ほとんど眠ったと思った瞬間に揺り起こされて、イーツェンは眠い目をこすりながら、シゼにうながされて身支度をした。
 ヴォルとシゼと3人での夕食はおだやかなもので、3人は食前にふるまわれた薄い酒を飲みながら、翌日からの計画を練った。ユジーが運んできた手紙の束に事情が書いてあったのだろう、ヴォルは、すでにイーツェンに必要なものの手配をほとんどすませていた。
 この召使い頭は、イーツェンとジノンとの取引が首尾よくいったことを心から喜んでいる様子で、機嫌よく羊肉のパイと蕪のスープをふるまった。テーブルの上座にイーツェンを座らせ、自分が給仕がわりに食事と皿を運ぶと、自分も席について3人で夕食を囲む。
 シゼがごく自然にヴォルを手伝う様子を、イーツェンは興味深く見つめた。シゼとヴォルとの間に会話は少なかったが、2人は互いに居心地がよさそうで、イーツェンのいない間にすっかりお互いの存在になじんでいたようだった。シゼはヴォルの動きや言葉に対して、ほとんど警戒していない。丁寧だがやわらかな口調でヴォルに話しかけ、ヴォルはまるで友人に対するようにくつろいだ表情でシゼに接していた。
 ──珍しい。
 シゼがその場の雰囲気を楽しんでいる様子を、イーツェンはパンにかぶりつきながらこっそり目のはじでうかがう。シゼは滅多に人への警戒を解かない。リッシュやギスフォールにすらいつも微妙な距離を残していた。その彼が今、微笑──に近いもの──を目にうかべて、イーツェンが食べながらヴォルと交わす会話を聞いていた。
 そんなふうに肩の力が抜けたシゼの姿は、イーツェンに1年前の夏を思い出させた。予定が許すたびにレンギとイーツェンとシゼの3人で風が抜ける中庭の木の下に陣どって、のんびりと昼食を囲んだものだった。あの時もシゼはほとんど口をはさむことなく、おだやかにレンギとイーツェンの会話を聞いていた。
 夏の記憶はそのまま、イーツェンが両耳につけたピアスの存在を思いおこさせる。荷物の中に丁寧にしまいこんでいたそれをイーツェンは夕食の直前に耳に飾り、シゼはそれに気付いた筈だったが、何も言わなかった。
 会話の相槌を打ちながら、イーツェンはヴォルへ視線を戻し、大柄な召使い頭の陽気な笑みをたたえた顔をじっと見つめながら、彼がやわらかな発音で語る説明に聞き入った。
 ヴォルがシゼの信頼を得たことは、イーツェンを驚かせはしなかった。目元にすぐ笑い皺をよせて大きな目で見つめられると、誰でも彼を警戒しつづけるのは難しい。そしてヴォルの内には、イーツェンがシゼの中に感じるのと同じ種類の、深く確固とした揺るぎなさや誠実さがあった。それが彼らの間でひびきあうのは、自然なことのように思えた。
 ──だが彼らは、ここをも去らねばならない。
「今年は雨が少なめだったので、川下りもいつもより時間がかかるという報告が来てましてね」
 ヴォルは砂糖掛けのヒラマメを指先でつまんで口に放りこみながら、イーツェンの相槌を待って説明をつづけた。
 召使い頭、とかつてジノンはヴォルを紹介したし、ヴォル自身も自分のことをそう言うが、彼がそれ以上のものであるのは明らかだった。ジノンのこの荘園をまかされ、多くのことを自分の裁量で取り仕切っている。ジノンの多くの秘密を知る1人にちがいなく、またそれをジノンが許す数少ない人間にちがいなかった。
 この荘園から出る作物の交易なども行っていると言うヴォルは、イーツェンの乗るべき船や途中の関についても詳しい。すでにシゼとはある程度説明をしているらしいが、その知識をあらためてイーツェンへ語った。船の探し方、警戒するべきこと、船場の名前や特徴。特に船宿や曳き船の話はイーツェンの興味を惹きつけた。
「ルスタへは、ずっと船に乗っていくわけではありませんよ」
「どうして?」
 地図ではそのまま海へ、そしてそのそばの港町ルスタへと川は流れ下ってているように思える。イーツェンは単純にそれをたどっていけばいいと思っていたのだが、ヴォルは首を振った。
「砂州や堰は、人を乗せたまま渡ってはいけませんので、そこは陸路を取ります」
