右、左と一歩ずつ、まっすぐに歩いていく。少なくとも自分はそのつもりだったが、じれったいほどに歩みは進まず、それを感じたのか一歩後ろで低い声がたずねた。
「大丈夫ですか」
その声はかすかにざらついて、耳慣れないアクセントの角があり、彼がこの国の生まれではないことを示している。それとは違うが、自分の言葉にもやはり異国の響きがまとわりついているのをイーツェンは知っていた。どちらも耳につくほどの違和感はないが、言葉を口にするたびに二人ともに異国の者であるとあからさまに示し、イーツェンはその響きが大嫌いだった。
男の声には、いつものように何の感情も、何の揺らぎもなく、ただそれは乾いていた。義務。そう頭の中で言い聞かせて、イーツェンは次の一歩を踏み出す。表情を殺して塔までたどりついた身はもう体力を使い果たしていたが、彼は歯を噛んで歩き続けた。一歩ごと、ローブの下の太腿を細い鎖が這う。人の肌を冷たくなぶる鎖の感覚には慣れていたが、それも今は耐えがたい吐き気をもたらした。
城の廊下は暗く、壁龕に置かれた油燭の灯りが点々と光の輪を投げている。この時間、晩餐がひらかれる大ホールまわりはふんだんな灯りでけざやかに照らされているだろうが、イーツェンが歩いているのは来訪者の立ち入らない北の翼棟の、さらに架橋を渡った塔の中だ。塔の門には門兵が立っているが、塔の廊下には今、イーツェンと半歩遅れて付き従ってくるシゼだけだった。
黒々とした石の壁が左右からせまってくるような気がする。その中央を、足を引きずるようにしてイーツェンは歩き続けたが、塔の階段が目の前にせまってくると、急で狭い石段を見つめて暗鬱とした気持ちになった。体中が痛い──だが、痛みならまだ耐えられる。彼を悩まし追いつめているのは、肌と体の奥に刻まれた鈍痛だけではなかった。
「大丈夫ですか?」
また同じことを聞かれる。イーツェンはくいしばった歯の奥から怒りにとがった声をこぼした。
「大丈夫なわけないだろう‥‥」
何があったか、この男が知らないわけがない。イーツェンが扉をしめきった寝室の奥で声を殺し、ただ時間がすぎるのを待っていた間ずっと、彼は扉の外に立っていたはずだ。部屋から出てきたイーツェンの髪をととのえ、とりつくろいきれなかった服装の細部を直したのもその無骨な指だった。剣を握り慣れ、ふしが出た指が意外にも人の肌に優しくふれるのをイーツェンは随分前から気付いていたが、それは無意味な優しさだった。
ふ、と横に気配が動く。イーツェンが見やると、シゼがすぐそばに立ってイーツェンを見つめていた。見るからに鍛え上げられた体は胸板も厚く肩もがっしりしているが、上背はほとんどイーツェンと同じだ。今年で20になるイーツェンは、去年からまた少し背がのびた。
目の位置がほぼ同じでも、シゼに見つめられるとイーツェンは自分がひるむのを感じた。シゼはたくましく、赤銅色に灼けた色の肌がその筋肉をさらに大きく見せている。シゼがイーツェンに対して高圧的な態度を見せたことは一度もないが、腰に短い室内用の剣を吊るした傭兵のたたずまいにはいつでもイーツェンを威圧するものがあった。
「‥‥何だ」
下がろうとしたが、塔の階段は狭い。イーツェンがわずか半歩で肘を壁にぶつけると、シゼがすばやく歩み出て、イーツェンの腕をつかんだ。
「失礼」
短くことわって身をかがめ、イーツェンの胸に自分の肩を押し当てる。同時に腰をぐるりと抱くように腕を回され、イーツェンは身をこわばらせたが、シゼの体が密着するように押し付けられて言葉が喉につまった。シゼの右腕がイーツェンの膝の裏をすくいあげ、あっと思った時にはシゼの上へ体ごと倒れるようにもたれかかっていた。
まるで荷物をかつぐように、シゼはイーツェンの体を肩に抱え上げる。イーツェンが小さな呻きをあげたが、それをなだめるように背中を何度か叩くと、シゼはたゆみのない足取りで階段をのぼりはじめた。イーツェンの頭はシゼの背中へ逆さに押し当てられ、一歩ごとに頬が革の上着にふれた。
「いやだ‥‥」
そう呻いたが、シゼにはまるで聞こえていないようだった。イーツェンの体はたしかに細いが、痩せているというほどのものでもない。同じほどの背丈の相手をかついで階段をのぼることにシゼは何の苦もないようだった。
