まるで呼び売り商人のような大きなだみ声で披露される城主の娘の婚礼話を右から左へ聞き流し、イーツェンは西の空を見た。空には薄い幕を掛けたように薄雲が広がり、やや濁った暗い色の雲が西から動いてきている気がする。天候が崩れないといいのだが。
「ウズラの香草づめ、仔牛のワイン煮のパイ包み、泉の水で冷やした野イチゴのクリームがけ。それはそれは見事な金の巻き毛を結い上げた娘たちが、各々給仕についておりましてなあ」
蕩々と、得意げに語る声が耳について、イーツェンは少し離れたところに座るシゼをチラッと見た。帆柱に顔を向けて船べりに背をもたせかけたシゼは、眠っているように目をとじている。だがさりげなく垂れた右手がいつでも剣を握れる位置にあることを、イーツェンは知っていた。船の上で何があると思っているわけでもないだろうが、シゼはそういう男だ。
縫いの跡が目立つ帆が、風をはらんでゆるくはためいていた。帆柱の先端や帆のはじには大量のロープが取り付けられ、帆柱を固定しているだけでなく、それで帆の傾きも操るらしい。帆の動きの邪魔にならないよう船中に荷が積み上げられていた。残った隙間に客が乗りこんで、船の上はうかつに動くことができない。おまけに座る場所まで指示されたせいで、イーツェンはシゼのそばではなく、1人で船尾近くの荷物の間に座らされていた。
荷船なので、船客は少ない。イーツェンとシゼの他には荷主が2人と、いかにも全財産をかかえて旅をしているといった様子の剣士が1人。それに、何故かやけに身なりのいい3人組の客。そのうちの1人が腹の出た陽気な中年男で、これがまた実によくしゃべる男だった。荷物の間にいかにも狭そうに身を押しこめて座ったまま、ふちに白い飾りのついた袖をひらひらさせながら両手を振り回し、どこの城で誰に招かれたとか、貴族の誰々の家の食事が豪華だったとか、そんな話をとめどなく披露し続ける。
よくしゃべる男は、自分をジャスケと名乗った。通称か略称だろうが、押しつけがましいほど人なつっこい振舞いで、そばにいる2人の連れ、船乗り、他の荷主、1人旅の剣士、しまいにはシゼと、相手を選ばず話しかける。
何か、このあたりの魚が泥臭いのどうのという話に同意を求められたシゼは、1度だけ面倒そうに返事をして、次からは相手をしなかった。「どちらへ?」という問いも片手を振って流す。
さすがに奴隷に話しかける趣味はないのか、荷物のように無視されているイーツェンはそれをいいことに、乗り合った人々の顔をこっそり盗み見ていた。陸の旅と違って船旅は大勢が狭いところに同乗していて、しかも逃げ場がない。互いのことを詮索しやすいから相手に充分気をつけろと、ヴォルに警告されていた。
荷主の2人はいかつい肩と陽に焼けた肌の男たちで、船乗りとも顔なじみらしい。慣れた様子で荷のそばに陣取って、2人で賽を振っていた。
彼らから一緒に遊ばないかと誘われた剣士は、それを断って剣を抱くように船べりに背中をもたせかけ、膝を引きよせて座っている。うつむいた表情や肩のこわばりは、何かに対して常に身がまえているように見えた。彼の位置がイーツェンから1番近い。
剣士の荷物は1人旅にしては多いが、きっちりまとめられて水よけの油布をかけた荷は、旅慣れていることをうかがわせる。剣士のほとんどがそうであるように陽に焼け、目つきにはきびしい険があった。腰の剣帯はシゼのものよりも重そうで、鋲が打たれ、よく使いこまれていた。戦い慣れている男の匂いがする。
「10人の侏儒と30人の踊り女とで輪になって、こう、スカートの裾をたぐりあげて──」
おしゃべりなジャスケは宴会でのきわどい見世物の話をはじめ、賽を振る荷主の手をとめていた。連れ2人は彼よりも年下で、大体30をすぎたくらいの男たちだ。どちらも目が細かくつんだ灰色の旅用のマントと、ふちどりのある膝丈の長衣、旅路で見るには珍しいほど白いシャツをまとっている。洗濯女に金を払って洗わせたものか。裕福なのはまちがいないが、それがどうして小姓もつれずに3人だけで乗り合いの川船などに揺られているのか、イーツェンには大きな謎だった。
3人ともユクィルスによく見る頬骨と鼻梁の高い顔立ちだったが、ユクィルスの貴族のものとは発音が少し異なっている気がする。だがもしユクィルスの本城にいたことなどあれば、万が一にもイーツェンのことを知っているかもしれないし、あまり眺めるわけにもいかなかった。可能性は低いと思いつつ、ここで自分の運を試す気にはなれずにイーツェンは水面へ目を向けた。昆虫の死骸が葉と絡まりあいながら流れ下っていく。
「砂州を回るぞおっ」
