いつ目を覚ましたのかわからなかった。そもそも、いつ眠りに落ちたのかも。
気付くと、イーツェンは暗い天井を見上げていた。記憶が錯綜して自分がどこにいるのか悟るのに少しかかった。
寝台に横たわっている。体がなじんだ感触を思い出していた。戻ってきたんだ、とイーツェンはぼんやり考える。‥‥どこに? 故郷に?
故郷のことを考えた瞬間、体を引き裂くような痛みが走って息をつめた。同時に自分がどこにいるのかはっきりと悟っていた。塔の部屋の寝台に寝かされている。体に毛布がかけられていたが、随分寝返りを打ったのか、それはぐしゃぐしゃに乱れていた。
‥‥ここで眠った記憶はなかった。イーツェンは泥がつまったような頭で、部屋に戻ってきた後のことを思い出そうとする。記憶という記憶がもつれたようで、順番に考えるのに少し苦労したが、重く痛む頭で思い出せたことはわずかだった。夕暮れの部屋に戻って、体を水でもう一度拭い、ほとんど会話もなく、やがてシゼが夕食を取りに出ていった。
そこから記憶はとぎれていた。ソファでシゼを待ちながら、イーツェンは眠ってしまったらしい。シゼが寝台に運んだのだろう。
もう一度眠りに戻ろうと数回寝返りを打ったが、眠れなかった。身も心もくたびれ果てているのに、頭のどこかが異様に昂ぶって、体の芯にぴんとはりつめた緊張が残っていた。体が寝汗でべたつき、妙な熱が頭や身の内にこもって気持ちが悪い。それなのに今にもこごえそうに寒く、小さく身がふるえた。
はじめて抱かれた時がこうだった、とイーツェンは一年余り前のことを思い出した。この一年、思い出そうとしなかった悪夢。だがそれは今日の記憶ほどに生々しい傷ではなく、彼はぼんやりとあの日のことを記憶にたどっていた。苦痛を別の苦痛でまぎらわせるのは、イーツェンがこの城に来ておぼえた方法だった。
オゼルクに離宮に招待され、護衛も世話係も必要ないからとシゼは城に留め置かれた。それがどういう意味なのか、イーツェンにはわからなかった。行きの馬車の中で、腕を縛られておもしろいようにもてあそばれるまでは。
お前は美しいね、と言いながら、オゼルクは館の一室にイーツェンをつれこんで陵辱した。
五日、離宮ですごした。三日目にオゼルクの従兄弟のルディスがくわわり、イーツェンは惑乱の中で理性を失っていった。快楽を得た記憶は薄い。恐怖ばかりが先に立ち、逃げ場のない陵辱を拒否するすべはないという、それだけを体に叩き込まれたような気がする。何故こんなことをされねばならないのか、まったくわからなかった。
城に戻っても、彼らは当然のようにイーツェンを抱いた。二人以外に抱かれたこともある。相手の顔も見えない状態で体をむさぼられたこともあった。相手が誰だかわからないというのは予想以上の恐怖をイーツェンに与え、彼は一時期、その中にシゼがいるのではないかと恐れたことすらあった。彼に信頼をおくようになってから、死ぬ気で恥をしのんでたずねたが、シゼはきっぱりと否定し、イーツェンはそれを信じた。
──もし、今日‥‥
オゼルクが命じたならシゼはイーツェンを抱いただろうか。イーツェンは息をつめてそのことを考える。
シゼは、オゼルクとルディスの意志には逆らえない。当然だ。一介の剣士が王族の意志の前に立ちふさがることは、城から放逐されることを意味する。だが一度、イーツェンが熱を出して寝込んだ時、彼はルディスが部屋に立ち入ろうとするのを拒んで追い返したことがあった。
(シゼに入れてもらうか?)
