クリムは気が変わって早朝に陸路を発った。そう告げたジャスケの説明を、船の人間は何の反応も見せずにそのまま受け入れた。額面通りに受け取らない者もいただろうが、まさかクリムの身におこった不幸まで疑ってはいないだろう。
 ジャスケのもう1人の連れはどう思っているのかと、イーツェンは気取られないよう様子をうかがったが、ジャスケとは裏腹にやせて穏和そうな男は、相変わらずのどかに笑って「若い者は気まぐれだ」と調子を合わせていた。そう言われるほどクリムは若くないのだが、何となく船客はその言葉に笑って、そのままそれは済んだ話になってしまったようだった。誰もが自分のことで手一杯で、他人のことに興味がない。
 イーツェンはシゼの横に座ってぼんやり周囲の雑談を聞き流しながら、時おり、頭上にはためく帆を見上げた。風向きが悪かったり、急流になったり、砂州があったりと帆を張れない日が続いたが、今日はゆるくふくらんだ帆が背後からの微風を受けて、船は快調に水の上をすべっている。帆を風に取られて座礁する危険があるらしく、風が強い時もまめに縮帆していて、川船というのも難しい。
 いくつもの支流と合流した川はすっかり太くなり、この2日の雨でたっぷりとした水量をたたえて、少し怖いほどの勢いで流れていく。やはり雨のせいか、流れは濁っていて、川がどれほど深いのかまるでわからない。
 左岸に砦のようなものが見えてきて、イーツェンは身をひねりながら目をこらした。船客たちもまばらに気付きはじめ、しまいに皆が同じ方向を見た頃には、船はそのすぐ近くにさしかかっていた。
 壁?
 イーツェンは急斜面の土手の上にのぞく構造物を、けげんに眺めた。遠目に砦かと思ったそれは、行きすぎながら見ると、どこまでも延々と長く続く一列の杭の壁である。
 子供くらいならたやすく通り抜けられそうだが、定間隔で打ちこまれた杭の間は、かなり狭い。その杭の列が、見える限り先までずっと、川岸に沿って並び立つ。
 まるですべてを拒否するような壁の向こうには、だが、守るべき何物もないように見えた。砦も、町も、城も、建物や集落の気配もない。杭の列はそれらを覆うほど高くはない。
 何のための杭なのかと目をこらして見ていた時、すっかり耳に慣れた金属性のひびきの声が高らかに言った。
「ハルマスタムの防壁ですな。往代のキルロイの王が、水からの災いを夢に見て築いたというもので、ひとたびなどは、あの杭に炎をともして蛮族を撃退したと申しますなあ」
 あまり聞きたい声ではなく、イーツェンはジャスケの方を見ないようにしつつも、思わずへええと感心していた。正体は相変わらずわからないが、博識な男であるのはまちがいない。
 杭の壁は、驚くほど長く続いていて、何百本、何千本という杭を数えようとした目が痛くなるほどだった。いつの話かわからないが、ジャスケの話しぶりではかなり昔のことのようで、壁は今でもしっかりとした手入れが為されている様子だった。今となっては両岸ともにキルロイの領土だから、何に対しての守りなのかは疑問だが。
(水からの災いを夢に見て‥‥)
 この壁を築いたという王が見た夢、それはどんな夢だったのだろうと、イーツェンは思う。遠見が未来を見るような、茫漠と織り重ねられた光景だったのか、それとも骨身にせまるような鮮やかな恐怖の悪夢だったのか。この壁を王に作らせたという夢は、どんな色をしていたのだろう。いつか守りになることを願い、王はこの無数の杭を打たせた。夢にまるでとり憑かれたような、それはひどい無謀にも思える。
 イーツェンは目をほそめた。どこか、覚えのある風景を前にしたように、心が奥底からざわついた。
 ──リグにも、巨大な守りがあった‥‥
 まるでこの杭のように、来るともわからない「いつか」のために用意された守り。
 カル=ザラの街道を封じるために用意されていた、山の一部を崩すほどの強大な呪法。
