門を入ってすぐに、ユジーたちは馬房や倉庫がある方へと道を分かれた。それじゃ、と互いに馬上から短い言葉を言いあっただけの、短い別れだった。また会おう、などの儀礼的な言葉は何ひとつない。2人ともこうした別れに慣れているのを感じさせた。
多少のことはあったが、いい道づれだったと思う。動きが身軽で旅が早くすんだし、イーツェンの身分や正体はおろか、首の輪のことすらあまり気にした様子もない。これが騎士や何かの、身分差の中で暮らす人間だったらとてもこうはいかなかっただろう。ジノンが彼らをイーツェンにつけたのは、目的地が同じという以外にもそんな心配りがあるようにも思えた。
身分を気にしないのは、主に動物を相手にしているからだろうか。思えば、ただ預りものの動物の世話でもするように、ユジーはイーツェンの面倒を見ていたようでもある。
遠ざかる彼らへ大きく手を振ると、2人が笑って振り返したので、イーツェンは何だかほっとする。馬の足元を追うウィスカドスまでもつられたように尾を振っていた。2人はここか、近くの砦で冬の間に馬の訓練をするようだった。いい馬を選ぶのには時間がかかるのだとユジーは言っていた。本来ならば血統からきちんとそろえ、優秀な馬をよりわけて交配させていかなければならないのだと。そういうことも、いずれはやりたいらしい。
脇道を遠ざかっていく後ろ姿に彼らの幸運を今一度祈ってから、イーツェンは近づいてくる館へ目を戻した。すぐに門番からイーツェンの訪れを知らされた少年が館の前に走り出してきて、イーツェンを見ると笑顔になった。見おぼえがある顔だ。イーツェンが発つ前に世話をしてくれた、ノイシュという召使いだった。
「お帰りなさいませ」
かるく頭を下げ、イーツェンの手綱を取る。やっと様になってきた動作でイーツェンは鞍からすべり下りたが、馬上の揺れに慣れきっていた体は固い地面の上でよろめいた。
鞍袋の中から荷物を引っぱり出し、少年に案内されて召使い棟の裏扉から邸内へと入る。前に使っていた部屋へとそのまま案内された。
室内は空だったが、シゼの荷物は記憶通りに部屋のかたすみにまとめられ、見おぼえのある寝椅子もそのままだ。シゼの痕跡を見て安心し、イーツェンが自分の荷を壁際におろしていると、少年が「ひとまず足をお洗い下さい」と湯の入った桶を持ってきた。
丸椅子に座り、ブーツを脱いで桶の湯に足を浸す。ぬるい湯の中でこわばった足首や足の裏をもみほぐし、長旅の間に固くなった足裏のたこに自分で感心したりしていると、猛烈な眠気に襲われてきて、顎が外れそうな欠伸を連発しながら湯から足を上げた。ノイシュがまた来たらシゼがどこにいるか聞いて、それからヴォルに挨拶をしなければなるまい。
両手両足を洗っただけなのに湯は旅の汚れですっかり濁っていて、イーツェンは湯を捨てに窓へ歩みよった。光を入れるために板窓は半分だけあいている。差し金を外して板窓をあけ放つと、湯の桶をかかえて持ち上げた。
縦に細い窓は、館の裏手にある水路付きの作業場に面している。あまり人のいる場所ではないが、誰かに水をかけては悪いと外に首をつき出した瞬間、イーツェンはそこに立つシゼと正面から顔をつきあわせていた。
口をぽかんとあけて、イーツェンはシゼを見おろした。シゼの額や頬は汗ばんでいつになく血色がよく、髪は風が抜けていったように乱れていた。シゼは驚いた様子もなく目をほそめるようにしてイーツェンを見上げ、何も言わずに手をのばした。中にいる分だけイーツェンの方が高い。
抱擁されるのかと一瞬ドキリとしてから、イーツェンはシゼが桶を渡すよう手で指示しているのに気付いた。あけっぱなしの口をあわててとじ、気恥ずかしさを隠して、湯をこぼさないように桶を渡す。シゼは水路のはじまで歩いていくと、排水の溝に桶の湯をあけた。
