シゼは、イーツェンに小さな帳面とチョークを買った。
帳面は薄く粘土を塗った板を4枚合わせにして丁番で留めたもので、粘土のきめが細かく、かなり小さな字で書きこむことができるし、濡れた布で拭えば何度でも書ける。
シゼは昨日、それを手にした奴隷を見かけたのだが、その奴隷が帳面を付けながら主人の代わりに用を取りしきっていた、その采配ぶりが気に入ったらしい。
と言うわけで、イーツェンは帳面を手にして船役場の仕切り役と向き合っている。
「ゼルニエレードへ補給で寄港するだけでもいいんですが。そういう船をご存知ありませんか」
奴隷が話を仕切るのには慣れているのか、イーツェンがシゼをさしおいて話を進めても、役人の男は陽に焼けた顔を小揺るぎもさせなかった。
「今の時期は最後のかき入れ時でな。ゼルニエレードにのったり向かうより、海峡を渡ってイズの大陸沿いを回る方が儲かるんだよ。それに」
と、机の上にひろげた地図を叩いた。縦横に大きな方眼を切り、細部に数字が書きこまれたそれを陸地の地図と区別して「海図」と呼ぶのだと、イーツェンは昨日知った。海をどうやって測るものかは、想像の外である。計算によるものだと言うことは聞き知っているが、その中身となるとさっぱりわからない。
その海図の上を、太い指がたどった。船乗りのように灼けた男だが、指の腹にもしっかり盛り上がって光るロープだこがある。
「ゼルニエレードに入らんでもこの外湾にある島、ここな」
指先でいい音をさせて、いびつな芋のような形の島をはじいた。
「このポルトリにつけて食い物を積める。水は高値だが、港の奥に入るより2日近く節約できる」
丁寧に説明してくれる。声は大きく、身振りも荒いが、親切な男だった。
イーツェンは帳面にゼルニエレード周りの地理を写しとりながら、一瞬考えた。
「ポルトリに着けば、ゼルニエレードへ渡ることはできますか?」
「補給の定期船が月に2度、出てる。冬は月1だ」
それは充分な数だろうか。イーツェンにはよくわからないが、あとで考えることにしてさらにたずねた。
「ポルトリの方に立ち寄る船はあるんでしょうか」
「さてなあ。補給までは知らん。船着き場を当たってみな」
ほかに用もあるのだろう、段々とせかすような目つきになってきた男に、イーツェンは気付かぬふりでのどかな微笑を向けた。うるさがられようと、粘った方の勝ちだ。鈍い奴隷の真似ならいくらでもできるし、大体、相手もイーツェンの鈍いふりは見抜いている。奴隷にそんな態度を許すのは、いかにもさばけた港町気質でもあった。
下手にへりくだる方がうっとうしがられる。イーツェンは礼儀正しく、だが頑固にたのみこんだ。
「何分不慣れなもので、船を見ているだけで目が回りそうです。東へ向かう予定のありそうな船を教えていただければ、後は自分で探しますから」
しばらく粘ると、男は仕方なさそうに手元の帳面を繰り、何か呟きながら、やがてイーツェンに3隻の船の名を教えた。その名を書き留めたイーツェンが傍らに立つシゼを見やると、シゼはうなずき、船役人に「世話になった」とだけ告げて踵を返した。
港では、さすがにシゼが交渉に立つ。2隻は空振りだった。東に向かうと言っても、すぐに南へ針路を変えるのだと言う。ゼルニエレードから来た船も見つけたが、帰りは1度海峡を渡ってから春の帰港を目指すということで、話にならない。
教えてもらった3隻目は、船自体が港に入っていなかった。荷夫の1人にたずねると、岬の突端の向こうにある船影を指でさした。沖に錨を下ろして停泊し、補給と物資の積みこみに小船で行き来しているらしい。
