港に入っている外海行きの船は5隻。日没で港から追い出されるまで、イーツェンとシゼは船主を探し回り、2隻の船長と話をした。両方の船とも最後の交易のため、海を渡って南の大陸へ向かい、そこで陸沿いに西へ回りながら冬を越すという話だった。
 ゼルニエレードに向かう船は、もともと少ないらしい。大きな半島を回るので、距離の割に時間がかかるし、転針が多い。この時期は潮の流れとも逆だ──と色々な不満を聞かされたイーツェンは気が滅入ったまま港を後にしなければならなかった。
 時期外れの旅のいいところは、宿代が安いことだ。2人は少し海から離れた、だが大通りに面した宿を選んだ。あんまり安っぽいところは身ぐるみはがれそうで怖い。シゼがついていて身ぐるみはがせるものかどうかは別として。
 やはり泊まり客も少なく、シゼは交渉の末に値切って寝台と新しい藁付きで1部屋借りた。1階の食堂で腹ごしらえを終えると、汚れ物を洗濯女に渡し、イーツェンは3階の部屋と厨房を行き来して、運んだ湯を大きめのたらいに張る。
 湯をあけた空の桶を持ったまま、イーツェンは腰に手を当てて背をのばした。川船に座りこんで旅をしてきた15日近く、毎晩体をのばしてはいるが、何しろ川風は冷たい。1日それに吹かれていれば全身が冷えて、背中が痛むのは仕方のないことだった。
 肩に手が置かれて、イーツェンはシゼの顔を見た。シゼはイーツェンの肩甲骨の間に当てた手でうながし、寝台に座らせると、床に膝をついて無言でイーツェンの靴を脱がせた。布を湯に浸し、イーツェンの足を拭いながら、足の裏に指を回して押し揉む。
 イーツェンは暇な手をシゼの髪にのばして、怠惰に撫でた。こうして面倒を見られるのは久々で、面はゆくもあるが、心地いい。
 陽に焼けた金の髪は少し固くて、のびたせいでところどころの癖が目立ちはじめている。この間、後ろ毛は短剣を使ってそいだので短いが、前髪はもうじき目にかかる。切った方がいいのかなあと思いながらこめかみのあたりの髪を指ですくって遊んでいると、シゼがちらっと目を向けた。
 視線が噛み合って、イーツェンは指をとめる。もう日も暮れ、部屋を照らすのは2つの油燭だけだ。シゼが足元に寄せた灯りが目に映りこんで、銅色の目の中に、琥珀の炎が揺れているようだった。
 沈黙は重いものではなかったが、イーツェンは薄明かりの中でシゼをよく見ようと身を傾けた。何か、シゼは言いたいことがありそうな気がする。
 ちりりと、油燭の芯が燃える音がほろの内側に低く揺れた。
「シゼ?」
 少しの静寂の後、イーツェンはそっとたずねるように名を呼んだが、シゼはまばたきしただけで何も言わなかった。イーツェンは指先でシゼの額から前髪を払い、こめかみから頬骨までをさする。
 いつも険しいシゼの目元が、ルスタへついたことで一時やわらいだ、そのことを思い出していた。彼にとっても気の休まらない旅だ。
「凄いものだな、海は」
 沈黙の接ぎ穂に、何となくイーツェンがそう言うと、シゼはうなずいて立った。イーツェンに手振りで寝台をさす。
「横になって。背中に香油を塗るから」
「油、まだあったか?」
 内張のある革袋に入れて香油を持っては来たが、どうしても少しずつ染み出して減っていく。数日前に時間を見つけてイーツェンの背に塗った分で残らず使い切ったかと思っていた。シゼは、袋を絞るようにして油を使っていたから。
「予備がありますよ」
 初耳だ。しかしシゼが言うならそうなのだろうと、イーツェンは前合わせの紐をほどいてシャツを頭から脱ぎ、部屋に満ちた夜気に身震いした。暖炉に火を入れるほどでもない、と判断して薪を買うのはやめたのだが、やはり夜は冷える。この町に、冬はどれほど近づいているのだろう。リグではきっといつ深い雪が降り出すか、毎日空を見る頃合いだ。
 上半身裸になると寝台にひろげた毛布の上でうつ伏せになった。シゼはイーツェンの横に膝をつき、左手でイーツェンの肩甲骨の間にふれる。首に近いところ。そこも鞭の傷で覆われてはいたが、どれも浅い傷で、痛まない場所だとシゼは知っていた。