シゼはいつもの革の胴衣をまとっておらず、長袖の麻のシャツと、イーツェンがはじめて見る太い作業ズボンをはいていた。シャツの袖もズボンの裾もまくり上げられ、服にも古びたブーツにも泥がついている。農夫のような格好に見えるが、立ち姿のするどさや屈んだ背中のしなやかな線は相変わらずで、いつものように剣帯だけはしっかりと腰に巻かれ、見慣れた剣が左腰に下がっている。
桶を振って水を切ってから、戻ってきたシゼはイーツェンに空の桶を渡した。ついで剣帯を外し、イーツェンに剣ごと重い革帯を手渡す。わけもわからず受けとったイーツェンへ向けて、下がるようまた手で指示した。
イーツェンが窓の脇へのき、邪魔な桶を床に置いて剣をかかえ直しながら向き直った時には、すでにシゼの手が窓枠にかかっていた。勢いをつけて体を窓枠へ引き上げ、シゼは器用に身をひねって細い窓を通り抜けると床に降り立った。
イーツェンと向きあう。
まだこの状況をつかむのに苦労しつつ、シゼの目にまっすぐ見据えられたイーツェンは思わずどもった。
「何で。‥‥窓から?」
「帰ってきたのが見えたので」
シゼは短く答えた。
さっきのはやはりお前だったのかとか、それにしたって何で窓からだ、とか何とか言おうと口をあけた時、シゼが距離をつめ、まるで火の熱が肌にせまってくるかのようでイーツェンは息をつめた。急いで来たのか、両足を肩幅にひらいて立つシゼの息はまだかすかに荒く、首すじや額は湿って、汗の光を帯びている。質問や言おうと思っていたすべての言葉がどうでもよくなって、イーツェンはシゼを見つめた。銅色の目はじっとイーツェンを注視していて、まるでシゼは、この12日間の間にイーツェンの身に起こったすべてを読みとろうとしているかのように、眉根をかすかに寄せていた。
イーツェンの心の内側にあるものまで見つめようとするような視線は強く、容赦ないほどのものだったが、イーツェンを不安にさせるものではなかった。その、覆うところのない視線がただなつかしく、イーツェンは深い安堵につつまれる。シゼの力強いまなざしの前では、自分を守ろうと身がまえなくてもいい。そのことをイーツェンの心も体も、深いところで知っているようだった。
離れてからずっと心を覆っていた固い殻が剥がれ落ちたように、身がかるくなるのを感じた。我知らず微笑が口元にうかんでくる。
ごく自然に、イーツェンはシゼへと左腕をさしのべ、シゼはイーツェンの間合いへ歩み入って、両腕でイーツェンを抱擁した。右手にかかえたままの剣と剣帯が邪魔で、イーツェンは鞘を胸に抱きしめながら、シゼの体にできるだけふれようと前のめりに抱擁の中へよりかかった。剣を落とすわけにはいかない。シゼには何より大切なものだ。
シゼがイーツェンの両肩をつかんで彼の体を引きはがすと、イーツェンの腕から剣と剣帯を取り、手早く床へ置いた。もう1度両腕でイーツェンを抱きこみ、首すじに顔をうずめるようにしてイーツェンを抱擁する。耳元でシゼが大きな息をつき、イーツェンも溜息をこぼした。肩から胸、そして腰まで、2人の体は隙間などないかのようにぴたりと合わさり、イーツェンはシゼの肩口に顎をのせると、全身の力を抜いて身をゆだねた。
もたれかかるイーツェンを強靱で固い体が支え、腰の後ろに回った腕が彼をさらに強く引きよせる。ただ身を合わせるだけでは足りずに、イーツェンはシゼの背をきつく抱きしめ、シゼも応じてイーツェンを抱き返した。シゼの腕は強かったが、注意深くイーツェンの背の傷が深いところは避けていた。
旅の汚れがうつると言おうとして、イーツェンはやめた。シゼも作業の途中の姿だし、本当のところは服の汚れなどどうでもよかった。
