丁寧な手で揺り起こされ、イーツェンは目をあけて頭上にあるシゼの顔を見上げた。隣りの部屋で薄い毛布を敷いて眠った筈だが、シゼはもうすっかり身なりをととのえ、灼けた色の金の髪にも櫛をあてられて首の後ろでくくられていた。後ろ髪は長くはないが、しっぽのようなそれが鬱陶しいのか、シゼはかなり神経質にそれを結ぶ。
 朝の挨拶を口にしようとしたが、イーツェンの喉からはつまったような咳しか出ず、シゼは軽く眉をしかめて出ていくとすぐに水を持って戻った。イーツェンの上体を抱き起こし、水を渡す。乾いた喉に一気に水を流しこんで口元を拭い、イーツェンはぼそっと呟いた。
「夢を見た」
「そうですか」
 シゼはうなずき、ほとんど空になったグラスを手にして寝室から出ていこうとする。イーツェンの声がそれを追った。
「どんな夢だ、とは聞かないのか」
 窓が開け放たれた寝室には朝の光がさしこんできている。その光の境目に立ち止まってイーツェンを振り返ったシゼの表情は、ただ静かだった。
「わかりますよ」
「何で」
「故郷の夢でしょう」
「何でわかる!」
 シゼはイーツェンを見つめ、自分の頬を指でさすと、背を向けて隣りの居室へと歩み去った。イーツェンは一瞬ぽかんと口をあけたが、はたと気付いて指先を頬に這わせる──肌はたしかにこわばって、目尻からかわいた涙の痕を指でたどり、イーツェンは溜息をついた。
 水桶に残った水で顔を洗い、服を替えて居室へ行くと、シゼは丸テーブルの上にチーズとパンの皿を並べていた。ぬるいスープの入った壺もある。イーツェンが酒を好まないことから、シゼは朝わざわざ厨房からスープまで取ってくる。傭兵が召使いの真似事までするのはイーツェンにも奇妙に感じられたが、シゼに世話をやかれるのは嫌ではなかった。
 ソファに座ったイーツェンが自分の横を示すと、シゼはおとなしくそこへ座った。他に椅子といえば壁際の書物机に合わせた肘掛けつきの椅子しかないので、座るとすればほかに場所はない。イーツェンが、他人を立たせたまま一人で食事をすることなど出来ないと言い張ってシゼを相伴に座らせるようになったのは、この城へきてまだ一月もたたないころだった。
 パンに短剣で切ったチーズをのせて食べながら、イーツェンは横で黙々と食べているシゼを見やった。厚切りの黒パンに自分で切ったチーズをのせたものが、一口か二口でシゼの口の中に消えてしまう。ワインを飲んで流しこむのも早々に、また次のパンへ手を出す。機械的な仕種からは、彼がイーツェンとの朝食をたのしんでいるようには見えなかった。あるいは、朝食自体を。
「私と食べていてもつまらないか?」
 シゼはおどろいたようにイーツェンを見ると、口を動かしてパンを飲み下し、少し考えた。その様子を見ながらイーツェンは手にしたパンを小さく割り、玉ねぎのスープにひたして口へはこんだ。
「‥‥私はあまり、食事を楽しいかどうかというふうに考えたことはありませんね」
 慎重に、シゼは答えた。イーツェンが首をかしげる。
「どうして」
「腹を満たすためのものでしょう。だから」
「楽しむ必要はない?」
 小さく、シゼはうなずいた。イーツェンはパンのかけらを手から払い落とし、チーズだけを怠惰な仕種で口へはこんだ。
「私が育ったウルシェキの離宮ではな、よく皆であつまって食事をとった。この城の晩餐のように立派でも格式をかまえたものでもなく、粗末と言ってもいいほどのものだが。あたたかい季節なら外で、地面に座りこんで獣肉を煮込む鍋や料理を盛った大皿を囲んだものだ。肉をあぶり焼きにする火のかたわらで、子供と犬が余り肉の取り合いをして取っ組み合ったりしていたよ。どちらも必死で鳴くのだ。どれほどやかましいか想像がつくか? 酒が回れば、ヒキガエルを喉に飼っているような声で歌を歌いだす者はいたし‥‥」
