主人が恋をしていることに、グレンジャはすぐに気付いた。おそらく、主人より先に。
常に主人の身に気をくばり、わずかな体調や気持ちの変化も見のがすまいとしている従僕としては、誇りに思っていいことだった。
その客人を迎えた時の主人の笑みと、どこか浮き足立った不安定なまなざし、明るい声と裏腹に表情にかすかにのぞく怯え。相変わらず傲慢にふるまいながら、主人は相手に嫌われまいとしているようだった。
恋だな、とグレンジャは思う。主人はまだ自分で気付いていない。気付く前に相手の素性をしらべあげ、あやしげなところのない男だとたしかめた上で、グレンジャは主人に力を貸すことにした。無論、こっそりと。誇り高い主人のこと、グレンジャにそそのかされていると気付いては、つむじを曲げて好きなものも嫌いと言いかねない。
相手の好物をしらべて料理長につたえ、招待した日の食事が好みにかなうよう心をくばった。もてなしの茶もかえた。好きな色、趣味、派閥、経歴、これまでの恋人たちの傾向──詳しい情報を頭に叩き込み、まずグレンジャはさりげなく主人の装いを変えさせる。
黒に近いほどに染め重ねた藍のベルベットの胴着はほどよく襟元をくつろげて、その首元にのぞくシャツは神経質なほどに白く漂白させ、グレンジャ自ら火ごてを当てて細いひだをととのえる。腰回りは禁欲的なほどぴたりと締め上げて、上から細い革ひもを幾重にも巻き、ひもの先端にオニキスの黒い飾り玉をつけた。ズボンは無地、濃緑の絹。膝丈のブーツには銀の拍車がついているが、固い足音をたてないよう靴底にはやわらかい厚手の革が使われていた。
どこか少年のような飾り気の少ないいでたちは主人の硬質な美しさをきわだたせ、グレンジャは満足した。
この自由都市のまつりごとに携わる七大家の中で、主人の家格は決して高くはなく、その中でもさらに妾腹の第三子という末端ではあったが、主人の美しさは、漆黒に浮く炎のように否応なく人の目を惹きつける。当人は自分の美しさを理解し、時に利用していたが、そのくせふしぎなほど無頓着で無防備なところがあった。野心のために平気で男に媚を売り、体をあけわたすことも厭わないのに、いざ恋をした相手の前では、グレンジャの手助けがなくては自らを効果的に装うことひとつできない。
そんな主人を丁寧に装わせ、さりげなく相手の情報をつたえながら、グレンジャは少しずつ恋の舞台をととのえていった。
主人は、街の守街壁とつながる城塞塔の一角に居をかまえている。七大家はそれぞれ皆、自らの城塞塔をかまえて暮らし、長い間かけて増築され、ふくれあがった塔のかたまりは迷路のように複雑で、まるでそれ自体が一つの街のようだった。
主人は相手と二人で話しこむことがふえ、二人きりで部屋で時間をすごすこともあった。グレンジャはひとつ段階をすすめ、客人の好む酒を美しい琺瑯引きの瓶に入れて棚へ置き、腰回りがゆるくひろがった細いグラスを一そろい、銀の盆に飾った。螺鈿細工の煙草箱のそばには、朧銀仕上げの華奢な煙管と、島渡りの煙草の刻み葉。葉の大きさは、グレンジャがえり出して注意深くそろえた。
客人は一人でも主人を訪れるようになった。時にはふらりと、約束も招待もなく立ち寄った。普段は予告のない訪問を忌み嫌う主人が、この時ばかりは慌てながらも喜びを隠せない様子で支度をするのを、グレンジャはほほえましく手伝った。主人は平静をよそおいながら、耳がうっすらと赤らんで、白い首すじに艶めかしい色が浮く。グレンジャは鏡ごしの主人を見つめ、櫃から襟の高い服を出した。まだ少し、距離のある恋を楽しんでもらった方がいい。
手軽な男娼とはちがう。断じて主人を「安く」見せるわけにはいかないと、それはグレンジャの強い思いだった。勿論、寝室の準備に手抜かりはなかったが。
主人がただ相手と寝たいと言うならいくらでも艶な装いをさせるが、これはちがう。主人はまるで少年のように、相手に恋をしていた。その気持ちに振り回され、誇り高くふるまいながら内心うろたえて、周囲が見えなくなっている。艶聞にことかかず、手練手管も慣れたものである主人が、恋に足を取られて自分を持てあましている姿はひどくかわいらしいものだった。