シゼの熱と力が全身を包んでいるのを感じ、ただ飢えたようにその熱を求めてしまう。息苦しいのが密着した体のせいなのか、そこからつたわって肌をしびれさせる熱のせいなのか、イーツェンにはわからない。指の先端までが熱かった。頭の芯がくらくらとして、膝に力が入らず、支えられていなければそのまま床に崩れてしまいそうだ。
シゼの息がイーツェンの襟元にくぐもり、その湿り気に、肌の内までもが深く潤う。首の輪がなければもっとじかに彼のぬくもりを感じられる筈で、イーツェンは苛立つように呻いてシゼの首すじに顔をうずめた。シゼの手のひらがイーツェンの体の輪郭をたしかめるように幾度もふれ、イーツェンの髪をなでた。
「‥‥うまくいったよ」
それだけを、乾いた喉から押し出すように、イーツェンはつたえる。それからふいにこみあげてきた泣きたいほどの激情をこらえて、つけくわえた。
「リグへ帰ろう、シゼ」
シゼの頭が動き、何か言うのかと思った一瞬、ざらついた唇がイーツェンの顎にふれた。意図した動きだったのか、ただふれてしまったのか。それはわからないまま、荒いがやわらかな唇とシゼの熱い息が肌にふれた瞬間、イーツェンの中で何かがはじけた──そして、シゼの中でも何かがはじけたのを、ぴたりと密着させた体の揺れに感じとっていた。
互いの頭が動き、息を探し、互いの唇を求めてひらいた。熱と熱とが重なりあう。シゼが合わせた唇ごしに何かを言って、イーツェンはその言葉よりもつたわってくる震えの中に溶けるように身をゆだねていた。
心と体の境目がなくなってしまったようだった。肌に、唇にふれるシゼの温度、濡れた唇と舌の動き、飢えたようにイーツェンの唇をむさぼる濃密な熱のひとつひとつが、イーツェンの体と心を同時に揺さぶり、すみずみまでひびきわたる。
イーツェンは両手でシゼの頭をかかえ、髪を指でかき乱しながらもっとシゼに近づこうともがいた。体と体を合わせ、唇を合わせているのにもっと近づきたい。凶暴なほどの気持ちで唇を押しつけ、歯と歯がふれあうような荒々しいくちづけを重ねた。シゼの腕はもたれこんだイーツェンを力強く抱きかかえ、イーツェンが求める分だけ、彼の唇もイーツェンを求め返す。
幾度も、息を継ぎ、互いの荒い息を呑みこんでくちづけをくり返しながら、イーツェンは強い、濃密な感情が自分とシゼとをつないでいるのを感じた。イーツェンが今まで誰にも感じたことがない──そして誰からも感じたことのない、深い共鳴。豊かで凶暴な熱がうねり、自分の中にあいた空虚な場所へ流れこんできて、彼は震え、シゼにさらに強くしがみついた。自分がばらばらになってどこかへ散ってしまいそうだ。
シゼのシャツの背中を指の間で握りこみながら、イーツェンは呻いた。ひらいた唇の内側をシゼの舌がなぞる。剥き出しの熱に、全身が震えた。
どうしてこんなに苦しいのか、彼には理解できなかった。シゼに抱きしめられ、迷いなくくちづけの昂揚におぼれながら、魂のどこかがねじれてしまったように苦しい。痛みはないのに、ただ苦しくてどうしようもなくシゼの体に自分の体を押しつける。揺らぐ世界の中で、ただシゼの存在だけがイーツェンにとってたしかなものだった。
やがて唇が離れ、シゼの目がイーツェンを深くのぞきこんだ。イーツェンの唇から我知らず、呼ぶ声がこぼれる。
「シゼ‥‥」
かすれて揺らいだ、そして今にも崩れそうな声だった。シゼはイーツェンの顔を両手ではさみ、「しっ」と子供を黙らせるようなやさしい囁きをこぼすと、また唇を重ねた。
