2人は寝椅子で互いの肩をもたれさせながら座っていた。シゼの肩に少しだけよりかかったイーツェンは、油燭の灯りがぼんやりと照らす中、旅のことを洗いざらいシゼに語った。細部をすべて語るほどの時間はないが、思い出せるだけ、そしてそれを並べられるだけ語る。
 ジノンとロシェのこと、ジノンとした取引のこと、恩赦のこと、それが何だか腹立たしかったこと。ユジーのこと、アルセタのこと、犬のこと。
 きっと話さないだろうと思っていたことまでも話した。ロシェの出生の秘密。ジノンが妻を娶ったり子を為すには王の許しが必要だったということ、かつてジノンの子を孕んだ女の始末を王がセンドリスに命じたこと──少なくとも、オゼルクがそう話したこと──、何故かそのセンドリスがその女を妻として、ロシェを自分の子として育てていたこと。
 思い出しながら話しているせいでまっすぐに筋道の立たないイーツェンの話を、シゼは体に回した腕にかるい力をこめる以外、何の相槌も打たずに黙って聞いていた。
 1度だけ、リッシュに会ったことに話が及んだ時、シゼの体がこわばった。イーツェンはすべてを話す。あえてリッシュの傷の状態についてもふれ、リッシュがアガインを死んだと思っていることを淡々とつたえた。
 アガインのことについてシゼが何も反応しなかったので、イーツェンはシゼの顔を見た。シゼはまっすぐ前を見つめて何か考えている様子だったが、その様子はむしろ落ちついて見えて、イーツェンはためらいがちにたずねた。
「お前は、どう思う。アガインは死んだと?」
「わからない、イーツェン」
 シゼの返事はおだやかなほどだった。
「どちらもあり得る。死んでいてもおかしくないし、生きていてどこかに隠れているということもある」
「お前は‥‥」
 何と言っていいのかわからずイーツェンは口ごもり、シゼが待ちつづけている沈黙に押されるように、語を継いだ。
「お前は随分と落ちついているように見える、シゼ」
「変ですか」
「少し‥‥意外だった」
「いつ死んでもおかしくない。当人もそれはわかっていた、イーツェン。アガインが恐れていたのは彼が何も為せずに死ぬことであって、死そのものではなかった」
 シゼの言葉の中にある何が自分を驚かせたのか、イーツェンにははっきりとわからなかった。何よりもシゼがあまりにも当然に、簡単にそれを言ったように聞こえたからかもしれない。見つめるイーツェンのとまどいを感じとったのか、シゼはわずかに微笑した。
「彼らが自分で選んだ道だ、イーツェン」
「‥‥あそこにいるのはもしかしたら、お前だったかもしれない」
「たしかに」
 そんなに平然と肯定してほしくはなかった。シゼはイーツェンを城から救う手段を探してルルーシュに加わり、アガインのために働いてきた。その行為がどれほど無謀だったか今さら思い知りながら、ふいに冷たい塊が喉につまったようになって、イーツェンは言葉をつづけられなくなる。シゼがイーツェンの膝頭をやさしい手で叩いた。
「あなたは、おきてもいないことを恐れている。そんな必要はない」
 イーツェンは溜息をついて、顔を手のひらでこすった。
「センドリスは、リッシュが次の日に処刑されると言った」
 顔を上げてまっすぐに見ると、シゼは黙ったまま静かにうなずいた。当たり前のことを聞いたように。死は彼らの間ではそんなにもありふれた、予期された結末なのだ。
 そのことを知るのも息が締めつけられるようだったが、リッシュに何があったか先をつづけるのに、イーツェンはすべての勇気を振り絞らねばならなかった。
「シゼ。私は、棄教するようリッシュにすすめた」
 この言葉に、シゼはするどく頭を動かし、まるで見知らぬ生き物でも見るかのようにまじまじとイーツェンを見つめた。イーツェンは平静な顔を保とうとしたが、皮膚の内側で自分の身が小さくすくむのを感じる。
「それがリッシュの命を救うためにセンドリスが出した条件だったんだ。棄教すれば命が助かる。だから‥‥私はリッシュに、棄教して、ジノンに従うようすすめた」
