さしだしたイーツェンの手をエリテの長い指がつかみ、裏返した。手のひらをつつんだ白いガーゼを見て、エリテは微笑する。
「随分がんばっていますねぇ。痛くない?」
「‥‥まだ、痛い」
イーツェンは少し顔をしかめてうなずいた。右手のひらが派手にやぶれたのは昨日のことで、夜は消毒した傷を布で覆って眠った。傷の表面が痛いというより中までズキズキと熱く刺すような痛みで、夜の眠りは浅かった。
これで、しばらく剣の稽古は休みになる。左手でカップの持ち手をつかんで口元に茶をはこび、イーツェンはつぶやいた。
「つまらないな‥‥」
エリテがおっとりした仕種でうなずいた。今日もいつもの翡翠のピアスを左の耳に飾り、作業用らしい茶色いローブをまとって、腰高の木椅子に腰をおろしていた。
「すぐ治りますよ。薬はつけたでしょう?」
「はい。軟膏をもらって」
「シゼも少し気をつければよかったのに」
そう言葉を向けられて、扉口に立っているシゼは表情を動かしこそしなかったが、少々ばつが悪そうに見えた。イーツェンがくすっと笑って首を振る。
「私が、言わなかったから。大丈夫だと思ったんだけど」
考えてみれば、長く剣を握ってそれを生業としてきた男が、イーツェンの手のひらの軟弱な状態に頭が回らなくても仕方がない。イーツェンも「痛いな」とは思っていたのだが、汗をかいた手のひらの皮膚がずるっと剥けた時にはさすがに驚き、やわな自分を恥ずかしくも思った。少年時代、剣の訓練をしてこなかったわけではないが、あまり真面目にやっていたとも真剣だったとも言い難く、最近のイーツェンはそのことを少しばかり悔やんでいた。
シゼは、そこまで気が回らなかったことで責任を感じているようだったが、イーツェンはそのことでシゼに文句を言う気もなければ、剣の修練をやめるつもりもなかった。体を動かすことで考え込む時間を減らすことができたし、最近、食事がよく喉を通るようになった。
エリテがシゼに微笑を向けた。
「シゼ。すみませんが、厨房へ使いに出てもらえませんか? セベンに言えば、お茶と焼き菓子を出してくれるはずです」
シゼは無言でうなずくと、足音をほとんどたてずに部屋を出ていった。
イーツェンがエリテのところにいる間、時おりシゼは姿を消すことがある。エリテに用をたのまれてのこともあるし、ただいなくなることもあった。イーツェンがエリテとここにいれば安心なのだろう。
シゼにも自分の私用があって当然なのだが、イーツェンはこれまであまりそのことについて考えたり、疑問に思ったことがなかった。修道院と離宮の両方で育ったイーツェンにとって、修道院はともかく離宮では部屋付きの召使いが昼夜問わずに居るのが当然で、そうして人が常にそばにいることをごく自然に受けとめていたせいかもしれない。
だがシゼは召使いでもなく、傭兵であり、今は城付きの剣士だ。どうして彼がイーツェンの身の回りの面倒まで見ているのか、思えば少し奇妙な話だった。名目上は「護衛」──そしてその実体が「見張り」なのだということはイーツェンもよく承知しているが、シゼ以外の誰かがイーツェンの枷を外したり、起床の知らせや食事の運搬に来たことは数えるほどしかなく、結局のところシゼは護衛というよりイーツェンの侍従のような状態になっていた。
自分が城へ来るより前、シゼがこの城で何をしていたのかすら、イーツェンは知らない。シゼが閉じていった扉を何となく見ていたが、イーツェンは落ちつかない視線をふとエリテへ向けた。シゼが彼と──シゼ自身の言葉を借りれば──「情を通じた」のは、4年ばかり前だという。つまりはその時にすでにシゼはこの城に居たのだろうが、彼がこの城で何をしていたのか、たとえば誰に仕えていたのか、そんなことを、エリテなら知っているのだろうと思う。
実際、エリテは色々な意味で、イーツェンよりはるかによくシゼを知っているにちがいなかった。
エリテは作業机の上の紙束を怠惰な手つきでめくっていたが、イーツェンの視線に気付いて斜めに顔を向けた。首すじから肩の線が長く、この司書は動きにどこか優雅なものを持っていた。
「何か気になる?」
「‥‥‥」
イーツェンは無言のまま、首をふる。頬が赤らんでいるのが自分でわかった。