ルスタの港は深く掘りこんであって喫水の深い船でも入れるが、それでも無理な船は、そうして沖に停泊するということだった。それを聞いたイーツェンは眩暈がしそうになる。船着場にいる船でも高い帆柱から縦横に綱を張りめぐらせ、強く湾曲した木を打ち合わせた船体は家のように大きいのに、もっと大きな船があると言うのか。そんなでかくて重い物がどうやって水に浮くのかと思うと、また何だか頭の中が絡まってくる。
浮く上に、風に帆を張ってあの海原を旅するのである。それを想像すると、背すじが不安とも興奮ともつかないものにざわついて腹の底が冷たくなり、もしかしたら、ここに来て自分は怖じ気づいているのではないかとイーツェンは思った。海を渡ると決めこんでここまでたどりついたが、自分の想像をこえた海や船の様を目の前にすると、それがひどく無謀なことに見えてくる。
しかしもう後戻りはできないのだ。ざらついた海風を頬に受けながら、イーツェンは腹の底まで息を吸った。どんな道だろうと、道がないよりはるかにいい。城の壁の外へすら出られなかった、あの日々を思えば。
「あの船の持ち主を探そう」
沖の船を指でさすと、シゼがうなずいた。珍しく大きな笑みを浮かべている。イーツェンは、まばたきした。
「何かおかしいか?」
たずねると、シゼの目元の笑いがさらに濃くなった。
「楽しそうにしている」
「私が?」
帳面を胸元にかかえて、イーツェンはとまどう。朝から色々なことで頭がいっぱいで、楽しいことなどさほど記憶にない。むしろ肩から力が抜けて見えるのはシゼの方で、それを言ってやろうと口をあけた時には、だがシゼはすでに歩き出していた。
「船宿にあたろう」
言葉と背中を一瞬見送って、イーツェンは置いていかれないよう早足に追った。あの笑みといい、ルスタについてからのシゼは、本当にひとつ重荷を下ろしたようだ。
言われてみれば、港町の自由な空気に気持ちがほぐれているのは、イーツェンも同じかもしれない。心配事はたえないが、ルスタの町ののびやかな喧騒はたしかに彼の心もくつろがせた。
ここにとどまるのもいいだろうか、とイーツェンはぼんやり思った。もし船がつかまえられなければ。どこか冬の間の働き口を見つけて、シゼと2人で、この町で冬を越すのも悪くない。そう思うとどうしてか胸の奥がざわついた。ルスタの片隅での冬ごしは、やけに居心地がよさそうな気がする。誰もイーツェンを知らないし、誰もシゼを知らない。
だが、そううまくはいかないだろうことも、イーツェンは知っている。リグの冬は、部族が力を合わせて命がけでのりこえるものでもあった。毎年、毎年。春までもつよう大量の食料を蓄え、薪や燃料をそろえ、獣のうち不要なものは屠殺してぎりぎりまで口減らしをする。
ルスタの冬がいかにそれよりすごしやすいと言っても、頼るものもない彼らが入りこめるほどではない筈だ。
冬ごしは、どこでも大変だ。もしイーツェンとシゼがこの町で一冬すごすつもりなら、船を探すのと同等か、それ以上の幸運が必要になるだろう。場所、食料、燃料、そして冬の間の安全。すべて、手に入れるのが困難なものばかりだ。
船を見つけないとならない。もう何度目かわからない決心を固め、イーツェンは建物の間口にもたれかかる水夫たちを押し分けて船宿に入っていく。
だがイーツェンの決心が固くなればなるほど、先行きはより険しく、より困難になるようだった。
沖に停泊している大きな帆船には、「サヴァーニャ」という船乗りがうやまう風の精霊の名がついていた。
精霊というのは神々の眷族だとイーツェンは思っていたが、必ずしもそうではないらしい。船宿の1階の酒場で船乗りから船の情報を聞き出そうとして、「サヴァーニャというのはな」と風の精霊についての講釈をひとしきり聞かされてしまった。おかげでサヴァーニャが神々と無関係に風を操る「気まぐれな魔性」であるというのはわかったが、それってつまり野良だろうかと、イーツェンは少し悩んでいる。リグの精霊はどれも神々が使役する存在だが、活気ある港町では精霊も奔放なのだろうか。
