あの時、道の左右には腰近くまである草が群れ、中からいきなり獣でもとび出してきそうで、草が揺れるたびにイーツェンの鼓動は早まったのだった。それを思い出しながら、イーツェンは馬上から草むらを見おろす。
シゼとこの道をたどったのはまだ半月ほど前のことなのに、すでに先が黄変した草は重い実をつけ、頭を垂れていた。その実をあさっていたのか、小鳥の群れが近づく馬の足音に一斉に飛び立ち、草に波紋のような揺らぎをひろげる。
道の行く手は丘陵の裾にひろがるなだらかな斜面へ向けてのぼり、草むらの右手にある丘は北側を削いだような奇妙な形をしていた。左手側、道から離れた平地には低い屋根の集落があり、目を凝らせば家の周囲で囲われて飼われている豚や羊が動いているのが見える。
まちがいない。ここをシゼと一緒に歩き、あの集落で聞いて方角を確認し、固く焼きしめた小麦の平パンを、シゼとイーツェンは家畜用の水汲み作業と引き換えに手に入れたのだった。
──近づいている。
昂揚が、イーツェンのまなざしを道の遠い先へと向かわせる。
今日は朝から肌寒かったが、黙って距離を稼ぐにはいい日だった。馬をあまり急がせるのはよくないが、旅の終わりが見えてきているとなれば話は別で、道のいいところでは馬を早足で駆けさせることもできた。
雨のせいで少し足をとられて、予定よりは遅れ気味だ。明日には荘園へつく筈だ、とユジーは地図をにらみながら言い、いくつかの宿屋を通りすぎた。宿に泊まろうとしないのはイーツェンがいるからか、それとも犬がいるからか。その両方かもしれない。首に輪のついた奴隷と獰猛そうな犬というのは、宿の側でもあまり歓迎しそうにない。
とにかくユジーは集落で聞きこんだ、涸れ川の橋の根元にある橋番の小屋を見つけ出し、そこを夜のねぐらに決めた。上手に屋根のある場所を見つけ出すあたりはイーツェンとシゼよりも旅慣れていて、見習いたい。
橋も小屋ももう今は使われておらず、放置された小屋は屋根が一部はがれ落ちていた。意外にも中は板で床がつくってあって、部屋の半分は地面がむき出しの小さな土間になっている。日が傾くにつれて風は肌寒く、たとえ埃っぽい隙間風が壁をカタカタ揺らしているとしても、屋根の下で眠れるのは大歓迎だった。
外の杭に馬をつないだ3人は、鞍をおろして馬の世話をした。ユジーの馬の扱いはさすがに手慣れていて、彼が何か低い声で馬に囁きながら馬の全身を見る間、馬は明らかにくつろいでなすがままにされていた。
イーツェンはいつものようにたたんだマントの下に書類の紙ばさみをしまいこみ、それを枕にしてから毛布で体をつつむ。こうして、靴だけを脱いで昼の服のまま眠るのもすっかり慣れたが、荘館に待っている筈の湯と寝床が待ち遠しい。
固い床の上で寝やすい体勢を探し、左肩を下にして背中に負担がかからない程度に体を丸めると、イーツェンは目をとじる。明日にはつくと、ユジーは言った。このあたりは道幅はさほどないが、きちんと排水の溝も掘ってあって、道はいい。最後の日となれば馬に無理をさせることもできる。距離はかなり押していける筈だった。
やっとシゼの近くまで帰ってきた、そのことだけで鼓動が体の中であたたかく感じられる。明日のことを弾んだ気持ちであれこれ考えているうちに、イーツェンは久しぶりにおだやかな眠りへと引きこまれていった。
喉の奥が締まるような息苦しさがあった。
また夢か、と反射的に心が身がまえる。だがいつもの粘るような嫌悪感ではなく、首すじにちりちりとした寒気がはしって、イーツェンは自分が覚醒してきているのを感じた。目をゆるくあけようとするが、まだ眠気が勝る。全身が疲労で重く、そのまま眠りに沈んでしまいたかった。
だが糸が絡んでいるような緊張が心からとけず、イーツェンはやっとのことで目蓋を上げた。ぼんやりと沈んだ闇があたりを包んでいる。まだ夜中だ。何が自分を起こしたのかとまどう間もなく、その闇の中に何かが動く気配を感じて全身の産毛が総毛立った。
──何だ?
