船の中でずっと同じ顔をつきあわせていると、いやでも人と人の距離が近くなる。知りたくもない名を覚え、相手の故郷や妹の名を聞き、妻の母親へのやたらな悪口を聞かされ、癖を見つけてしまっもたりする。
 イーツェンは、今ほど奴隷の輪をつけていてよかったと思ったことはなかった。奴隷であるがゆえに、大抵の場合、船の備品であるかのように存在ごと無視される。誰も奴隷に身の上を語りかけたりはせず、名前や生まれ故郷の場所、どこから来てどこへ行くのかなど、聞きたがる者もいなかった。
 船員にロープを巻く手伝いに呼ばれたり、ある夜は船宿で洗濯の手伝いにかり出されたりはしたが、それは仕方のない代償だ。あまりにも何もすることのない川旅で、イーツェンは働くこと自体は嫌いではなかった。
 シゼはいくら話しかけられても無愛想に船客を無視したが、母子連れの子供の1人がどういうわけかシゼになつき、時おり、シゼの足元で犬の子のように身を丸めていた。母親は2、3度おざなりにたしなめたが、それきりだ。子供が悪さをするということもなく、イーツェンはこっそりとその様子をおもしろがっていたが、シゼは困惑しきっていた。
 母と子はサヴァリタリアにいる係累をたよっていくらしい。夫はもう2年帰ってこず、野盗に襲われて村は略奪に荒れ、村人全員でそこを捨てざるを得なかった。サヴァリタリアに出した手紙の返事を待つ余裕もなく、一か八かでユクィルスを旅立ったのだと言う。
「あたしは元々、サヴァルの方の生まれなんですよ」
 母親は時おり、刺繍の手を動かしながら陰気な声でたたみかけるようにしゃべった。
「はやり病で村がつぶれましたがね。そんでユクィルスに戻るという男にもらわれてきたんです」
「あんたが腰を据えると、災難がおきるんじゃないか」
 石工の徒弟だという男が、陽気な口調でからかう。女はキッと険のある目を上げ、石工の方へ顎をつき出した。
「あたしはもう3日、この船に尻を据えているからね。あんたもせいぜい気をつけることさ。いつまでこの船が水の上に浮かんでいることか──」
「よさねえか!」
 船尾で舵を取っている男が血相を変えてさえぎった。船乗りというのは迷信深い。イーツェンはこの旅の間に知ったことだが、とにかく船で不吉なことを言われるのをひどく嫌う。
 怒鳴るような口調の強さに全員がしんとした瞬間、
「詩でも読みますかな」
 とんでもないことを言い出したのはジャスケだった。イーツェンは頭をかかえそうになる。これでなかなか、ジャスケは本気だ。誰もとめないと、朗々と声を張って詩の一節をうなったりする。
 すでに数回披露されたそれは、発声も発音もそれなりのもので、この男がきちんとした作法を知っていることは間違いない。詩の内容は少々品のないものが多かったが、城の宴会などでも下品なものの方が楽しまれるし、ジャスケがそうした宴に出た経験があるのはまちがいないだろう。
 下手ではない。ないが、誰が一体、船の上で得意げに披露される詩など聞きたいか。
 誰か何とかしてくれ、と思った時、舳先に座った水先案内役の男が振り向いて、サヴァリタリアの川港、キタが見えたと言った。


 港での荷下ろしと荷積みに半日かかるということで、その日はキタの町に泊まりになった。
 見知らぬ国の見知らぬ町に好奇心はあるが、あまり出歩くのも──と悩んでいたイーツェンを、シゼが町の市場へつれ出した。荷物持ちの奴隷としてだが、イーツェンは機嫌がいい 。
 国境を越えたからと言っていきなり景色が変わったりするわけではなかったが、それでも、港や人々のたたずまいはユクィルスと少しずつ違う。漆喰だった壁が赤茶けた煉瓦の壁になり、人々はユクィルスの流行よりもずっと幅の広い帯を締めていた。帯には美しい縫いとりがしてあって、船の女が刺繍していたのはこういうものかとイーツェンは納得する。
 市場はにぎやかだった。町がまるごと、くねった通りとその先の広場に凝縮されているかのようで、イーツェンは人混みではぐれないようシゼをぴたりと追いながら、あらゆるものに目を奪われた。
