ざらついた芋の皮をなまった青銅の刃ではぎ取りながら、イーツェンは疲れた溜息をついた。途端に後頭部を平手ではたかれる。
「痛いよ」
 口の中で文句を言うと、イーツェンを叩いた若い奴隷はからからっと笑って、皮を剥いた芋の山を籠ごと持ち上げた。首にはユクィルスの奴隷とは少し違う細い二重鎖が揺れていて、鎖の先に革の札が下がっている。刻まれているのは彼の名か、持ち主の名だろう。
 そう思えば、イーツェンの首輪には銘が入っていない。シゼによく確認してもらったことがあるが、識別できる文字も紋様もない、ただの金属の輪ということだった。
 イーツェンの首輪にローギスが自分の名や侮蔑的な文句のひとつも入れなかったのは、後から思えば幸運だった。あの男は、イーツェンが生きて城を出ることなど想定していなかったのかもしれない。だがシゼにその感想を言おうものなら「幸運?」と苦虫を噛みつぶしたように言うのがわかりきっていたので、イーツェンは胸の内にしまいっぱなしにしてあった。まあ、口に出しては何も言わないかもしれないが、言いたそうな顔はするにちがいない。そのくらいは、わかる。
 シゼのことを考えていると、手の速度がゆるんで、イーツェンは手の中の芋と刃に集中し直した。またはたかれてはたまらない。
 火の入った調理場はあたたかく、居心地はよかった。3人の下働きの娘と奴隷が行ったり来たりしながら手際よく鍋に食材を放りこみ、いい匂いの湯気があたりにたちこめている。炉はイーツェンが見たことのない、鉄の枠組みと煉瓦を筒型に組んだもので、調理場の中央に据えられ、底の丸い鉄鍋がのっている。大きな炉が2つ並べられた横に、似たような形の小さな炉が3つあって、それぞれの上で鍋が湯気を上げていた。燃えているのはただの薪ではなく、1度生木に火を入れた炭だということだった。
 厨房を取り仕切っているのは宿の長女で、暗い色の金髪をひっつめて着古した前掛けをつけ、きびきびと大股に歩き回りながら奴隷や下働きが怠けないよう目を光らせている。彼女は腰の後ろに短い棒鞭を下げていて、最初にそれを見たイーツェンは全身をこわばらせたが、彼女はきびしい注意を与える時でさえその棒を手に取ることはなかった。
 それにシゼは、宿の主人にはっきりと、イーツェンに余計な手をふれないよう言い置いている。「大事な売り物だ」と言った声音のつめたさは、充分な警告を主人に与えた筈だった。
 とは言え、それはイーツェンが調理場でこき使われるのを防ぎはしない。イーツェンは芋の山を剥き、豆を潰して乳で練り、水で戻した干し肉を叩いてやわらかくしたりと、忙しく働いた。宿の客が食事を終えれば奴隷と下働きは残り物をかきこみ、鍋を洗って、野菜の皮などを刻んで翌日の家畜の餌を用意する。水瓶を洗い、新しい水を汲み、すべての仕事を終えるとやっと毛布を与えられて宿の外に追い出され、納屋のすみで眠った。
 この宿では、船客の面倒は宿の奴隷と下働きが見る。客がつれてきた奴隷は、宿の下働きに回されるのが常らしい。シゼと離されるのは気に入らなかったが、久々に体を動かして働いていると、目先の不安からは気がまぎれた。
「水樽が3つに塩漬け肉が5包み‥‥」
 聞き覚えのある声に顔を上げると、調理場の隅で船乗りが宿の娘と出港の準備について話していた。イーツェンはまた芋へ目を戻す。
 もう2日、彼らはこの宿で足止めをくっていた。雨のせいだ。船から見える行く手の空が少し曇ってきたなと思ったら、あっというまに頭上が暗くなって大粒の雨が叩くようにふりはじめ、船宿にどうにかたどりついた翌日も、前が見えないほどの豪雨がつづいた。雨が上がったのは、やっと今日の昼をすぎてからである。
 川どめだ、と誰かが言っていたから、役場の方で港をとじてしまったらしい。だが、こうして船乗りが準備を始めたところを見ると、明日の出港の見込みはあるようだった。
 ほっとして、イーツェンは自分の仕事に戻る。調理場を命じられるままに駆け回り、給仕の女が下げてきた空の皿を受け取って外の洗い場へとまた走り、その隙を縫ってなけなしの夕食をかきこむ。