 途中から自分の声に自信が持てなくなり、イーツェンは段々と弱くなる口調で言ってから、咳払いをして少し背をのばした。信条を裏切るようすすめたのがいいことだったという思いはないが、あの時イーツェンはできる限りのことをした。そのつもりだった。
 力を尽くそうとした、それは確かだ。だがそう思いはしても、イーツェンはシゼをまっすぐ見ることができなかった。シゼの肩のあたりに視線を据えたまま、沈黙が破られるのを息をつめて待つ。だがシゼは何も言わず、のびていく静寂の1秒ごとに何かがどこかから這い出してきそうでおそろしい。唾を呑みこんで、おずおずとたずねた。
「ひどいことを言ったのかな‥‥?」
 ずっと、そうではないかと思って、怯えていた。もしかしたらとんでもないあやまちをしてしまったのではないかと。
 シゼの返事は静かだったが、緊張を含んでいるようにも聞こえた。
「そう思っているんですか」
「わからないんだ。シゼ、私はジノンの約束を取り付けた。もしリッシュが棄教して彼とユクィルスの王権に従ったら、リッシュをエナのところへ送って彼女の手伝いをさせてくれとたのんだ。それが、リッシュに棄教をすすめるための条件だと」
「ジノンがそれを承知したんですか?」
「した。口頭だが、センドリスが約束の証しを誓った。私の目の前で。彼らは、あの言葉を裏切らないと思う」
 自分ができる限りのことをしたと、自己弁護が入りこんでいるのを後ろめたく思いつつ、イーツェンは答えた。だがまだシゼをまっすぐ見られない。もし今シゼの目を見て、そこに責める色があったら心がくじけてしまいそうだった。
「それで、リッシュは何と言ったんです」
「彼は‥‥」
 イーツェンは急にせばまったような喉に唾を呑みこんだ。
「彼は、人の魂を売り渡すなと私に言った。怒鳴った、実際のところは」
 ちらっとだけ目を上げると、シゼは壁の方へ斜めに視線を向けてじっと考えこんでいた。イーツェンはもう1度唾を呑む。喉が渇いてひりひりした。
「でも一晩たった朝、リッシュは棄教してジノンの下に入った」
「リッシュが?」
 シゼの声は押し殺したように低く、イーツェンは完全にうつむいたままうなずいた。どうしてこんなに罪の意識がつきまとうのか、自分でもはっきりと理解できない。ただリッシュの中にある大事なものを土足で踏んでしまったような思いが拭えないのだった。
「センドリスがそう言った。ただ怪我がひどいから、生きのびるかどうか、後は運だと‥‥」
 言葉を探してもがきながら、喉から声を押し出す。全身がつめたくざわついていた。
「彼を助けたかった、シゼ。でも、今でも‥‥あれが正しいことだったのかどうかわからない。リッシュは私が彼の魂を売ったと思っている。私は──私は、彼にアガインや神々を裏切らせたんだろうか。彼の大事なものを踏みつけにしてしまったんだろうか?」
 言うつもりのなかった恐れが口からどんどんこぼれ落ちたが、どうにもとめられなかった。シゼに同意されるのが怖くて、イーツェンはさらに早口に、考えるより先に言葉をつづける。
「そんなつもりはなかったんだ。ただリッシュはお前の友達だし、どうにかして助けたかった。ジノンやセンドリスが単なる好意から彼を助けるわけがないのもわかってたけど、でも、命さえ拾えれば道はある。死ぬよりはずっといい筈だ。あんなところで死んでしまったら山犬の腹の足しにもならない」
「イーツェン」
「ごめん」
 ここでリグの言い回しが口をついたのはまずかったかと反省しながら、イーツェンは素早くあやまったが、うつむいたままの耳がじんと熱くなった。
「嫌なんだ、人が死ぬのは。あんな暗いところで、1人で‥‥そんなのまちがってる。どんな信念があったって、そんなのは──そんなのは、駄目だ」
「あなたも信じるもののために命を賭けて、牢に入った」
 シゼの声はやわらかく、イーツェンに反論するというよりはリッシュをかばおうとしているようだった。イーツェンはうなずき、うつむいたまま手の甲で額を何度もこすった。
「でも、やっぱりまちがってる。誰かがあんな目にあうのはまちがってるよ、シゼ。自分が入っている方がずっとましだった。それも嫌だけど」
「イーツェン」
