役人が割り符にインクをなすりつけ、印面のようにして書類に押印する様子を、イーツェンは息をつめて見つめた。
こまごまと、役人はシゼを問い質した。名前、出身地、目的。所持金の申告、徒弟契約もしくは経験の有無、ユクィルスにいる係累、サヴァリタリアやその先のバラッカにいる係累やたよる相手の名、身分。シゼが兵士だったと聞くと、アンセラの遠征に参加したことまでも聞き出し、部隊名と司令官の名を書き取った。
シゼとイーツェンは多くの質問を想像し、そなえてはいたが、アンセラのことについてまで詳しく取り決めてはいなかった。するどい問いに答えるシゼがどこまで嘘を混ぜているのか、その注意深い口調からはイーツェンにはわからなかった。そしてまた、嘘と真実のどちらがここでは安全なのかもわからなかった。
すべての書類が新しいのを役人は問いつめるような口調でただしたが、シゼは何の動揺も見せず、遠征中に上役が死んで書類袋がすべて行方不明になり、1度に作り直したのだと説明した。
やがて役人はうなずいて書き取りを終え、次にイーツェンがシゼの奴隷である証しを求めた。シゼが、ジノンの作った証書を見せる。それを見ていた役人は、シゼの後ろに隠れるように立つイーツェンへふいにするどい目を向けた。
「リオン。お前はどこの出自であるか」
直接声をかけられるのを予期していなかったイーツェンは驚いたが、口をひらく前に視線でシゼの許しを得るのを忘れなかった。奴隷らしくシゼのうなずきを待ってから、頭を垂れて、役人へへりくだってみせる。
「アンセラでございます」
褐色の入ったイーツェンの肌の色も、細づくりの顔立ちもこのあたりの民のものではない。ユクィルスが攻め入ったアンセラの血筋だということにするのが、1番無難だった。
「どこで輪をつけられた」
「トーロイの湖上城でございます」
「お前に輪をつけたのは誰だ」
何故ここまで聞いてくるのか、イーツェンはたじろぎを見せないよう足元を見つめたまま、呟くように答えつづけた。奴隷の多くはそんな風に、ただ注意や反感を引くことだけを恐れるようにしてしゃべる。
「ご城主様のご子息の命によるものだと存じております」
トーロイの湖上城にはイーツェンは行ったことがないが、城主が王家の遠縁であり、アンセラ遠征に関わったことは知っている。ジノンとローギスが割れた後はローギスの側について戦い、息子が命を落としたことも、酒場の噂話で聞いていた。
「役目は何だった」
「床の掃除と動物の世話をさせていただいておりました」
「何故、売られた」
役人の問いにはイーツェンを不安にさせる執拗さがあった。それともただの奴隷ではない、輪つきの奴隷はこういう扱いを受けるものなのだろうか。一介の奴隷商人は、奴隷に首輪をつけられない。金属の輪を人の首に巻くことができるのは、力のある貴族だけだ。
「私は存じ上げるところにはございません」
「金や物を盗んだか?」
「いいえ」
「主人の命に背いたか?」
「いいえ」
「女をはらませたか?」
イーツェンは奥歯を噛んで、従順そうな声を保とうとした。
「いいえ」
「お前はこの者をどこで、いくらで買った」
問いの矛先はイーツェンからシゼへ向いたが、イーツェンはさらに肝を冷やした。そのあたりの事情については、あまりきちんとした決め事をしていない。シゼの方を見たいと思っても役人の目を引くわけにはいかず、彼は足元を見つめたままでいた。
シゼの返事は静かだった。
「ディーエンの大市で、銀3枚で」
「輪つきをか」
安いのか高いのか、イーツェンにはわからない。輪つきはおろか、奴隷の値段の相場をまるで知らない。だがシゼはその反問を予期していたようだった。
「病だったので。長旅で弱っていたものを商人から買い受けた」
「お前は病の奴隷に銀3枚出したというのか? アンセラの生まれだと知っていたか? お前の寝首をかくかもしれんぞ」
