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 扉がひらき、まだ夜明け前の冷たい空気をまとったジルモアが大股で寝室に踏みこんできた。寝たふりをしようとしたラウシスの毛布を剥ぎ、長い寝衣の襟元をつかんで引きずりあげる。
 ああ、見つかったな、と思って、ラウシスは暗がりの中で笑みを浮かべた。ジルモアは昼すぎからいなくなったレネスをずっと探し回っていて、夕食にも姿を見せなかったのだ。今ここにいるということは、レネスを見つけたと言うことだろう。
「ご苦労さん」
「お前は弟を殺す気か」
 軽い調子のラウシスの言葉を払いのけるようにジルモアは獰猛な声で囁き、襟元をきつくねじりあげた。ラウシスはどうにか寝台の上に座り直してジルモアを押しやろうとするが、びくともしない。ラウシスは15歳でジルモアは16歳、多少は互角にやり合える筈だが、ジルモアは乱暴な力でラウシスの動きを封じている。
「死んだのか?」
「ラウシス!」
「でかい声を出すなよ。みんなが起きたらお前が夜這いに来たのがばれるぞ」
 からかうと、ジルモアはさすがに声を低くしたが、押し殺した怒りが今にもあふれ出しそうだった。
「レネスをけしかけるのをやめろ」
「俺は関係ない。あいつが何か言ったか?」
 答えはなかったが、襟をつかんだままのジルモアの拳に力が入った。息苦しいその手を引きはがそうと乱暴にジルモアの手首をつかみ、ラウシスは暗がりの中でこっそり唇のはじをあげる。レネスは言わないだろう。必ず、自分1人で家から逃げ出そうとしたと言いはる。誰かに捕まったらそう言うようにラウシスと約束したし、まだ10歳だが、約束を裏切るくらいなら誰の叱責にも耐えるほどの気骨を持った弟だった。
「あいつ、どこにいた?」
 寝衣が破れそうなほどの力で、ジルモアの拳を振り払う。さすがに服を傷める前にジルモアは手を離したが、今度はラウシスの肩をつかみ、指をくいこませた。ぼんやりと油燭に照らされた影が交錯する中、ジルモアの表情よりも体からじかに怒りの熱が伝わってくるようだ。声にも怒りが満ちていた。
「知っているだろう」
 勿論、知っている。ラウシスが、屋根から出ていくようにレネスに知恵をつけたのだ。さすがに彼の弟だ、屋根の上で立ち往生しても、泣きわめいて誰かに助けを求めるような真似はしなかった。明日の朝になればさすがにラウシスも助けにいく気ではいたのだが、ジルモアの方が早かったわけだ。屋根の上ですくんでいる10歳の子供を見つけるまで、ジルモアはこのあたり一帯の池やら沼やら崖やらを全部見て回ったのだろうと思うと、腹の底から痛快だった。
「知らないよ。どこ?」
 あえてしらばっくれる。どちらもラウシスが嘘を言っていることはわかっているが、臆面もない嘘であってもつきとおせばジルモアはそれ以上踏み込んでこれない。それが立場の差というものだ。
「‥‥屋根の上にいた」
 案の定、地獄の底からひびくような低い声で答えて、ジルモアはラウシスの肩から手を離した。痺れが残る肩をさすりながら、馬鹿力に顔をしかめて、ラウシスは世間話のようにたずねる。
「泣いてたか?」
「いや」
 立派だなあ、と感心した。ひとりで屋根の上で夜を迎えても大丈夫なのか。この間は、犬の仔が1匹死んで生まれたとかその程度のことで目が溶けそうなほど泣いてたくせに、あの弟はよくわからない。
 屋根では駄目か。だが地下室にとじこめたりするのも今さら新鮮味がないな、と思って頭を悩ませていると、それまで立っていたジルモアが寝台に腰を下ろした。
「ラウシス。レネスはお前を尊敬している。下らないいたずらを仕掛けるな」
「お前が何を言ってるかわかんないけど」
 とりあえずそう前置きを置いて、ラウシスは肩をすくめた。ジルモアが持ってきた油燭が柱に架けられていて、部屋は相手の仕種が見える程度には明るい。
「俺が弟に何しようがお前に言われる筋合いはねえよ。お前はうちの身内でもなければ、あいつの兄貴でもない。あいつの世話係ですらない。だろ?」