「船で陸を?」
 イーツェンが目を丸くすると、ヴォルはおもしろそうに微笑した。
「そういう時もあります。人と荷だけ陸に上がって、船は先に行くことも。リグに川船はありますか?」
「荷筏なら‥‥」
 平地の少ないリグでは流れも急なものが多く、材木を運ぶために木を組んだ筏を使っていたことくらいしか、イーツェンには記憶がない。川船をどこかで使っているかもしれないとは思うが、船で人を運ぶ、という発想がイーツェンの中にないことだけは確かだった。
 うなずいて、ヴォルはつづけた。
「役目は同じです。人を運んだり、荷を運んだりする。川船は平底で喫水が浅いもので──」
「喫水?」
「船体がどれくらい水に深く沈むか、ということです。大きな船は喫水がより深く、波に対して安定もするし荷も多く積めますが、その分その深さから座礁しやすくなる。海を行く時はいいが、接岸するとなると深い港が必要になります」
 イーツェンは数秒、考えこんだ。あまりにも自分が物事を知らないことにあらためて呆れる思いだったが、船にも港にも何の縁もない人生だったから今それを言っても仕方ない。セクイドが言いつのらなければ、海路を使ってリグに戻ることなど一生思いつかなかっただろう。
「ルスタにはそういう港がある、ということか。だから港町として発展した?」
「そうですよ」
 よくできました、と子供をほめるような口調だった。イーツェンがぐるりと目を回すと、ヴォルは笑いながら説明をつづけた。
「ルスタの大湾には半島が腕木のようにのびていて、そこにはかなり大きな船を直接つけることができます。もっと小さな船は港正面の岸に接岸できる。港の正面に商館がずらりと並んでいてね、荷運び人夫で賑わっていますよ。船によっては、沖に停泊してはしけで荷や人を運ぶこともありますが」
「ヴォルは、ルスタに行ったことがある?」
「あります。何度か、商館と契約を取り交わす必要があったので。にぎやかなところでしたが、この季節に行ったことはありませんねえ。ここからもあと2回荷を出しますが、後の船の戻りは春になりますよ。冬の間は下流をうろうろさせながら、小さい荷を運ばせるんです。春になると流れが変わっていたりして、水先案内人が苦労していますよ」
 おだやかに言って、ヴォルは水で薄めたワインを一口飲んだ。話を戻す。
「川船は海の船にくらべてはるかに喫水が浅いですが、それでも入れないところはあります。岩礁や砂州、堰があるところなど。時によっては迂回の水路を使い、時によっては船を陸に上げて運びます。そのたびに人は船を下りて陸路を行かねばならないし、時間を取られる。ただ地図をなぞるように、川を下っていくだけというわけにはいかない」
 たしかに、とイーツェンは思った。地図と、その上に描かれた道が実際にはまるでちがうものだということは、イーツェンもこの旅で身にしみていた。きつい坂やぬかるみ、崩れた橋、草むらに消えた道、森の中の迂回路。その道を行く苦労も、その道から見える景色も、地図の上からではわからない。
 自分が本当に地図の上でしか知らない──いや、地図の上ですらほとんど知らない場所へ行こうとしているのだという実感がふいに背すじの芯を這いのぼって、イーツェンは一瞬身ぶるいした。不安と、かすかな怯えと、まぎれもない昂揚に口の中が乾きを帯びる。知らない国、知らない港。だがその道がリグへつづいている筈だ。
 明日からどうするか、大体の話がまとまると、ヴォルは木の実の香りがする不思議な味の酒をふるまった。これが、この館ですごすイーツェンの最後の夜になる。疲れているイーツェンを気遣いつつ、最後のもてなしをしようとするヴォルの心が、イーツェンにはうれしかった。
 手のひらにおさまるほどの小さな石杯の酒を飲み終わると、イーツェンとシゼはヴォルに礼を言って席を立った。
 だがシゼに先に行くよう手を振り、イーツェンは食卓のそばで見送っていたヴォルの方へ1歩戻った。シゼは小さくうなずいて扉の向こうへ消える。
