南東からたなびく雲の黒さを見たリガージェは、くそっと口の中で悪態をついた。
長い両腕をのばして網を引き上げていたクウォンが、さっと振り向いた。手を海の中に浸して網をつかんだまま、首をねじってリガージェを見た黒い目は、怯えに満ちていた。
お前に言ってるわけじゃない、とリガージェは苛立つ。
「くそっ」
はっきりと吐き捨ててにらみつけると、クウォンは身を小さくちぢめて網へと向き直った。両腕を交互に動かしながら慣れた手つきでたぐった網の中では、銀の鱗を光らせながら数匹の魚がはねていた。網に刺さるようにして糸の間で体をのたうたせている魚をクウォンは素早く引き抜いて、小舟の船尾へと投げる。魚籠へ魚を放りこんでいくクウォンは、そうしながらもまだ体をちぢめていて、まるでリガージェの視界から消えることだけが望みのように見えた。
体の深いところを罪悪感がかすめたが、リガージェはささいな痛みを振り払った。クウォンは痩せてはいるがリガージェと背は同じほどで、年も同じほど──おそらくは22、3くらいだろう。いちいち泣き言を言うような年齢ではない。
いや、泣き言を言うくらいならまだよかったのかもしれない。ほとんど口をきこうとせず、怯えた、湿っぽい沈黙を保つこの男が、リガージェは心の底から苦手だった。時おりその黒い目で見つめられると、横っ面をはりたおして喝を入れてやりたくなる。
一人で漁ができない以上、クウォンをつれて海に出るのは仕方がないことだ。だが、小舟の上で2人きりになると、クウォンの陰気で頑固な様子がいちいちリガージェの心を刺すのだった。滅多に殴ったこともなければ、必要以上に怒鳴ったり罰を与えたこともない相手が、世の中で一番無慈悲な主人を前にしたかのように怯えて呼吸をうかがう様子に、いつまで耐えられるか自信がなかった。
船の中にひっそりと息をひそめた沈黙の気配がある。昔はちがった。リガージェの船にはいつも笑い声と会話がたえなかったし、海の上に何時間いても飽きることなどなかった。
「戻るぞ。網をくくれ」
ぶっきらぼうに命じると、クウォンは黙ったまま魚を払った網を長くのばし、帯のようにたたみはじめた。腰に下げていた数本の紐を使って、網が絡まないように手早くくくる。それを小さく丸めて魚籠の一番上に放りこみ、蓋をとじた。
その間にリガージェは帆柱にくくりつけてあった帆をほどき、帆桁をつかんで風をにらむ。晴れていた筈の空をあっというまに雲のすじが覆い、四方に散り流れながらふくらんでいくのを見上げて、彼は口の中で激しい悪態をついた。頬にあたる風の匂いがさっきまでとまるで違う。最悪の場所で、最悪のことになりつつあった。
(それもこれも──)
帆の方向を変えるために帆桁を肩にかつぎながら、胸の奥によどむどす黒いものを押し殺そうとする。全身の筋肉をふくらませ、足を踏みしめ、一人で帆を回した。軸受けにはめこまれている帆柱が木の音をきしませて抵抗し、風にはためく帆がリガージェの体を反対側に引きずっていこうとする。船は大きくなった横波にゆすられていたが、リガージェの両足は船底を覆う揚げ板に貼りついたように安定し、すべての力を受けとめていた。
7つの頃から海に出て漁をし、15の時に自分の船と寝床を持った。それからずっと、彼の暮らしは海の上にあった。幼い頃から兄弟のように育った従兄弟と力をあわせてこの船をつくり、共に帆を揚げ、日々の糧を気性の荒いこの海から得てきた。
その彼の勘が、空にのびているのはただの気まぐれな雲ではないと、するどく警告していた。案の定波のうねりが船体をとらえはじめたのを裸足の裏に感じて、荒々しい悪態をつきながら帆柱を回しきる。帆柱を少し浮かせてから、軸にはめこむように柱を深くさしこんだ。これで風に吹き戻されることはない。
船体が波にのってぐらりと傾いた。波が荒れ出すのがひどく早い──背すじをひやりとしたものが這った。今日は魚が思うように取れず、逆蛇と呼ばれる沖へ向かう潮にのって遠海に出たのだ。逆蛇にあたたかい流れがぶつかるあたりは潮が巻きやすいが、大型の魚が獲れることがある。それでも今日の漁は思うようにはいかず、その苛立ちがリガージェの空の異変に大する注意力を奪っていたようだった。こんなに気付くのが遅れたことはない。
