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 煙管の先に溜まった灰を火皿に落とし、ラウシスはジルモアの部屋の天井を眺めた。膝の上に犬のようにマッセの頭がのっていて、その髪の間をラウシスの指が怠惰に動く。
 この部屋にもどれほど入り浸ったかわからない。元々、ジルモアをあまり使われていない離れに移したのは、自分の部屋ではできないあれこれのための場所を作るためだった。ジルモアは文句も言わずに命じられるまま部屋を移ったし、ラウシスがここに男女問わず遊び相手をひっぱりこみはじめて、寝室に濃厚な情交の匂いを刻みこんでも、何もとがめだてをしなかった。できた立場ではない。結局、ラウシスの言うことには従うしかない立場だ。
 ここで遊んだ愛人の何人かを、ラウシスはそのままジルモアの部屋に残してきたことがある。だがジルモアがエサに引っかかって彼らと遊んだ様子はなかった。たまに娼館へ出かけているのは知っていたが、彼は金を介した以上の関係は持たないようにしているのだろう。犬はそうしつけられる、とラウシスは聞いたことがある。商会の仕事に深くかかわり、当主のそばで多くの秘密を見る立場だから、商売敵に色欲を仕掛けられても拒否できるように教育を受けるのだ。
 ──なのに、平気で飼い主に牙を剥く。
 明らかに、この犬はしつけに欠陥がある。
「何であんな無愛想なのがいいんだ」
 マッセの髪を撫でながら、ラウシスはたずねた。マッセはラウシスの膝横のくぼみからふくらはぎまで唇を這わせながら、従順に答える。
「凛としてるし、格好いいし、何か少し手の届かない感じがいい」
 そのどれもラウシスの中のジルモアと結びつかないが、まあ好意と言うのは大抵外から見たら馬鹿馬鹿しく、的外れなものだ。尻軽の侍従を問いつめるのもかわいそうだったので、ラウシスは彼の髪をつかんで引いた。すぐに要求を呑み込んだマッセは口をあけて身をのり出し、彼の牡を舌でねぶりはじめる。
 生暖かい舌の刺激に目をほそめながら、ラウシスはさっき窓から見たジルモアの表情を思い出していた。妙に機嫌よく、さっぱりした顔をしていた気がする。
 ──まさかレネスと?
 そう思いながら、胸の内で否定した。ジルモアに限ってそういうことはあるまい。ない筈だ。
 学舎で2年をすごして戻ってきたレネスは、もう昔のような自信なさげな少年ではなく、静かながらも力強いたたずまいを身につけ、自立して、誰の保護も必要としなくなっていた。かつてはまるで雛の面倒を見るようにレネスの面倒を見ていたジルモアは、居場所をなくしたことになる。
 そのせいなのかどうなのか、ジルモアは帰ってきたレネスと距離を置いていた。時に馬鹿馬鹿しいほどあからさまに、彼はレネスに近づかないようにしていたし、レネスが傷ついた顔をしてもそれを無視した。あれだけ甘やかしていたのにと、ラウシスは少し呆れ、それでもジルモアの尻尾をおっかけていこうとするレネスが不憫にもなった。本当に、弟はいつもなつく相手をまちがえる。悪趣味なのだろうか。
 俺のものを好きになっても、どうしようもないぞ。
 そうレネスに何度か言いかかったが、レネスを払い落とすようなジルモアの態度が冷淡で、ラウシスはわざわざ2人の間に割って入る気が起きなかった。後から思うと、ジルモアの狙いにはそれもあったのかもしれない。自分がレネスに近づきすぎればラウシスを刺激する、そのことくらいわかっていた筈だ。
 マッセが喉をゆるめて、ラウシスの牡を喉の奥まで呑み込んだ。固くなっていく牡を、喉を使って上手に刺激する。熱い粘膜にきつく包まれ、ねっとりと舌を這わされてラウシスが呻きをこぼした時、扉が鳴った。
「‥‥入れ」
 ラウシスはマッセが頭を上げないように髪をつかんだ手で股間に押さえつけながら、扉に命じる。一瞬置いて、あいた扉からジルモアが入ってくると、自分の寝台の上の淫らな状態を見て眉をしかめた。ラウシスはあいている手で手招きする。
「お前もしゃぶってもらえよ。うまいぞ、こいつ」
 マッセはジルモアが入ってきた一瞬だけ動きをとめたが、すぐにまた舌を積極的に動かしはじめ、唾液にまみれた音をたててラウシスの屹立を舐めた。興奮しているのか、丸めた背中にうっすらと紅潮がひろがっている。こういうのが好きなのか、と思ってラウシスは唇のはじを持ち上げた。
「どこに行ってた?」
 ジルモアは表情を殺した顔でラウシスを見た。
「井戸の様子を見に」
 嘘だな、とぴんときた。ラウシスは頭を上下させて彼に奉仕するマッセの首すじをさする。手早く上着だけを着替えて出ていこうとするジルモアに、かすれた声で言葉を投げた。
「レネスの出立の前に、餞別を準備しておけよ」
 ジルモアは何も言わず、振り向きもせず、その背を隠すように扉がしまる。とじた扉に視線を据えたまま、ラウシスはマッセの髪をつかみ、腰を動かしはじめた。マッセの喉から低い呻きがこぼれ、淫らに牡をくわえこんだ口のはじから唾液がつたった。
 元はと言えば、レネスをこの家から出すためにジルモアに協力したのは、レネスを遠ざけてしまえばあの2人の間に何事もおこるまいと思ったからでもある。ジルモアは立場もわきまえずにいつもレネスを守ろうとしていて、それを見るたび、ラウシスは忌々しい気持ちがこみあげてくるのをとめられなかった。
 ──お前は誰の犬だ。
 飼い主に牙を剥き、飼い主の背中の後ろで今度は何をした?