「ヴォル、ひとつ聞くけど、答えなくてもいいことだから」
 そう切り出すと、ヴォルのあたたかな目がまばたいて、それから底の読めない笑みをうかべた。
「どうぞ、イーツェン。噛みつきやしませんよ」
 その返事にイーツェンも笑ってから、表情を引き締めた。
「オゼルクが自分の荷物の中に、布の袋を持っていたかどうかわかる? このくらいの大きさで‥‥その」
 ヴォルは小首をかしげて黙っている。さらに説明しようとして何だかひどくとりとめのない口調になってしまって、イーツェンはもう1度はじめから仕切り直した。まっすぐにたずねる。
「オゼルクは、城から自分の荷物を持ち出せたのかな」
「そのようでしたよ」
 ここにオゼルクが逗留していたことを否定する気配すらなく、ヴォルはあっさりとうなずいた。まずそこから話を始めねばならないのではないかと思っていたイーツェンには、拍子抜けだ。もしかしたら、地図の抜けを見つけた時にすぐたずねていれば、その時にもこんなふうに隠さず答えてくれたのかもしれない。
「大体の物はすでに外に持ち出されていたそうですが、ご自分の馬をつれ出す機会がなかったのだけを嘆いておいででした」
「‥‥そう」
 ヴォルに「嘆いておいで」と言われても、イーツェンにはそういうオゼルクが想像できない。
 しかしやはり荷物は持ち出していたのかと、イーツェンは吐息を口の中で殺した。オゼルクがとらえられる前から城を去る準備をしていたとジノンに聞いて、もしかしたらと思っていたのだった。イーツェンがオゼルクの部屋で伏せっていた時すでに、あの袋もそれを入れた長箱も、寝室からは消えていた。あれをオゼルクがどこへ持っていったのか、彼の投獄の後でどうなったのか、イーツェンはずっと気になっていた。
 オゼルクが城から持ち出しておいた物の中にあの袋があったのか。そしてここを去る時、それを持っていったのか。知りたいと思うが、ヴォルにどう聞いたらいいかわからないまま、イーツェンは立ちすくんだ。とても直接ジノンに聞けた話ではなかったからヴォルに聞こうと思ったのだが、これ以上は何と言ったらいいかわからない。たじろいで、彼が話を切り上げようとした時、ヴォルがふうっと溜息をついた。
 イーツェンの方へ少し体を倒し、淋しげな笑みを唇のはじに溜める。
「骨の袋のことなら、お持ちになりましたよ」
 イーツェンは息を呑んだ。臓腑の内側が一瞬、からっぽになったようだった。
 眩暈がして、小さく頭を振る。
「‥‥知っていたんだ」
「私は主人の安全をはかる必要がありますから」
 ヴォルはうなずいた。オゼルクの荷の中をひそかにあらためたのだろう。
 やはり、オゼルクがしまいこんでいたあの袋の中には骨があったのだ。オゼルクの寝室で、彼が持ち上げた袋の中に奇妙に乾いた音を聞いた、あの瞬間の粘りつくような薄闇をイーツェンはまざまざと思い出していた。
 イーツェンに乞われたシゼは城を去る前にレンギの墓を掘り返したが、土の中に骨はなかった。一体ほかの誰が、レンギの骨を土の中から掘り出すだろう。その骨を持って──
 熱をおびた目の上をこすり、イーツェンは何を言えばいいのかわからないままヴォルにうなずいた。ヴォルが手をのばしてイーツェンの肩をかるくつかみ、やわらかな力をつたえる。大きな手だった。
「ご存知の方なんですか」
 骨のことを言っているとわかった。イーツェンは目をつむる。
「‥‥友達だ」
 それからヴォルの手の上に自分の手を重ね、元気づけようとする彼にこたえて、体を引いた。頭を傾けて謝意をつたえる。心に棘のようにずっと引っかかっていたことではあるが、答えを聞いた今は問わねばよかったような気もしていた。自分の中でどう受けとめればいいのかまだわからない。
「ありがとう、気になっていたんだ」
「もう少し早くおいでになれば、ご自分で聞けましたよ」
 苦笑して、イーツェンは今一度の礼をつたえてから食卓を離れると、部屋へ向かう廊下を歩きはじめた。この旅のどこかでオゼルクと道が交錯していたかもしれないという考えは、彼を落ちつかない気分にさせる。会いたいとか会いたくないということではなく、たとえ会ったところで何を言えばいいのかわからなかった。