 通りの建物の前に支柱を立てて布で屋根を張り、人々がすれ違うのさえ大変なほど街路を狭くして、道の両脇に露天が並んでいる。商人たちはそれぞれ小さな店を陣取り、贅沢に刺繍をした布を地面に引き、鳴り物を慣らしては客を呼びとめた。その中を行く1歩ごとに、鮮やかなにぎわいがイーツェンの全身をつつむようだった。
 仕立屋の隣には、椅子ひとつだけの場所を陣取ったつくろい屋。膠の鍋を煮立てて独特の匂いをたてているのは靴や革の装具の修理。さすがに鍛冶屋は見あたらないが、鋳掛け屋と研ぎ屋は並んで露店をかまえていた。乳の張った山羊をつないだ柱のそばでは、女が求めに応じて獣の乳を搾ってやっている。そのすぐ脇には腹につめものをした兎が逆さまに吊るされていて、リグで見るよりはるかに大きな兎にイーツェンは目を見張った。大抵リグでは兎は皮を剥ぎ、手足は落として別に干すのだが、ここでは丸のまま、内臓だけを抜かれたものが腹に香草をつめて吊るされている。
 その足元では、生きた子羊が袋に入って売られていた。しきりに鳴いてもぞもぞうごめく袋を、農夫が粉袋と引き替えに持っていく。飼うのか、食うのか──イーツェンは幅広の背中をつい目で追いながら、農夫が泉の水盤で濡らした手を子羊の口元にあてて水をなめさせているのを見て、何となくほっとした。
 食料も豊富に積まれていて、シゼはきっちり水分を抜いた羊の干し肉と腸詰めにされた脂肪の塊、乾いたチーズ、干し杏と塩を買った。
 塩や砂糖は棒のようにつき固めた塊で売られている。獣もつれていないし、保存食は塩がきいているから塩はあまりいらないのだが、物と交換するのにも何かと役に立つ。最悪、食糧がない時にも塩と水さえあればしばらくもつ。切らしてはならないものだった。
 秋ももう深いというのに市場のにぎわいは驚くほどで、人並みの中をひったくりの子供が駆け抜けていったりする。イーツェンは荷物を胸元にかかえこみながら、あたりに漂う独特の匂いの元を探して頭をめぐらせた。その華やかな香りは、すれ違う女性たちからひろがっているようだ。籠を下げ、時に乳飲み子を背負って元気に闊歩している女たちの多くが胸元を大きくあけて唇に紅をさし、中にはユクィルスならば娼婦と見られかねないほど大胆にスカートの切れ目から太腿をのぞかせている者もいた。
 匂いは、広場の一角に近づくにつれ強くなり、どうやら香りを商う商人がそこに陣取っているらしい。女たちが取り囲んできゃっきゃと娘のように騒ぐ中、地面に座りこんだ商人が軽口のような口上を述べていた。
「花に毒があるとは皆様ご存知の通り、こいつをちいっとケツにつけてみりゃ旦那もイチコロ、旦那じゃない男もイチコロ‥‥」
 下品な言葉に、女たちは顔色も変えず、ただただ笑いころげる。そのあたり一帯──ややどぎついが──まさに花が咲いているようで、花びらを煮つめたような香りがあたりに漂い、イーツェンは小さなくしゃみをしながら通りすぎた。
 むしろにあぐらで座りこんだ商人は、足元に、木栓で蓋をした陶の瓶をいくつも並べていた。近くで見るとまだ若い男だが、口上も手付きもひどく物慣れている。丸い小さな椀を左手に持ち、右手を忙しく瓶の間で動かしながら、油と香料を混ぜていた。
「虫よけにも、虫寄せにもよおく効く──」
 ここでまた、女たちが笑う。腹の底から楽しげな笑い声が明るい空へ向かって吸いこまれ、イーツェンはつられた微笑を、うつむいて隠した。奴隷が笑うのはまずいだろう。
 シゼは小さく固い林檎を買うと、林檎を売っていた商人と話しこみながら、果実をひとつイーツェンへよこした。イーツェンは1歩下がって控え、林檎を手の中でもてあそぶ。虫食いが這った痕を指で探って、中にもう虫がいないことを確かめていると、シゼと商人の会話が耳に入った。
「鍛冶屋はどこにいる?」
「車鍛冶なら広場の外れに」
 布を巻いたような大きな帽子をかぶった商人は、シゼの顔つきと腰の剣を見て、言葉を継いだ。
「蹄鉄や剣の鍛冶なら、西の水路のそばにまとまってますがね。ちと歩きますよ」
 シゼはうなずくと、商人が示した方へ歩き出した。従順につづこうとしたイーツェンは、前にシゼの剣を研ぎに出したのがいつだったか考えて、その記憶に心臓をたぐられたように足をとめた。