 息を長く吐き出し、イーツェンは体の力を抜こうとした。身のあちこちに凝ったこわばりをシゼが手の平でゆっくりと押し揉んでいく。傷が引きつれないよう、上からじっくりと力をかけては、離す。
 濡れたような音がして、肩ごしにちらっと見上げると、シゼが革を固めた筒型の容器から左手に油を垂らしていた。そんな物を荷物に入れていた覚えはないが、シゼは手回しがいい。
 それに──とイーツェンはなつかしさとともに思い出す──彼らの旅荷の大半を手配したのはヴォルであった。きっと色々と気を配ってくれたにちがいない。大柄な召使い頭を思い出して、イーツェンは毛布の中に微笑した。
 シゼは油をなじませた手をイーツェンの背に置き、傷を刺激しないよう注意深く香油をひろげていく。
 やさしいが、ためらいのないその手にふれられるのが、イーツェンは好きだった。身をよせあっている時とはまた違う、これまで誰にも感じたことのない親密さを感じる。シゼの手の温度よりも何よりも、その一体感がイーツェンの深いところをほぐすのかもしれなかった。
 背の内にじんわりとシゼの手の熱がつたわって、体の芯に居座っている緊張がゆるむ。むき出しの二の腕や、金属の輪が当たる首はいささか冷たいが、背中のぬくもりが気持ちいい。
「痛くないですか」
「うん」
 そう答えてから一瞬間を置いて、イーツェンはぽつりとたずねた。
「傷は、どうだ?」
「随分よくなった」
 シゼの返事にためらいはなかった。背骨の脇を、指の腹がゆっくりとなぞっていく。その指はきっと以前よりも強い。
 ちりちりと痺れるような刺激があって、イーツェンは目をとじた。シゼの手と香油に反応したこの微痛はじきに消え、楽になるのがわかっていた。
 シゼの手が動いているのをはっきりと感じられる部分と、肌の内側にかかる重さで手の存在がわかるだけの部分がある。自分の背中がどうなっているのかイーツェンには見ることはできない。見られないのが幸いかもしれないが、時おりどんなふうになっているのだろうと思うことはあった。傷が残ることを気に病んでいるわけではないが、それがどういうものなのかは見たい。どんな痕がこの身に刻まれて残るのか。
 傷跡の盛り上がりをシゼの指がたどり、過敏になっている薄い皮膚を避けて、固い筋肉のこわばりを押した。
 喉の奥で呻き、イーツェンは重くなってくる瞼を押し上げようとした。シゼの手は丁寧だ。イーツェンは言わないようにしていたが、川旅の間に溜まってくる痛みに時おり悩まされていたことを、シゼは見抜いていたのかもしれなかった。
「‥‥お前も疲れてるだろ。ずっと気を張ってたんだし」
 呟いた自分の声は、もう半分眠っているようだった。シゼはイーツェンの腰骨の方まで指をおろしていきながら、淡々とした声で答える。
「私は、今が一番いい」
 片目をあけ、イーツェンは後ろを見ようとしたが、背中を押さえられている上に、何よりもう全身がゆるんでいてひどく重い。
「どういう意味だ?」
 すぐには返事がなかった。どう答えるか言葉を選んでいるのだろう。イーツェンはつい微笑する。口数の多くないシゼがそうやって真摯に言葉を選ぼうとしている様子は、いつもイーツェンの心の深くにふれる。
 ほかの相手ならぎこちなくなるほどの間、シゼは黙ってイーツェンの背に香油をひろげていた。
 言葉が見つからなければ、今は言わないかもしれない。イーツェンがそう思ってぼんやりしていると、シゼの声が静寂の中にぽつりとひびいた。
「今、こうしてあなたと旅をしているのが、一番楽だ」
「‥‥屋根の下で寝られなくても?」
 イーツェンの面倒を見、彼を守り、他人に対して警戒を怠らず、いつでも剣を抜けるような体勢をとって、偽りの名の下で旅をしていても──とはイーツェンは続けなかった。食料と金の残りを常に数え、大部屋で眠る時は扉の脇で、壁に背を向けた場所を選ぶ。背後から襲われる心配がなく、何かあれば逃げやすい場所。
