荷物を運ぶように塔まで運ばれながら、途中で少しずつ我を取り戻したイーツェンは、とにかくシゼが誰かとすれちがうたびに毛布の中で恥ずかしくて仕方なかった。ほとんどすっぽりと毛布にくるまれてはいるが、どう見てもシゼが人ひとりかかえているのは明らかだ。おそらく、それが自分だということも。
 本館の階段をのぼっている途中、シゼの顔なじみらしい誰かが「どうした?」とたずね、シゼは一瞬足をゆるめると「貧血」とぶっきらぼうに答えた。それ以外は誰も何を聞かれることもなく、シゼは確かな足取りであぶなげなくイーツェンを塔まで運んだ。
 塔の架橋をすぎて狭い階段の下へ来たと見ると、イーツェンは毛布の中でもぞもぞと動いた。
「シゼ。‥‥歩く」
 毛布から顔を出して見上げると、シゼはあまり賛成したくなさそうな顔をしていたが、短い息をついてイーツェンをおろした。イーツェンの肩から毛布を取ってたたむ。
 足元はまだたよりなかったが、体をふらつかせずに立つことはできた。息をととのえ、イーツェンは石の階段に右足をかける。だがそこで固まった。足の間に枷が揺れている。ルディスは左の枷だけを外させたので、右枷から鎖で空枷がぶらさがっているのだ。
 鎖がからまないよう慎重に、イーツェンは階段をのぼりはじめた。一歩ごとに鎖が前後に揺れ、ふくらはぎの内側を擦る。数歩のぼったところで、シゼの声が彼をとめた。
「イーツェン」
 立ち止まったイーツェンに、シゼが階段をのぼって歩み寄る。イーツェンは首を振った。
「歩ける」
「わかってます」
 肩に手をおいてイーツェンの体を回し、シゼはイーツェンの背中を壁にもたれさせた。目を見て小さくうなずく。
「外しましょう」
「‥‥‥」
 下の段に片膝をついて、腰の後ろから鍵の輪を外し、シゼはローブの右側を片手でたくしあげた。イーツェンが息をつめる。シゼが右の枷に鍵をさしこみ、軽くゆすってから、カチリと外した。その音が体の奥深くまでひびく。
 膝が崩れそうな虚脱感を、イーツェンは唇を結んでこらえた。シゼの手が枷の留め金を外し、脚を締めていた革帯を取っていく。解放される感覚が、身の内にせきとめられたあらゆるものを押し流しそうだった。
 ふ、と息を短く吸って、また息をつめる。シゼが枷を取って一歩下がった。イーツェンは壁に右手を置いて、ゆっくりと歩き出す。一歩ずつ、後ろに落ちないよう前のめりになって歩き続けた。
 上までのぼりきると、大きく息を吐き出した。部屋へ向かって歩き出す。その横をシゼが素早く抜け、部屋の扉を開けると先に中へ入った。何か危険なものがないかどうか、ざっとあらためてから廊下へ戻ってイーツェンを待つ。いつものシゼの動作だった。
 シゼが押さえた扉を抜け、部屋の中へ入ると、イーツェンは用心深くソファに腰をおろした。目をとじたがめまいがしてすぐに目蓋を開け、背もたれに体を預けて天井を見つめる。シゼがすばやく動くと、濡らした布を持ってきてイーツェンに手渡した。
「ありがとう」
 かすれた声で呟き、イーツェンは顔を拭う。ローブの上から拭える手や首すじも拭い、顔をしかめて首にふれた。ルディスが首をしめた瞬間、頭が快楽に惑溺していて記憶が曖昧だったが、首にくいこんだ指の力はぞっとするほど肌に鮮明だった。
 ジノンが入ってこなければ、どうなったのだろう。ルディスが彼を殺そうとしたとは思えないが、あの瞬間、イーツェンと同じほどにルディスも我を失っていたように見えた。
 ルディスのことを考えるだけでにぶい吐き気が腹の底にうごいた。次に会った時、ルディスは今日の怒りをイーツェンにぶつけるのだろう。それを思うと頭の芯に重苦しい痛みが脈打ったが、イーツェンはルディスのことを無理矢理意識から押しやった。ただでさえ疲れているのに、恐怖にこれ以上とりつかれるのは御免だった。考えても仕方のないことだ。ルディスがどうするのか、何を考えるのか、どれほど恐れてもイーツェンにはどうにもならない。