 マッセの舌がラウシスの牡の先端をねぶり、汗ばんだ指先が陰嚢をすくいあげるようにして丁寧にさする。背骨の奥からひりひりした熱がこみあげてきて、青年の口の中に何度か牡を突きこみながら、ラウシスは怒りを叩きつけるように激しく達していた。


 屋根の上の風見鶏の向こうには、澄んだ風と青空が広がっている。風は頬をなでるようにやさしく、それは弟が細身の体にまとった旅用のマントのはじをかすかにゆるがせていた。
 レネスの荷物は少なく、見送りも少ない。父親はほとんど縁を切るようなことまで言って技師になるレネスの心を翻意させようとしたが、レネスは頑固な面を見せて譲らず、最後には父親を説き伏せて金まで出させた。その意外な粘り強さと、隠れた交渉の才能に驚いたのはラウシスだけではなかっただろう。
 とは言え、父子の仲はぎくしゃくしたままで、レネスは朝方、父親の部屋を訪れてじかに別れを言ったが、こうしていざ旅立ちの門の前に父は出てこなかった。
 ラウシスは、レネスの馬と荷馬を見て、そこに積まれた荷物にふっと心の芯が硬くなるのを感じた。本当に、弟はこの家を出ていくつもりなのだ。部屋は残さなくていいと、レネスが家令に告げたのをラウシスは聞いていた。
 レネスは晴れ晴れとした表情で、馬の顔を撫でながら何か耳元に囁いている。馬は機嫌がよさそうに鼻から曇った吐息をつき、レネスの髪に鼻を押しつけた。動物はいつもこの弟になつき、彼を愛した。
 馬と会話でもしたかのように、レネスは何か笑って、それから姿勢を正すとラウシスに向き直った。もうすっかり大人になったと言うのにまだどこか少年のような脆さのある顔立ちは、口元にくっきりとした頑固さもあわせもっている。
「ありがとう」
 まっすぐに見つめられ、告げられて、ラウシスは一瞬返す言葉を失った。礼を言われるようなことをした覚えがない。
「何が?」
 とりつくろって聞き返すと、弟は楽しそうに笑った。幸せそうだなあ、とラウシスは胸の内で呟く。そんなにこの家を出るのがうれしいか。
「俺をエピルガ=ゼルに行かせるように父さんを説得してくれたでしょ。俺、絶対駄目だと思っていたのに。俺が橋を造りにいけるのは、兄貴のおかげなんだよ」
「ああ‥‥」
 それか。ラウシスが自分の意志で父親を説得したとでも思っているのだろうか。散々「お前は家にいたって役立たずだろう」から学校にでも行ってしまえと嫌みを言って、涙目にさせたのも忘れているのだろうか。ラウシスは何だか大きな溜息をつきたくなった。この弟を外に出して大丈夫だろうか。ジルモアに似ている男にちょっとやさしくされたら母鳥を見た雛のようにほいほいついていってしまって、あんなことやこんなことになるんじゃないだろうか。
 子供のころから変わらない笑顔を見つめて、ラウシスは肩をすくめた。
「ちゃんと渡れる橋を造れよ」
「大丈夫だよ」
 口をとがらせて、レネスは拗ねた顔を見せる。その頬を、ラウシスはつねりあげた。
「お前が最初に作った模型は風が吹いたら壊れたぞ」
「最初だから、あれは!」
 頬をつねりあげられたまま、レネスは口元だけでふがふがと言い訳する。離してやると、涙目で赤くなった頬を押さえた。見送りに出ているなじみの馬丁や庭師たちの顔を一瞥して、照れたように笑う。ラウシスは低い声で警告した。
「ジルモアは来ないそうだ」
 何が何でもレネスの顔を見にくると思ったのだが、いともあっさりと「行かない」と言ったジルモアの真意が、ラウシスにはよくわからない。だがそう言った瞬間、レネスの顔がぱっと明るくなって、彼はぎょっとした。
「うん」
 レネスは何だか楽しそうにうなずいて、頬骨の上を少し赤くしている。ラウシスとも目を合わせようとしない。まさか、とラウシスは前日のことを頭の中でひっくり返した。
 そう言えば、レネスには年老いて任を解かれた猟犬を散歩につれて行く習慣がある。よもや、昨日、ジルモアが消えていた時間に──