嘲笑とも怒りともつかない毒々しさが役人の言葉にはあって、イーツェンは身を固くする。何かひどく嫌な方へ物事が転がりだしそうな、不吉な予感が全身につめたく粘りついていた。
「私はアンセラで人を斬った」
思わずシゼの顔をまっすぐ見そうになって、イーツェンはこらえる。シゼの声は淡々として、おだやかと言えるほどのものだったが、その言葉には痛みがひびいていた。アンセラでの戦いは、シゼの中にも暗い影を灼きつけているのだろうか。
「あそこはひどい場所だった」
小さな溜息をつき、シゼは役人をまっすぐに見た。
「アンセラの生まれだということは聞いていた。だから買ったんだ」
シゼがその先に何か言うと思ったのか、役人は少し間をおいてから、薄い唇のはじをめくり上げるようにして息をついた。
「随分と情のあることだな」
皮肉るように言ったが、口調からは険が取れていた。
「俺の弟もアンセラに行ってな。腕1本、あいつらに取られたよ。まったく山犬みたいな連中さ。なつくかどうかわからんが、あんたもせいぜい気をつけることだ」
本気で忠告しているような言葉に、イーツェンは怒るよりもうんざりした。アンセラの人間が「山犬のように」戦ったのは当然だ。彼らの故郷に攻めこみ、それを奪おうとしたのはユクィルスの方なのだ。それに向かってあらん限りの獰猛さで牙を剥いて、何が悪い。
だが勿論、この男にそれを言うことはできない。たとえ面と向かって怒鳴ったところで、何もつたわるまい。彼らにしてみれば、異国の蛮族の命や痛みなどそれこそ山犬程度の重みしかない。山犬の故郷が奪われようと、血筋が絶えようと、何も感じないだろう。
それはユクィルスの人間が特別に冷酷だということではなく、人の心の中にある壁というものなのだろうと、イーツェンは思う。イーツェンの中にも壁があった。もしシゼと会うことがなければ、ユクィルスの兵など襲いかかってきた獣の群れのようにしか思えなかった──彼らの1人ずつに名があり、心があるのだと、そんなことには気付きもしなかった。
役人はもうイーツェンの存在を完全に無視し、シゼと船便の話を始めていた。シゼは相槌を打ちながら川と行く手の町についての情報をできるだけ集めようとしている。
どうやらうまくこの場を切り抜けられそうだ、とイーツェンがほっと息を吐き出した時、目のすみに白いものが翻った。
船関の役場の建物は港に面して横に長く、同じ側に5つの扉があるが、今はそのうち3つがとざされている。イーツェンとシゼの背後にある扉はひらかれて、船関を通る許可をもらおうと、数人の荷主や船客が入ってきては長机の向こうに座る役人と話をしていた。
もう1つの扉からは主に役人や兵士が出入りしているようだったが、まだ朝早く人の動きの少ないそこに、ジャスケが立っていた。イーツェンが見慣れた白い袖をひらひらさせながら、衛兵の1人と話しこんでいる。
彼も船関の手続きに来たのだろう──と思いはしたが、イーツェンはひっかかりを感じて視線を戻した。不審に思われないよう、視界のすみに入れるようにして様子をうかがう。
衛兵はジャスケに紙の束を見せ、中のどれかをジャスケが指してうなずくと、お互いまた少し話しこんでからやがて衛兵がジャスケに袋を手渡した。ジャスケが手のひらで簡単に重さを量ると、それを懐にしまい、気安い様子で衛兵の肩を叩く。それきり彼らは互いに背を向け、ジャスケはほかの者には目もくれずに役場を出て行った。
何が気にかかったのかわからないまま、イーツェンはシゼと役人の方へ注意を戻す。ほどなくシゼは会話を切り上げ、割り符の印が入った通行証を受け取って、イーツェンについてくるよう合図をして踵を返した。