舳先で船乗りが怒鳴った。客たちが動きをとめて船の中でのびあがり、行く手を見る。ジャスケすら口をとじ、舳先へ顔を向けた。
行く手の左岸から、大きな砂州が川の中ほどまでせり出していた。砂州には警告のつもりか赤い布を結びつけた杭が打たれている。
布がはためくのを見ていると、ぐいっと船が回頭してイーツェンの体は左に倒れた。船べりを握って体勢を保つ。船体を回した船が横腹に流れを受けて砂州の方へ押し流されはじめ、イーツェンは息を呑んだ。
次の瞬間、船乗りが2人がかりで帆綱を引いて傾きを変えた帆が風をはらみ、船は水面を切ってすべり出す。船べりをつかむイーツェンの手に川のしぶきがかかり、彼は水の冷たさに驚きながら、忙しく帆と舵を動かす船乗りたちを見つめた。
船乗りは3人。先頭に立って水先案内をする役と帆の担当に、船尾の舵係。声が大きく、言葉が乱暴な彼らがイーツェンは少し怖かったが、独特なふし回しでだみ声をはり上げ、イーツェンには意味がわからない船乗り用語をぶつけ合いながら3人が協力して船を操る様子は、なかなか見事なものだった。
船の立てた水の動きで、川底から泥が巻き上がってくる。砂州を回りながら、あまりの水底の近さにイーツェンの腹の底が落ちつかなくなった。ヴォルは雨が少なかったからと、川の水量の心配をしていた。旅の間に幾度となく雨に濡れそぼっていたイーツェンとしてはあれで少ないと言われるのも腹立たしいが、水量の少なさが行く手を阻むようなことになるのは困る。
マントをしっかり体に巻き直しながら、イーツェンは水を眺めた。川を渡る風はしんと冷えていて、陽が少しでも陰ると肌から体温が奪われていく。何より首の輪が肌に冷たいのがかなわない。とうに収穫期はすぎ、秋深い風には冬の匂いがまざっているようだった。
またたく間に冬が押しよせてくるリグとは違い、ユクィルスの秋はゆるやかで、豊かで、この国で初めての秋を迎えた時、イーツェンはその季節のおだやかさに驚いたものだった。だがいかにゆっくりでも、冬は確実に近づいているのだ。もし冬に入ってルスタの港町から出港の時期が終わってしまえば、イーツェンとシゼは──たとえルスタまでたどりつけても──そこから出ていくことはできない。春になるまで。
その時の身の処し方を、イーツェンはいくらか考えてはあったが、港町で息をひそめて冬ごしするような羽目に陥りたくはなかった。ユクィルスを出られても身の危険がなくなったわけではない。むしろ右も左もわからない国など、すぐに抜けてしまいたい。
──その前に、ユクィルスを出なくては。
川風に身を震わせて、イーツェンは岸の左右を眺めた。川岸にはところどころ木の櫓が建っていて、入り口が鎖でふさがれている支流もあった。時おり川岸を巡回している兵の姿も見えるが、それはサヴァリタリアとの国境いが近いせいだろう。岸まで険しい土手が迫っている場所もあれば、広い河原が見晴らしよくひろがるところもあって、風景は変化に富んでいた。茂みや灌木が切り払われて川岸を見渡せるようになっているのは、やはり国境いが近いからか。
川に沿っては畑や村も点在し、外壁をそなえた町もいくつか通りすぎた。水害を避けるために小高い丘に作られた町を眺めて、イーツェンは町の長塔から揺れる旗の色を見さだめようとする。同じユクィルス王家直系なので2人の紋章は似ているが、フェインは星を黄に、ローギスは星を赤に染めさせているという話だ。
もっともイーツェンが見たところ、川沿いの町はどれも彼ら個人の紋章ではなくユクィルス王家の紋章を掲げていて、それは中立を示しているのだろうかと、イーツェンは内心首をひねっていた。ヴォルにきちんと聞いておくべきだったと思うが、もう遅い。
川港の話をした時、ヴォルは、川関のある町は王権とは独立して動いていると言っていた。王税の他に独自の通行税を設けることを許され、その4分の1を王に、4分の1を神殿に上納して、残りを自らのものとする。かなり強い自治権を有している様子だった。それを見張るために港町には王軍が常駐しているのだと、ヴォルはこともなげに言った。
そういう、町が1つの国のような地位を持つということが、イーツェンにはいまだに理解できない。この国にあるのがリグのように血族と氏族を中心とした結びつきではなく、イーツェンの目から見るとモザイクのような不思議な成り立ちであるのはわかっていたが、城から出てみると、その核がどこにあるのかがわからない。王権と神殿の力が密接に絡み合いながら、それぞれの領域を統べ、街は王権から与えられる以外の独立した力を持つ。
この国の絆はどこにあるのだろう。