 イーツェンたちの代へ至って、それはもう古びた言い伝えのようなものでしかなかった。ユクィルスの侵攻を受けてはじめて、彼らはあわてて古い口伝を知る者を探し、神殿に残る記録をひっくり返した。そんな術があるのか。動くのか。動かせるのか。手掛かりを必死に求め、術があると確信を得た時には、皆で地に伏して先祖に感謝を捧げた。
 一体誰が、とイーツェンはよく思ったものだった。数百年という昔だ。誰が、あんな、山を崩すほどの途方もない呪法を残したのだろう。単なる用心や警戒心から残せる術ではない。
 彼──彼女?──にそこまでのことをさせたのは、どんな予感であり、どんな恐怖だったのだろう。
 いつか災いがあの道を通ってリグへ押しよせると、彼らがどれほどはっきり悟っていたのか。伝承には残っていない。だが誰かが災いを予見し、それでも彼らには、交易のための街道が必要だった。それがなければいつか飢える。それほどの願いであった。
 災いの訪れる道を作ると同時に、それを潰すすべも作る。
 ──それが苦悩の果ての決断であったことは、イーツェンにもたやすく想像がつく。術を作る際に払った犠牲は軽いものではない筈だ。事実、それをほぼ最後に、リグの民は呪法を捨てた。呪師の存在は2度と記録に現れない。それほどのものを賭けて、彼らは後代に術を残した。
 どんな思いでその決断をしたのだろう。どれほどの苦悩だったのだろうかと、イーツェンはずらりと並んだ杭の列を眺めながら、不意に胸がつまるようだった。
 目の前を通りすぎていく、川と陸とを分断するような無数の杭。延々と続くこの杭の壁、夢ひとつから出た恐怖で、人はここまでのことを為すのだ。それはリグの先人たちを駆り立て、術を作らせた恐怖と同じもののように思えた。
 無数の杭。不気味なほどに立ち並ぶ、そのひとつひとつに、イーツェンは彼らの恐怖を見る。
 これまで、術を仕掛けた先祖たちは、イーツェンにとって何か理解しがたいもののようにひどく遠い存在でしかなかった。だがこうして川風の中で杭の壁を目のあたりにしていると、彼らもまた血の通った、それぞれに追いつめられた人間だったのだと感じる。それが最善の方法であるかどうかわからないまま、きっと彼らは恐怖の中でもがき、もがいた結果がこうして後の世へ残ったのだ。
 やがて杭の壁がまばらに途切れて消えるまで、長い間、イーツェンは身じろぎもせずに目で追いつづけていた。
 気付かぬまま胸の奥にずっと居座っていたざわめきが、しんと鎮まったようだった。いつかリグに戻った時、誰ともわからぬ呪師に祈りを捧げよう、と思う。
 その人が何者であるのか、何を考えていたのか、イーツェンは知らない。だができることなら、そうして残した術が動かされ、街道を塞いだことを伝えてやりたかった。何にさいなまれてそんな強大な術を仕掛けたにせよ、もうそれは終わったのだと。未来を案じたその思いがリグを守ったのだと、告げてやりたくてたまらなかった。


 川に船がふえてきたな、とイーツェンがぼうっと思いはじめた頃、船は大きな港についた。半分眠りに入っていたイーツェンを、シゼが肘でつついて起こす。
 何しろ昨日の寝不足だ。イーツェンはジャスケをうらめしく思いながら、あくびを殺して、周囲を見回した。
 上流側の埠頭を見て、ずらりと並んだ船の姿に目をしばたたく。
 四角い切り石を積んだ船着場から短い埠頭が何本もつき出し、港全体が細かい区画に分けられている。イーツェンたちの船の船乗りは埠頭に立つ役人と何か口早に怒鳴りあって、指示された場所につけた。
 それにしても船の数が凄い。漁に使うのだろう、1、2人乗りの小さな船が上流に20隻あまりも係留されているのだが、船のほとんどが彩りよく塗料で塗られ、赤や黄や青を使って派手な模様が描かれたものも多い。
 あれは何だ、と思っていると、やはり赤茶に黄の縞が入った船体の小船が戻ってきて船列のはじに船をつけ、頭に布を巻いた男が、網と魚籠をかついで船着場の上にとびうつった。やはり漁の船らしい。それにしても、あんな派手な船は祭り以外でははじめて見た。