眠りにぼやけている意識が現実を把握するより早く、体が動いていた。枕元に手をのばす。
指の中に誰かの手首をがっちり握りこんだ瞬間、何をされていたのか気付いて背すじが凍った。イーツェンが枕に使っているマントの下に手を入れ、中にあるものを探ろうとしていたのだ。眠っているうちにイーツェンの頭はマントからずれ、手をさしこむだけの余地が生じていた。
そしてつかんだ手首の細さから、相手が誰かはすぐにわかった。
──アルセタ。
まるで裏切られたような痛みと怒りが体を突き抜けて、イーツェンは振りほどこうとする手首を握りこんだままはね起き、左肘をアルセタの胸元へ突き入れて体重をのせた。体をぴたりと相手に合わせ、逃げられないよう服を指の間にたぐりこみながら、アルセタの体を床につき転がす。
わずかな月明かりが破れた天井からさしこんでいる。人の輪郭はうす暗い闇に沈んでいるが、イーツェンの動きはアルセタの重心をとらえたようで、2人の体は重なり合って床へ倒れた。
「離せよ!」
悲鳴のような声が上がってもイーツェンは容赦しなかった──できなかった。金目のものを探るというならまだわかる。だがどうして、何の目的でアルセタがこの書類をほしがるのか。誰の差し金なのか、彼には知る必要があった。
ジノンやセンドリスではないだろう。それともこの2人を連れにつけたことには、イーツェンの読めない深い意味があったのだろうか? だがジノンとの取引は、イーツェンが無事にリグへ戻ってこそ意味があるものだ。イーツェンがユクィルスから出るのを妨害するならもっと簡単な手段がある。ほかの勢力にちがいないが、直接身柄や命を狙わず、国を出るための書類に手をのばしてきたのがひどく不気味だった。
暴れる体を押さえこむのは、体格差があってもたやすくはなかった。髪を引かれて痛みが走る。もつれてつかみあい、蹴り合う中、イーツェンはどうにかアルセタの体をうつぶせにして後ろ手にねじり上げた。その両手をまとめてつかもうとしている時、小屋の入り口がほとんど蹴破られる勢いであいた。
「どうした!」
大声を鳴り渡らせて、ユジーが駆けこんでくる。その後ろから獣のうなりも聞こえたが、イーツェンはひるまずににらみつけた。たとえ全員と対峙しなければならないとしても、引き下がるつもりはない。最悪、アルセタを盾に取るしかなくとも。
「どうしたと思う」
激しく言い返したイーツェンに、ユジーは足をとめた。彼の立つ土間までは戸口から月光がさしこんで、男は薄青い暗がりの中で、ありありと当惑した様子で立ちつくしていた。
「灯りを!」
イーツェンは叩きつけるように命じながら、のがれようとするアルセタの背中に膝を押しつけた。痛みで動きをとめるようなことはしたくないが、いざとなればやると、体重をかけて警告する。その時がくればためらうなと、シゼはイーツェンにそう教えた。シゼのところに無事に戻るためならばイーツェンは何でもする覚悟だった。
息をつめて反応を待つイーツェンの前で、ユジーは動かなかった。その足元ではウィスカドスが背を丸め、牙を剥いて主人の合図を待ちかまえている。月光を背にした彼らの姿は黒く、夜に大きく浮き上がって見えた。
荒い息をととのえようとしながら、イーツェンは汗ばんだ拳を握る。全身に吹いた汗は、今や肌をつめたくつたい落ちていた。アルセタは動かなくなっていたが、それがあきらめからなのか、ユジーの助けを待っているからなのかわからない。
眠る前にそろえて置いたブーツのそばには、短剣がある筈だ。だが護身のためと言うよりチーズやベーコンを切って食べる道具に近い。ならば、荷物の脇にあるカシの枝の方がまだ得物として使えるだろうか。それにとびつくためには押さえているアルセタを離さなければならないが、闇の中で目当ての武器をつかんでかまえるまで、どれだけかかるだろう。もし小屋を逃げ出せたとして、犬が追ってくればイーツェンなどひとたまりもない。逃げきるためには馬が必要だ。
いくつもの思惑が濁流のように渦を巻いてイーツェンの中を流れていく。動くのがいいことなのかどうか判断がつけられないうちに、ユジーが先に動いた。イーツェンは息を呑んで男の動きを追う。