酔っ払いの昔話に延々つきあったにも関わらず、かき集めた話は役に立つものではなかった。サヴァーニャという名のその船がポルトリの島やゼルニエレードに寄港するかどうかもわからないし、荷主や船長を探し出すこともできない。どうもあの船の話になると水夫たちの舌が重くなって、何かあるのだろうかと疑いつつも、イーツェンは引くに引けなかった。今の望みは、あの船だけなのだ。
情報を知っていそうな相手を探して酒場をはしごした挙句、2人は酒汲みの娘に目をつけた。大抵の酒汲み女は扇情的な服装や思わせぶりな手つきで男から小金を巻き上げるのだが、3軒目のその店では、まるで男のように喉元までつまった浅茶色のシャツに幅広の帯を締め、カトラスを吊るした娘がはきはきと給仕して回っていた。
髪は何本にも細く編んで頭頂部でひっつめ、頭の大半を黒い布で覆っている。目鼻立ちがくっきりした娘で、近くに来た時、イーツェンは娘が目蓋のきわを黒く塗っていることに気付いた。
客とのやり取りも早く、なじみも多く、船の名もよく知っている。彼女なら情報を持っていそうだった。話してくれるかどうかはまた別だが。
午後も遅くなると、新しい船が入ったとかで荷夫のほとんどが港へ向かい、酒場にいる人の数は一気に少なくなった。イーツェンはシゼに目配せする。
シゼが、テーブルのそばを通りかかった娘を引きとめた。
「沖に泊まっているサヴァーニャという船を知っているか」
いつものシゼのものとは違う、ほとんど高圧的な物言いに、娘は目をほそめた。唇が少しとがって、ひどく気の強そうな表情になる。
「あんた他所者だね。何の用さ」
「東回りの航路に行く船を探している。あの船の持ち主は誰だ?」
はあ、と娘は泥だらけの子供を前にしたような、情けなさそうな溜息をついた。シゼは不機嫌な顔で立ち上がり、威圧的に娘を見おろしたが、彼女はたじろぎもせず唇のはじを歪める。さすがに気性の荒い船乗りをあしらってきただけあって、肝が据わっていた。
「知っているんだろう。さっさと話せ」
「偉そうに何様のつもりさ、ばっかじゃないの。あんたなんかあの船の船湯を飲むのも勿体ない」
彼女が唾を吐くように吐き捨てた罵倒の意味が、イーツェンにはよくわからなかった。シゼもそうだろう。だがそれをおくびにも出さず、シゼは怒りに凍りついた目で娘をにらんだ。固い全身に憤りが満ち、イーツェンですらほとんど見たことのないような冷たく無情なまなざしに、一瞬、あたりの空気が凍りついたようであった。
シゼが振り上げた手に、イーツェンは必死でとびつく。あまりの迫力に呑まれて動きそびれるところだったが、どうにかすんでのところで、娘を打とうとするシゼの手をとめた。
シゼは物も言わずに、イーツェンがつかんだ手を振り払う。強い力で押されてバランスを失ったイーツェンは後ろへ倒れこみ、けたたましい音をたてて椅子をひっくり返した。そのまま床にうずくまり、膝をついて身を低く、怯えている様を見せる。
だが心臓は本当に喉元までせり上がって、乱れた拍動を打っていた。いつものシゼと、まるでたたずまいが違う。何ひとつためらうこともないだろうと思わせる冷徹さが剥き出しになっていた。
「お前のせいだぞ」
低い声すら、シゼのものではないようだった。
その静かな言葉を最後にシゼが踵を返すのを、イーツェンは床を見つめたまま、ブーツの動きでとらえた。1歩ずつ遠ざかって、角を曲がり、酒場を出て行く。