 2人ともに城から離れ、オゼルクは罪人として身分と地位を失って、イーツェンもまたかつての彼ではない。彼らをつなぐものがあるとすれば、それは過去の痛みだけで、イーツェンはそんなものにふたたびとらわれるつもりはなかった。まだ多くの痛みと傷が、生々しいままイーツェンの中に残っているとしても。
 オゼルクはどうなのだろう、と彼は思う。オゼルクの中にはどんな形で痛みが残っているのだろう。
 城から逃げてもまだ、オゼルクは遠い痛みから解放されていない。レンギが飛び降りてからずっと、黒い服をまといつづけていたように。痛みは今でも彼を追っている。骨を持つ限りのがれられまい。だがその骨を自ら持って、オゼルクはジノンの庇護の元から去った。
 彼の痛みをいい気味だと思うことはできず、ただ追われるように歩くイーツェンの中には、どうしようもなく虚しい思いしか浮かんでこなかった。


 部屋に戻ると、シゼが立ったまま壁によりかかって腕組みしていた。イーツェンは後ろ手に扉をしめながら、シゼの注意を引くようなものがあるのかと視線の先を追い、何もないのを確認して、あらためてシゼの顔を見た。
「どうかしたか?」
「‥‥いいえ」
「言えないようなことか」
 言葉と裏腹に「どうかしている」のは、シゼのむすっとした表情と沈黙のよどみでよくわかる。イーツェンは扉をしめると同じように腕組みし、シゼへ向けて小首をかしげた。先をうながす。
 シゼはイーツェンの顔をしばらく眺めていた。イーツェンの肌の内にある何かを読みとろうとしてでもいるような目に、イーツェンは肌がざわついたが、視線をそらさずに見つめ返した。
 シゼは息を吐き出して、壁によりかかったまま、ほどいた両手をだらりと両脇に垂らした。
「何の話だったんですか?」
「気になるのか」
 珍しいな、と思って問い返すと、仏頂面のまま即座に返事があった。
「なります」
 気になるのかぁ、とイーツェンは感心した。本当に珍しい。だが呑気にしているイーツェンをまっすぐに見て、シゼは低い声で言った。
「あなたが私に黙って何かをすると、あまりろくなことがない」
「そんなことはないだろう」
 ムッとして反射的に言い返したイーツェンに、シゼは取り合う様子もなく肩を揺らがせただけで何も答えなかった。イーツェンの言葉に賛同していないのは明らかで、イーツェンは思わずもう1度言いつのる。
「そんなことはない」
 シゼの口元がぴくりと動いた。何だ、と目でうながすと、ゆっくりと口をひらく。声はまだひどく低く、聞きとるためにイーツェンは1歩近づかねばならなかった。
「城で、あなたは私に黙って、私を追い出す手筈をととのえたでしょう」
「あれは──」
「アガインと折り合いがつかない時も、自分だけで勝手に決めた。私に話そうとはしなかった」
 シゼはイーツェンが口をはさむのを許さず、抑揚を殺すように固い声で言い切った。イーツェンは顔を張られたような衝撃で立ちすくむ。シゼが苦々しく唇を引き結ぶのを、呆然と見つめた。
 たしかに、そうだ。だがどちらも自分を守るための決断ではなかった。シゼを守ろうと思って、そのシゼを強硬に脅すような真似までしてユクィルスの城から彼を追い出した。また、アガインに協力するよう迫られた時は、リグの名を勝手に使われるよりはと死を決意までした。
 その時々に、それはイーツェンにとって必死の判断で、仕方のない決断でもあった。たとえ最善ではないにしても、イーツェンにはそう決断しなければならない理由がたしかにあった。
 だが──だが、とイーツェンはにぶい油燭の灯りの中で立ちすくむ。だが、その時々にシゼはどう思っただろう。シゼの側から物事がどう見えていたのか、イーツェンは考えたことがなかった。
「あなたはいつも黙って決める、イーツェン」
 ゆっくりと、乾いた声で、シゼは言った。そこにイーツェンを責めるひびきはない。ただ事実だけをつたえようとしている言葉は、ずしりとした重みでイーツェンの心に沈みこむ。
