濃く煮出されたカルザ豆の茶を一口飲んで、喉の奥から鼻に抜けていく甘い香りと舌の酸味を味わいながら、思わずイーツェンは微笑していた。
なつかしい。
「どうだ?」
と、目の前の男はどこか心配そうに目をほそめる。イーツェンは顔をあげ、うなずいた。
「美味しいです」
「ほかには? ──遠慮なく」
「いえ‥‥その」
口ごもったイーツェンを見て、ジノンは口のはじにゆるい笑みを浮かべた。目の奥がきらりと光る。はじめの印象よりずっと子供っぽいと、イーツェンは頭のすみで思った。たまに彼は、年下のオゼルクと同じほどの年に見えた。今のように好奇心を全面に押し出している時には、特に。
「遠慮はするなと、私に何回言わせるつもりだ、イーツェン?」
「え──、と」
「ほら」
まるで友人同士のようにくだけた口調でうながす。気難しいという噂もちらほらと聞いたが、ジノンはイーツェンにはいつも親切だった。それでもどこか及び腰のまま、イーツェンは慎重に口を開く。
「少し‥‥黴びっぽい」
「豆が古いか?」
眉をよせるジノンへ、イーツェンは首を振った。
「この豆は、乾燥させて、長くもたせるものです。時間がたてば熟成する。ただこれは‥‥乾燥が足りないみたいですね」
「陽に干すのか?」
「日陰で、風通しのいいところに。表面に黴びがつきやすいので、乾かしてからやわらかい麻のほうきで表面をきれいに払います。夜露がつかないように夜はしまって、それを十日ほど続けたら、布の袋にしまって乾いたところに保存すれば、何年ももちます」
「くわしいな」
イーツェンは、故郷に近い場所で採れる豆を煮出した茶をもう一口飲んで、うなずいた。
「修道院で作っていました」
「ふむ」
テーブルの前のソファに座り、組んだ足に手をのせて、ジノンは目の前に置かれた一つかみほどの豆に視線をやった。黒に近い暗緑色の豆は、不格好な楕円形で固い殻をまとっている。それを見つめる青い目が一瞬の物思いに色を深め、それからジノンは乾いた視線をイーツェンへ戻した。
「王子が修道院に入るというのは、リグでは普通のことなのかな?」
一瞬、イーツェンはぎくりと動きそうになる表情を抑えた。ジノンは、リグの風習やイーツェンの故郷での暮らしぶり、リグ近辺の産物などの話を聞くのが好きで、今日もカルザ豆をどこからか手に入れてイーツェンにふるまっていた。
この問いもそうした話の一環であって、何ら意図をもった質問ではないと──そう心に言い聞かせて、イーツェンはジノンの深い青の目を見つめ返す。
「私は子供の頃、あまり体が丈夫ではなかったので、施癒師のいた修道院で育てられたんです。大きくなってからは、離宮と両方で育ちました」
「兄弟と離れて?」
「大半は」
「淋しいだろう、それは」
あなたには想像もつかないほどに──と、イーツェンは頭の中だけでつぶやく。だが決して口には出してならない言葉だった。この城の誰にも。たとえ、シゼにも。
「よくいっしょに遊びましたよ、離宮で」
「家族に会いたくないか?」
無言で、イーツェンは手にした陶のカップを見つめた。それは何日か前、自分がシゼにたずねたのと同じ質問だったが、こうして自分に向けられた問いは何かの罠のように思えた。ジノンは顔色を読むかのようにじっとイーツェンを見ている。それともそれは、単にイーツェンの警戒がそう思わせているだけだろうか。
イーツェンは無理に笑みをつくった。さぞや固い表情だろうと思ったが、かえって好都合だった。正直な言葉を吐く。
「ジノン。失礼ながら言わせていただくと──それは、卑怯な質問ですよ」
城の許可を得ずに帰ることはできない以上、イーツェンが何を望んでもどう答えても、虚しい。それを充分に言葉の外ににじませた。
ジノンはちらっと睫毛を動かし、両手のひらをあげた。声はおだやかで、何ら含むところのないものだった。
「正しい。申し訳ないことを聞いた、イーツェン。許してもらえるか?」
「勿論」
イーツェンはまじめな顔をしてうなずく。二人は視線をあわせて、同時に淡い微笑をこぼした。まるで友人同士のようだと、イーツェンはそう思う。‥‥まるで。
ジノンの部屋を辞したイーツェンは中庭に面した開廊を歩いていたが、ふと足をとめてしたたるような緑が夏の陽射しに照り映える庭を眺めた。この奥まった中庭は果樹や薬草苑が雑然といりまじり、その間を飛び石が配置されて通路になっている。中央の庭園はきれいに手入れされ人工的にととのえられているが、イーツェンはこの中庭の方が好きだった。
じき、夏の盛りになれば、ここに涼のために小さな水路を作るのだと言う。すでに開廊の中央にはかわいらしい水妖の彫像で飾られた水盤が据えられ、張られた水に花が浮いていた。
石造りの城内は風の通りが悪いとは言え、ユクィルスの夏は故郷のリグよりすごしやすかった。リグの短い夏は時にひどく暑く、蒸した風が小さな谷に溜まる。それでいて冬はうずたかく積むほどの雪が降った。