 あれはジノンの荘館で、そしてシゼはイーツェンの主張を呑む形で自分の剣を研ぎに託したのだった。シゼはイーツェンを信じ、イーツェンの判断はその信頼を裏切った──センドリスが姿を見せた時、シゼの手には剣がなかったのだ。彼がそれを使ったかどうかは別として。
 あの時が、最後の研ぎだった筈だ。少なくともあれからイーツェンはシゼが剣を研ぎに出すところも、剣を使うところも見ていない。勿論、ジノンのところを訪れていた間はわからないが、シゼが剣を抜くような事態があったようには思えなかった。
 ここで鍛冶屋を探すということは、剣を研いでおく必要を感じているのだろうか? ジャスケたちに用心してのことかと思いながら、イーツェンは息をついてシゼを追った。
 段々と、こうしてシゼに黙ってつき従うことにも慣れてきた。話ができないのはつまらないが、黙っていればより周囲の状況に注意が向くし、それまでわからなかったシゼの些細な仕種に気付いたりする。たとえば露店の前に立つ時も、イーツェン1人分の空間をあけておく動きとか、今もまっすぐ道を歩いているようで、背後にいるイーツェンに意識を向けている様子とか。
 もしイーツェンの気配や足音に変化があればすぐに振り向くだろう背中を見ながら、イーツェンはその後をついていく。思えば、シゼはいつもそうやって、傍らにイーツェンの分の場所をあけていたようだった。
 当然のようにそれに甘えて、ここまで来た。水路に渡された板橋を渡りながら、イーツェンは板を鳴らす自分の足音を数える。水路には川から引き入れた水がたっぷりと流れ、岸を洗う水の音がさざめいていた。
(──どれほどの恩があるのだろう)
 言葉に出さず、イーツェンはそう思う。当たり前のように、ただシゼによりかかってきた。シゼがイーツェンのために払った犠牲、イーツェンのためにしてきたことを「恩」として片付けるのはあまりにも簡単なひびきに思えたが、ただとにかく、シゼのためにいつか報いたかった。今は口をきかずについていくことしかできないが。
 リグに戻れば。
 その言葉を、ただひとつのよりどころのように、心に呟く。どんな形でかはわからないが、リグに戻ればイーツェンもシゼの力になれる。そのためにも、この旅を最後まで歩きつづけなければならないのだ。


 市場を離れ、壺をぎっしりならべて日干しにしている窯の前を通りすぎる頃には、鍛冶が金属を打つ甲高い音が聞こえてきていた。目で仰げば、大きな煙突が煙を吐き上げる様子もそこかしこに見える。職人街の水路は色々な作業に使われて濁りをおび、皮なめしか染色か、独特の獣臭さが、ゆるい風にもかかわらず、あたりに溜まっていた。
 町の中心部からはもうかなり離れている。音をたよりに道を行くと、木の板に焼きごてで黒く大金槌の絵が焼き付けられた看板が、鍛冶屋の軒先に掛かっていた。鍛冶のしるしだ。
 シゼが、大きくひらいた間口をくぐる。
 そこは広い土間で、奥まったところに小上がりがあり、横が狭い階段になっている。土間の壁には煉瓦造りの炉が据えられていたが、黒ずんだ炉に燃えさしが赤く光っているだけで、大きな火は入っていなかった。炉のそばには足踏み式のふいごがあって、枠からは大きな蛇腹の袋が、空気以外のものを呑んでいるように重そうに垂れ下がっている。土間の中央には、上が平らな金属の金床がずしりと座り、その表面は金槌痕で無数に覆われていた。
 炉と向き合った壁は一部が扉のついた棚、残る場所が細かく仕切られた道具棚にしつらえられ、そこに小さな鍋やチーズを切るための押し切りや、先を平らになめした火かき棒など、細々とした見本が下がっている。
 剣鍛冶ではなさそうだ、とイーツェンは少しとまどいながら店の中を見回した。鍛冶師はその役割──剣や農具、馬具、飾り物や日用品など──によってそれぞれの領分が異なる。剣を作る鍛冶が蹄鉄を打つことはない。事実、ひとつ隣の工房からは、また別の鍛冶が金属を打つ音がしている。
 シゼは、ここに何を求めに来たのだろう。