 もう1度、シゼはイーツェンが無駄に費す言葉をさえぎり、顎に指をかけると強引に自分の方を向かせた。真摯な目で視線をまっすぐにとらえられて、イーツェンは息がつまる。
「後悔しているんですか?」
「‥‥してない。と、思う」
 苦いものが胸の奥からこみあげてきて、イーツェンは頬を歪めた。あの闇、血と泥が肌の内側にまでへばりつくような匂い、砕かれたように力なく横たわっていたリッシュ。濃密な死の気配。
「でも、きっとリッシュは私を軽蔑してる。彼の魂を売り渡そうとした私を」
 シゼは妙にとまどったような表情で、じっとイーツェンの目をのぞきこんでいた。シゼの中で何かがきちんとつながっていないかのように。うまくつたえきれていない苛立ちに、心臓の真上がちりりと熱を帯びて、考えるより先にイーツェンの口から問いがこぼれていた。
「お前は?」
 シゼがゆっくりとまばたきする。
「私が、何です?」
「‥‥私を軽蔑するか?」
「イーツェン」
 溜息のように、名を呼んだ。
「あなたがどうしてそう思うのか、私にはよく理解できない」
「うん‥‥」
 耳まで赤くなったのを感じながら、イーツェンはまた下を向こうとしたが、シゼの手がイーツェンの頬をつつむように支え、それを許さなかった。
 のぞきこんでくるシゼの目は揺らぎなく、まるで世界の中でイーツェンだけを見ているかのようにまっすぐで、怖いほどに真摯だった。そんな風に見つめられるとイーツェンはどこへも逃げられない。数回、早くなった鼓動にあわせて息を呑み、彼はかすれを帯びた声で言った。
「私は、リッシュに棄教をすすめた。お前は‥‥それを愚かだと思うんじゃないかと思って。そう感じたんじゃないのか?」
「あなたの度胸に驚きはしましたが」
 棄教を面と向かってリッシュに切り出したことなら「度胸」よりも「無知」とか「無謀」に近いものだろうと思ったが、シゼはイーツェンに口をはさむ隙を与えなかった。
「あなたには、たまに本当に驚かされる。リッシュが承諾すると思っていたんですか?」
 そこはかとなく馬鹿にされている気もしつつ、イーツェンは目を細めた。
「結局、した」
「それにも驚いた」
 率直に認め、手をのばしたシゼは犬か馬をなでるようにイーツェンの頭をなでた。油燭の火がぼんやりと照らしたシゼの口元には微笑があって、イーツェンはすがるようにそれを見つめた。
「余計なことをしたと思うか?」
 シゼは数秒、黙って考えこんでいた。緊張する瞬間ではあったが、イーツェンはこういう時のシゼが好きだった。イーツェンの気に入る答えを簡単に返そうというのではなく、シゼが自分の中に答えを探し、それを言葉の形にしようとしているのがわかる。
 シゼの言葉は必ずしも耳にやさしいものばかりではなかったが、その言葉の奥にある誠実さはいつもイーツェンを支えてきた。
 見つめていると、心の中で騒いでいたものがしんと鎮まってくるようで、イーツェンは深い息を吸いこみ、シゼの返事を待った。シゼが何を答えるにせよ、イーツェンも同じように誠実に受けとめたかった。
 シゼはやがて、小さく息をついて首を振った。
「私にはわからない、イーツェン。私だったら棄教をすすめたりはできないが、それはリッシュが決して呑まないだろうと思うからだ。リッシュの命は救いたくとも、その取引は不可能だと思う」
「‥‥でも、リッシュは呑んだ」
「そうです。そして、彼は生きのびた。少なくとも今は」
 それを言うシゼは相変わらず不思議そうだった。
「私が思うに、あなたのしたことが余計なのかどうかは、今はまだ誰にもわからないことだ。本当にそれが知りたければ、いつかリッシュに聞くしかない」
「彼は私を軽蔑してるよ」
「今は、そうでしょう」
 あっさりと、しかも確信を持ってシゼに認められて、イーツェンはへなへなとシゼによりかかった。自分で言ったことだが、シゼに裏付けられると頭の上に岩が1つ余分に積まれたようだ。
 シゼの腕がイーツェンの体に回り、引きよせる。肩でよりかかり、首の輪が喉にくいこまない程度に頭をもたせかけながら、イーツェンは呟いた。
「そうだよな‥‥」