 そちらに注意を取られていたイーツェンは、シゼに袖を引かれるまで船客たちが動きはじめたことに気付かなかった。皆が荷を持ち、順に立ち上がって、渡し板から船を降りていく。役人が埠頭に立って人数を書きとめ、1人ずつ紐に通した小さな木札を手渡していた。
 シゼが荷を肩にかついで立ち上がる。イーツェンも自分の荷を持って立ち上がりながら、ちらりと視線をとばすと、ジャスケは積荷のそばに悠然と座ったまま船乗り相手に軽口を叩いていた。船を降りるつもりはないのか、荷のあらためでも待っているのか。イーツェンは目を伏せて、彼らに背を向けた。
 船と波止場をつなぐ渡し板は広く、渡りやすい。シゼに続いて固い石積みの船着場に降り立ったイーツェンは顔をしかめた。地面に足をつけている筈なのに、体がぐらぐらする。この不安定さが気持ち悪い。水に動かされる船の感覚を体が覚えてしまっているらしい。
 シゼが役人に手形を見せ、おざなりな名前の確認の後、役人は2人に木札を渡した。港内の通行証だ。
 彼らがやりとりをしている間、イーツェンは周囲を眺めていた。これまで通りすぎたものとは比べものにならないほど大きな港町だ。埠頭には船が列になって係留され、じき夕刻だというのに港内を行き交う人の数も多く、空気の中に肌がざわつくような活気がある。
 港全体にうっすらと独特の匂いが漂っている気がしたが、正体がよくわからない。魚の匂いだろうか。
 港には間口の大きな倉庫が面していたが、平らな石屋根の建物の向こうに石積みの壁が見えて、どうやら港の区画一帯がその壁で囲われている様子だった。町へ向かう門がどこにあるのか、イーツェンが木札の紐を帯に絡めながらきょろきょろしていると、シゼが耳打ちした。
「腹は?」
 腹がどうした、とイーツェンはけげんにシゼを見た。それからあらためて、シゼの顔を見直す。川旅の間、緊張を切らすことのなかったシゼの表情がやわらぎ、口元の険が取れていて、彼はいつもより若く見えた。
 シゼは、倉庫とは逆の方向を顎で合図した。港のはじに溜まった人だかりにはイーツェンも気付いていたが、あらためて目をこらすと、荷車のようなものを囲んだ人々は、手にした何かをぱくついている。
 シゼの問いが「腹はへってないか」ということだと呑みこんで、イーツェンはうなずいた。2人は荷を肩にかけたまま歩き出す。
 近づくと、荷車と見えたのは車輪の上に大きな木枠を据えたもので、木枠の内側に煉瓦をはさみ、中央に鉄の炉がはめこまれている物だとわかった。人だかりの間から首をはさんでしげしげのぞきこんだイーツェンは、炉の中で燃えている泥炭のような黒い塊を見つめて感嘆する。これか。
 海に近い地方では、細かくした草や木の粉を魚の油を固めて燃料にする、という話を読んだことがあった。リグでは獣の糞に枯れ草を混ぜ、乾かして冬の燃料を作るのは子供たちの仕事で、それと似たようなものかと思った覚えがある。こうして現物を目のあたりにできるとは、旅も捨てたものではない。
 型に入れて押し固めるのか、四角く、密につまったようなその燃料は、思いのほかゆっくりとした炎を上げていた。煙も意外と少ない。
 いいなあ、と思ってあからさまに凝視していると、木枠の向こうで火をつついている男がいかにもあやしむような目を向けたので、イーツェンは赤面してシゼの後ろに半歩下がった。奴隷が1人で冷やかしに来てるとでも見られたのだろうか。
 シゼは、火のあたたかさに引きつけられて周囲にたむろっている人々の間を押し分けて、移動式の炉の前に立った。炉の上ではイーツェンが見たこともないほど大きな魚が頭から尾まで串刺しにされて焼かれていた。魚は何かの葉でぴたりとくるまれているのだが、頭と尾がはじからのぞいているのでその大きさがわかる。
 炉の横では、頭に巻いた布に髪のほとんどをたくしこんだ娘が、焼き上がった魚の身を手際よくほぐし、赤いたれや刻み菜を混ぜこんでいる。イーツェンの知らない、鼻の奥を刺すようなするどい香料の匂いがたちのぼっていた。