オゼルクに囁かれたあの瞬間、どれほど自分がシゼを求めかかったか、どれほどシゼの名を呼ぶギリギリだったか考えると、恥辱に身がちぢんだ。シゼをまるで、自分の欲望を満たす物のようにしか考えていなかった。
イーツェンは腹の底がねじれるような苦痛に身をきつく丸め、シーツをつかんで、喉につまる息を殺そうとした。あさましいほどにシゼがほしいと思った。あれはただの肉欲だ。そんな爛れた自分をシゼに見せつけたことが耐えきれなかった。
「イーツェン?」
闇の中で声がする。ひどく静かで、低い声だった。びくりと身を震わせ、イーツェンはうつ伏せに丸めた体をのろのろと起こした。
「‥‥シゼ?」
「眠れませんか」
寝台の足元の床で影が動き、シゼが立ち上がるとイーツェンへ歩み寄ってきた。くらがりの中で彼は手早く動き、イーツェンの上にかがみこむと顔を濡れた布で拭った。寝台の頭側に水盤が置かれていることに、イーツェンはシゼの動作で気が付いた。
シゼは隣りの続き部屋か、同じ塔の別の部屋で眠るのが常だ。床とは言え、彼が寝室で眠っていたことはなかった。
「何で‥‥」
「うなされていたので」
そう言って、シゼは布を水盤に戻し、寝台に左腕をついてかがむとイーツェンの髪をなでた。無骨だがおだやかな手だった。イーツェンは少しの間動けなかったが、ふいに涙がこみあげて、小さく鼻をすすった。
「シゼ」
「はい」
「‥‥怖い」
シゼは黙ったまま寝台に腰をかけ、イーツェンの体に腕を回して抱き寄せた。髪の間から指が入りこみ、首すじを這って、イーツェンの身が反射的にこわばったが、シゼの指先はゆっくりと首の左右の筋肉をさぐって押すように揉みはじめた。
「緊張しすぎです。少しゆるめないと、頭が痛くなりますよ」
イーツェンは引かれるまま顔をシゼの胸元に寄せ、体の力を抜いた。力強い指が首の凝りをほぐし、ゆっくりと筋肉の緊張をゆるめて、あたたかいものがひろがっていく。シゼの体温がつたわってくるのが心地よく、罪悪感をおぼえながらも身をはなすことができなかった。つぶやく。
「子供みたいだ。馬鹿みたい」
「あなたはそのどちらでもありませんよ、イーツェン」
「‥‥そうだな。子供はあんなふうに足をひらいたりしない」
それを言った瞬間、イーツェンは心の底から後悔したが、すでに言葉は口からこぼれた後だった。シゼの手がとまる。静寂に耳奥が張るほどの沈黙が寝室に満ちた。
何か言おうとしたが、イーツェンには言葉が見つからなかった。ただ息をひそめ、服ごしにつたわってくるシゼの心臓の音を聞いていた。その鼓動は少し早いように感じられる。だが喉の奥で皮膚をひくつかせる自分の鼓動の方がはるかに早かった。
シゼの指がゆっくりと動き出し、イーツェンの髪の中へ入りこんで、延髄のつけ根を揉んだ。親指と人さし指に頭蓋の下部を押し上げるように揉まれ、痛みすれすれの刺激にイーツェンは眉をしかめてこらえる。シゼが怒っているのかどうかが、わからない。
首から後頭部までをほぐし、少しゆるめた力でゆっくりと首のつけ根を揉んでいたが、シゼがふいに低く呟いた。
「私は、あんな形であなたを抱いたりしない。たとえ命じられても」
びくりとイーツェンが身をこわばらせ、顔をシゼのシャツから離して見上げたが、くらがりに男の顔の輪郭が見えるだけで、どんな表情をしているのかうがかい知るすべはなかった。指が離れる。
「‥‥シゼ。すまない」
「前にも言った、あなたの過ちではない。彼らの罪だ、イーツェン。それを自分の身に引き受けてはいけない。そんなことをしていたらいずれ破滅してしまう」
その声は静かだったが沈痛で、イーツェンはシゼが強い苦痛をこらえていることを感じ取った。身にふれたシゼの体も固く、緊張がこもっている。
首に回されたシゼの腕を外し、イーツェンは寝台に起き上がると服をつかんで引いた。
「シゼ。こっち」
「イーツェン──」
「一人で眠りたくないんだ。襲うほどの元気はないから、安心していい」
なるべく冗談めかしてそう言うと、シゼが小さく笑う息を吐いて、イーツェンに引かれるまま寝台へあがった。イーツェンがシゼの背を叩く。
「うつ伏せ」
「何故──」
「乗馬の練習に決まっている。ほら、馬になって」
シゼはまた少し笑った。イーツェンも笑うと、シゼをシーツの上にうつ伏せに寝かせた。シゼはイーツェンの手が首にふれるとギクリとしたが、すぐに力を抜いてイーツェンの好きにさせた。イーツェンはシゼのやった仕種を真似てがっしりした首すじへ指を這わせ、ほぐしはじめる。
シゼの首の根元の筋肉は石のようにこわばっていた。たくましくはりつめた筋肉に指の入る隙もない。イーツェンが意地になって力をこめると、シゼがふっと笑った。
