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 それを、レネスは帰ってきたその日に思い知らされたのだ。
 ジルモアに、と思って持って帰ってきた酒の袋を手にしてレネスが館の2階にある部屋を訪れると、そこはもう別の男の部屋で、レネスが少しとまどいながら教えてもらったのは離れにある一室だった。
 主屋から離れまでの柱廊を歩き、離れの門をくぐって建物の奥に入る。建物の中心に中庭が据えられた作りで、その中庭をすぎた奥にある部屋がジルモアに与えられた部屋だということだった。
 目で先に扉を見つけ、まっすぐ中庭を横切って行こうとしたレネスは、ふと足をとめた。目的の扉が動くのを見て反射的に中庭の水盤の影に身をかがめる。別に後ろめたいことをしているわけでもないが、いきなり顔をあわせる覚悟がまだできていなかった。何故ジルモアと会うのにわざわざ覚悟がいるのかは、わからないが。
 水が動かない水盤のはじから顔をのぞかせて見ると、扉から出てきたのは兄のラウシスだった。帰って早々、ラウシス様は狩りに出ています、とか召使いの口から聞いた気がするが、何故その兄がここにいるのだろう。ますます出ていきづらくなって身を縮めたレネスは、ラウシスが乱れた髪をととのえる手つきに目をほそめた。気のせいか、遠目で見ても兄の顔は上気していて、服もそこはかとなくゆるんでいる気がする。
 ──まさか。
 扉の影にいる誰かとラウシスが言葉を交わし、兄はけらけらと笑った。それから身を傾けて、扉の影に立つ相手と──はっきりとは見えなかったが、唇を重ねているのは兄の肩にかかった相手の手つきからも明らかだった。
 膝から力が抜けて、レネスは水盤の影に小さくしゃがみこんだ。吐き気がした。別にジルモアに恋人がいようが、それが男だろうがどうでもいいのだが、兄には婚約者がいる。結婚していても愛人を持つことは珍しくないが、ジルモアがそんなふうに表立つことができない兄の情人の役をしているのかと思うと腹の底が煮えくり返るようだった。
 思えば、ジルモアは兄の命令なら何でも従った。レネスのわがままはたしなめても、ラウシスの勝手な言い分に口ごたえすることはほとんどなかった。ジルモアにとって、兄の存在はそれほどまでに大きいのだろうか。
 水盤と石の椅子の間にもぐりこむように隠れ、レネスは膝に顔を伏せて回廊を通って行く足音を聞いていた。兄の顔を見たくない。見て、その体に情事の気配を嗅げば、自分の中にある怒りが獣のように肌を喰い破って出てきそうな気がした。
 足音が消えて、離れの棟に静寂が落ちた。ここは元々は──皮肉なことに──先々代が愛人たちを住まわせるためにしつらえた建物だという話だが、今は客人用となっている。最近では客人は専用の館でもてなすことの方が多いので、あまりこの離れは使われなくなっていた。
 吐き気がひどい。どれだけうずくまっていたかわからないが、レネスはふいに頭をぽんと叩かれてぎょっと顔を上げた。
 ジルモアが眉をしかめて彼をのぞきこんでいた。乾いた喉に唾を呑みこんで、レネスは2年ぶりのジルモアの姿を見つめる。陽に当たると赤みに輝く黒髪は2年の間に少し長くなって、首の後ろでくくられている。耳のあたりは清潔に刈り込まれていて、耳朶に入った小さな刺青がよく見えた。この家の紋は、ジルモアがラウシスに仕えることを選んだ7年前に入れられたものだ。
「気分が悪いのか?」
 聞こえてきた声は静かだった。首を振って、レネスは立ち上がろうとする。眩暈がしてよろめいた腕をジルモアがつかんだが、レネスは反射的にその手を振り払った。
「レネス?」
 ジルモアの服に乱れはない。ゆったりとしつらえられた上着のボタンは下まできっちり留められ、喉元を覆うシャツの襟元は禁欲的なまでに白い。その首すじを見つめてしまい、レネスはあわてて目をそらした。ジルモアが隠れた情事を持つなら、誰かに見破られるような残滓を残しておくわけがない。
「何でもない」
「いつ帰ってきた」