右回りの階段をのぼりきって塔の最上階に出ると、イーツェンは下に降ろされるだろうと予想していたが、シゼはそのままイーツェンをかついで廊下を歩き出した。イーツェンは弱々しくシゼの背中を叩く。
「おろせっ──」
「おとなしくして下さい。すぐ部屋につく」
淡々としてそう答えるシゼの声にはイーツェンの抵抗を奪うものがあった。感情というものが欠如した、義務に奉仕する者の声。はじめの邂逅からもう一年半あまり、それからほとんど毎日顔を合わせてはいたが、シゼが義務の範囲から半歩たりとも踏み出したことは一度もなかった。
そのことが苛立たしく、イーツェンは歯を噛んだが、くたびれ果てた体をこんなふうに抱えられてはどうにもならなかった。シゼの革の上着の背中をつかみ、指の間にざらつく革の感触を握りしめて指の痛みで気持ちをそらす。優しくされたいわけではないが、まるで物のように扱われることにこれ以上耐えられなかった。シゼがどれほど礼儀正しいかは問題ではない。彼にとってイーツェンはただ世話を命じられた犬や馬とかわりがない、そのことを思い知らされるのが苦痛だった。そんな相手に弱い自分を見られているということに、これ以上耐えられそうもなかった。
わけもなく涙がこみあげてきて、イーツェンは息をつめて不安定にゆらぐ気持ちを抑え込んだ。自分が冷たい石になるのを想像する。感情もなく、体の感覚もなく、心の痛みもなく、ただ冷たく、全身がこごえて世界から遠ざかる。この体にも、心にも、何の意味もない。何もかも──
「殿下」
水中で聞く声のようにその声は遠く聞こえる。イーツェンは自分が部屋の中に降ろされていたことに気が付き、ぼんやりと顔をあげた。ソファに崩れて両足を前に投げ出し、視界の中にシゼの動きをとらえる。廊下から入ってくる薄い光だけでは室内のほとんどは影だった。シゼはほとんど足音をたてずに移動すると、壁龕に置かれた油燭に炎をともした。
部屋は続きの寝室とあわせて二室で、こちらの居室の石壁にはタペストリーが吊るされ、毛足のある絨毯が敷かれて、しつらえは悪くない。居室としては手狭だったが、イーツェンがここに客を迎えるようなこともない以上、一人──もしくはシゼと二人で──すごすには何の不足もなかった。シゼは家具のように部屋の隅か扉の外に立っているのが常だったが。
ソファに身をうずめるようにぐったりともたれたまま、イーツェンはにぶい目で眼前に立ったシゼを見上げた。頬にかかってくる髪がうっとうしい。耳の後ろへかきあげ、ほどけかかった結び紐を指先にひっかけて引いた。あっさり外れる。肩の下まである黒髪は結んでおかないとバラバラに乱れる。いつからこれがほどけてきていたのか、イーツェンには記憶がなかった。もっと用心しなければ。たとえすでに誰かに知られているとしても、たった今、人の慰みものになってきたばかりなのだと乱れた姿をわざわざ示したくはなかった。
「‥‥下がっていい」
手を振ったが、シゼはじっと彼を見ているだけで、イーツェンは苛立った言葉を重ねた。
「下がれ」
「‥‥‥」
シゼは濃い銅色の目でイーツェンを見ていたが、すいと流れるような動作で前へ出た。イーツェンの前に片膝を付き、手をのばす。イーツェンが気圧されて見ている前でシゼの手が腰帯をほどきはじめ、イーツェンは愕然と目を見ひらいた。
「何を──シゼ、よせ、やめろッ」
「動かないで下さい」
静かな声で言いながらあっさりほどいた帯を腰の後ろから引き抜き、肘掛けにかける。イーツェンの腿にかけた左手一本で膝の動きをおさえこみ、やすやすとローブの横を割って右手を内側にさしいれた。素肌をシゼの手が這って熱を持ったままの肌がふるえ、イーツェンは喉の奥でこもった悲鳴を上げた。
「やだぁっ!」
息が喉でつまる。咳をしながら首をのけぞらせ悲鳴を吐きだそうとしたが、喉は彼を裏切り、吸いこんだ息と悲鳴に肺が裂けそうだった。暴れようとするのに体は粘土のように重く、どうやっても指一本動かせない。恐慌がすべての正気を押し流し、世界が歪んで視界が回り始めた。いましめられたように動かない体の内側で精神だけが暴れ回り、神経が苦痛にはりつめて頭の芯が灼ききれそうになる。
