腰に縄がくいこむ不愉快な感覚があった。何故縄が腰に巻かれているのかよくわからないまま、クウォンはぼんやりと目をあけた。何故水に漂っているのかわからない。夢でも見ているのだろうか、と思った時、さらにぐいと引っぱられて、にぶい痛みでふいにすべてを思い出した。嵐。船。リガージェ。
あわてふためいて起き上がり、波を呑みながら、クウォンは必死で縄をたぐった。体勢が水の中で崩れる中、両手でたぐり、たぐり、たぐり、やっとのことでリガージェの体にたどりつく。男は水の中をうつ伏せで漂っていた。
肩を抱きおこすようにしてリガージェを海面まで引き上げ、その息がまだあることだけをたしかめてから、クウォンはあたりを見回した。岩礁の内側にいることにほっとしたが、まだ周囲に散らばる岩が波の砕ける音をたてている。
2人は、洞窟の方へと流されていた。小さな湾のようにえぐれた海は斜面に囲まれて、今の状態では岩をのぼることはできそうにない。洞窟以外に行き場はないと判断し、クウォンはあちこちに見える岩を用心深くよけながら、リガージェの体を引いて泳いだ。リガージェの腰から流れた綱が波にとられて邪魔になるので、腰帯をほどいて綱の結び目から引き抜く。
少しだけ体が軽くなると、もっと本格的に体勢をととのえ、仰向けに浮かせたリガージェの下に体を入れてリガージェを抱くように支えた。リガージェの口が水をかぶらないよう、下から回した手で顎をすくって水面の上に出しながら、流れにのるように水を蹴って泳ぐ。全身が疲弊して、呼吸はほとんど喘ぐようだったが、リガージェを早く陸にあげなければならないという焦燥につきあげられて、考える余裕もなく体だけが動いていた。
また強くなった雨があたりの海面を叩いてしぶきをあげ、幾度か大波に引き戻されて、洞窟はひどく遠く感じられた。やがて、岩穴の入口で巻く波の音が耳にとどく。洞窟に流れこむ寸前で流れは勢いを増し、クウォンはリガージェを抱きしめながら洞窟の前にそびえる岩の間をくぐりぬけた。男の体はクウォンの腕の中でぴくりとも動かず、波に温度を失った肌にはかすかなぬくもりもないまま、クウォンは不安にかられた。
泡立つ波とともに洞窟の内側へと押し流される。遠くつつみこむように反響する波音の中、クウォンは必死に手近な岸まで泳ぎついた。なめらかに削られた岩が襞のように折り重なった岸にリガージェを押し上げ、自分も、脱力に震える両腕で岩を這うようにしてのぼった。
もはや体が波にゆすられることもない、岩にしっかりと体を支えられる感覚が素晴しいものに思えた。一瞬、強い高揚にとらえられて笑い出しながら、クウォンはリガージェの上にかがみこんだ。口元に耳を押しつけ、まだ呼吸があるのをたしかめる。ほっと息をついたが、リガージェのふくらはぎを大きく裂けるような傷が横切っているのに気付いて青ざめた。濡れた服の一部を破いてリガージェの傷にあてる。体が冷えているからか、それとも海の中で血を流し終えたのか、傷の長さのわりに出血は少なかった。
傷の上に布を回して結ぶと、クウォンはリガージェの体をもっと洞窟の奥まで運ぼうとしたが、ほんのわずかで力尽きて座りこんだ。乾いたところまでリガージェをつれていきたいのだが、にぶった体は言うことをきかない。仕方なく、リガージェの体が平らに寝かせられる場所まで引きずって、彼のそばに座りこんだ。
岩に反響する波の音を聞くかぎり、洞窟の奥は深いようだった。リガージェがこの洞窟を目指そうとしていた以上、ここがどこなのかもわかっているだろう。とにかくすべては彼が起きてからだと思いながら、クウォンはリガージェの顔をのぞきこみ、指先で男の額についた泥を拭った。
反応がない顔をじっとのぞきこむ。いつも彼の目元や口元を引きつらせている怒りがなくなると、リガージェはひどくおだやかで、何かから解放されたかのように安らいで見えた。
やや幅広の頬骨、平らな額、肉厚の唇。目尻を上げて険しい顔をすればおそろしいが、今はこめかみのあたりに張っていた緊張もとけて輪郭はやわらかい。その顔を見下ろしながら、クウォンは体の奥ににぶい息苦しさを感じた。クウォンがいる限りこの男は、この安らいだ表情を歪めるほどの痛みからのがれられないのだ。
リガージェの左目の上に古い傷があった。クウォンが気付かなかった傷だ。これまでこんなふうに間近でリガージェを凝視したことはない。もう消えかかった傷は子供のころのものだろう。唇をかすかにひらいて一心に眠っているような顔を見下ろして、クウォンは指でリガージェの頬にふれた。強い輪郭をなぞる。額の傷をそっとなぞり、陽に焼けた皺が刻まれた目尻へ。そしてきつい頬骨の上から顎へと、指の腹でゆっくりとなでた。