「俺とレネスの問題じゃない。お前とレネスの問題だ」
 ジルモアの声は苛立ちを含んでいた。その顔を、ラウシスはじっと眺める。人を立ち入らせる隙のないジルモアだが、レネスが絡むといとも簡単に挑発に乗ってくる。無表情を保とうとしているが、膝の上に置かれたジルモアの右手は強い拳を握っていた。
「そうか? なら尚更お前には関係ないな。俺と弟の問題に、どこからどうやってお前が首をつっこんでこれんだよ」
 俺と弟、とあえて嫌みに強調してやる。どれだけレネスがなついていても、所詮ジルモアは他人であって、レネスの兄はラウシス以外にいない。兄弟の間に立ち入る権利は、ジルモアにはない。
 ジルモアは何か言いかけて、それから不意に立ち上がった。このままラウシスの相手をしていても仕方がないと悟ったのだろう。壁の油燭を取り、毛皮の敷かれた床を歩き出して、続きの間へ出ていく寸前に振り向いた。
「お前をエピルガ=ゼルの学校へ行かせようという話がある」
「俺は行く気はないよ」
 うんざりと、ラウシスは手を振った。エピルガゼルはここから馬でも5日かかるという街で、名高い巨大な学舎があるが、学生に強いられる厳しい学則もまた悪名高く、とてもではないがそんなところに行くつもりはない。母親はエピルガゼルにつてがあるらしく、最近またラウシスをその学舎に入れたがっているのだが、幸い父親の方は「父上のそばで仕事を学びながら学問をやりたいんです」というラウシスのけなげな訴えに感じ入った様子だった。
「俺は、母上様の肩を持つかもしれん」
 ジルモアの言葉に、ラウシスは寝台の上に勢いよく起き上がった。父親から絶大な信頼をおかれているジルモアが母親側につけば、まずラウシスのエピルガゼル行きは決定する。そうなれば2、3年は監獄のようなところで暮らす羽目になるだろう。
「てめえ」
「よく考えろ」
 出入り口に下がっている幕をからげて、ジルモアは出て行った。やがて続き部屋の扉がしまる音がして、部屋がしんと静まり返る中、ラウシスは枕に頭を戻して暗い天井をじっと見上げた。
 もしラウシスがエピルガゼルに行けば、ジルモアも来る筈だ。たとえレネスのそばに残りたくとも、ジルモアを紐なしでここに置いておくつもりはラウシスにはさらさらない。だがそれでもジルモアは、いざとなればラウシスをためらわずにエピルガゼルへ押し込むだろう。
 彼は空虚な脅しはしない。まだ13くらいの頃、不真面目な馬丁頭に「次にラウシスの馬を世話を怠ったら、お前を馬房につないで飼葉を食わせてやる」と脅しをかけ、結局その通りに実行してのけた過去がある。外面はおだやかだが、一皮剥けば凶暴で、無慈悲だ。
 ──俺を脅すとは。
 飼い犬のくせに、と首根をつかんで引き戻してやりたかった。ジルモアよりラウシスの方が身分も血筋も上だし、立場も上だ。だがいったん気持ちを決めればジルモアがそんなことは意にも介さないと誰より知っているのもラウシスである。空虚な脅しはしないし、脅すからには完全に本気だ。ラウシスが主であることなど、ジルモアをとめる助けにはならない。
 そこまでレネスが大事か、と思うと忌々しく、ラウシスは闇の中で「くそっ」と悪態をついて枕に頭を埋めた。お前は俺のだろ、と胸の内で呟く。そう。ジルモアは彼のものだ。どれだけレネスがほしがろうと、レネスのものにはならない。
 ──お前にはやらねえよ。


 その後も何度か、ジルモアの視線をかいくぐって、ラウシスはレネスに他愛のないいたずらを仕掛けたが、弟は前のように無邪気には乗ってこなくなっていた。
 それもジルモアの入れ知恵かと思うと忌々しく、ラウシスはたまにレネスに辛辣な言葉を吐いては、涙目になった弟の顔を見て気を晴らした。勿論、やり過ぎた後にはジルモアからの色々な警告がとんでくる。エピルガゼルの学舎に入る話が流れてからも、ジルモアは色々とラウシスの弱みを見つけては、さりげなくそのことを匂わせつづけた。