 質問に答えようとしたが、頭が色々なものでいっぱいでうまく言葉を作ることができなかった。ジルモアの視線はじっとレネスの顔にとまっていて、何かを考えてしまえばそれを丸ごと読みとられそうな気がする。レネスは唇を噛んで、右手に持っていた酒の革袋をジルモアの胸に押しつけた。
「土産か」
 そう言いながら、ジルモアは受け取ろうとはせず、つづけた。
「ラウシスに挨拶はしたか? 館の当主に会うまではあまりうろうろするな。礼儀だ」
 押し戻された酒袋を、レネスは力なく見おろす。まだ商会の長は父だが、この館の当主はラウシスになっている。わかっていたが、どうしても彼は兄を絶対的な当主として考えることができなかった。
「ジルモア‥‥」
「後で受け取る」
 事務的に答えたジルモアは彼に背を向け、部屋に向けて歩き出す。あくまで、兄の許しがなくては何もできないと言うことか。レネスの土産ひとつ受け取ることすら。
 兄の命令なら何でもするくせに。くらくらするほどの眩暈がして、レネスは水盤に腕をついて体を支えた。
「ジルモア」
 声をかけると、ジルモアは肩だけで振り向き、無表情にレネスを見た。
「そこでラウシスを見た。お前の部屋から出てきた」
 かすれた声を押し出すようにして告げたが、ジルモアは眉ひとつ動かさなかった。
「お前の兄は夕方になれば狩りから戻ってくる。お前もその時に挨拶に行け、レネス」
 何の言い繕いも、言い訳もない。レネスは歯を食いしばると右手の革袋を全力でジルモアに投げつけ、踵を返して後ろを見ずに走り出した。追ってくるかと思ったが、部屋に戻ってもジルモアからの言葉はなく、夕食で顔を合わせた彼はレネスとの間に石の壁を隔ててしまったかのようによそよそしく、冷たかった。


 兄を選んだ男の顔を、レネスはじっと眺める。
 兄がジルモアの部屋に色々な相手をつれこんで情交を重ねているらしいと知ったのは、帰ってきてからしばらく後のことだ。もしかしたらレネスが見たのは誰かとの情事の後で、ジルモアが相手だったとは限らないが、そこまで思い至った頃には怒りは今さら取り除けないほど根深いものになっていた。兄が部屋で何をしているか知っていて、それに力を貸しているジルモアは、やはりていのいい兄の犬だろう。
 苛立ちのあまり、レネスは時おりジルモア相手に辛辣な言葉を投げたが、ジルモアが相手にしてくることはなかった。子供であった頃以上に軽くあしらって、時に存在を丸ごと無視する。まるで彼はレネスのことなどどうでもよくなったかのようだった。いや、どうでもいいのだろう。当主の補佐となったジルモアにとって、家に居場所のない上に商売に興味のない次男坊など目にも入らない存在だ。
 そのことを何度も思い知らされて、レネスはなるべくジルモアと距離をあけようとした。どうせもうじき、彼はこの家を離れる。父を説得してどうにか橋の着工金を出させ、やっと条件の交渉を終えて返済の念書も書いた。兄は「家のはぐれ者」のレネスに嫌みを言ったが、今さら兄が何を言おうとかまいはしなかった。嫌いではないが、大きな隔てがあって、決して本音で話し合えたことのない相手だった。兄に限らず、レネスは家族と本音で話した記憶がない。
 ──本音は。
 多分、ジルモアとの間にはあった。子供の錯覚だったのかもしれないが、ジルモアはレネスを対等に扱い、必ず本音を言った。その親密さはもう2度と取り戻せないものなのだと思うと、今でも心の奥が刺すように痛む。自分も変わったし、ジルモアも変わった。
 そう納得しようとしながらも、年老いた猟犬の散歩にやってきた森の番小屋で、小屋によりかかって立っているジルモアの顔を見た瞬間、レネスは一瞬にして頭に血がのぼっていたのだった。大体が、静かにすごしたかったからこんなところまで散歩に来たのだ。それなのに何故、ここにジルモアがいるのか。
 何の用もなさそうに手持ち無沙汰にそんなところで時間をつぶしているのは、兄の情事に部屋を貸している最中だから戻れないのだろうか。兄の妻は嫉妬心の強い女らしく、兄は表向きは遊びをひかえていたが、いつまでもおとなしくしている男ではない。ジルモアが兄と愛人の情事のためにあれこれ手配してやっている様子が目に浮かぶようだった。