 火の始末をして納屋のはじのつめたい寝床にもぐりこんだ時には、もう陽はとっぷりとくれていた。


 横にシゼがいないと落ちつかない、そんな自分が少し滑稽で、イーツェンは薄い毛布の下で動物のように身を丸めた。藁が敷いてはあるが、その下の地面の冷気が体にしみこんでくる。2日間の雨で納屋の空気はすっかり湿り、よれよれの藁もその湿り気を吸いこんで気持ちが悪かったが、ないよりはずっとましだ。
 道具がつめこまれた納屋の片隅に横たわりながら、イーツェンの耳は闇の向こうにいくつかの息づかいを聞きとっていた。寝息ではない。奴隷の数人は寒さをしのぐために身をくっつけあって眠るのだが、そこで何やらおこっている様子で、それが何であるのかわからないイーツェンではなかった。
 主人に見つかったら怒られるんじゃないかと思いつつ、イーツェンは毛布の中にどうにか頭までもぐりこんで、体をさらに小さく丸めた。押し殺されているが聞き違えようもない喘ぎに、眠りが細かく妨げられる。
 くぐもった、だがあからさまな行為の音。唾液のからんだ生々しい音もたちはじめ、段々と遠慮がなくなってきた様子に、イーツェンは溜息をついた。
 もっとも、無理強いでさえなければ人と人が何をしようが彼はかまわなかった。これまでの雑魚寝の宿でも目にしたことだ。瞼をとじ、毛布の外側の出来事を頭から締め出す。
 もう、嫌悪も感じなかった。人が人のぬくもりを求める気持ちはよくわかる。城での淫らな記憶がふつりと浮き上がってくることもあるが、心が乱されることも減ったし、体がそうした記憶に反応を示すこともない。
 イーツェンにとって城での快楽の記憶は、背に刻まれた鞭の傷と同じだ。ただただ息苦しい痛みの亡霊は深くくいこんで消えず、一生彼の内に残るだろう。だがそれと折り合いをつけて生きていく方法は、ある筈だった。
 昼の疲れから、イーツェンはじきにうとうとし始めた。眠ってしまえばこっちのものだと、無理矢理に眠気にしがみついて、意識を漂わせる。
 だがいきなり毛布の下に手がもぐりこんできて、彼は仰天して目を見ひらいた。また悪夢だろうか。だが腰帯にかかった手は現実のもので、帯をほどこうと忙しく動いている。
 叫びそうになったが、喉がつまって声が出ない。一瞬、息ができなかった。するどい恐慌を呑みこみ、イーツェンは素早く起き上がりながらその手を払った。一気に息を吐き出すことで、こわばっていた肺が軽くなる。
「何で‥‥」
「あっためてあげるからさ」
 闇の中で押し殺した囁きは、調理場で一緒に働いていた下働きの娘のものだった。少しだけ世間話をして、イーツェンが外海へ出る船に乗る予定だと言うと「いいなあ」と感嘆の声をあげたのを覚えている。イーツェンよりは年上だと思うが、いくらもちがわないだろう。
 奴隷ではない彼女が一体ここで何をしているのか、イーツェンは聞き返しそうになった口をつぐんだ。何をしようとしているのかは明白だ。
 しつこくイーツェンの足をつかもうとする手を、逆につかんだ。即座にしなだれかかってきた体をあわてて押し戻す。
「悪いけど、駄目だ」
「バレやしないよ」
 宿の主人か、それともイーツェンの「主人」であるシゼのことか、彼女がどちらを指しているのかわからなかったが、イーツェンはつかみ合う手をもぎ離して立ち上がった。納屋で寝ている他の奴隷に何がおこっているのか気付かれるのもかまわず、きっぱり言う。どうせこの様子では大体がお楽しみの最中だろう。
「駄目なんだ」
「玉ついてんの?」
 舌打ちまじりの返事をしながら、娘の手はイーツェンの股間をまさぐろうとする。これ以上は話が通じなさそうだと、イーツェンはとにかくその手を払って納屋の出口へ向かった。夜の間は納屋から出るなと言われているが、それどころではない。
 誰かが外したのだろう、閂がわりの横桟は床に落ちており、イーツェンは何かにつまずかないようにしながら納屋の外へ逃げ出した。濡れてぬかるんだ泥が足指の間に入りこみ、自分が靴も履かずに出てきてしまったことに気付くが、もう戻れない。