 ラウシスとジルモアの仲が悪かったわけではない。いささか屈折したところのあるラウシスと、遠慮のないジルモアとは基本的に気が合ったし、ラウシスの無茶無謀につきあいながらもジルモアは結構楽しそうだった。身分のへだてはなくならなかったが、彼らは長年の間にいい友人になり、お互いを信頼していた。
 だが、レネスをはさむと話は変わる。
 久々に館を訪れた母親とお茶を囲みながら、その時、レネスは橋の話をしていた。
「色々な形の橋があるんです。木を使うものと石を使うものとでは考え方が全然違っていますが、どちらも上にかかる力を分散させるために弧の形を利用します。石の場合は中央の要石がとても大切で──」
 馬鹿か、とその話を聞き流しながら、ラウシスは退屈していた。母親に橋の構造の話をしておもしろがるとでも思っているのか。
 だが母親は楽しそうに微笑みながら聞いていて、どうもこの女の表情も読めないな、とラウシスは目のすみでおとろえの見えない美貌を眺める。人が多い街が苦手だと言って普段は地方の荘園に住んでおり、年に1、2度ほどこうして子供と夫の様子を見にやってくるが、ラウシスにとってはあらゆる意味で遠い相手だ。見目のいい外見に生んでくれたことには心の底から感謝しているが。
 レネスはまだ1人でしゃべっていた。母親が来ると、彼はいつもよりずっと饒舌になる。沈黙が落ちるとすぐそれを埋めようとする様子は時おり痛々しいほどだったが、勿論、ラウシスは弟に助け船を出すつもりはなく、黙ったまま愛想笑いを浮かべて座っていた。
「こちらの焼き菓子をどうぞ」
 レネスの息継ぎの合間をすくうように、ジルモアがいきなり会話に入ってきた。ひかえめに給仕をこなしていた彼が、会話の間に入ってくるのなど希有のことだ。厨房から持ってきた焼き菓子の説明を母親にしているジルモアを見ながら、ラウシスはレネスがほっとした様子で茶を飲んでいるのを目のはじにいれた。
 ──過保護な雌鳥か、お前は。
 胸の奥で悪態をついて、ラウシスは前に体を傾け、テーブルに肘をつく。その行儀に非難する目を向けた母親とジルモアを同時に無視して、彼は弟に笑みを向けた。
「ラベンデールの吊り橋はすごい長いって話だな。あれは木の橋だろう?」
 レネスはとまどった様子で、飲みかけのカップをおろした。このところの彼は橋にひとかたならぬ情熱を傾けて、模型を作ったりしているが、橋の話に興味を見せたことのない兄がいきなり質問してきたのをいぶかしんでいるようだった。
 話したいという欲求が、大きな緑の目に素直に浮かんでいる。ラウシスが本当に自分の弟なのかと不思議に思うほど、レネスは素直きわまりない子供で、15になった今もそれは変わらなかった。ラウシスにからかわれたり嫌みを言われたりするのに慣れていても、少し可愛がってやるとすぐにまたなついてくる。そんなに素直だと悪いヤツにだまされるぞ、といつもラウシスは勝手に思い、時おり心底ひどいことをしてやりたくなるのだった。ジルモアがいるからあまり何もできないが。
「あの橋は、完全な吊り橋じゃなくて」
 レネスは少しまだ用心した様子でゆっくりと話し出すが、ラウシスが笑みを向けるとそれに勇気づけられたのか、少し体の緊張をといてつづけた。
「流れが強くて橋脚を置くと危険な箇所を、上から吊ることで荷重を分散しているんだ。途中までは普通の橋だよ。橋脚を支えるために周囲に石で囲いを作って、直接流れがぶつからないように守っているんだって」
 何が楽しいんだろうなあ、とレネスの顔を見ながら、ラウシスは思う。彼らの商売は基本的に物をあちこちに移動させることで成り立っているから、橋についてはラウシスも興味があるが、それは荷車が通れるかどうかと、1度にどの程度の荷重に耐えられるか、大きな隊列がそのまま通れるかどうかだ。場合によっては橋の行程だけより小さな荷車に積み替えて荷を運ばなければならないこともあるし、無理に橋を通るより船を使った方が早くて安い時もある。