この男の肌は長年の海での暮らしで褐色に焼けてざらつき、そこには彼がくぐりぬけてきた日々がそのまま刻まれていた。陽に愛されている肌だ、とクウォンは思う。指にざらついて、固い。リガージェ本人のように、決してやさしくはないが、ふれているとあたたかかった。
無意識のうちに、指先はリガージェへの唇へたどっていた。少し厚めの唇はゆるくひらいている。湿った息を吐いて、また吸う──リガージェの潤んだ呼気が、クウォンの指先にふれた。
「‥‥クウォン」
岩に反響した自分の名に、クウォンの指は凍りついた。リガージェの瞳がひらき、まっすぐな視線がクウォンを見つめていた。その目にとらえられたかのように動けない。
リガージェの頬から手を引くべきだとはわかっていたが、どうしても体が言うことをきかなかった。強く自分を見据えるリガージェのまなざしはクウォンの呼吸を奪い、魂の内側までくいいってくるようだ。その目に抗うことなどできなかった。
「無事か?」
その問いの意味が、耳から意識に入ってくるまで少しかかった。我に返ったクウォンはまるで熱いものにふれたようにはっと手を引き、あわてて声をとりつくろおうとしたが、もつれる言葉は自分の耳にもひどく上ずって聞こえた。心の底から動転し、ちぢみあがっていた。
「俺は大丈夫。あんたは‥‥怪我、を」
きちんと言い終える前にリガージェは喉の奥で獰猛な呻きをあげながら立ち上がっていた。とめようとしたクウォンの肩を抱きこんで支えにし、よろよろと歩き出す。
どうしたらいいのかわからずうろたえているクウォンを、リガージェは自分の体のそばにぐっと抱きこみ、よりかかり、体を密着させて歩いていた。どうしたらいいのかわからないまま、クウォンは片足を引きずるリガージェの支えになるように歩調を合わせたが、リガージェの肌の感触が残る指先がじんと痺れ、心臓はどこかへとび出してしまいそうなほど動悸を打っていた。リガージェはクウォンが何故彼にふれていたか、わからなかったのだろうか。
そうならいい。だが、どこか深いところでは、クウォンはリガージェにすべてを見抜かれたのを感じていた。どうしてクウォンが故郷にいられなくなったのか。どうして、自分の里の名を言えないのか。
クウォンは自分が故郷から追放されたことも、その理由もリガージェに説明したことはなかった。口が裂けても言えないことだった。リガージェがまるで他人に興味がなさそうなことを幸い、彼の怒りのすみに丸まって安んじ、自分の秘密を守ろうとしてきた──そのすべてが、一瞬の衝動で崩壊したのだ。
あまりにもすくみあがっていたので、リガージェが歩みをとめるまで、クウォンは足の裏の感触が乾いた岩になったことに気付かなかった。洞窟の奥は暗く、ほとんどリガージェの表情は見えなかったが、彼が平らな岩棚に座りこんで傷ついた左足を投げ出すのに手を貸しながらクウォンはずっと下を向いていた。
風向きがちがうのか、風はほとんど洞窟の奥には吹きこんでこなかった。ただ波が岩に砕ける音が何度も反響しながら、肌をかすめて闇の奥まで走っていく。立ちつくしているクウォンへと、リガージェの抑えた声がとどいた。
「お前が家から保護を解かれた理由を、俺は聞かなかったな」
「‥‥‥」
クウォンの膝が震えて、彼はその場に消えてしまえないかとばかりに身をちぢめたが、塩のこびりついた唇から言葉は出なかった。クウォンの親はクウォンの名を家から消し、保護の意志を消し、彼の寝床がもはや家にないことを集落中に明確にした。
集落に、クウォンの親と敵対してまでクウォンを引き取ろうというような者はいなかったし、仲立ちを申し出る者もいなかった。追放の意志は明らかだった。普通そういう者は野垂れ死ぬしかないのだが、たまたま巡回の途中で集落に立ち寄った商人が彼の身柄を集落から買い取り、旅につれ出した。
商人は、旅の間の働き手を必要としていた。獣と荷の面倒を見るために。だが旅が終わればクウォンが邪魔者になること、それ以上の世話をする気はないことをはじめからはっきりさせていた。
クウォンのように家と故郷を追放された人間には、ほとんど行き場がない。死ぬか、どこか人里離れたところで一人きりの力で生きていくかだ。どこの誰ともわからない人間を迎え入れる集落は滅多にない。
リガージェがたまたま漁の相方を探していたのは、幸運だった。クウォンがどこからどうして来たのか、家と故郷の名を告げられないのは何故なのか、そういったことをまるで気にせず、正体のわからないクウォンを自分の屋根の下に入れたのはもっと幸運なことだった。