 聞こうかと思った時、むくりと、まるで影から形が浮くように、部屋のかたすみで男が体を上げた。道具の調整でもしていたのか、分厚い机の上にやっとこを数種置き、シゼへ向かって立ち上がる。上背はさほどないが、シャツの上からでもわかる、岩を掘り出したような肩と胸板の筋肉であった。
「用か?」
 かすれた声は、だが大音量で、まるで怒鳴りつけるようだ。イーツェンはたじろいだが、シゼは平然としていた。1歩鍛冶屋に近づいて、彼は肩ごしにイーツェンを振り向く。
 その表情は影になって、シゼが何故自分を見ているのかイーツェンにはわからない。まばたきして見つめ返すと、シゼは首を傾け、鍛冶屋に顔を戻し、低い、揺らぎのない声でたずねた。
「奴隷の首輪を切れるか?」


 その後、話がどんな風に進んでいったのか、イーツェンには細かな記憶がない。彼はただ表情を鍛冶の男に悟られないよう、うつむいて自分の足元を見ていた。
「‥‥すまない」
 傾いた陽の下で、汚れた水路のそばを歩きながら、シゼはそう呟いた。その時やっとイーツェンは顔を上げ、シゼがまた肩ごしに彼を見ているのに気付いた。微笑して、首を振る。
 シゼはまだ何か言いたそうにしていたが、やがて、前を向いた。心なしか大股で、力のこもった背中は怒っているように見える。イーツェンは足早に追いつきながら、シゼの後ろ姿を見つめた。
 シゼと鍛冶屋はしばらく言い争っていた。シゼは声を荒げこそしなかったが、最後にはまるで脅すように高圧的に迫ったし、鍛冶屋は唾をとばして怒鳴り返した。イーツェンはその間ずっと途方にくれ、胸がつぶれそうなやるせない気持ちと、いたたまれないほどの息苦しさに揺さぶられながら立ちつくしていた。
 鍛冶屋は、奴隷の輪にはさわらないとはっきり言った。サヴァリタリアに、ユクィルスのような奴隷専門の鎖鍛冶はいない──だがそれでも、職人は奴隷の輪にふれたがらないようだった。それもイーツェンの首にあるのは単純な鎖ではなく、金属の輪だ。手間がかかる点からも嫌がられている。
 結局、シゼは引き下がり、馬具と農具の鍛冶や、荷車の作業場、しまいには青銅や鉄ではなく銅を扱う細工の工房などまでのぞいたが、交渉はうまくいかなかった。農具の鍛冶はイーツェンの首の輪を見るところまではいったが、首に近すぎて切れないと結局断った。
 最後の工房を出てから、シゼは何も言わなかった。イーツェンも何も言えなかった。
 やっとシゼが言葉を発したと思えばそれは謝罪で、またイーツェンの胸はきしむ。何を言えばいいのだろう。イーツェンがどれほどこの首の輪を嫌悪しているか、シゼは知っている。これがイーツェンの運命をどれほど変えたか。そして今でも、どれほど首に重くくいこんでいるのか。
 2人は、小さな橋を渡って水路沿いの低い土手を歩いていた。高さの違う水路が板1枚の水門をはさんで合流し、高い方から板の上をあふれて流れこむ水が小さな滝のような音をたてている。
 イーツェンは聞こえる範囲に人がいないことをたしかめ、シゼのすぐ後ろから低く声をかけた。
「シゼ、大丈夫だ」
「──」
 シゼは足をとめ、息をつめるように頭をかるくそらしてから、体を回して振り向いた。
「何が」
 ほとんど、挑むような声だった。シゼのことをよく知らなければ、イーツェンは彼がただ怒っているのだと思ったかもしれない。だがイーツェンがシゼのかたくなに立った姿から感じとれるのは、彼の中に鉤爪のようにくいこんだ痛みばかりだった。
 シゼの首すじに力が張りつめ、意識して息をゆっくりとととのえているのが、動きのはしばしからわかる。それ以上の言葉があふれるのを防ぐようにぐっと唇を結んだシゼを見つめ、イーツェンは小さく首を振り、微笑した。
「ありがとう。でも、いいんだ」
 それは嘘でもあり、本音でもあった。
 イーツェンを奴隷の身から解放する可能性について、彼らはまだユクィルスを出る前に話し合い、あきらめていた。ジノンが整えた書類上はシゼが奴隷の──イーツェンの──所有者なので、解放の手続きは取れるのだが、もし書類や事情をあやしまれれば命取りになりかねないし、手続きが長引いても困る。輪つきの奴隷を、財産もない一介の剣士が解放しようとするなど、どう勘ぐられてもおかしくなかった。だから、彼らはあきらめたのだ。
