イーツェンはソファに横倒しになって身を丸めていたが、ふいに喉に嘔吐感がせりあがった。喉が締まるような音をたて、口元に手を当てようとしたが、その手が有無を言わさぬ力で引きはがされ、口に布があてられた。
「大丈夫、吐きなさい、イーツェン」
 力強い声がして、恐慌にばらばらになりかかったイーツェンの意識を引き戻す。目をとじ、体の力を抜いてソファにもたれると、力強い腕が体に回されてイーツェンを抱きしめた。
 イーツェンがかすれた声で呻く。顔をあげることはできなかった。
「駄目だ。離れろ、シゼ──」
「いいから見せて」
 耳元でシゼの声が低く囁き、体がびくりとはねた。イーツェンは頭を振る。
「やだ‥‥やだ‥‥っ」
 力の入らない体をシゼがやすやすと抱き起こし、ソファへ普通に座らされた。身を丸めようとしたが、シゼの手が膝頭をおさえてあっさり体をのばす。その手のざらついた感触すらあまりに甘く、肌に快感のさざなみがはしって、イーツェンはもがいた。
「やっ‥‥駄目──」
「イーツェン」
 その声はどこか湿って聞こえた。動きがとまった瞬間、肩をシゼの左腕に抱かれ、唇を重ねられた。シゼの唇とその温度に、イーツェンは一瞬で溺れる。ひげのそり痕が頬にざらつき、固く荒々しくさえある唇の感触を夢中で求めていた。
 短い時間で体を離し、シゼはイーツェンの顔を両手でつかむとしっかりと目を合わせてのぞきこんだ。逃げ場がなく、イーツェンはもがくが、シゼの力の前ではどうしようもない。シゼの目を見るしかなかった。
「落ち着いて。彼の思い通りにさせてはいけない、イーツェン。自分を失ってはいけない」
 シゼは静かに、区切るように語りかけた。言葉の意味よりも、くりかえされる静かな口調とゆらぎのない声がイーツェンの体にしみとおり、イーツェンはもつれた意識の中でシゼの声だけを聞いていた。自分を見つめるシゼに目ですがりながら、シゼの腕に手をのせ、力をこめる。
 シゼが胸にイーツェンを抱き寄せ、乱れた髪を撫でた。イーツェンは力強い胸板にくずれ、喉からあえぐような短い息を吐いていたが、それが徐々におさまってくると、シゼがたずねた。
「少しは落ち着きましたか?」
「‥‥‥」
「体を拭かないと。あまり時間がない」
 その言葉の意味はイーツェンにもわかった。半刻で戻るとオゼルクが言ったのは、その間に消えていろということだ。だがわかっても、シゼにすがりついて身をふるわせる以上のことはできなかった。離れるのが怖い。
「シゼ‥‥シゼ──、やだ‥‥」
「私はあなたの味方だ、イーツェン。私を恐れないで下さい」
「いや‥‥あ‥‥んな‥‥」
 恐慌に目を見開いたまま動けなくなったイーツェンを見下ろしていたが、シゼがいきなりイーツェンの顔をはたいた。
「考えるな」
 強い力ではなかったが、イーツェンはおどろいてシゼの顔を見上げた。そのあごをつかみ、シゼははっきりとした口調で命令する。
「立て、イーツェン」
「‥‥‥」
 茫然としたまま、イーツェンはシゼの腕に引かれてよろよろと立ち上がった。足に力が入らない。うまく彼が立っていられないのを見ると、シゼはイーツェンの腰を抱いて机の方へつれていき、書類の置かれた机に手をついて立たせた。
 客室から手を洗う水盤を取って戻ると、書類を無造作にどかして机に水盤を置き、シゼは絞った布でイーツェンの体を拭い始めた。汗だけでなく精液がなすりつけられた肌を丁寧に、だが手早く確かな手つきで拭う。べっとりと汚れた下腹を拭われ、イーツェンがたじろいだが、動けぬうちに濡れた布が楔を拭った。
 感じないように唇を噛んで、イーツェンはシゼの方へ首をねじった。無表情で、だが少し怒ったように口を結び、シゼは床に片膝をついてイーツェンの肌を拭いている。
「シゼ」
「何です?」
「もういい。‥‥自分でやる」
 シゼは見上げるとうなずき、一度水で布をすすいでから、イーツェンのとどかない背中だけをもう一度拭った。布を受け取って、イーツェンは扉の方を目でさす。