何かを哀願したが、それが言葉になっているのかどうか、何を自分が口走っているのか、イーツェンにはまるでわからなかった。頭の中で反響する自分の叫びに頭蓋が割れそうだった。苦痛の余りにもがくが、今度は何か得体のしれない力に抑え込まれ、イーツェンは全身をねじってあばれはじめた。それなのに動けない。
(イーツェン──)
誰かが、呼んでいる‥‥
今さら、誰が? 故国から離れたこの国で、この城で。誰がイーツェンの名をこんなふうに気持ちをこめて呼ぶのだろう。
(イーツェン‥‥)
悲鳴を上げながら、自分が何かあたたかいものに支えられていることに気が付いた。前にくずれた体は誰かに抱きとめられ、大きな手で背中をなでられている。世界が回って吐き気がした。自分がどのくらい恐慌に陥っていたのかわからないまま、イーツェンは呻いた。
「シゼ‥‥?」
「ここにいます」
耳元で低い声が囁いた。イーツェンは自分を抱く腕にすがりつこうとしたが、シゼの手がそれを抑え、イーツェンの体をソファの背もたれに戻して安定させてから身を離した。イーツェンの焦点のあわない目をのぞきこみ、右肩に手を置いてその重みでイーツェンを落ち着かせながら、静かに語りかける。
「息をして。ゆっくり吐いて‥‥吐ききって。とめて。‥‥吸って。ゆっくり、深く、胸から腹まで息を入れて。とめて。‥‥吐いて──」
言われるままにひどくゆっくりとした呼吸をくりかえした。はじめは体に浅い息しか入らず、指示についていくのが苦痛だったが、シゼはイーツェンの肩に置いた手に安心させるような力をこめながら根気よく言葉をくりかえした。イーツェンの体から段々と緊張が抜け、次第に息が入るようになり、深い呼吸を体の奥まで吸いこんだ。荒れていた心臓の脈が鎮まり、恐慌は徐々に引いていった。
イーツェンの顔色を注意深く見ていたが、シゼは一つうなずくと身を起こして背を向け、部屋のすみへ歩いていった。
虚脱に身をくずしたままイーツェンが力なくシゼの動きを目で追っていると、シゼは水差しから水をグラスに注いで戻ってきた。その手にあるグラス──青みの入った乳白色の脚つきのグラスが、さっきまで自分をもてあそんでいた相手からの贈り物であることに気付いて、イーツェンは唇を噛んだ。
戻ったシゼが水の入ったグラスを差し出す。
「どうぞ」
「‥‥いらない」
顔をそむけ、イーツェンはかすれた声を吐き出した。怒りがふたたび頭をもたげ、わずかな仕種で心臓がちぢまって息が浅くなりはじめる。怒鳴ってしまいそうになるのを拳を握りしめてこらえた。自分がひどく弱くなった気がして心底情けなかった。
視界のはじでシゼが動き、床にグラスを置いた。近づいてきたと思った途端イーツェンの顎がぐいとつかまれ、真剣にのぞきこむシゼと間近に視線を合わせていた。
唇が重ねられ、イーツェンは目を見開いた。シゼの舌がイーツェンの唇を割り、驚きにかすかに開いた歯をさらにこじあけられ、イーツェンの口の中にシゼの体温を持つなまぬるい水が流れ込んできた。
イーツェンはそれを飲み干しながら、力の入らない腕をシゼの肩に回し、さらに唇をひらいた。引こうとするシゼの舌に自分の舌をからめ、擦りあわせて熱い感触をとらえようとする。水とともに入り込んできたシゼの匂いを舌中に味わい、唇を押し付け、貪欲な舌先をシゼの舌裏に這わせた。歯の先端で軽くシゼの舌をこすり、口の中に自分とシゼの唾液があふれるのを感じた。シゼの熱と匂いを貪欲に呑みながら、イーツェンは歯でシゼの下唇をかるくなぞった。さらに深く舌をからめようとする。
シゼはしばらくイーツェンが求めるままにさせていたが、わずかな反応しか見せなかった。それからイーツェンの肩をつかんで体をひきはがし、床から取ったグラスをイーツェンの口元にあてがった。左手を回して頭をささえる。
「飲んで下さい」
「‥‥‥」
イーツェンは目だけうごかしてシゼを見上げたが、溜息をついて口をあけ、冷たい水が流れ込んでくるのにまかせた。時間をとってゆっくりと水を飲ませると、シゼはイーツェンをソファにもたれさせてじっと顔をのぞきこんだ。真剣な顔、まっすぐな目。それは真摯なものだったが、たった今濃厚なくちづけをかわした相手を見る目つきではなかった。イーツェンはぼんやりとその顔を見返す。いつもそうだった。義務。役割。そのほかの匂いをシゼから嗅いだことがない。