リグの民は、イーツェンにとって皆が家族のようなものだった。無論全員を見知っているわけではないが、それでもリグの民は、顔を知る知らないにかかわらず、イーツェンにとって誰もが身内であった。だからこそイーツェンはユクィルスでの人質の生活を選び、それを耐え抜くこともできたのだ。イーツェンがユクィルスまで来て守ろうとしていたものは、リグという国の名や場所だけではない。彼が守っていたのは、ともにリグに根を張って暮らし、山の風と恵み、時には怒りまでもを分かちあってきた無数の「家族」たち、そのひとりひとりであった。
そうした絆は、ユクィルスにはないのだろうか。ジノンやローギスが手に入れようとしているものは、何なのだろう。
イーツェンがユクィルスで見たものは、うそ寒いほどの骨肉の争い、シゼのような根無しの兵たちによって支えられた強大だがあやうい剣の力、そしてその裏でうごめく人々の思惑や欲望であった。むき出しの力の激しさはイーツェンを圧倒したが、ユクィルスを去ろうとする今になっても、イーツェンにとってこの国は理解できない遠い異国のままであった。
「ほうれ!」
いきなり船尾の舵取りが陽気な声をはね上げる。考えにふけっていたイーツェンが驚いて振り向くと、男は手にした長い櫂で水面をなぐように払いながら、甲高い音を立てて水を叩いた。
無数の水滴が、回転しながら宙に巻き上げられ、陽を受けて1粒ずつがキラキラと光るのをイーツェンは魅入られたように見つめる。水滴の塊の中に、水とは違う銀の光を見てはっとしたのは次の一瞬だった。
それが何か見きわめた時には、魚は音を立てて船の中へ落下していた。驚きの息を呑んだイーツェンの足元で、長い尾を持つ魚が銀の鱗を光らせ、船の横板から全身で躍り上がってはまた落ちる。火でもついたような激しい動きに思わずイーツェンは後ずさりそうになったが、背中は舷側にぴたりとついていて下がれない。
「拾え、坊主」
船乗りの1人が楽しそうに言う。「坊主」が自分をさしていることはわかったが、イーツェンは暴れ回る魚をおっかなく見るだけでどう手を出ししたらいいかわからない。そのうち魚も弱るだろうと呑気に考えていたら、尾を一段と強く船梁に打ちつけた魚は、ビチッという音とともに驚くほど高く宙に舞った。
「わっ」
イーツェンは仰天して身をすくめた。そんなわけはないのに、まるで魚は彼をまっすぐめがけて襲いかかってくるかのようだ。いや実際、視界の真ん中を、銀の鱗を光らせながらイーツェンにせまって──
彼の右横をすり抜けた魚がそのまま水面へ身を踊らせようとした瞬間、木の板が空を裂いて魚を打ち返した。魚はまた船板へ叩きつけられ、弱々しくのたうったが、もう体は板から浮かなかった。
口をあけたまま、イーツェンは魚から視線を引きはがして、右側を見る。粗末な身なりの剣士が、船板の一枚──持ち上げて下に荷を入れることのできる上げ底の板──を手にして、無表情にイーツェンを見ていた。
顎の丸い顔立ちはまだ若そうなのに、目元と口元に刻まれた細い皺が一気に年齢を増して見える。結ばれた口元はきつく、だがイーツェンがシゼに見るような意志のあるきつさではなく、ただ彼はまるで、この世のすべてに疲れているように見えた。兵士だったのだろう、剣を手放さずに座っている姿に常にするどい気配をたたえていた。
だが、間近にした男の灰色の目の中に、イーツェンはたしかに人なつっこい笑みが光るのを見る。奴隷を見るような目ではなかった。唇も表情もほとんど動かないまま、静かな笑みだけが男の目をよぎって、また元の固いまなざしに呑まれていった。
その目を見返して、イーツェンは微笑を送った。
先に視線を外したのは男の方だった。身をかがめ、まだ弱々しく身をよじる魚を靴でイーツェンに押しやりながらたずねる。
「さばけるか?」
「ええ」
イーツェンはうなずいて、魚に手をのばした。男が腰の短剣を抜き、くるりと返した柄をイーツェンの方へさし出す。全長はさほどないが、肉厚の刃を丁寧に磨き上げた鉄の短剣はどう見ても魚をさばく道具にしていいものには見えず、イーツェンはまごついた。シゼもこういう作りのしっかりした短剣を持ってはいるが、それと、食事に使うような青銅のちゃちな短剣とは使い分けている。
だがたじろぐイーツェンへ、男はもう1度仕種でうながした。
「お借りします」
固辞することもできず、イーツェンは短剣を受けとる。やはりずっしりと重く、幾度も漆で塗り固められた木の柄の作りも堅牢だった。丁寧に研ぎ出された刃がにぶい陽光をはね返す。これは、武器として作られたものだ。
右手にしっかりと短剣を握りながら、イーツェンは左手で魚をつかんだ。ぬめりのある鱗で数回すべってから、胸びれが指にくいこむほど強く握り、船乗りに顎をしゃくられて船尾へよろよろ移動した。船から少しせり出した船棚に魚をのせ、短剣を用心深く使って腹を割き、内臓をかき出して川へ捨てる。