 彼にとって橋は「使えるか使えないか」といったものであって、橋そのものに惹かれることなどかけらもない。だがレネスは、荷を運ぶ旅に同道するたび、通りかかる橋を熱心に筆写していた。1度など、橋を補修している人足に話を聞きに行ってしまい、隊列から大きく遅れて、父親に軽はずみなことをするなとこっぴどく叱られていた。そう言えばあの時レネスを探し出したのもジルモアだった。
 何がおもしろいのかわからないまま、適当に相槌を打ってレネスに話を続けさせていたが、ラウシスは頃合いを見はからって目的の話題に入った。
「お前、エピルガゼルに行って橋の技師になりたいんだって?」
 途端に、レネスの口がぴたりととまる。ラウシスは視界のはじで、それまで笑顔だった母親の顔がしんとした怒りの顔にかわるのを見た。ジルモアは壁際の副台に空になった菓子皿を片づけているため、背中しか見えないが、その背がこわばったように見えたのは気のせいではあるまい。
「それは──」
 レネスがあわてて誤魔化そうとするのを、ラウシスは笑顔で一蹴する。
「エピルガゼルから戻ってきたアイクに色々な話を聞いてたらしいじゃないか。最近じゃ、ラミタラの峠にこっそり行って吊り橋の補修人足を手伝ってきたんだって? 楽しそうだったって、一緒に行った馬丁のファルが」
「いや、あれは──」
「お前はそんな者たちとつきあいがあるのか? 人足に馬丁?」
 母親の言葉にも表情にもはっきりとした嫌悪があった。その顔を向けられたレネスは途端に身を小さくする。さすがに15歳だから涙をこぼすようなことはなかったが、傷ついた表情で伏せた目は少し潤んでいるように見えた。
 母親が、とじた扇でぴしりとテーブルを叩く。嫌な仕種だ、と思いながらラウシスはゆったりと椅子の背もたれによりかかって、テーブルの下で両足のくるぶしを重ねた。後は見物するに限る。
「答えなさい」
「‥‥‥」
「橋の技師ですって?」
 紅を引いた唇がくっと歪む。我が母親ながら美しい女だったが、手の届きがたいような硬質な美貌は時おり、美しいままにひどく醜い表情を見せた。女の芸当だな、とラウシスは感心しながら、自分のカップを口に運んで花の香りのする茶を含んだ。
「‥‥橋を造りたいんです」
 レネスは下を向いたまま、羽毛のきしむような小さな声で答えた。力の入った肩が意固地に見える。テーブルの上で重なった両手がふるえて、右手が下になった左手を強くつかんだ。
「そんなことは平民のすることではありませんか」
 母親の声はつめたく、レネスを追いつめようとする口調は容赦がない。別に貴族も偉くねえけどな、とラウシスは内心で笑った。商会を取り仕切り、荷を運んだり各地の商人に卸したりする仕事の、どこが橋を造るのより上品なのか、ラウシスには今いちわからない。汗水垂らして汚い現場で働きたいというレネスは、酔狂で馬鹿だとは思うが。
「お前はこの家の名に泥を塗るつもりですか」
 おいおい、とラウシスはあきれた。そもそもレネスは本気でエピルガゼルで土木を学ぼうとしていたふしはなく、ただ子供っぽい憧れから学舎の話を聞いて楽しんでいただけだ。それが一足飛びに、「家名に泥」ときた。泥ならラウシスが隠れていくらでも塗っている。
 レネスの無邪気な夢のどこに害があるというのか、長年の仇でも見つけたように、レネスをにらむ母の顔はするどい。
 ──少しは子供の言い分も聞いてやれよ。
 話題の元凶が自分であることは差し置いて、ラウシスは胸の奥で勝手を呟いた。こんな女に会えるからと、何日も前から花を集めて香りのいい茶を作っていた弟が不憫になってくる。何でお前は、いつもなつく相手をまちがえるんだ。もっと優しい相手を好きにならないから、こんなふうに痛い目に遭うんだろうが。
 うつむいているレネスの右手が、拳のまま胸元をおさえ、何かを探るような仕種をした。まさか心臓が痛いんじゃあるまい、とラウシスはぎくりとしたが、そういうわけではなさそうで、胸の上に手を置いたままレネスは決然とした顔を上げた。