「怖がらないで下さい。あなたを傷つけはしない。いいですね?」
低く囁かれ、何を言われているのかわからないまま、湿したばかりの口の中が乾いた。イーツェンは小さくうなずく。シゼはいつもイーツェンの言葉に反問せずに従っていたが、彼が何か意志を見せた時にそれをくつがえすことはできなかった。
シゼはうなずき返し、イーツェンの顔を見たまま指をイーツェンの太腿におろし、乱れていたローブの合わせを大きくひらいた。ローブを留める紐はすでに前の男の手で外されていた。
腰帯も取られた今、ローブは臍の上から大きくくつろげられ、裸の下肢がむきだしになっていた。下帯すらつけていない。それもやはり外されたままだった。イーツェンは羞恥に唇を噛んで顔をそむける。
裸の太腿、膝の上部にそれぞれ革の枷がはめられ、両脚の間を銀の細い鎖がつないでいた。それは歩行を妨げるほど短くはないが、走ることや大きく脚を開くことをいましめるもので、眠る時と水浴みの時にだけ枷は外された。
──奴隷のような、鎖。イーツェンが決して自由な身ではないということを思い知らせるしるしだ。
脚には赤い痕が散っていた。いくつかは容赦のない唇の痕、いくつかは歯で噛んだ痕だ。イーツェンの肌はこの国の人間のものほど白くはないが、磨いたようになめらかでやわらかく、相手は好んでそこに痕を残した。脚だけでなく外から見えない様々なところまで。
投げ出された脚のつけね、下肢の根元には髪と同じ黒い毛が密生し、その中から充血した牡が硬く勃起していた。てらてらと濡れたその茎全体に暗紅色のリボンがきつく巻き付いている。交互に重ね合わされたリボンはまるでそれを奇怪なオブジェのように飾り付け、根元で結ばれて解放をゆるさなかった。
「‥‥ほどけない。結び目が濡らされてるんだ」
顔をそむけたまま、イーツェンは低い声でつぶやいた。視界のはじに自分の状態をかすかにとらえるだけで吐き気がすると同時に、シゼの視線を体の中心に感じて得体のしれない熱をおぼえはじめていた。体は一度も解放を迎えていない。くちづけの続きがほしくてたまらなかったが、イーツェンはそんな自分をはげしく嫌悪してもいた。
まだ半ばほどしか勃ち上がってない状態で、自分のそれにリボンをかけていましめたのはイーツェン自身だった。己の吐精をイーツェンの中へ注ぎ込むくせに自分がイーツェンの精で汚れることに我慢ならないのか、それともただイーツェンを追いつめるのがおもしろいのか、彼はほとんど毎回それを命じる。イーツェンはこうして部屋に戻ると、欲望がおさまってリボンを切れるようになるまで耐えるしかなかった。
痛みの入りまじった快感にまだ体の芯はうずいている。イーツェンはシゼの視線に耐えきれず、かすれた笑いをこぼした。
「こうしておいて、私をなぶるのがお好きなのだ。ご自分のものだけでなく、道具もお使いになる。私を叩けば鳴く犬のように思っておいでだ。そうではないと言うつもりもないがな。おもしろいか、シゼ? もっと見たいか?」
声が割れた。イーツェンは身を起こし、右手をのばしてさらに大きくローブを開くと、左脚の革枷にふれた。いつもは鍵がかけられていてイーツェンには外すことができない枷だが、今日は片方だけ鍵が外されていた。
──それを外したのは、シゼだ。求められて片方だけ外した以上、その後イーツェンの身に何がおこるのか、この男は知っていた筈だった。
枷は肌にふれないよう注意深くとりつけられた金具で噛みあわされている。油をすりこんで丁寧になめされたやわらかい革だったが、貼りあわされて厚みがあり、切ることができないように革の内側に真鍮の針金が仕込まれていた。革帯を引くといっそうきつく肌に枷がくいこむ。そうして金具をゆるめ、カチャリと音を立てて留め金を外し、イーツェンは左の枷を外して手に取った。右に放り出す。右脚の枷とつながった鎖が音を立てて鳴った。
右の枷は鍵がかけられていてイーツェンには外すことができないが、片方さえ外れれば脚は自由に動く。左足を曲げてソファにのせ、イーツェンは脚を大きく左右にひらきはじめた。上体をソファにもたれて脚をひらきながら、挑む目でシゼをにらみあげる。