「頭は落とすなよ」
舵取りにそう言われるまま、頭を丸々残して腹だけ左右にひらいて水で洗った。リグでも川魚をさばいたことはあるのだが、あまりに久々なので手つきがたよりない。
さらに指示されて細い縄を魚の首にくいこむようにかけ、帆の横桁から吊るす。川風で乾かして、彼らの夜の食事になるらしい。
洗った短剣を拭うと、イーツェンは帆桁にひっかからないよう身を低くして剣士のところへ戻った。
「ありがとうございました」
礼を言って短剣を返す。見事な均整の取れた刃の短剣は、刃の中心に溝のような樋が入り、名のある鍛冶師の手によるものなのではないかとイーツェンは思うが、男は刃を一顧だにせず鞘におさめた。魚の脂が残っているかどうかたしかめようともしない。そのまま膝を立て、彼はまた眠るように半眼をとじた。
イーツェンは何だか困って、縛り付けられた荷物の向こうにいるシゼの方へ視線を投げた。シゼが素早くその視線をとらえて、物問いたげに目をほそめたが、誰にも聞かれずに言葉をかわすすべはない。
とにかくひとつうなずいて、イーツェンは膝を両腕でかかえこみ、川風に身を丸くして、冷たくなった手を膝の裏ではさんだ。まだ陽気な声を張り上げてにぎやかにしゃべりつづけている船客の声が、風に乗って水面をすべっていく。風に冷えた首の輪が首すじの肌に張りつくようで、小さく身をふるわせた。
船旅は思ったほど進みは早くなかった。入り組んだ流れを迂回し、時に帆をたたんでじれったいほどの速度ですすみ、あまりに浅いところでは客は全員陸におろされて、次の桟橋まで歩かされた。船でちぢこまった手足をのばせるのは気持ちよかったが、川沿いの道は歩きづらく、貴族の3人組はしきりに文句を言っては一行の足を引っぱった。
2刻ほども歩いて小さな桟橋へつくと、客の分だけ軽くなって取り回ししやすくなった船がのんびりと彼らを待っていた。「船をかつがなくてすんだだけマシだ」と船乗りが言うのを聞いてイーツェンは冗談かと思ったが、本当にそういう時があるらしい。ヴォルが雨の量を心配していた理由が、やっとイーツェンの骨身にしみた。
1日目の夜は、支流を遡ったところにある小さな宿場に停泊して夜をすごした。納屋のような小屋を与えられて船乗りたちと一緒に雑魚寝になったが、あたたかな粥もふるまわれてイーツェンに不満はなかった。川辺の夜はかなり冷えるため、シゼとひとつの毛布で身をよせあっていても不審に見えないのもありがたい。
3人組は粗末な小屋を見るやひとしきり文句を並べ、自分たちでどこかの部屋を取りに消えた。剣士の姿もいつのまにか見えなくなっていたが、朝には全員船のそばに現れた。
2日目は風が逆風で一切帆を張ることができず、船の行き足は遅かった。その夜は目指していた宿場までたどりつけず、壊れかけた桟橋に船のもやいをつなぎ、陸地にのぼって野営をした。そのあたりは夜盗が出るらしく、船乗りとシゼと剣士とでかわるがわる夜番に立つ。
ここでやっと、イーツェンは剣士がハドルという名だと知った。ユクィルスの生まれではない。目的地を船乗りに陽気に問われた彼は、どこか自分の故郷に戻ろうとしているのだというようなことを、肉をあぶる焚き火を前にしてぼそりと言った。それがどこかは答えなかった。
その夜も風が冷たく、木々のざわつきがいちいち心を騒がせるようで、首の輪が肌にくいいってくるようだった。見張り番の終わったシゼが彼に腕を回して身をよせ、ともに横になるまでイーツェンは眠れなかった。
ナトルムの船関が見えてきたのは3日目の昼下がりだった。
段々と川は合流して太く、深くなり、少し早くなった流れに乗るために船乗りたちはもう一度荷を積み直して船をすすめた。重心をどこに置くかが重要なのだということだった。
アレキオンの川の本流へと船がいつ入ったのか、イーツェンには正確にはわからない。この本流こそサヴァリタリアとユクィルスとを分かつ国境いで、川は数年ごとに流れを変えるが、そのたびに国境いも動くということだった。そしてその川に面したユクィルスの関のひとつが、ナトルムだ。
ナトルムは、遠くから見るとこれまで通りすぎてきた宿場町と変わりないように見えたが、近づくにつれ港場と宿場全体が杭柵に囲まれているのがわかった。石で作られた港からは大きな桟橋が3本せり出し、川に面して大きな倉庫がいくつも建ち並んでいた。
桟橋に船が20隻近く係留されているのを見て、イーツェンは目を見はった。大小さまざまな船の中には、帆柱がない船や、帆のほかに櫂の軸受けが船べりにとりつけられた船もある。あれは人の手で漕ぐのだろう。速度を要求される伝令船だろうか。