「そしてそのたびに、私は心臓がとまりそうになる」
「‥‥‥」
「気にしないでいい」
 いきなり早口でそう言うと、シゼはよりかかっていた壁から身を起こしてイーツェンの横を歩きすぎていこうとする。ほとんど何も考える間もなく、イーツェンは咄嗟に体ごと抱きつくようにしてシゼをとめた。
「駄目だ、シゼ。ちゃんと話す」
「私は何かを言える立場ではない」
 上ずったイーツェンの声に答えるシゼの声は、どこか無理に絞り出すようなかすれを帯びていた。イーツェンはシゼの首すじに顔を押しつけ、体をあわせて、全身でシゼをとめる。鼓動が喉の奥で鳴るようで、息が苦しい。
「そんなことを言わないでくれ」
「イーツェン──」
 体がぴたりと合わさっているのにあまりにもシゼが遠い気がして、イーツェンは背中に回した両腕でシゼを強く抱きしめる。シゼがイーツェンを完全に信頼しきれていないのは知っていた。シゼからすれば無理もないと思う。イーツェンは多くのことをシゼに隠してきたし、シゼが言うように重要なことを勝手に決めもした。それもシゼに深く関わることを。無条件で信じてくれなどと言えた立場ではない。
 だが、それでも。
 自分のしたことで彼を傷つけていたのだと知るのは、息もできないほどの痛みだった。何も考えていなかった。イーツェンはいつも必死だったし、シゼもそれは知っている。彼はイーツェンを責めてはいない。だが、そこに痛みは残るのだった。
 まるでシゼの信頼を裏切りで返していたような気がして、後ろめたく、息苦しかった。傷つけたことも、それに気付かなかったことも。己がそんなことをシゼにしていたのだとは信じたくなかった。
 シゼの背に手を回し、服の下のごつごつとした背骨を指の背に感じながら、イーツェンはシャツを握りしめる。
 シゼは少しの間、立ちつくしていたが、やがてイーツェンの背にシゼの腕が回された。シゼの肩口に顔を伏せたイーツェンからは、彼の表情は見えない。だがイーツェンの背を抱いた腕も、なでる手のひらもやさしかった。
「隠そうとしたわけじゃない」
 イーツェンは早口に呟く。離れるとまたどこかへ行こうとしそうで、シゼにしがみついたまま、わずかも身を離すことができなかった。もっと大きな声で言おうとしたが、自分の喉から出るのはひどくかすれた声だった。
「お前に‥‥どう言おうか、迷ってて」
「無理に話せというわけじゃない」
 シゼの指が、イーツェンの髪の間をすくようになでた。
「ただ、心配なんです。いつもあなたは黙って決めるから」
「私がまた何か企んでいるとでも思うのか?」
 問いつめるようなひびきにならないよう、今の自分に絞り出せる限りの明るさをこめた。シゼが少しこもった声で返事をする。
「心配なんです」
 イーツェンは斜めに顔を上げ、唇のすぐそばにあったシゼの顎にくちづけた。自分の唇とシゼの肌のどちらがこれほどの熱を持っているのか。わからないまま、囁いた。
「ピアスの、もう片方を返してもらったんだよ」
 シゼの腰に両腕を回し、互いの顔が見えるよう体を離した。イーツェンがピアスを両耳にしていることなど当然気付いていたのだろう、シゼはイーツェンの目を見たままうなずく。
 何を思っているのかと、イーツェンはじっとシゼを見つめた。まだ陽は完全に落ちきってはいないが、夕暮れが部屋の中にまで濃く漂いはじめ、部屋の燭台には火が入っていなかった。輪郭がぼんやりと沈み、イーツェンを見つめるシゼの目に夕方の最後の光がさして、それはかすかに濡れて見えた。怒ってはいない。まなざしの中にある気遣うようなやさしさに、心が素手でつかまれるようだった。
 イーツェンはシゼの体を抱いていた手を引き、シゼもイーツェンの背を支えていた腕をおろした。部屋のすみに用意してある火おこしの箱を取り、イーツェンは火打金を使って小さな火をおこすと、油燭に火をうつして壁の鉤に掛けた。
 寝椅子に腰をおろし、シゼにも手振りですすめて、彼が座るのを待つ。きちんと話そうとすれば長い話になる。