 だがサヴァリタリアでなら──せめて首輪は外せるのではないか。シゼはそう考えたのだろう。
 水音の1番大きなところで立ちどまった2人は、そのまま言葉もなく、鳴りだした刻の鐘を遠くに聞いていた。水の流れに運ばれていく泡、葉、細かなごみや虫の死骸を眺めおろしながら、イーツェンはシゼにどう言えばいいのか考える。何と言えば、彼は自分を責めないだろう。
 ここまで来たなら、奴隷の状態のままいるのがきっと最善の策だ。物のようにあしらわれるだけで、誰もイーツェンの正体を詮索しない。誰もイーツェンの目的に興味を持たない。旅のためには、このままでいい。
 だがそんなことはシゼも承知の上で、それでもイーツェンの首輪を外す手段を探したのだ。イーツェンがどれほど自由を渇望しているか、シゼは知っている。シゼほどそれをよく知る者はいないだろう。イーツェンの首にこの輪がつけられる前、彼の脚に枷をかけ、外してきたのはシゼ自身だ。2年以上の間、枷や鎖や、輪につながれつづけたイーツェンを、シゼは間近に見てきたのだった。
 地に影は長く満ち、雲の色もかげりはじめていた。刻の鐘が鳴り終わる頃、イーツェンはやっと、聞こえるか聞こえないかの声で呟く。
「私が何者かは、お前が知ってる。‥‥だから、大丈夫だ」
 シゼは何も言わなかった。彼らはそのまま2人で、鐘の余韻がすべて消え去るまで水面を這う波紋を眺め、やがて言葉もなく、町を行き交う人々にまざって宿へと戻った。


 ジャスケたちはうまく商売をとりまとめたようで、売り払った荷の金を元手に、今度は乾燥豆を買いこんで船に積みこんだ。荷主と別れて、自分たちだけで下流に向かうことにしたのだと言う。
 まるきり商人だな、とイーツェンは思ったが、まあユクィルスの貴族もそれぞれ借地や荘園を切り盛りしたり、物品の取引をして財を保つものだ。珍しいことではない。ジャスケの奇妙なところは、自分自身が荷のそばに座ってぴたりと離れず、荷運びも他の2人と共に自ら仕切り、こまごまとした書類や雑務までこなしているように見えるところだった。それがまた妙に板についている。
 やはり、貴族の身分は偽りだろう。イーツェンはそうにらんでいるが、ジャスケの目的がよくわからない。
 はじめは、詐欺かとも思った。貴族然とした押し出しで荷主の信用を取り付け、商売に噛んで、荷を騙し取ろうとしているのではないかとも疑った。だが取引は無事すんだようだし、いつもより多くの荷を扱うことができた荷主は、上流へ戻る船に機嫌よく乗っていった。
 ──商売をしたいだけなのだろうか。
 ジャスケはサヴァリタリアで穀物を商うための手形を持っていないから、荷主に便乗して商いをしようとしていただけなのかもしれない。そう思いつつ、どうもうさんくさい気持ちが抜けない。
 イーツェンはユクィルスの城で、ジャスケのような人間に出くわしたことがある。夜会に顔を見せ、如才なく人と人の間を渡り歩き、その場を盛り上げる──大仰で明るいが、話す内容に何の厚みもなく、自分の正体を決してうかがわせない。
 ある時誰かが、その1人を指して「あれはウシバエのようなものだ」と言い、連れと笑った。牛の尻にへばりついて血を吸い、牛の糞に卵を産み付けて増える蠅と同じだと。その時はじめてイーツェンは、彼らが何者でもなく、ただ蠅がたかるように貴族たちに取り入ってその日の糧を得ているのだと知った。そして貴族たちの内には、そんな彼らの正体を承知しつつ、重宝して使う者がいるようだった。自分の手の届かない場所の、汚れ仕事をさせる相手として。
 ジャスケたち3人の姿にイーツェンはその時の記憶を重ねていたが、自分の勘が正しいのかどうかがわからない。単にジャスケとどうにも肌があわない、という気持ちが先に立って、判断を悪い方へ歪めている気もした。
 とにかく、下流までずっとジャスケと一緒らしい。それはうさんくささを抜いても、うんざりする事実だった。船べりにうずくまってシゼと風よけの毛布を分けあいながら、イーツェンは時おりジャスケが自分を見ているような気がしたが、視線をはっきりとらえたこともなく、すべてが不安からくる思いこみのようでもあった。