「呼ぶから。そっちで待っててくれ」
「わかりました」
 表情を変えずにうなずき、シゼは大股に部屋を横切って客間へと姿を消した。
 イーツェンは絨毯に膝をつくと、左手で布を押しあて、右手の指を奥孔へとさしいれた。まだ熱いそこは吸いつくようにイーツェンの指を呑み込み、締めつけた。息をつめ、中に残るぬめりをかきだす。下肢によどむ快感の名残りがうごめいて、彼は歯を噛み、最後まで終えると体を拭い、水盤に残る水で手を洗った。体中にべたつく粘液がからみついているような気がしたが、二度ときれいになるまいと思った。
 できるだけ手早く服をまとうと、客間への扉を開ける。シゼはすぐに入ってきて水盤の水を窓から捨て、水盤を客間へ片づけた。
 その時になって、イーツェンは髪をしばっていたひもがないのに気が付いた。床に膝をついて絨毯の上を探し回りはじめる。落ちていないかどうか、目をこらして探していると、部屋に戻ってきたシゼがあっけにとられたような声を出した。
「何をしているんです」
「‥‥ひも。髪の。ない」
「ああ‥‥」
 考え込んでいたが、シゼは顔をしかめた。
「オゼルク様の服のポケットですよ」
「えっ」
 頭の中が真っ白になって、イーツェンは床に座りこんだ。子供のようにシゼを見上げて訴える。
「髪が結べない」
 シゼは首の後ろに手をやると、ぐいと払う仕種で自分のひもを取った。結び目をほどき、イーツェンの後ろへ回って膝をつく。黒髪を指でなで、ひとつにまとめると素早くくくった。ぽんとイーツェンの頭をなでる。
「これでいい。立てますか」
「うん‥‥」
「歩けますか」
 歩ける気はしなかった。オゼルクとの性交自体は体に手ひどい負担はなく、傷もなかったが、ただ足元が綿のようにふやけて体をうまく支えていられない。だが、とにかくオゼルクが戻る前にここから姿を消さねばならない。彼ともう一度顔を合わせることを考えただけでイーツェンは気が遠くなりそうだった。
「歩く」
 シゼの手を借りて立ち上がり、歩き出す。もつれそうな足取りだったが、シゼは何も言わず、二人はオゼルクの部屋を出た。


 広い廊下に出ると、シゼは遠回りする方へ歩き出した。部屋ほどに幅の広い廊下を横切り、人が行き交う中をすばやく抜けて幅の狭い奥階段へ回る。大股の足取りにイーツェンは必死でついて歩いていたが、人のいない階段で立ちどまると、シゼはイーツェンの腕をつかんだ。
「蔵書塔へ行きましょう。あそこは近い」
「‥‥‥」
 イーツェンは壁に肩をもたせて息をつき、うなずいた。部屋がある北の塔は遠いし、ここからだと人の多い中廊下を通らねばならない。蔵書塔にはあまり使われていない奥廊下を通ってたどりつくことができる。
 途中の待ち廊下で少し休みながら、イーツェンはシゼがマントを丸めたものを持っているのに気が付いた。さっきまでまとっていた短いマントを外し、何かをくるむようにして小脇にかかえている。
 ふいにイーツェンは、自分が脚鎖をはめていないのを思い出し、シゼが抱えているものが何であるのか理解した。言葉もなくシゼを見上げる。シゼの、色の濃い金髪の後ろ髪が結びを失い、首の後ろにほどけていた。かすかに首を傾けてイーツェンを見下ろしていたが、ふいにシゼは微笑した。
 ──笑うと綺麗だ。
 そうぼんやりと考え、イーツェンは微笑を返した。シゼが笑うといつもの厳しい線が顔から消え、人懐っこいほどの表情になる。
 腕を取られて立ち上がり、イーツェンはまた歩き出した。体中に不快な汗が次から次へとにじみ、心臓が喉元までふくれあがったように大きく脈をうちつづける。世界が傾く。時おり息をつまらせながら、腕を支えるシゼの感触をたよりに、彼はひたすら歩きつづけた。


 蔵書塔はイーツェンが暮らす北の塔のように本棟と別に立っているわけではなく、壁から大きく張りだした半円形の建物部分のことをさしていた。