シゼについて出口へ歩きながら、イーツェンは手続きを待って雑な列を作っている5人の旅人を目のすみでちらりと見た。父親と少年の親子づれ、商人らしい身なりの男が2人、それに神官。平服だが、独特の肌の白さと静かなたたずまい、マントの胸元に留められた符の飾りからそれとわかる。肩にかけた袋は本の形に角張っていて、多分、国外に持ち出す本の許可を取ろうとしているのだろう。
不意にはっとして、イーツェンは肩ごしに後ろを振り返った。ジャスケと話していた衛兵の姿を探すが、もういない。
だがイーツェンは、彼らに感じた違和感の正体を悟っていた。あの衛兵は、昨日イーツェンを殴った町の衛兵とはちがっていたのだ。一見同じような褐色のシャツと革鎧に肩当てとマントだが、ジャスケと話していた衛兵の胸元にはユクィルスの紋だけではなく何かの模様がつけ足され、その上からは、符のような飾りが下がっていた。まるで神官の胸元にあるような。
──神殿兵だ。
正規の服装ではないが、略装に符をまとっているのだろう。彼らは神殿に属している。船関の兵ではない。ジノンの兵でも、ローギスの兵でもない。
何故、神殿兵がここにいるのか──そして何故、ジャスケと話していたのか。兵がジャスケに何かを渡した時に両方の男がうかべた笑みは、イーツェンを落ちつかなくさせるような、どこか不吉なものに見えた。
イーツェンは背中を這いのぼる不安を振り払おうとした。何もかも、彼の考えすぎかもしれない。何でもないことかもしれない。それに何より、もうジャスケに会うこともないだろう。至る所の影に怯えていては、1歩も前に進めはしない。
そう思ってシゼにジャスケのことを言わずにおいたイーツェンだったが、その翌日、帆柱の長い川船に乗りこんだ彼は、荷の影になって川風がぶつかりにくいいい場所に陣取っているジャスケと連れの2人を見て、思わずそのまま船をおりたくなった。
ジャスケたちは「そんなに急ぐ旅ではない」としきりに言っていたし、てっきりそのあたりの領主か何かのところに滞在する気でいるように見えた。あれだけ船旅に文句をつけていた3人組が、たった2日おいてすぐに川船に乗りこんでくるとは、イーツェンの予想の外だった。
見おぼえのある荷主も船に乗っていた。シゼはジャスケたちからの長々しい挨拶を片手を振って流すと、船乗りに指示されて船のともの方へイーツェンと並んで座った。
ジャスケは、荷主の男と明るい声で話をしている。川風がジャスケの声をはっきり運んできて、イーツェンは身を包んだマントに首すじをうずめてしかめ面を隠した。荷主はこのナトルムまでイーツェンたちと同じ船に乗ってきた男で、どうやらジャスケは彼の荷の権利をいくらか買って、一緒に下流へ行くらしい。荷主が持っているのは船に積んだ荷だけではなく、途中の町で穀物を買える手形もあるという話で、ジャスケが余分に金を出せばいつもより多くの荷を扱えるらしかった。互いにいい商売になる、もしきりに上機嫌にくり返している。それもこれも神々のおぼしめしだ、とか何とか。
──よくしゃべる男だ。
心底うんざりして、イーツェンは帆柱へ目をやった。この船も帆柱は1本だが、帆柱の先端から舳先にロープが張られていて、そこにも帆を張れるらしい。今は主帆が1枚だけ、それも引き上げて縮帆されていた。帆柱の先端からは、青い旗のようなものが細い尾を風に揺らしている。
イーツェンたちの周囲にはすでに船客が身をよせあうようにして座りこんでいて、数人がじろじろと彼らの姿を眺めてから、興味なさそうによそを向いた。
狭い場所に体を落ちつけ、イーツェンは目で数える。船員は5人、船客はジャスケたちの3人に船に慣れた様子の荷主と連れが4人、イーツェンの周囲に座りこんでいる船客が12人。24人の人間が荷と共に乗りこんだ船は大きく、これまで乗ってきた2隻の小船にくらべると驚くほどの安定性があった。