 クスクス笑って、手にしたチーズのかけらでとまどい顔のシゼをさした。
「お前は、絶対にうらまれるぞ。一人でその勢いで食ってたら、ほかの連中が腹半ばの頃に大皿を空にされてしまう」
 イーツェンの笑いがシゼの顔にも淡い笑みを呼び、彼は首を振った。
「お許しを、殿下。私はとりあえず両手で引っつかんでから、それが食べられるのかどうか考えるような育ちなのですよ」
「イーツェン」
「は?」
「昨夜はそう呼んだ」
 口にチーズのかけらを放りこみ、イーツェンはじっとシゼを見つめていた。シゼは背をのばしていつもの用心深い表情に戻る。
「申し訳ありません。失礼なことをしました」
「私は怒っているのではない、シゼ。それはお前もわかっているはずだ。私がお前を名で呼ぶのなら、お前が私を名で呼んで何が悪い? 私の国では誰も私を "殿下" などとは呼ばなかった。肩書きがつけられたのはこの国へきてからだ。鎖と同じにな」
 何も言わないシゼへ、イーツェンは軽く眉を動かし、スープ皿を口へ持ち上げて残ったスープを不作法に直接唇へ流しこんだ。シゼが小さく微笑む。
「昼食会でそんなことをされてはいけませんよ」
「しない。しないから、名前を呼んでくれ」
「‥‥‥」
「この部屋の中だけでいい、シゼ。誰も聞いてない」
 シゼはかすかにうなずいた。
「わかりましたから、もう一切れパンをお食べなさい。あなたはもっと食べるよう気をつけなければいけない、イーツェン」
「体を動かさないと、腹が減らないんだ」
 とは言ったものの素直にもう一枚パンを取って、指で二つに裂く。とにかくシゼが一つ譲歩したことが、今朝のイーツェンの気分を軽くしていた。
 自分の食事を終えたシゼは残ったワインを飲み干した。それからしばらく黙って考え込んでいたが、イーツェンをちらっと見た。
「剣の訓練をされたことは?」
「自分の足を刺さずに振り回せる程度には」
「お好きですか」
「剣が?」
「いえ、訓練が。木剣で人と打ちあうようなものですが」
 パンの小さなかけらを口に押し込んでいた指をとめ、イーツェンは眉をしかめてシゼを見た。
「体を動かすのは好きだ。が、無理だろう。足が動かない」
 シゼが鍵を持っているのは確かだが、さだめられた時以外に脚鎖を勝手に外すのは彼の権限では不可能だ。鎖が外れないかぎり、歩く以上の運動などできない。
 シゼはまだ考えているような顔をしていたが、うなずいて立ち上がった。鞘を吊るした剣帯の位置を直して扉の横へ歩いていく。いつもの定位置に立って、かすかな懸念の表情でまた少し考えこんでいた。その様子を見ていたが、ふいにイーツェンが手を打った。
「いっそ太るか」
「は?」
「動かないで食べるだけ食べて豚のように太ってみれば、私に興味を持つ者もいなくなるだろう。いたら上から体重で押しつぶしてやればいい」
「‥‥いったいどのくらい太られるおつもりですか」
「ひたすら食って寝て、案外悪くない暮らしかもしれないぞ」
「あなたは、怠惰を楽しめるお人ではありませんよ」
 素っ気ないが、自分をよく知ったシゼの言葉が面映ゆくなって、イーツェンは肩をすくめた。ほんの子供の頃を除けばシゼほどイーツェンの身近にいた者はいなかった。こんなふうに毎日誰かに見られていたこともないし、相手を見ていたこともない。シゼはイーツェンを誰よりもよく知っているし、イーツェンもシゼをよく知っていた。そんな相手が友人でも対等でもないということが、奇妙に感じられるほどだ。
 水を飲んで口の中の後味を洗い流すと、立ち上がり、両手をあげて体を大きくのばした。こわばっていた体を少し動かしてから、イーツェンはシゼへうなずいた。
「つけてくれ」