 蔵書室表扉ではなく、奥まった作業室の扉をシゼが叩くと、少し間があって中から黒い服をまとった若い男が顔を見せた。金のきらめきを含んだ栗色の髪を首の後ろで編んで一本に垂らし、左耳に翡翠のピアスをしている。端麗でおだやかな面ざしの男で、イーツェンも見知った司書の一人だった。本を選ぶのを手伝ってもらったこともあるし、イーツェンは何度か誘われて書架の整理と掃除を手伝ったこともあった。
 顔を出し、イーツェンをちらっと見てから彼はシゼに心配そうなまなざしを向けた。
「どうかしましたか」
「少し休ませてもらえるとありがたい、エリテ」
 丁寧な口調でシゼが答える。「エリテ」というのは司書に冠される言葉で、普通は名前の上につくのだが、この司書だけはどういうわけか「エリテ」と役職名だけで呼ばれ、イーツェンも彼をエリテと呼んでいた。
 エリテはためらいを見せずに扉をひらき、作業室へ二人を招き入れた。中へ入るやシゼがイーツェンの背中に腕を回して膝をすくいあげ、両腕にかかえて奥の長椅子まで運んだ。壁際の長椅子は木箱で作られただけの粗末なものだったが、体をのばすだけの長さは充分ある。
 エリテが悪い右の足を引きずりながら、棚に歩み寄った。棚の下から引っ張り出した毛布をエリテが長椅子にひろげ、シゼがイーツェンを寝かせた。起き上がろうとするイーツェンの肩を無言で抑え、寝ているよう示す。
 エリテは身をかがめて作業机の下に頭をつっこんでいたが、細長い壺を持って体をおこした。ことん、ことんと片足をひきずりながら、長椅子に歩み寄る。
「少し強いけど、その方がいいでしょう」
 そう言いながらイーツェンの頭のそばに錫のカップを置き、壺の栓を取る。つんと香気がたつ酒を注いだ。イーツェンの頭をささえ、唇にカップをあてて飲むよううながす。酒を飲みつけないイーツェンにとっては喉を灼くかと思われるほど濃い酒だったが、彼はそれをすべて飲み干した。
「いい子だ」
 体の上にもう一枚毛布をかけられ、ぽんぽんとエリテに胸元を叩かれる。イーツェンは何か言おうとしたが、頭の中に粘土がつまったようで何も言葉が見つけられなかった。視線がぼんやりとさまよいだす。
 壁沿いに長いテーブルが据えつけられ、その上の壁にとりつけられた薄い棚に道具がおさめられていた。壁は塗りを重ねた漆喰で、低い窓からさしこむ光がぼんやりと壁の染みを照らし出していた。それを眺めて何かに似ているような気がしたが、何に似ているのかよくわからなかった。
 壁に肩をもたせかけ、シゼがイーツェンを見ている。真剣な顔で少し眉をしかめ、口元を厳しく引き結んでいた。笑えばいいのに、とイーツェンは思う。シゼは笑ったほうがずっといい。そんなことを考えていると、頭がどんどん重くなり、濡れた砂に引きずり込まれるように眠っていた。


 ‥‥り、また彼が──
 ‥‥考えないと。守って‥‥
 ぼそぼそとした話し声が聞こえる。コトン、コトン、と小さな木の音もしていた。エリテの杖の音だ。短い距離なら杖なしでも大丈夫だが、彼はたいていいつも握りの丸い木の杖を持って歩いていた。
 夢うつつでそれを聞いていたが、ふと気が付くと声も音も途切れていた。沈黙に引かれるように、イーツェンは目を開いた。ぱちぱちとまばたきする。頭が重い。体の至るところが硬かった。
 体がすべてを拒否しようとしている。記憶も行為も。それが苦痛になって肉体の内側に凝っているのはわかったが、イーツェンにはどうしようもなかった。
 酒のせいか、頭がまだぼんやりとしているのがありがたい。何もかもが遠くでおこったことで、自分はそれを伝聞で聞かされただけのような気がした。毛布をはいで体をおこし、イーツェンは固い木の長椅子に座りこんだ。頭を振る。もう夕暮れがたちこめはじめているようで、部屋の中は暗かった。
