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 まるで犬だな、とつい口から呟きがこぼれていた。
 相手の刺すような目がさっとこちらを見て、まずかったかと心の内で舌打ちするが、こぼれてしまった本音はもう取り戻せない。レネスはわざと軽い口調で続けた。
「骨ひとつ投げてもらえりゃ、尻尾振ってご主人様のために走り回ってさ」
 ジルモアの大理石に刻まれたような精悍な表情は、それこそ石のように動かなかった。無言のまま、どこか狼を思わせる琥珀色の目でレネスの顔を眺める。
 レネスは胃にうごめく不快感を押さえつけようと息をつめた。ジルモアはいつでもこんなふうに人の内側までのぞきこむ目でレネスを見るが、ジルモア本人が何を考えているのか、レネスにはさっぱりわからない。表情を動かさない男だった。仲間たちと話す時などには笑みを見せるが、口元を笑いの形にしただけで、その笑みが目まで届いているところを見たことがない。
 今もまた、レネスへ向けられたジルモアの顔には人の表情らしい温度がなかった。館で働く女たちの中にはジルモアを「優しい男」と言ってあこがれる娘が後を絶たないが、レネスにしてみればそれはジルモアの上辺だけの愛想にだまされているだけだ。この男の表情には、温度がない。しかもレネスに対してはその冷たさをとりつくろおうともしない。
 ──昔、それでも1度だけ。
 まっすぐな背すじでレネスを見ているジルモアの顔を見上げ、レネスはこの何年か思い出さないようにしていた記憶が体の芯で動くのを感じた。思い出さなくても、忘れていたわけではない。いや、忘れられないから思い出さないようにしていただけで、その記憶はずっと心の中心に居座ったままだったのだ。
 ──ジルモアが笑うのを見た。
 もうあれは12年も前だろう。レネスはまだ10歳になるかならずで、ジルモアはその6つ上。その時のジルモアの年をとうに追い越した筈の今でも、レネスにはあのジルモアの方が今の自分よりずっと年上に感じられる。落ち着き払い、いつも冷静に、彼はレネスや兄のラウシスの世話役として従っていた。
 その世話役や周りの目からのがれてこっそり屋敷を抜け出そうとして、レネスは天窓から屋根の上にのぼったものの、勾配のきつい屋根の途中で動きが取れなくなったのだった。


 ──やっぱり気付かれてない。
 眼下の庭で小さな灯りが踊るように揺れるのを見ながら、レネスは身を縮めて煙突の脇に体を押しつけた。煙突と一段高くなった屋根の間のくぼみに体を入れ、吹きつける夜風をよけている。
 下の窓をあけといてやるよ、と言ったのは兄のラウシスだった。裏庭に面した窓をあけておけば、誰もがレネスはそっちから逃げたと思う。皆の目が西側の裏庭に向いている間に、東のはじの屋根から壁の蔦をたぐって下まで降りれば、狩役が使う狩門が近い。その門から森まで走って、森の番小屋の壁にラウシスが刺しておいた矢じりを取ってくる──それが、兄が弟に挑んだ挑戦だった。
 できないだろうと言われ、思わずできる!とむきになったレネスは、10歳の子供の体がぎりぎり入る天窓を抜けて屋根に出たものの、たちまち表面がなめらかに焼かれた煉瓦の屋根の上で立ち往生してしまった。下に声をかければ庭の誰かに気付いてもらえるだろうが、それには10歳と言えども意地が邪魔をして、夕方から出てきた風にじっと耐えているうちに陽が落ちてしまい、今に至るのだった。
 もう屋根の上は暗く、1歩でも踏み出せば暗い傾斜をころがりおちてしまいそうで、まるで動けない。今夜はここでじっとしているしかないな、と気持ちを決めていたが、遮るものなく空からふきつけてくる夜風に体がひえきっていた。
 兄のラウシスは、弟がここにいることを知っている。だが兄はレネスの脱走に自分がかかわっていることを言わないだろう。レネスも兄をたよりにしてはいなかった。