 レネスのこわばった表情に気付かないわけもないだろうが、ジルモアはレネスが手にした引き綱の先の2匹の犬を見おろして、まるで世間話でも始めるような調子で言った。
「散歩が好きだな、昔から」
「別に」
 素っ気なく、レネスは返した。いつものように首輪から引き綱を外して、犬を自由にしてやる。猟犬を放つのは禁じられていたが、もう年老いた犬だ。いつ口減らしとして殺されてもおかしくはない。そういう犬に、わずかでも残る日々を楽しんでほしかった。今は使われず、人の滅多に来ない番小屋の周囲で遊ばせるくらいかまうまい。
「あんたはこんなところで何してるんだ。兄貴の面倒は見なくていいわけ?」
「世話係なら侍従がついている」
 とがったレネスの声に眉ひとつ動かすでもなく、ジルモアは答えた。確かに最近、ラウシスは新しい侍従を雇い入れた。見目のいい若者で、もしかしたら兄の新しい愛人なんじゃないかとレネスは疑っていたが、ジルモアがあらためて侍従の存在を口にすると何だかひどく腹が立った。あれもお前の手回しか、と思ったのである。
「よかったな。兄貴のお世話をしなくてすむようになって」
 お世話、という部分に可能な限りの嫌みをこめて、レネスは鼻で笑った。ジルモアは番小屋の丸木によりかかったまま腕を組む。
「いいも悪いもない。俺の仕事だ」
 仕事だからって何でもするのか、と言いかかってレネスは踏みとどまった。ジルモアが兄のために何をしてきたかなんて知りたくもない。兄個人の世話から、商会の仕事の後ろ暗い部分までジルモアが引き受けて働いていることは知っている。その代償に何を手に入れるのかも。
 昨日、侍女の噂で聞いたその話を思い出したら、折角おさめようとした腹の底がまたむかついてきた。ほとんど何も言わないのに、ここまでレネスをむかつかせるのはジルモアだけである。折角の森の散歩がこいつのせいで台無しだ。どうせジルモアが気にしているのも、従うのも、ラウシスだけだ。ご褒美をもらうのもラウシスから。
「まるで犬だな」
 つい呟いてしまったら、ジルモアはほそめた目をレネスへまっすぐに向けた。いつになく挑発されているかのような容赦ない視線の強さに、レネスの中で何かのたがが外れる。懐の袋に入れていた骨を取り出し、はしゃぐ2匹の犬に骨を投げて、彼は飛びついた犬たちへ視線を向けた。
「骨ひとつ投げてもらえりゃ、尻尾振ってご主人様のために走り回ってさ。兄貴はいい犬を持ってるよ。兄貴のためなら何でもするんだろ?」
 ちらっと見ると、ジルモアはいつもの隔てられた表情のままレネスの顔を見ていて、しっかりととじられた口元は何を答える気配もない。ふいにレネスは空しくなる。何を言っても届く気がしない。それに、何を言ってももう戻れないのだ。ジルモアの後ろにまとわりついて叱られ、ジルモアの真似をして馬に乗ろうとして落馬して叱られた、子供の頃の彼らには。
 しゃがみこんで手をのばすと、犬の片方がおとなしく骨をくわえてきてレネスに渡した。長年の訓練で、どれほど夢中で遊んでいても獲物を主人に渡すように躾けられている。不憫なようでもそれが猟犬の喜びなのだ。長い鼻面をなでてやり、レネスはまた骨を遠くへ放った。
「結婚の祝いは何がいい。好きな物送ってやるよ」
「何の話だ?」
「兄貴がお前に嫁さん探してきたろ」
 その話で、召使いたちはこの上なく盛り上がっている。祝賀があれば彼らにも祝いの品がおりてくるからで、しかもラウシスがジルモアの相手として話をつけたのは名門の令嬢だ。婚礼は豪奢なものになるだろう。本来なら血筋のないジルモアが妻にできる相手ではないが、相手の家がジルモアの仕事ぶりに惚れ込んだという話だった。
 結婚してもジルモアは貴族にはなれないが、彼女との間に産まれた子供は産まれながらにしての貴族だ。彼の血は貴族の血になる。そのことが平民から育ってきた者にとってどれほど大きな意味を持つのかレネスは知っていたし、ジルモアのつかんだ幸運を祝う気持ちもあった。だが一方で、おとなしく兄の言いなりになって結婚するジルモアに対して言いがたい怒りもあり、レネスは激しい苛立ちを持て余していた。兄は、ジルモアを利用して相手の家と関係を深めたいだけだ。しかも、その令嬢は兄の愛人の1人であるという噂まであった。自分のしゃぶった骨を犬に投げ与える、ラウシスのしているのはそういうことだった。