速そうな船だと、船のことなど何も知らないままにイーツェンは思って、その期待が正しいことを祈りながら風に波立つ水面を眺めた。風は右手前からゆるく吹いていて、これが追い風に変われば、ほんの数日でルスタにつくこともできるという話だった。
シゼは足元に剣を置き、イーツェンと船客の女との間で狭そうにしていた。女は2人の子連れで、少年か少女かわからないほど汚れた顔の子供たちは彼女の足元に荷物のようにうずくまり、1枚のマントの下で身をよせあって寝ていた。
子供に輪をかけて粗末な身なりの女は、神経質な手を動かしながら帯布に刺繍を施していた。ゆっくりと水に揺れる船の上で色の薄い唇を結び、きっと手元を見据えたその顔は痩せていて、結い上げた髪はほつれている。ほとんど泣き出しそうに、それでもきつい目で刺繍をつづける姿には鬼気迫るほどのものがあった。
戦乱をのがれて、国外の知り合いでもたよっていくものだろうか。イーツェンは彼女の手元を見ようとしたが、何を縫い取っているのかはわからなかった。夫らしき連れの姿はなく、おそらく彼女はその手ひとつでこうして飾ったものを売りながら、子供と一緒に旅をしてきたのだろう。
ユクィルスを去ろうとしている女と子供たちを目のすみで眺め、イーツェンは溜息を殺した。冬が近づけば戦闘も減り、兵の半ばが故郷へ帰される。だがまた春になればこの国や周辺の国々がどう動き出すか、誰にもわからない。
彼らが冬になる前に目的の場所へ──それがどこであれ──たどりつければいいと思う。イーツェンたちと同じように。
桟橋に立つ役人が手にした鐘を振ると、船頭がもやいを解いて桟橋を蹴った。船は、ゆっくりとナトルムの川港の口から川の流れへと押し出される。
ジャスケたちがうれしそうに数回手を叩き、数人の船客も興奮した口調で話している。その音を遠いもののように聞きながら、イーツェンは小さくなっていく灰色の町を眺めていた。色のくすんだ漆喰の壁、赤茶けた屋根、桟橋に立てられた町の旗。忙しく荷積みに働く荷夫、船の点検をする船員、衛兵、役人、数人の物もらいの子供。
すべてが、ゆっくりと、すべるようにイーツェンの目の前から遠ざかっていく。イーツェンが動いていると言うより、町がどこかへ吸いこまれていくようだった。
あの向こうにユクィルスの国があるのだと思った。今はまだ川岸の右手はユクィルスの国だが、じきに川は東へ曲がり、ユクィルスから遠ざかる。そうなればきっと2度と、もう2度と、イーツェンがユクィルスに足を踏み入れることはない。
何か感じるかと思っていたが、景色を眺めるイーツェンの心はひどく静かだった。空洞のように何も感じない。この国がどんな運命をたどっていくにせよ、もうイーツェンには何の関わりもないことだった。この国で生きる者たちがそれぞれの運命を担うだろう。イーツェン自身の運命は、もうこの地にはない。
ユクィルスが彼の居場所であったことは1度もなかった。
──シゼはどうなのだろう。
イーツェンは風に乾いた唇に、指の背でふれた。塩気のきつい旅の糧食ばかり食べ、川風に吹かれた唇はささくれて割れている。膜が薄く張った傷にふれれば、今でもシゼと交わしたくちづけの生々しさを思い出せた。ジノンの荘館で、ほかには何もいらないかのようにイーツェンを抱きしめた腕も。
シゼにとってユクィルスは故郷ではない。だが彼は人生のほとんどをユクィルスですごし、多くの思い出をこの地に持つ。たとえユクィルスに彼を引きとめるものがなくとも、ここはシゼが自分の身ひとつで人生を切りひらき、日々を築いてきた国だ。
イーツェンと共に来るということは、そのすべてを置いていくことを意味した。この地に残る友や仲間と、2度と会えないということを。
鐘楼の先端にある風見の形がぼやけて見えなくなるまで、イーツェンはナトルムの町を眺めていた。それから、顔を右へ向けてシゼを見る。