 肌寒い夜気にぶるりと身をふるわせ、とりあえず身を隠す場所を探した。わずかな星の明かりを頼りに中庭を横切り、納屋から離れようとしたが、厩舎に泥棒よけの犬がいるのを思い出して、厩舎と宿の建物の間を壁に沿って曲がる。
 川から吹いてくる風のつめたさに首をすくめ、首の輪の金属がちりりとくいこむ感触に顔をしかめた。これ以上寒くなったら、まるで氷の輪を首につけているような羽目になりかねない──
 犬のけたたましい吠え声に、イーツェンは仰天して宿の壁際に身をよせた。一段とぬかるんだ泥に足がぬるりとはまるが、それ以上動けない。犬の甲高い吠え声、自分の息づかい、土壁にふれる服の音──踵が地面をすべって、イーツェンは濡れた壁にしがみつくように体勢を保った。犬が一刻も早く啼きやむことだけを祈る。
 もし表を勝手にうろついているのを見つかったら、罰を受けるだろう。冷や汗が全身ににじんで、かわいた喉に息がつまった。犬の声は重なりあって夜気をふるわせ、イーツェンはその声からのがれるように身をちぢめ、闇の一番暗いところを探す。世界から煙のように消えてしまいたい。こんな時はいつもそうだ。誰の目にもとどかないところへもぐりこんで、すべての心配事がなくなるまで眠ってしまいいたい。
 自分の体がひどくたよりなく、心細さに身がふるえた。この無力感がイーツェンは大嫌いだった。自分の運命が他人の踵の下に踏みつけにされて、一瞬の気まぐれで踏み砕かれてしまいそうな気がする。
 小さくかがみこみながら、イーツェンは胃がひっくり返りそうな吐き気に口を押さえた。裸足にへばりつく泥がつめたく、肌の内側にじくじくとその汚れがしみこんでくるようだ。
 そうやって、いつまでしゃがみこんでいたのかわからない。犬の声は消えていた。誰かが見回りにくる気配はない。
 立ち上がったイーツェンは、汗が粘ついた額を幾度も拭った。あちこちが泥だらけで、額に手の泥がつく。小さな、かわいた笑いが唇からこぼれ、体から力が流れ出していくのを感じた。だかが娘に言いよられただけで納屋からとび出し、犬に吠えられてちぢみあがっている。
 夜空を見上げ、雨の残り香を含む湿った空気を肺一杯に吸いこんで、怯えと自己嫌悪を振り落とそうとした。どうしても自分の中によどむ暗い泥を拭いきれず、何かあるたびにこうして思い知らされる。だがこうやって辛抱強く暗い感情を振り落としていくたび少しずつ楽になっていくことにも、イーツェンは気付いていた。
 顔を手のひらでごしごしこすって、イーツェンは馬房に近づかないよう用心深く歩き出した。まだ納屋には戻りたくない。生々しい息づかいや気配の中で眠れるそうになかった。
 水浴びでもしようか、と不意に思った。夜はもう冷えているし、後悔するのはわかっていたが、体から何かを洗い落としたくてならなかった。ずっと水の上を旅しているにもかかわらず、沐浴もできない日々が続いている。
 井戸の方へ行こうとしたが、釣瓶の音を立てるわけにはいかない。イーツェンは裸足でとがった石を踏まないよう注意しながら、水路のある方へ歩き出した。固い靴を履いて旅をしてきた足の裏は、幾度もやぶれては治り、前よりずっと丈夫になっている。まだたっぷりと雨を含んだ地面はやわらかく、歩きづらくはなかった。
 今日、雨がやんでからあたりの掃除をやらされたので、建物の配置は頭に入っていた。川港前の広場を囲むように宿や川関の役所や食堂、船大工の工場などの建物が肩をならべ、宿場の内側へ引きこまれた大きな水路の上流には倉庫がある。
 倉庫の周囲にも夜間は犬を放している筈なので、イーツェンは用心深く倉庫に寄らないようにしながら、大水路から枝分かれした細い水路沿いを歩いた。水路のふちに植えられたミズナラや柳の葉がまだ雨を含んでいて、雫が落ちてくるたびに雨音のようなざわめきをたてた。ここ2日の雨で増水した水路の流れも、意外と音が大きい。
 水路に落ちないよう目を凝らして歩きながら、イーツェンはやっぱり気温が低すぎるかと水浴びの気を変えはじめていた。水もつめたいだろう。手足を洗う程度にとどめておくのがよさそうだ。