 それよりは、ジノンと会う約束の方が現実的な問題だった。あの時は何を考える余裕もなくうなずいたが、ジノンがどういうつもりで自分に会いたがっているのか、イーツェンはあまりいい予感を持てない。悪い人のようには見えなかったが、彼もユクィルスの王族だと思うだけで、気持ちが沈む。
「‥‥何で、ジノン様があそこに‥‥?」
「私にはそれはわかりませんが、すでにご承知の様子でした。驚かれたようではなかった」
 シゼはしごく冷静な口調で言いながら、イーツェンの手から濡れた布を取りあげ、テーブルにワインが入ったグラスを置いた。飲むように手で示され、イーツェンは眉をしかめてグラスを手に取った。一口飲んで、舌に残る苦さにまた顔をしかめる。彼はこの国の濃いワインが苦手だった。
「あの方は──どういう人?」
 シゼは少し考えこみ、言葉を慎重に選んだ。
「王国顧問団の相談役で、二年ほど前には王の全権大使の任を受けられたこともあります。あまり表立っての行事には出てこられない方で、普段はエグリーシェの城塞の長としてあちらを治めておられるので、私もよくは存じ上げません」
「‥‥‥」
「親切な方だという話ですよ」
 ふいに、とってつけたように言った。一瞬間をあけて、イーツェンがくすっと笑う。嘘ではないのだろうが、イーツェンを不安にさせないようシゼが色々記憶をつなぎあわせてそれを言ったのだと、彼にはわかっていた。
「そうか。まあ、夕方に会えばどういう方かわかるだろう」
 酔いとも疲労ともつかない重い感覚が体の芯に溜まっていた。リボンにいましめられた勃起の痛みはまだそこで熱く、にぶく疼いている。
 イーツェンの手からシゼが空の杯を取り上げ、テーブルに置いた。なめらかな動作だった。その腰の革帯から吊るされた枷のゆらぎを、イーツェンは目で追う。イーツェンをこの城へいましめる鎖。だがこれが、これだけが、イーツェンとシゼを結びつけている。イーツェンがこの城の人質であるという事実だけが、彼らの絆である、それは皮肉で滑稽な話だった。
 シゼがイーツェンへ近づき、目で許可を取ってから、指先で襟元を少しひらいた。彼が首すじをじっと検分している間、イーツェンは顔をきつくそらして動かない。わずかな時間で、シゼは身を引いた。声は低い。
「何日か、痕になります」
「襟の高いものを着るか、首に飾り物を巻くしかないな」
「こちらも‥‥」
 指が左頬にふれ、イーツェンは苦笑した。顔を張られたのを忘れていたが、そう言えば痛む。
「口の中を切ってませんか?」
「‥‥大丈夫だ。痣になるか?」
「少しの間、なるかもしれませんね」
 シゼはイーツェンを見つめ、少し顔をしかめるようにして、イーツェンの頬を指の腹でなでた。シゼの指は剣を握るためか、ルディスやオゼルクのものより固くざらついて、だがイーツェンにはその荒い感触が心地よかった。ふれられた頬から痛みではない感覚がひろがって、ふ、と息を呑みこむ。
「冷やしましょう」
 身を起こそうとしたシゼの手を、イーツェンがつかんだ。シゼが動きをとめてイーツェンを見る。反射的につかんでしまったイーツェンはうろたえたが、手を離せなかった。
「‥‥あの」
 腰の奥にぞくりと熱がうごめいて、言葉がそれ以上つづかず、イーツェンはもう一度唾を呑んだ。目を伏せ、かすれた声でつぶやく。
「‥‥して、くれないか」
「──」
「駄目なら‥‥部屋の外に出ていてくれ。怒ったりはしないから──」
 シゼの指がイーツェンの唇にふれた。言葉が途切れると、シゼの手は細い体に軽くふれながら下におりていく。低い声で囁いた。
「目をとじて」
 一瞬ためらったが、イーツェンは言われたように目をとじた。シゼが足を覆うローブをひらいていく、布が肌にたわむ感触に息が上がる。体が反応し、自分のそれが硬さを増すのがわかった。リボンがさらに茎へくいこんで、イーツェンは小さく呻いたが、シゼの手がじかに敏感な部分にふれた瞬間、首をのけぞらせてあえいだ。
「あぅっ──」