シゼは町を見てはいなかった。肩の力を抜いて腕組みの形に両腕を重ね、船べりに背を向けて座ったまま、彼は少し頭をかしげてイーツェンを見ていた。
目があって、思わずまばたきしてから、イーツェンは何となくひとつうなずいた。シゼもかすかにうなずきを返す。船客の混み合う船の中でうかつな言葉を交わすわけにはいかないが、イーツェンは心の波立ちが落ちつくのを感じた。シゼは、ユクィルスを振り返るつもりはないのだ。イーツェンをまっすぐ見つめる目はそのことを何より雄弁に告げていた。
もう町を見ず、イーツェンは前を向いて膝をかかえ直した。
やがて川が大きな曲がりにさしかかり、肩ごしにちらりと目を向けたが、ナトルムの町はうねる川の土手の向こうに消えて、もうそこに町があることすらわからなかった。
その日は、途中で船内に水が漏れていることがわかった以外は平穏にすぎていった。
水が船に入りこんでいると聞いてイーツェンはぎょっとしたが、船員は平気な顔をしてほぐした麻に油を混ぜると、「よくあることさ」と言いながらそれを先のとがった木片を使って水の洩る隙間に叩きこんだ。
物慣れた様子から、実際にこれが「よくあること」らしいとは察したが、それはそれで心が安まらない。イーツェンは思わず真剣な目で、川の流れの速さと、近い岸までの距離を測った。これほど幅の広い川で泳いだことはないが、夏はよく滝から水が流れこむ淵で遊んだ。泳ぎは達者な方だ。いざとなれば何とかなりそうな気はする。
しかし、とイーツェンは船に押し出されてひろがっていく白い泡の波紋を見ながら、溜息を殺した。いざとなっても、シゼは泳げない。どうするべきか。
イーツェンの勝手な取り越し苦労をよそに船は順調に距離を稼ぎ、午後になって追い風に変わると帆は大きく風をはらんで、驚くほどの速度が出た。途中でわざわざその帆をたたんで船を泊め、船員5人がかりで帆柱を倒した時には驚いたが、その後、大きな橋をくぐるのを見て納得した。帆柱を立てたままでは橋に引っかかるのだ。
まだ新しそうな橋の右手には小さな石城があって、サヴァリタリア国の西端の守り手がすむ砦なのだと、相変わらずにぎやかなジャスケと船員の会話からわかった。川から大きな水路で水を引きこみ、砦を堀で囲っているらしい。
天守は派手な赤色で塗られ、その壁にははっきりと、遠目からでもわかるほど巨大な「目」がひとつ描かれていた。目玉は塗りつぶされ、馬鹿馬鹿しいほど長い睫毛が丁寧な曲線で壁一杯に描かれている。魔除けか、見張りの意味なのか。川を下っていく船をどこまでもその目が追ってくるようで、不気味だった。
昼がすぎると、船の上で各自が持ちこみの食事を取った。イーツェンとシゼは干し肉と干し杏、それに宿から持ってきた黒パンを食べた。パンは2枚あわせで、内側にたっぷり蜂蜜が塗ってある。
歯が浮くほど甘かったが、幸福な気分で平らげて、イーツェンは指をなめた。保存のきく塩辛い食料はリグの冬に食べ慣れてはいるが、だからこそ甘いものや瑞々しいものを食べる贅沢はこたえられない。この焦げたような香ばしい甘さを味わえるのが次はいつかわからないと、体の方が勝手に理解しているようだった。
午後遅く、イーツェンはうとうととまどろんで、ぼんやりと気付いた時にはシゼによりかかっていた。川の音、水の匂い。船体からたちのぼる松脂と油の匂い。風が弱まって船員が櫂を漕いでいるのか、軸受けの木がきしむ音と櫂が水をはじく音が定期的にひびいていた。船体に水がぶつかるたびに濡れた音がひろがる、その水音と共に体がゆっくりと揺られ、時おり大きなうねりが全身を持ち上げるが、イーツェンの背中に回ったシゼの手がマントをつかんで、さりげなく体を安定させていた。
もう1度目をとじて、イーツェンはシゼの肩に顔をうずめるようにもたれた。全身が重い。起きなければと思いながらも、まるで目があかなかった。シゼのマントの布は織りが粗く、頬をちくちく刺すが、それでも眠気には勝てそうにない。シゼがイーツェンを起こそうとしないので多分大丈夫だろうと、寝ぼけた頭でいいように解釈して、体から力を抜いた。