 シゼは身をかがめ、娘に青銅の硬貨を手渡す。娘は傍らのむしろから生地を丸く焼いた皮をひとつ取り、焼き目のついた面に魚のほぐし身をのせると、2つに折ってシゼによこした。
 シゼから手渡された食べ物を、イーツェンはしげしげと眺めた。
 リグでもユクィルスでも、固く焼きしめた生地に色々な具をのせて食べる。しかしこの皮は薄くしなやかで、黄色がかり、きめが細かい。包んだ具はまだあたたかく、刺激的だが香ばしい匂いが漂っていた。
 荷夫や船乗り、漁師が行き交う港のはじに立ち、イーツェンとシゼは絹布のようになめらかな川の流れを見ながら、はじめて口にする魚の皮包みにかぶりついた。生地は見た目より歯応えがあり、強く噛むとぶちっと切れて、舌をヒリリと刺すような辛味と濃厚な甘さが中からあふれてくる。たれが絡みついた魚の身には独特の油臭さがあったが、刺激的なたれと混ざると、何とも言えないねっとりとした味わいになる。
 何も考えずにはじから食べていたら、包みの逆側から具と汁が滴りそうになって、イーツェンはあわててそちらの側を口に持っていった。だが、今度は逆がおろそかになる。じたばたと両側をかじりながらどうにか無事に食べ終え、指をなめた。体の温度が少し上がったようで、口の中も熱い。辛みを払おうと唇をなめた。
 シゼが、一口飲んだ水袋をイーツェンへ回す。大きく飲んでから、イーツェンは誰も彼らの話を聞いていないことをたしかめ、低くたずねた。
「泊まりになるんだろ。船宿はどこか聞いたか?」
 シゼが妙な目つきをイーツェンに投げる。間があいて、イーツェンはまばたきした。
 イーツェンの手から革袋を取って残りを大きく飲み干し、シゼは微笑した。
「ここはルスタだ、イーツェン」
「‥‥‥」
 イーツェンはぽかんと口をあけ、とじた。そう言えば船客の誰もが、旅の終わりのような様子だったことに思いあたる。
 だが──と、港をぐるりと見回した。見慣れた川の流れ。平底の川船がずらりと停泊している。
 ルスタは海に面した港町の筈である。そしてイーツェンとシゼは、海を目指してここまで旅をしてきた。港から外海へと出る船に乗って東へ行くために。
「海は?」
「あっちだ」
 シゼは港を囲う壁の向こうをさした。町を通って、あらためて海の港へ出るということか。イーツェンは少し考えてからそこのところは呑みこんだが、まだ何となく納得いかない。ルスタに到着した気がしないのだ。ルスタまで行けば海があると思っていたのに、ここから見えるのは川と川船ばかりである。
 まずは海だ。そう心に決めて右手を見ると、シゼのおだやかなまなざしとぶつかった。ルスタまでたどりついたことで、彼もひとまずほっとしているのだろう。イーツェンは微笑する。
「海を見にいこう、シゼ」
 シゼはかすかに口元をゆるめて、うなずいた。
 2人が港と町をつなぐ門へ続く道を歩き出した時、何やら大仰な馬車がゆっくりと走りこんできてイーツェンは目を見はった。見事な黒馬の二頭立ての黒檀の馬車は、窓や装具を銀で象眼され、屋根は凝った曲線を描いている。御者までもが美しい彩りの布を頭に巻き、白い毛皮のふちがついた絹の胴衣をまとい、膝丈の青皮ブーツを履いていた。一目でとんでもない金がかかったしつらえであるとわかる。御者にまでこんな装いをさせるのは一体何者だろう。
 つい立ちどまって目で追っていると、馬車は車場にとまらずに埠頭の足元まで乗りつける。見事な身ごなしでとびおりた御者へと、待ちかねていたように、すぐさま男が歩みよった。
「‥‥‥」
 イーツェンは目をほそめ、シゼを呼びそうになった口をとじた。人がそばを歩きすぎていく。
 御者に歩みよって手ぶりをまじえて熱心に話しかけているのは、ジャスケであった。
 荷とともに船に残っていたジャスケだが、この馬車の到着を待っていたのだろうか。荷を引き渡す相手だろうか?