──トーアがいれば。
風の匂いひとつに敏感だった彼ならば、異変の前ぶれに気付いただろう。
舵の柄を握りながら、リガージェは肌を喰いやぶりそうな強さでつきあげてきたどす黒い感情をこらえようと、歯をくいしばった。すでに一巡の季節が流れているというのに、荒々しい痛みはまだ現実の傷であるかのように彼の内臓に喰らいついて離れまいとする。体の一部が奪われたような喪失がうずめられないまま、痛みと、それをしのぐほどの激しい憤怒が体中にあふれ出して、彼をどこかへかりたてていこうとする。
大きな息をついて体に満ちた緊張を吐き出そうとしたが、腹の底がねじれるほどの苦痛は消えず、リガージェは舵にすがって片膝をたてた。左手で船べりをつかみ、身をのり出す。両目をみひらいて荒れはじめた海をにらんだ。挑むように。
波にゆすられた海の表面には、蛇の鱗のように泡の模様が浮きはじめている。うねりが船の舷側にぶつかって、遠くの波の間を数匹の魚がはねたのが見えた。嵐がくる。だが恐しくはない。
いくらでも荒れろ、と思った。体をさいなむ憤怒をそのまま海に叩きつけるように、彼は舵を押しこんだ。
(俺を呑みこんでみろ。あの日、トーアを呑みこんだように──)
舳先を波へ向かって立てると、旋回を予期していなかったらしいクウォンがよろめいて船べりをつかんだ。目を海に据えたまま、リガージェが怒鳴る。
「うすのろ! 帆綱を回せ!」
両手両足をついて這うようにまろびながら、クウォンが帆桁の先についた綱をつかみ、帆がしっかりと風をはらむように引く。よろめきながらも獣のように敏捷な動きを目のはじでとらえ、リガージェは舵を回した。
空はまるで煮つめたようにあっというまにどす黒くかわり、海の上を遠い獣の叫びのようなきしみが渡る。海全体がきしみはじめていた。波の山をつなぐ白泡が、次々とうねり出す。波の内に秘められていた激流が解きほどかれ、海は隠されていた獰猛さをむき出しにしつつあった。
盛り上がっていく波に小舟がのり、波の腹をすべって、うねる波間に落ちた。
──風が回る。
リガージェは波と風を血ばしった目でにらみ、奥歯をギリリと噛んだ。船首に右膝を立てて前へ身をのり出しながら、舵を右手に握る。陸地に戻るにはあまりに遠い。早い嵐が短い時間で通りすぎていけば、その間を耐えぬくことはできるかもしれない。だがひどく嫌な予感が腹の底に重くとぐろを巻いていた。
海風が叩いて赤らんだその顔を、たちまちのうちに大粒の雨が濡らしはじめた。
嵐はほとんど、なにもない宙からいきなりわき出てきたかのようだった。巨大な魔物のような力が船をわしづかみにし、波の頂上から波底へと叩きつける。そのあまりの力に、クウォンは帆綱に手をかけながら目がくらむ思いだった。あれほどおだやかだった海に、どうやってそんなものがひそんでいたのだろう。小舟の船首を見ると、その海に挑むかのように前のめりに舵をつかむ男の後ろ姿があった。リガージェの全身に猛々しい力が満ち、獣のように海にすべての意識を向けている。陽を吸ってあたたかな褐色に焼けた肌を、叩きつけるような雨が濡らしていた。嵐に真っ向から対峙してゆるむところのない後ろ姿には、何故かクウォンの息を奪うほど凄惨なものがあった。
ふいの横波が舷側に砕け、まるで波に殴られたような衝撃に、帆綱にしがみついていたクウォンの体が船底にぶつかってはずんだ。手が綱から離れる。横すべりになった体が脇腹から船べりに叩きつけられ、視界がくらんだ。落ちる。起き上がろうにも上下を一瞬見失い、船にすがりつこうと両手をやみくもにばたつかせた。
「愚図!」
ののしりの声と同時に、ぐいと腰帯をつかまれ、あっというまに帆柱の方へ引きずり戻された。船がまたうねり、強い腕に反射的にすがろうとしたクウォンの両手はぴしゃりと叩かれる。
「どんくせえのもほどほどにしろ」
とびつくように舵へと戻りながら、リガージェがいつもの鞭のような口調で吐き捨てた。あわてて帆のそばの持ち場へ戻ろうとするクウォンをさらに怒鳴りつける。