次にはっと気付いた時には、シゼの手がイーツェンのマントの首根をつかんで何か言っていた。声は聞こえたのだが言葉を聞きとりそこねて、イーツェンは頭に雲がつまったような気分のまま、状況をつかもうと目をしばたたいた。
風が耳に痛いほど鳴る──いや、それが子供の悲鳴と大人の怒号の入りまじった声だと悟るのに一瞬かかった。夢の中で吹雪だと思っていたのはこれだったのだ。
一体何が、と起きようとするイーツェンの頭をシゼが問答無用で押し下げた。ほとんど同時に、するどい音が独特のうなりを引いて宙を裂き、イーツェンは全身の血が凍った。聞き間違えようもない。
──矢を射る音だ。
「何──」
「盗賊だ」
シゼが早口に言うと、イーツェンの上に覆いかぶさって彼を船板に押しつけながら、両腕で背中からかかえこんだ。ぴたりと体があわさって、イーツェンの首のつけ根にシゼの息がくぐもる。シゼの顎がイーツェンの首の輪に押しあてられるほど近く、全身にシゼの重みと呼吸を感じた。
シゼの息は早く、イーツェン自身の心臓も早鐘のように鳴っていたが、彼はシゼが仕種で命じるまま膝を縮めてじっと伏せ、船板に顔を押しあてていた。まずは恐慌に陥らず、従い、そなえて待つこと。それが何より大事だと、色々なものをくぐり抜けてきた経験が体に叩きこまれている。
子供の悲鳴はやまず、船が左右に舵を切って体がゆさぶられ、船員や荷主たちの怒号が飛びかう。引き離せ、とかあっちの船足の方が遅いとか聞こえるからには、盗賊は船で襲ってきたのだろうか。何がおこっているのかはっきり見たかったが、イーツェンは動かなかった。何があっても軽々しく動くなとは、船員からもきつく言い渡されていることだ。船の均衡が崩れれば、最悪、沈む。
水を叩く音が船尾からして、船が水の上に大きくのり出したように感じた。身を倒したまま、船板についた手のひらに力をこめ、体が揺れないよう踏んばる。
「‥‥シゼ」
この騒ぎではどうせ誰にも聞かれまいが、声はひそめて呼んだ。シゼの腕に、返事のかわりに力がこもる。
「もし船が沈んだら、浮いてる荷物につかまって。私が引っぱるから」
こんな時に言うことではなさそうな気もしたが、何かあってからでは遅い。聞き流すか、たしなめられると予期していたイーツェンは、だが耳元に押し殺した笑いを聞いてぎょっとした。シゼの笑い声が首すじにくぐもって、イーツェンの背中は緊張と違うものに震える。
「何で」
笑う、と言おうとした時、シゼの指がイーツェンの髪をなでて、彼を黙らせた。おとなしく黙ったが、重なった体の揺れからシゼの笑いがまだつたわってきていて、イーツェンは腹の底が落ちつかない。
──何がそんなにおかしい。
また矢の音がひびいたが、それは随分と遠く聞こえた。盗賊の船と距離が離れたのだろうか。無論、長弓ならば多少の距離などものともしないが、揺れる船の上で長弓を引ける盗賊がいるとも思えない。
頭を回して船内の様子をうかがおうとしたら、シゼの手に容赦なく押さえつけられた。喉の奥で不満をうなりつつ、イーツェンはおとなしく体の力を抜く。別に頭をおこそうとしていたわけではないし、過剰反応だと思うが、シゼの用心が正しいのもわかっている。
「もういいぞ!」
やがて船員の声がそう怒鳴って、船客たちはおそるおそる体をおこし、全員で下流を見つめた。あれが盗賊の船かと、遠ざかっていく平たい船を見つめて、イーツェンは目をしばたたく。帆のない、櫂が両側についた小さな船に見えた。
イーツェンたちの船では船尾に2人の男がそれぞれ左右の櫂にとりついて、全身を使った大きな動きで船を漕いでいる。呼吸を合わせた号令で櫂を水から同時に抜き、彼らはふうっと大きな息をついてふくれあがった肩の筋肉を手のひらで叩いた。