「行くぞ」
 低い声で、シゼがうながした。イーツェンはうなずき、踵を返してシゼの後ろを歩き出したが、その前に馬車に描かれている紋様をしっかりと目に焼きつけておくのは忘れなかった。
 ルスタにも無事ついたし、ジャスケとこれ以上かかわりあいになるつもりはない。あの紋様のあるところには近づくまい。
 それにしても彼は何を運んでいたのだろう、と好奇心がちくりと心を刺したが、イーツェンはそれを心の底へしまいこんだ。


 門のそばに建つ門塔で手形を見せ、旅の目的を──ゼルニエレードの知人のところへ贈り物の奴隷をつれていくと──告げ、署名して、下船の時にもらった木札を返す。思いのほかあっさりと手続きを終え、シゼとイーツェンはルスタの町へ入った。
 漆喰と石で作られた建物が多く、どれも二階家や三階家で縦に長い。建てこんだ家々の間を広い通りが左右にくねりながら抜けていて、門を出たイーツェンたちは、通りの人波に呑まれるように歩き出すしかなかった。
 ユクィルスの町並みとはまたちがい、漆喰と言っても、ルスタの建物にはその上から派手な色が塗られているものが多い。魔除けのような青い模様や、帆に風がみなぎった船の絵、太陽と鳥など。多分それぞれの絵に意味があるのだろう。
 商売の店では、売り物の絵をでかでかと描いている。蹄鉄、衣服、パン。天秤の絵を2階の壁に描いているのは両替商、ろくろの絵は木椀作りの工房。糸巻の絵は、仕立屋だろうか? イーツェンはきょろきょろしながら歩いたが、よく意味のわからない絵もたくさんあった。
 ひらけた港町らしく、道行く人々の服装も人種も様々で、シゼもイーツェンもこの中ではまるで目立たない。商人、職人、船乗り、荷夫、兵士、奴隷‥‥この町らしく、まるで無数の色を散らすように、人の顔立ちも格好も多岐に渡っていた。女の商人も多い。頭に派手な色の布を巻いて髪をたくしこんでいる姿をよく見かけるのだが、あれが港町風のいでたちなのだろうか。
 ほっ、ほっ、ほっ、という人の掛け声が、空気をふるわせる車輪の音とともに近づいてくる。イーツェンとシゼは道の脇へよって、荷車を引いて走る荷夫たちの列を避けた。人の動きが早い。
 周囲を見回してもどちらへ向かっていいのかわからないイーツェンは、早足で歩き出したシゼを追いながらとまどったが、じきにシゼが荷車を追っているのに気付いた。港へ向かうと見たのだろうか。
 道は左右にうねっている。町の防備のためにわざとそうしているのだろう。斜めに交差した大通りを折れると、宿屋の呼びこみ、魚の振り売りの声、それに何故か銅鑼の音が入り混じったものが、頬をはたくように大きくせまってきた。
 道で手下げの小さな銅鑼を叩いているのは、いかにも船乗りといういでたちの男だ。肌は赤銅色に焼け、色あせたシャツの上からでも筋肉の盛り上がったいかつい体つきがわかる。銅鑼の合間に、しゃがれた声で叫んだ。
「明日の昼一点にファルバース号出港! 稼ぎたいヤツは黒いもぐら亭に今夜のうちに来い!」
 しゃべり方に極端なほどの訛りがあって、聞き取るのに苦労した。
 ユクィルスに来たばかりの時も、イーツェンは自分の発音のちがいがひどく気になったものだ。だがルスタまで来ると、半分くらい別の言葉のように聞こえる。海の向こうの国の言葉がいくらか混ざっているらしいのだが、意味がまるで取れないわけではないのがおもしろい。
 そう言えばリグでも、リグの民と山中で独立して暮らす山の民とは話し方や細かい言葉が異なっていて、それはお互い、他所者を見分ける役に立っていた。少し話せばどこの部族かすぐわかる。