「後はリッシュの問題だ、イーツェン。あなたの重荷ではない」
「悪いことをしたような気がしているんだ。本当に、彼の魂を売り渡したような‥‥」
「それも」
 イーツェンの体を抱くシゼの腕に、落ちつかせるような力が入った。
「リッシュの考えることだ。あなたが彼に強いたわけではない。あなたは彼を助けようとしただけだ」
「‥‥‥」
「それにリッシュはもしかしたら、あえてジノンの手の内に入ったのかもしれない」
 その呟きはイーツェンにではなくもう少し遠いところへ向けられたようで、シゼにも確信が持てない様子だった。イーツェンはもぞもぞと体を動かしてシゼにぴたりと体の脇をくっつける。
「つまり‥‥ルルーシュのために、ということか? そのために棄教までするのか?」
「そうかもしれない、というだけだ」
 小さい溜息をついて、シゼはイーツェンの腕をなでた。
「私もリッシュのことはあまりよく知らない。何度か砦や歩兵隊で一緒になったが、お互いの話はあまりしなかった」
 まあこの2人ではそうだろうな、とイーツェンは思い、シゼの腰に腕を回していっそうきつく体をよせた。抱きしめられるのも言葉にならないほど昂揚するが、こうしてただ身をよせあっているのも心地いい。自分のあるべき場所に戻ってきたかのようで、もうここから動きたくなかった。
 シゼの左手がイーツェンの左肩をなで、耳元の髪をかるく指先で弄った。彼もまたイーツェンによりかかりながら、自分の言ったことを考えつづけている。イーツェンは溜息をついて体の力を抜き、シゼのぬくもりを右腕で抱いた。
 リッシュの棄教の決断をもたらしたものが何であるのか、イーツェンは知らない。センドリスの言葉通り、本当にリッシュが棄教したのかどうかさえ。
 だがもしシゼの言うように、リッシュがあえてジノンの手の内にもぐりこむために棄教を選択したのであれば──それは残酷な道になるだろう。己の信じる神を棄てて、ユクィルスの主神の元で生きていくのは。彼が棄てたものは、後になってたやすく取り戻せるものではない。
 そして、もしそれがリッシュの選択なら、ジノンやセンドリスはそんな可能性など百も承知の上だろうと思って、イーツェンは小さく身を震わせた。イーツェンが見ていた以上のものが、あの約束の下には横たわっていたのかもしれなかった。
 きっと答えを知ることなどないのだろうが、せめてリッシュが本当にエナのところで働ければいいと、イーツェンは思う。エナには助けが必要だ。彼女を助けることで、リッシュも少しは心の平穏を得られるかもしれない。ただ今は、そう願うばかりだった。
 そのままイーツェンはシゼによりかかり、2人は互いの体に腕を回して静かによりそっていた。リッシュに棄教をすすめたのが正しいことだったのか、シゼにリッシュのことをすべて話したのが正しいことだったのか、イーツェンにはわからない。だがシゼの言うとおりだ。イーツェンの決断が何をもたらすのかは、リッシュにしかわからない──もしかしたらリッシュにもわからないものだった。
 ただ目の前の相手を助けたいと思って、だがそれだけのことが何と難しいのだろう。イーツェンは、地下牢で自分を殺せと懇願した囚人と、彼を己の手で殺した瞬間のことを思い出す。あの男を助けたいと思って、望まれたことをして、だが今でもイーツェンはあの時のことが正しいという気にはなれなかった。多分、永遠に。
 望むような答えなどどこにもないのかもしれない。そう思いながらイーツェンは体に沁みてくるシゼのぬくもりによりかかり、気持ちをくつろげる。オゼルクはレンギを助けようとして、助けることができなかった。リッシュはアガインを失った。自分の周囲を通りすぎていった多くの人のことを思うと、シゼに救い出され、今こうして2人でよりそっていられることが奇跡のように思えた。


 翌日、ヴォルが用意してくれた食料を荷につめてロバの背に乗せ、イーツェンとシゼは荘館を去った。
 ヴォルは粘土で封をした小さな革筒をイーツェンの荷の中に入れていた。これを、ルスタの港町で商館の男に渡せと。別送した商品と合わせて確認するための目録だということで、「それを渡してもらえれば、あなたがルスタにちゃんとついたことが私にも伝わりますから」と、ヴォルは微笑した。