ユジーは彼らに近づかず、土間の隅へ2歩で行ってしゃがみこんだ。犬はその場でかまえたままだ。カチカチッと火打金を打ち合わせる音とともに火花が散り、裂いてあるやわらかな繊維に炎がうつると、ユジーはそれをつまみ上げて油燭の灯芯に火をともした。
闇に慣れた目にはまばゆいほどの黄色い光の輪がかがやく。その油燭を右手に下げたユジーはちらりと犬に目をやって、イーツェンの知らない言葉で何か言った。犬は素早くその場に伏せ、耳をピンと立てたまま動かなくなる。
油燭を持ち上げ、イーツェンがアルセタを組み伏せている様子を見て、ユジーの眉が上がった。イーツェンは緊張に荒くなる息を抑え、挑むように男を見上げる。背すじから汗がつたい落ちた。背骨の芯に痛みがあるが、今のところは無視できる。
ユジーは口をあけ、それからまたとじた。何を言っていいかわからない様子で床へ油燭を起き、床に押しつけられたアルセタの顔をのぞきこむように身をかがめた。
「セティ」
イーツェンがはじめて聞く愛称で呼び、ユジーは眉間をしかめてイーツェンを見た。
「どこに手をつっこんでた?」
その問いにイーツェンは驚いたが、抑揚を殺して答えた。
「私が頭の下に敷いているマントの中に」
ユジーは口元を引きしめてうなずくと、アルセタの前へしゃがみこみ、腕をのばしてアルセタの後ろ襟をひっつかんだ。あまりの勢いにイーツェンはアルセタを離す。離さなければアルセタの肩をひどく痛めかねないほどの勢いだった。
ユジーはアルセタのシャツをつかんで力まかせに引きずり上げ、大きく前後に揺すった。
「アルセタ!」
アルセタは光を避けるように両手を顔の前で交差させ、ユジーの視線から顔をそらした。イーツェンは2人が小さくもみあう間に、紙ばさみが無事なところにあるのを確かめ、手で探りあてた短剣を腰の後ろにはさむ。カシの棒も拾い上げ、動悸を抑えながら油断なく2人の様子をうかがった。
ユジーはイーツェンにはかまわず、アルセタの細い体を今にも折れそうなほど容赦なく前後に揺すった。アルセタはもう逆らおうとはせず力の抜けた人形のように揺られ、ユジーの顔は苦痛と怒りともつかないものに歪んで、言葉は叩きつけるようだった。
「2度とやらないと約束しただろうが!」
「だ‥‥って」
泣いているのだと、その引きつった声からイーツェンが悟るまで、少しかかった。ユジーがもし肩にくいこませた手を離せば、アルセタの体はその場に崩れて粉々になってしまいそうに見えた。
「‥‥大事そうに、してたから」
そう聞こえた言葉の意味が、イーツェンにはよくわからなかった。ユジーは大きく口元を歪め、振り上げた右腕でアルセタの顔面を殴りつけた。イーツェンははっと息を呑んで、床へ叩きつけられるアルセタの細い体を凝視する。
殴った手をふるえる拳に握り、体の脇へ垂らして、ユジーは薄い壁が震えるほどの大声で怒鳴った。
「出てけ!」
「ちょっと──ちょっと待って」
思わずイーツェンは手をのばしてユジーの肩にふれた。かすかにふれただけでどれほど彼の筋肉がはりつめているかわかる。今にも凶暴なものがはじけそうな熱があった。
火にふれたようにあわてて手を引き、イーツェンはぎろりと彼をにらむユジーに訴えかけた。
「この子1人で出てけって、そんなのあまりに無責任だろう!」
何で自分がこんなことを訴えているのかさっぱりわからないまま、目のすみで、よろよろと立ち上がるアルセタの姿をとらえる。アルセタは低いすすり泣きを口から洩らしながら、自分の寝床にしゃがみこんで少ない荷物をまとめはじめていた。
ユジーはイーツェンへ歯を剥くように、険しい顔で言い返した。
「あんたは首をつっこむな」
目尻が吊り、頬が歪んで、温和な顔が別人のように獰猛になる。腰が無意識に引けたが、イーツェンは踵を床に押しつけながらその場に踏みとどまり、怒鳴った。
「彼が盗ろうとしたのは私のものだぞ。私にも関わりがある!」
「だから何だ。こいつの手を落とすか、指を落とすか!」