それを確かめ、乾いた喉に唾を飲みこんでから、イーツェンはのろのろと顔を上げた。
娘はまだそこにいた。仁王立ちで、腰に両手を当て、まなじりをこれ以上ないほど吊り上げて、シゼが消えた方角をにらんでいる。石でも噛みつぶしそうなほど顎の筋肉が張り、全身から怒りがあふれて、話などできる状態でないのは明らかだった。
やりすぎたかな、と思いながらイーツェンは立ち上がり、倒した椅子を引き起こして用心深く据えた。閑散とした酒場にもまだ客はいて、彼らの視線が自分に集中しているのを感じる。思ったより目立ちすぎた。
ふう、と息をついてテーブルに肘をつき、イーツェンは背中に手を当てた。椅子をひっくり返した時打った場所に、鈍い痛みが脈を打っている。浅いもので、すぐに消えるのがわかっているから不安はないが、痛いものは痛い。
「大丈夫?」
顔を上げると、娘が眉をひそめてのぞきこんでいた。イーツェンは微笑を返す。
「すぐおさまります」
「怪我してんの?」
曖昧に首を振って、イーツェンは体を起こし、必要以上の痛みを装って椅子に座りこんだ。娘の目は離れることなくイーツェンの動作をじっと見ていた。
「すみません。主人は‥‥少し、焦っておられて。いつもはあんな方ではないのですが」
息の下で呟くように言うと、イーツェンの言葉を聞きとるために娘は身をのり出した。2人の距離が近くなる。イーツェンは視線を伏せたまま続けた。
「ここで聞けば船のこともわかるのではないかと、私がさかしらに申し上げてしまったので‥‥」
肩を落とし、ふるえる指で唇の下をさする。まだ動悸がおさまらず、すべてが芝居というわけではなかった。
娘は手をのばしてイーツェンの肩をさすった。
「水持ってきてあげる。待ってな」
その目は同情に満ちていて、イーツェンは罪悪感を心の底に押さえこみ、うなずいた。
港の近くには車場がある。台車や荷車を待機させるための場所だ。1度に港へ入れる車の数は制限されているので、そうして待つ場所が用意されているのだ。
今は時期外れだからか、空き地は閑散として、数人の子供たちが手製の輪を石に投げて遊んでいた。水夫や荷夫の姿もちらほらとあり、小さな火をおこし、背を丸めて火を囲む人々の姿もあった。
その人の輪の中にシゼの姿を見つけて、イーツェンは微笑した。
左右の邪魔にならないよう剣を腰の後ろに回し、シゼは皆と同じように火に両手をかざして、少し前かがみになっている。水夫たちの頑強な胸板や鍛えこまれた肩幅に比べ、シゼの体格はむしろ一回り小さいほどだったが、無駄を削ぎ落とした体には獣のようなしなやかさがあって、それが彼を異質に見せていた。
シゼは隣の男と何かを話していたが、イーツェンに気付き、男たちに軽く挨拶すると火のそばを離れた。近づいてきたシゼから残り火のような暖かさがつたわってきて、イーツェンは自分の体がすっかり冷えきっているのに気付く。
「どうでしたか」
「話してくれたよ」
シゼの問いに短く返事をしながら、つめたい首すじをすくめる。シゼは手をのばしてイーツェンのマントの襟元を立てると、うなずいて歩き出した。道の先を指でさす。
「あそこのカチャがうまいそうだ。食べますか」
目をこらすと、大きな商館に挟まれて間口の小さな店があるのがわかった。扉一つ分の入り口がほとんどそのまま建物の幅で、扉の上半分は窓のように切り取られている。
そばへ寄るにつれ、その向こうに頭を彩布に包んだ豊満な女が立っているのが見えてきた。かなりの年配で、船乗りのように陽に焼け、目尻に細かなしわが寄っている。イーツェンを見て笑顔になると、そのしわがより深くなった。
「坊主、飯食うか!」