 彼らの旅は常に危険と隣り合わせで、緊張に満ちている。
「今がいい」
 シゼの返事は簡潔だったが、はっきりしていた。イーツェンは目をとじて微笑する。
「私もだ」
 奴隷のふりをしてほとんど口をきかず、人の見下しや命令に耐えなければならないとしても。だがそれは言わなかった。
 シゼは何も答えず、イーツェンは一拍おいて続けた。
「雪が降る前までならね」
 相変わらず何の返事もなかったが、シゼはイーツェンの声にある笑いを聞きとったのだろう、冗談に応じるような軽い手でイーツェンの背を叩いた。イーツェンは足をぱたぱたと動かして、抗議する。
 笑うために言ったのだが、実際にルスタで船をつかまえられなければこれも冗談ではすまなくなる。明日からまたがんばらねば、と思いながら、イーツェンは左手で自分の横にあいた場所を叩いた。
「シゼ。もう寝よう」
 船乗りの朝は早い。明日は、それに合わせて港に行かなければならない。
 シゼはイーツェンの背にもう1度香油をなじませると、手を拭い、イーツェンの上に毛布を引き上げて彼が心地よくおさまったかどうか確かめた。次に、物を入れる木の長箱を扉の前に据える。夜の間の用心だ。珍しくないことだが、この宿の扉にも鍵がない。
 それから長剣を寝台の横に置き、シゼは脱いだ胴着とシャツをたたみ、靴を取った。リンネルの下着は着たままで毛布の下に潜りこむ。
 イーツェンは横にいるシゼの存在を感じながら、目をとじた。
 香油が塗りこまれた背中には少しの間ちりちりとした刺激があったが、やがてそれはにぶくなって、ぬくもりだけが残る。背中の奥に巣喰った痛みの芯は消えないが、全身の緊張がゆるんで体が軽い。
 久々に腹も十分満たされ、藁の入ったやわらかな寝台で手足をのばして、イーツェンは深い眠りについた。以前だったら、明日のことを心配してもっと考えつめたかもしれない。だがイーツェンが悩もうが悩むまいが、明日は勝手にやって来るのだ。そしてその明日がどこへ向かって転がっていくのかは、明日にならないと誰にもわからないのだった。


 背中が暖かい。首すじは冷たい。イーツェンは暖かさに吸いよせられるように毛布の中へもぞもぞと首をすくめ、背中側のぬくもりへ体を押し付けた。
 シゼの腕が毛布の下で動いて、イーツェンを背後からゆるく抱く。まだ半分眠っているのか、イーツェンの背中に沿ったシゼの体はやわらかかった。
 夜明け前だろうか、空気がしんと澄んで冷たい。輪のはまった首すじまで毛布へしっかりうずめようと、イーツェンは再度動いたが、どうしてかシゼの腕にとめるような力がこもって、シゼは何か眠そうに呟いた。何を言っているのかよくわからないが、イーツェンはとりあえず適当に相づちを打って、さらに引きよせられるまま体の力を抜いた。
 ぴたりとくっついたシゼの体から、息づかいがつたわってくる。時おり同じ息のあたたかさがイーツェンの首すじにくぐもって、シゼは顔をイーツェンの首すじに寄せたまま、イーツェンを抱く腕にまた力をこめた。彼が眠っているのかどうか、イーツェンにはわからない。
 別々の毛布を掛けて寝ついたのだが、いつの間にか2人でよりそっているということはよくあった。イーツェンはシゼによりそえばよく眠れたし、シゼは悪夢にうなされるイーツェンを引きよせて落ちつかせた。多分、シゼもそうすることで落ちつくのだろうとイーツェンは思う。何だか犬や馬のようになだめられている気がする時もあったが、今のところ文句はない。
 そろそろ起きた方がいいのかと思いながら、イーツェンは体を満たすぬくもりに漂うようにぼんやりとしていた。窓の外で、遠く荷車の音が聞こえる。じきに町は動きはじめるのだろう。指先までもがひどく重く、動かそうとしても動かせない気がする。動かそうとしたわけではないが。
 体を抱くシゼの腕で、まるでどこかへつなぎとめられているように感じた。どこかとても、安全でおだやかな場所。巣に身を丸めた獣のような心持ちでもある。