リガージェには、ただクウォンのことを気にする余裕などなかっただけだとわかっていた。彼は痛みと憤怒に苦しんでいて、クウォンのことなどどうでもよかったのだ。クウォンがどこの誰だろうと、船に乗ってリガージェの用を手伝ってくれさえすれば、きっと手足が逆についていてもまるでかまわなかっただろう。だがクウォンにはそんなリガージェがありがたかった。彼の役に立つように働きたかった。
彼の力になりたかった。ふれれば傷つきそうなリガージェを見ながら、ずっとそう思っていた。
立ちすくんでいるクウォンの頬に、洞窟の天井から滴が落ちた。海風で湿った岩から水滴が落ちるのだろう。驚いて小さな声をこぼしたクウォンは、そこから逃げ出そうというかのように数歩下がった。どこかへ逃げられるわけでもないが、ただもうどうしたらいいのかわからなかった。
「クウォン」
リガージェの表情は見えない。声は静かだったが、それは疲労と痛みを抑えているからのように思えて、その声を聞くと体の奥で臓腑がねじれるようだった。怒鳴られたり、嘲笑われたりする方がはるかにましだ。その静けさは、クウォンには圧倒的な拒絶に聞こえた。
クウォンの心と体の内側にうつろがひろがっていく。リガージェに追い出されればもう行くところがない。彼の船に乗れなくなったら、もう生きていくすべがない。
波の音が洞窟の入口から一段と大きくひびきわたり、水が岩を打って、ゆっくりと引いていく音がした。それが消える前に、リガージェがぽつりと言った。
「俺の船に乗っていたのはトーアという男でな。俺の母の兄の息子だった。俺たちは子供の頃から同じ船に乗っていて、俺が自分の船を持つことに決めた時、隣に乗るのはトーアしかいないと思っていた」
「‥‥‥」
体勢を変えて座り直そうとしてリガージェが小さく呻き、反射的に走りよったクウォンは、怪我をしている足をのばすのを手伝った。喉に何かがつまったようで何の言葉も出てこないまま、そばに膝をついてリガージェの表情を見ようと目をこらす。
体の痛みだけではない、もっと深い痛みがリガージェの声の奥にあった。
「去年の冬、あいつは海で死んだ。俺は‥‥あいつを海から見つけ出すことができなかった」
語尾が震え、声がこもって、リガージェの体が前のめりになった。全身の力をこめて痛みをこらえようとしているその肩に、クウォンは思わずふれようとするが、寸前にためらってその手を引いた。ふれていいのかどうかがわからない。リガージェがはじめて自分の内側にあるものをクウォンに見せようとしている今、その邪魔をしたくもなければ、彼に嫌な思いをさせたくもなかった。
だが引こうとした手はリガージェの手につかまれた。手首に指がくいこんだ瞬間、疲弊した全身に新しい息が吹きこまれたかのように鮮やかな熱がひろがって、クウォンは息を呑んだ。気取られる前にどうにか手を引こうとしたが、リガージェの力は強い。
「俺はな、クウォン。‥‥さっきお前がしたように、トーアにふれたかった。そうしたことはないけどな。一度も。トーアは‥‥俺には何より大切な友だった。あいつが死んだ時、海に俺の一部も沈んだような気がする」
「リガージェ──」
「それが俺の秘密だ」
荒々しく、まるで怒っているようにざらついた声で、リガージェは苦しいものを押し出すように言った。クウォンの手首にくいこむリガージェの指は震えていて、強く痕を残すほどの力にクウォンは唇を噛みしめて痛みをこらえた。彼以上に、リガージェは逃れようのない痛みに苦しんでいる。
「俺は、トーアが欲しかった。ずっと。今でも」
その言葉にある剥き出しの痛みと、リガージェの声の奥に押しこめられた欲望の熱さがクウォンの体の中に一気に流れこんで、クウォンは喘いだ。この秘密は、ただの秘密ではない。これまでリガージェが自分自身に認めることさえ禁じていた、深い禁忌の秘密でだった。友への嘆きと、愛情と、喪失の痛みと、隠されていた欲望と──そのすべてが、つかまれた手首からクウォンへとじかにつたわってくる。
「今でも‥‥」
そう呟いたのはたしかに自分の声だったが、クウォンは自分の唇が動いている気がしなかった。肌がざわついて、リガージェの力強い指がくいこむ手首が熱い。肘からその手を切り落として逃げ出したいほどのいたたまれなさと、この男にもっとふれたいという強烈な衝動との間で、身動きがとれない。
「トーア」
呻くように、リガージェはその名を口にして、途端にクウォンの手を離した。頭をかかえこみ、短い褐色の髪をかきむしるように身を丸めて、荒い息の音をたてながら呼吸をしようともがく。何かがあふれ出してきそうなのを必死で抑えこんでいるようだった。
リガージェの苦悶が、痛みが、孤独が、湿った空気をふるわせて肌を刺すほどにつたわってくる。それはクウォンの中の何かを引き裂いた。