ひどい訛りだ。ルスタの訛りでもなく、イーツェンの知らない低い絡みのある響き。「坊主」と呼びつけられたイーツェンは、苦笑してそばに寄った。女がイーツェンの後ろにいるシゼのことまで「坊主!」と呼んだ時には、吹き出すのをこらえるのがやっとだ。シゼがどんな表情をしているのか見たいが、振り返る前に、シゼにさっさと行けと背中をつつかれた。
近づいた店は、狭い間口だが奥にやたらと長く、壁に渡して何本も棒が掛けられ、縄で縛った包みがそこからいくつもぶら下がっている。奥に炉があって、子供のような小さな影がそのそばで働いている。
「2つ下さい」
「濃いのと甘いのと辛いの、どれだ!」
怒鳴るようにたたみかけてくるのがおかしくて、イーツェンはまた笑いそうになった。港町には、イーツェンがそれまであまり会ったことのないような強面の女たちがいて、そのたくましさには舌を巻く。
「辛いのを2つ」
「いくつだ!」
「2つ!」
ルスタの基準では訛っているせいか、イーツェンの言葉が聞きとれない様子の彼女に怒鳴り返し、イーツェンは紐で縛った包みを2つ受け取って金を払った。ざらっとした包みの手ざわりは、大麦の粉で焼いた生地だ。焼いた生地で具を包んで丸めたものを、紐で縛って売っているのだ。具は大抵、魚か、肉と獣脂を混ぜたものが団子のように固められて入っている。
2人はそれを手に夕暮れの迫る街を歩き、宿へ戻った。イーツェンは宿の裏の水路で水を汲むと、厨房でもらった湯を入れて温度をぬるめ、たらいをかかえて、きしむ階段を3階までのぼる。
先に部屋へ入ったシゼは、もう2つの油燭に火を入れていた。ブーツを脱いで手足を洗うと、イーツェンは寝台に座りこみ、大きな溜息をついて食べ物を手に取った。いきなりの空腹に襲われて、何だか朝から1食も食べていないような気がした。酒場で少しは食べてきた筈だが、あちこちに気を向けていたせいか、腹の足しになっていない。
紐を外して、カチャの厚い皮にかじりつきながら、隣に座って食べはじめたシゼに説明をはじめる。
「あの船の持ち主は、キルロイの五座のひとつ、フェゼリス家で──」
舌の上に溶けてきた思わぬ辛さにどもって目を白黒させたイーツェンへ、シゼが水差しを手渡した。あわてて水を流しこみ、イーツェンは咳込む。
スパイスをきかせたルスタの食べ物が気に入ったイーツェンではあるが、これは辛い。舌の上がひりりと痺れるほどの辛さだが、噛んでいるとほっくりとした甘味がひろがってきた。繊維状にほぐれた肉と、何か甘みのあるもの──芋か?──がまざりあっていて、複雑な香りが鼻の奥にたちのぼってくる。
勢いを取り戻して半分食べてから、イーツェンはまた先を続けた。
「フェゼリス家の船で、商船でも客船でもないので、つてのない人間が乗りこむのはまず無理だろうと言っていた」
あの船のことは忘れろ、と酒場の娘が心配そうにイーツェンへ忠告した表情が心をよぎる。同情を呼ぶための芝居をしたのには今でも心がとがめるが、彼らにはどうしても糸口が必要だった。何しろ誰も「他所者」にあの船の話をしようとしないのである。
五座のひとつの船だと聞いて、何となく理由はわかった。このキルロイの国で王に次ぐ権力を持つ5つの家──それが五座である。イーツェンにはそれ以上のこみいった話はわからないが、ただの有力貴族とは格が違う。
不意にシゼが水差しをひっつかむと、大きく水を口に流しこんだ。息をつく。辛さのせいか、頬に赤みがさしていた。
「商船でも客船でもないというのは?」
「うん」
イーツェンは手に残った皮と具のかけらを、名残惜しく口に放りこむ。唇がひりひりして、喉元まであたたかい。両手を合わせて、食べかすを払い落とした。
「はっきりと目的はわからないが、海兵を乗っけてっるって噂なんだって」