 身の内にたぎる熱は、すべて腰でせきとめられる。どうにか落ち着かせたつもりの体はわずかな接触でたかぶって、ひたすらに熱い解放を求めはじめた。全身の感覚が鋭敏な一ヶ所にあつまり、締め上げられるリボンの感触に呻いたが、以前のシゼの言葉を思い出してソファの肘掛けをつかみ、必死で体の動きをとめた。
 リボンがくっと引かれる感覚が一瞬だけ体を締めつけて、次の瞬間、圧力が一気にほどけた。頭の芯が一瞬白くなる。イーツェンは大きく息をあえがせて目をあけた。床に片膝をついたシゼが小さなナイフをどこかにしまい、イーツェンの勃起にまつわりついたままの赤いリボンを手際よく取り去る。ほとんど間を置くことなく、彼は充血して固く勃起した牡を右手につつんだ。
 大きな手のひらに握り込まれ、上下にしごかれてやわらかに刺激が与えられた瞬間、ほとんど達してしまいそうだった。イーツェンは喉の奥で締まった息の音をたてる。いましめられて萎縮した部分はまだ完全に感覚が戻っていない。でなければこらえられなかったにちがいない。シゼの手はそれほど熱く感じられた。
 シゼは注意深い目でイーツェンを見つめた。あくまで優しい手で刺激を与えながら、案じるようにイーツェンを見ている。先端を指でなぞられると、体の奥をじかになであげられたように全身が痺れ、呻きをこぼして、イーツェンはのばした両腕をシゼの首に回した。
 声がふるえた。
「シゼ──」
 引き付ける腕の力に逆らわず、シゼが身を起こした。イーツェンのそれへ右の手のひらをかぶせたまま、左手をソファの背もたれについて体を支える。その髪の中に指をさしこんで、イーツェンはシゼを引き寄せた。
 シゼが頭を引かれるままに上体をかぶせた。唇が重なった瞬間、イーツェンは体をぞくりと震わせる。唇の熱でわずかな抑制がはじけとび、彼はシゼの唇を舌先で割ると、抵抗なくひらいた熱い口の中へ舌を滑りこませた。
 シゼの指がイーツェンの楔を下からゆっくりとなであげ、手のひらでつつみこみ、指の腹で先端をなぶる。イーツェンの呻きはシゼの口の中へ消えた。シゼは自らの情熱は示さなかったが、イーツェンが舌をからめて誘うとおだやかな反応を返し、深くしのびこんだイーツェンの舌を舌腹で擦った。全身が熱くほてり、シゼの手の中でイーツェンのそれが反応して揺れる。
 シゼの首へ腕を回し、力いっぱい引き付けて、イーツェンは夢中でシゼの唇を吸った。シゼの与えるおだやかな官能は甘く、身がくちづけの中へ溶けていくような気がした。その一方でシゼの手は休むことなくイーツェンを追い上げ、するどい快感が下肢から次々とわきあがる。交錯する二重の快感がイーツェンの中からほかのものをすべてはじきだし、その瞬間、何もかもを忘れていた。ただ強烈な波に身をゆだね、シゼの温度を味わいながら彼をもっと深く感じようとする。
 熱く濡れた舌を吸い、唇の内側を貪欲にさぐった。口の中にこぼれる快感の呻きをシゼが吸う。愛撫の手が強さを増し、大きな動きでしごきあげられて、イーツェンは一気にのぼりつめていた。
 鮮烈な快感が全身を抜け、首をのけぞらせて短く呻いた。シゼの手が離れるのを感じながら身をソファに沈め、イーツェンはぐったりと荒い息をついた。体の中に甘い余韻がひろがって、考えがうまくまとまらない。シゼの温度が肌の、そして唇の上に残って、瞬間の感覚をまだ体が味わおうとしている。
 ローブの前をととのえると、彼はシゼを見上げた。
「ごめん」
「‥‥‥」
 シゼは布で手を拭っていたが、イーツェンを見てかるく眉をあげた。唇が濡れているのを見て、イーツェンは思わず顔を伏せる。シゼの前に何度もあられもない姿をさらしておきながら、そんなささいなことが恥ずかしいのは奇妙だった。
「シゼは‥‥だって、エリテが好きなんでしょう」
 イーツェンは自分の足先を見つめて、言った。罪悪感をおぼえるべきなのだろうと思ったが、気持ちはどこかおだやかだった。欲望の解放からくる肉体の虚脱感とはまたちがう、満たされた感覚がある。全身の緊張がほどけ、いつもはいとわしい肌の熱すら心地よかった。
 シゼの声は乾いていた。