2人はほとんど唾がかかるほど近くで顔をつきあわせて怒鳴りあい、互いに荒い息をついてにらみあった。イーツェンはぎりりと奥歯を噛む。彼が言葉を見つけるより早く、ユジーがむっつりと言った。
「このまま放っときゃいずれそうなるんだ。こいつはいつか吊るし首になる。下手すりゃ俺も道づれだ」
罪の対価として物盗りの指を落とすことがあるのは、イーツェンも知っている。人の財産に手を出すというのは、時としてひどく重い罪として扱われた。
それは、知っている。そしてアルセタがイーツェンの書類に──どうしてか──手を出したことにイーツェンははらわたが煮えくりかえるほどの怒りをおぼえていたが、そのことと、アルセタを1人で夜の中へ放り出すことは別だった。
「でも──」
激情にまかせて何を言うつもりだったのか自分でもよくわからないが、その時、風が絞り出すような細い音が静かにひびいた。イーツェンは言葉を切り、悲しげな音の元を探して首を回した。ユジーも彼と同じように視線を左右へとばす。
いつのまにかウィスカドスが土間からのぼってきて、荷物を結んでいるアルセタにすりより、鼻から抜ける細い声で途切れ途切れに鳴いていた。あの大きな体のどこから出るのかわからない、子犬のような声だった。うつむいたアルセタの首すじに鼻先をすりつけている。
イーツェンは言葉を失って、深い息を吐きながら両手の拳をゆるめる。ユジーはじっと1人と1匹を見ていたが、肩を重く落とし、口の中で「くそッ」と毒づいて床をブーツの底で蹴りとばした。
「ウィスカドス! 来い!」
アルセタの頬を最後になめてから、犬は尾を垂らし、すごすごとユジーを追う。ユジーは背を向けたまま、歯の間からきしり出すような声で言った。
「寝ろ、アルセタ」
「ユジー!」
ずっと黙っていたアルセタが甲高い悲鳴のような声で呼んだ。その声は小屋の壁に反響し、イーツェンは痛々しいひびきに耳をふさぎたくなる。
ユジーは荒々しく小屋を出ていき、男と犬を闇の中に呑みこんで、扉は叩きつけるようにしまった。
目覚めて最初に確認したことは、胸にマントごとかかえこんだ紙ばさみの存在をたしかめることだった。それが確かにあると手でふれてほっとし、イーツェンは薄闇の中で起き上がる。体が重く、あまり眠った気がしない。
毛布のかたまりが部屋のすみで丸くなっていた。多分、あれがアルセタの筈だ。イーツェンは重いこめかみを揉んで溜息を殺し、ブーツを履くと、こわばった背中に気をつけてそろそろと立ち上がった。
紙ばさみを小脇にかかえ、マントを右肩だけではおって小屋の表へ出る。
まだあたりはうす暗かったが、木々の形はほのかに見えていて、鼻から喉へすがすがしく流れこんでくる空気は朝のものだった。土と草の匂いがする空気を吸いこみ、吐き出すと、体に溜まっている澱みがどこかへ溶け出していく気がする。
小屋から少し離れた、かつて川底だったところでユジーが小さな火を焚いていた。イーツェンに気付いているのだろうが、足音をたてても見向きもせずに火に向かって前かがみに座り、男は口にくわえた短い煙管から煙を漂わせていた。
川がいつ涸れたのかはわからないが、細い河床へおりる斜面はやわらかな苔に覆われて、踏む足がいちいち沈む。足元がうすぼんやりとしか見えない中、イーツェンはゆっくりとユジーへ歩みよった。
黄色い炎が男の顔に険しい影をつけていた。幅広い、厚い唇の横に深い皺が刻まれ、煙管の先だけでなく、唇の間からもうっすらと白い煙がたちのぼっていた。
イーツェンが下へおりようともたついている間に空は白みはじめ、木々の間にはつめたい朝霧が浮かんでいた。イーツェンはマントを肩からかけ直してユジーに近づく。
「石でできているのか?」
声をかけられてはじめて気付いたとでも言うように、ユジーはイーツェンへ顔を向け、口から煙管を取って唇のはじだけで笑った。
「海泡石だ。吸うか?」
「いや」
手を振って、イーツェンは火のそばの乾いた落ち葉の上へ座りこんだ。ユジーが手にした煙管はイーツェンが見慣れない縦型のもので、丸くふくらんだ火皿の部分は古びた琥珀色の石でできていて、それを綺麗だとは思ったがイーツェンは煙管を好まなかった。