 ユクィルスを後にしたというのに、まだ、至るところの影を怖がる癖が抜けない。


 キタの町で新たに荷を積んだ船は、若干船足が遅くなったものの、旅自体は順調だった。旅のはじめとは、顔ぶれもかなり変わった。母親と2人の子供はサヴァリタリアの船着場で不安そうに降りていった。
 だが、ルスタの港町が近いと水先案内人が言ったその日、船は船着場で手を振る兵士によって停泊させられ、乗りこんできた兵に荷と身分証のあらためを受けた。
 船はすでに、海に面したキルロイの領土に入っている筈で、乗りこんできた兵士たちはイーツェンが見たことのない艶のある革の帽子をかぶり、胸元には骨で作った白い呼び子の笛を下げていた。
(キルロイは──)
 と、イーツェンは頭の中で、かつて学んだ知識を反芻する。おだやかな内海をふところにかかえこむような形の国で、深く掘りこんだ海港ルスタを持つ。大型の船も入れるようにした、貿易の国だ。質のよい赤の染料を産することでも有名で、その赤を「キルロイの血」と呼んで誇る。
 今も、兵士たちのかぶった縁なしの山型帽の左側面には、独特の澄んだ赤に染められた飾り結びの房飾りがあった。
 キルロイの国は王が統べるが、五座と呼ばれる5人の貴族たちとの合議が必要で、彼らは強大な権力を持ち、時に王位に養子を入れて王座を継承させることもあった。王と五座とのつながりは複雑な血縁関係によって結び固められている。五座の貴族たちはそれぞれ船団を持ち、中には半年以上かかる長い航路を使って遠い異国と貿易を行う者もいるという話だった。
 そして、その船には「風読み」と呼ばれる呪師が乗っているらしいと──これは噂だ。風を読み、時に風を呼ぶ者だと。
 本当にキルロイの国には呪師がいるのだろうかと、イーツェンは目を伏せつつ、船に乗りこんできた兵士の姿をうかがった。丈が短く裾がひろがった上着の形も、イーツェンには目新しい。兵士が腰に下げているのはすらりとした曲刀で、その柄には、やはり赤の紐がきっちりと巻かれて美しかった。
「書類を」
 兵士の1人がシゼに近づき、こもった発音で言いながら手をさし出した。同時に船の中央あたりで別の兵士が指を鳴らす。イーツェンはその兵の目が自分に向いているのを確認してから、シゼを見た。
 シゼは書類を渡しながら、うなずいた。無表情ではあるが、苦々しげなこわばりが口元にあるのがイーツェンにはわかる。イーツェンはそれをやわらげてやりたかったが、奴隷らしくただ頭を下げて、主人の了承に感謝してみせるしかなかった。
 それから、まるで犬を呼ぶように奴隷を呼んだ兵士に近づき、命令を待つ。兵はジャスケの積み荷の横に立ち、自分が荷を検分している間抑えているようイーツェンに命じた。荷の上にかぶせられた水よけの皮を取り、麻袋の山に手をかける。
 イーツェンは言われるように働こうとしたが、耳慣れない彼らの発音がよく聞きとれず、思わず聞き返してしまって頬をかるく殴られた。よろめく程度のもので痛みは一瞬だったが、イーツェンは驚き、ついで、こみ上がってくる反発と気恥ずかしさを呑み下さなければならなかった。
 奴隷は物言わず、従順に、ただ道具のように役立つことばかりを要求される。それは骨身にしみてわかっていた。人ではない、ただの道具だ。
 キルロイの国は、自国の民を奴隷に落とすことはしない。だがユクィルスやサヴァリタリアから奴隷を買い、船で輸出して、他国の奴隷の売り買いをする。兵士は奴隷の存在に慣れ、彼らがただ従うことに慣れきっていた。
 兵士が麻袋を固定しているロープをほどき、中の方の袋を引っぱり出そうとする間、イーツェンは不安定な船底に足を踏みしめて、傾きかかる荷を肩で支えていた。
 豆の袋はそれほど重くはないが、ロープを外されて不安定だ。頭を下げて、首の輪が許す程度に首をねじり、両肩に荷が当たるようにしていると、傾いた視界のすみにジャスケの連れの姿が見えた。イーツェンはまばたきする。見えているのは船の中ではなく、桟橋だ。あの男はいつの間に船から桟橋におりたのだろう? 何のために?