「そんなに力を入れると痛いです」
「ごめん」
「あまり一気に押すと、筋肉を傷める。もう少し力を抜いて‥‥そこは、骨です。骨を押してはだめですよ。もう少し右‥‥そう、そこの筋がわかりますか? 筋にそって押してみてもらえますか」
教えられるままにしばらく揉んでいると、段々とイーツェンの手つきが慣れてきたのか、単に時間を重ねて筋肉がほぐれてきたのか、こわばっていた筋肉が少しゆるんでイーツェンは固かった指先に弾力を感じはじめた。こういうものかと感心し、おもしろくなったイーツェンは、さらに熱を入れてシゼの首から肩にかけて揉みほぐしはじめる。
薄地のシャツの上からたくましい肩の筋肉にふれ、それをほぐしていくのは思いのほかに楽しい作業だった。シゼは途中からほとんど物を言わなかったが、時おり洩らす吐息と指につたわる体のほぐれが彼が心地いいのだと知らせ、イーツェンを少しばかり得意な気持ちにさせた。筋肉の外側がほぐれると、内側から小さな凝りが筋にそってあらわれる。それを、手のひらの親指側をつかって体重をかけるように丁寧に押し揉んだ。
単調な作業に没頭していたので、シゼがもぞもぞと動いた時にどれほど時間が立っていたのか、イーツェンにはよくわからなかった。
「ありがとう、イーツェン」
低く囁き、イーツェンの膝をかるく叩くと、シゼは仰向けにころがって満足げな息をついた。イーツェンは微笑して、シゼの左横に身を丸めるように横たわる。頭をシゼの肩につけ、少しためらってから左腕をのばしてシゼの体に回した。
シゼが右手でイーツェンの手にふれ、指を握りあわせた。イーツェンは目をとじる。シゼが自分にぬくもりを与えようとしているだけなのはわかっていたが、それでもよかった。気休めでも同情でもいい、ただ今はつたわってくる体の温度がイーツェンを安らがせる。
シゼの指がイーツェンの指の傷にふれる。そっとなでながら、呼んだ。
「イーツェン」
イーツェンは口の中で返事をした。眠くはないが、はっきりと意識の焦点を結んでもいない。
シゼは静かにつづけた。
「あなたに‥‥知らせておきたいことがある」
「何」
「オゼルクは、私を憎んでいる」
シゼがオゼルクに「様」や「殿下」、「王子」といった敬称をつけなかったことに気付いたが、イーツェンはまったくとがめる気にはなれず、低く問い返した。
「オゼルクと、何かあったのか?」
「‥‥私は前に、オゼルクが抱いていた相手と情を通じたことがあります」
さすがのシゼもそれを口にするのはためらわれたのか、シゼの口調はいつもより早かった。イーツェンはぎょっとしたが、それは言葉の中味にではなく、そこまで告げたシゼの率直さに対しての驚きだった。
シゼが右手を引こうとする。イーツェンはからめていた指に力をこめてそれを引き戻した。指の傷が痛むがそんなことにかまってはいられない。シゼの肩にさらに深く頭をよせ、たずねた。
「いつ?」
「‥‥4年近く前です」
シゼの手は汗ばんで、体はこわばりを帯びている。彼が苦しんでいるのがつたわってきて、イーツェンは細い息を吐いた。
「オゼルクは、その相手が好きだった?」
「私には、わかりません。‥‥ただ──彼は、そうではないと言っていた。単なる執着だと。私にはわからない、イーツェン」
彼というのはオゼルクではなく、情を通じた相手なのだと、イーツェンはシゼの話し方で悟る。エリテの、どこか淡い微笑が頭をよぎった。
「シゼ。質問をするから、話したくなければ言わなくてもいい」
「何ですか?」
「オゼルクは、お前が抱いた相手が塔から飛び降りたと言っていた。同じ相手か?」
闇の中でもイーツェンはシゼの体に強い緊張がはしるのを感じ、自分がその問いを持ち出したことを後悔した。シゼの中ではまだそれは癒えていないのだ。生々しい傷に素手でふれるような真似をしたくはなかった。
イーツェンは握りあった指に力をこめ、軽くゆすった。
「いい、シゼ。悪かった」
「いえ──それも、お話ししようと思っていました」
「シゼ‥‥」
「私はオゼルクの情事の相手を寝取った。彼はオゼルクを拒もうとしましたが、オゼルクは関係をつづけるよう強いた。私には彼を守るすべはなく‥‥この城を去るか、彼がオゼルクに体をひらくのを見ているしかなかった。私は彼のそばに残りましたが、彼は塔から身を投げた」
「‥‥」
「以来、オゼルクは私を憎んでいる」
どこかうつろな声で、シゼは呟いた。
「今日‥‥オゼルクがあなたにしたことは、私がいなければおこらなかったことかもしれない。彼はまだ私を憎み、それをあなたにぶつけている。‥‥私は──」
ふいに声が割れ、シゼは呻くような音を立てて大きな息を吸った。イーツェンはふりほどこうとするシゼの手を離さず、呼吸に荒く上下するシゼの胸へ握った手を置いて、寄せた唇でシゼの頬へくちづけた。汗の苦い味がする。