 無言のままシゼが部屋の隅に置かれた枷を取り上げ、イーツェンの前へ膝を付く。イーツェンは無表情でローブを膝の上まで大きくたくしあげた。シゼの手が何のよどみもなく枷の革帯を太腿へ巻き、金具を留める。革が肌を締める感覚に、天井を見上げて息をつめた。
 枷をつなぐ鎖がねじれないように注意を払いながら両足に枷をはめ、鍵をかけて、シゼは後ろへ下がった。一礼し、背を向けてテーブルの上の食事を片づけはじめる。イーツェンは枷の位置を少し直すとローブをおろし、窓の外へちらっと目をやった。空気が澄んで、城の壁におちる塔の影もくっきりと冴えている。今日はいい天気になりそうだった。


 礼拝堂で朝課をとりおこなう。石の床にぬかづいて祈りの詠唱を聞きながら、イーツェンは目をとじていた。シゼはこの奥礼堂には入れないので、表堂で彼を待ちながら同じように祈っているはずだ。実際の扱いがどうであれ、イーツェンの身分は「リグの第三王子」としてここユクィルスの客分であり、ユクィルスの王族が居並ぶ末席でともに祈ることが許されていた。ありがたいとは思わなかったが。
 リグの名のない五柱神と、ユクィルスの「古き神々」とは異なる。とは言え、リグにも古き神々の祭壇はあって祈りの儀も行われていたので、己に名を与えたのと異なる神にひざまずくことに、さほどの抵抗感はなかった。
 故郷とは祈りの言葉も違い、手順も違う。だがもう一年半こうして祈り続けていると、今では古き神々の方がイーツェンにとってはなじみのある神となっていた。
 ──ザインが聞いたら泣くな。
 リグの離宮にいた神官の名前を頭のなかでつぶやいて、イーツェンは表情に出さずに心の中だけでこっそり微笑んだ。今はもう古びた、あたたかな記憶。いくつか、子供の宝物のように大切にしまいこんだ記憶の一つは、ザインにつながっていた。出発の前、もう会うことはないと思うとザインに告げた時、ザインはイーツェンに約束したのだ。朝の祈りの時、必ず最後にイーツェンの無事を祈る、と。
(だからあなたもたまには私の無事を祈って下さいよ)
 いたずらっぽい目をして彼はそう笑ったものだった。
(イーツェン。私の心の中にはあなたのための場所がある。遠く離れたからと言って、それがなくなることはない。あなたが祈る時、それを思い出して。私があなたの無事と幸せを祈っていると)
 お前の信心はどうやらこのユクィルスの空までは届いていないようだよ、と胸の内で呟いたが、イーツェンの気持ちは言葉づらほどには刺々しくなかった。渡りの神官であるザインは今ごろほかの修業の場を求めて、もはやリグにはいないだろう。ふたたびは会えないとしても、ザインの記憶はいつでもイーツェンの中にあたたかなものを呼び起こした。
 そういうものを、失いたくはない。そう思いながらイーツェンは祈っていた。
 高くなった詠唱の声が、過去にさまよいかかっていたイーツェンの意識を引き戻した。しゃらんと鈴の音が鳴り、沈黙がおちる。それまでの声をすべて消し去った重い静寂の中、炎に何かが──おそらくはすり潰した香料が──振り入れられる音がして、甘く喉を刺激する匂いがたちのぼった。
 周囲がざわつきはじめたのを感じたが、イーツェンはしばらく顔を上げなかった。一番に立ち上がるような不作法は出来なかったし、誰かと顔を合わせたくもない。
 誰にも見とがめられないよう祈っていたが、すぐ右側から聞き知った声で話しかけられ、うつむいたままの身がすくんだ。
「本日は随分と顔色がよろしいようだね、イーツェン」
「ありがとう、オゼルク」
 反射的に顔に微笑を浮かべ、立ち上がっていた。相手も微笑してイーツェンの目を見つめる。
 まだ年若いがイーツェンより年上の男がそこに立っていた。年のころは25、6だとイーツェンは見ているが、実際のところを耳にしたことはないし、正直あまり興味もなかった。