帆柱のそばでは、別の船乗りが身をかがめ、舷側にくいこんだ金属の鉤を外そうとしていた。そばに手斧が落ちている。どうやら船が近づいた隙に、向こうの船から鉤縄を投げこまれたものらしい。その縄を手斧で断って、船足の速さでのがれたようだった。風が追い風で幸いだった。
「やあ、心臓に悪いですなあ!」
はつらつと、ジャスケが声を張り上げながら心臓に手をあててみせ、そばの2人が大仰に同意した。ジャスケの目が全員の上をさっとかすめ、イーツェンは顔を伏せて唇を引き結ぶと、膝をかかえて目立たないように小さく座った。ジャスケに用心しなければならないのに、こんなところでだらしなくシゼにもたれかかって眠ってしまったのが信じられない。見られていないといいのだが。
かぼそい鳴き声が耳に届く。シゼの向こう側で、2人の子供がすすり泣きながら母親にしがみついていた。母親はなだめようとしているのだが、ますます子供は火がついたように泣きわめき、船客から苛立った罵声がとんで、そばに座っているシゼは居心地悪そうに視線を前に据えていた。
「──」
手を貸そうか、と母親に向けて申し出かかりそうな口を、イーツェンは用心深くつぐんだ。奴隷にそんな申し出をされても、彼女が困惑するか怒るだけだ。
子供の泣き声はやがて疲労に消え入り、母親は何事もなかったかのように刺繍の縫いとりをはじめた。イーツェンはじっと膝をかかえて座っていたが、ちらりとジャスケの方を見ると、男は目を半眼にして穀物の袋にもたれ、眺めるともなく彼らの方を見ているように思えた。
その夜は、船宿の大部屋に泊まった。金を払えばもっといい部屋があてがわれるが、ほとんどの者が──勿論ジャスケたちは除いて──手持ちの毛布やマントにくるまって、床の上に集めた藁に横たわった。
シゼはごく当然のように、イーツェンと身をよせて毛布を分けあった。船乗りの男が不躾なからかいの声をかけたが、シゼは曖昧な相槌でそれを流し、イーツェンは無関心をよそおった。この季節、人肌で暖を取るのは珍しいことではない。もっと寒くなれば、からかっている船乗り自身、誰かと一緒の毛布に入る筈だ。
1日中、どこにも行かずに船の上で揺られていただけなのに、体中がなじみのない疲労感に重く、イーツェンはシゼのぬくもりを感じながら全身の力を抜いた。シゼが夜番をする必要がない時、こうやって一緒に横たわるのがいつから普通のことになったのか、イーツェンにはよくわからない。だがつたわってくるシゼの温度にごく自然に体がよりそう、そこにあるおだやかな親密さがイーツェンは好きだった。
とは言え、今はこうしてそばにいても、何も話せない。どんなに声をひそめても周囲の人間に聞こえるかもしれないし、声をひそめて話していること自体をあやしまれるだろう。イーツェンは目をとじて、溜息を殺した。
黙っていることには慣れている。だが、シゼと話せないのがつらかった。旅の先々についてや、気がかりな存在のジャスケについて──それだけでなく、たとえば遠い雲の形や川面で美しい渦を巻いた流れ、見たことのない岩の色。そんな、何気ない会話のひとつもできない。遠ざかるナトルムの町の景色をシゼがどう感じていたのか、聞くこともできない。
イーツェンはシゼと話すのが、こうして身をよせているのと同じくらい好きだった。シゼは口数の多い方ではないが、言葉を通してシゼと何かを分けあうのが楽しい。他愛もない会話で、シゼの何気ない一面を知るのが楽しかった。
だが、今は仕方がない。あまりにも子供っぽい不満を、イーツェンは腹の底に押しこめた。この旅を無事に、そして早く終えるのが何よりも大事なことだ。もっと安全なところにたどりついたら、今日何故笑っていたのかシゼに聞いて、場合によってはちょっと怒ることもできるだろう。