「決して卑しい仕事だとは思っていません。橋がなければ荷を動かすこともできず、うちの仕事にも差し障りが出ます。いい橋を造れば皆が楽になるんです」
「小賢しい」
 ぴしりと鋭い音が鳴って、さしものラウシスも椅子から体を乗り出した。テーブルの上に残っていたレネスの左拳を、母親はとじた扇で打ち据えていた。
「おい」
 つい乱暴な言葉が口をつき、テーブルごしにのばした手で硬直しているレネスの左拳をつかむ。レネスの手が自分の手の中で震えているのを感じて、その手を握りしめたラウシスは母親をにらんだ。ふざけんな、と後先考えずに面罵しようとした時、物が砕けるけたたましい音が鳴って、全員の視線が壁際に集まった。
「失礼いたしました」
 顔色ひとつ変えずに、ジルモアは足元に落ちて割れた皿の大きな破片を拾い上げ、盆の上にのせる。大きなかけらだけは絨毯の上から取り除いたが、細かいかけらが散らばったまま、盆を腰高の引き出しの上に置くと、彼はおだやかな微笑を母親に向けた。
「床を汚してしまいましたので、よろしければ場所をお替えになったらいかがでしょうか。温室に準備させております」
「あら」
 何故だか少し気恥ずかしそうに、母は頬を染めた。何でだ、とラウシスは腑に落ちない気分で、母がジルモアの手を取って椅子から立ち上がるのを眺める。
 温室で、母親が取り巻きの女性を集めて花を見ながらわいわいと語るのは恒例になっていて、今日も歌い手まで招いて騒ぐらしいというのは聞いている。だがまだ早いんじゃないかと思った時、母親も同じ疑問を口にした。
「皆様、まだいらっしゃっていないんじゃないかしら」
 ジルモアはやわらかな態度を崩さなかった。
「皆様とお話しされる前に、ゆっくりと花をご覧になるのもよろしいかと存じます。本日は蝶も放しておりますので。ご案内してもよろしいでしょうか」
「あら」
 うれしそうに、母はジルモアの手を握ったままでいる。お前の手を取っているのは平民の男でしかも俺の犬なんだよ、とラウシスは思いながら、まだ小さく震えているレネスの手を手の中に握りこんだ。緊張の反動なのか、レネスは今にも気絶しそうなほど青ざめて見える。泣くのをこらえたのか、下唇を歯の先にはさんで強く噛んだ。
 無性に腹が立ってきて、ラウシスは椅子を後ろに蹴とばすように立ち上がった。
「行こう、レネス」
「えっ、でも──」
 レネスは大きな目で母親を見てから、ジルモアの表情をうかがった。何故あいつに許可を求める、とますますむかっ腹が立ち、ラウシスは慇懃に母親へ一礼する。
「本日はお目通りできて楽しゅうございました。母上様におかれましては、ご健勝にすごされますよう」
「お前もね」
 しれっとした微笑で母親はうなずいた。母親とラウシスは結局のところ同類で、お互い何となくそれを嗅ぎつけて適度な距離を保っている。互いに噛みつかずにすむ距離を置き、それ以上は近づかないことで無言の了解ができていた。
「お前も挨拶しなさい」
 ラウシスは兄らしくレネスの首に手を置き、会釈をさせる。レネスがしどろもどろに挨拶を終えるか終えないかのうちに彼をひっぱって部屋の外へ出ると、そのまま馬房へと引きずるように歩いていき、馬丁に彼らの馬に鞍を付けるよう命じる。
「どうしたの」
 レネスはとまどい顔だ。その目元が赤いように見えて、ラウシスはのばした手で弟の左頬をむにゅっとつねった。あんな女の言うことに傷つかなくてもいいものを。
「遠乗りだ。しばらくあのへんも白粉臭くなるからな」
「兄貴は白粉好きじゃないか」
 つねられた頬を手のひらで覆ってラウシスから逃げながら、レネスはぶつぶつと言う。それでも馬に乗せられると、少し前の出来事を忘れたように楽しそうに馬を走らせはじめた。動物と一緒にしておけばそのうち機嫌がよくなる、すこぶる単純な弟である。


 白粉まみれのお茶会からは逃れたが、かわりに馬の匂いが体についてしまい、ラウシスは部屋のはじにしつらえられた水場で裸になって頭から水をかぶった。冷たい水に全身が総毛立つが、一瞬体が締まった後、体の奥から熱が上がってくるのが気持ちいい。