「‥‥海戦用の船ですか」
「近ごろ戦はないって話だから、大掛かりな話ではないようなんだけどねえ。1隻で海戦行くわけもないし」
イーツェンも不思議に思ったのだが、そこの事情までは娘も知らなかった。
溜息をつき、イーツェンは1日中歩き回って固くこわばったすねを揉んだ。今の時期に東への航路を取る船が、想像以上に少ない。潮目も風も悪いのだと面と向かって言われて、船の旅は陸の旅とまるで違うのだとしみじみ思い知った。海には何の障害物もなさそうに見えるが、どこへでも行けるというものではないのだ。目的地までの距離ではなく、潮と風が何よりも物を言う。
両足を寝台の上に引き上げて組み、頬杖をついて、イーツェンはまた大きな溜息をついた。シゼが手をのばし、イーツェンの頭をぽんとなでる。相変わらず犬をあしらうような手だ。
「後で、船乗りの集まる酒場へ行ってきますよ」
「うーん‥‥」
呻いて、イーツェンはそのままシゼの肩によりかかった。そこで役に立つ情報が入ればいいが、そううまくいく気がしない。
「風が向けば5日もかからないって話なんだけどね。遠いねえ」
「焦ることはないでしょう。まだ探しはじめたばかりだ」
シゼが安心させようとしているのがわかったので、イーツェンは微笑を返した。
「そうだな。まだ日はある」
だが、もうあまり余裕はないのだ。彼らのどちらも、それはよくわかっていた。
シゼが噂を集めに酒場へ出かけると、イーツェンは身支度をし、帳面にシゼへの書き置きを残して宿を出た。日が暮れるとあっという間に寒くなって、着こんだ筈の体が小さく震える。
夜間に灯火を持たずに歩くのは禁じられているので、イーツェンは宿から借りてきた細長い吊り燭を手に下げて歩いた。青銅の筒の中に油と穂がおさめられていて、いくつもの穴からこぼれた光が弱々しく足元を照らしている。
暗く沈んだ路地を歩きながら、イーツェンは道を失わないよう周囲の様子をしっかり脳裏に焼きつけた。人の姿は少ないが、あちこちの建物から陽気な声が聞こえてきて、町はまだざわついている。
ひとまず神殿の前に出ると、イーツェンは足をとめて港の守護神に敬意を示し、娘から教えてもらった道順をたどりはじめた。目抜き通りから離れるにつれ、道が静まってさらに暗くなる。つい左手で、護身用の短剣が腰の後ろにさしてあるのを確かめた。武器と言えるようなしっかりした作りの物ではないが、ないよりましだ。
高台の方へ歩いていくと段々と家々の作りが立派になり、門柱の横に見張りの小塔があったり、門の前に炎をあげる火籠が置かれていたりする。明らかに自分が場違いだと感じはじめた頃、3人組の夜警に呼びとめられた。
赤い帽子をかぶり、腰に曲剣を吊った男がイーツェンの顔をのぞきこむ。
「何をしている」
「フェゼリス様の役宅へ、主人の言いつけで手紙を届けに参ります途中でございます」
腰をかがめたまま、イーツェンは懐から封印をした手紙を取り出して見せた。中には何も書いていないが、わかるまい。宛名らしきものだけは作法にのっとって仰々しく書いてある。
「夜にうろつくな」
「何分、急ぎだとのことで‥‥」
主人に無理を言われて途方に暮れている、町に慣れない様子の奴隷を哀れに思ったのか、夜警の1人がイーツェンを屋敷までつれていくことになった。
親切の裏に何かあるのではないかとイーツェンはつい用心したが、男は帰り道の目印を説明しながら、立派な塀に囲まれた館の裏口へとイーツェンを案内してくれた。本当にただの親切だったようだ。
裏口の打ち木を叩いて、中から雑仕の女を呼び出し、夜警は踵を返した。
「迷わず帰れ。このあたりの道で寝ている奴は、朝には牢屋行きだぞ」
「ありがとうございました」