 シゼは一瞬ためらったが、イーツェンに体を向けて腰を寝椅子にのせると、珍しく彼の方からたずねた。
「誰に返してもらったんですか」
「ジノンが持っていた」
 もともと黙っておくつもりはなかった。だからこそピアスを両方耳につけたのだ。だがシゼの方から聞いてこなければ本当に話すことができたかどうか、イーツェンには自信がない。
 ひとつ息を吸いこんで、つづける。
「ジノンはオゼルクから渡されたそうだ。‥‥渡されたと言うより、置いていったという話だったけれど」
 オゼルクの名にどんな反応を見せるかと身がまえたが、シゼは唇を横に結んでうなずいたきり何も言わなかった。だがオゼルクの名をイーツェンが口にした瞬間、彼が表情を消してふっと内側にこもってしまったかのようで、イーツェンは乾いた唇を神経質に舌で湿す。シゼが1歩引いて距離をとっているのがわかった。
 こうして向きあっていても、シゼのと間に隔たりを感じるのが苦しかった。シゼはイーツェンを信頼していないし、そこには未だに踏みこんでこない距離がある。それがいつもは存在しない壁なのか、それとも普段はシゼがうまく覆い隠しているだけなのか、イーツェンは不思議に思う。同時に少し怖くもなった。イーツェンの側からは見えない壁が、いつもそこにはあったのだろうか。
 体が動悸を打っているようで、自分の心を落ちつかせようとしながら、イーツェンはシゼの目をまっすぐ見ることだけに集中した。
「オゼルクは城を出て、しばらくジノンにかくまわれていた。それからピアスを置いて出ていったそうだ。ジノンは彼がどこへ行ったか知らない」
「あなたは知っているんですか」
 問いの形だけはあったが、シゼの声音はほとんど断定だった。そこにあるするどさにひるんでから、イーツェンはうなずき、頬に落ちてきた髪を耳の後ろへ払った。
「ヴォルにたずねたかったのは、そのことと関りがある。レンギの骨のことを覚えているだろ?」
「ええ」
 痛みを感じているとすれば──感じていないわけがないが──シゼはまるでそれを見せなかった。低い声と押し殺した表情に、イーツェンはまるでシゼが固い殻の内にこもってしまったかのように感じ、一瞬、シゼの襟首をつかんで揺さぶりたいような衝動につかまれた。
 その激情が身を抜ければ、虚しいような、切ないような思いだけが残る。どうしたらいいのかわからないまま、彼は膝にのせた拳を握り直した。指の先までつめたいのに、手のひらは汗ばんでいた。
「城のオゼルクの部屋にあった、多分、骨の入っていた袋‥‥それをオゼルクが持って城を抜け出せたのかどうか、まだ持っていたのかどうか、それが知りたかった」
「何故ヴォルが──」
 シゼは問いかけて、切るようにとまった。イーツェンの肌がひりつくほどに強い目で凝視し、シゼは声を低くする。
「この館にオゼルクがいたと言うんですか? いつから知っていたんです、イーツェン」
「私は‥‥」
 イーツェンはたじろいだ。後ろめたさが胃の腑の底から這いのぼってくる。隠していたわけではない。この館の蔵書室で地図が消えていることに気付いた時には、すぐにセンドリスが入ってきて、そこからはもう旅立ちのことだけで頭が一杯でシゼにオゼルクの話を持ち出す機会はなかった。
 ──いや、欺瞞だ。イーツェンは奥歯を噛む。3日。旅の準備にそれだけあった。3日の間、イーツェンは幾度かオゼルクのことを考えたし、それを1度もシゼに話さなかった。シゼに言えなかったのは、他のことに気を取られていたからだけではない。
「この蔵書室で、地図の綴りからフェイギアの地図が抜けていることに気付いた時だ。お前が剣をヴォルに預けに行っている間‥‥センドリスが来た時」
「──」
 唇をぐっと引き結んだまま、シゼはきびしい仕種でうなずいた。イーツェンは呑むように息を数度、吸いこむ。胃の奥で塊のように固いものが動いた。
「その時は確信はなかった。でもジノンにピアスを返されて‥‥それで、ヴォルに、オゼルクの荷物のことをたずねてみようと思った。だからさっき‥‥」