両腕をのばしてリガージェの頭をかかえこみ、膝をついて彼の体を引き寄せた。一瞬、リガージェは硬直したが、クウォンが力をゆるめずにいると、すぐに溜息をついてクウォンにもたれた。濡れた服は体にぴたりとはりつき、互いの間できしむ。息をつめたクウォンの耳元で、リガージェのしわがれた声が呟く。
「トーア」
ずっと、その名を呼ばないようにしていたのだろう。苦しみを押しこめるために。忘れようとすればするほど、痛みは鮮やかに身の内にたちのぼる──クウォンもそれを知っていた。
リガージェの力強い首すじから肩甲骨の中心まで手のひらでさすり、彼の頭をあやすように抱きしめる。リガージェの腕がクウォンの背に回ってがむしゃらな動きで抱き返し、その抱擁の熱さが体の芯につたわって、クウォンは息を呑んだ。強い腕にはためらいがない。リガージェとの間に残そうとしていた距離はあっというまに消えてしまい、引き寄せられた体の間にはわずかな隙間もなかった。
リガージェの腕が背を這い回り、脇腹に膝があたる。自分を抱えこんだ強靭な体の感触と、首すじに甘くくもった熱い息づかいに一瞬で頭が痲痺して、クウォンは何も考えられなくなっていた。倒れこむように預けた全身を抱擁され、引きしまったリガージェの体を全身で感じながら、クウォンはリガージェの首すじに唇をあてた。あの陽に焼けた褐色の肌に唇でふれると、どんな味がするのか──舌先で首を舐めると、海の潮とも汗ともつかない塩味が口にひろがって、耳元にリガージェのざらついた呻きが聞こえた。
「トーア」
それでいい、と思う。それでかまわなかった。リガージェの痛みが、彼の肌を喰いやぶるようにして表にあふれ出してきている。まるで獣が傷を舐めるような気持ちでクウォンはリガージェの首すじに舌を這わせ、男の匂いを吸いこみ、舌の先に血の脈を感じとった。舌と唇でリガージェの体の形をたしかめる。息をはずませながら、クウォンは舌を大きく出してざらついた顎をなめた。骨の固い形を舌腹になぞって、耳の裏のやわらかな場所に唇で小さなしるしをつける。
リガージェの喉が動き、低い呻きをこぼして、ふいにクウォンの体は岩に組み伏せられていた。
唇に熱い息がかかったと思う間もなく、リガージェの唇と舌がクウォンの口をむさぼりはじめた。上唇、下唇を舐め回され、歯茎や歯の表面まで強引な舌がなぶっていく。リガージェの匂いが体の内側に入りこんでくる。クウォンがあっというまに屈服し、口をあけると、侵入してきた肉厚な舌がクウォンの舌を口蓋に押しあてるように強く、幾度も口の中を舐めあげた。
欲望が一気に肌を上気させ、頭の芯までくらくらと揺れながら、クウォンはリガージェの腰に腕を回した。着古したシャツの裾から手を入れ、リガージェの背にじかにふれる。固い筋肉の感触を手のひらに感じるだけで腹の底に固い緊張が生じ、息がつまった。目をとじて口中にリガージェの熱を受け入れながら、クウォンは自分を組み敷く男の強靭な体を指先で丁寧になぞる。重い、固い体だった。
唇をむさぼりながら、リガージェがクウォンの口の中で呻いた。太腿に固い勃起を押しつけられて、クウォンも呻く。腰をねじり、自分の勃起がそれにふれるように動こうとすると、リガージェの体がふいに緊張した。
唇が離れ、切れ切れの息をつきながらクウォンはぼんやりとリガージェを見上げる。それからはっとして大声をたてた。
「怪我!」
あわてふためきながらリガージェの体をなるべく優しく押しのけ、男の下から這い出して、リガージェの足を見に行こうとする。そのクウォンを片腕で軽くとめて抱きよせ、リガージェが低く笑った。耳元にふれるその笑いはかすれて低く、クウォンの背すじから腰の奥まで痺れるようなざわつきが生じる。
どうしようもないのがわかった。いつからこの男にこんなに惹かれていたのだろう。苦しむ彼にふれたいと思っていた、そのクウォンの欲望も彼の内側を喰いやぶってあふれはじめていた。
「怪我、してるから──」
上ずった声で言いかかったクウォンの口を、リガージェがまた唇で覆った。ふたたび激しくむさぼられ、濡れた唇で幾度も唇を吸われて、クウォンはただ嵐の中でそうしたようにリガージェにしがみつくことしかできなかった。
「ちょっと痛むだけだ」
口を離して、リガージェは欲望にざらついた声で囁いた。その声だけでは、彼が見ているのがトーアなのかクウォン自身なのかわからない。彼の欲望がどちらに向けられているのかは。
どちらでもいいと思いはしても、リガージェの肌にせめて自分の熱を残したくなって、クウォンはリガージェの唇に自分から深いくちづけを仕掛け、リガージェの服をたくしあげて脱がせた。裸の上半身に舌を手を這わせて愛撫しながら、岩にゆっくりとリガージェを押し倒す。なるべく足の傷に負担をかけないようにしたかったが、クウォンにも大した理性は残っていなかった。