「‥‥いいのか? お前、あいつになついてたくせに」
「もう子供じゃないしさ」
 そう言いながらなおさらレネスは顔を赤くして、ラウシスの内心の疑念はほとんど確信に変わった。奥歯を噛んで表情を変えないようにしながら、彼は右手でレネスの頭をぽんぽんと撫でる。たしかに、もう子供じゃない。子供じゃなくなって久しい。すっかり自立して、兄のいたずらや嫌がらせにもいつからか涙目になることもなくなり、ジルモアに素っ気なく遠ざけられるたびにいちいち傷ついた顔もしなくなった。凛としたたたずまいにももう大人の男の強さがある。
 幼い頃から、この顔を何回泣かせたことか。もし神がいちいち帳簿を付けていたら、それだけでラウシスは地獄に送られそうな気がするほどだ。
 思えば、これほどいじめ甲斐のある相手はいなかった。からかえばすぐむきになって涙目でつっかかってきたし、いじめすぎてへこたれてしまった時には、甘やかしてやれば何事もなかったかのようににこにこ笑い、あぶなっかしいほど全幅の信頼をよせてきた。何回泣かせても、レネスはラウシスを信じるのをやめようとしなかった。ラウシスのいたずらにだまされながら、疑うような、それでもやはり心の底では信じきっているような、願いをこめた大きな目でじっと見つめてくる様子がたとえようもなく可愛かった。
 ラウシスにだまされたり、傷つけられるたび、世界で1番大事な人に裏切られたような顔を、レネスはした。その顔を見ては、自分が弟の世界を揺さぶる力を持っているという事実に、ラウシスは心の底から満足したものである。
 ジルモアはたしかにレネスの憧れだ。だが、レネスの足元をすくって彼を泣かせるのは、ラウシスだけに許されたわがままだった。
 ──それがこんなに大きくなっちゃってなあ。
 もう、ちょっとやそっとじゃ泣かないだろう。とまどい顔のレネスを抱きよせて、ラウシスはしなやかな躯を強く抱きしめた。レネスの体と髪からは石鹸の香りがして、今朝沐浴を済ませたのだろうと思いながら、マントの上から背中に手を這わせる。
「兄貴?」
 滅多に抱きしめたことなどないから、レネスの声は当惑をたたえていた。だが抱きしめられた体には警戒のかけらもなく、ラウシスのされるがままになっている様子が何とも歯がゆい。隙だらけすぎるだろう。ジルモアにもそうだったのだろうかと思うと胸の奥がちりりと焦げるようだったが、ラウシスはその痛みを慣れた場所に押しこめた。
 ──お前が弟でなけりゃ、絶対人にやったりはしねえぞ。
 無言で呟いて、居心地悪そうにもぞもぞするレネスの体を両腕の中にしっかりとじこめると、ラウシスはレネスの首すじに顔をうずめ、やわらかい首の肌をなめた。
「わああっ」
 レネスが大声をあげてじたばたと彼の腕をもぎはなし、首に手を当て、真っ赤に紅潮した顔でラウシスをにらんだ。少し目のふちが涙目になりかかっているのを見て、ラウシスは満足する。泣いてしまえ。
「何するんだよ!」
「お守り」
「嘘つけ、馬鹿兄貴!」
 そうだよ、俺はお前の兄貴だよ。ラウシスは唇のはじを持ち上げてにやりと笑う。レネスがどれほど嫌がっても、ラウシスは永遠に彼の兄で、それは誰にも変えられない。
 ジルモアとレネスの間に何があろうと所詮彼らは他人同士だが、ラウシスとレネスは血を分けた兄弟なのだ。一生、ずっと。その血の糸が切れることはない。


 2階の西側の角部屋は、今はたまに風を入れて本の虫干しをする時くらいにしか使われていない。
 そのがらんとした部屋の窓際に立って、ジルモアは消えていった人影を眺めていた。
 ラウシスは後ろ手に扉をしめ、壁によりかかって腕を組む。とうにレネスの姿は道の向こうに消えただろうに、ジルモアはまだ幻を追うように窓際から動かなかった。
「戻ってくるってさ」
 ラウシスがそう呟くと、ジルモアはまるで背後から襲われたかのような身ごなしで振り返った。ラウシスの存在にはとうに気付いていた筈だから、言葉の方に反応したのだ。