 サンダルをはいていないのに気が付き、周囲を見回した。床のかたすみに置かれているのを見つける。シゼが脱がせてくれたのだろう。立ち上がり、用心深く歩いてみる。地にしっかりと足がついている感じではないが、とにかく足はもつれなかった。
 しゃがみこんでサンダルをつかみ、イーツェンはその横に置かれた布の塊を暗い目で見下ろした。この中にはあの枷がある。本当なら今もつけていなければいけないものだ。ため息をつき、サンダルをはくと、よろよろと立ち上がってあたりを見回した。
 奥行きの長い部屋で、壁際にしつらえられた長い作業机の前に腰高な作業用の椅子が据えられ、道具棚や木箱などが雑然と、だが使いやすそうに並べられていた。机は本来は立って作業を行うものなのだろう、かなり高い位置に取り付けられ、表紙と中とがばらばらにされた本が上に置かれていた。針と蝋引きした糸がそばに用意され、エリテはどうやら本を綴じ直そうとしていたようだ。紙の上にのせられた丸い重石も箱におさめられたいくつものナイフも丁寧に使い込まれて、手のあたる箇所は美しい黒ずみを帯び、ナイフの刃はきれいに手入れされていた。砥石をあてられたその先端は、ほのぐらい部屋の中でもひややかにかがやいていた。
 その光を見て、イーツェンは身をふるわせる。一瞬だけ、首を刃で押し切る感触を想像していた。
 解放。
 ──頭を振って、イーツェンはその誘惑を頭の外へ押しやった。
 シゼの姿もエリテの姿もないが、眠っているうちに聞いた会話はたしかに彼らの声だった。隣りの部屋にいるのだろうかと思って、イーツェンはたよりない足取りで部屋を横切った。隣りへ続く出入り口には扉がない。四角く切り抜かれたような壁の穴から頭を出し、中をうかがって、イーツェンは立ちすくんだ。
 そこは広い読書室になっており、書庫よりは小さいが書架が四列にならべられた室内に、ぼんやりとした光が浮かんでいた。乳白色の幌のかかった大きな台の上に置かれている。油燭が書架の中央にある椅子は浅い緑に染められた天鵞絨張りで、貝殻の形に弧を描き、向かい合わせに二組み並べられていた。その中心にも油燭が置かれているが、今は椅子には誰もいない。
 イーツェンの場所から、書架の間が見えた。本が並べられた書架の間に立っているのはシゼとエリテの二人だったが、エリテの頭はシゼの肩にのせられ、腕はシゼの腰に回されていた。シゼは左手をエリテの背中に回し、書架のはじによりかかって宙を見つめていた。
 イーツェンの心を刺し貫いたのは、二人の親密な様子ではない。それにも驚きはしたが、よりそった彼らの様子はじつに自然で、胸に落ちる説得力があり、イーツェンは自分でもふしぎなほど納得していた。だがエリテを抱くシゼは眉の間に影を溜め、唇を引き結んで虚空を凝視し、薄闇を通して見える表情は苦悩以外の何ものでもなかった。
「‥‥‥」
 少しのあいだ動けずにいたが、イーツェンはそうっと体を引いて部屋の中へ戻り、長椅子へ座った。ぼんやりと天井をあおぐが、頭の中が細切れになったようで何ひとつまとまった考えが浮かんでこなかった。
 エリテなら似合いだ、と思う。おそらくシゼと年も同じくらいだ。背は少し低いか。丁寧なしゃべり口の人で、イーツェンが城に来たころから何かと気をくばり、故郷の本などを見つけては知らせてくれた。イーツェンが自由に蔵書を見られるよう司書の長にかけあってくれたのも彼だ。
 イーツェンはあまりエリテのことを知らないが、優しい人なのは確かだった。シゼもそれがわかっているから、こんな状態のイーツェンを彼のところへつれてきたのだろう。エリテをたよりにして、信頼しているということだ。
(シゼは‥‥)
 どうしてあんな顔をしていたのだろう、と思う。自分によりかかるエリテを抱いたシゼの仕種は優しかったし、シゼの気持ちがエリテにあることはイーツェンにもはっきりと見てとれた。