自分のシャツも頭からはぎとるように脱いで上半身裸になると、クウォンはリガージェに体を重ねる。ぴたりと素肌があわさった瞬間、どちらも呻き、相手の体に腕を回してその感触をたしかめるように愛撫をはじめた。クウォンの背中から脇腹へとリガージェのざらついた指が這い、クウォンは固い筋肉に体を押しつけながら、リガージェの肩口を噛んだ。名を呼びそうになる口をふさぐ。肩骨の形を唇と舌でなぞって、短い呻きをリガージェの肌にこぼした。
リガージェの引き締まった下腹にクウォンの勃起が擦れ、思わず快感を追って腰を動かしてしまう。クウォンのそれはもう痛むほどに固くはりつめていた。
リガージェの手がクウォンの腹を這いながら下がり、股間にそそりたつ牡を服の上からつかんだ。強い手がはっきりとした意志を持って彼の勃起を握りこんだ瞬間、クウォンはほとんど、絶頂に近い声をたてていた。これまで感じたことのない強烈な快感に、息が喉でつまる。その反応に驚いたようにリガージェの手がとまったが、クウォンはかまわず自分の牡を押しつけた。
「あ、ああっ」
途切れ途切れの息を吐き出しながら、服ごしのもどかしさに腰をゆする。彼の声が岩肌に反響しているのが聞こえたが、もうかまっていられなかった。
リガージェの指がクウォンのズボンの前留めを外しはじめた。
「クウォン」
名前を呼ばれたのに驚いて、クウォンは体の動きをとめた。だがすぐにリガージェの手がクウォンのズボンを引きおろし、下帯をほどくと、はねあがるように彼の牡が自由になって、その感覚に思考が痲痺する。
「男と寝たことは?」
リガージェのざらついた指がクウォンのそそりたつ牡をつかむ。無造作な手で擦られて、クウォンは短い声をこぼした。この男の指がじかに彼にふれているということが信じられなかった。リガージェの指はひやりと冷たく感じられたが、たちまちクウォンの熱がうつってすぐになじむと、クウォンの牡をしごきあげはじめた。
「クウォン?」
「ん──」
リガージェが問いの答えを待っている気配を感じて、どうにか返事をしようとする。どろどろになった頭の芯が愛撫に揺らいで、答えをとりつくろうことなどとてもできなかった。
「こんなことは、したこと、ない‥‥」
「ならどうして故郷を追われた?」
その問いはほとんど優しかった。リガージェがクウォンの何を知りたいというのだろう。クウォンは頭を左右にゆすって、半開きの口からどうにか答えを押し出す。
「‥‥1度だけ‥‥」
「ん?」
リガージェの手が根元から先端までクウォンの牡をなでて、ざらついた親指が先端をなぞった。クウォンは喉に心臓がせりあがってくるような高揚と快感に何度も呻きながら、今にもこぼれそうな哀願をどうにか呑みこんだ。自分の手でふれたことしかないそれを、リガージェの手がふれて、愛撫している。嵐の中に正気をおいてきた気がした。
「人のを、舐めた」
「へえ」
その声は純粋に興味を持っているように聞こえて、クウォンはふっと目をほそめてリガージェを見た。洞窟が暗くてほとんど互いの表情が見えないのがいいのかどうか、クウォンにはよくわからない。ただ誰にも話したことのないことを話すには、この暗がりは幸いだった。
「それを、見つかって‥‥」
男が好きだということを自分で薄々感じてはいても誰かに言ったことはなかった。自分にすら認めようとしていなかった。押し隠そうとしていた禁忌を、あんな最悪の結果で露呈することになった時のことを思い出して、頬が燃えるようだった。
「誰のを?」
「旅回りの、鋳掛け屋で‥‥俺──」
突然こらえきれないほど強烈な欲望がこみあげてきて、クウォンはリガージェの頭の両側に手をつくと、唇をリガージェの口にかぶせて強く吸った。今日はじめて味わったはずのリガージェの匂いに、もう自分の体がなじんでいるのがわかる。舌にねっとりと唾液がからみ、リガージェの匂いと熱が口から全身にひろがって、クウォンの思考を痺れさせる。
リガージェの指がクウォンの髪の間に入りこみ、さらに引きよせてくちづけを深めた。やわらかいが、抗いようのない力がその仕種にこもっていて、クウォンを否応なく支配する。
クウォンの下唇をかるく噛んでから、リガージェは髪をつかんだままの手でクウォンの唇を離し、岩の間にひびかないほど低い声で囁いた。
「その男が好きだったのか」
「そういう‥‥わけじゃ、ない」
自分でも考えたことのなかった問いに、クウォンは耳まで赤面してどもった。暗がりに感謝しながら、リガージェの首すじに顔をうずめて表情を隠そうとしたが、ふいに髪をねじられる痛みが頭にはしって息を呑んだ。強引な力でもう一度、頭を引き上げられる。硬直したクウォンを、かすかな光をおびたリガージェの目が間近から見上げていた。