客人もまた、そんな主人を憎からず思っているようだった。主人より年下の、少し無口なところのある軍人は、決して器用でもなければ人目を引くほど美しいわけでもなかったが、凛と背をのばした姿には涼しげな爽やかさがあった。恋をもてあそぶような不実な男ではない。
グレンジャは時おり、さりげなく客に主人の気持ちをほのめかした。客の訪れを主人が大変喜んでいるとつたえ、主人の言えない言葉を補い、主人に内緒のまま次の訪問の約束を取り結ぶ。
少しずつ。この街のめまぐるしい人間関係の中では、驚くほどじれったく二人の距離は近づいて、主人は幸せそうだった。目に見えて機嫌がよくなり、まとう空気がはなやかに澄み渡って、恋をした主人のたたずまいはグレンジャが見惚れるほど美しい。
服装を、ややくだけたものにする。季節があたたかくなるのにあわせて、襟元をひらいた。その内側、首すじに時おりほのかな赤い痕が残るようになったのを、グレンジャは勿論気がついたが、指摘するようなことはしなかった。
まだ二人は体を交わしていない。それは客用の寝室をととのえるグレンジャが一番よく知っている。服を入れる編み籠の乱れ箱を置き、上等なシーツを敷いて、枕元の棚には小さな香油の瓶を、まるで秘密をほのめかすように半ば隠して置いた。肌触りの柔らかな亜麻布を準備し、練り香の入った香油皿を油燭の脇へ置く。手水の入った水鉢には、花の香りをうつした洗い水。
主人の寝室のととのえも、季節の移りを口実にして、少しばかり手を入れた。カーテンを明るいが艶冶な紅花色に替え、寝屋着にたきしめる香りを甘いものに変える。シーツは肌に冷たい絹。たっぷりと襞を取って、横たわる肌を優しく撫でるようにする。
主人は、時おり気怠げに起きるようになった。寝室にわずかに残る痕跡と雄の匂いに、グレンジャは主人の気持ちが昂ぶっているのを感じる。情熱を持てあまして、自分で自分を慰めているのだろう。恋がはっきり深まってからと言うもの、あれだけ奔放だった主人が誰とも寝ていない。欲望を持てあまし、少しばかり鬱屈したまなざしを見せるようになって、主人は潤むような深い色気を身にまとうようになった。
そして星のひときわ美しいある夜、客人は朝まで帰らなかった。
いつものことながら、恋をとげた朝の主人は、はっと胸をつかれるほどに美しい。ととのいすぎてどこか作ったような美貌が、この朝ばかりはみずみずしい強烈な生気を放ちながら、くずれた退廃を同時に見せる。
朝湯を使いながら、時おり吐息を漏らす姿には、主人を見慣れたグレンジャすらめまいをおぼえた。
客人は、主人を満足させたようだった。二人の貪欲な営みを示す寝乱れた寝台を片づけながら、グレンジャは一つ一つ物事をたしかめる。香油がずいぶんと減っていた。やさしい男なのだろう、主人にかかる負担を少しでも減らそうとしている。長い時間睦みあっていたと言うのに、シーツに血の痕もなかった。
場合によってはとひそかに用意されているあれこれの性具には手をふれた様子はなく、寝台以外のところに乱れもないあたり、あの実直そうな人柄と振舞いは閨でも変わらないようだった。
寝酒に手はつけられていない。語らう余裕もなく寝台で互いをむさぼったのだろうか。油燭の油もさして減ってはいないのが、少しだけ残念だった。ほのかな灯りの中で乱れる主人の姿は本当に美しい。その肌が映えるよう、シーツはわざと濃い色に染めてある。もっとも、闇の中で聞く主人の淫らな声もいいものではあるが。
主人の寝室とちがって、こちらの寝室のシーツには上等な亜麻布を使っていた。絹よりも洗いやすいし、肌に冷たくない。絹は少しばかり布のきしむ音をたてすぎるし、主人は以前、足が布にすべるのを嫌がっていた。
その敷布を新しいものに替え、減った香油を足し、油燭を乳白色の磨り硝子のほろがかかったものに替える。物足りないほどやわらかな灯りの方がいいだろう。これならわざわざ消す手間もいらない。