次の早朝、問答無用でシゼに揺り起こされ、イーツェンは宿の水汲みを手伝いに行かされた。シゼからやんわりとした、だがきっぱりとした口調で「手伝うように」と言い渡され、主人然としてふるまうシゼに安心しつつもムッとして、イーツェンは宿の桶をかかえて川へ出かけた。
川の一部が石を何段にも積んだ小さな堰になっていて、そこで水を汲めるようになっている。水を引きこんだ溜め池ではまだ夜も明けきっていないこの早朝から洗濯をしている女がいて、びしゃびしゃと派手に水しぶきを上げながら棒で布を叩いていた。多分、船客の誰かが洗い物をたのんだのだろうが、船で乾かすつもりだろうか。
川べりに身をかがめて顔を洗い、水を汲もうとして、イーツェンは気配に振り向く。目の前にシゼが立っていた。
シゼはイーツェンの横で身をかがめ、冷たい川の水で顔を洗いながらたずねた。
「背中は?」
イーツェンは微笑して、斜めにした桶を流れに沈め、丁寧に水を汲んだ。少しだけでも、誰にも聞かれずに言葉を交わす時間を作ろうとしてくれたのがうれしかった。
「悪くないよ」
同じ姿勢をつづける疲労感で時おり痛むが、動きを妨げるほどではない。小さな痛みにはもう慣れている。
シゼは布で顔を拭ってうなずいた。イーツェンは一瞬間を置いて、ちらりと周囲を見回すと、昨日からつたえたかったことを口にする。
「ジャスケに注意してくれ」
シゼは口をすすぎながら、言葉の先を待つようにイーツェンを見た。イーツェンはシゼの手から布を取り、彼が濡れたままにしている額のはじを拭いてやる。
「多分あの男が、ハドルを神殿の追っ手に売ったのだと思う」
「売った?」
「役場にいた神殿兵から、ジャスケが金をもらっているのを見た」
一昨日、ジャスケが神殿兵とやりとりしていたことに気付いた時にイーツェンが真っ先に思い出したのは、ナトルムまで同じ船に乗り合わせた剣士の姿だった。ナトルムにつくやいなや、衛兵が彼を捜し、とらえた。あの時に勘違いした衛兵が殴った痕は、今でもイーツェンの頬にうっすらと青い。
ハドルが連行された翌朝、場違いな神殿兵からジャスケが金を──イーツェンはあれが金だと確信していた──受け取っていたのだ。
疑いが当たっているかどうかたしかめるすべはなかったが、もしそうだとすれば、ジャスケについて気がかりなことが2つあった。1つはあの男が賞金のために手配書を見たりその手の話に耳ををすませているような、目端の利く貪欲な男であるということ。そしてもう1つは、彼が自分で吹聴しようとしているような、裕福な貴人ではないということだ。
お尋ね者の情報に目を配り、同船の客を告発し、抜け目なく金を手に入れる──金への執着としたたかさ。ジャスケがよそおっている見かけと、その動きはまるで相容れない。だがその裏の顔こそが、あの男の、そしておそらくあの3人組の本当の顔のような気がしてならなかった。
「正体のわからない男だ」
詳しく説明する時間はなく、イーツェンは短くシゼにつたえる。宿の裏口がひらく音がして、そちらにちらりと目をやりながらシゼはうなずいた。
「あの男はかなり使う。あまり近づかない方がいい」
「使うって‥‥ジャスケが?」
あの小太りの男が何かの武器の使い手だとはイーツェンには思えなかったが、シゼは真面目にもうひとつうなずいて、宿の方へ向かう。朝の身支度をしようと、数人の旅人が表に姿を見せはじめていた。
イーツェンも満たした水桶を手にして立つと、シゼを追って歩き出した。幸運ならば、ジャスケは途中の町で取引のために船をおりる。いかに不運でも、何事もなく船がルスタの港町につけば、それきり縁の切れる男だった。
それにもう、ユクィルスはずっと後ろだ。ユクィルスの法も王の力もここには及ばない。ジャスケが何者であれ、イーツェンたちがあの男を怖がる必要はない筈だった。