 イーツェンはこっそりと微笑する。おかしな話だ。何ひとつ先が見えないこの状況で、かつて覚えがないほど満ち足りた気分になるなんて。ぬくぬくとした心地よさの中では、外側の世界のことなどどうでもいいもののように思われた。自分が眠っているのか、起きているのかもよくわからない。
 そのせいか、首元にくぐもった息を、イーツェンは一瞬夢だと思った。だが、次の瞬間、首から背骨の付け根までぞわりと痺れが抜ける。意識より体の方が敏感に感じとっていた。
 シゼが、イーツェンの首に──いや首の輪に、唇でふれていた。
 つめていた息を吐き出して、イーツェンは体の力を抜く。心臓がひどく熱い。シゼの唇は肌にはふれなかったが、金属の輪の上をすべっていくその動きを、肌が感じる。
 シゼは無言のまま、背中からイーツェンを抱きしめている。イーツェンは体の前に回されたシゼの右手に、自分の手を重ね、指を握りあわせた。
 背中全体にシゼの熱を感じる。同時に、あからさまではなかったが、まちがえようのない固い屹立の感触が腰の後ろに当たっているのもわかっていた。
 まあ朝だしな、とイーツェンは思う。自然なことだし、はじめてのことでもない。だがこれほど密着した体勢でいたことはなく、イーツェンはシゼの指をぐっと握った。当たり前だが、起きていることは互いにわかっている。だが何となくあらためてつたえないとならない気がした。
 そのまま沈黙がすぎて、イーツェンは身じろぎした。シゼの腕の中でぎこちなく体をひねり、ごろりと肩で回って、少しばかり苦労しながら向き合う。朝なので背中がこわばっているが、昨夜の香油のおかげで痛みはない。
 板窓のしまった部屋は暗く、息が聞こえるほど近くにいてもシゼの輪郭がぼんやりと見える程度で、表情はわからなかった。それでもとにかく彼の姿が見たい。
 イーツェンは手をのばして、シゼの肩にふれ、そこから探るように彼の顔の輪郭をなぞった。顎、口元、頬骨、眉、額。シゼは動かない。イーツェンの手がシゼの頬を包み、顔をよせて唇をあわせても、動かなかった。
 シゼの息が舌先にかかって、イーツェンは小さくふるえた。唇をひらき、まざりあう息を味わいながら、浅いが濃密なくちづけを重ねる。ふいに肩をシゼにつかまれ、押しやられるのかとイーツェンが思った瞬間、きつく抱きよせられていた。
 溺れるように、たちまちくちづけは深くなって、どちらがどちらにくちづけているのかもうわからない。強い昂ぶりが体を抜けて、イーツェンはひどく獰猛な気持ちで唇を押しつけ、シゼと主導権を争った。入りこんできた舌を吸ってシゼの口蓋に舌を這わせ、かるく頭を引くとシゼの下唇を噛み、たじろぐ唇をねっとりと舐めて落ちつかせる。荒くなる吐息を絡ませて、シゼがイーツェンの唇を覆った。
 どれだけ、そんなふうにくり返し唇を重ねていただろう。すべてのものが熱い息の中に呑みこまれ、いつの間にかイーツェンは寝台の上でシゼに組みしかれていた。闇の中で覆いかぶさってくる影を見上げたが、恐ろしさはない。興奮がちりりと肌の裏を走り抜けた。
 シゼ、と息だけで名を呼んだ。まだどこか半分夢の中にいる気がする。手をのばしてシゼの首の後ろに指を回し、引きよせて、またくちづけをねだった。
 身の芯に潤むような熱がある。体の欲望よりももっと深いところが揺さぶられるのがわかった。下肢にまでその熱がおりていく。城から救い出されてからほとんど反応を示さなかった牡に、痺れるような緊張感を感じていた。以前ほど、イーツェンはもう恐れていなかった。欲望も、その向こうにあるものも──
 シゼの唇が彼の口を覆い、呼吸のすべてを奪うように深くむさぼった。イーツェンはシゼの背に腕を回し、シゼが寝台についた両肘で体重がかからないようにしていることにぼんやりと気付いた。
 その体勢のまま、シゼは離した唇をイーツェンの首すじに顔をうずめた。全身を揺らすような大きな息をつく。イーツェンの指の下でシゼの背の筋肉が固く盛り上がり、緊張がはりつめた。
