犬は珍しいほど機嫌がいい。
ラウシスはマッセが火をつけた煙管を受け取ってくわえ、にがい煙をゆるやかに口元で味わいながら、さっき窓から見かけたジルモアの顔を思い出していた。
滅多に表情を動かさない男だから、逆にわずかな表情の差がよくわかる。と言ってもそれを見分けるのはどうやら幼なじみでもあるラウシスだけのようで、夜宴などで出会う令嬢たちに言わせるとジルモアの無表情は「神秘的」らしい。
──何が神秘的なもんか。
あれは、単に普段から不機嫌なだけの犬だ。何でそんなものが「素敵」だったり「神秘的」なのかラウシスにはさっぱり理解できない。役に立つ男だが、あんなのに気持ちをときめかせるのはそのへんの彫像に恋をするのとあまりかわらないだろう。
だがさっき、庭を横切って行ったジルモアの横顔はいつになくおだやかで、まなざしも明るく、ラウシスは情事の後で眠い目をまたたいて見直さなければならなかった。明日には、弟のレネスが橋を造るために出立する。その日取りを聞いてからジルモアはずっと考えこんでいる様子だったのだが、迷いも振り切れて、いつになく晴れ晴れとした顔をしていたように思う。
気に入らない。
「何考えてるの?」
甘えた声で言いながら、マッセがラウシスの膝の間に右手をすべりこませる。頭も尻も軽い若者だが、見目がいいし、遊び慣れているので口に男をくわえこむのがうまい。おとなしくラウシスに尻尾を振ってみせるけなげなところも気に入っていた。
「‥‥犬の話」
口のはじから煙を吐いて、情事の汗の匂いが入り混じる部屋に視線を戻し、窓枠に頭をもたせかけた。手をのばしてマッセの乱れた髪を撫でてやると、マッセはラウシスの膝に頬を擦り付けた。
かわいがればその分だけなつくのが、単純で、馬鹿馬鹿しい。
「ジルモアが戻ってくるな」
呟いて上体を起こし、ラウシスは引き寄せた火皿に灰を落とした。よくここに男女問わずひっぱりこんで遊んでいたせいで、ジルモアの部屋はほとんど自分の部屋のようになじんでしまい、自分の寝室よりこの少し狭い寝台の方が余程くつろげるほどだ。2人の行為が乱した敷布を見おろすとつい口のはじが上がって、自分でもわかるほど人の悪い表情を作ってしまった。人の性行為の匂いがたちこめる寝台で、ジルモアは今日も寝るわけだ。
──お前にはそれが似合いだよ。
飼い主の手を平気で噛むような馬鹿には。
ラウシスの笑顔に何を思ったか、マッセが裸の腕を彼の足に絡めながら拗ねた声を出した。
「ジルモアのことになると、いつもお館様は楽しそうな顔をするんだね」
「付き合いが長いからな」
鼻先であしらうように答える。楽しいわけがないだろう。あんなに腹の立つ男はいない。
素っ気ない声に気付かなかったか無視することに決めたのか、今日のマッセはいつになくしつこかった。
「ずっとジルモアと一緒に育ってきたんでしょ? すごく仲が良かったってハンネが言ってたよ。子供の頃のジルモアも今みたいに無口だった?」
ハンネはラウシスの乳母だ。うるせえな、と言い返そうとしたが、マッセの声の中にある棘が気になってラウシスは顔を上げた。演技以上の切迫したものがそこにある気がしたのである。大きな栗色の目を見ているうちに、いきなり気付いた。
「お前、ジルモアに気があるのか」
「‥‥‥」
さすがに裸でこちらにしなだれかかっている体勢で「ほかの男に気がある」などということを肯定はしなかったが、情事で赤らんでいたマッセの目のはじがますます赤くなった。ラウシスはのばした指先で髪を撫でてやる。なるほど。
「そりゃいいな。迫ってみたらどうだ? あいつのをくわえられたらお前に褒美をやるよ。どうせ人淋しい気分になってるだろうから、今夜なんかほだされて抱いてくれるかもしれないぞ。やってみろ」
マッセは目を大きくしてラウシスの言葉を聞いていたが、それが冗談ではなく本気だと聞きとったようだった。頭は軽いが、馬鹿ではない。ぎょっとした様子で寝台の上に座り直した。その表情はあどけないほどで、これはもしかしたらうまくいくかもしれないなとラウシスは思う。弟のレネスが時々こういう、いとけないような子供の顔をするのだ。その表情を、ジルモアはよく親鳥のような目つきで眺めていた。
「うん。いい考えだ。お前、今夜は帰ってこなくていいぞ。ああいう頭の中まで固い男は、強引にたらしこめ」
「‥‥お館様って」
マッセがしみじみした様子で呟いた。
「ほんとにジルモアのことになると楽しそうだよねえ。妬ける」
ラウシスは片手でぱちんと侍従のこめかみをはたいた。楽しいわけがあるか。あの男に何度腹の煮えるような思いをさせられたと思っているのだ。
ラウシスの元に「いずれお前に仕える相手だ」とジルモアがつれてこられたのは、彼が8つの時だった。ジルモアは1つ上だからあの時9つだったのだろうが、ひととおりの礼節は心得、護身術なども仕込まれて、ラウシスにしてみるとひどく一人前の男のように見えた。
彼からもそう見えたのだから、3歳だった弟のレネスからはジルモアはそれは頼りがいのある存在に見えたにちがいない。舌足らずな口からこぼれる名前はたちまちジルモアのものばかりになり、レネスはたどたどしくジルモアの後ろを追いかけて歩くようになった。実の兄であるラウシスよりもはるかにジルモアの方をたよりにしている弟が、時おりラウシスは忌々しくなったが、気分のままに泣かせると、レネスはいつでも泣きながらジルモアのところへ走っていくのだった。
そのたびに、それは俺のだよ、とラウシスは意地悪な気持ちで考えていた。レネスがほしがったところで、ジルモアはラウシスに付けられた世話係だ。レネスはおまけにすぎない。
実際、ジルモアはたよりになる世話係だった。ラウシスがまだ少年の頃に女遊びを覚えると、女をはらませないように事細かな注意をラウシスに与え、男相手に遊びはじめると文句も言わずに相手とラウシスの間を取り持ち、ごたごたが起きるとそれをきれいに片付けた。あまり勉強好きではないラウシスが学問をさぼらないように見張り、理解できない科目があると見るやどこかからもっと優秀な教師をひっぱってくる。
父親の事業にさしたる興味のなかったラウシスが、まがりなりにも一人前の顔をして商会を取り仕切れるようになったのは、ジルモアのおかげだ。それは誰に言われずともわかっていた。勉学をこなしたこともそうだし、仕事を手がけるようになってからはジルモアに対する絶対的な信頼感がラウシスを助けた。安心して仕事をまかせられる相手が1人でもいるというのは、何にも変えがたいほど大きな財産だ。
ジルモアはラウシスのどんなわがままにも従い、どんな厄介も文句ひとつ言わずに引き受けた。犬みたいだと陰口を叩かれているのも知っていたが、ラウシスには人が思うようにジルモアがただの忠犬だとはとても思えなかった。それだけ盲目のように彼に仕えるジルモアが、ほんの何回か、彼に牙を剥いたことがある。向けられたその牙はひどくするどかった。
そしてその牙は、いつもレネスを守っていた。