唇の正面に、そしてはじに、頬に。やわらかく、安心させるようなシゼの仕種の中に、イーツェンはもう1度溶けていく。揺らいでいた自分の足が地について、シゼが与えようとするおだやかな熱を受けとめながら、やっとシゼの唇や舌の感触も味わいはじめていた。シゼの匂い、温度、仕種、髪にふれる指──ひとつひとつの、細かなことがイーツェンの中で重なりあう。
つき動かすような熱は消えて、2人は長い間そうして、くり返し、ゆっくりと唇を重ねた。イーツェンはただ時間の感覚を失ってシゼに体を預ける。いや、きっと預けているのは体だけではなかった。
シゼが自分を抱きしめ、背をなでる手のひらや、時おり首すじをなでる指先に彼の欲望を感じていたし、イーツェンの唇を外れたシゼの唇が顎から耳元まですべっていくと、ぞくりとした戦慄が肌をすべっていくのを感じた。
だがその戦慄をもなだめるほど、シゼの唇はやさしかった。最後に1度、やわらかくイーツェンの口を吸って、シゼは唇を離す。イーツェンの顔を両手で包んだまま、彼はイーツェンに額をあわせ、目をとじて、少しの間何も言わなかった。
イーツェンは全身に残ったシゼの熱の名残りをぼんやりと追いながら、シゼの頬を指の背でなでた。何か言いたいことがある気がしたが、言葉が見つからない。ただシゼの輪郭をなでて、頑固そうな頬骨に指をすべらせた。
シゼは体中を震わせて大きな息をつくと、イーツェンから離れた。だがすっかり距離をあけてしまうほど離れはしなかった。手をのばせばふれられるほどの場所に立っているシゼの熱を、イーツェンはまだ感じる。2人の間を濃密につなぐそれは、あるいは熱とはまた別の、イーツェンが呼ぶ言葉を持たない何かなのかもしれなかった。
シゼが乱した髪が目元に落ちてくるのを指先で払いながら、イーツェンはふっとこみあげてくる笑みをこらえた。シゼが怪訝そうに目をほそめる。シゼの唇は荒いくちづけの跡をはっきりと残して、濡れて、少しはれぼったく見えた。
イーツェンは首を振る。
「‥‥いや。まだちゃんと話もしてないと思って」
色々とシゼに報告しようと、今日は朝から何をどう言えばいいのか考えていたのだが、そんなことは残らず吹きとんでしまっていた。それこそ、帰った挨拶もしていない。くちづけが挨拶だとすれば、それは別にして。
シゼはうなずくと、体を離し、窓の板戸を半分とじて掛け金をかけた。その仕種に、イーツェンは気になっていたことを思い出す。
「何だって窓から来たんだ。門から入れない理由でもあったのか?」
「正面に回って中を通るより、こちらからの方が早い」
シゼの返事は停滞がなく、彼は随分と館回りのことに詳しくなったようだった。道でイーツェンを見て戻ってきてくれたのはうれしいが、だからって窓から入るか、と思ったが、最短距離を選ぶのは何だかとてもシゼらしい。イーツェンはまだどこか浮わついた足で荷物に歩みよると、しゃがみこんで革袋の中を探った。
油紙で包んだ紙ばさみを手にした時、ノックの音がしてシゼがこたえた。ノイシュが顔を出し、体を拭くための湯の用意ができたこと、ヴォルが夕食にイーツェンとシゼを招いていることをつたえる。イーツェンは荷物から洗いかえの必要なものをノイシュに渡して、紙ばさみをもう1度しまいこんだ。
シゼが湯を運んでくると、イーツェンは汚れた服を脱ぎ、寝椅子に座りこんで体を拭った。まだ体から馬の匂いがするなあとしきりに腕の匂いを嗅いで、シゼに笑われる。
「痣になってる」
下帯をはいた太腿の内側をのぞきこみ、イーツェンは鞍にふれていた箇所が黒ずんでいるのを見て顔をしかめた。1日目でもうヒリついて赤くなっていたので、2日目からはやわらかい布を鞍の間にはさんでいたのだが。
痣自体は気にならないが、馬ひとつ、かつてのように乗れない自分の体の弱さが気に入らなかった。一時期よりはずっとましだが、肉が落ちて痩せた体は少しのことで痣になる。