 イーツェンの言葉が切れると、シゼはまばたきをしていないことにやっと気付いたかのように銅色の目をまたたかせた。イーツェンはすがるように手をのばす。シゼがその手を取り、イーツェンの両手を包むように握って、自分の膝にのせた。
 腕に引かれるように少し前かがみになって、イーツェンはできるだけおだやかな声を保とうとした。レンギとオゼルクの話題がシゼにとってまだ痛みをともなうものであるのは、知っている。イーツェンが事実をシゼに告げなかったことで、その痛みを足すような結果になっていないことだけを祈った。
「さっきヴォルは、オゼルクは骨の入った袋を持っていたと言った。それを持って行ったと。私は‥‥シゼ、オゼルクは、レンギの骨を持ってフェイギアへ行ったと思う。レンギの故郷のある場所へ」
 シゼはすぐには返事をしなかった。目を少しほそめ、イーツェンの言葉が染みこむのを待つようにじっと彼を凝視していてから、うなずく。
 イーツェンはどうしようか迷ってから、シゼの手を強く握り返した。
「黙っていて、ごめん。後で話そうとは思ってたんだ。ただ‥‥どう話せばいいのかわからなかった。お前が‥‥知りたいかどうか、わからなかった」
「オゼルクがこのあたりをうろついていると知っていたら、あなたを1人で行かせなかった」
 腹立たしそうなシゼの言葉の激しさが、イーツェンを驚かせる。だがシゼはイーツェンの手を離そうとはせず、指と指を絡ませながら、どうしようもないように苛立った溜息をついた。
「あなたは黙っているべきではなかった、イーツェン」
「ごめん」
 シゼの怒りを目の当たりにすると、黙っていて正解だったかもと多少思わないでもなかったが、イーツェンは素直にあやまった。結果がどうということではなく、シゼの信頼を損なったのは最悪のあやまちだ。全部言うべきだった。言って、それからどうするか、シゼがどう思うか、きちんと向き合うべきだっのだ。それが信頼というものだった。
 離れているのが苦しくなって、体を傾けると、シゼは両腕の中にイーツェンをかかえこんだ。イーツェンはシゼの肩口に顎をのせて、身に添うぬくもりに溜息をつきながらシゼによりかかる。
「隠しておくつもりはなかった。信じてくれ」
 背中に回された腕に力がこもったのがわかった。
「信じます」
 シゼのその言葉は嘘ではないだろう。だが同時に、シゼはもう先のことについてイーツェンを信頼するまい。それは深い痛みを刻んだが、そのことに思い至ってみると、そもそもシゼがイーツェンの望むような形で誰かを深く信頼したことがあるのかどうか、イーツェンにはわからなかった。城では勿論、リッシュ、アガイン、ギスフォール──友と言えるほど近い相手でさえ、シゼが無条件に相手を信頼しているところをイーツェンは見たことがない。
 その考えに、イーツェンの腹の底がきつくねじれる。シゼがどれほど孤独なのか、イーツェンは考えたことがなかった。シゼ本人はただ生きのびてくるためにそうしてきたのだろう。彼には係累もなく、故郷もなく、ユクィルスの城を出てルルーシュとも離れた今は、何の後ろ盾もない。
 今のシゼのそばにいるのはイーツェンだけで、そのイーツェンを、シゼは信頼できないのだった。
 さらに身をよせて、イーツェンはシゼの首すじに顔をうずめ、シゼの匂いを吸いこんだ。汗や槌や鉄の匂いが入りまじった、重く、少しとがったところのある匂いはまさにイーツェンがシゼのものとして覚えこんでいる匂いで、それはイーツェンの中にある動揺や上ずる鼓動をなだめ、乱れた気持ちを落ちつかせる。
 言わなければならないことがたくさんある、と思った。黙っていてはいけないことが。
 口をひらこうとした時、シゼがふいにイーツェンを強く抱きこんで、密着した体のあたたかさにイーツェンの言葉は喉の奥へ溶けた。
 シゼの声が、イーツェンの髪の中にくぐもった。
「もしジノンのところで顔を合わせるようなことにでもなったら、どうするつもりだったんです」