深く一礼して、イーツェンは館の女へ向き直った。下働きの女だろうに、袖にふくらみがある仕立てのいい上着を着ている。無愛想に用を問われ、彼は声をひそめた。
「主人の言いつけで、どうしてもご本人に手渡さねばならない手紙があるのですが、どんなお名前をこちらで使っていらっしゃるものかわからず、おたずねに参りました」
自分でも言っている内容が奇妙だが、いかにも子細がありそうに囁くと、女はただうなずいた。
こういう時、奴隷には奴隷にしかない利点がある。主人に命じられれば、それだけでどんな理不尽でおかしな意向にも従わなければならないということだ。少し奇妙だと思ったところで、奴隷の本心を正そうとする者はいない。誰よりも弱いがゆえの、それは強みだった。
わざと襟元の首輪が目に付くようにして、イーツェンは頭を下げた。
「昨日、港からフェゼリス様に荷を運んで参られた男の方です。こちらにまだご滞在であれば、手紙を渡すようにと主人から申しつかっております。私の主人がその荷の一部をお売りしたのですが、荷のことでお知らせしなければならないことがあるそうです」
手紙を見せ、同時に小さな硬貨を女から見えるように指の間に持った。
この旅の間にイーツェンが学んだことのひとつは、召使いや奴隷同士の間にはそれなりの連帯感があるということだった。勿論、足のひっぱりあいや蔑みあうこともしょっちゅうだが、奥底で、彼らは問答無用で人に使われるしかない自分たちの立場をわかりあっている。
女は、イーツェンがもし手ぶらで戻れば主人の怒りを買うことを知っている。昼ならまだしもわざわざ夜に使いを出した以上、急ぎの用なのは明らかだ。
あからさまな溜息をつくと、女はイーツェンを待たせ、裏口の中へ戻った。イーツェンが肌に迫ってくる寒さの中で足踏みをしながら待っていると、しばらくしてまた現れる。
「昨日寄った客人? ジャフィという人だそうだけど」
イーツェンが説明した風貌と一致する客について、ほかの召使いに聞いてきてくれたらしい。あらためて聞き合わせて目的の相手だと判断すると、女は気の毒そうに肩をすぼめた。
「その人なら、若様と狩りに行ってるよ。明日おいで。いつも昼には戻るから」
「ありがとうございます」
手間をかけさせた詫びとして女に青銅貨を渡し、聞かれた名前に適当な偽名を答えて、イーツェンはその場を離れた。
来た道を戻りながら、じっと考えこむ。そのあたりの道は石で舗装されていて、足の裏にはね返る固い反響が体の内に響いた。
──やはり、ジャスケはここにいた。
港にジャスケを迎えに来た馬車には、フェゼリス家の紋があったのだ。あれほどのしつらえの馬車で迎えに来るくらいだから客扱いだと踏んだのだが、館の若君と狩りに行くとは、あの男が本当に何者なのか、イーツェンにはよくわからない。
ジャスケの存在は、フェゼリス家の船に近づくための足がかりになるだろうか。なるとして、それをつかんでいいものだろうか。
居場所を見つけたものの、不在に肩透かしを食らって、イーツェンの中にあった決意や勢いはしぼみはじめていた。本当なら、ジャスケなんぞにまた関わりたくはないのだ。
──明日か‥‥
どうするべきか。会いに来るべきか。忘れて、別の道を探すべきか。
どちらにしてもシゼに話さなければならないだろうと思うと、告げずに背中で動いた後ろめたさが喉元まで這いのぼってくる。だが、ジャスケの筋を当たると言えばシゼは反対しただろう。
それに何より、イーツェンは自分でどこまでできるのかためしてみたくもあったのだ。
ただシゼにたよりきり、よりかかるために一緒にいるのではないと、証明できるものならしてみたかった。シゼに、そしておそらくは、自分自身にも。