イーツェンたちの船が船着場にもやいを結ぶか結ばないかのうちに、港をうろうろしていた荷夫たちが次々と寄ってきた。
「旦那、手を貸しますよ」
「泊まりのお世話もしますぜ」
口々に言いかけてくる荷夫に、最初に硬貨を投げたのはジャスケだった。船の中でこわばった体をのばしながらぶつぶつと文句を言い、3人組は荷夫たちに手を引かれて桟橋へとびうつる。
彼らの荷が運び出されると、イーツェンはシゼについて陸へのぼり、よろめいた。そう波があったわけではないが、水に浮いている感覚に慣れた体が固い地面に驚いている。川風で思った以上に縮こまった体の奥で、背の傷はにぶくうずきつづけていた。
イーツェンは膝をのばしながら、もう1度桟橋の船に目を走らせた。この船のうち、どれだけが海へ向かうのだろう。大きな荷船を見て、イーツェンはその船が海へ行くことを、そして2人分の乗客の空きがあることを願った。
港の正面は倉庫地区と宿場の2つの区画に大まかに分かれていて、ナトルム全体は柵で囲われていた。水路が宿場内にまで掘りこまれ、倉庫の区画をぐるりと水で取り囲んでいる。板橋に立った見張りの胸元にはユクィルスの王家の紋章が染め抜かれていた。桟橋の根元には樽や箱が積み上げられ、右の桟橋には起重機の長い首が据えられているが、今出港の準備をしている船はないようで、荷の動きはない。
「行こう」
シゼがイーツェンの腕をつかみ、歩き出した。桟橋に役人が立ち、到着した人数を紙に書きこんでいる。シゼも名を書くよう求められ、足をとめて書類に偽名を書きこむと、目的地が港町ルスタであることを口頭で答えた。
名前の書き方を練習しておいてよかったと、イーツェンはその様子を見ながら胸をなでおろす。シゼは簡単な読み書きはできるが、いかにも自分の名前であるかのように偽名を書けるまで、2人で地面に名を書いて練習したのだ。
役人はシゼが出した身分証や推薦状をざっと見て、うなずいた。
「身分あらためはまた正式に行う。明日そこで」
と、川に面した2階建の建物に手を振って、シゼが書類にまぎれて渡した硬貨を物慣れた様子でふところにしまいこむ。心付けを渡すのは慣例で、これを怠ると嫌がらせを受けることがある──それもヴォルの忠告だった。
「割符の手形を出してもらえ。それがないと下流に向かう船には乗れん。行っていい」
イーツェンはシゼの後につき、荷を肩に担いで歩きながら、2人で宿場へと足を踏み入れた。中央のまっすぐな道こそ荷車がすれちがえるよう充分に広く整備されていたが、水路に割られた区画の中へ建物を無理につめこんだような、どこかせせこましさのある町並みだ。
それでも人がいればにぎやかなのだろうが、時期外れだからか宿の半分近くは扉と窓に板を打ちつけて閉ざされ、住人たちは早い冬支度のためにどこかへ去っていた。イーツェンは溜息を殺しながらシゼに続く。まずは宿探しだ。
船主も兼ねる宿なら、うまくいけば船の交渉ができる。それが駄目でも、船主の居場所はわかるだろう。それに今は何より、あたたかな食べ物と屋根、風の吹きこまない寝床が恋しかった。
食事と薪を買い、小さな2階の部屋をあてがわれると、シゼは船の交渉ができる船主を探しに出かけていった。
交渉がうまくいかなければ、この宿場で数日の足どめになる。イーツェンは黒く灰がこびりついた炉床に薪をのせ、短剣で削って小さな焚きつけを作りながら、唇を結んだ。一緒の船に乗ってきた荷主の中にも下流を目指す者はいるから、船自体はいずれ出る。
だがいつ出るか、どういう船か、それが問題だった。あまりに船足が遅かったり、至る所の町に泊まるような船でも困る。
火打ちを使って火をおこすと、下から借りた鉄鍋に水を入れて火にかけた。木の枠だけの寝台に手持ちの毛布をひろげて寝床を整えると、イーツェンは炉の前に座りこんでスープの壺を火のそばへ近づけた。
ふいに廊下に騒々しい足音が沸いたのはその時だった。目的に向かってまっすぐ踏みこんでくる、強い、荒々しい足音。村人や船乗りがよく履くやわらかな革底の靴ではなく、固い底のブーツが廊下の板を蹴るように近づいてくる。
反射的にイーツェンが隠れ場所を探して殺風景な部屋を見回した時、一言の断りもなく、叩きつけるように扉があいた。踏みこんできた衛兵の姿に、イーツェンはあわてて立ち上がる。兵の革の胸あてにはユクィルスの紋が描かれ、大柄な男の腰には柄の黒光りする短槍が光っていた。
「主人はどこだ」