「綱を腰に巻いて、帆柱にくくっとけ! 半端じゃなく荒れるぞこいつは」
「そんなに荒れるんですか」
口から思わずこぼれた声は、恐れよりも畏怖に満ちていた。昔から彼は、海の荒々しさが好きだった。
リガージェが前のめりになっていた体を戻し、たくましく盛り上がった肩の向こうからにらむように彼を振り向く。クウォンへ向けられた視線は切りこむように鋭いもので、クウォンは質問を取り返そうとするように小さく身をちぢめた。余計なことを言ってまたこの男の気を荒立ててしまったと思うと、胸の奥がきしんだ。
「荒れるのが楽しいのか?」
ざらついた声は風と波の向こうからもよく聞こえた。リガージェは海の男らしく、腹の底から力の入った声をひびかせる。クウォンは目を船底に伏せて帆柱に綱をくくりながらうなずき、それからリガージェはもう前を向いているだろうと思って声に出した。
「昔から、好きで‥‥」
何を呑気なことを言っていると叱りとばされるだろうと思ったが、リガージェは何も言わなかった。クウォンが目をやると、男は舵を握ってうねる波間へ身をのりだしていたが、ふいに全身をのけぞらせるようにして笑った。体の底からつきあげるような野太い笑いだった。それは長くつづき、やがて痛みのようなものに引きつる声をこぼして消えた。
自分の体と帆柱とを綱で手早く結びながら、クウォンはリガージェの後ろ姿を見つめていた。乱暴な口を聞き、おそらくクウォンを心の底からうとましく思っているこの男が、クウォンは嫌いではなかった。
荒い気性をそのままぶつけるようにクウォンを罵倒する、それが彼の本性でないということはわかっていた。リガージェは、旅回りの商人がつれていたクウォンを干し魚の山と引き換えにして引き取ると、その夜から乾いた寝床と毛布を与え、自分と同じ食事を分け合った。冬の間、彼らの食事がひどく貧しくなった時でさえも、クウォンの分を自分のために取ろうとはしなかったのだ。
海の上では容赦なくクウォンを殴ったが、それもクウォンが言われたことを呑みこめずにいる時や間違った時だけ、彼に物事を叩きこもうとする時だけだった。いったん海に漕ぎ出せば、ひとつのあやまちが彼らの生死を分けるからだ。リガージェもそうやって仕込まれたのだろう。
殴られる痛みや罵倒など何ほどのものでもなかったが、クウォンは何より、自分を殴るリガージェの痛々しい姿に耐えられなかった。引き締まった口元、高い頬骨、漁の間の傷が白っぽく残った広い額──リガージェの太い唇が歪む形にはどこか、この男がもとは陽気な男だったのではないかと思わせるところがあったが、彼がクウォンの前で笑うことはなかった。それどころか彼は二度と笑わないのではないかとクウォンが思うほど、リガージェはいつも苦しげで、時おり痛みにまなざしがくもり、体の奥に決して消えない憤怒の熱をかかえこんでいるように見えた。
クウォンを見るたび、何か一言言うたびに、リガージェの目の奥には心臓を刻まれるかのような痛みがよぎって、その痛みの強さがクウォンを怯えさせた。何ごとも真っ向から叩きふせていくようなこの激しい男が、どうにもならない苦痛を体の奥に押しこめようと無言でもがいている姿は、クウォンに正視できるものではなかった。
クウォンの存在が、リガージェを苦しめている。
そんなことは望まなかった。だがクウォンにはもうほかの行き場がなかったし、リガージェはひとりではどうあっても漁ができない。彼らは互いを必要としていた。どれほどクウォンが怯えようと、どれほどリガージェが嫌悪しようと。
できるだけ息をひそめ、リガージェの邪魔にならないようにしながら、クウォンはリガージェの痛みが時とともにやすらぐようにとただ願った。どんな雨も、どんな嵐もいつかやむように。クウォンの中の嵐もいつしか消えていったように。
咆哮のような強風が耳を打ち、船は盛り上がっていく波の腹をすべった。舵と体重移動とを同時に使いながら、リガージェは船首をひたすら波に立てようとする。船は崩れていく波の下をくぐり、まるで海からはじき出されるようにはねて次の波にのった。