 イーツェンは目をほそめる。いつのまにか夜が明けたのか、板窓の隙間からうっすらと光の縞がさし入って、物の輪郭をやわらかくぼかしている。
「シゼ──」
 名前を呼んだ瞬間、遠くから鐘の音がひびいて、2人の体が同時にこわばった。大きくはないが、まちがえようもない刻の鐘が2度鳴って、消える。港町の朝はさすがに早い。
 窓の方へ向けていた顔をイーツェンが戻すと、シゼは身を起こそうとしているところだった。シゼの背中から、イーツェンの手がすべり落ちる。その途中でシゼの左腕をつかみ、イーツェンは動きをとめたシゼの顔を下から見つめた。
 シゼは無言でイーツェンを見おろしていた。乱れた毛布が彼の肩甲骨から腰あたりまで斜めによじれ、朝の冷気が入りこんできて、イーツェンの肌の熱を冷やす。
 シゼの唇は濡れていたが、うっすらと朝の光をとらえてイーツェンを見つめる銅色の目にも、表情にも甘いところはかけらもない。その頑固な表情を、イーツェンはよく知っていた。溜息をついて彼はシゼの腕から手を離すと、シゼと一緒に寝台に起き上がり、引きよせた毛布を肩にかけてくるまった。寝台の上で膝をかかえる。
「シゼ」
 シゼは床から拾い上げたシャツを、一動作で頭からかぶって両袖を通した。イーツェンは少し語気を強める。
「シゼ」
 やはり返事のないまま、シゼは靴に両足をつっこむと扉の前に据えた長箱をどかした。一瞬だけイーツェンを振り向き、何も言わずに部屋を出ていく。
 イーツェンは少し待ってから、毛布を落として立ち上がった。2人分の毛布をたたむと、ゆっくり身繕いをして、小さな骨の櫛で髪を整える。板窓をあけて光と朝の空気を部屋の中へ入れた。
 吹きこんできた風に、ぶるりと身を震わせる。海風だろうか。港の匂いもした。人の多そうな、少し湿っぽく崩れた匂い。町にはその町ごとの独特の匂いがあって、もしかしたらリグもそうだったのだろうかとイーツェンは思うが、慣れ親しんだ筈の匂いがどんな風だったのか思い出せない。あまりにも体になじんでいて、意識したことがなかった。
 戻れば、こうして異国の匂いを嗅ぎとるようにリグの匂いを感じるのだろうか。長い不在は、彼の目にリグをどんな風に見せるのだろう?
 拾い上げたマントを肩にはおると、イーツェンは床からシゼの剣、荷物の上から剣帯を取って腕にかかえ、廊下に出た。壁際の箱や袋に蹴つまずかないよう注意しながら、狭い階段をきしませて階下におりる。もう厨房には火が入っていて、下働きの娘がもっさりと眠そうに鉄の炉の火をつついている。
 その前を通って、イーツェンは裏口から外へ出た。
 建物の裏に囲まれた小さな水場で、シゼが水盤を使っていた。洗った顔を拭いながら振り向く彼へ、イーツェンは剣と剣帯をさし出す。これがないと落ちつかない癖に、何もそこまで慌てて出ていかなくてもよさそうなものだ。
「港へ行こう、シゼ」
 シゼは額からつたう水をまばたきで払いながら、うなずき、受け取った剣帯を腰に巻いて剣を吊った。長剣の重さというのは革鞘も含めてかなりのものなのだが、そうしてシゼが身に付けるとしっくりと腰の横におさまるのが見事だった。
 イーツェンは、横を通り抜けていこうとするシゼの胸元に手の平を置いて、とめる。早朝の鐘が鳴りはしても町は彼らの周囲でまだ眠っていて、水場に面した窓はすべてとじていた。人に見られる心配はない。
「シゼ。リグに戻れば私には私の立場があると、前にお前は言ったけど」
 革帯の金具をとめていたシゼの手がとまった。いつそれを言ったのか、シゼは覚えている筈だった。イーツェンがジノンと交渉しに旅立つ前。2人のくちづけをシゼが唐突に打ち切った後、イーツェンはシゼが何故踏みとどまるのか知ろうとしたのだ。その時に、シゼは言った。いずれイーツェンはリグへ戻ると。こんなことはいつまでも続かないと。
 シゼを問いつめるようなひびきにならないよう、イーツェンは声をおだやかに抑えた。