 溜息をつきながら体をちぢめて煙突にしがみつく。体を固定する方法がない以上、眠るわけにはいかない。そう思いながら、いつしかうとうとしていたのか、はっと気付いた時には体が大きく傾いていた。
「わっ」
 心臓がすくんで全身の血がひえきる。闇の中、かしいだ体の向こうは果てのない奈落に見えて、夜の深みに平衡感覚が失せる。転がり出した体をどうにかしようと腕を振り回すと、その腕ごといきなり体をかかえこまれていた。そのまま屋根に叩きつけられるように体を伏せられて、口から残った息がすべて飛び出す。
「ぐは」
 強靭な手に襟首をつかまれていた。はっ、はっ、と闇の中で体ごと息をしながら、レネスはすべる屋根かわらに指をかけようとする。
「動くな」
 静かに一喝され、全身の動きをとめた。ジルモアの腕がレネスの腰をかかえこみ、首すじに強い命令口調で囁く。
「靴を脱がしてやるから、じっとしてろ」
「く、靴?」
 背中から屋根に抑え込まれている体勢は不自由だったが、ジルモアの圧力があると屋根から滑り落ちずにすみそうで、レネスはほっと細い息をついた。ジルモアは言葉通り、屋根の上をゆっくり動いてレネスの両足から編み上げ靴を脱がせると、靴下も脱がせて素足にし、「少しはマシに動けるだろう」と言った。
「あ、ほんとだ」
 素足の下の屋根はひどくつめたいが、とりあえず簡単にすべるようなことはなくなり、裸足だと足掛かりができる。もっと早く気がつくべきだったが、今さら感心してその場で両手両足を付き、レネスはジルモアにうながされるままに屋根の上を元の煙突のそばへ這い戻った。
 煙突によりかかって、ぐったりと疲れた体からため息を吐き出すと、横からぱちんと顔をはたかれた。痛くはないが、つい「痛い」と文句を言う。ジルモアはレネスの靴を持って屋根の上に座りこみ、むっつりと言った。
「屋根から出るなんて危ない真似をするな。落ちたらどうする」
「‥‥なんで俺が屋根にいるってわかったのさ」
 兄が弟を案じてジルモアに打ち明けたのかと思ったが、ジルモアはあっさり返事をした。
「この時間まで帰ってこないと言うことは、帰れない場所だろう。沼には落ちていなかったから、後は屋根だ」
「ふうん」
「ラウシスに煽られるのはやめておけ、レネス」
 ぎょっとして、レネスがジルモアをみると、ジルモアは薄い半月の光の下でいつもと同じような真面目そのものの顔をしていた。生真面目が服を着ている、とラウシスはよくジルモアのことをからかってあれこれ馬鹿にしたような軽口を投げるが、年の近い2人は仲がよく、ジルモアがラウシスについてとがめるようなことを言ったのははじめてだった。
「別に、兄貴は何の関係も──」
「どうせ森の番小屋の壁の矢じりを取ってこいとか言われたんだろう」
 まさに図星だったので、レネスは二の句が継げなかった。ジルモアは小さく溜息をつくと、懐の袋から石の矢尻を取り出してレネスに手渡した。
「小屋の壁に刺さっていた。後でラウシスに返してやれ」
「‥‥渡せないよ。俺が取ってきたんじゃないもん」
「じゃあ持っておけ。2度と馬鹿な真似をするな。矢尻を持っていったからってお前の兄はお前をほめてはくれん。犬に骨を投げるように、お前に矢尻を取ってこさせておもしろがっているだけだ」
 それは痛烈な言葉だった。耳がじんとして顔に血がのぼり、レネスは呆然とジルモアの顔を見つめる。
「‥‥なんでそんなひどいこと言うんだよ」
「お前がいちいちラウシスの挑発に乗って痛い目にあうからだ。暴れ馬に乗ろうとして肋骨を折ったのを忘れたか?」
「ちがう、兄貴はお前の友達だろ? 何で兄貴のことそんなふうに言うんだよ!」
 ラウシスはジルモアが親なし子であることをからかいの種にしたり、容赦のないところはあるが、どこへ行くにもジルモアを伴ってレネスをおいてきぼりにした。レネスはいつも彼らの背中を追いかけるようにして育ったのだ。2人がいつも一緒にいるのは何だかくやしくもあり、どこにいても目立つふたつの後ろ姿が子供心に誇らしくもあった。
