシゼに教え、ジャスケは、自分に連絡が取れる両替屋の名を言い残して、立ち去った。
彼がいなくなると、急に部屋の空気が軽くなる。イーツェンは体をのばして大きなあくびをした。眠いわけではないが、緊張の反動で気がゆるみ、へなへなと寝台に座りこむ。
シゼは窓際に斜めに立って、下から自分の姿を見られないようにしながら道を見おろしていた。ジャスケが立ち去るかどうか確認しているのだろう。
やがて窓辺から1歩引いて、くるりと向き直る。
「シゼ──」
今の話をどう思う、と聞こうとして、イーツェンは目を丸くした。シゼは壁際の長箱をあけると中から2人の荷をひっぱり出し、革袋の胴をすぼめている革紐を引いて、持ち運ぶ形に整え始めた。壁際に置いたイーツェンの帳面も中につっこむ。
「シゼ?」
「仕度をして。宿を変える」
言われるままに寝台からはいだ毛布を細長くたたみながら、イーツェンは黙々と荷をまとめているシゼへ、控えめに言ってみた。
「どこかに移っても、多分ジャスケは簡単に探し出すと思うよ」
港町の情報網はイーツェンの思っていたよりもはるかにきめ細かく、怖いものだと、ジャスケの話のはしばしから感じている。
だがシゼの返事はすぐにはなかった。機嫌が悪そうだ。イーツェンはムッとしないように気持ちを落ちつけ、目の前の作業に集中した。昨夜の二の舞いはごめんだ。
毛布をきっちりとした筒型に丸め、革紐で縛ると、イーツェンはすっかりみすぼらしくなった寝台に腰をおろした。床に膝を折って毛布を荷の上にくくりつけているシゼを見おろす。
「シゼ。この話、やめようか?」
シゼは唇をぐっと結んで荷を作っていたが、2つの荷を背負えるようにまとめると、短い息を吐いて顔を上げた。
「船は必要だ」
その声が苦いものをこらえているようで、イーツェンは言おうとしていた言葉を呑みこんで立ち上がった。シゼも立つと、2つの荷を寝台の上に乗せる。片方は大きく、片方は小さい。
「とにかく宿を移ろう。いいですか?」
ごく静かに言って、シゼは左手をのばし、イーツェンに小さい荷の肩紐を手渡した。イーツェンが受け取った荷を肩にかつぐ間、シゼは黙っていたが、やがてぽつりと口をひらいた。
「ジャスケがここへ来たそもそもの目的は、こちらが何のために船のことを知りたがっているのか、どこまで知っているのか、それを探りに来たのだと思う」
イーツェンはうなずく。シゼは言葉を続けながら、苛立たしそうに指の背でこめかみをこすった。
「あの船には何かある、イーツェン。こうして探っているのもあの男だけではないかもしれない。だからまずは宿を移った方がいいと思う」
筋道を考え、イーツェンはうなずいた。シゼの言うことにも一理ある。イーツェンたちが港で聞き回っていたことも、この宿に逗留していることも、港に通じた誰かがその気になればすぐわかることだ。東行きの船の情報があれば教えてほしいと、宿の場所をわざわざあちこちに言い残してある。
ジャスケがその糸をたぐったように、誰かが彼らを探すだろうか?
「誰か来ると思うか」
「それはわからない」
簡潔に答え、シゼは腰に巻いた剣帯の長さを直して、左肩に荷を担いでいても剣を抜きやすいように調整した。
「だが何の事情もない船なら、ジャスケがわざわざ朝一番に来るわけがない。私たちは用心しないとならないと思う」
その言葉にうなずき、イーツェンは頭をすっきりさせようと深い息を吸った。あまりに色々ありすぎてまだ何も整理できていないが、確かに船についてわかっていない部分が多い。シゼの警戒もわかる。
シゼはイーツェンの様子をじっと見ていたが、ふと声を低めて聞いた。
「ジャスケの荷の中身を知っていたんですか?」
「んー」
イーツェンは下唇の内側を少し噛んだ。知っている、と言いたいが、半分以上ははったりで、何だかシゼにそれを言うのが気恥ずかしい。
「多分だけど。呪具。そういういわくのある骨とか、宝石、そういうたぐいだ」
「‥‥‥」
シゼの顔をかすめたのが嫌悪なのか畏怖なのか、イーツェンには判別できなかった。ユクィルスには呪法を使う者が凄惨な弾圧を受けた過去があり、呪法の存在は人々から遠く、ぼんやりと忌まわしい伝説のようなものになってしまっている。
「昨日、フェゼリス家の役宅で聞いた噂だと、あの家の若君が古い呪具を最近集めているとかで、そういう商人の出入りがあるそうだ」
実際には「うすっ気味悪いものを持ち込んでくる輩が多くて」と女が愚痴を言うのに相槌を打っていただけだが、イーツェンはそれと、酒場の娘から聞いた「フェゼリス家が古い異国の遺物を高値で買うらしい」という噂を合わせたのだった。
だから確信があるわけではないが、イーツェンにとっては辻褄が合う。ジャスケの言葉によれば、彼が殺した男は自分の家から宝石を盗んできていたが、彼がジャスケと組んでやろうとしていたことがその宝石の密輸だけには思えない。それにあの豆の荷を積みこんだのは船旅の途中だ。ジャスケは誰かと何かを取引し、豆に隠して積んだのだ。
金になる物、そして必要なら人ひとりの口をためらいなく封じる必要があるほど、危険な物。