「‥‥オゼルクと? どうかなあ」
 正直なところ、イーツェンはそのことについてあまり考えていなかった。シゼに言われてあらためてその可能性にも思い至ったが、たとえば本当に会っていたとして、何かそれに意味があるという気もしない。
 だがシゼは、イーツェンの答えに不服なようだった。
「どうかなって、どういうことです」
 問いつめるような、珍しい口調に顔を上げ、イーツェンはまじまじとシゼを見つめる。
「どうもこうもないよ。会うとは思ってなかったし、会っても今さら何もない。レンギのことについては本人の口から聞いてみたいこともあったけど──」
「あなたは」
 苛立たしそうにシゼがさえぎった。抑えこもうとして抑えきれない感情が声に苦くにじんでいる。イーツェンはシゼの言葉と、シゼが言葉にしないものを声から読みとろうと、じっと耳を傾けた。
「平気なんですか。あの男は、城で‥‥」
 それ以上言葉にするのが耐えきれないように口を結び、シゼは見つめるイーツェンから顔をそむけようする。シゼの頬に手をあてて、イーツェンはゆっくりと自分の方を向かせた。シゼとゆるく抱きあったまま、銅色の目をのぞきこむ。シゼの目の中に覆いきれない痛みと怒りを見て、息がつまりそうだった。
「何もかも、すぎたことだ」
 できる限りおだやかに言った。
「平気じゃない。でも、もうそんなことに足を取られたりはしない。シゼ、私はもうオゼルクは怖くないよ。だから顔を合わせたとしても、あまり怖いとは思えない」
 言いながら、自分が本当にもうオゼルクを恐れていないことに気付いて、イーツェンは驚いた。城にいる時はあれほどオゼルクの前で自由を奪われたようになっていたし、数えきれないほどの屈辱と服従の記憶は深く刻みつけられている。だがそのどれも、今の彼を過去の檻に引き戻せるとは思えない──少なくとも戦うことができると、イーツェンはそう願っていたし、そう感じていた。
 明るい気持ちになったイーツェンは、確信の持てない表情をしているシゼに笑いかける。
「お前が私に教えたんだ、シゼ。傷は消えない、だからそれと一緒に生きるしかない。そう言ったのを忘れたか? 城であったことも同じだ、シゼ。消えはしないが、いつまでもそれに引きずられたりはしない」
「‥‥‥」
 まばたきし、口をあけて、シゼは何も言わずにその口をとじた。イーツェンはシゼの頬にあてた指をすべらせ、頑固そうな頬骨をなでる。
「私は、お前の方が心配になってきたよ。もしオゼルクとお前が顔をあわせでもしてたらと思うと」
「見つけ出せれば、私はあの男を斬る」
 静かな断言にイーツェンは一瞬指と呼吸をとめたが、すぐにまた陽に焼けた肌をなでた。頬からなぞって、きつい意志を刻みこんだ口元をさする。シゼの中にはりつめた緊張を少しでもやわらげてやりたかった。
「オゼルクは、レンギの骨を持っているんだよ、シゼ」
「だから、何です?」
 何だと言われてもうまく言葉にして説明できない。それにシゼはイーツェンの言いたいことをわかった上で、それでも反発せずにはいられないようだった。イーツェンは溜息をこぼして、シャツの上からシゼの肩口にくちづける。
「お前がオゼルクを許せないのは、わかる」
「あなたは許しているんですか」
 それはシゼが滅多にイーツェンへ向けたことのない、切るようなするどさをはらんだ声だった。イーツェンはもう1度、シゼの肩に唇をあてる。その肩はこわばり、熱を帯びて、イーツェンの唇の下で肩骨が少し動いた。
「わからない。多分、ちがう。でももう終わったことだ。全部ユクィルスへ置いていこう、シゼ」
 シゼは何も言わなかったが、イーツェンが黙って体を預けていると、やがてシゼの全身がふっとゆるみ、彼は大きな息をついてイーツェンの背中を両腕で抱きしめた。
 やわらいだ抱擁と、そのぬくもりが2人をつなぐ。イーツェンは耳元にシゼの静かな呼吸を聞きながら自分の中でくり返した。そう、全部ユクィルスへ置いていこう。それはシゼのためだけの言葉ではなく、イーツェン自身へ向けた言葉でもあった。