 この細い水路は生活用水路で、先は溜め池になっている。洗い場として使われているそこなら水の流れも弱いので、夜間でも安全だろう。
 他人の目を気にせずに動けるのは久しぶりで、歩きながら、イーツェンは色々なことをぼんやりと考えていた。いくつもの物事が泡つぶのように浮き上がって、消えていく。故郷のこと、リグを発つ時の兄との会話、城でのこと、レンギと交わした最後の言葉、イーツェンの裁き、色々なことがとりとめなく頭の中を流れた。何だかひどく、すべてが遠く思える。
 気をとられていたせいで、水音にまぎれて聞こえてくる声に気付くのが遅れた。まさか人がいるとは思っていなかったイーツェンは、ぎょっと立ちどまって耳をすます。
 風だろうか? ──いや、たしかに水音にまざって聞こえてくるのは、低い会話だ。男が2人。もしくは、それ以上。
「俺は手を引く」
 かすかに聞きとれた言葉には怒りがこもっていて、イーツェンはどうしたものか迷ったまま立ちつくした。相手はイーツェンの先、水路沿いの木々の間にいる気がするが、そのあたりは木や低い櫓の影が入り組んでいて、どこに人がいるのかわからない。夜闇の中でも、イーツェンが大きく動けば向こうから見とがめられるかもしれなかった。
 気配を探りながらじりじりと道を下がりはじめた時、ジャスケの笑い声が聞こえた。
 それは抑えたものだったが、高く、独特のざらついた呼吸がまとわりついていて、ジャスケのものだとすぐわかる。イーツェンは少しためらってから、水路ふちの木の影へと寄った。逃げるか、それともジャスケの言葉から何かを探るか。迷いながら、とりあえず相手から見えなさそうなところへ身をちぢめる。
 相手がどこにいるのかはまだわからなかったが、次に聞こえたジャスケの声はぎょっとするほど近くに感じた。
「勝手にすればいいさ」
 普段のジャスケはどこからでも見つかるような派手な格好をしているというのに、この闇の中では声の位置の見当すらつかないのが、何となく納得いかない。
 鼻であしらうようなジャスケに対し、相手の声には怒りがこもっていた。
「さっさと取り分をよこして、手形を返せ」
 連れの1人、クリムの声のようだとイーツェンは思う。声を低く抑えようとしてはいるが、憤りが口調を荒々しくしていた。
「何だ、国へ帰るのか三男坊?」
 ジャスケはあからさまにクリムを嘲笑っていた。その声の中にある冷ややかさに、イーツェンは背すじがぞくりと凍る。この男の地金は、イーツェンが思っていたよりずっとたちが悪い。
「戻ったところで兄貴の城にお前のケツを置ける場所はないだろうなあ。城の宝石をかっさらって出てったことがばれてなくても、お前はただの邪魔者だよ」
「あんたにつきあうのはもう真っ平なんだ。俺はここでおりる」
 痛いところを突かれたのか、クリムは上から押さえつけるようにジャスケの話をさえぎった。
 彼がどうして怖じ気づいたのか、イーツェンには見当がつく。あと2日、もしかしたら1日で海港ルスタにつけば、また衛兵による荷のあらためがある。それはかなり厳しいものになるだろうと、船主は乗客に警告するように言ったのだった。
 それはまるで、後ろ暗い荷を積んでいるなら船をここでおりろと言っているかのようで、イーツェンはジャスケがその示唆に従って船を去るのではないかと思った──切望した──が、この男は相変わらず悠然と構えて予定を変える様子はなかった。
 だがクリムは、ジャスケとは考えが異なったらしい。
 ここからなら陸路の街道を使ってルスタも目指せるし、支流を遡って別の方向へ向かうこともできる。選択肢は多い。ここでジャスケを離れるのはいい考えだ、とイーツェンは心の底からクリムに賛成した。どう考えても、こんなうさんくさい男からはさっさと離れてしまった方が身のためだろう。
 ジャスケの返事は、相変わらず人を小馬鹿にした笑いを含んでいた。
「お前の家名なんぞ俺より高く買う奴はいないぞ」
「あんたにはつきあいきれない。印章も返せよ」
「売り渡したものを返せと言うのは、乞食よりたちが悪いなあ」