 ──だが、めでたい話だ。
 ジルモアは自分の力でその幸運をつかんだ。無愛想な男だが、結婚すれば相手を大事にするだろうし、いい家庭を作るだろう。そう思って深呼吸で気持ちを落ちつかせようとした時、
「俺がラウシスの言う通り結婚すると思ったのか?」
 あきれたような声が上からふってきて、レネスは驚きの顔でジルモアを仰いだ。ジルモアは何とも微妙な、笑みとも言えないような影を唇のはじに溜めて、小屋によりかかっている。
「しないのか?」
「するような男に見えるのか、お前には」
「見える」
「馬鹿」
 そう言って、ジルモアはふいに笑った。唇がほころんで、顎の線がやわらかくなり、目元がやさしくなる。その表情の変化にレネスが茫然としていると、かがみこんできたジルモアに二の腕をつかまれてその場に立たされた。子供の頃ほどの背丈の差はないが、長身のレネスよりジルモアはさらに少し頭が高い。額を近づけて見おろされ、レネスはあわてて離れようとしたが、ジルモアにまだ両側の二の腕をつかまれていて身動きが取れなかった。
「ラウシスが何をしようが何を考えようが、あれの勝手だ、その面倒は見る。仕事だからな。だが、俺のことは俺が決める」
「‥‥‥」
「犬にも好みがある」
 顔を近づけたジルモアの目には見たこともないほど獰猛な光があって、レネスは言い返すことができなかった。レネスが何を言ってもついぞ怒る様子のなかったジルモアだが、ここに至って堪忍袋の緒が切れてしまったのだろうか。自分の嫌みがそれほどこの男の誇りを傷つけていたとは、まるで知らなかった。
 さっきの笑顔が嘘のように噛みつかんばかりに目を光らせているジルモアがひどく怖くなって、レネスはまた下がろうとしたが、腕にくいこむジルモアの手は鋼のようだ。こんなジルモアの表情は見たことがない。
「ごめん、ジル──」
 とりあえずとにかく何が何でもあやまろうと口をあけた瞬間、その口をジルモアの唇に覆われて、強引な舌が口腔に深く入りこんできた。


 数秒、レネスは木偶のように立ち尽くしていた。何も反応できないでいるのをいいことに、ジルモアはレネスの首の後ろをつかみ、顔を上げさせて、さらに深く口をむさぼっている。歯の裏側を舌でなぞられ、舌の裏の粘膜まで獰猛になぶられる。口の中でレネスの舌を舐め上げるのはぼってりと厚みを持った男の舌で、口の中にあふれてくるのは、獣臭い男の匂いだった。
 ──何がおこった!?
 と言うか、現在進行形で何がおこっているのだ。把握できずに、呼吸もできなくなってきてレネスは顔をそむけようとしたが、顎を強い力でつかまれて強引にもっと口をひらかされた。女とのくちづけにはまるでない荒々しさに頭の芯が痺れる。
 レネスも経験の少ない方ではない。次男とは言え名家の血筋だ、言い寄ってくる女にはことかかないし、美形なら男も気楽に抱いた。男の方が後腐れがないので楽ではあるが、その中の誰とも唇を交わしたことなどない。欲求を果たすための行為はほとんどゆきずりのようなもので、唇を重ねて相手の存在を楽しんだりしたことはない。
 レネスの口を覆うジルモアの唇はざらついていて、その固さや、ふれる顎のざらつきは、女のものとはまるでちがう。むさぼってくる舌の強さ、レネスの反応を引きずり出そうとする飢えた動き。麝香のような獣の匂いの向こうから丁子の清涼感のある香りがして、ジルモアがさっきまで丁子を噛んでいたのを悟る。口の中から全身に、ジルモアの匂いが染み込んでいくようだった。
 肩の後ろに固い壁が当たって、レネスの全身はジルモアの体で小屋の壁に押しつけられていた。ジルモアの方が小屋の近くにいた筈だが、いつ体勢が入れ替わったのかわからない。空気の足りない頭がくらくらして、体に力が入らない。ジルモアの口はまだレネスの口をむさぼっている。