シゼは相変わらず石でできたような表情を動かさず、イーツェンを見つめ返していた。イーツェンは喉の奥で笑うと、脚を思い切りひろげたまま頭を後ろへもたせかけ、天井を見上げた。シゼが見る気になればさんざん蹂躙された奥孔も見ることもできる。
「お前も私を犯したいか? なら好きにしていい。私は結構愉しんでいるし、お前を愉しませてやることも多分できる。悪くない体だそうだ。ためしてみないか、シゼ?」
「黙って」
ほとんど命令するようなするどい言葉だったが、イーツェンはしゃべり続けた。
「男にふれるのが嫌だというなら、口でしてやってもいい。目をとじていれば女と変わらない。そのへんの淫売よりはずっと色々してやれる」
「黙りなさい」
ぴしゃりと叱りつけるように言われて、イーツェンは口をつぐんだ。あっけにとられて見上げると、シゼが手をのばしてイーツェンの頭を軽くなでた。大きな手の感触に茫然として、イーツェンはシゼの目を見つめる。それはどこか哀しげに見えたが、すぐにシゼは視線を外してイーツェンの足の間へ片膝を付いた。
いきなりはりつめた茎にふれられて、イーツェンは悲鳴をあげた。熱とも快感ともつかないものが腰の奥からはじけそうになるが、当然、解放は抑えられていた。身をよじって足をとじようとしたがシゼが膝をつかんでそれを許さず、後ろへ下がろうとした体はソファの背もたれに深く押し付けられるだけだった。
「やっ、あぁっ」
みっともないほどの声が出ていることは自分でもわかったが、もう一度ふれられて腰がはねた。苦痛と熱とに頭がおかしくなりそうだった。シゼはそれを手につかんだままほとんど指を動かしていないというのに、わずかな皮膚の感触を求めて勝手に体がのぼりつめようとする。わきあがる快感はせきとめられ、体の内側の熱だけがあがってイーツェンの額に汗が浮いた。
「やだ‥‥離してくれ‥‥おかしく、な、る──、ひぅっ」
「大丈夫だから、少しだけじっとして下さい」
言われるままに必死で動きをとめた。シゼの言うことにすがるほかにどうしたらいいのかわからない。犯してくれればいいのにと思った。このまま、無茶苦茶に。どうしようもないこの状態でシゼに抱かれるのが苦痛以外の何ものでもないとわかっていたが、イーツェンが求めているのは快楽ではなかった。痛みでも苦悶でもいい。それに満たされればすべてを忘れられる。シゼならそれを与えられるのはわかっていた。たとえ一度も与えたことがないにしても。
シゼはイーツェンが動かなくなるとどこかから小さな短剣を取りだした。ほとんど手の中にすっぽりとおさまるほど小さな、刃の薄い短剣を、シゼがいったいどこに持っていたのか、イーツェンは目を見張る。シゼは左手でイーツェンの屹立をつかみ、イーツェンが動かないように目でしっかりと命じると、刃の先端をためらいのない手で近づけた。
一瞬イーツェンの目に恐怖がはしったが、シゼは安心させるようにうなずいて、薄い片刃の先端でリボンをひっかけるように持ち上げ、するりと手を動かした。体にはわずかも金属がふれた感触はなく、ほとんど何をしたかわからないうちにリボンは切断されていた。
「ん‥‥」
イーツェンが呻きを上げ、両手でソファの上掛けを握りしめる。せき止められていた感覚が戻りはじめ、異様な苦悶と解放感がじわじわと下肢を内側からなぶった。シゼは素早く短剣をどこかへしまい、まだ絡みついているリボンを外して床へ放り出す。その姿を見ながらイーツェンが呻いた。
「‥‥抱いて、くれ‥‥」
シゼがちらっとイーツェンを見上げたが、唇を結んで首を振った。イーツェンは顔をそむける。その瞬間、男の手が昂ぶりを優しくつつみこんで擦りはじめ、イーツェンの腰がびくりとはねた。
「ん、ひぅぁっ、あああぁっ!」
何か意味のある言葉を言おうとするが、シゼの指が先端をいじりはじめると首をのけぞらせて甘い声をあげることしかできなかった。感覚が戻ってくる苦痛と愛撫の強烈な感覚が入りまじり、たちまち先端からだらだらと蜜があふれだす。それはシゼの指を濡らし、愛撫はすぐに濡れた音をたてた。背骨をそらし、イーツェンは敏感な場所を擦る指の快感に押し流された。