「レネスが?」
「ああ。橋を造ったら戻ってくるとか笑顔で言いやがった。いつになるんだか」
 ジルモアは少しの間ラウシスの顔を眺めていてから、納得した表情でうなずいた。ラウシスは腕を組んだまま背後の壁にだらしなくよりかかり、天井を見上げる。使わない部屋だから掃除が行き届いておらず、天井のはじを蜘蛛が走っていくのが見えた。
「何で見送りに行ってやらなかった」
「お前が別れを言う邪魔をしたくなかった」
 天井に浮き出たしみの形を眺めながら、ラウシスは腹の底から溜息をついた。
「‥‥お前さあ‥‥」
「すまんな、ラウシス」
「‥‥あやまるなよ」
 俺の犬のくせに、と面と向かって嫌みを言うだけの気力は残っていなかった。体の奥底がすかすかになってしまったようで、ジルモアに腹を立てることもできない。
 足音が近づいてきた。
「大丈夫か、ラウシス?」
「お前に協力なんかするんじゃなかったよ」
 天井に視線を据えたまま、ラウシスは呟く。耳に聞こえてくる声はかすれていて、自分のものではないようだった。全身の肌がざわついて熱い。喉の奥までその熱がこもっていて、うまく息ができなかった。
 もしジルモアがレネスをエピルガ=ゼルに入れるなどと言い出さなければ、ラウシスが彼の狙いに協力しなければ、レネスはあのまま家に残って商会の仕事を手伝いつづけただろう。何故ジルモアに協力したのか、どうしてあの時はそれがいい考えだと思ったのか、どうしてもラウシスには思い出せない。
「何だって、あの時‥‥」
 ジルモアの手がラウシスの右肩に置かれ、やわらかな力で肩の骨をつかんだ。
「レネスにそれが必要だったからだ。お前が、弟思いのいい兄貴だからだよ」
 馬鹿を言うな、と答えようとした言葉は喉につまって、ラウシスは引き寄せられるままジルモアの肩に額をのせ、こみあげてくる荒々しい感情を呑み下そうとした。ジルモアの手が背中に回り、ラウシスの背を手のひらで撫でながら、力なくよりかかる体を支える。
「泣いていいぞ」
「馬鹿野郎」
 ジルモアの肩をつかんで指をくいこませながらラウシスは小さく呻く。自分でも驚いたことに目のふちが熱くなってきて、体を固くしたが、ジルモアの大きな手で背中を叩かれると身の奥の何かがゆるんだ。潤む目をとじてもたれかかったラウシスの背を、ジルモアは何度もやさしく叩く。
「お前はいい兄貴だよ」
 嘘つけ、と言おうとしたが言葉が出ない。嘘つきの裏切り者。心の中で罵り倒しながら、ラウシスはジルモアがそのどれでもないことを知っていた。
 彼の持つ、唯一の友。
 そうでなければ、弟のためであってもあの頼みを聞きはしなかった。もしジルモアが取るに足らない男だったら、レネスに近づくことすら許しはしなかっただろう。ラウシスがいつも遠慮なくレネスを泣かすことができたのは、レネスが最後にはジルモアのところに逃げこんでいくと知っていたからだ。必ず、笑顔に戻ると。
「2度とお前の頼みは聞かねえ」
 かすれた声で呟き、ラウシスは力の入らない膝をこらえてジルモアから離れた。旅立っていったレネスの、無垢な希望にあふれた笑顔が脳裏を鮮やかによぎる。何とはれやかで、幸福な笑顔だっただろう。馬上のその姿を見ながら、ラウシスは怒りと喜びの両方に引き裂かれるように荒々しい気持ちがこみあげてくるのをとめることができなかった。
 ──お前に泣かされる日がくるなんてな。
 レネスにか、ジルモアにか、どちらともつかないままに胸の内で悪態をつき、ラウシスは扉に向かって歩き出す。ジルモアの足音はついてこない。まだしばらく未練がましくレネスの去った道を眺めるのだろうと口のはじで笑って、廊下に出ると、彼は大股で歩きつづけた。
 途中で出会った召使いに、馬の用意をさせるように命じる。今は少しの間、ジルモアとも、彼の無聊を慰めようとするだろうほかの情人たちとも離れていたかった。レネスじゃあるまいし、誰かに涙を見せるなんて御免だ。

END