「わかった。もういい」
「イーツェン、あなたはわかっていない。私の存在がオゼルクをさらに刺激している」
「お前は自分のその口で言ったんだぞ。私は悪くない、罪は彼らにある、それを自分の身に引き受けてはいけないと。私にそれを言うなら、自分にも自分の言葉を向けろ。それとも、あれは嘘か?」
「それとは、ちがう」
「どうちがう。どこがちがう。お前に咎のないことでオゼルクがおかしなふるまいをしたからと言って、お前が責任を感じるいわれがどこにある。お前も、その相手にも、責任などない。私はどちらに対しても、そんなふうに考えたりはしない」
区切りながら、はっきりと、イーツェンはそうシゼに告げる。その相手が誰だかわかっていることを、言外にシゼに伝えておいたほうがいいような気がした。わかっているし、そのことに悪い感情を抱いてはいない、と。
エリテを抱いて苦悩の表情で宙を見つめていたシゼ。あの時、シゼは過去を思い出し、それを現在に重ねて苦しんでいたのだろうか。愛する相手と身を寄せてもそんなふうに苦しむことしかできないのなら、それはどれほどつらいだろう。エリテなら彼を癒せるだろうと、イーツェンはそう思ったが、シゼが癒しを受け入れようとしていないのは明らかだった。
──石頭。
「シゼ。彼らが私の足をひらきたがるのは、彼らの問題であって私のあやまちではないと、やっと私はそう信じかけていたのに、お前がそんなふうに悩むと私はどう考えていいのかわからない」
軽い口調でさらりと言うと、イーツェンは大げさに溜息をついてみせた。シゼはまだ黙っている。その指を離し、イーツェンは体をシゼへきつく寄せて、左腕でシゼの体を抱いた。
「お前は悪くない。シゼ」
「‥‥あなたが傷ついた」
ほとんど聞こえないほどの、低い声だった。イーツェンは目をとじ、額をシゼの肩につけて微笑する。かくまでも義務というものを重んじる。その頑固さが苛立たしくもあり、心強くもあった。
「そうだな。だが傷つけたのはお前ではないし、お前も傷ついた。それを背負い込むな。オゼルクの思うつぼだ」
「‥‥」
「私は大丈夫だ、シゼ。そのうち彼らも飽きる。うまく逃れる方法を考え出せるかもしれない。だから‥‥」
息を吐きだして、イーツェンはシゼに回した腕に力をこめた。その先に何を言おうとしたのか自分でもよくわからなかったし、自分の言っていることを自分が信じているのかどうかもわからなかったが、シゼに信じさせることが肝心だった。
それがうまくいったのかどうか、わからない。だがシゼの呼吸が次第にゆっくりとなり、大きく動いていた胸が落ち着くのが感じられた。やがてどれほどたったのか、シゼが眠りに落ちた気配を感じてイーツェンは目をひらいた。
シゼの寝息を聞きながら、彼はしばらく闇を見上げて考え込んでいた。城に飼われている猟犬の遠吠えがしじまに長く尾を引き、吸いこまれるように消えていく。塔は静かだったが、吹く風が石をなでる音が時おりかぼそい鳴き声のように聞こえた。やがて、イーツェンのまぶたも重くなり、彼は目をとじて眠りの中に引き込まれていった。
夢のない眠りから目を覚ますと、シゼの姿はもう寝室になかった。
顔をシーツにつけ、イーツェンはもぞもぞと身を丸めた。姿は見えないが、シゼの匂いが残っているのが感じられて、まだうつつに眠りつづけているような気分になった。
起床の鐘が鳴るのが聞こえてくる。それでも起き上がらずに丸まっていると、寝室の扉がひらいて足音が近づいてきた。
「朝です」
素っ気ないほどの口調で事実を告げ、シゼは寝室の窓を開け放ち、光の中に立ってイーツェンを振り向いた。イーツェンは毛布をもぞもぞと足で押しやりながら、あくびをする。寝そべったまま体をのばしてみたが、意外と身はかるく、重苦しい熱も一晩で消えていた。よく眠ったようだった。
シゼは注意深くイーツェンを見ているようだったが、逆光になってよく顔が見えず、イーツェンは目をほそめた。
「何?」
「体調はどうですか」
「ああ。大丈夫」
「では、朝課が終わったら、訓練場へ行きませんか。剣の稽古の許可をもらいました」
「‥‥ほんとに?」
おどろいてイーツェンはぽかんと口をあけ、起き上がった。オゼルクの様子からして、剣は絶対に駄目だと思ったのだが。
「どうして──」
「やりますか、今度にしますか」
「やる」
勢いこんで答えると、シゼが少し笑ったようだった。そのまま部屋を出ていく。
イーツェンは寝台からおりてサンダルをひっかけ、服を着替えるために棚を開いた。昨日の今日でもう気分がこれほど軽くなっている自分がおかしかったが、悪い気はしなかった。