「皿は弁償しろよ」
 頭を拭きながらそう言うと、近づいてきたジルモアが彼の手から布を取り、髪を拭きはじめた。放っておくとラウシスは生乾きの髪で服を着てしまうので、それが気に入らないらしい。
 髪の水気が拭われたところで、ジルモアの手から布を取り戻すと、ラウシスは裸の体を拭いた。ラウシスの裸など見慣れているジルモアは、おとなしく着替えを手にしてそばに立っている。渡される服に腕を通しながら、ラウシスはふと眉をひそめた。
「どうした」
 レネスに嫌がらせをするな、とか、今日のことを脅されるのではないかと思っていたのだが、ジルモアの沈黙はいつもと少し違う。
 ラウシスが服をまとうまでジルモアは黙って何かを考えていたが、彼の後ろに回って膝をつき、帯を締めながら、低い声で言った。
「レネスは本気で橋を造りたいのか?」
「ガキだからな。遠乗りの最中もやれ桁橋だとかやれアーチ構造だとか何かしゃべってたぞ。橋を造ればみんなが幸せになるとかなんとか。あいつの頭の中には虹でもつまってんのかね」
 つぶやいて、ラウシスは腕を組んだ。ジルモアの顔つきが気に入らない。
「何だ」
 正面から顔をのぞきこむと、ためらってから、ジルモアは口をひらいた。
「エピルガゼルの学舎でレネスが学べるように、お前から口添えしてやってくれないか」
「母上の言ったことを聞いてなかったのか」
 ラウシスは呆れて、革張りの長椅子に腰を下ろすと酒の壺から蜜酒を細い硝子杯に注いだ。ジルモアは水場の周囲を片付け、とびちった水を石の床から拭いながら、肩ごしにラウシスへ視線を向ける。
「レネスが何を学んでいるかはっきり知らなければ、お前の母上は何も言うまい。エピルガゼルで学べることは色々ある」
「父上はどうする。学舎から親父に工程表がくるんだぞ。何を学んでいるか一発でバレる」
「ご当主様はお前の母上ほど頭は固くない。お前の口添えがあればレネスに橋造りを学ばせるだろう」
 そうかなあ、と思ったが、ジルモアに言われるとたしかにそんな気もしてくる。彼らの父親は長男のラウシスにはかなりきびしく対したが、レネスには鷹揚──ある意味関心が薄い──だし、母ほど技師という仕事を見下げてもいない。説得の余地はあるかもしれない。
 しかし。
 ラウシスは、掃除を終えて立ち上がるジルモアをじろりと見た。
「何で俺がそんなことをするんだ?」
「お前の弟の夢だ」
 何度も見直したが、ジルモアは至って本気でその言葉を口にしたようだった。ラウシスは声を立てて笑い、きつい蜜酒を一口あおる。喉がかっと熱くなり、その刺激が体の内側をすべりおちていく。
「橋なんか造って何が楽しいのか、俺にはわからんね」
「レネスは商会の仕事に興味がないし、あいつはこの仕事に向いてない。なら、好きな道を、家の外で探した方がいいだろう」
「正直者だからな」
 つぶやいて、また一口、蜜酒を飲んだ。商会の仕事には腹芸や交渉術が必要だが、レネスにその才能がないのはあからさまだ。レネスだって嘘もつけば利己的なところもあるが、商売のために嘘をつき通すだけの面の皮の厚さはない。その点、ラウシスやジルモアとは根本的にちがう。
「あいつほんとに俺の弟なのかな」
 しかもあの母親の息子だ。母親の腹から生まれたにしても違う穴から生まれたんじゃないかなどと考えこんでいると、ジルモアに頭をはたかれた。
「冗談でも言うな」
「聞こえてねえんだからいいじゃねえか。みそっかすとか、出来損ないとか言ってるわけじゃあるまいし」
「ラウシス!」
「はいはい」
 ラウシスは空にした杯を置いて、長椅子の肘掛けにだらしない頬杖をついた。ジルモアをからかうのは楽しいが、怒らせると長引く。
「まあ、親父は何とかなるかもな。橋に投資するのは悪くない考えだ。投資をつのって、通行料で配当を出すようにして、うちで債券を取り仕切ればうまみも出てくる。そっちの方面から攻められるかも」
「そうか」
 ジルモアの声にはほっとしたような響きがあって、ラウシスは片目だけを上げてそこに立っている世話役の顔を見た。