シゼの指は意外と巧みだった。自慰と同じことだから慣れているのは当然か、とちらっと思いながらこの男がどんな顔で自分を解放するのかまで少し考えてしまい、イーツェンはだらしなくあえぐ口元に笑みをはしらせた。その瞬間、指の腹で裏側をそろりとなであげられ、頭の中で何かがはじけた。つづけざまの強い愛撫が彼を絶頂へ押し上げる。
「ああああっ‥‥!」
意識が白く呑みこまれ、自分でも信じられないほど強烈に達していた。シゼの名を呼ぼうとしたが、どうやっても声がそれ以上出なかった。
自分の荒い息が耳に聞こえて、ぼんやりと意識の焦点が戻ってくる。シゼが目の前にいるのがわかって、イーツェンはそれを目だけで追った。男は相も変わらず落ち着いた表情のまま、手の中に放たれた吐精を布で拭っている。イーツェンは髪をソファに乱してぐったりしていたが、かすれた声でつぶやいた。
「お前は、私の世話をするのが‥‥役目だろう?」
「はい」
シゼは立ち上がるとグラスを持って歩き去り、また水を満たして戻ってきた。イーツェンに手渡す。イーツェンは受け取ろうとしてまだ自分が下肢をさらしたままなのに気付き、片手でローブの前をとりつくろってからグラスを左手で受け取った。
右手で、引こうとするシゼの腕をつかむ。
「なら、私を抱け、シゼ。私の命令を聞け」
「‥‥水を飲んで下さい。少し落ち着いて」
それは少しばかり困った声に聞こえた。一口大きく水を飲み、乾いた口の中を湿してからイーツェンはシゼをにらむ。
「嫌か? お前は娼婦を抱くだろう? 傭兵はたいていそうするものだ。それなのに私を抱くのは嫌か。私も娼婦のようなものだぞ。金はもらっていないがな」
シゼは傭兵あがりだ。無言で見下ろす彼に、イーツェンは口元にこわばった笑みを浮かべた。
「何なら私が金を払ってお前を雇うか。それともお前が私に金を払うか? それで気が済むだろう、娼婦を買ったと思えばいい。いい思いをさせてやる、シゼ」
「‥‥‥」
何を考えているのだろう、その銅色の目の奥で。何故顔をそむけずにイーツェンを見つめているのだろう。その目に欲望の熱はない。軽蔑もない。それがイーツェンには耐えられなかった。いつでも物を見るように、シゼはイーツェンを見る。
イーツェンは左手をローブの胸元にかけ、合わせの内側に指をすべりこませて紐をほどいた。左手一本ではややたどたどしいが、自分で服を脱ぎはじめる。ローブの胸元をひらいて肩から落とそうとした時、シゼが動いてその手をとめた。右手からグラスを取り上げて床に置くと、彼はイーツェンの横に腰をおろし、合わせの乱れたローブをすばやい手で直した。されるがままになりながら、イーツェンは無言でシゼをにらんでいる。シゼも黙ったまま、イーツェンの顔にかかる髪を指で払い、その手をイーツェンの肩にのせた。
そのまましばらく、彼はイーツェンを見つめていた。
ふっと溜息をついて、イーツェンを抱き寄せる。息がつまるほどの強さで顔をシゼの胸に押し付けられ、イーツェンはもがいたが、それは離れようとしてではなかった。肩がねじれていた体勢をどうにか腕の中で立て直し、シゼの背中へ腕を回してすがりつく。イーツェンを抱いたシゼの腕には激しいほどの力がこもり、骨がきしむような強い抱擁の中でイーツェンは目をとじ、さらに強い力で抱きついた。荒々しく抱きしめられて革の上着は頬にざらついたが、その痛みすらも抱擁の甘さを深めた。
回した腕にシゼの体を感じ、服につつまれた肉体の鋼のような強さにあらためて驚いた。強い力が背中をささえてイーツェンの体をシゼにぴたりと押し付ける。ただそうして抱きしめられるだけで体からすべての力がとけだし、イーツェンはシゼに身を預けて長い溜息をついた。
「シゼ‥‥」
抱擁が少しゆるみ、シゼの手が髪をなではじめると、イーツェンはその感触にもう一度溜息をついた。シゼの胸元に顔を擦り付け、体をのばして彼の首すじに唇を寄せようとする。だがシゼはしっかりと力のこもった手でイーツェンの頭を肩に押し付け、動かないようにしてからまた髪をなではじめた。無言の命令に従って、イーツェンは彼の肩に頬をのせて力を抜き、シゼの感触だけに身をゆだねた。
