手に鋭い痺れがはしって、一瞬で指先まで感覚が失せた。爪の先までぴぃんと震え、何の力も入らない手の中から木剣が砂地に落ちた。
 イーツェンはきっとまなざしを強めて、目の前に立つシゼをにらんだ。
「もう一本!」
「今日は、ここまでです」
 シゼの返事は素っ気ないが、目元にはかすかな笑みがあって、彼が修練の時間を楽しんでいる様子なのがイーツェンにはうれしかった。それを抜きにしても、この時間をイーツェンは心待ちにするようになっていたのだが。
「ありがとう」
 礼を述べ、一礼すると、イーツェンはまだ痺れの残る手を振って、木剣を砂から拾い上げた。城の裏手、内城壁に沿った外側につくられた訓練場は固く踏み固められた土に砂が敷いてあり、胸の高さほどの木杭でぐるりと囲まれている。隣には城内馬場が設けられ、乱蹄の響きが聞こえてくることがあったが、今は静かだった。
 内城壁と、増築された外城壁にはさまれたこの区域には木の兵舎が建てられ、城当番の兵士が詰めている。訓練場には彼らも姿を見せ、めいめいの武器をふるって互いに修練を重ねていた。城内の騎士がここに姿を見せることもあったが、イーツェンに彼らが目を向けることはなく、イーツェンも彼らの存在を無視して大きな樫の木の裏側にある空き地でシゼの手ほどきを受けていた。
 兵士のうちにはイーツェンにあからさまに卑猥な言葉を投げたりする者もいたのだが、イーツェンはすべてを黙殺した。反応すれば彼らを喜ばせるだけだとシゼは言ったし、オゼルクやルディスにうける嘲弄にくらべれば無邪気なからかいだ。そもそも──と、イーツェンは時おり自嘲気味に考えたが、そんなからかいなど足元に及ばないほど淫らな行為に慣れた体を、彼らは知るまい。
 午後は集団での訓練が行われるので、イーツェンの剣の稽古は午前中だけに限られた。朝課の祈りを終えてからの数時間の間、ほかの用事がない限り、イーツェンはシゼに相手をたのんだ。雨の日はさすがにあきらめたが、4、5日に一度ほどは外に出て体を動かせるようになっていた。一度の訓練は一時間もなかったが、新しいことを教わりながら汗を流すのは心地よかった。
「相当ものになってきたんじゃないんですか、殿下」
 横合いから声が聞こえて、イーツェンはそちらへ向き直り、手斧を腰からぶらさげた体躯の大きな男に笑みを返した。無精ひげを頬に散らした男はリッシュという通り名で、獣のたてがみのような赤毛の髪を肩から散らしている。シゼと同じように赤銅色によく灼けた肌の色をしていた。髪の中には何本か細い編み込みがあって、まるで娘のように可愛らしいとイーツェンは思ったのだが、シゼの話によればそれはリッシュの部族の男の普通の髪形らしい。本当ならひもや硝子のビーズを使って、それは豪奢に飾るのだということだった。
「その腕前じゃ、もう俺なんか串刺しですよ」
 そう首をすくめるリッシュにイーツェンは笑って、拾い上げた木剣をシゼに手渡した。リッシュは明るい男で、自分の倍はあろうかという横幅にイーツェンは最初気圧されたのだが、やがて妙なことに気が付いた。訓練場のどこで何をしていようと、シゼとイーツェンが修練をはじめると、その横にリッシュがやってくるのだ。修練中は話しかけもせず、まるでそこに二人がいることなど頭にもないかの様子で黙々と訓練にはげんでいる。
 隣に陣取ることで、他の兵士からイーツェンを遠ざけているのだ、ということに気付いたのは、何日かたった後だった。シゼがそれをたのんだのだろうということも。シゼにとってリッシュはたよりになる友人のようだった。
 リッシュがシゼに挑戦的な目を向けた。くいと首をかたむける。
「どうだ?」
「ああ‥‥」
 シゼが躊躇したのを見て、イーツェンが手を振った。
「私はそこで体をほぐしているよ」
 根がもりあがったオークの木の下へ座りこんで、イーツェンは手布で汗をぬぐった。風はまだ涼しいが、春の終わりは近い。体を動かすと肌から汗がしみだして肌着が肌にまとわりついたが、気分は爽快なものだった。いつもの重みのある縁取りをされた仕立てのローブではなく、訓練用に動きやすく足元の割れた軽いローブが解放感を増す。勿論、枷は外されていた。
 シゼはイーツェンを視線で追っていたが、木の下へ座り込んだのを見ると、うなずいてリッシュへ向き直った。木剣を右正面にかまえる。シゼの持つ木剣はイーツェンのものとちがってずっしりと重く、打ち締められた固い木から削り出されたもので、ほとんど鉄の剣と同じほどの重量があった。
 リッシュは手斧を持ち上げ、するどい目でシゼの動きを追っていたが、短い声を発すると大きな体躯に似合わない俊敏な動きでシゼのふところへ飛び込んだ。シゼの身が一瞬早く左へ動き、右足を支点に体を回した。剣の柄にあたる部分をリッシュの肩に叩き込もうとする。その一閃はリッシュにかわされ、とびすさった男は距離をとってニヤッと口のはじを上げた。木剣を胸元へ引き付けたシゼが一気に距離をつめる。
 二人の獰猛な動きを感嘆まじりに見ていたが、ふとイーツェンは首すじに刺し貫くような視線があてられているのに気が付いた。人の、意図的な視線特有の、肌を何かが這う感覚がはしる。どこからその視線がくるのかと、彼はそろそろと周囲を見回した。
 訓練場の中央には太い杭がたてられ、そこにくくりつけられた藁束を切り裂く修練が行われている。それを相手に、革の胴衣をまとった男達がやや体格の劣る少年に剣の高さや振り方を指導していた。その中に自分を見ている顔があるかと目を凝らしたが、どうやら全員の注意は杭に集まり、イーツェンの方を向いている者はいないようだった。
 視線を横へすべらせた瞬間、イーツェンは氷塊を呑んだように息をつめた。大きな盾を二つ、肩からかけたやせた少年がそこに立ち、凄まじい憎しみの目でイーツェンをにらんでいた。
 イーツェンは必死で記憶をさぐる。誰だろう。どこかで会ったことがある相手だろうか? 少年は細い体にぼろぼろになったシャツをまとい、砂に立つ足は裸足だった。肩にかついだ円盾は彼のものではないのだろう、体を半ば隠してしまうほどに不釣り合いに大きい。黒髪は少しもつれて首すじで切られ、あごの細い顔立ちにはどこかなつかしい面ざしがあったが、イーツェンが彼に会ったことがないのは確かだった。
 イーツェンが自分に気付いたと悟った瞬間、少年はぱっと背中を向けた。敏捷な動きだった。小走りに彼が走り寄った相手をイーツェンは注意深く観察する。手槍を手にした大柄な兵士で、少年から盾を受け取ると何か口にして、もう一人の男と動きの型の修練をはじめた。少年は訓練場から歩き去っていく。
(──誰だ‥‥?)
 まだ胸が動悸を打っていた。イーツェンはいつのまにかつめていた息をそろそろと吐き出し、シゼとリッシュが激しい動きをかわす光景へ視線を戻す。体が冷たい汗をかいていた。


 ──誰だ?