もうじき限界がくるのはわかっていた。もともと喫水が浅い漁船だ、波を切るようにはできていない。四方から湧きあがるようによせてくる波に、いずれつかまる。その前に舵が折れるかもしれない。
さらに沖へと流されていくのはどうにかふせいでいた。大型の船ならば沖へ出て嵐をすごすが、こんな小舟では沖の高い波の前で木っ端微塵になる。すでにクウォンに命じて帆は切り落とし、裸の帆柱だけが船の上で揺れ、それすらもたっぷりと波をかぶって重い。強烈な波に舵を立てようとしながらリガージェは歯をくいしばった。凄まじい力に体ごと持っていかれそうになる。
体中がきしんで肩の筋肉が引きつるように痛んだが、舵受けに足をかけ、すべての力をこめて舵を保とうとした。海が牙を剥いてくるのならば、それに全身で立ち向かう。海は彼の母であり、おそろしい敵であり、トーアを奪った仇であり、いつの日か彼も還る大きな墓場であった。
舵柄を握った両手の上に、別の手がかかった。彼のものほど陽に焼けていない、少し細い手の持ち主へと、リガージェは怒鳴った。
「帆柱にくっついてろ!」
「帆は落としただろ!」
クウォンに怒鳴り返されて、嵐から気がそれるほど驚いたが、とにかくクウォンの力とともにリガージェは舵を倒した。丸まって流れてくる波の上で船がはずみ、目の前に覆いかぶさるような波の壁にぶつかりそうになる。船腹からすべるように船を波にのせながら、リガージェはもう一度怒鳴る。
「しがみついてろってことだよ!」
返事はなかったが、クウォンがリガージェのそばを動こうとしないことが答えのようなものだった。お前が何の役に立つんだと、沸きあがってくるどす黒い怒りの中で、リガージェは顔に叩きつける雨とも波ともつかないものを拭ってしぶきの向こうに目をこらした。クウォンの腰にはちゃんと縄が巻かれていて、この男はそれを帆柱まで長くのばしているらしい。賢しらな、と思ったが、普通ならすくみあがるほどの嵐の中、リガージェに怒鳴り返してきたクウォンを見直す気持ちも心のどこかにあった。そんな骨のある男だとは思っていなかった。
「船をできるだけ東へ流すぞ」
「東ってどっち」
戻ってきた答えは妙に無邪気で、リガージェは思わず声を上げて笑っていた。体中にはりつめていた緊張がゆるみ、どこからか新たな力がわきあがってくる。クウォンの腰帯をつかんで一緒に体を右へ倒し、波に傾いた船の均衡を取りながら、風に負けない大声で答えた。
「俺が向かう方だ」
クウォンは海水がしみる目をしばたたいてから、口をあけて笑った。リガージェも歯をむいて笑った。2人の男は高揚した笑い声をたてがら、白く逆巻く波の間へとためらいなく船をつっこませていった。
小舟が転覆する寸前、2人で力をあわせて帆柱を倒したところまでははっきりと覚えていた。船底からあふれ出してくる水をかき出す手はなく、あったとしても波ひとつでまた水浸しになる。
春とは言え海水に濡れた肌は冷たく、クウォンは時おり骨まで海風に削られている気がした。四方のどこを向いてもただ視界を覆うばかりの高波。疲労でほとんどものが考えられないまま、船にしがみつくように這いつくばるのがやっとだった。
東へ、とリガージェは言ったが、もはやこの男がそれを覚えているのかどうかもわからなかった。リガージェはもうクウォンのことなど眼中にない様子で嵐に向かって怒鳴り、笑い、早口に風に呼びかけている時すらあった。トーア、と誰かの名を叫ぶ声は血を吹くようだった。
──それが彼が失った者の名なのだろうか。
その名がこの男をいつまでも苦しめているのだろうか。
そんなことを考えている間にクウォンは上からかぶさってきた波に体をすくわれ、船の中でしたたかに頭を打った。海にころげ落ちてもおかしくなかったのだが、次の瞬間、顔を熱い痛みがはしって目をみひらいた。
「起きろ!」
もう一発、リガージェがクウォンを殴る。木偶のようにぐったりとしたまま、クウォンは首を振った。起きている、というつもりだったのだが、どう誤解されたのかリガージェは火のような怒りを目にともし、今度は平手でクウォンの顔を張った。
「いいか、俺はてめえまで海にくれてやる気はねえからな! 起きて働け、うすのろ!」