 ユクィルスの第二王子であり国王尚書官の補佐役でもあるオゼルクは、かすかな微笑を唇に残したまま半歩近づいた。やや唇が薄く鼻すじは高く、顔立ちは怜悧で、切れ長の瞳はかすかな紫を帯びた淡い青だった。ほとんど銀に近いような金の髪は背中まで流れ、黒ずくめの服が余計にその肌を白く冴えて見せている。両の手になめらかな黒革の手袋をはめていた。
「よく眠れたかな?」
 見つめたままたずねられて、イーツェンはかすかにうなずいた。その肩に手がのせられる。イーツェンが問うように睫毛を上げたが、オゼルクは無言のまま細長い堂の奥へと歩き始めた。聖壇のそばで立ち止まる。
 円形の石壇の上には丁寧にたたまれた聖帯と布で覆われた石版、そして平たい硝子の皿が置かれていた。炎はそのさらに奥、石壁の前にしつらえられた鉄炉の中で焚かれており、今は灰の中でくすぶって消えかかっていた。
 神官たちは奥の扉から去りはじめている。聖壇の前にイーツェンを立たせ、オゼルクは右の手袋を外すと、白曇りの硝子皿へと手をのばした。無色の液体が少し残っている。オゼルクは指先にそれをつけ、濡れた指でイーツェンの額にふれた。
「祝福の滴だ。単なる蜜水だがな」
 それは、朝課の中で神官が王家の数人に与える仕種だった。本当は全員が受けるべきものらしいのだが、城の朝課は略式であるし、イーツェンは特別な儀式の時以外受けたことはない。額についた水に指でふれ、なめてみると、蜜を溶いた水の甘い味がした。
 自分の額と唇にも雫をつけて、オゼルクは微笑した。
「たまにはね。朝から仕事をすると、甘いものがほしくなる。子供のころは皿ごとこれを舐めてしまって、よく怒られたものだ」
 曖昧な笑みを返してイーツェンは一礼したが、通り抜けようとした瞬間、耳元を低い囁きがかすめた。
「久しぶりに、お茶でも?」
「‥‥‥」
「昼の三番鐘」
 イーツェンは足取りをゆるめないまま歩きすぎる。脚枷の間の鎖が張らないよう注意を払いながら、同じ足取りで歩き続けた。
 天窓から十数本の陽の光がさしいる円蓋の下を歩き抜け、シゼが待つであろう表堂へとつづく円柱回廊へ入りながら、イーツェンは抑えていた息をゆっくりと吐き出し、額をもう一度手の甲で拭った。


 午前中を蔵書塔ですごし、小さな昼食会に出た。商人や財務官らと王子や王女の数人が歓談するもので、イーツェンにはあまり居心地がいいとは言えないが、王子の一人であるルディスに招待された以上、断るわけにもいかない。
 ユクィルスの城内には、王の直系である王子のほか、王弟の子や王の従兄弟筋の王子も多く住んでいる。朝課で顔をあわせたオゼルクは王の第二王子であり、王には現在五人の息子がいた。
 その五人目、まだ七つのフェインを膝にのせてあやしながら、イーツェンは周囲の会話を聞くともなく流し、時おり微笑してすごす。彼を招待したルディスは兄と商人の一人と頭をよせて何か話しあっていた。ルディスは王妹の息子であり、オゼルクとは従兄弟にあたる。
 ルディスのはしばみ色の目がちらっと自分を見たような気がして、イーツェンは目を伏せた。ルディスとオゼルクはほぼ同年代だが、あまり似ていない。ルディスは自分の兄にもあまり似ず、そのことで「あの御方は誰の種か」という露骨な陰口を叩くものが城内にいるようだった。
 膝の上で、フェインが大あくびをした。その頬をつついて、イーツェンはそっとひそめた声でからかう。
「夜更ししたんだな。幽霊でも探してたのかい?」
「幽霊なんかいないもん」
 青い目を大きくして、フェインは口をとがらせる。淡い青の目の奥で好奇心がきらきらしていた。イーツェンは微笑する。
「私の故郷にはいたよ」
「‥‥ほんとに?」
「ほんとに。だから幽霊のために扉の外に水と花をそなえるんだよ。それをしないと部屋の中に入ってくるからね」
「嘘」