 ジルモアは目元を強めて、じっとレネスの顔を見ていた。彼はラウシスがするように「ガキだから」とレネスの言うことをあしらったりはせず、いつも真面目に話を聞いてくれる。それはレネスより身分が低いからだ、とラウシスは笑ったが、身分が同じでもジルモアはそうするだろう。
 ふいに指がのびてきて、レネスは反射的によけようとした。だが顎をつかまれ、妙にしみじみした口調で「じっとしてろ」とたしなめられる。レネスが煙突によりかかってじっと動かないようにしていると、ジルモアの長い指が目元を拭い、レネスははじめて自分が泣いていたことに気付いた。
 ジルモアは少し困り顔でレネスを見おろして、長い溜息をつく。何だか無性に腹が立って、レネスは乱暴に目をこすったが、その手首をまた押さえられた。
「こするな。赤くなる」
「うるさい」
「悪かったよ、お前の兄さんのことをけなすようなことを言って」
「‥‥‥」
「でもな、レネス。お前の兄さんにはわがままなところがある。それはあの人が、人を使うように教えられ、育てられているからだ。それはわかるな?」
 ほとんど聞いたことがないジルモアの優しい声に、レネスは茫然とした気持ちで彼の顔を見ていた。月光がジルモアの背後から差してくるので、その精悍な顔がどんな表情でレネスを見ているのか、ぼんやりとしかわからない。だが、ほのかな影を通すジルモアのまなざしはレネスが息苦しくなるほど真剣だった。
 ジルモアは返事のできないレネスを見つめ、ゆっくりと続けた。いつのまにか2人の距離が随分と近くなっていて、あまり寒さを感じない。夜風はほとんどジルモアの体に遮られている。
「ラウシスは人の上に立とうとする。俺は、あの人の下に仕える身分だからそれでいい。だがお前は駄目だ。お前は、血を分けた弟だ。そしてお前も、いずれは人の上に立つ男だ。兄さんの気まぐれに振り回されて自分のほしいものを見失うな。そんなことをしていたら、兄さんの影になってしまうぞ」
 こんなに長く1度にジルモアが話すのを、初めて聞いた。ジルモアの視線は貫くように真剣で、レネスはまるで視線を動かすことができず、強いまなざしが自分の魂までのぞきこんでいるような気がした。
「わかったか?」
 そう問われて、答えを求められているのだと悟る。空気が足りない肺に息を吸いこみ、レネスはうなずいた。正直なところジルモアの言ったことの半分もわかっている気がしなかったが、彼の真摯さに応えたい衝動の方が強かった。
「わかった」
「そうか」
 短くうなずいただけで、ジルモアはレネスの右手首を離した。その時まで手首を握られたままだったことすら気付いていなかったレネスだが、手首が急にじんじんと熱く感じられて左手でつかむ。ジルモアの手が彼の髪をくしゃっとかきまぜた。その手の感触の方につい首を傾けながら、レネスは呟いた。体が重い。
「なあ、ジルモア」
「何だ?」
「俺のほしいものって何?」
「謎かけか」
「ちがう、ジルモアが言ったんじゃないか。俺のほしいものを見失うなって。でも俺、別にほしいものないんだよね。こないだの誕生日に馬ももらったし」
 あくびが出る。2、3度あくびをしてからジルモアを見ると、ジルモアはまた妙にしみじみした表情でレネスを見ていた。レネスはつい口をとがらせる。
「何」
「欲がないな。お前の猟犬をラウシスが自分の物にしたり、お前が継ぐ筈だった青珠の鞘を持っていったのは忘れたのか?」
「俺にはファーゲルがいるし、鞘なんて飾りじゃないか。俺は剣をもらってるからいい」
 レネスの気に入りの猟犬は猟をするには少し年老いていて、ラウシスはその犬に目もくれなかった。だがファーゲルは狐や鹿こそ追えないが、地リスや水鳥は上手に取るのだ。猟犬にしてはおとなしくて、頭がいい。ほかの猟犬のようにまだ子供のレネスを馬鹿にして試したりはしない。