 天気はやや曇っていて、森の中は空気がひんやりと湿っていた。森を通り抜ける荷の道を、イーツェンたちは荘園の荷車の後ろをついてたどっている。荷車といっても荷台の下に2つの車輪が据えられ、前にくびきが1本のびただけの小さなもので、人の手で引くこともできるものだ。そのくびきを馬にくくりつけて、1人が前で馬の手綱を引き、もう1人の男が荷車がよろめかないよう後ろについていた。ヴォルがつけてくれた道案内だ。
 森の中に荷を運ぶ道をわざわざ作ったのだと、ヴォルは言った。知る者しか使えない道で、密輸を禁じるため見張りも立ててあるらしい。実際、途中で道の行く手をふさいで据えられた腰高の柵を見た時にはイーツェンも驚いたが、荷車の男は慣れた様子で鉄鍵を使い、柵をあけてイーツェンたちを通した。
 森は湿った葉の匂いがして、秋になって色の変わりはじめた葉が地面をしきつめるように散っていた。やわらかに腐りはじめた葉の上を、太い尾をひけらかすようにリスが走っていくのを見て、イーツェンは微笑した。ユクィルスの森はリグの森よりも枝のこみ入った木が多く、密集しているので、全体が色をおぼろげに散らした1枚の幕のようだ。風に吹かれた蜘蛛の巣が、枝の間を縫うように差してきた陽光を白く散らした。
「疲れてないか」
 シゼが1歩前を歩きながら、イーツェンの体調を気づかった。他人の目があるので目下に話しかけているようにひびかせようとしているのだが、言いづらそうだ。この旅の間、幾度もそうふるまってきたのだからそろそろ慣れてもよさそうなものだと思いながら、イーツェンは微笑した。ことさら丁寧に返事をする。
「大丈夫です、旦那」
 シゼがあっけにとられたように口をあけ、素早くとじて前を向いた。後ろ姿を見ながらイーツェンは笑いを噛み殺すのに苦労した。
 シゼが心配するようにすっかり寝不足だったりはするのだが、短いながらも久々に深い眠りだったし、何しろ意気が上がっている。ユクィルスから出国するための旅の手形や身分証を手に入れ、10日以上の不在の末こうしてシゼのそばに戻り、2人で船着場を目指している。これで気分が上ずらない方が嘘だと言うもので、イーツェンの調子はきわめてよかった。
 さえずりかわす鳥の声を聞きながら黙々と歩きつづけていたが、やがてまたシゼが振り向き、数回ためらってから低い声でたずねた。
「背中は?」
 イーツェンはすました顔で返事をする。
「平気です、旦那」
「‥‥‥」
 にっこり笑ってみせると、シゼは物凄く嫌そうな顔をしてから、前を向いた。おもしろい。
 途中の泉で一行は休憩を取り、馬とロバに水を飲ませつつ、人間たちも干しイチジクなどを口に含む。シゼがイーツェンのすぐ横に立って、2人の連れに聞こえないよう声をひそめた。
「やめませんか、それ」
 それって何、と問い返すほどにはイーツェンも人が悪くはなかった。
「いいけど」
 イチジクの甘い果汁がついた指をなめる。まだ乾燥させている途中の果実なので、水気が多い。甘さに独特の香気があるイチジクも、ユクィルスでイーツェンがはじめて食べて好むようになった味だった。
「じゃあご主人様にしようか」
「‥‥‥」
 苦虫を噛みつぶしたような顔のシゼをちらっと見て、イーツェンは眉を上げる。
「何かで呼びかけないと、人は私とお前の関係を不自然に思うよ、シゼ。船に乗ったら、何日も同じ人たちとすごすこともあるんだ。普通の奴隷のようにふるまわないと」
「私は、気に入らない」
 半分あきらめた溜息のような声だった。イーツェンは笑い出してしまいそうになるのを抑えて、うなずく。面と向かってシゼを笑ってはいけないと思うのだが、こんな些細なことで困りきっている様子が何だか可愛らしかった。
「私は割と気に入っているよ」
「‥‥楽しんでいるでしょう」
「まあね。それにお前は、もう私にくだけた口をきいてもいい頃だよ」