2人はそのまましばらく、火の色を見ながら赤らんでいく空の下で黙って座っていた。イーツェンはユジーが渡してきた水筒の水を飲み、それを返して、かかえこんだ膝に肘をつくと重ねた手の甲に顎をのせた。
「ウィスカドスは?」
「呼べばすぐ来る」
ユジーはぶっきらぼうに答えた。昨夜の一件からすっかり態度がくだけたものになったのは、悪いきざしではないのだろう。とりあえずイーツェンはそう解釈していた。
大柄ではあるが、ユジーの動きはいつもやわからい。唇に煙管の吸い口をあて直して目をほそめ、目尻の皺をきつくして、彼はそのまま漂う朝もやを見つめていた。
イーツェンは薄い痛みが粘りついている背中をくつろげようとしながら、崩れた橋へと視線を向けた。丸木で組んだ素朴な橋は、橋脚部分以外の木材はほとんどはぎ取られ、残ったわずかな橋板も風雨に崩れていた。苔がうっすらと橋全体を覆っていて、ひどく古ぼけた印象を与える。蔦が橋脚に絡んで細長い葉むらの中には赤い小さな花が揺れ、早朝のもったりとした空気の中、目ざめの早い蝶がひらひらと花から花へ流れていた。
「‥‥すまなかった」
目を戻し、イーツェンは男が深々と頭を下げているのを見た。それこそ地につきそうなほど深く。白髪のまじった褐色の髪とつむじを眺め、イーツェンは溜息をついた。
「あの子を本気で追い出す気だったのか?」
「‥‥‥」
しかめた顔を上げて、ユジーはぼさぼさの髪に指をつっこんでかき回す。
「あれは」
言葉を探してしばらく宙をにらんでから、盛大な息をついた。
「わからん。でもとめてもらってよかった。‥‥本当にすまなかった」
「前にも、やったことがあるんだね」
「あいつは物を盗る気はないんだ」
言ってからイーツェンの表情に気付き、ユジーは煙管を持った手を上げて申し訳なさそうにイーツェンの反論を押しとどめた。
「つまり。‥‥金がほしいとか、そういうんじゃないんでな。もう食うに困っているわけじゃないし。ただ、今でも、人の大事にしているものにさわりたがる」
「‥‥‥」
「そればっかりは、俺にはどうにもできん」
溜息のようなユジーの言葉に何と言ったものかわからず、イーツェンは首をひとつ振った。勝手な言い分をと思いはしても、その怒りを目の前の男にぶつける気にはなれない。話題をそらそうと、2日前から気になっていたことをたずねた。
「あの子は、どうして男のなりを?」
するどく頭を上げたユジーに首を振ってみせる。
「話せないことなら答える必要はないけど、ちょっと気になって」
人の秘密をあばきたてることに興味はない。ただイーツェンは、雨の中で夜盗にかかっていこうとしたアルセタを押しとどめて抱きかかえた時、アルセタが少年ではなく少女であることに気付いたのだった。そうと思って見れば、骨格も顔も華奢で、それが年よりも幼く見える要因のひとつなのだろう。背丈からすると15歳はこしている筈で、男に化けていられるぎりぎりの年齢のように思えた。
ユジーは無精ひげの散る顎をばりばりかきむしるようにかいて、太い首を左右に曲げた。
「ま、たいがいは男にしといた方が面倒が少ないもんで」
どこか人を食った答え方からでは、それが本当の理由なのかどうかわからない。だがイーツェンはそれ以上踏みこまなかった。彼らは、イーツェンの首の輪の理由も、ジノンとの関係も聞かなかった。聞かずに、ただの客としてイーツェンを扱い、イーツェンとともに旅をしてくれた。彼らに秘密があるのならそれは尊重したいと思う。
かわりにもうひとつ、たずねた。
「だから木剣を振っているのを見て嫌な顔をしたんだ?」
「いや‥‥」
言いよどんで、ユジーは顔をよりいっそうしかめた。愛嬌のある顔が額から目元、口元まで渋い皺をたくさん刻むと、何だかイーツェンが城で舞歌を教わった楽師の男に似ていて、少しだけなつかしい。顔に似合わず美しい声の男だった。
「俺にはよくわからんのだがなあ。あいつには、刺したい相手がいるんじゃないかと思う。だから、剣を持たせたかねえ」