 とは言ったが、フェインは半分本気にしているようだった。怖がってはいない。いい子だ、と思って、イーツェンは少年の頭をなでた。
「‥‥どう思う、イーツェン?」
 不意に呼ばれて、イーツェンは首をはねあげた。丸テーブルに肘をついたルディスがじっとこちらを見つめている。ルディスは確かに母親似で、少年っぽさを残した美しい顔を持っていたが、ふしぎと人の心を見るような老成した目をすることがあった。金の髪も兄弟ともちがう色合いでどこか青銅のくすみを帯び、ゆるい癖に光を溜めながら首の後ろでくくられている。目は射貫くようにイーツェンを見据えてわずかな揺らぎもなかった。
 一瞬、イーツェンは自分がどこにいるのか、そのはしばみの瞳の内側に見失いそうになる。フェインが握る右手のあたたかな感触が彼を現実につなぎとめ、彼は慎重な仕種でこわばった首をかしげた。
「すみません。話を聞いていなかった」
 別に意外でもなさそうに、ルディスはうなずいた。わかっていて声をかけたな、と気が付いたが、イーツェンはおとなしい表情を動かさずにルディスが説明するのを待った。
「リグの硝石に不純物がまじっているという噂があるそうだよ」
「‥‥‥」
 故国の名を聞いて、イーツェンは少しの間ルディスを見つめていたが、静かに口をひらいた。
「噂はつきものでしょう。値段をあげたりさげたりする駆け引きとしてほかの商人が中傷を流したりするのは、珍しいことではない」
「サンシュールの組合は事実だと言っている。どう思う?」
「私は‥‥」
 わからない、と言おうとして、イーツェンは息を吸った。硝石はリグの大事な特産品であって、リグの富は──それがどれほどわずかなものであっても──その取引を通じて作られた部分が大きい。これは大切な問題だったし、言える立場であるなら何かを言う必要があった。
「私なら、噂が出ている場所を調査する」
「ほう?」
「不純物が出ているという話がある取引所を確かめれば、それを納入した人間もわかるはずです」
 その先をイーツェンは言わなかったが、ルディスは目をほそめた。
「成程。同じ人間の扱った荷かもしれないと? その人物が故意に入れたと思うか」
「それはわかりませんが、リグ国内では硝石は荷箱に封印されたら余人が手をふれることはできない。そこまでで、噂になるほどの不純物が入り込むとは思いづらい」
「ふむ、調査させよう」
 あっさりとうなずいたルディスに、イーツェンは曖昧に頭をさげた。その程度のことはすでにルディスの頭の中でも結論が出ていたはずだが、あえて話をふってきた意図がよく読めない。リグの話だからリグの人間であるイーツェンに話を聞こうということだろうか。
 ルディスの向こうに立っていた商人がやっと呑み込んだような顔をして、イーツェンへ笑顔を向けた。
「イーツェン殿はリグの出自でいらっしゃいましたな」
「そう」
 ルディスが微笑し、手にしていた地図の束をテーブルに置くと左手に茶のカップを持ってイーツェンの椅子のそばへ歩み寄った。右手をぽんとイーツェンの肩に置く。
「かの国の名産は硝石だけではないということだ」
 ふ、と息をつめてイーツェンは反応を見せまいと表情を殺したが、聞くものが聞けばあからさまな言葉に身の内が羞恥で灼けるようだった。フェインは膝の上でイーツェンの黒髪の先をいじって無邪気に笑っている。商人は奇妙な目でイーツェンを眺め、それからルディスへ笑みを向け、うなずいて見せた。
 小さなやりとりに気が付いたのが自分たちだけであることを祈りながら、イーツェンは視線を伏せていた。やわらかな声でルディスがたずねる。
「オゼルクが帰ってきただろう。ファザンノの砦の視察に行っていたんだ」
「‥‥‥」
 イーツェンが黙っていると、肩におかれたルディスの手がはなれた。去ってゆく間際、首すじを指先がかすめ、肌にするどい戦慄を残した。