奴隷など踏みつけにしても一切かまうことのない、高圧的な声に問いただされ、イーツェンの息は腹の底から固くねじれた。強い怒りと、この男をはねつけてシゼを守りたいという衝動がこみあげてくる。
だが素早く目を伏せ、従順に肩を落とすと、感情を奴隷のたたずまいの奥に押し隠した。
「存じません」
次の瞬間、耳の中で何かが割れたような音と共に、目の前が白くはじけ、イーツェンはよろめいた。目がじんじんとして物がよく見えない。殴られた、とわかったのは口の中に血があふれてきた後だった。
「どこに行った」
威圧的に、男はもう1度くり返した。イーツェンは床を見たまま目をしばたたかせ、顎から頭蓋へひびきわたる痛みをこらえて集中しようとした。シゼを探しているのだろうか。何のために? イーツェンにまるで興味がないということは、彼らの正体が明るみに出たわけではない。だがそれなら誰がシゼを探すのか、イーツェンにはわからない。わからないのが不安だった。
「鍛冶を探しに行かれたと、思います」
口の中を切ったせいで、溜まった血に声がくぐもる。鉄の味を飲み下し、吐き気をこらえて、イーツェンは打ちひしがれたように床へ膝を落とした。
「剣を研がねばと申されていましたから。それしか、存じません」
黒艶を帯びたブーツは、イーツェンの目の前から動かなかった。イーツェンは殴られた左頬を抑えながら、荒くなる息をつめて顔を床に向けたまま、じっとしていた。イーツェンが火と寝床の支度をととのえ、食事をあたためはじめていたことに男は気付くだろうか。シゼがすぐに戻ってくるつもりであること、そしてイーツェンがそれを知っていることに、気付くだろうか。
心臓が指先にまで脈を打っているようだった。さらに何か、つけ加えた方がいいのだろうか。男を外へ追い出せるような何かを。それともここで口をきくのは奴隷らしくない振る舞いだろうか。イーツェンの考えは呼吸と同じように千々に乱れ、まとまろうとしない。
ブーツが動いた。遠ざかり、あけたままの扉から出ていき、蹴りしめる。胸が痛むほどにつめていた息を吐き出し、イーツェンは床に手のひらをついて立ち上がった。長箱の上にのせていたマントをたぐって肩にかけると、廊下にもう人の姿がないことを確認してから、しのび出る。
シゼを探し出さなければならない。あの男より早く。
のぞきこんだ2軒目の宿で、シゼは数人の男と話しこんでいたが、扉から入ってきたイーツェンを見ると眉を上げた。イーツェンが小さくうなずくと、シゼは椅子から立ち上がり、短く会話を交わして男の1人と握手をした。薄暗い宿の食堂でもわかるほどたくましく陽に焼け、ロープの扱いで荒れた手。船乗りだ。
イーツェンは凝視して唾を呑みこんだ。シゼが誰かと握手をするのは珍しい。何かの約束が、彼らの間で取り交わされたように見えた。船を見つけたのだろうか。
だがその船に、2人は乗ることができるのだろうか。
男たちに最後の挨拶をしたシゼが、イーツェンへ歩みよった。
「どうした?」
「お客様が」
船乗りたちのところまで聞こえるとは思わないが、イーツェンは丁寧な口調を作る。なるべく緊張をあからさまにしないようにしたが、うまくいかなかった。
イーツェンをまっすぐ見たシゼの銅色の目に、チラッとつめたい光が走った。イーツェンの肩をぽんと叩き、宿の食房から外へ出ると、建物の脇を回って材木が乱雑に積まれた袋小路の奥へ素早く入る。夕暮れの町は影が長く、うす暗い建物の間は幾重にも影になっていて、その奥に身をひそめながら、イーツェンはシゼにならってできるだけ壁に身をよせた。
声をひそめる。
「衛兵がお前を探しに来た」
「私を?」
シゼは眉をひそめてからイーツェンの顔をしげしげと見つめ直し、さらに険しく眉をよせた。手をのばしてイーツェンの左頬にふれようとする。頬がヒリヒリしているイーツェンはシゼの手をつかんで遠ざけた。
「そうだ。どうする?」
「何人でしたか」
「1人」
「私の名を呼んでいましたか?」
イーツェンは一瞬、男とのやりとりを頭の中でさらってから、首を振った。
「いや。主人は、と言った」
シゼはうなずき、イーツェンの頬をなでようとしてから途中で手をとめると、安心させるように肩に手をのせた。
「戻りましょう」
「‥‥でも」
「理由が何であれ、私たちは宿場からは逃げ出せない、イーツェン。何かあるなら早めに確かめた方がいい」
大きな石を呑みこんだような気分のイーツェンをよそに、シゼはもう歩き出していた。肩ごしに振り向いて、小さく微笑する。
「それに、船の手配がついた。明日か明後日、港に荷が届き次第出るそうです」
「ルスタまで?」
希望と不安が同時に腹の中で躍り上がって、早足で追うイーツェンの声をさしせまったものにしていた。シゼは大通りを歩きながら、うなずいた。