 そんなことを眠気をこらえながらぶつぶつと呟いていた気がする。ラウシスはたしかにレネスの持っている物をほしがったが、レネスはいつも兄がどうしてそんなものを持っていくのか不思議だった。犬が増えたところで猟がうまくできるわけでもない。世話や訓練が大変になるだけだ。鞘を持っていったところで、ラウシスだってもっと綺麗な鞘を持っているのに、いつ腰に下げるのだ。
「5本も6本も鞘だけ吊るって言うなら別だけどさ。間抜けだろ」
 もう眠気と空腹が限界だった。午後からずっと屋根の上にいる。ジルモアが来てくれたことでほっとした体が疲労を思い出してしまったようで、全身が重くて動かせない。
「レネス‥‥」
「俺、寝る」
 そう宣言すると、何か言いかけていたジルモアが呆気にとられた顔をした。
「屋根の上でか?」
「どこでもいい、もう無理」
 煙突によりかかって目をとじようとしたレネスの体が逆に引き戻されて、ジルモアの肩に頭をもたせかける体勢にされた。ジルモアの腕がレネスの体に回る。
「俺によりかかって寝ろ」
「ありがとう」
 あくびまじりの礼を呟いて、レネスは目をとじた。ジルモアは珍しく胴衣もなく麻のシャツを着ているだけで、その肩に顔をのせるとシャツの下の体に付いた筋肉の強靭さがつたわってくる。何度か蒸し風呂で見かけたことのあるジルモアの体は、なめらかな薄褐色の肌が筋肉の起伏に押し上げられていて、内側にひそむ力が今にも荒々しく解き放たれそうに見えた。ジルモアの平素のおだやかさと、その体の持つ獣のような獰猛さが、レネスの中ではうまく結びつかない。
 屋根の上の吹きさらしの風がジルモアの体で遮られていて、よりかかった体温がレネスの冷えた肌につたわってくる。ジルモアの手はレネスの腰をかかえこみ、太腿に手のひらをのせてレネスの体が傾くのを防いでいた。
 少し目をつぶっていてから、レネスはふっと目をあけてジルモアの顔を見た。すぐそばから見上げた顔は、頬骨が高くて上唇が少し厚く、顎までの精悍な線が月光に映えている。前を向いたままのジルモアの口元に、笑みがあった。
 それの笑みがジルモアが社交辞令で使ううっすらとした影のような微笑とはまるでちがうのは、レネスにも一瞬でわかる。どこが違うのかはわからなかったが、ジルモアの表情はいつになく平穏に見えた。唇のはじがゆるやかに上がって、その隙間から彼は不意に笑いのような息をこぼした。
 レネスはまた目をとじて、ジルモアの肩によりかかる。ジルモアが腰に回した腕にかるい力をこめた。
「もう、寝ろ。いびきをかくなよ」
「かかないよ‥‥」
 子供扱いすんなよ、と言おうかと思ったがいびきは別に子供特有のものでもないだろう。何かほかに言い返すことを考えている内に、レネスはぐっすりと眠りに落ちてしまい、翌朝自分の寝床で目を覚ました。ジルモアがどうやって彼を屋根から降ろしたのかはわからなかったが、レネスは父親に脱走をとがめられることもなく、ジルモアは2度と屋根の上での出来事を話そうとしなかった。


 それから12年、とレネスは忌々しく目の前に立ったジルモアの顔を眺める。ラウシスが正式に家の跡継ぎとなるとともにジルモアは彼の右腕となり、商会の仕事を果たすためのラウシスの旅にも同道した。しばらくはそのたびに、レネスに小さな土産を持ち帰った──珍しい色の石とか、白い貝とか、他愛もない物ばかりで、子供じゃないんだからと何度かレネスは呆れたが、異国の物をもらうとその国のことに気持ちを馳せて心が騒いだ。
 隣国の学校へ行きたいと父親に談判したのもそのためだ。家の伝統に反すると父親は大反対したが、レネスはそれを押しきって、18の時から2年間、異国で1人で暮らしながら学校に通って算術や測量を学んだ。
 そして戻ってきた時には、ジルモアとレネスの関係は完全に変わってしまっていた。