去年の冬、ユクィルスにも雪は降ったが、それはほとんど残ることなく消えてしまい、まだらに汚れた土を見て、イーツェンは故郷の厳しいほどの白さをなつかしく思ったものだった。
木の影で太った猫が昼寝していた。イーツェンは廊下の屋根を支える列柱の一本に手をもたせかけ、猫が怠惰に揺らしている茶色い尾の先を眺めた。
ふう、と溜息をつく。
ジノンと話すのは楽しかった。彼はルディスのことや、イーツェンとオゼルクのことについて──どこまで知っているかはわからないが──何も言わなかった。ルディスとのあからさまな場面を見たはずのあの日でさえ、一言もそれについてはふれず、ただイーツェンを茶でもてなし、リグの話を聞きたがっただけだ。
それ以降、ジノンは時おり彼を茶に招いた。仕事のためだとジノンは言ったし、今日もカルザ豆を産物として扱うことを考えて話を出したようだが、イーツェンを自分の仕事の道具のように扱っているわけではなかった。あくまでイーツェンへ対等に接し、その脚が鎖でつながれていることなど気にも留めていないかのように屈託がなく、彼らがすごす短い時間をジノン自身、くつろいでいるかのように見えた。
(だが、彼は城の人間だ──)
「殿下」
背後に控えていたシゼが低い声で呼んだ。イーツェンははっと猫から目をはなしてシゼを振り戻り、その視線を追って廊下の先へ顔を向けた。近づく足音の主に気付く。背すじをのばして表情をつくり、彼は腰から体を曲げて一礼した。
シゼがすばやく後ろへ下がったのが目のはじに見えた。
イーツェンの眼前までゆっくりと歩み寄り、オゼルクは品のいい微笑を浮かべて軽く礼を返した。
「新しい服だね、イーツェン。よく似合っている」
「リグから送られた布です」
イーツェンは笑みを返した。それが苦痛だということを精いっぱい悟られないように。だがオゼルクは悟っているはずで、結局のところ彼の芝居は茶番にすぎなかった。
リグからの布は叩いてよくやわらかくした麻糸を綿糸と織りあわせたもので、思いのほかに涼しく、袖の短いローブに仕立てた淡い草色の服をイーツェンも気に入っていた。
「よかったな」
オゼルクはうなずく。さすがに今日はいつもの手袋を身につけていなかったが、相変わらず黒いシャツに黒いズボンをまとい、金糸を織り込んだ黒絹の腰帯をゆったりと巻いていた。長い髪を首の後ろで雑にまとめただけで、マントも身につけていない姿は、城の若い侍従のようだった。
淡い青の目でじっと凝視され、イーツェンは言葉を出せずに立ちすくんだ。オゼルクの目はいつものようにひややかで、まっすぐイーツェンを見据えて逃げ場を与えない。皮膚の内側までのぞきこんでくるような目だった。
その目で見られるとまるで裸にされているような気がして、喉が息苦しくつまる。いったいオゼルクは、イーツェンの中に何を見ようとしていると言うのだろう。
オゼルクの後ろには書類箱を手にした侍従が立ち、開廊を行き交う召使いの姿もある。人目のない場所ではないというのに、そうして強い視線にとらえられていると、オゼルク以外の存在を意識するのはひどく難しかった。イーツェンは手をのばして円柱にふれ、なめらかな石の表面をくいこむような強い指でつかんで、息をとめたまま次の言葉を探す。
頭の中に鉛がつまったように感覚がにぶく、思考が重い。一瞬前までたしかに肌にふれていた夏の陽気をおびた風すら、もう感じられない。体の奥底に自分自身が縮んでいくようだった。冷たく、凍りついて。
何かを言おうとした。だが何も、声にはならなかった。
ふっとオゼルクが微笑した。イーツェンを見つめる目は笑っていない。
「気分が悪そうだな。塔へもどるのか?」
イーツェンは柱についた手で体を支え、やっとのことでうなずいた。オゼルクは歩き出しながら、低い声でそっと言った。
「そうか、では、明日。食後酒でもいっしょに?」
「‥‥‥」
無言のまま、イーツェンは頭をさげる。通りすぎていく足音がやがて遠ざかり、崩れかかる彼をすばやく身を寄せたシゼが腕で支えたが、イーツェンはそれを乱暴に振りほどいた。
「一人で歩ける」
シゼは彼を間近に見つめたが、その顔にほとんど表情はなく、イーツェンが体勢を立て直したことを確認してから腕を引いた。
イーツェンは荒い口をきいた自分自身に狼狽していたが、何かとりつくろおうにも言葉が出てこない。下を向くと、彼は鎖が張らないぎりぎりの歩幅でできるかぎり足早に歩きはじめた。
とにかくどこかへ、消えてしまいたかった。
恐怖、だろうかと、イーツェンは自分の寝台に座り込んでぼんやりと考える。オゼルクに感じているのは。