エリテが右の頬杖をつき、壁ぞいの長椅子に腰掛けたイーツェンを見やる。エリテの座る作業用の椅子は高くしつらえられていて、位置としてはイーツェンがエリテに見下ろされる高さになっていたが、そのことはイーツェンはまったく気にならなかった。エリテの物腰はやわらかく、おだやかで、視線の位置は上からでも決して押しつけがましくはない。
手首を折り、頬をのせた手の指をのばして少し思案するようにイーツェンを見ていたが、エリテは声を落とした。
「ルディスが、シュダルトの商館に行っているのは知っていますか?」
イーツェンは一瞬、眉をよせた。ルディスが城から姿を消したのも、それが王宮の用命によるもので、少々長い用になるのだということも聞いている。仕事の内容までは知らなかったが、エリテの言葉の中に何か記憶を刺激するものがあった。考えようとするが、うまく思い出せない。
エリテは低い、ゆっくりとした声を保ったまま、
「彼はあなたをつれていこうとしていましたよ」
「‥‥‥」
「もちろん、とめられたから大丈夫」
恐怖にこわばったイーツェンを見て、すぐに補足した。イーツェンは自分の手を見下ろした。ぞっとしたせいで手から血が引いて、手のひらの傷ににぶい痛みがうずいた。
「彼には気をつけなさい、イーツェン。あの人は子供の頃から気性がはげしかったけれども、近ごろ、あなたに少し執着しすぎているようだ」
「‥‥そんなことは‥‥」
「ないと思う?」
エリテの顔には笑みはなく、ただ少し哀しげに、彼はイーツェンを見ていた。イーツェンは唇の内側を噛んで黙る。ルディスが何を考えているのか、イーツェンに執着しているのかどうか、彼はあまり考えたことはなかった。所有欲や独占欲を見せたことはある──だがルディスのそれは、イーツェン自身に対していうよりも、従兄弟であるオゼルクに対して屈折して向けられているように、イーツェンは思う。
自分の陥った状況をエリテがどこまで知っているのか、城の司書である彼に何を言っていいのか、イーツェンは少しだけ迷ったが、重い口をひらいた。エリテはシゼの信頼する相手であるし──なにより、エリテなりの注意深いやりかたで、イーツェンに手をさしのべようとしているように見えた。誰かが自分を助けようとすることなど、長い間なかったような気がする。イーツェンはどうしてもエリテを信頼したかった。
「ルディスは‥‥私よりも、オゼルクを気にしているのだと思う」
ぽつりとそう言うと、エリテは先をうながすようにイーツェンを見たまま黙っていた。イーツェンは溜息をついて続ける。
「共犯、であることで、オゼルクにつながりを持とうとしている。私を‥‥物のように二人で所有するのが、おもしろいのだと思う」
後半は、下を向いて早口で言った。もう知られているにしても、そんなことを自ら口に出して平然とはいられない。
エリテが体を回し、イーツェンに背を向けると、作業台に両手をついて用心深く椅子から降りた。杖を手にして悪い右脚を引きずりながらゆっくりとイーツェンの長椅子に歩み寄り、右側に腰をおろすと、彼は両手をイーツェンの肩に回してゆるく抱いた。うつむいているイーツェンの髪をぽんぽんと叩いてなだめる。
「そう。ルディスも気が付いていないことを、よく気が付きましたね、イーツェン。彼はオゼルクに対してひどく屈折した気持ちを持っている」
「彼らは‥‥」
「関係はないと思いますよ」
さらりと答えた。品のない問いの中味を見透かされて、下を向いたままイーツェンは頬が赤くなるのを感じる。エリテが何でもないことのように答えてくれたのが救いだった。
おだやかに引かれるまま、エリテの肩に頭をのせた。ほっそりとした体だった。
「オゼルクは、自分を好きな相手に対して、残酷になる癖がある」
エリテが低い声でつぶやいた、それはほとんど独り言のように聞こえ、イーツェンは何も言わなかった。シゼの中にもまだ癒えない苦しみがあるように、エリテの中にもまだ彼自身の苦しみがあるのだろうか。
4年前、一体何があったと言うのか、エリテの口から聞きたいと思ったが、それを問うのはあまりに不作法に思えて、イーツェンは黙ったままエリテが次の言葉を継ぐのを待っていた。エリテが、イーツェンに何かを語ろうとしているような気がする。