 連れの2人の内でもどちらかと言うと地味ななりの男で、白いもののまじった金髪を背で結び、袖のゆったりした上着をまとっている。彼はクリムと名乗っていたが、ジャスケのように長々と家の名を──少なくともそれらしいものを──つけ足したりはしなかった。いつもニコニコしているようだが、イーツェンは宿の裏で彼とばったり顔をあわせた時、蹴られそうになったことがある。
 人が動くたびに船が左右に揺ぎ、荷の上につんのめらないよう、イーツェンは腰を低くして体を支える。背中がきしんだが、慣れた痛みだった。川旅は体が冷えるのでどうしても傷が痛む。その体勢のまま、注意深く船着場の様子をうかがった。
 いつ、あの男は船からおりたのだろう。ジャスケ本人は、この瞬間もいつもの陽気な大声で兵に話しかけ、連れが出ていったことに気付いていないか、言及しないようにしているようだった。
 クリムは、長いマントを羽織った統率役の兵士と話をしていたが、ふっと船に背を向けて──イーツェンは一瞬、2人が頭と頭を近づけるのを見た。ほんのわずか、それは秘密を分けあう者たち特有の、無意識で親密な仕種に見えた。その手元はイーツェンからは見えないが、何かがやりとりされた、小さな肩の動きは見えた。
 それからクリムは桟橋を船の方へ歩き戻り、荷にさえぎられてイーツェンの視界から消えた。彼と話していた兵が呼び子を吹き、大声で命じる。
「引き上げだ。行っていいぞ」
 荷をあらためようとしていた兵が手をとめ、封印を取ったばかりの袋の口を戻した。荷を支えているイーツェンには見向きもせず、そのまま立ち去っていく。物慣れた様子だった。
 すぐにジャスケがぶつぶつ言いながら荷に寄り、ちぎられた封印の紙を拾った。足でイーツェンをつつき、手伝わせて、ロープを結び直す。途中からは船乗りが作業を代わった。当然、彼らは荷崩れを何より嫌う。
 イーツェンが追い払われてシゼのところへ戻る間も、ジャスケはまだ文句を言っていた。
「風もいいというのに船を留めさせ、人の荷物にためしの手をつっこんで‥‥」
 いや、とイーツェンは思う。兵は手にためし用の棒を持っていたが、豆の袋にさしこんで中を探るまでには至らなかった。豆のいくらかは、あいた袋の口から船板に音を立ててこぼれ落ちてはいたが、それだけだ。
 ジャスケがそれに気付いていないわけはない。だがなおも大声で不服をまくし立てる男に背を向けて離れ、イーツェンはシゼの横へうずくまった。目のすみで、ジャスケと、その傍らに戻っている連れの男の姿を盗み見る。
 もしあの荷が本当に豆だけなのだとしたら、彼らはどうして、賄賂を渡してまで検分をのがれようとしたのだろう?
 イーツェンは顔をしかめた。ジャスケが何を運んでいようが、豆に隠れて何を商っていようが、興味はない。だが巻きこまれるのだけは御免だった。そしてついさっき、その寸前までいったのだという嫌な確信が、彼の背中につめたく粘りついていた。
 船乗りが合図の声を上げて桟橋を蹴り、船は川の中央へ向かってすべり出す。
 あと2日、とイーツェンは頭の中で唱えた。このままいけば、あと2日で川の旅は終わる。そうすれば、吹きさらしで骨まで冷える川旅とも、得体の知れない旅の連れとも離れることができる。その筈だった。