「急ぎの船便になると」
喜びの言葉を返そうとした時、イーツェンはシゼの肩の向こうに、隊列を組んだ5人の衛兵が向かってくるのを見た。全身の血が一気に足元へ落ちたようだった。吐き気と寒気に、足が凍りつく。
シゼの手がのびて、イーツェンの左手をつかむと、子供の手を引くようにそのまま歩き出した。どうにかそれについて行こうとしながら、イーツェンは血の通わない手でシゼの手を握りしめる。自分の手だという気がしない。
衛兵たちは、明らかに目的を持った足音を威圧的にひびかせながら、まっすぐ歩いてくる。宿場の人間たちも道に出て、珍しい光景を見るように衛兵たちの様子を見送っていた。シゼの足取りはゆっくりとしたものだったが、彼らの距離はたちまちに縮まり、イーツェンは向かってくる5人の衛兵の中に自分を殴った顔を見た。また立ちどまりそうになる手を、シゼが強く引く。
すれ違う寸前、イーツェンは5人の衛兵が中心に1人の男を囲んでいるのを見た。頭をうなだれていたので、近づくまでわからなかったのだ。通りすぎながら横目で見たイーツェンは、驚きの声を呑みこんだ。後ろ手にいましめられて連行されていくのは、イーツェンに船の上で短剣を貸してくれたあの剣士──ハドルであった。
「やあ、驚きましたなあ」
軒先に立っていた見物人の1人がシゼに親しげに声をかけ、シゼが足をとめた。やはり同じ船に乗ってきた3人組の1人、腹が丸くせり出した男が仕立屋の前に立っておもしろそうな笑みをうかべていた。ジャスケだ。
丸く太った顔に妙にするどい笑いを作ったまま、ジャスケはシゼを見、イーツェンを見てから、2人がつないでいる手を見た。イーツェンは手を引こうとしたが、シゼは汗ばんだ指を強くつかんだまま離さなかった。
「神殿兵だそうで。金を盗んで脱走したんだとか」
イーツェンはジャスケの言葉と視線に反応しないようにしながら、角を回って消えていく衛兵たちを見つめた。あの男がそんなことをするようには見えなかったが、それを言うならシゼも「城から奴隷を奪って逃走」しているような男には見えない。人は色々なことをするものだ。外からはわからない、だが当人にとっては大事な理由で。
シゼはまだ「驚いた」を連発しているジャスケにうなずいて歩き出そうとしたが、男は彼らについて道なりに歩き出した。
「船は見つかりましたかね?」
「どうにか」
口調は丁寧だが、あからさまに短く切り捨てて、シゼはジャスケの笑みにそれ以上目を向けることなくイーツェンをつれて宿の扉をくぐった。さすがのジャスケも中まではついてこなかったが、イーツェンは陽気な声が背を追ってくるのを聞いた。
「重畳、重畳」
宿に入った瞬間、イーツェンは喉にこびりつきそうになる息をつめた。幸い、中に衛兵が待ちかまえていたり役人がシゼの身柄を取り押さえようとすることもなく、丸木の椅子に数人の船乗りや荷夫が座って、酒を飲んだり賽を振ったりしているだけだった。粘りのある汗が背中をじっとりと湿らせて、イーツェンは細い息を吐き出した。
外の光景を見た今、衛兵が追っていたのはシゼではなくあの剣士だったのだとイーツェンも悟ってはいたが、それでも恐怖は消えない。誰かが彼らを追っていて、いつか追いつかれる。それはイーツェンの腹の底に氷の塊のように凝ったまま、この長い旅路の間、1度も消えたことがない恐怖だった。
シゼはイーツェンを階段の方へ押しやると、宿の主人へ歩みよった。明日の準備の話だろう。きしむ階段をのぼって2階の部屋へ入ると、イーツェンはマントを脱ぎ、火の用心もせずに出ていった自分の慌てぶりに気まずい思いで壁の炉の前へ座った。
待つほどもなくシゼが戻り、イーツェンがもう食事にするかと問うた声を無視してまっすぐイーツェンへ歩みよった。床に膝をつき、イーツェンの顎を指で持ち上げてじっと顔をのぞきこんでくる。
「大丈夫だ」
強い視線に当惑しながら、イーツェンはシゼを安心させようとした。シゼが何を見ているかはわかる。
「平手だったし」
シゼの声は低かった。
「痛がっていたでしょう」
「そりゃ、ヒリヒリするけど」
正直なところ、今は殴られたことよりも、一寸刻みに見ていくようなシゼの視線の方が肌を騒がせている。顔が赤くなっていないことを──あるいはそれが平手によるものに見えることを──願いながら、イーツェンはシゼの手をつかんで遠ざけた。
「こんなこと何でもないよ」
「水で冷やした方がいい」
大丈夫、と強い声で言い返しそうになってイーツェンは言葉をとめ、シゼの顔をじっと見つめた。シゼは唇を引いて険しい表情をしていたが、イーツェンの沈黙が続くと、当惑したように顎の緊張をゆるめた。