「‥‥ルディスの母親は、王の妹ですが、ルディスがまだ子供のころに病を得て亡くなってしまった。その後、父親は王の不興を買って城を追われ、ルディスが城に一人で残された。ひとりぼっちの彼にとってオゼルクは兄のようなものであり、同時に、父親を追放して彼から家族を奪った王の息子でもある。少年時代、彼ははたから見ていても可哀想なくらいオゼルクに傾倒してましたが、心のどこかでオゼルクや王を憎んでいたのだと思う」
「‥‥‥」
「私は、8つの時からこの城にいました」
イーツェンの無言の問いをまた汲んで、エリテが答えた。
「だから、少しは城内の色々な話を聞くことができるし、オゼルクもルディスも‥‥昔から知っています。それは親しいという意味ではありませんけどね。立場が違いすぎるから」
エリテの腕の中に支えられ、背中をなでられているのは心地よかった。シゼのしっかりとした支えとはまたちがう、やわらかくおだやかな熱だ。義務感ではなく、勿論欲望でもなく、こんなふうにやさしい気持ちを向けられながら人にふれるのは、久しぶりの気がした。
イーツェンはエリテの肩に頭をのせ、溜息をつく。体から余分な力が少しずつ抜けていったが、気がかりは心から去らなかった。
「ルディスは‥‥いつ戻ってくるのか、わかりますか?」
「多分、まだしばらくは。今年の冬までかかると思いますよ。ルディスの城での地位を別の人間が継ぎましたから」
「‥‥‥」
「ジノン様が命じたそうですよ」
そう、エリテが付け加え、イーツェンは不意に混乱した記憶の底からジノンの声を思い出していた。
(シュダルトの織物組合について──)
イーツェンが絨毯に座り込んで起き上がれず、自分自身をとりつくろうのに精いっぱいだったあの時だ。たしかにジノンはルディスにそう告げていた。
エリテが小さくうなずいたが、瞳には憂慮があった。
「あの人は親切な人ですけれどね。保てるならば距離を置いたほうがいい。血筋がちがうので、色々と難しい」
「‥‥権力争い?」
「簡単に言えば」
そう言って、エリテはかすかに眉をしかめた。
「古い‥‥血筋の話です。このユクィルスの建国の歴史は120年前に遡ります。もとの国から分かたれた者たちがつどって海を越え、この地に渡ってきたとのことですが、ジノン様の母上は、古いユクィルスの血筋を引く巫女姫様でいらしたそうですよ」
イーツェンはまばたきした。ユクィルスの歴史は少し学んだが、その建国以前のことは謎につつまれていてあまり詳しい記録はない──少なくとも、イーツェンの国には。だが、建国の時に王のそばにいた巫女姫には不思議な力があり、彼女の力がユクィルスの礎となったという伝説は聞いたことがあった。
しかし、その巫女姫の血筋が残っているとは──しかも、ジノンの母親だとは知らなかった。
それを言うと、エリテがうなずき、イーツェンの体に回していた腕を引いた。背すじをのばして向かい合う。エリテの長い髪が額からひとすじ落ち、彼は指先でそれを耳の後ろへかきあげた。
「あまり表向きにはされていない話です。巫女姫の血筋も、もうジノン様しか残っていないと言われている。そのあたりのことは私にはよくわかりませんが、とにかくジノン様は非常に特殊な地位にあることは確かです。あのお人が何を考えておられるのかは、別の話として」
「‥‥‥」
「当代の王は病をもっておられる」
ふいに、エリテはあっさりした口調で言った。イーツェンは直に焼けた石を押し当てられたようにたじろぐ。彼は死や病にかかわる話が嫌いだった──それに、エリテの言葉の中に何一つ感情がないことが、その言葉を余計にするどくしていた。まるで王を蟻かなにかのようにしか思っていないように。
「王子殿はそれを心においておられる筈ですよ。どなたもね」
「‥‥私には、関わりがない」
「そうだといいんですが。あなたの国、リグとのつきあい方も、次の王によっては随分と変わる。そうなるとあなたの身にも大きく関わってくることです」
静かに言われて、イーツェンは喉の奥に息を呑み込んだ。そのことは考えたことがなかった。いつまでもここにいると思っていたわけではないが、だからと言ってこの先に何か展望を持っているわけでもない。イーツェンは希望を持たないようにしていた──だが、同時に、いかなる状況の変化そのものをも、きちんと考えてみたことがなかった。