「好きじゃないなら、どうしてだ」
ざらついた声は険を帯び、はっきりと強く区切るようなその言い方が耳の中にひびいた瞬間、クウォンの体は信じられないほど高揚していた。全身の肌が熱をおび、リガージェの腹筋に押しつけられた牡からとろりと滴りがあふれる。その反応がリガージェにもつたわっただろうと思うと顔が燃えるようだった。
「クウォン」
喉の奥で、リガージェが彼の名をうなった。クウォンは一瞬目をとじて、大きな息を吸う。このまま引きずられるようにどこかへ落ちていっていいのかどうかわからないまま、リガージェの強靭な体と手の間にとらわれて動けない。
「‥‥わからない‥‥ただ」
誰かと、ましてやリガージェとこんな話をするなどと思ったこともなかったが、リガージェが自分の心の奥底に秘めてたものをクウォンへさらけ出してみせた今、クウォンが彼の問いに答えないでいるのはひどく不誠実な気がした。それに実のところ、クウォンは話してしまいたかった──誰でもいい、誰かに。
恥であり重荷である秘密をひとりでかかえこむことにひどく疲れて、ずっとクウォンは孤独だった。その孤独に押されるように、旅の男と関係を持とうとして、クウォンは破滅した。
多分今もまた、越えるべきでない一線を越えているのだろうと思いながら、彼はふるえを帯びた声でつづけた。
「誰かに俺を覚えていてほしかった」
一瞬の、それが残り香のようなものでも。多分。あの時、それが何より大切なことに思えるほど、クウォンは追いつめられていた。ただ何かを求めたが、何を求めていたのか今となってはわからなかった。
「誰でもよかったのか」
「誰も‥‥いなかったから」
「‥‥‥」
目をほそめ、くっきりとした眉の間に皺をよせてリガージェはクウォンを見ていたが、髪をつかむ指がゆるんで、大きな手がクウォンの頭を抱きよせた。クウォンはまだ不安定な気持ちのままリガージェの首すじに顔をうずめ、陽に焼けた肌に唇をあてる。リガージェは両腕をクウォンを背中に回して、まるでつつむように彼を抱きこみ、どうしてか「しいっ」と子供をあやすような静かな音をクウォンの耳元で鳴らした。
波の音が岩に反響して遠くひびき、ふいに風のうなりが笛のような音をたてて入口の岩を抜けた。また嵐が戻ってきたのかと思いながら、ぼんやりと、クウォンは自分が泣いていることに気づいた。
力を抜いた体をを預けてくるクウォンの背や腰は固い筋肉に覆われ、あちこち骨ばって、やわらかな丸みなどどこにもない。トーアをもし抱きしめたならこうだったのだろうかとリガージェはふと思ったが、それはどこか冗談のように非現実的な考えに思えた。
トーアとリガージェは子供の頃、よく1枚の毛布を分けあって眠った。大人になっても、冬の間は身をよせあって互いの温度をわけあいながら眠ったが、体をぴたりとあわせて横たわっていた間ですら、リガージェが自分の欲望に気付いたことはなかった。トーアは彼の人生の一部であって、ただそこにいることが自然で、それ以上のものを彼に求めようと思ったことなどなかったのだ。
──彼が、引きはがされるようにリガージェの人生からいなくなるまで。
もしまだトーアが生きていたならば、いつかあの体をこうやって抱きしめることがあったのだろうか。そんなことを考えながら、リガージェはクウォンの首すじから背骨へと手のひらを這わせた。それとも一生、彼らは境をこえることなど思いもしなかっただろうか。
背骨にそって愛撫するとクウォンの体が小さくふるえて、あからさまに上ずった息をつく。そのことに、リガージェは不思議な満足感を覚えた。
クウォンの体はひどく熱かった。どうして泣いているのかはわからなかったが、なだめてやろうとするリガージェの手は汗ばんだ肌をすべっていつのまにか濃密な愛撫にかわり、クウォンは頬に涙をつたわせながら素直に昂りの声をあげた。クウォンの引き締まった尻に両手を回して揺さぶってやると、剥き出しの牡がリガージェの腹に擦れる。そこはもうクウォンの滴りにまみれていて、リガージェの腹筋に牡がすべるたび濡れた音をたて、クウォンは喉の奥から苦しげな喘ぎを絞り出した。
「あっ、ああっ!」
愛しいというのとは、多分ちがう。だが不思議に目の前にある体に心が吸いよせられていくのがわかる。クウォンの体が昂るのに応じて、リガージェの奥にも強い欲望がうねり出す。
クウォンになら、さらけ出しても大丈夫だと感じた。傷、トーアへの思い、リガージェの内側にある醜いほどの欲望──