 イーツェンのことを気にしているのだろうか。自分によりかかることしかできない相手を、それでもシゼは丁寧に扱い、きちんと面倒を見ようとしている。義務感のかたまり。
 髪を結ぶひもにふれ、イーツェンは長い溜息をついた。
 曲げた足を引き寄せ、膝に顎をのせる。それだけの動作で体の芯が痛んだ。忌まわしい快感の記憶がひきつれのように体に刻まれている。自分があの瞬間をどれほど愉しんだのか、オゼルクに犯された一瞬ずつがよみがえり、喉の奥に苦いものがこみあげてきた。
 泣き出しそうになっていることに気付いて、彼は膝に目頭を押し当て、息をつめてこらえた。しゃっくりのような音が喉からこぼれる。口を抑え、指を噛んだ。
「ふ‥‥ぅ‥‥」
 小さな声を出して肩をふるわせた。何一つ自分にできることなどないような気がする。無力で、役に立たない。弱い自分が忌々しかった。泣きやむことすらうまくできない。腹から胸にかけて体の内側に痛みがはしり、彼の息をとめた。
 そうして体を丸めていると、次第に体の中の痛みが薄れた。イーツェンは目をとじる。眠りたい。何も考えたくない。だが記憶は勝手に頭の中で回りはじめる。自分の声、オゼルクの声、シゼの目、体の熱──
 もう耐えられない。どうやってこれに耐えたらいいのかわからなかった。
「イーツェン!」
 いきなり肩をつかまれ、世界がぐらりと回った。後ろに体を倒され、壁に背中をぶつけて、イーツェンは茫然とシゼを見上げていた。シゼの顔にははっきりとした怒りがあらわれている。反射的に身がすくんだ。
 シゼはイーツェンの怯えに気付いた様子で、ふっと体を離し、うつむいてイーツェンの左手を取った。赤い。指に歯がくいこんで血がしたたり落ちていた。無言のままシゼは指を唇に含んで血を吸いとると、リンネルの布を取りだして細く裂き、傷がついた二本の指をまとめて巻いた。手早く結び目をつくって、イーツェンの顔を見つめると、唇についた血を指をのばして拭った。
「痛くないですか」
「‥‥うん」
 イーツェンはうなずく。
「ごめん‥‥」
「あなたは悪くない。あやまるのはあなたではない」
 どこか苦しげな声で言って、シゼは立ち上がった。
「私は、あなたの謝罪は受け取らない。絶対に」
 イーツェンは何を言ったらいいのかわからないまま、いきなりきっぱりと放たれた言葉に混乱してシゼの背中を目で追った。シゼは隣室への境へ歩いていく。
 エリテが扉のない入り口の横によりかかって痛めている右足をゆるめ、物憂げに二人の様子を見ていた。シゼは彼に歩み寄り、二言三言低く言葉を交わすと、二人は何かを同時に言いかかり、ともに言葉を呑み込んで、数瞬、相手の顔を見ていた。
 イーツェンは足をのばし、立ち上がった。
「シゼ。私は廊下にいるから」
「私も行きます」
 シゼはふりむかずに言った。義務。イーツェンは溜息をつく。エリテが微笑して、シゼの肩を叩くと、イーツェンへ向けておだやかな声で言った。
「またおいでなさい。リグの古い本が手に入ったのですが、わからない文字があって。神聖文字ではないかと思うのですが、読むのを手伝っていただけると助かります」
 イーツェンは無言でうなずき、どうにか微笑を返した。エリテは身を翻すと、右手の補助杖をつき、右足を引きずりながらコトンコトンと杖の音をたてて隣室へ戻っていった。
 シゼが素早く身を翻してイーツェンに歩み寄った。布で結んだ左手を取る。
「本当に痛くないですか」
「‥‥痛い」
 傷は今さらずきずきと痛みはじめていた。シゼは溜息をつく。ごめん、とあやまりそうになって寸前で言葉を呑み、イーツェンは目で床に置かれた包みをさした。
「それを」
「‥‥‥」
「シゼ」
 シゼはぐっと口を結んだが、無言でマントのかたまりを取り上げ、布をほどくように中から革の枷を取りだした。イーツェンがローブをたくしあげる。その前に膝をつき、いつもと同じ仕種で二つの枷を巻いて鍵をしめ、シゼは立ち上がった。
「行きましょう」