 その唇が離れると、耳元でジルモアの声が囁いた。そこにいるのがジルモアだとわかっていなければ誰だか区別がつかないほど、低く、かすれた声。
「口あけろ、レネス」
 もうあけてるじゃないか、とぼんやり思いながら、命じられたままにさらに大きくあける。親のエサをねだるヒナのようだ。
「舌を出せ」
 言われておとなしく従った。何だか世界がぐらぐら煮立っているようで、頭の中も、体も熱い。彼を壁に押しつけているジルモアの体も熱い。
 さし出すようにしたレネスの舌を、ジルモアは顔を近づけてねっとりと舐めた。ざらついた舌同士が絡み合う生々しい感覚に、レネスの全身がふるえる。離れようとするジルモアの舌を反射的に追いかけると、もう1度顎をつかまれて、痛むほど唇を重ねられ、口腔に深々と舌を這わされた。どんどん深く喰われている。このままでは体の中がからっぽになりそうだ。
「‥‥ジルモア」
 呻くような声は、ほとんど吐息と変わらない。ジルモアの舌がレネスの顎から頬までを舐めあげる、その仕種はどう考えても獲物を喰う獣のものだった。耳の後ろに強く吸い付かれて、痛むほどの刺激にレネスの口から小さな悲鳴がこぼれる。
「いつ戻ってくる」
「な、に」
「橋を造りに行くんだろ? いつ戻る、レネス」
 戻ることなど考えていなかった。この家を出てしまえばきっとすべてと他人になる。そのつもりで、彼は技師になる道を選んだ。
 その気持ちを沈黙の中に読んだのか、ジルモアは両腕でレネスの腰をきつく抱きこみ、いつのまにかくつろげたレネスの襟元に顔をうずめた。わずかにのびた髭痕がレネスの首すじを擦る。ざらついた感触が熱い。囁かれる言葉も火のようにレネスの肌を這う。
「戻ってこい。いつか、必ず」
「なんで、そん、な」
 息が上がってまともな言葉を作れない。いつのまにかレネスの両腕はジルモアの背にすがっていた。そうしないときっと崩れる。体の後ろによりかかる壁はあるのに、もう骨がぐずぐずに溶けてしまったような気がするほど、全身に力が入らない。
 首すじでジルモアの舌が濡れた淫靡な音をたて、レネスは顎を上げて無防備な喉をさらしながら喘ぎをこぼした。獣なら服従の姿勢だ。何でジルモア相手に自らそんな体勢をとっているのかがわからない。そのことがどうしてこれほど血を熱くするのかも。
 ジルモアの髪の中に指を差し入れて、見た目よりやわらかい黒髪を指の間に絡め、レネスは目をとじた。途端に強い声に命じられる。
「目をあけてろ」
「やかましいなあ‥‥」
 ぶつぶつと呟きながら、言われた通りに目をあけると、ジルモアの目がまっすぐにのぞきこんでいた。獰猛な光が宿った瞳は、だが子供の頃のように優しくレネスを見つめていて、レネスは心臓を誰かに握られたような気がする。体の芯を、素手で握りこまれてしまっているようで、生々しくて動きがとれない。逃げ場がない。
「いい子だ」
 ジルモアは微笑して、レネスにゆったりとやわらかなくちづけを与えた。それまでが嘘のように優しく、甘やかすような唇に、レネスがまたうっとりと目をとじそうになると頬をつねられる。
「寝るな」
「寝るかよ」
 むっと言い返したが、ジルモアの顔は真面目だった。
「わからん。お前だからな」
「何、それ──」
「いつもすぐ寝る」
「子供の頃の話だろ!」
 喉元に噛みつかれるように歯を立てられて、反論の声は喘ぎの中に呑みこまれる。痛みの走る場所をジルモアが舌でなだめるように舐めた。首すじに顔をうずめていた男は、だが不意に動きをとめてレネスの襟元に指をさしこんだ。
 やばい。
 身を返そうとしたが、その動きだけで反応したジルモアに体ごと小屋の壁に押しつけられていた。小屋と自分の体に右腕をはさまれ、左手首はつかまれて動きが取れない。手際よくレネスの自由を奪ったジルモアは左手でレネスの襟元をまさぐると、首にかけていた革紐を服の中から引っぱり出した。
 レネスは顔を右にそらしたまま、ジルモアが何か言うのを待っていたが、いつまでたっても何も起こらない。根負けして視線を戻すと、ジルモアは何か考えている顔でじっとレネスの顔を見おろしていた。