長い間、シゼはイーツェンの髪をなでていた。左腕はイーツェンの背中へ回ったまま、しっかりと抱きしめるだけでそれ以上は何もしない。長い抱擁はイーツェンの体の中に心地のいい熱を呼び起こした。劣情でも欲望でもない。体に凝っていたつめたいものが溶けて消え、緊張も怒りも体から流れ出して、かわりに生まれた熱が体の芯をほのかにあたためた。
そのままほとんど眠りそうになったが、イーツェンは小さな声でつぶやいた。
「シゼ。何で私を抱かない? 私が嫌いか?」
「そんなふうに自分を痛めつけてはいけない」
丁寧な手が髪をなでる。そうしながら、シゼは低い声で囁いた。
「あなたは‥‥傷ついて、正常にものを考えられる状態ではない。体を洗って、一晩眠って、また明日になれば、私に言ったことを馬鹿馬鹿しく思うでしょう」
ふしぎと怒りはおぼえなかった。それには疲れすぎていたからかもしれない。イーツェンはシゼの体に腕を回したまま、喉の奥で笑った。
「お前が好きだと言えば気を変えるか?」
「そんなことを言わなくても大丈夫ですよ。私はあなたの味方だ」
「!」
「あなたは私を恐れる必要はない、イーツェン。わざわざ私を味方に引き入れようとしなくてもいいし、私によりかかっても大丈夫です。私はあなたの弱みにつけこんだりはしないし、あなたを裏切ったりもしない」
低い声は真摯だったが、イーツェンは顔をあげるのが怖かった。シゼの顔を見て、目を見て、その中に義務だけを見るのが恐ろしい。何もかも、彼にとってはただの義務なのだと思うのがつらかった。優しくされているのではない。ただ丁寧に扱われているだけだ。
「‥‥私は、お前にとっては所詮、物か」
それには答えがなかった。答える価値もない質問だ。長い溜息をつき、イーツェンはシゼの胸に両手をついて体を押し離した。シゼは逆らわずにイーツェンから離れ、一瞬ためらってから静かに言った。
「私は役目のためにここにいる。それは事実ですが、あなたを物のように見ているわけではない」
「変わらないよ。変わらない、シゼ。お前にとっては私が物だろうが犬だろうが馬だろうが同じだ。世話をして、面倒を見て、散歩させ、可愛がる人間に差し出す」
イーツェンの声はただ疲れてなんの感情も見せていなかった。心にいつも感じる怒りと厭悪も今はどこか遠く、ぼんやりとした痛みだけが体の奥によどんで、彼はソファで身を丸めて目をとじた。
シゼは立ち上がると、イーツェンの肩にそっとふれた。
「湯をもらってきます」
「‥‥水でいい」
「待っていて下さい。大丈夫ですね?」
「‥‥‥」
イーツェンが膝に顔をつけたまま答えないでいると、シゼが立ち去る気配とともに、扉がしまる音がした。
身を丸め、眠ろうとしたが眠れなかった。一人で部屋に残されるといきなり今日の記憶がよみがえって、心が裂かれるように乱れた。体をすみずみまでさぐった手の感触が肌によみがえり、息がつまってまた恐慌に陥りそうになる。歯を噛み、イーツェンはシゼの言ったことを思い出しながらゆっくりとした呼吸をとりもどそうとした。
(吸って‥‥とめて、吐いて‥‥とめて──)
(わざわざ私を味方に引き入れようとしなくてもいい)
その声がまた耳元で聞こえたようだった。息がとまりそうになるのを抑え、イーツェンは呼吸をゆっくりとくりかえす。
見抜かれているのかもしれない。イーツェン自身さえ気が付いていなかった気持ちを。いつも自分のそばにいる、自分を軽蔑しない唯一の男を、体をつかってでも自分の味方に引きとめておこうとしている。
そんなふうに思ったことはなかったが、言われてみれば自分のしていることはそれ以外の何でもない。体を投げ出して媚びる。肉体を使って相手につけいろうとしている。
──娼婦以外の何者でもないな。
そう思った瞬間、にぶい吐き気を感じた。シゼが手をふれないのも当たり前だ。打算のために誰にでも体をひらく淫売。そんなものにしなだれかかられては、たまったものではあるまい。
そんなことまでするようになったかな、とぼんやり思う。そうかもしれない。自分がどこまで堕ちたのか、イーツェンはもうあまり考えないようにしていたが、シゼにそう思われていると知るのは、奇妙に心に重かった。おかしな話だ。「娼婦だと思え」とシゼに言ったのは自分なのに、そう思われて傷つくとは。