「エリテのことは、ずっと昔のことです」
「今も‥‥」
 好きなくせに。
 とは続けられず、イーツェンは首を振ってため息をついた。ソファに腕をつき、まだたよりない体で立ち上がる。それを言う権利は自分にはない。シゼの中には、エリテがいる。それをシゼにわざわざ言葉で認めさせるのは、愚かで残酷なことだった。彼があくまでイーツェンに優しくしようとしている、この時に。
 ──義務。
 その距離を、忘れそうになっている自分が鬱陶しい。
「体を洗って、少し眠る。ジノン様に会う時間になったら呼びに来てくれ」
「わかりました」
 それ以上何を問おうともせず、イーツェンの言葉の裏を汲み取って、シゼは部屋から出ていった。彼の姿がなくなると、急に部屋が広くなったような気がする。イーツェンはまた首を振って、続き部屋へと歩き出した。


 ──私はあなたの味方だ。
 シゼは、そう言った。よりかかってもいいと。裏切ることはないと。
 それを信じようとしている自分自身がひどく鬱陶しく、イーツェンは濡らした布で体を拭う動作に力をこめた。ルディスの荒々しい愛撫が肌のあちこちに傷となり、布に肌が引かれるたび痛みがはしった。時おり石鹸の泡がしみる。だが痛みを歓迎したいほどの気持ちだった。記憶をすべて体から洗い流したい。ルディスの記憶だけでなく、シゼにふれた記憶も。でなければもっと求めてしまいそうだった。
 シゼにふれていると、あの腕に守られているような気がして心の底から安心できる。だがそれは錯覚であって、それを信じてシゼにすべてを預けてはならなかった。
 シゼは城の人間だ。どれほどイーツェンに近く在るとしても、何よりも城に従うのが彼の役目だ。シゼの気持ちがどうであれ、ある一線を踏み越えてイーツェンの味方をすることなどできない。それくらいはイーツェンもよくわかっていたし、シゼに裏切りを強要するつもりはなかった。
 義務。役割。それ以上のものをシゼに求めてはいけない。それを越えて守ってほしいとも、支えてほしいとも思ってはいけない。それは危険な望みだった。
 浅い木の平桶に腰をおろして乱暴な手で体を洗いながら、イーツェンは歯を噛んだ。
 シゼをイーツェンに結びつけているものは、彼に与えられた義務であり、仕事だ。その限界を踏みこえてほしいと望むことは──あるいは自ら限界を踏みこえようとすることは、今ある絆を壊すことにつながる。そんなことはできなかった。それがどれほど小さな絆でも、イーツェンにはシゼとの絆が必要だった。
 彼を失いたくない──だがその一方、自分の中にある感情が何であるのか、イーツェンにはよくわからない。シゼを好きなのか、彼をただ味方につけておきたいと思っているのか、ほかに頼る相手がいないからすがっているのか。わからない。ただ、彼はシゼにそばにいてほしかった。
 座りこんで軽く足をひらき、イーツェンは慎重な手つきで太腿の内側を洗う。左の枷をはめたままでルディスが散々鎖を引いたので、革の下の肌が赤く擦れていた。
 脚が枷にしめつけられていないと、かえって妙な気がする。そんな自分に嫌気がさし、口の中で溜息をついた。鎖につながれることに慣れる日がくるとは思わなかった。
 だが、シゼははじめてイーツェンを脚鎖につないだ時、低い声で言ったのだ。
 ──体は、すぐに慣れます。
 その言葉に身がすくんだイーツェンを見上げ、彼は無表情につづけた。
 ──それを恐れずに、受け入れることです。その方が、生きやすい。
 男の手が裸の脚に革枷を巻いていくのを、イーツェンはほとんど茫然と見つめていた。そして彼はシゼの言葉通り、多くのものを受け入れ、多くのことに慣れてきた。
(どうして‥‥)
 何故シゼはあの時、あんなことを言ったのだろう。イーツェンは革帯の痕に布を這わせながら、ふと思う。あの言葉はイーツェンを怯えさせただけだったが、今にして思えば、シゼが人を脅しつけるためにあんなことを言うわけがない。それなのに、どうして。


 ──体は、すぐに慣れる。
 では、心は?