目をそらしていたと言っていい。決して利口なやり方でも、勇気ある対処でもない。エリテの言葉にその事実をつきつけられ、彼は唇をきつく結んだ。
「味方をつくりなさい、イーツェン。それがあなたを守る。彼らはあなたの友にはならないが、利があると思えばあなたの味方になる。それを使いなさい」
エリテが右手をのばし、イーツェンの額に指先がふれた。その声のもつ鋼のようなきびしさに驚き、イーツェンはエリテの目を見つめたが、そこにはイーツェンを案じる真摯な光があるだけだった。
「私は‥‥何の力も持たない」
「自分が何者であるか、常に忘れないことです。それが充分武器になる」
ひどく低い声で言うと、エリテは立ち上がった。体が一瞬揺らいで、イーツェンが助けようと立ち上がった時、かすかなノックの音とともにシゼが扉をひらいた。
長椅子のそばに立った二人をちらりと見たが何も言わず、陶製のポットと木の深皿がのった平盆を片手に、部屋へ入って扉をしめた。エリテが足を引きずりながら壁際の杖を取り、作業机に歩み寄る。
「お願いできますか?」
うなずいて、シゼは示された棚からカップを取ると、ポットを手にして茶を注ぎ分けはじめた。エリテは作業机に手をつくと、腕と右足の支えを使って器用に高い椅子に座った。テーブルの方へ体を回し、シゼの仕種を眺める顔はおだやかだった。
イーツェンは長椅子に座り、カップからゆっくりとひろがっていく湯気を見る。エリテの言葉が彼をゆさぶっていたが、かと言って己に何ができるのか、どうするべきなのか、彼にはわからなかった。
シゼが手紙を持ってきた時、イーツェンはエリテに借りた本を自室の机に向かって読んでいた。ユクィルスの文字はかなり変わっている──それは、おそらくかつてユクィルスが分かたれたという元の国の残滓なのであろうが、手が込んでいてイーツェンには読みづらかった。
文字と異なり、ユクィルスの言葉そのものは、こちらの大陸でよく用いられる言葉にもうほとんどなじんでいる。とは言ってもイーツェンの国のリグとはかなりちがっていて、それもまたイーツェンにとっては悩みの種だった。リグは山でほかの国々から分かたれているだけに、言葉が独特の変化をとげているらしい。
エリテに手伝ってもらって、最近、ある程度の文字の対応表は作ってみたのだが、それを引きながら読むのはひどく時間のかかる作業だった。イーツェンがそれを嫌っていたわけではないが。何か無益でないことに時間を使っていられるというのは、不安定な気持ちを少しは落ち着かせた。
それでも、疲れる作業にはちがいなかった。返事を待たない小さなノックに続いてシゼが部屋に入ってくると、イーツェンは同じ箇所を何度もくりかえしていた本を押しやり、歩み寄ってくるシゼを見上げた。
「手紙か?」
手紙は塔に届けられ、ほかのイーツェンの身の回りの品──洗濯に出した衣服や寝具、補充するよう城の侍従につたえた必需品などとともにシゼが受け取ってくる。手紙も含めたすべてに城の目が通され、イーツェンに何か許されない物や許されない相手からの言葉が届くことのないよう、監視されていた。
シゼはたたんだシーツを左腕にかけ、右手は手紙の小さな束を持っていた。彼はうなずくとイーツェンがのばした手に無言で手紙を手渡した。一歩下がり、寝室へと入っていく。
イーツェンは手紙をまとめて結んだ麻紐をナイフで切り落とし、一つ一つひらきはじめた。
そのうちのいくつかは、見るべき価値のないものだった。一つは夜会への招待状、一つは町商人からリグとの取引に関する嘆願書。イーツェンは相手の名前だけを見て中味は読み流し、はじによけた。どうしても応じる必要のあるものならば、城の誰かを通じて話がくる。こうして手紙だけがとどくものには何の意味もない。たとえ応じたくとも自分にその自由がないことを、彼はよく知っていた。
さらに下にある手紙をひろげながら、リグの文字と品のある筆跡に気付いて、イーツェンの指がかすかに震えた。息を吸って、三枚の紙が重ねて折りたたまれた手紙を丁寧にひろげ、イーツェンは数秒ためらったが、目を通しはじめた。