手の中で、からからと豆がふれて音が鳴った。ジノンは、小さな布に包んだカルザ豆をひとつかみ、イーツェンに寄越した。豆をいくつか手のひらにのせてもてあそびながら、イーツェンは、修道院で豆を陰干しにしていた時のことを思い出していた。まだ小さいイーツェンを、導師が叱りとばしながら一つ一つの作業を教え、一袋分の豆を彼専用の「仕事」として与えたのだった。その一袋の豆は、イーツェンだけが手をふれていいものだった。朝昼晩と張りきって見回っては根気よく乾かし、春まで熟成させると、導師はその豆で甘い香りの茶を煮出してイーツェンにふるまった。あの時の味は忘れがたい。
あのころは、自分がこんな道をたどるとは思ってもいなかった。
(それでも意味はある──)
ここにいることに、意味はある。何度もくりかえした言葉を、イーツェンは口の中で音をたてずにつぶやく。意味はある。そのはずだった。
彼がつづった返事の手紙は、いつリグに届くのだろう。大したことを書けるはずもなく、ただイーツェンは自分の身の安寧だけを書きつらねた。ほかに何が言えるだろう。脚を鎖でつながれ、身に辱めを受けていると書いたところで、彼らにイーツェンを救うすべはない。だがそうとわかっていても時おり、発作的に何もかもを打ち明けてしまいたくなる。
──大丈夫、元気でいる、それなりに楽しくすごしている‥‥
この城での暮らしは決してつらいものではないと、無事でいると、そう幾重にも書き重ね、そのたびごとにイーツェンは己を笑うしかなかった。その言葉のあまりのばかばかしさに。
手紙は、城の目を通してから、リグ行きの隊商に託される。オゼルクはそれを読んだのだろうと思うと、イーツェンの胸の底にじわりと悪寒がひろがった。オゼルクはそれを読める立場にあるし、かつてイーツェンの手紙を読んだことをはっきりと知らしめたこともあった。
彼は、どう思っただろう。笑っただろうか。イーツェンの空虚な嘘を読んで。それとも憐れんだだろうか? いや、イーツェンの苦悶など、オゼルクには何の感情ももたらさないかもしれない。ただ手の届くところにある玩具をもてあそぶように、オゼルクはイーツェンを抱いては追いつめるようなことを続けてきたが、イーツェンに感情的な執着を見せたことはなかった。
イーツェンを支配し、彼を傷つけ、それを見て楽しんでいる。オゼルクが決して残酷なだけの人間ではないことをイーツェンは知っていたが、それだけに、彼がひややかな顔を見せた時の冷酷さはイーツェンを怯えさせた。
抱かれるだけなら、オゼルクの方がルディスよりはるかにたやすい。体だけなら。
だがオゼルクに抱かれるたびに、イーツェンは自分のどこかが削ぎおとされていくような気がする。愛もなく、ルディスのようにあからさまな欲でもなく、オゼルクはイーツェンを快楽で支配して、存在することすら知らなかった闇の中へひきずりこみ、容赦なくもてあそぶ。イーツェンを抱くことよりも、崩れていく彼を見るのが愉しいようだった。
だからオゼルクにあれほどの恐怖を感じるのだろうかと、イーツェンは考える。自分の心の中に何があるのか、何故オゼルクにあれほどの拒否反応を見せたのか、自分自身がよくわからない。あえて理由をはっきりさせようとしたことはなかった。もう彼は長いこと、己の内面から目をそらしてきていた。
(自分が何者であるか、常に忘れないことです)
エリテはそう言った──
目をそむけているだけでは、何もはじまらないだろうか。イーツェンはゆっくりと息を吸いこんで、自分の感情に意識を集中させた。
オゼルクに対する恐怖──、嫌悪、怒り。あらためて味わうと煮えたぎるような荒い感情が、灼けつく温度で心を満たしそうになる。どれが何なのか区別もつかない、はげしい感情のもつれ。こんなふうに誰かを恐れたことはなかった。こんな憎しみも怒りも、イーツェンはこの城で覚えたのだった。そうやって、変わってきた。
歯を噛んで、己の中にあるものを一つ一つ探っていく。ふいにその奥からふつりと浮き上がった生々しい感情に、イーツェンは息をつめた。
耐えきれずに、目をそらす。だが、もう遅い。
固い豆を握りしめ、首を垂れてまぶたをとじる。恐れているのはオゼルクではない──彼だけではなかった。
ねじまげられた心のどこかが忌まわしいほどにオゼルクのまなざしにこたえようとして、奥まった熱を帯びている。与えられる快楽を欲しがっている。自分がいとわしく、恐ろしかった。心と体がばらばらになって、望んでもいないことを求めている。
イーツェンを何より怯えさせたのは、オゼルクにはっきりと欲望を感じている自分自身だった。
吐き気に口元を抑えて、体を二つに折り、喉で苦悶の呻きをたてた。隣りの部屋にいるシゼに気取られないよう必死で音を殺し、寝台に伏せて薄い毛布に顔を押し付けると、イーツェンは声をたてずに忍び泣きはじめた。
──体は、すぐに慣れる。
心も慣れればいいと、イーツェンは泣き疲れて思う。こんな思いをするくらいなら。何も感じなくなった方がはるかにましだった。