 ジャスケのやたら挑発的な物言いに驚きながら、押し問答に発展しそうな気配を感じて、イーツェンは木の死角に入るように後ずさった。気取られないうちに、どうにかその場を離れたい。案の定、クリムの怒った声がして、2人のやりとりは切迫したものになりはじめていた。
 見当をつけた暗闇をにらみながら数歩下がったところで、いきなりくぐもった悲鳴が上がって、イーツェンは凍りついた。
 誰かに口を覆われているような、切れ切れの、ただならぬ驚きと恐怖を含んだ悲鳴だった。イーツェンの首すじがそそけだつ。うろたえ、一刻も早く離れようとまろぶように下がって体の均衡を崩しかかる。
 不意に背後からのびてきた腕に、全身をかかえこまれていた。
「!」
 もがき離そうとするが、後ろから彼を絡めとる強靱な腕はイーツェンの腕の動きを封じ、もう片手でイーツェンの口を押さえて、腕だけでなく体全体でイーツェンをかかえこんでいた。見事なくらいに動けない。
 一瞬の恐慌はすぐに消え、イーツェンは体の力を抜いた。激しい鼓動を打つ胸に息を吸いこむ。口元を押さえる手はやさしい。革と鉄とかすかな油の匂いが漂うこの指を、体に沿って彼の力を押しこめる強靭な腕を、イーツェンは知っている。
 誰かわかった、と知らせるために背後の体に頭をもたせかけると、口から手が離れた。
 冷えた肌にシゼの熱がつたわり、イーツェンの体を小さな身ぶるいが抜けていった。シゼの両腕はイーツェンの体に回ったまま、2人はまるで1つの影のように身をよせて、夜の向こうをじっとうかがう。
 夜は、すべての音を呑みこんでしまったかのようだった。水路の壁を洗う水音があたりをつつみ、イーツェンはその向こうに人の声と息づかいを探そうとするが、何も聞こえてこない。
 さっきまで低く流れていた虫の声すら、すべて消えている。それに気付いてぞっとした時、土を踏む音がした。近づいてくる。イーツェンは唾を呑みこんだ。
 シゼの腕がゆるみ、彼はイーツェンの腕をつかんで自分の後ろへ押しやった。
「やあ、やあ」
 ジャスケの声はいつもの人なつっこい笑みを含んでいた。イーツェンがいることに、いつから気付いていたのだろう。逃げようとして動揺した時に気配を読まれたのか、それとももっと前からわかっていたのか。
 ジャスケはゆっくりと近づいてシゼの前に立ち、背後にいるイーツェンをあからさまに上から下まで眺め回した。
 それからシゼへ、まっすぐに体を向けた。
「手を貸してもらえませんかな」
 答えがないのをいいことに、勝手に話を続ける。
「旅はお互い持ちつ持たれつというものでしてな。ここで船をとめられて衛兵に調べられては、色々とややこしいですしねえ。お互いに協力し合うのが、結果としてどちらにも利となる筋があるというものではありませんかね」
 くだくだしい口調で、勝手なことを言う。だが怒りを感じるより、イーツェンはジャスケの言い方にある含みにぞっとした。
 行こう、とシゼのシャツの背をつかんだが、シゼはまるで反応しない。まっすぐ前を、ジャスケを見据えている。彼の目つきの険しさがイーツェンには容易に想像できたが、ジャスケはたじろぐこともなくその視線を受けとめていて、大した度胸だった。予想以上に腹の据わった男だ。だがそれが余計に嫌な予感を強める。
 そういえば、シゼはジャスケがかなり「使う」と剣の腕を評していた。そう思ってジャスケの姿を注視すると、いつもほど派手ではない長い胴着のふくらんだ腹を締めた帯に、大振りな短剣を吊るしている。
 ──さっきの悲鳴。
 かわいた喉に唾を呑みこみ、もう1度シゼの注意を引こうと手をのばした時、シゼが抑えた声で言った。
「自分の始末は自分でつけろ。関わりはしない」
 見たもののことは言わないから巻きこむな、ということらしい。ジャスケはつるりと顔をなでて、ニヤッと笑った。
「ご親切なことですな」
 暗い夜闇の中でも、歯が妙に白い。
「では、どう始末をつけますかな。この夜ふけに外をうろついているしつけの悪い奴隷が我が友の懐を狙った、というのがありそうな話ですかねえ」