シゼがふっと眉をしかめて、寝椅子のそばへ歩みよるとイーツェンの左腕を指で示した。
「これは何の痣です?」
「‥‥ああ」
たしかにぽつぽつと、左上腕に赤い痣が浮いている。明日になれば青く浮き上がって、シゼにもそれが人がつかんだ指の痕だとはっきりわかってしまうだろう。イーツェンは立てた足のふくらはぎから足首までを拭いながら、なるべくかるい調子で言った。
「喧嘩」
「誰とです」
シゼの声が帯びたするどさを、イーツェンは無視した。アルセタのことはまだ説明していないから名前を言ったところで意味がないし、それに、年下の少年──いやもっと悪い、少女だ──ととっくみあってついた痕だなんてことは、可能な限り言いたくない。
「じゃれあっただけだ。いいだろう、お年頃なんだから」
追求されるかとかまえたが、シゼは珍しく短い笑いをこぼして、くつろいだ表情でイーツェンへ手をのばした。
「背中を」
布を渡して背中を向けようと体を回すイーツェンを、仕種で抑える。
「うつ伏せになって」
「今横になると寝ちゃうよ」
欠伸をしながらぶつぶつ反論し、それでもイーツェンはシゼの言うとおりに寝椅子へ横になった。腰から下をシゼが毛布で覆い、湯を絞った布でイーツェンの背を拭いはじめる。
「夕食の前に起こしますよ」
「お前に話したいことが、いろいろ……」
たとえばリッシュのこと。たとえばオゼルクのこと。シゼにしか言えない、シゼにしかわからない話がある。だが敷布にくぐもった反論を、シゼがやんわりさえぎった。
「後で。イーツェン、あなたは疲れている」
背中の、傷があるとわかっている場所をあたたかに濡れた布が拭いはじめると、イーツェンは気持ちがやわらかに安らぎ、あらゆることに身がまえていた体が芯からほぐれていくのを感じた。シゼの手はいつものように迷いなく、イーツェンの傷の上を拭っていく。すぐに肌の内側があたたまって、体の芯に居座っていたにぶい痛みとこわばりも薄らぎはじめた。
ずっと息苦しかった心と体が、解きほどかれていくかのようだった。
この手が自分を傷つけないことを、イーツェンは知っている。そしてシゼがそばにいる限り、何がおこっても大丈夫だと言うことも。ここにいればイーツェンは安全だった。枕の下に書類をしまい、神経をとぎすませなくとも、安心して眠れる。もし悪夢がイーツェンをとらえたとしても、シゼが必ずそこから引きずり出してくれる。
城を出てからの日々の間、この旅の間、シゼへの信頼がどれほど自分を支えてきたのか、イーツェンはわかっているつもりだった。だがシゼと離れてみて、どれほど深くシゼに守られていたのか、あらためて思い知る。シゼがいなければイーツェンは決してここまでたどりつけはしなかっただろう。ジノンと対峙して取引を行うことなど、1人ではとてもできはしなかった。イーツェンは自分のためと同時に、シゼのためにも彼らと向き合う決心をし、勇気を振り絞ることができたのだった。
イーツェンの背を拭い終わると、シゼが何か呟いて部屋の中を動いた。まどろむイーツェンの背に、シゼの手がじかにふれる。それは水とは別のものでしっとりと濡れていて、やがて香油の重ったるい匂いが漂ってきた。
シゼの指が背中に香油をひろげていくと、じんわりとした熱が肌の内側に染み入ってきた。香油のもたらす効果なのか、シゼの指の感触に体が反応しているのか、イーツェンにはわからない。だが溜息がこぼれるほど気持ちがよかった。
傷の上をさすって香油をひろげてから、シゼは慎重に手のひらで圧力をかけ、イーツェンの背骨の回りの筋肉をほぐしはじめる。時おり体の内がヒリリと引きつったが、イーツェンは目をとじたまま、シゼの手が背中をゆっくりと動いていく感触を味わった。