つかまれた腕にくっきりとリガージェの指の痕がついているのを感じながら、クウォンは起き上がろうとしてもがいた。男の指がひえた体にひどく熱くくいこんでくる。信じられないほど熱い指だった。疲労と緊張と、わけのわからない高揚感に胃をわしづかみにされて、クウォンは不意に痙攣した。
船べりまで這いずると両手でへりにしがみついて、まだ胃の中に残っていたものをどうにか吐き出した。波がまっすぐに顔を打つ。海水にあらわれた顔も体もひりひりしていた。リガージェの手がクウォンの腰に巻いたままの綱を持っているのを感じて、振り向く。
「舵は?」
「折れたよ」
リガージェは呑気に足を組み、揚げ板をどかした船の底に座っていた。腰近くまで水が溜まっている。魚がいつのまにか入りこんではねているのを片手ですくって、船の外へ放り出した。
クウォンはまだ揚げ板の残った場所へ座りこみ、疲労にかすむ目をこすった。大きな波が船を持ち上げるが、彼らは船が転覆しないように体重を波の側にかけ、船を波間にすべらせる。舵が折れたせいで、船は波の中をまるで目的なくさまようようにぐるぐると回っていた。
「風がやんできたのか?」
望みをかけたクウォンの言葉に、リガージェは首を振った。
「また来る。だが、随分陸に近づいた」
舵が折れ、水浸しになった船の中に座りこんで自信たっぷりに言うリガージェを、クウォンは馬鹿のように見つめた。雨に視界がかすんで、霧のようになった海のどこを見ても陸など見当たらないし、どっちが陸なのかなどわからない。疑念があらわれた視線に、リガージェが歯を剥いた。
「うまくいけばそろそろ潮にのるころだ。洞窟に入っていく潮がある。それをつかまえれば、舵がなくとも陸まで近づける」
「‥‥‥」
まだ半信半疑だったが、とにかくクウォンはうなずいた。リガージェは海について嘘をついたことはない。だがこの嵐の中で人間の感覚を信用できるものなのか、それが平時のように正確なものなのかがクウォンにはわからなかった。
風も波も四方から押しよせて、船はいつまでも同じ場所を回っているように思える。泡立った海はしぶきと白波に覆われ、凄まじい力で海を喰いやぶるようにして新たな波が盛り上がっては、小船に襲いかかるのだった。
ここで死ぬのかな、とクウォンはふっと思った。おかしなことに、嵐に襲われてからここまで、死のことはクウォンの頭をよぎらなかった。ただリガージェに従い、彼の命じるままに全身の力を振り絞って働いただけだ。だが座りこんで海を見ているリガージェの落ち着いた表情には、どこかクウォンに死を覚悟させる凄みがあった。いつも怒りをたたえてするどかった目元がやわらいで、どこか遠くを見るようにまなざしはけぶっていた。
──死ぬ気か。
クウォンの心臓がどきりとちぢんだ。リガージェは戦うのをやめたのだろうか。陸が近いというのは本当だろうか。クウォンを、あるいは己を誤魔化すための嘘ではないのだろうか。
クウォンは膝をついてリガージェに近づき、リガージェが握ったままの縄を取った。クウォンが自分を帆柱にくくっていた命綱の片はじだ。それをリガージェの腰帯に通して結びはじめると、頭上でリガージェがうなった。
「おい」
「俺は泳げるよ」
重石になるつもりはない、と告げる。もし海に投げ出されたら、リガージェと一緒に泳ぐ覚悟だった。この男が何を考えていようと、勝手にひとりで沈ませるつもりはない。
ちっ、と頭の上でいまいましそうな舌打ちが聞こえる。もし殴りたいなら勝手にすればいい、とクウォンが下を向いたままふやけた指を動かしていると、後頭部をゆるくはたかれた。
「日が暮れる」
リガージェはうまく結べないクウォンの手から綱を取り上げ、さっさと綱のはじを回して結び目を作る。顔を上げたクウォンに、苦々しいしかめ面を向けた。
「‥‥‥」
リガージェが何か言おうとしたように見えて、クウォンが聞こえてこない言葉を聞きとろうと目をみはった時だった。さっとリガージェの表情が緊張し、強靭な腕がクウォンを引きよせて船底に倒しながらかばいこんだ。