疲れきったのか、朝湯で体を清めた主人は、裸のまま自分の寝台にもぐりこんで眠っていた。男が吸いついたのだろう、毛布のひだからのぞく肩には花を散らしたような痕が残り、投げ出された白い足のふくらはぎにも愛撫の色が残って、体のすみずみまで愛されたことがわかる。少年のようにみずみずしく白い肌に残った欲望の痕が、どこか痛々しいほど美しかった。
毛布を直して体をきっちりつつんでやると、グレンジャは櫛を手にして主人の湿った髪を梳いた。主人が幸せそうな吐息をこぼし、うっすらと目をあけてグレンジャを横目で見た。グレンジャはうなずいて、やわらかな髪の流れを指先で丁寧にととのえる。主人は微笑し、また眠りに戻った。
その恋はいつもより長くつづき、いつもより主人は幸福そうで、グレンジャはいつもにも増してさまざまな手配りに心を砕いた。時おり寝室のしつらいを替えて変化を持たせ、主人にも時に艶やかに時に潔癖によそおわせた。運河に船を出して船遊びを演出もし、芝居見物などの外出も積極的にすすめた。
だが、次第に二人の仲がぎこちなくなっていくのを、引きとどめるすべはなかった。それでも主人は珍しくこの恋に執心している様子で、懸命に努力していたが、ひとたび何かが食いちがいはじめると崩壊は早い。どうしてか、主人の恋はいつもそうだった。
どちらも相手を嫌っているわけでも、ましてや憎んでいるわけでもないまま、二人は時に言い争い、主人はふさぎこみ、それでも会いたいと手紙を書いて精一杯の微笑で客をもてなそうとした。棘に傷つきながら、それでも美しい薔薇の茎を握って離そうとしない子供のようだった。
客が泊まることを告げられていたと言うのに、客室の寝台には乱れたところがなかった。グレンジャは誰かが眠った痕すらもない空の寝台を見つめて、少しの間、寝室の戸口に立ったままでいた。
客が夜中すぎに帰ったのは、知っていた。確認を朝まで待ったのは、主人を一人にしておくためだった。
恋を楽しんだ主人は、恋が破れるのも楽しんでいたにちがいない。胸をかきむしられるような切なさと苦しみを貪欲に味わい、疲れ切って、孤独に泣きつくした筈だった。
扉をしめて踵を返し、グレンジャは主人の寝室を訪れた。グレンジャが入ってくるのが聞こえた筈だが、主人は枕にうずめた顔を上げなかった。グレンジャは櫛を手にし、うつ伏せの主人の髪を梳きはじめる。
主人は昨夜客を迎えた姿のまま、寝屋着にも着替えていなかった。グレンジャがしばらく髪を梳いていると、枕に押し付けた頭が動き、小さな嗚咽をこぼした。
「グレンジャ‥‥」
グレンジャは櫛を置き、無言で主人の髪をなでた。いつも傲岸で誇り高い主人が打ちひしがれて泣いているのは、痛々しい一方、美しかった。こうやって泣きながら、主人は恋を洗い流すように忘れていく。自分の傷から血をすするように苦しんで、その苦しみまでも愉しみつくすと、残酷に忘れる。それが主人の恋だった。
主人はずいぶんと長い間、声をしのばせるようにして泣いていたが、やがてゆっくりと身を返し、涙に腫れた目でグレンジャを見つめた。両手をのばす。
「お前はどこにも行かないだろう?」
「ええ」
その手をとって指先にくちづけ、グレンジャは主人を見つめた。主人は涙で青ざめていたが、指をグレンジャの唇がなでると睫毛が小さく揺れた。ゆっくりと、手の甲にまで唇を這わせながら、グレンジャは主人が吐息をこぼすのを見つめていた。
「どこへも行きませんよ」
囁くと、暖かな息のふれた指がぴくりと反応した。あの客人に散々奉仕しただろう指を、グレンジャはゆっくりと唇に含み、一本ずつ舌でねぶっていく。主人の息が次第に荒くなり、涙でいっぱいの目のはじから頬へと濡れた筋がつたい落ちたが、もう次の涙はあふれてこなかった。
五指をすみずみまでなめると、グレンジャは身をかがめ、主人の目尻の涙に舌先を這わせた。主人の腕がグレンジャの首にすがりつき、耳元に淫蕩な吐息がくぐもった。
背中に腕を回して抱きよせると、主人は小さな呻きをあげて、己の中の何かが崩れたようにグレンジャにしがみついた。グレンジャは身悶えする主人をしばらく焦らしてから、絹のシーツの上で主人の衣装をほどき、ゆっくりとむき出しにされていく肌に愛撫の手を這わせはじめた。