「レネスがエピルガゼルに行けば、2年は戻ってこないぞ。いいのか?」
「何の話だ」
 なんのはなしだ。って、臆面もなくよくそういう返事を返すものだ。ラウシスは立ち上がると、ジルモアの肩にもたれかかるように手首をのせ、顔を近づけて笑った。自分の息に蜜酒の匂いがするのは、ジルモアがかすかに眉をしかめたことからもわかったが、なおさら顔をよせてやる。
「馬鹿だな、お前は。親父に口利きしてもいいが、俺の言うことを聞くか?」
 眉の間に影を溜めたまま、ジルモアはラウシスの顔を見た。
「もう酔ってるのか」
 しっかりとシャツを着こんだ襟首をつかみ、その目を見ながら、ラウシスはジルモアに噛みつくようなくちづけを仕掛けた。ジルモアの、男っぽい厚みのある唇は乾いていて、ラウシスの強引なくちづけにも何の反応も示さず、拒否も受け入れもしない。
 つまらなくなって顔を離すと、ラウシスはつかんだままの襟を引いた。
「馬鹿か。こういう時にはちゃんと相手の機嫌を取るもんだろうが」
「レネスはこの家から出さないといかん」
「色っぽいことをしている間に、ほかの男の話をしたりはしないんだよ」
 嫌がらせのようにジルモアの顎に唇を走らせ、舌先で肌を舐めたが、ジルモアは逆らうでもなく淡々と続けた。
「この家にあいつのやりたいことはない。あれはお前とも、俺とも違う」
「手放して平気なのか? 俺は絶対やだな」
「お前には俺がいるだろう」
 動きをとめ、まばたきして、ラウシスはジルモアの顔を見た。ラウシスの方が上背がわずかにあるが、あまり見おろすといった感じではない。ジルモアはレネスのように人目を引く端麗な顔立ちではなかったが、その顔には少年の脆い面影を脱ぎ捨てつつある男くさい険の強さがあって、頬から口元への線が強く、眉にきりりとした意志が満ちていた。
 左の耳朶には商会の印が刺青で入れられ、ジルモアがこの家に所属していることを示している。物のように。その耳朶を、ラウシスは指先でつまんだ。
「お前は煮ても焼いても食えないから、もっとやだよ」
「穴なら何でもつっこむ悪食のお前に言われるとは光栄だな」
「ふむ。お前の穴につっこめるかどうかためしてみるか?」
 もう1度仕掛けたくちづけに、ジルモアはやはり逆らわなかった。こいつは俺のだしな、とラウシスはジルモアの唇の形をなぞりながら思う。そりゃジルモアは、ずっと彼のそばにいるしかないだろう。お前には俺がいる、なんて言葉に大した意味などない。このままつっこませろと言ったところでおとなしく言いなりになるとは思えなかったが、レネスの件を押せば、ジルモアは尻くらい貸すだろうか。この男ならやりかねない気がする。
 急に興ざめして、ラウシスはジルモアを乱暴に突き放した。ジルモアが指先で唇を軽く拭う、何事もなかったかのような顔にも腹が立ち、寝椅子にごろりと横になる。
 ジルモアは空の杯を片付けながら、それていた会話をもう1度レネスに戻した。
「とにかく、当主様を言い含めてレネスが学舎に入れるようにしろ。俺も協力する」
 嫌だと断ろうとした時、さらに言葉を重ねられた。
「お前の母上様はさぞ嫌がるだろうけどな」
 ラウシスの頭に、見たこともないほど怒り狂う母親の姿が浮かんだ。あの澄ました顔が、とりつくろいもないほど醜い表情を見せるのだろうか。それは、ちょっと見たい。
「お前に貸しだぞ」
 わざとらしく恩を着せて、ラウシスはうなずき、ジルモアのほっとした表情を目のすみで眺めた。うまく丸め込まれた気がしないでもないが、断ってもジルモアは必ずラウシスにうんと言わせる道を探し出してくるだろう。すぐそばに、そんな危険な決心をした男を置いておくのも恐ろしい。
 結局、2人がかりでさりげなく父親に学舎の件を吹きこみ、レネスが商会の仕事に不向きであることを説明し、学舎に入れる許可を得るのに1年近くかかった。レネスの準備が整うのにまた少しかかり、レネスが学舎に学びに旅立った時には、彼は18になっていた。