 船乗り同士もそんなふうに互いを見分けるのかもしれない。彼らの会話は時に符丁のようで、今も目の前で男が銅鑼を叩きながら船について怒鳴っているのだが、イーツェンには船の名と帆柱の数以外、言われている内容がまるでわからない。
 水夫を募集している、ということだけは呑みこめた。どうやら船の出港はまだあるらしい。それはいい知らせだ。客としてだけでなく、働き口として船に乗りこむ手もあるのだろうかと銅鑼から遠ざかりながら思ったが、彼らができるような仕事が船内にあるものだろうか。
 考えこんでいるうちに、シゼが立ちどまった。いつのまにか荷車を見失った様子で、道端で宿の客引きをつかまえて、港の方角を聞く。夕方から出港する船なんてないからとにかくうちに泊まれとうるさい客引きに、後で戻ってくると空約束をして道角に立つ標識の見方を教えてもらい、2人は港への道を歩き出した。


 川港と海港の2つに面しているためか、ルスタはやたら広かった。標識を読んで道をたどりながら、イーツェンは港へ続く道の中央が石で舗装されているのに気付いた。荷車用の道だ。
 大通り以外の道はどれもやけに狭く、建物の間を縫うようにはりめぐらされている。うかつに入りこめば出てこれないような、濃密な暗さの溜まる場所もあった。
 シゼは巻いた毛布をのせた荷を軽々とかつぎ、左腰に長剣を帯びて、器用に人の流れを追いこしていく。迷うとわけがわからなくなりそうで、イーツェンははぐれないよう、シゼの背にぴたりとついて追った。
 風の匂いに気付いたのは、久々に歩き疲れて足首が固くなってきた頃のことだ。イーツェンは鼻を匂いの方へ向けて、目をほそめる。魚‥‥の匂いとも少しちがう。生ぐさくはないが、どことなく生々しいような、不思議にざらついた匂いが空気にからみついていた。
 その匂いの方へ、2人は歩く。段々と、わけもなく鼓動が強くなってきて、イーツェンは何度も唾を呑みこんだが、喉はいつのまにか乾ききっていた。
 道の両はじは雨水を流すために低く傾いている。そこに足をとられないように足取りを早めた。行く手の道を大きな一対の建物がはさんで、その向こうに、粘るような光が揺れている。
 それは遠い光だったが、イーツェンの目を強く射る。水平線に太陽のかがやきが溜まっているのだ。空と水のはざまをひとすじの輝きが分け、それをうつした水面には、細かな光が鱗のようにつらなっていた。
 ガラガラと、夕刻の道を大きな音をたてて荷車がせわしく駆け抜けていく。石の道を車輪が噛むと耳を叩くほどにやかましい音が鳴った。夕刻となっては港に向かう者は少なく、引き上げてくる荷夫たちがイーツェンとシゼにあやしむような目を向けてすれちがった。
 海港も柵で囲われている。船を探しているとシゼが言うと、門塔の衛兵はあっさりと2人に通行の木札を渡した。
「港内で剣を抜いた者は1日の泥さらいだ」
 衛兵に警告され、シゼはうなずくと、イーツェンをうながして広い塔の間を抜ける。防壁の櫓の間を抜ければ、その先はもう港だ。
 さっきから感じていた独特の匂いが一気に強くなって、イーツェンは鼻先を動かした。油と木の匂い、松脂のようないぶ臭い匂い──これは船の匂いだろうか。これまで通りすぎた川港でも嗅いだ匂いだ。だがそのすべてを押し包む、イーツェンのまるで知らない匂いが、この風にはあった。
 そして、音。人と荷車の行き交いにまぎれて聞こえなかった音が、光へ向かって歩いていくにつれて身にせまってくる。水が岸に押しよせ、波立つ音。ゆったりとくり返される音が、うねりのように大きく重なりあっては砕けていた。
 港に出ると、目の前が急にひらけた。風と波の音にまざって海鳥の甲高い鳴き声がひびく。