「ユクィルスでも、サヴァリタリアでも、呪法にまつわる物の商いは人心を乱すとして禁じられている。だから隠して運ぶしかないし、ここまで持ってくれば高く売れる」
「ユクィルスに呪具なんかあるんですか?」
「ユクィルスが建国される前、あの地には呪を使う者たちがいたんだよ。だからたまに遺物が出るって話だ。ユクィルスの城にも、そういうものを封じておくための部屋があったし」
勿論イーツェンは足を踏み入れたことはないし、どこにあるかも知らないが、それを保管する役目の男が蔵書室にやってきた時に、レンギがそのことを教えてくれたのだった。
シゼは難しい顔で考えこみながら、視線を壁のあちこちへとばした。やはり呑みこみづらい話かとイーツェンが思った時、彼はためらいがちに口をひらく。
「その道具は‥‥何か力を持っているものですか?」
イーツェンは少し考えて、首を振った。
「私にはわからない、シゼ。リグにももう呪師はいないし。でも、私が学んだことによると、呪法というのは人が思うほどに便利なものでも万能でもないし、道具はやはりただの道具であって、その力は使う者にかかってくるのだろうと思う。たとえば剣ひとつ取ってみれば、誰の手もふれずに勝手に人を切ったりはしないし、お前が持つのと私が持つのとではまるで意味が変わるだろ。そういうふうに、呪具自体が勝手に人に害を為す物ではないような気がするな」
あまりよく知らない物事を、さらに知識の前提のない相手に説明しようとすると、言い方があやふやになる。イーツェンの答えがシゼの内側にすとんと落ちていかないのはわかったが、イーツェン自身、明快な答えを持っていない。何かうまく筋道を立てて説明できないかと、イーツェンはなけなしの知識をさらった。
だが、納得しない表情で考えこんでいたシゼは、眉の間を固くしたまま、意外なことを口にした。
「ジャスケはあなたとリグの関わりを知っていますか?」
「──いや」
まばたきして、イーツェンは否定しながら、記憶をひっくり返した。何かつながるようなこと、あやしまれるようなことを、ジャスケの耳のあるところで言ったことがあるだろうか。ない筈だ。奴隷という立場を利用して、イーツェンは船の上ではほとんど口をきかなかった。
「ユクィルスの生まれでないことは肌や髪の色でわかるだろうが、どこから来たかまではわからないだろう。そんなに珍しくない色だし。何でだ?」
「呪法に興味があれば、リグの話を放っておくわけがない」
シゼは何より当然のようにそう言い切ったが、ぽかんとするばかりのイーツェンの顔を見て、つけ足した。
「呪法で山を崩した話は、ジャスケのような早耳でなくとも伝わっている。もしあなたがリグに関わる者だと知れば、あの男はきっと金にしようとするだろう」
「あれは──」
意表を突かれて、イーツェンは言葉を探した。
「だって、それは‥‥全然ちがう話だろ。リグの地に昔の呪法があっただけで、私たちが呪法に長けているわけじゃない。私にそういう価値などない」
呪法に縁なく暮らしてきたシゼと同じくらい、イーツェンだってリグで呪法と関わることなく育ったのだ。
口ごもったイーツェンへ、シゼはさらに眉根をしかめた。
「ジャスケは問題にしないだろう。知れば、彼はきっとリグと呪法のつながりだけを見る」
「‥‥それはまあ、たしかに」
いかにも、自分に都合よく解釈を曲げそうな男ではある。しかし。
シゼの厳しい表情を見つめて、イーツェンはできるだけ空気をやわらげようとした。
「ジャスケは知らないし、これから知ることもないよ。大丈夫だ」
返事がないので、さらに重ねる。ジャスケがイーツェンに特別の仕事を割り当てた、それをシゼが気に入っていないのは話の最中からわかっていた。シゼがまたイーツェンを心配していることも。
「とにかく出港までもう少しあの船のことを調べてみようよ。あまり怪しいようなら、次の手を探せばいいだろ」
そう言って、イーツェンはまだ納得していない様子のシゼの靴を足先でこづいた。荷を肩にかけたまま、こうして顔をつきあわせて立ち話をしていても仕方ない。
「まずは宿を移ろう。もう少し海に近いところがいいな」
シゼは口元を少しゆるめ、うなずいて、扉に手をかけた。歩き出した彼の後ろをぴたりと追いながら、イーツェンは心の中の不安を飲み下そうとする。シゼにはああ言ったが、おそらく彼らに選択の余地はないのだ。
あの船に乗るしかない。
船旅の途中に何があろうと、船がポルトリかゼルニエレードに着くまでのことだ。多少のことなら呑みこんで耐える自信はあったが、その決心の裏にうっすらとこびりついた恐怖は消えなかった。
それにしても、ジャスケが世話をさせようとする船客とは誰なのだろうと、きしむ階段をこわごわ下りながら、イーツェンは不思議に思った。何故名前が言えないのか。何故おしのびで船に乗ろうとするのか。ジャスケがイーツェンにその世話役を振り分けたのは、イーツェンが異国から来たばかりの奴隷で、ルスタにいる誰ともつながりを持っていないからだろう。それが誰にしても、ルスタの人間に知られたくない人物なのだ。
その人物次第で、イーツェンの船旅は苦にも楽にもなるのだが、どれだけ想像しようとしても、どうしてかジャスケに似た姿形の客しか思いうかばないのだった。