「ここはルスタだ。まだリグは遠い」
 シゼの頬から顎へ、滴がつたった。旅の間に焼けた肌は、イーツェンの薄褐色の肌とはまた違って少し赤みがある。線の強い骨格の影が映える顔を見つめて、イーツェンはシゼと視線を合わせようとしたが、うまくいかなかった。
「それに、本当に私がリグへ戻って心を裏返すと思うのか?」
 これは少し強い言い方になってしまった。シゼがそう思うのは仕方のないことかもしれない。だが、本心を言えばイーツェンは気に入らないのだ。一時の気の迷いだと、シゼが疑っていることが。
 シゼはまじまじとイーツェンの顔を凝視した。言葉をやわらげようとしてイーツェンが微笑を向けると、まばたきして、彼は白っぽい朝の空へ目をやった。
「私は‥‥」
 途方に暮れた様子で、小さく唾を呑む。イーツェンは口の中で溜息を殺した。シゼを困らせたいわけではないのだが、彼らは多分、どこかでもう少し話し合う必要がある。そう、口をひらきかけた時だった。
「──イーツェン。私はアンセラで、人を斬った」
 早口で低い声の向こうに、海鳥の鳴き声がした。イーツェンはまばたきして、シゼを見つめる。シゼは顎にぐっと力をこめて、まるで挑むように視線を射返した。
「あなたは忘れていても、私はユクィルスの兵隊だった。リグへ戻れば、あなたもそれを思い出す」
 その言葉と表情に虚を突かれたイーツェンが返す言葉を見つけられないうちに、シゼは肩から身を翻し、大股で宿の中へ戻っていった。


 イーツェンは水が染み出してくる水盤で顔と手を洗い、口をすすぎながら、考えこんでいた。
 ──アンセラで、人を斬った。
 いかにも唐突な言葉だが、シゼの中では、そのこととイーツェンとの間のことが大きくつながっているのは明らかだった。
 アンセラで人を斬ったと、シゼは以前にもイーツェンに言った。あれはまだエナと出会ったばかりの頃。罪を告白するようにシゼはそれを言い、イーツェンは仕方のないことだと受け入れた。事実、シゼにはどうしようもないことだ。兵隊に選択肢はない。それですんだと思ってもいた。
 だが、シゼの中にはまだ澱むものがある。
 頭を振って水盤のそばから立ち上がり、イーツェンは厨房へ行くと、下働きの娘が温めているパンとチーズの切れ端をもらって、3階までゆっくりのぼった。
 部屋に入ると、シゼはマントをまとって靴の紐を結び直し、出かける支度をしていた。イーツェンはパンにチーズを乗せて手渡す。とりあえず出かける前に腹ごしらえを、と2人で食べながら、小さな窓から外をのぞいた。向かいの建物の壁しか見えないが、その壁に彩りのいい絵が描いてあって、おもしろい。
 波の模様だろうか、うねる線を眺めながら、イーツェンは口をひらく。
「何で私を信じない、シゼ」
 返事はなかった。まあ、ないだろう。イーツェンは続ける。
「アンセラでお前がやったことは、やるしかなかったことだ。仕方のないことだ。お前が望んでやったことじゃないだろう」
「私はアンセラで人を斬ったし、城ではあなたを見張り、あなたの足に枷を付けた」
 シゼのその言葉に、イーツェンは振り向いた。シゼは食べ終えた手からパンくずを払いながら、表情を殺してたたずんでいる。暗い緊張が彼の肩をこわばらせていた。
 その目がイーツェンの首筋を見ていることに気付いて、イーツェンの胸の奥を一瞬するどいものが貫いたようだった。シゼはまだ、己が掛けた枷の幻影を見ているのだろうか。彼を本当に縛っているのはそれなのだろうか。
 残ったチーズを口に放りこみ、飲み下して、イーツェンは胸の前で腕を組んだ。
「シゼ。アンセラのことも、城でのことも、私たちとはもう関わりがない。何もかももう亡霊と同じだ。ユクィルスへ捨てていけばいいことだ」
「‥‥‥」
 1歩、シゼに近づく。
「捨てよう、シゼ」