 それは彼らの間で何回かくり返されたやりとりで、今強く持ち出しても仕方ないので、イーツェンはことさらにおだやかな口調で言った。もう身分の上下など関わりない、ただの旅の道連れだと何度言っても、シゼにはその考え自体が居心地悪いらしい。
 やはりシゼは返事をせず、イーツェンは考えあぐねている様子の彼へいたずらに笑いかけた。
「旦那様とご主人様、どっちがいい?」
 シゼは犬がうなるような呻きを喉の奥で洩らして、イーツェンに背を向け、歩き去った。あからさまに笑わないよう苦労しつつ、イーツェンはロバの端綱を引いて出立をつたえる。キジムは意地汚くリスのエサ溜めを地面から掘り出して、散らした木の実に鼻をつっこんでいた。
 邪魔するな、という目つきでロバににらまれて鼻息で抗議され、イーツェンは苦笑した。宿場町で買い取った時には弱々しくやせこけていたくせに、荘園の馬房のすみでいい扱いを受けた今、全身の輪郭がむちっとふくらんで態度も大きくなっている。これなら冬も元気に越せるだろう。
 ロバをつれて船旅に出るわけにはいかない。情がうつってはいるが、リグまでつれていけるわけもなく、イーツェンはヴォルにキジムの世話をたのんであった。ヴォルはキジムを買い取ると申し出、イーツェンは滞在中の食費を払うと逆に申し出て、2人の間でそれを相殺することで決着がついた。
「お前は結構高かったんだぞ」
 キジムをなだめて歩き出させながら、イーツェンは笑った。病のシゼをどうにか宿場からつれ出すためには惜しくない金だったが、ロバに払うには心底馬鹿げた金額だった。
「よく働くんだよ。あそこはいい荘園だから」
 そう言ってみると、ロバは唇のはじを引き上げて歯をむき出しにし、不機嫌そうにいなないたが、手をのばして耳の後ろをかいてやるとすぐご機嫌に歩きはじめた。


 荘園用の小さな船着場から、平底の小船に乗っておだやかな水路を下った。左右の岸にずらりと打ちこまれた棒杭を見るとこれが人工的に掘りこまれて整備された水路なのは明らかで、イーツェンは感心しながら、ゆっくりと後ろへ流れていく左右の景色を見ていた。
 荷車を運んできた男の片方はロバと馬をつれて引き返し、もう1人が船を操っていた。小船の先端に立って長い櫂で時おり水底や川岸を突きながら、なめらかに船を進めていく。足が梶棒にかかり、器用に片足で舵を取っていた。
 船の左右に水が盛り上がり、うねりながら波紋をひろげて流れ去る。イーツェンは船べりから飽かずに水を眺めた。底が見えるほどではないが水は澄んでいて、時おり魚が水面の泡つぶを追うように躍り上がってくるのが見える。
 船は底が浅く、人と荷を載せるとすぐ船べりまで水面がせまっていて、ふとした拍子に水が入って沈んでしまいそうな不安もあるが、船を扱い慣れた男が平然としているので問題ないのだろう。無理矢理自分を落ちつかせているうちに、イーツェン自身も慣れてきて、多少の揺れは気にならなくなった。
 独特のなめらかさで体が運ばれていく。何回か乗った渡し船とはまた違う、体ごとどこか遠くへ流れていくような心地よさに、ぼうっとしていると眠気がしのびよってくるほどだった。
 やがて水路は別の水路と合流して、少し広い川へと入った。あちこち人の手が入っているが、自然の川らしく左右もくねり、流れも少し早くなる。川べりの土手には柳の木がたくさん植えられていて、川から水を引きこんだ溜め池のふちから、漁の手伝いをしている子供たちが船へ向けて手を振った。
 大人も漁の手を休めて立ち上がって彼らを見送り、船頭役の男は櫂を持ち上げて何か合図のようなものを返していた。ここにまで荘園の監視網が敷かれているのかと、イーツェンは感心すると同時に、リグのことを思った。カル=ザラの街道に対してリグが警戒を怠っていたわけではないし、軍によって攻められるのをとめることができたとは思わないが、彼らはこうした精緻な見張りの形を作っておくべきだったのかもしれない。リグの民以外の人種が国に入ってくればどうあっても目立つと、それを当てこんで呑気にしていたところが、リグにはたしかにあった。
 ──戻ったら兄に話してみよう。