妙に伝法な口調で言うと、ユジーはまたむしるように頭をかいた。イーツェンは膝に頬杖をつき直す。ユジーが戦う姿を見たアルセタが、手斧を手にして盗賊につっこんでいこうとしたことを、この男は知っているのだろうか。
「あの子は、そういうことのために強くなろうとしてるんじゃないと思うけどな」
そう言ってみると、ユジーはおろしていた煙管を口元に運んで、苦そうに煙を吸いこんだ。ひとまずイーツェンは話題を変える。
「いつから一緒にいるの?」
「‥‥3年、かな。もうちょっとかもな」
「そう」
それ以上男が何か言うかとイーツェンは少し待ったが、ユジーは何も言わずに、彼らの間には曖昧な沈黙が落ちた。イーツェンはかすかに煙の匂いのする朝靄を吸いこんで、背中のこわばりをできるだけゆるめようとしながら、膝の内側にかかえこんだ紙ばさみへちらりと目をやった。
イーツェンが大事そうにしていたからその紙ばさみがほしかったのだと、アルセタは昨夜、そう言った。その理由はイーツェンには納得できない──あまりにも子供っぽく勝手な言い種だ。だが、絞り出すようなあの声とすすり泣きを思い出すと何ともやりきれない気分になって、油紙できっちりと包んだ小さな紙ばさみを指先でなでた。
イーツェンにとってこれは何にも代えがたいほど大事なものだ。だが、アルセタが手にしたところで何の役にも立たないものでもある。焚き付けにするくらいしかあるまい。それでも何かがほしくて、これに手をのばした。
怒りとともに、理屈のない罪悪感が胸の奥にちりりと動いて、気持ちが落ちつかなかった。
うまくいけば今日には別れる相手だ。気にするほどのこともない、筈の相手。
だが溜息をつき、イーツェンはじっと地面を見つめているユジーの方へ少し身をのり出した。
ユジーに許可を取って手斧を借り、火のそばに戻ると、イーツェンはしばらくそこに座ってカシの棒の握りを削り出す作業に熱中した。棒を火で少しあぶっては、表面を削ぐ。
手斧はリグで焚きつけの小さな木っ端をつくったりするのによく使っていたが、ユジーの手斧はこの作業には大きくて重すぎ、苦心しているうちに陽はすっかりのぼってしまっていた。
アルセタは起きてきたが、火やイーツェンのそばへ寄ろうとはしなかった。馬を引いて水を飲ませに行き、木の枝に吊った毛布やマントを枝で叩いて埃や虫を振り落としている。イーツェンは時おり振り向いてその様子をうかがったが、アルセタの表情はよく見えなかった。
ユジーは適当な枝に固いパンを一列に刺し、火であぶると、その上に分厚いチーズをのせた。一切れをイーツェンへよこす。
「ほれ」
「ありがとう」
まだ熱いパンのはじをかじりながら、イーツェンはユジーが朝食を手にアルセタへ歩みよっていくのを見送ったが、パンをやりとりする2人の間に会話らしい会話はなかった。
いつのまにか戻ってきていたウィスカドスも不穏な空気を感じとってか、尾を垂らしたままアルセタの足元をうろうろしていた。歩き出そうとしたアルセタが大きな犬につまづきそうになって、イーツェンはちょっと笑う。それからパンを大きく噛み切り、舌の上に流れたチーズの火のような熱さに目を白黒させながら、無駄に大きな息をついた。
昼の休憩もほとんど取らず、3人は黙々と馬を進めた。アルセタは肩を落としてしょんぼりとしていたし、昨夜ユジーに殴られた頬にはくっきりと赤い鬱血が残っていた。顎のあたりに赤黒い痣があるのはイーツェンが彼の──彼女の?──顔を床に叩きつけたせいかもしれない。少し気は引けたが、イーツェンにあやまるつもりはなかった。自業自得というものだ。
3人の間の空気は重苦しかったが、イーツェンの気持ちはもうそこにはなかった。見おぼえのある集落を通り、半月前にイーツェンとシゼがとらえられ、追放された村へと入る。頭から袋をかぶされて馬に乗せられた時のことを思い出すと今でも冷や汗がにじんでくるが、どれほど近づいているか知るたびに心がはずんだ。
イーツェンは馬上でマントのフードを深々とかぶって、顔を覆っていた。ユジーはフェインの許可状を村長に見せて、村を通り抜けて荘園へと向かう許可をもらう。