その胸元を、イーツェンは拳をのせるようにぽんと叩いて、そのままシゼの胸に手をあてる。
「そんなに心配するな、シゼ。平気だと言ったら平気だから」
「‥‥‥」
シゼは1度ひらいた口をとじ、ちらっと天井を見てから、イーツェンに視線を戻して言葉を探すように眉をしかめた。イーツェンはそのまま待つ。
シゼは、自分の意見を人に言うことに慣れていない。この頃こそイーツェンに心の内を見せるようにはなったが、それも、常に言葉を呑みこめるよう身がまえてから口にしているようなところがあった。
炉の中で松の枝が小さくはぜ、粘るような煙が煙突のない炉から這い出してきて、イーツェンは咳き込んだ。木の芯まで乾いていない薪をよこしたらしい。窓へ歩みより、板戸を全部あけはなして固定してから、振り向いたイーツェンはシゼがまだ元の場所に立っているのを見た。
シゼは両脇に垂らした手を軽く握り、またひらく。どこか不確かな、思いつめたほどの様子をけげんに思いつつ、イーツェンは炉の前に戻って膝をついた。ここはあまり押さない方がいいかもしれない。
「陽が落ちてしまう前に、食事にしようか」
蝋燭は荷の中にあるが、無駄には使いたくない。火の前に置いておいたスープの壺を引きよせようとした時、シゼが固い声で呼んだ。
「イーツェン」
「うん」
「私は、目のとどかないところであなたに何かおこることが‥‥我慢ならない」
イーツェンが膝をついた体勢のままシゼを見上げると、シゼは目をそらしていた。心配性を笑いとばしたい気持ちと、胸がしめつけられるような苦しさが同時にこみあげてきて、一瞬、何も言えなかった。たったこれだけの言葉を口にするのに、シゼはまるで大きな、暗い秘密を打ち明けでもしたかのようだ。
「あなたを信頼していないわけではない」
ぼそぼそと早口に、シゼは続ける。イーツェンがじっと見ていると、居心地が悪そうに身じろいでから、またつけくわえた。
「でも、その顔は、冷やした方がいい」
思わずイーツェンは笑っていた。手をのばすと、頑固なシゼの膝をぽんと叩き、食事の支度に戻る。
「わかった。今度から、なるべくお前の見ているところで叩かれればいいんだな?」
「イーツェン──」
「冗談だよ」
麦と芋、それに多分蕪の入ったスープを手持ちの器に分けながら、イーツェンはそっと言った。顔を上げ、シゼの視線をとらえる。
「いつも、心配をかけてすまないな」
シゼの表情を何かがかすめたが、それが何であるのかイーツェンには読みとれなかった。
2人は食事を取ると、あたためた湯で体を拭い、荷の中を確認してから一緒の寝床にもぐりこんだ。炉の火は絶え、板戸をおろした部屋の中は真っ暗で、互いの熱がはっきりと肌につたわってくる。
左肩を下にして横たわったイーツェンを背中からシゼが抱くように、2人はぴたりとよりそっていた。シゼの右腕がイーツェンの腰の上にかるく回されて、イーツェンを守るようにしている。寝台がやけに細めのせいもあってそういう体勢になったのだが、シゼがそんなふうにイーツェンを抱えこんでいるのは、多分今日のことがあったからだろう。目をとじてまどろみながら、イーツェンはこっそり微笑した。
再会してから、シゼはイーツェンが傷つくことを極端に嫌った。鞭の傷が残るイーツェンがあまりにも痛みを恐れる様子を目の当たりにしたからかもしれないし、傷で弱り切っていたイーツェンの姿を忘れられないからかもしれない。また目を離したらどうなるかわからないと、不安を拭えないでいるようなところがあった。
そんなシゼをうるさく思う時もあったが、嫌ではない。たまに言い返したりするくらいで、イーツェンはあまり深く考えなかった。だがシゼ自身は、そんなふうに過剰に反応する自分にとまどっているのだ。そのことに気付いたのは今日がはじめてだった。
シゼの右手が、イーツェンの腰の上をかるく叩いた。
「もう眠って」
相変わらず、するどい。
口の中で適当に返事をして、イーツェンはもぞもぞと動き、右肩の後ろに顔を向けた。随分と背中の痛みもやわらいで、前よりはずっと体の自由がきく。打たれた左頬は水で冷やしてもまだ熱を持ち、切れた頬の内側は舌で探ると血の味がしたが、こんな傷はすぐ治る。痛みはもうそれほどイーツェンを怯えさせはしなかった。
すぐ後ろにシゼの顔があった。表情まではわからないが、息が肌をあたたかく撫でる。イーツェンは体を傾けてシゼの口元、唇のすぐはじにくちづけると、またもぞもぞと元の体勢に戻って目をとじた。
「おやすみ」
「‥‥‥」
耳元で溜息が聞こえたが、シゼは何も言わず、背中に感じるシゼの体はおだやかに力を抜いてイーツェンによりそっていた。