シゼが戻ってくる音が聞こえたが顔をあげずに読み続け、二度、すべてを通して読み返した。イーツェンは手紙をたたみ直すと、机の上の水差しを引き寄せた。錫のカップに水を注いで、いつのまにか乾いていた口の中を湿す。
「‥‥国からだ。一番上の兄と、妹から」
顔を向けると、シゼは廊下に続く扉の横に立ち、イーツェンの言葉に応じてこちらを見た。イーツェンは手紙を振ってみせる。
「羊の子供がたくさん生まれたとか、城内の闘技会で誰が勝ったとか、そんな話だ。子供にするみたいだな。私が国を発った時だってもう17だったのに、これはひどい」
シゼがかすかに微笑した。
「布と革がいっしょに届けられていたそうです。仕立ての方へ回したという話でした。明日にでも、針子に会いに行かれますか」
「考えとく」
どう仕立てられようとあまり文句はないのだが、イーツェンはとりあえずそう返事をした。こちらの服の仕立てはリグとは少し違う。袖も太めだし、襟ぐりも大きくゆったりとした仕立てが多い。自分が口を出すより勝手に仕立ててもらった方が無難だった。
イーツェンは手紙を見下ろす。手紙をもらうのは好きだった。まだ故郷とつながっているのだと、安堵感がわきあがってくる。そんなはずはないとわかっていても、一人で寝台に身を丸めて眠っている夜中、自分がこの城にいることなど故郷の誰もが忘れ去っているのではないかという不安に心がきしむことがあった。
何の変哲もない。ただ国で最近おこったできごとと、家族の近況、そして最後にイーツェンの健康を願うだけの手紙。それでもそれは丁寧に書かれていて、イーツェンはたたんだ手紙のふちを指先でなでた。これはリグから来たものだ。陸路で、季節によっては30日以上かかるあの山あいの国から。あの高い空の下を通って。
返事を書かないとならないな、と思ったが、手が重かった。毎回そうだ。大して書けることもない。自分は元気にしていると、心配ないと──何が心にあろうと、それを書いて送らねばならなかった。
身じろぐと、脚の間で鎖がかすかにこすれた。溜息をついて、イーツェンは手紙をひとまず引き出しにしまった。明日でいいだろう。どうせリグ行きの隊商に託す手紙だ。いつこちらを発つか、いつあちらに届くか、わかったものではない。返事を無理に絞り出して書くよりは、今はもらった手紙のことだけを考えていたかった。遠い場所からのわずかな安らぎでも、彼にはそれが必要だった。
ふと視線に気付くと、シゼが少し心配そうに彼を見ていた。イーツェンは片手を振る。
「何でもない。少し‥‥リグのことを考えていた」
シゼが無言でうなずく。返事のことからとりあえず気をそらそうと、イーツェンは椅子を半分回してシゼへ体を向け、机に頬杖をついた。
「お前は? 誰か‥‥手紙を書きたい相手はいないのか」
「私は、字が書けません」
シゼは少し目を細めてそう返したが、その口調はつめたいものではなかった。イーツェンは右肩を揺らす。
「そうか? お前は字が読めるだろう。私が何の本を読んでいるのか、題名を見て察していることがある」
それを、イーツェンは時おりのシゼとの会話で気付いたのだった。エリテの作業室にいる時にも、シゼは修理や写本のために置かれた本の文字を目で追っていることがあって、彼は字が読めるのだとイーツェンは当然のように考えていた。
言われたシゼは驚き、同時にあきらかにたじろいで、視線を浮かせた。
「それは‥‥城で暮らしていれば、少しは読めたほうが便利ですから」
「まあ、確かに」
とつぶやいて、ふいにイーツェンは気が付いた。
「エリテか。あの人に教わった?」
「‥‥イーツェン‥‥」
「すまない。秘密か? ならもう言わない」
早口でとりつくろおうとしたイーツェンへシゼが右手を大きく振り、頬に苦笑を刻んだ。イーツェンへ近づき、話しやすい距離まで歩み寄る。
「いえ、すみません。驚いた。あなたが‥‥鋭いので」
「べつに。でも、内緒なのか」
「城には。単に、知らせていないだけですが。役に立つほどは読めませんし、使いようもない。手紙をもらう相手もいませんからね」
「でも誰か‥‥」
たとえば家族に、と言おうとして、イーツェンは口をつぐんだ。シゼが奴隷あがりだと言ったオゼルクの言葉を思い出していた。そうなら、その問いは傷口に塩を塗るようなものになる。
シゼはイーツェンのたじろぎを汲んだ様子で、少しだけ口元をゆるめた。