 そっと言う自分の声は、乱れそうな気持ちと裏腹にひどくおだやかだった。イーツェンがまだ悪夢に追いかけられているように、シゼを追う影もあるのだ。それをただ切り捨てればすむと、口で簡単に言うようなわけにいかないことは、誰よりイーツェン自身がよく知っている。
 だが、何故その影がシゼをこうまで踏みとどまらせるのか。イーツェンにはどうしても、シゼの考え方が正しくひびかない。
 シゼは両腕をだらりと脇に下げたまま、立ち尽くしている。困ったように肩が落ちていて、イーツェンは組んでいた腕をほどくと、シゼに身をよせて背中へ腕を回した。ほとんど間を置かず、シゼの腕がイーツェンの背を抱く。
 こうして親密な空気を分かち合うことには、気持ちも体もすっかりなじんでいるのに。イーツェンはシゼの首すじに頭を預ける。辛抱強く待とうと決めた筈でも、シゼと彼との間に隔てがあると思うと体の深くが痛むようで、時おりひどくつらい。色々な痛みを知っているが、この痛みはそのどれともちがう。しんとつめたいものが指先まで静かに染みとおるようだ。
「何があっても、私はお前が好きだ、シゼ。お前がいたからここまで来られたんだ。たとえリグへ戻っても、何があっても、気持ちを裏返すようなことはない」
「‥‥‥」
「どうして、私を信じない」
 マントの襟元の上、顎の下にくちづけて、イーツェンは目をとじる。言いつのっても仕方ない。一瞬の情欲に流されるには、シゼの中にあるものはかたくなすぎるのだ。
 それは恐れなのだろうか。あるいは、矜持。それとも──と、イーツェンは少しばかり苦く思う──あくまでシゼなりにイーツェンを守ろうとしているのかもしれない。イーツェンには見えてこない何かから。そのどれもが少しずつ真実である気がした。
「城には私しかいなかった、イーツェン」
 シゼの声が耳元でした時、どうしてかイーツェンは、ひどく驚いた。
 溜息のような声だ。何を言われているのかわからずに、彼はまばたきする。
「あなたが頼れるのは、私しかいなかった。今でもそうだ」
「‥‥‥」
 するどく顔を上げ、反論しようとして、イーツェンは吐息ととともに言葉を呑みこんだ。ただそこにシゼしかいないから、シゼが自分を守ってくれるただ1人の相手だから、心をよせたわけではない。本当はシゼの耳元ではっきりとそう言ってやりたかった。彼の中にその言葉が染みとおるまで。
 だがイーツェンは、かわりにシゼの抱擁に体を預け、シゼの背に回した腕に力をこめた。シゼは、自分で言っていることを自分で信じている風ですらなかった。それが真実ではないと知りながら、どうしても迷いの中から抜け出せないようでもあった。
 2人の関係はあまりにもねじれた形で始まり、周囲の出来事と複雑に絡み合いながら、その形を変えてきた。
 シゼの迷いは、理解できる。──それにシゼは、1度足元をあやまった。レンギと。それが今でも傷になっているのではないかとイーツェンはぼんやり疑っていた。聞くことは、できなかったけれど。
(私しかいなかった)
 あの時起こったのは、そういうことだったのだろうか。レンギもシゼも、どちらも深く傷ついていた。それは知っている。そしてそれは、今のイーツェンにはどうしようもないことだ。
 顔を上げ、イーツェンはシゼの口元にゆっくりとくちづけた。困ったことに、彼はシゼのこういう手の届かない頑固さや、繊細さも好きなのだった。
「お前でなければ駄目だったよ」
 囁いて、身を離した。微笑する。
「もしほかに誰がいても、私を助けられるのはお前だけだ」
「‥‥イーツェン」
「船を探しに行こう」
 明るく言ったイーツェンにシゼはとまどったような視線を向けてから、ゆっくりとうなずいた。イーツェンは彼の胸元をぽんと叩く。1歩ずつ。結局のところ、それしか道はない。
 ここにたどりつくまでも、1歩ずつ歩みを重ねて長い道を来た。この先もそうするだけだ。
 明日は放っておいても勝手にやって来る。その明日が何をもたらすのかはイーツェンにはわからない。彼にできるのはただ歩き続けることだけだった。シゼと肩を並べ、歩幅を合わせて。