 ジャスケの目がシゼではなくその後ろに立つ自分を見ているのがわかって、イーツェンは息をつめた。この男がイーツェンのことをどこまで勘ぐっているのかはわからないが、少なくとも、イーツェンの存在がシゼの弱みであることは嗅ぎとっている。それが彼の目つきから、ひしひしとつたわってきた。
「明朝、骸が見つかれば」
 声を抑えている以外、ジャスケの口調は世間話でもするようにのんびりとしたものだった。
「夜に外をうろついていた奴隷は、何らかの身の証を立てねばなりませんでしょうな」
 骸。やはり彼はクリムを殺したのだと、イーツェンは慄然とする。たやすく、何でもないことのように連れの1人を排除して、ジャスケにはたじろぐところがない。そして臆面もない笑顔で、イーツェンとシゼを脅しにかかっている。もし事が露見すれば、必ずイーツェンを巻きこむと。
 そして、何の証拠がなくとも奴隷は奴隷だというだけで罪をかぶせられる。そのことをイーツェンもシゼも知っていた。ジャスケのような──偽であっても──貴族にかなうわけがない。この男がイーツェンを見たと言えば、それで終わりだ。
 シゼが前を向いたまま、左腕をのばしてイーツェンを後ろへ押しやった。
「もう戻れ」
 静かな声に、イーツェンは下がるしかなかった。ジャスケにくってかかりたいが、余計なことをしても物事が悪くなるだけだ。
 シゼはイーツェンを振り向かず、ジャスケをうながして水路脇の暗がりへ歩み入っていく。
 うつろな夜風が吹き抜け、イーツェンは身を震わせると、裸足の足を引きずるようにして建物の方へ戻りはじめた。


 扉の横の暗がりから立ち上がったイーツェンを見ても、シゼは驚いた様子もなく、腕をのばしてきた。黙ったままイーツェンを引きよせる。
 少し驚いたが、イーツェンはおとなしくシゼに身をよせた。腰に腕を回しながら、シゼの体から泥と草の匂いを嗅ぎとって、胸がつまる。クリムの遺骸を、どこかすぐには見つからないところへ運んだのだろう。
「‥‥ジャスケは?」
 耳元に口をよせて小さく囁くと、シゼはイーツェンの背中をあやすように叩いた。
「船小屋へ寄ると言っていた」
 そうして身をよせていると、シゼが長剣を帯びていないことに今さら気付く。あんなところで彼は一体何をしていたのだろうと、イーツェンは自分のことを棚に上げていぶかしく思い、シゼの耳元にたずねた。
「何であそこに?」
「‥‥犬が吠えたので表に出たら、ジャスケと連れが歩いていくのを見つけた」
 むっつりと答えたシゼは、身を離して上から下までイーツェンを眺めた。
「あなたは‥‥何で裸足なんです?」
 今イーツェンの足に気付いた様子で、言葉がするどくなった。イーツェンは曖昧に首を振る。娘に迫られてうろたえた上に納屋を裸足で逃げ出してきたなど、そんなこっぱずかしい事を言えるわけがない。何であんなに後先考えられないほど慌てふためいたのか、イーツェン自身にも今となっては説明がつかなかった。
 シゼはイーツェンの中から答えを読みとろうかというように、じっと顔をのぞきこんできた。イーツェンはそれを少しにらんで、踵を返す。シゼが無事なのを確認した以上、表をうろうろしていても意味がない。納屋の扉が内側からしめきられていないことを祈って戻るしかなかった。
 溜息が聞こえて、シゼの手がイーツェンの腕をつかんだ。
「おいで」
 鼓動がどきりと大きく打って、イーツェンは反問しようとしたが、シゼはもう歩き出していた。宿の裏手に回り、調理場に通じる小さなくぐり戸をあけてイーツェンを押しこみ、やっと物の輪郭が見えるか見えないかの暗がりでイーツェンを壁際に立たせる。宿屋は深い静寂につつまれていて、イーツェンは息を殺して立った。シゼはごく静かに動いていたが、やがて小さな水音がして、イーツェンの前へ戻ると膝をついてイーツェンの右足首をつかんだ。
 うながされるままに足を上げると、足首にひやりとするものがあてられた。水で濡らした布だ。シゼは手際よくイーツェンの両足の泥を拭い、黙ったまま立って、暗がりを慎重に歩き出した。