クウォンの髪をつかみ、強引に引き寄せた唇をむさぼった。その間もクウォンはたえまなく声をこぼしていて、もう限界が近いことは明らかだった。
クウォンはあわてふためいたように両手でリガージェの体をまさぐり、ズボンの紐をほどいて前の合わせを大きくひらく。海水に濡れた下帯の間からリガージェの牡が待ちかねたように屹立し、クウォンの指が根元から先端のふくらみまでを早く、淫らにしごいた。
クウォンの口の中に、リガージェも呻いた。押さえられていた快感が一気に行き場を得て、クウォンの指の刺激にはじけそうになる。脳天までかけのぼるような愉悦に腰が動いて、クウォンの牡と強く擦れあった。自分の欲望を、そしてクウォンの欲望を、リガージェは眩暈のような熱の中で味わう。深く、豊かな熱が互いをつないでいるのを感じた。
あたりには彼らの息づかいが濃密に満ちて、波と風の音が遠く遠くひびいていた。
クウォンは荒い息をつきながら大きく足をひらいてリガージェをまたぎ、体を前のめりに支えると、ゆっくりと腰を前後に動かしはじめた。リガージェの牡をえぐりこむように自分の牡を押しつける。互いの滴りに濡れた牡がぬちゃぬちゃと音をたてながら擦れあい、どちらも獣のような声をこぼした。
リガージェは右手でクウォンの牡にふれる。クウォンのかすれた喘ぎを聞きながら、手の内側に2人の屹立をまとめて握りこんだ。クウォンが腰を動かすと、きつく締めた指の輪の中をまるで犯すように牡が擦りあげていく。濡れた牡の動きはなめらかで、クウォンは調子の外れた悲鳴をあげると、腰を強く動かしはじめた。リガージェの指と牡と、両方に自分の屹立を押しつけようとしながら腰を突き上げ、引く。我を失った様子で同じ動きをくり返し、リガージェの牡に牡を擦りつけ、全身を引きつらせながら喘いだ。
自分の牡があますところなくクウォンの牡と重なりあい、擦りあっている。リガージェはその熱にくらくらと酔った。前のめりになったクウォンと荒々しい息を分けあいながらくちづけを繰り返していたが、やがてクウォンの全身が大きくふるえて、彼の動きはそれまでのリズムを失なった。
「あ、あ、あっ──」
切ない声をたてて腰を揺する。その牡を、自分の牡とまとめて強く握りこみ、あまりの熱さに我を失いながら、リガージェは呻くように名を呼んだ。
「クウォン」
「ひあぁっ!」
自分の中の何かが砕けたように、クウォンが快感とはまたちがう悲鳴をこぼして硬直し、身をふるわせた。まるで何かを恐れているような声だったが、瞬間、リガージェの腹の上に熱い精液がほとばしる。吐精する牡を握りこみながらリガージェはクウォンの絶頂を体に感じた。肌の外ではなくまるで肌の内にある熱のように、潤んだ熱さがリガージェの内側を満たす。その熱は体の芯をゆさぶって、感じたことのない絶頂感をリガージェにもたらした。
クウォンの体を左腕で抱きしめながら、リガージェも激しく吐精していた。幾度か連続して精液をすべて吐き出す間、クウォンはずっと自分の萎えた牡をリガージェのそれに擦りつけ、彼を深く刺激する。吐精とともにリガジェの牡はその勢いを失い、精にまみれた彼らの体とリガージェの指の間で小さくふるえた。
深い息を吐き出して、リガージェは頭を岩にのせ、目をとじた。トーアを失ってからずっと感じていた息苦しさが失せ、息が楽につける。ずっとトーアがほしかったのだ、とはじめて気づいていたが、もしトーアが生きていたらこんなふうに体を重ねることがなかっただろうと、今では確信があった。
クウォンはリガージェの上にぐったりとうつ伏せ、汗まみれの体の熱を、リガージェは左手でゆっくりとなでる。
洞窟の入口に風の音がひびいて、いつしか風向きが変わっていることを体のどこかに感じた。
嵐はすぎた、とクウォンは思いながら、暗い岩天井を見上げた。
2人は海水で体を洗って、乾いた岩棚で横たわっていた。その間どちらも無言だったが、リガージェは数度呻いてふくらはぎの傷を覆う布を巻き直し、そのたびに後ろめたさがクウォンの喉元まで這いのぼった。途中でとめるべきだったのだとは思っても、それが不可能なほどリガージェの体は、愛撫は、クウォンを夢中にさせた。
リガージェは頭の後ろで両手を組んで、無言のまま仰向けで目をとじている。眠っているのだろう。それとも考えているのだろうか、とクウォンは腹の底に固いねじれが生じるのを感じた。嵐と疲労のもたらす高揚感がすぎて、リガージェは後悔しているのだろうか。
クウォンは、何かを求めるつもりはなかった。これはただ、嵐の間におこった出来事で、リガージェが求めているのはクウォンではなくトーアだ。たまたま嵐の間──本当の嵐と、リガージェの中にあった嵐と──、クウォンがここにいただけのことだった。