荘館が近づくとイーツェンはたまらずフードを背中へのけ、頬にあたる風に早くなる鼓動を抑えながら、四方の畑や果樹園、その間をつなぐ道をゆっくりと行き交う人々を眺めた。すべてがひどく平和で、ここでは時間がゆるやかに流れているかのようだった。だがそれが丁寧にはりめぐらされた監視の網によって守られているものだということも、イーツェンは身をもって知っている。
イーツェンは馬の腹に踵を入れると、前を行くアルセタの隣にならんだ。アルセタはちらっとイーツェンを見たがすぐに前を向いて、唇をきっと結ぶ。まだ目が赤かった。
太腿の後ろにあたる鞍袋に手をのばし、イーツェンはこの2日持ち歩いていたカシの棒を引っぱり出すと、それをアルセタへさし出した。
「あげるよ」
「‥‥‥」
口をぽかんとあけてから、アルセタはあわてて左手を手綱から抜き、イーツェンが投げた棒をつかんだ。イーツェンが朝のうちに手斧の背を使って樹皮をこそげ落とし、アルセタの手にも合うように握りを細めに削り出したもので、ただの棒よりは訓練用の木剣に近くなっている。
「ユジーが練習につきあってくれるってさ」
そう言うと、アルセタの両目がこぼれるように大きくなった。イーツェンはうなずいて、馬を後ろへ下げる。
アルセタが馬を早めてさらに前のユジーに追いつき、カシの棒を見せて何かしきりに2人で話す様子を、イーツェンは距離を保ったまま後ろから眺めていた。
木剣を振ったところで、人はそう簡単に強くはなれない。ユジーはそう言ったし、イーツェンもそれは同感だったが、逆に振ってみなければ自分がどれだけ弱いのかもわからないのだ。それがわからないうちは、アルセタはいつまでたっても手斧をつかんで野盗につっこんでいこうとするだろう。
ユジーは剣の振り方を教えることには反対だったが、護身の必要には同意したし、「何回か叩きのめした方が簡単かもな」と不吉なことを呟きもした。まあ、実際にこの男がアルセタを容赦なく「叩きのめす」ことができるとは、イーツェンには思えなかったが。
うまくいけば、あの木剣はユジーとアルセタが向きあういい手段に──少なくともその1つになるかもしれない。壮年の男は年下の少女をもてあましているようで、動物の扱いを教えて寝床を与えること以外、どうしたらいいかわからないようだった。ユジーは愛嬌のある男だが、そんなところの不器用さはどことなくシゼに似ていて、イーツェンの微笑を誘う。
カシの棒1本で何かが変わると、そんな甘いことはイーツェンも思ってはいなかったが、気分だけでも変えるきっかけになればいいと、アルセタとユジーが今日はじめて笑いあっている姿にイーツェンは目をほそめた。
畑を囲む水路の大半は水門がしめられて涸れ、3人は乾いた水路に掛けられた板橋を渡った。畑の柵を直している人々の姿を左手に見ながら、館へと向かう最初の門柱を通りすぎる。蕪や豆はまだ残っていたが、畑の半分は刈り株ばかりで、人間にまざって豚がうろうろと歩き回りながら刈り残しを鼻で掘りおこすように食べていた。
イーツェンは作業の様子を何気なく眺め、前を向いてから、ふっと顔を戻して奥の畑で作業をしている人々をもう1度見つめた。男女の見分けもほとんどつかないほど遠く、顔などとても見えたものではないが、地面に立てた梯子に乗って大槌を持ち、棒杭を土に打ちこんでいる姿に目が吸いよせられる。槌を振り上げたするどい動きに、見おぼえがある気がした。
──シゼか?
呼んでみようかと口をあけてから、距離がありすぎることを考えて口をとじた。手を振ろうかと思ったが、向こうからイーツェンだとわかるとも思えず、人違いのような気も大いにするし、かと言って馬からおりて畑を走って確かめに行くわけにもいかない。結局、イーツェンは未練がましく振り返りながら、門をくぐった。
周囲の皆と協力しながら作業をしていた様子だが、仲良くなったのかなあと思いながら、イーツェンはこっそり自分だけで笑った。シゼだったのかどうかはわからない。だが、イーツェンを待つ間にもこんなところでしっかり働いているとしたら、それはあまりにもシゼらしい気がした。