 廊下はさらに暗く、イーツェンは壁につきあたらないよう左手で時おり探りながら、シゼに続く。物音を立てて誰かを起こしたくない。シゼが長剣を持たずに出たのもそのためだろう。
 2階に上がるのは少し大変だった。階段は狭く、ところどころ物が置いてある。ゆっくりとのぼりきると、シゼは奥の部屋の扉をあけて中へすべりこみ、イーツェンは息をひそめて追った。
 寝息が聞こえて、足をとめる。誰かがいる。シゼと誰が相部屋なのか、イーツェンは知らない。この闇では誰が、そして一体何人がそこにいるのか、まるでわからなかった。
 シゼは音を立てずに扉をしめると、イーツェンの肩を後ろからかかえて壁際へ誘導した。ほとんどなすがままになって、イーツェンはシゼの寝床らしい毛布の上へ座りこむ。壁際に陣取っているのも、扉に一番近い場所を選ぶのも、用心深いシゼらしかった。
 すぐそばから誰かの寝息が聞こえて、落ちつかない。布の擦れる音がして、シゼがブーツとシャツを順番に取っている気配がした。イーツェンは上掛けの毛布を手探りでつかみ、中へもぐりこむ。
 すぐにシゼがイーツェンの横へ入り、1枚の毛布の下で身をよせあいながら、イーツェンは目をとじた。シゼの右腕がイーツェンの腰の上に軽くのせられている。何の力も意図もこめられていない腕の重さに、不思議とそこにつなぎとめられている気がした。体の芯に根を張った緊張が、ゆっくりとほどけていく。
 一体ジャスケにどこまで手を貸したのか、ジャスケとの間にどんな会話があったのか、あの男がイーツェンのことをどこまで勘ぐっているのか、色々なことをシゼと話したい。だが今は無理だし、何よりイーツェンはジャスケのことを考えたくなかった。シゼがイーツェンを守るためにまた危険なことに手を貸したのかもしれない、そのことも。
 シゼの肩口に顔をよせ、周囲から聞こえる寝息を無視して、ただそこにいるシゼに気持ちを集中させた。シゼの強靱な体がゆったりと深い呼吸をしている、そのリズムにイーツェンの呼吸も重なっていく。息のひとつひとつが、体の芯までしみ入ってくる。
 旅の間、2人は何度こうして、互いの熱を分けあうようにして眠ったかわからない。なじんだ熱が心地いい。イーツェンの体はシゼの感触を、息づかいを、彼の腕がイーツェンをやわらかく引きよせる仕種を、すっかり覚えこんでいた。
 シゼがいなければ、こうして誰かと身をよせあう、そのことにすら耐えられなくなっていたかもしれないとイーツェンは思う。イーツェンは今でも人の手が怖い。今日、納屋であの娘がイーツェンに求めたような、中身のない快楽が怖い。たとえあの娘に何の悪意もないとわかっていても、欲と快楽しかない、そんな肌の合わせ方は2度と、誰ともできなかった。
 だが人のぬくもりが気持ちのいいもので、そこには欲だけがあるわけではないと、イーツェンはシゼのおかげで知った。
 もし──もし彼らが体を重ねたとしても、そこにあるのは欲だけではないだろう。きっとその筈だと、イーツェンは思う。欲だけが問題なら、シゼはとうにイーツェンを抱いていただろう。もしかしたら、城にいる間に。そうでなくとも、きっとこの旅のどこかで。
 吐息をつき、イーツェンはシゼのぬくもりに向かってもぞもぞと身をよせた。
 いつかシゼが自らに引いた一線を踏み越えてイーツェンを求める日が来るのかどうか、それはわからない。それを思うと胸の奥がぽっかりと空洞になったようで、どこか怖い。その空洞は、もしシゼがいなくなってしまったら、永遠にそこに居座ってしまいそうな気がする。
 だが待つしかない。イーツェンはいつもと同じように、自分にくり返す。シゼがイーツェンを信頼し、何か、シゼの中にある境界を崩す決心がつくまで。
 シゼの肩口に頬をあて、シゼ、と息だけで呟いた。シゼの腕が毛布の下で動き、横向きになったイーツェンの背中を、肩甲骨から背骨のつけ根までゆっくりとなでおろす。
 イーツェンが声に出してシゼの名を呼べないように、シゼもまた何か言えないことを、その仕種にこめているような気がした。それが何であるのか。いつか言葉にして聞ければいいと思いながら、イーツェンは深い眠りに沈んでいった。