 石積みの埠頭はイーツェンの左右に長くのび、右手は港を囲んでせり出した陸に沿って折れ、海へかかる桟橋につながっていた。桟橋や埠頭の根元に漁の小船が何十隻と並んで係留され、その真上を海鳥の群れが何かを狙うように低く旋回している。
 イーツェンの左手奥では、沖へ向かって大きな桟橋がのびている。川港で見たものとは比べものにならないほど太く、長い桟橋だ。木の桟橋の先に大きな船が停泊していて、イーツェンは息を呑んだ。呑みこんだ息はイーツェンの喉の奥でざらつき、舌の上にかすかな苦味がひろがって、一瞬で消える。
 遠くから見ても、それがまるで家のように巨大な船だということがわかった。丸みをおびた船体から2本の帆柱が高くのび、蜘蛛の巣のようにロープが複雑に張りめぐらされている。帆柱の上では人が作業をしていたが、イーツェンの位置からでは、空に溶けそうな小さな染みが動いているほどにしか見えなかった。
 船の向こうに見える空には夕暮れに近い斜めの陽光が見ちて、どこまでもひろがる海は、重さを呑みこんだような灰色がかった青であった。無数の波が白い泡をたてて、沖から岸へと押しよせてくる。イーツェンは視線を海に向けて立ちすくんだ。
 見渡す限り平坦な水平線を見ていると、何かに呑みこまれてしまいそうだ。何という広さだろう。岸の近くに錨泊した船以外、その向こうには何もない。ただ、水と空だけだ。
 水平線がどれほど遠いものか、見当もつかない。空と海のあわいは傾いた陽を受けて白く輝き、見つめていると何もかもがにじんで青い光の中に溶けていくようだった。
 あそこを船で旅するのか。そう思うと眩暈がした。流れも、目印もない。道もない。風すら方向をさだめず、四方から押しよせてくる気がした。あんなところをどうやって人は旅の道としているのだろう。
 足が小さくふるえて、イーツェンはすがりつくような思いでシゼへ身をよせた。シゼは何も言わずにイーツェンの肩に手をのせる。
 その小さな仕種ひとつ、シゼの手の重さを感じるだけで、不安はゆっくりと薄らいだ。いつもそうだ。シゼの顔をちらりと見て、彼がイーツェンと同じように海に心をとられていること、海へ向けた畏怖の表情を見て取るだけの余裕も出る。
 おかしなことだが、シゼも不安なのだとわかると余計に落ちついた。イーツェンはこっそりと微笑する。大丈夫だよと根拠なく安心させたかったが、口をつぐんだままでいた。シゼはそれを言うイーツェンの心もとなさなど見抜くだろうし、何より彼は、自分の隙を悟られるのを嫌がる。
 黙ったまま、水平線へ目をこらした。光の加減か、風の加減か、海のところどころで水の色がちがう。鱗のような小さな光が水平線の近くで群れになって揺らめいていた。
 息を大きく吸いこむ。海風の匂いと波の音が体を満たした。その風は、はるか遠くから海を渡ってきた風なのだと思った。海の向こう。見たこともない地。
 世界は広く、信じられないほどに遠くまで、はるかにひらけている。リグに残っていたなら、いやユクィルスを旅立つことがなければ、決して思いも及ばなかったほどに。
 ふう、と大きな溜息がとなりから聞こえた。顔を向けたイーツェンは、やわらかな表情をたたえたシゼとまっすぐに視線を合わせていた。
 見つめあい、どちらからともなく彼らは微笑する。一瞬、言葉に表せないものが2人の間を通い、イーツェンは何も言う必要がないのだとわかった。
 海を見て立ちどまっていたのは数秒のことだったにちがいない。ふいに押しよせるように周囲の音が戻ってきて、彼らは通りすぎていく船乗りの一群を避け、建物の脇へ寄る。人波をやりすごしてから、2人はゼルニエレードへ向かう船を探すために船着場へと歩きはじめた。
 旅はまだ途中だ。この先へ、まだ先へ。ここで立ちどまるわけにはいかない。