傷のいくつかではほとんど何も感じず、別の箇所ではシゼのざらついた指先をひどく敏感に感じとる。いびつなモザイクのように痛みと痲痺が入りまじった感触は、もしシゼ以外の手でもたらされたなら不愉快なものだったかもしれない。だがシゼが細心の注意を払い、イーツェンにすべての神経を傾けている──それが彼の手からイーツェンにつたわってくる。
シゼの手がふれてくる感触、圧力、それにこたえて自分の体がほぐれていく感覚を、イーツェンは心の底から楽しんでいた。
「随分、しっかりしてきた」
手を動かして今度はイーツェンの肩から上腕を押し揉みながら、シゼが呟くように言う。シゼは寝椅子のはじに折った左膝をのせ、腕を揉むためにイーツェンに深く身をかぶせていて、イーツェンは背中の上にシゼの体と、その圧力を感じていた。炎がそこにあるように、ふれなくともあたたかなものがつたわってくる。
イーツェンの筋肉をたしかめるようにすべっていくシゼの指は、いつもより少し強かった。
「たった半月で、変わらないだろう‥‥」
「わかりますよ」
「ほとんど素振りもできなかった。鍋洗ったり、芋剥いたりはしたんだけど」
「あなたは何をしに行ったんです」
少しばかりあきれたような声は、あたたかく、イーツェンは目をとじたまま微笑する。言葉を交わすためだけの意味のない会話で、彼らはお互いにそれを楽しんでいた。
「豆の鞘もうまく取れるようになったんだよ。食いはぐれたら、厨房で働いてもいいな」
「なにかうまそうなものはありましたか」
「遠目で見ただけだけど、雉の腹にあぶった木の実を山ほどつめて蒸し焼きにしてたやつは、おいしそうだった‥‥」
これは掛け値のない本心である。イーツェンのいた厨房は施し用や下働きのまかない用の調理場だったが、どうしてか1日だけ、かまどをひとつ占拠して上等な料理をつくっていた男がいた。浅黒い顔にひげを生やした鷲鼻の壮年で、1人で手際よく次々料理をつくってはどこかへ運ばせていたのだが、イーツェンは自分の作業の合間に、彼の流れるような仕事ぶりをこっそりのぞき見ては惚れ惚れとしていた。
男が、腹の中に詰め物をして蒸し煮にした雉の鉄鍋の蓋を取った瞬間、厨房中が水を打ったように静まりかえった。誰もが匂いの元を求めて手をとめ、頭をめぐらせ、羨望のまなざしで見つめる中、料理人の男だけが黙々と蒸し上がった雉の飾り付けに取りかかっていた。固く焼きあげた飾りパンを羽のように雉の上にのせ、木の実で目や模様を作る。
ああいう凝った料理はユクィルスでも滅多にお目にかかれないし、ましてやリグでは尚更出会えない。リグに戻っても、きっといくつかイーツェンはこの地になつかしむものがあるだろう。
ユクィルスは、嫌なことばかりではなかった──去る手段を手にしたからか、イーツェンの頭にはそんな呑気なことが浮かんできて、彼はうとうとしながら、自分が好きなものをシゼに切れ切れに語る。
「野いちごの蜂蜜がけとか、川魚の甘酢漬けとか、鳩のスグリ煮‥‥」
腹がへってきているのか、食べ物しか思いつかない。
「リグに戻って自分でつくりますか」
シゼの返事はやわらかかった。
「そうだなあ」
敷布の中で笑い、イーツェンはシゼの指が首と肩のつけ根の筋肉にくいこんでくるのを感じて呻いた。首の輪のぎりぎりに指を沿わせ、シゼは首に凝り固まった緊張を容赦なくほぐしにかかってくる。
シゼの手ざわりや温度をあれほど恋しがったのが嘘のようにイーツェンはじたばたと逃げかかったが、シゼはしっかりとイーツェンを寝椅子に押さえつけて離さず、それに文句を言ったり笑っているうちに体の骨が抜けたようになってしまって、やがてイーツェンの意識はやわらかな眠りへと沈んでいった。