扉が開いた音にイーツェンは顔をあげた。シゼが大きな木桶を両手で抱えて立っている。湯気の立つ湯を満たした桶の重さに、さすがのシゼも荒い息をついているようだった。イーツェンを見て小さくうなずき、シゼは部屋を横切って隣りの部屋への扉へ向かった。
イーツェンはあわてて立ち上がる。脚にはめられたままの右の枷から鎖でぶらさがった左の枷が足首にまとわりついたが、転ばないように注意しながら油燭を手に取り、シゼの前へ回って中扉を開いた。
その先は寝室で、部屋の片隅が仕切られて湯浴み場が用意されている。イーツェンの国ではこうして湯浴み場が普通の室内にしつらえられていることは少ないのではじめて見た時にはおどろいたが、ここは湿気が少ない気候なのでかまわないらしい。城内には浴場があったが、王族が使う物も下働きが使う物もイーツェンは普段使うことを許されておらず、月二度の礼拝の前に身を浄めるほかには使ったことがなかった。
かわりに、この部屋には水桶に水が用意され、それで身を洗うことができる。今も水の張られた大きな桶の横へ、シゼが荒い息をついて湯の桶をおろした。
「‥‥ありがとう」
イーツェンが目を伏せたまま礼を言うと、シゼが何かつぶやいて小さく首を振った。それから腰の後ろに手を回し、ベルトに通した革袋から鍵の輪を取りだす。
「外しましょう」
短く、乾いた声で言った。イーツェンはうなずいてシゼへ体の正面を向けると、手をのばしてローブを自分でたくしあげた。腿まで引き上げると、シゼは前へ膝を付いて右足に残った革枷にふれた。膝の外側の部分で革同士が留め金でつながれ、留め金の輪を通して小さな鍵がつけられていた。
シゼが慣れた手つきで小さな鍵穴に細い鍵をさしこみ、左右へゆるく動かすのを、イーツェンは表情を殺した目で見下ろしていた。シゼは毎日こうして夜に枷を外し、朝にはまた枷をかける。それも彼の「仕事」だった。イーツェンに鎖をかけ、イーツェンの鎖を外すのが。
カチリと肌に音が響き、イーツェンは一瞬目をとじた。解放される瞬間はいつも膝がくだけそうになる。体が拘束をはずされたことに過敏に反応するのだ。
シゼはゆっくりと革帯を外し、鎖をつかんで対の枷を手にぶらさげると、一つ頭をさげて部屋を出ていった。
湯はたしかに肌に心地よく、イーツェンは洗った体に手桶ですくった湯をかけながらほぐれた吐息をついた。首すじから胸元へ、手のひらで石鹸のぬめりを洗い落とす。強く噛まれた左の乳首が今さらずきずきと痛み、息をつめた。
壁龕に置いた油燭の灯りだけでも自分の体にかなり無残な痕が残っているのがわかった。深くもなければ致命的でもない肌の痕など気にしないようにはしていたが、手でそれを追いながらイーツェンはまたにぶい吐き気をおぼえはじめていた。
体の奥も湯を用いて洗ったが、どうやってもきれいにはならない気がした。はじめてこの城の男のなぐさみものになってから、ずっとその感覚が消えない。
──シゼに抱かれても、そう思うのだろうか。
布で肌をこすりながら、イーツェンはぼんやりと思考をそらした。自分が「男と寝ること」に厭悪をおぼえているのかどうか、それはよくわからなかった。イーツェンは少年時代を離宮と修道院を行ったり来たりして育てられ、奔放な気質の人間と厳格な風習との両面になじんでいた。離宮には遊び好きの人間も多く、男同士で恋人の者もいた。それを間近で接して、どうと思ったこともない。
彼らは幸せそうだったな、と思う。自分ももしかしたら望まれての関係だったなら、こんなふうに汚れたような思いをすることはなかったのかもしれない。体だけでなく、それを通じて心を通わせるようなものだったなら。それがどういうふれあいなのか、今となっては見当もつかないのが身に痛くもあり、滑稽でもあった。
それでもここにいることに、意味はある。最後の湯で石鹸を洗い落としながら、イーツェンはそう口の中でつぶやいた。意味はある。人質としてこの国に送られた以上、この身がここに在り続けること、ただその事実に意味がある。自分の魂や心の問題は、はじに押しやられるべき些細なことだった。