ただの嵐だ、とくり返す。人の上を吹き抜けていく。ただの嵐。何の意味もない。この先、何かがかわることもない。
「寝ろ」
いきなり肩に手がふれて、クウォンは硬直した。寝そべったままのリガージェがクウォンの肩を片腕ですくって、強引に抱きよせる。クウォンの体は裏返ってリガージェの上にころがり、顎が彼の肩にふれ、上半身が半分リガージェの胸板の上にのった。
「リガージェ──」
「お前は考えすぎる」
上げた頬をぱたんとはたかれ、仕方なくクウォンはリガージェの肩口に頭をのせた。ぴたりとくっついた、強靭で固い体の感触に息をそろそろと吐き出しながら、心臓の鼓動が喉元まであがってきそうなのをこらえた。
リガージェの腕が何かを約束するものではないことはわかっている。だが、この男がクウォンに安らぎを与えようとしているのは確かで、そのぬくもりがクウォンの全身をゆっくりと満たしていく。体の力が流れ出すように抜けて、緊張していた肩がリガージェの胸元に沈んだ。
「船を作らないとな」
リガージェの低い声が小さな振動となってクウォンの体につたわる。リガージェの肩に顔をつけたまま、クウォンはうなずいた。嵐はすぎた。彼らは元の場所に戻って、失った船のかわりになるものを手に入れなければならない。
だがリガージェが古い船を探すのではなく、新しい船を手に入れようと考えていることに、少しクウォンは驚いていたし、何故か心の深いところを動かされてもいた。その新しい船に、リガージェはクウォンを乗せるつもりなのだ。
そこに意味などないかもしれない。だがリガージェとの関係を別にしても、新しい船という考えはクウォンの心をはずませた。まだ海にふれたことのない、まだ嵐を知らない、風を知らない船。
「手伝う」
「できるのか?」
「故郷で、船大工の弟子をしてたよ」
馬鹿にするような声にむっとして答える。考えてみればリガージェに何も言ったことがないから見下されても仕方がないのだが、クウォンはクウォンなりに故郷でいくらか修行をつんでいる。
「まだちゃんとした船を作ったことはないけどな」
「じゃあ、今度作るのがはじめてのお前の船か。沈まないといいな」
相変わらず小馬鹿にした調子だったが、リガージェの声はするどくはなかったし、クウォン肩をぽんと叩いた手はあたたかだった。
「もう眠れ」
──嵐はすぎた。
それをリガージェのおだやかさに感じながら、クウォンは疲れきった体を丸めて目をとじた。また次の嵐がいつか来るかもしれないが、彼らは今日の嵐を一緒にくぐりぬけたのだ。そのことにはきっと意味がある。クウォンの体に残るリガージェの熱は、幻ではない。
クウォンの寝息が肩口にあたたかく曇るのを感じながら、リガージェは目をあけて洞窟の暗闇を眺めた。もう外は夕暮れなのだろう、入口の方から入ってくる光は弱々しく、ほとんど自分の鼻くらいしか見えないような暗さであった。
クウォンはリガージェの脇に身を丸め、まるで傷ついた獣のように眠っている。いや、実際そうなのかもしれないとリガージェは思った。故郷がクウォンを受け入れず、放り出した時、クウォンは深く傷ついた筈だった。
はじめてクウォンを見た時のうなだれた様子を思い出し、リガージェは顔をしかめた。クウォンのことを、彼は何も考えていなかった。クウォンが苦しんでいることや、リガージェを彼なりにいたわろうとしていたことも気づかず、いや目をそむけ、トーアを失った痛みと怒りをクウォンに向けてためらいもしなかった。トーアのいるべき場所にいるクウォンへ、憎しみを抑えられなくなりそうな時すらあったのだ。
肩によりかかるクウォンの体のぬくもりを感じながら、リガージェはまた目をとじた。
「クウォン」
小さく、口の中で名前を呼んでみる。その名が自分にどういう意味を持つのか、まだリガージェにはわからなかった。トーアのかわりにはなるまい。トーアの存在はリガージェの内側に焼印のように残って、彼が死ぬまで薄れることはない。そこに誰かを入れることはできそうになかった。だがクウォンのぬくもりは深く肌の内側に入りこんで、やすやすと消えそうにもない。そのことが、少しリガージェを混乱させていた。
船を作ろう、と思った。
クウォンと一緒に船を作り、その船で海へ出れば、また何かがわかるような気がした。リガージェにとってトーアが何であるか今日の嵐の中でやっとわかったように、いつか彼にとってクウォンがどんな存在なのか、わかる日がくるかもしれない。
そうと一度決めると、心はまっすぐにさだまったようだった。
クウォンの体に左腕を回し、互いにぬくもりを分けあいながら、リガージェは目をとじて静かな眠りに落ちていく。風と波の音が遠くひびき、彼の意識を久しぶりの安らぎの中へと沈めていった。
END