「私が子供の頃、戦争で村が焼けて。それ以来、手紙を交わすような相手はいないんですよ、イーツェン」
「ごめん」
「あやまる必要はない。ただの事実です」
その声には実際、痛みはなかった。それは決してシゼが苦痛を感じていないということではないのだろうと、イーツェンは思う。ただあまりにも遠く、あまりにも慣れた痛みだから、もはやそれを「痛み」として感じなくなっているというだけで。苦痛に慣れるというのはそういうことなのだと、イーツェンはこの城での生活で少しずつ悟っていた。
「シゼは、いつからこの城に‥‥?」
「ユクィルスの軍属になったのは、11年前ですね。その時は南の砦にいたので、城に来てからは7年ほどになります」
平坦な口調でシゼは答え、イーツェンは目をほそめて少し考え込んでいた。
「家族に会いたいと思ったことはないか?」
「イーツェン」
その声はふしぎなほどやさしかった。
「いない相手には、会えない」
「‥‥それでも会いたいと思うだろう。それが人の心というものだ」
「そうかもしれませんね」
軽くうなずき、シゼはイーツェンの右手に目をおとした。
「どうですか?」
彼が話をそらしたのに気付いたが、イーツェンは視線にこたえて右手を握って開いてみせた。こわばりまだ少し残っているが、痛みはもうない。傷を覆っていたかさぶたも三日前にはがれ、赤みをおびてやわらかかった皮膚の色もおちつき、手をつつんでいた布も昨日外した。
「大丈夫。そろそろ、また剣の修練もはじめられそうだね」
「はじめたいですか?」
そっとたずねられて、イーツェンはシゼの顔を見上げた。このごろシゼの表情がおだやかになってきたような気がする。エリテに会っているからかな、と、イーツェンはちらっと思った。最近、イーツェンがエリテの作業室をよく訪れるので、シゼも成り行きでエリテと顔を合わせる回数がふえた。個人的な会話を交わしている様子はまるでなかったが、時おりに彼らは視線で何かを語っているようにも見えた。
特別言葉を費やさなくとも、エリテの近くにいることが、シゼに影響を与えているのかもしれない。その考えは心のどこかをしくりと刺したが、イーツェンは注意深く表情を保った。
「はじめたいよ。何で?」
「近ごろ‥‥訓練場で、少し気が散っていたようですので」
ぎくりとして、イーツェンは首を振った。訓練場で、時おりに視線をさまよわせていたのは確かだ──あの少年を探していた。イーツェンを、視線だけで殺そうとでも言うようににらみつけていた彼を。だが、あれからイーツェンは一度も彼を見出すことができなかった。あるいは、彼をつれていた兵士をも。
「大丈夫。シゼ、そうだ、取引と行かないか」
「はい?」
虚を衝かれた様子のシゼを見上げて、イーツェンはにやっと笑った。せいぜい邪悪に見えるように。
「お前に物を教わってばかりでつまらない。私も教える。手始めに、文字の書き取りなんかどうだ?」
「‥‥イーツェン」
シゼは本気で困っているように見えた。イーツェンはぱんと両手を打ちあわせて、まだ敏感な手のひらにはしった小さな痛みにたじろいだが、傭兵へまっすぐ笑顔を向けた。
「私の暇つぶしだ。つきあうのは嫌か?」
「いえ‥‥」
ひとつ首を振り、シゼは苦笑する。
「わかりました。ただし、一つ、約束して下さい」
「何」
「次に手や足が痛くなった時、まず私に話して下さい。大丈夫だと思わないで‥‥自分で判断しないで。いいですね?」
「わかった」
イーツェンはうなずいて右手をさしだす。シゼは一瞬当惑の表情をうかべたが、イーツェンが目で示すと、ためらってから右手を出した。イーツェンの右手を握る。その手はイーツェンの手を包むほどに大きく、いかにも剣を握り慣れた皮膚は固く、イーツェンはしっかりと握り返しながら微笑した。
「今後ともよろしく、師匠」
シゼは苦笑に似た微笑をかえすと、手を引いてイーツェンに背を向け、扉の方へ戻っていく。静かな足音が部屋を横切るのを聞きながらイーツェンは机に向き直り、引き出しに入れたばかりの故郷の手紙を取り出した。寄せ木の箱を引き寄せ、中からガラスのインク瓶と羽根ペンを取り出す。
のばしていても仕方がない。返事を書こう。少しでも楽しい気分でいる、今のうちに。