 イーツェンは1番話しやすい次兄のことを心に思いうかべた。長兄のザハクはイーツェンと15も年が離れていることもあって近づきがたいが、次兄のトゥルグスはイーツェンとの年の差は8つで、ごく小さな頃は何度か遊んでもらいもした。
 ユクィルスの城にいるイーツェンへ、妹のメイキリスに次いで親しげな手紙をくれたのも、トゥルグスである。彼ならきっと馬鹿にしたり軽んじたりせず、イーツェンの思いつきを聞いてくれるだろう。
 そんなことを呑気に、だが熱心に考えこみながらイーツェンは揺れ動く水面と、そこにうつる自分たちの影を眺めていた。まだ道は遠い。だがリグへ戻ることだけでなく、戻った先のこともごく自然に考えはじめている自分の中に、これまでにない希望が宿っているのを感じていた。


 一刻もしないうちに小船はやや大きな船着場につき、そこで男は荷を別の男に引き渡すと、小船を操って器用に上流へ戻っていった。このあたりは流れもゆるやかで下るにも速度が出ないが、川上へ戻るのもそれほど苦ではないらしい。
 船着場には他にも3艘の船が係留されていて、乗り手同士は皆顔見知りらしく親しげに挨拶をしていた。声をかけられたシゼは、下流へ手紙と奴隷を運んでいくのだと説明する。
 予定の荷が全部集まっていないということで、その夜は船着場のそばにある小さな酒場の2階に泊めてもらうことになった。8軒ばかりの建物が身をよせあうように建っていて、ほんの小さな宿場を作っている。
 宿代がわりにイーツェンとシゼはそばの林から落ちている枝を拾って薪としてまとめ、馬房と豚小屋と鶏小屋の掃除をして、薄いスープと粥にありつき、2階で眠った。
 寝台などない狭い部屋は、船客の少ない時期だからかイーツェンとシゼの2人だけのもので、それだけでイーツェンには文句がなかった。
「‥‥3日で、ナトルムの船関につくと言ってたな」
 イーツェンは毛布にくるまった体をシゼによせ、時おり遠くから聞こえてくる水の音と、流れに船が揺れる音を聞いていた。夜の底には船体の木がきしむ音や川が岸を擦るような音が低くひびいているが、かえってそれが静寂を深めている。
「そうですね」
 シゼは少し眠そうに返事をした。イーツェンは暗い闇に沈んだ天井を見上げる。
「それを越せば、ユクィルスにはもう戻らない、シゼ」
「ええ」
 イーツェンが黙ると、部屋には沈黙が満ちた。シゼの平坦な息づかいが聞こえてくるが、彼が眠ったわけではないことは何となくつたわってきていた。
 何か言おうとしたが、相手の顔も見えないような闇に向かって少しためらい、イーツェンはシゼの毛布の下に右手をのばしてシゼの手を探った。たぐりあてたシゼの左手に自分の手を重ねると、互いの指が絡み合う。
 闇の中で、イーツェンはシゼの手を握り、骨格のしっかりした、節の強い指を自分の指の間に感じた。剣を握りつづけてざらついた肌。よく鍛えられたこの手は、イーツェンにふれる時はいつもやさしい。
「ありがとう、シゼ」
 あまり大仰にひびかないよう、かるく言った。
「ここまでつれてきてくれて。‥‥この先に、私と一緒に行こうとしてくれて」
 シゼは無言のまま、握りあったイーツェンの指を親指の背でなでた。
 イーツェンは手を握り返し、微笑する。シゼの体温が手のひらにつたわってきて、ゆるい鼓動が肌のすぐ内側で鳴っていた。
 ここまで来られたのも、この先へ行けるのも、シゼがいるからだ。彼らがたどって来た道を思うと、この旅がイーツェンの旅であるのと同じように、これはシゼの旅でもあるのだった。
 しばらく互いの呼吸だけがひびく。やがて、シゼが低い声で言った。
「明日は朝が早い。もう眠ろう」
「うん」
「‥‥必ずあなたをリグへつれて行くから」
「わかってる」
 幾度もくり返された約束。くり返されても、その約束の真摯さが薄らぐことはなかった。心の芯にぬくもりがともって、イーツェンはシゼによりそいながら目をとじる。
 共に、ここまで来た。この先もずっとこうしてシゼのそばにいられるようにと、ただそれを願った。この先に何が待っていようと、こうしてシゼの手を離さずにいられるなら、すべてをのりこえていけるだろう。そう、信じた。

[5部完]