「‥‥何だよ」
「いや」
 ジルモアの指は、レネスが首にかけていた革紐の先についている小さな石の矢尻をつまんでいる。矢尻に穴をあけて紐を通したものだ。もう12年も立つから、何度か紐は取り換えなければならなかったが、矢尻は割れることもなく今でもほとんど昔のままだった。さすがに先端だけはやすりで丸くしてある。
「何だよ」
 きまりが悪くなって、レネスは噛みつくように言い放った。ジルモアはこの矢尻のことなど覚えてもいないかもしれない。覚えていたら気恥ずかしいし、忘れられていたらそれも恥ずかしい。
「いや」
 前と同じ返事をして、ジルモアはその矢尻をレネスの襟の内側へ戻した。乱れた襟をてきぱきと直し、額に落ちたレネスの髪をかきあげる。唇にうっすらと微笑があった。ぬくもりのある、ジルモアの本当の微笑。
「橋を造って一人前になったら、戻ってこい」
 言い返す間もなく引き寄せられて、息ができなくなるほど長いくちづけをされた。そうしているといきなり離しがたくなって、レネスは両腕でジルモアの体を抱きしめる。嵐のような情熱に翻弄される中で、ただジルモアの体にしがみついて互いに互いをむさぼった。
 やがて、息が足りなくなって喘ぐレネスを離すと、ジルモアは身をかがめ、レネスの心臓の真上にくちづけた。矢尻が丁度、レネスの肌に当たるあたりに。服の上からでもその感触がひどく淫靡で、レネスは息をつめた。
 それからジルモアはレネスの顔をのぞきこみ、唇で唇をなぞる。ジルモアの低い言葉が、レネスの唇の上で湿った。
「戻ってこいよ」
「‥‥何でだよ」
「それは自分で考えろ」
 そんな無茶苦茶があるか、と言いたかったが、レネスはどうしてかうなずいてしまっていた。ジルモアはレネスの髪をととのえてから自分の服も簡単に直し、いつのまにか2人の足元に溜まっていた猟犬たちの頭を撫でて、館の方へと歩き出す。凛とした後ろ姿へ、レネスは思わず声をかけていた。
「お前は兄貴のところへ帰るんだろ?」
 振り向かず、ジルモアは片手だけを振った。
「今はな」
 ジルモアの姿が木々の間へ消えるまでレネスは見送っていたが、やがてずるずると小屋の壁によりかかりながらしゃがみこんだ。同じ高さになった犬たちが喜んでとびつき、レネスの顔を舐めるが、レネスにはこたえる気力がない。
 猟犬にまで舐められて、とラウシスによく馬鹿にされた。お前は犬の扱い方ひとつ知らないと。
 ──そうかもしれない。
 ねだってくる犬の頭をなでながら、レネスはぼうっと木々の間の空を眺めた。ジルモアの舌が這い回った感触は口の中に生々しく残っていて、体を抱きしめてきた腕の強さが肌をまだざわつかせている。体の芯に消えない炎が居座ってしまったように熱い。
 左手で心臓の上をまさぐって、服ごしに矢尻をつかんだ。
 ──俺のほしいものって何?
 あの時、屋根の上で、10だったレネスはジルモアにそうたずねた。あの頃から本当にほしいものはあったのだが、それは絶対に手に入らないと思っていた。それは彼のものにはならないと。
 だが、もしかしたら、手をのばすことはできたのだろうか。今からでも?
 ぐしゃぐしゃと髪をかきまぜて考えこみ、頭をかかえ、地面にのたうち回りそうな気持ちでしばらく悩んでいたが、やがてレネスは犬たちに引き綱を付けて立ち上がった。ここで考えていても何もわかるまい。明日の旅立ちがもう目の前だ。とにかく1度、この家を離れなければ、彼にとっては何もはじまらない。父を離れ、兄を離れて、本当にほしいものを見極めなければ。
 ──だから戻ってこいと言ったのか。
 見極めて、選べと? 俺が選んだらどうなる?
 森に消えそうなほど人気のない道を犬をつれてたどりながら、レネスはまた服の上から矢尻をなぞった。遠い日の記憶、遠い火をレネスの心に灯した男に、また新しい炎を残されてしまったのかもしれない。大きな溜息をくり返しながら、彼は足元にじゃれつく犬の頭をなでる。
 犬に噛まれた方がましだった、多分。それならいつかは治る。あの男の残した火はきっと、いつまでも消えない。

END