ドンと全身を衝撃が突き上げ、体が船ごと斜めに傾く。ころがり落ちそうな恐怖にクウォンは支えを求めてリガージェの腰にしがみつき、今度は2人の体が宙に浮き上がったのを感じた。波の間を船がはねている。船体がきしみ、何かが折れる音が四方からした。船が裂けはじめている。
リガージェがクウォンの背を力強く抱き返した瞬間、クウォンはするどく喘いだ。固く鍛え上げられた両腕がクウォンを限界まで引き寄せ、船底に溜まった海水の中で彼らの体はぴたりと重なりあい、両足が絡んだ。嵐の高揚感とはちがう熱い感覚がクウォンの背骨をかけのぼって、こごえていた全身に一瞬で火のような痺れが回る。
リガージェの体はどこもかしこも固く、荒々しかった。この男がそうであるように。波が彼らの上に覆いかぶさり、全身を泡のうねりが擦ってどこかへさらっていこうとする中、錨のようにリガージェの存在にしがみつきながら、クウォンは耳元に乱れた息を聞いた。しっかりとクウォンをかかえるためだろう、リガージェの顔がクウォンの首すじにうずめられ、彼の陽に荒れた肌がクウォンの肌とふれている。
時間がひどくゆっくりと流れているような気がした。ごくまれに、海が蜜のように濃くなって、船をどこにも向かわせることができなくなる時がある。そんな時は水に櫂を入れてもねっとりと重く、海はまるで異界のように見える。それに似た濃密な流れの中に全身がとらわれ、身動きできないまま、どこか得体の知れない深みへと沈みこんでいくかのようだった。
風が激しい怒りの叫びをあげた。風が戻ってきた、とクウォンは痺れた頭のどこかで思う。リガージェの言う通りだ。やはりこの男は海に関してまちがったことがない。唇に小さい笑みをうかべて、クウォンはリガージェの腰を両腕で抱きこんだ。
凄まじい音をたてて舷側の板がはがれた。船はゆっくりと裂けはじめ、彼らの体は重なりあったまま泡立つ海へと落ちていった。
波の中で体が回転し、上下がまるでわからない。普通は光で海面の方向がわかるのだが、厚くたれこめた雲は陽光を通さず、海の上も海の中も等しく暗がりに満ちていた。
リガージェはクウォンをかかえたままできるだけ体を丸め、じっと動かずに息をつめた。泡が流れすぎていくような音がぷちぷちと耳の中を抜け、喉の奥で苦しい熱がふくれあがる。体が浮いていく方が上だ。だが波が彼らを巻きこんで渦のように海中で暴れ、体勢がまるで安定しなかった。
幸いクウォンはほとんど動かなかった。もがいたり暴れたりしたら手に負えないところだったが、彼はただリガージェにしがみつき、体の力を抜いていた。気絶しているのかと疑うほどだったが、リガージェの腰の後ろで組まれた手にはしっかりとした力がこもっていた。
腕の中にかかえこんだクウォンの体はリガージェが思っていたほど痩せてはいなかった──そう言えばこの一年まともにクウォンのことを見ていなかったことに、今さら気がつく。リガージェの中では今でもクウォンは、巡回商人がつれてきた時のままの痩せぎすの陰気な男だったが、この一年、不服ひとつ言わずに働いてきたクウォンの体にはしっかりとした筋肉がつき、しなやかで強靭だった。
その全身がふいにリガージェの腕の中で小さくはねる。彼がこらえていた息を一気に吐き出したのがわかって、リガージェは緊張した。まだどこが上かわからない。息がつきたのだろうに、こらえて暴れないようにしているクウォンの体をかかえこんで、リガージェは必死に海の中で方向を探した。彼の息も肺の中でふくれあがり、喉元まで焼けつくような苦痛がのぼってきていた。
一瞬、波がおだやかになったように感じた。体がふっと浮く。かっと目をみひらいてクウォンを抱きかかえた腕に力をこめ、リガージェは体に残った息をふりしぼりながらそちらへ向かって一気にのぼっていった。
水面から顔が出た瞬間、口をあけて飢えたように息を吸いこんだ。横でクウォンが激しく咳こんでいる。そのやかましい音を聞いてほっとした瞬間、上から波が叩きつけるようにかぶさってきて、2人はまた波の奥へ放りこまれた。体が離れるが、腰帯に巻いた綱が引きあって彼らをまた近づける。
水を飲んでしまったのか、溺れそうに暴れるクウォンをとりあえず放っておいて、リガージェはしがみつくものを探した。クウォンを引きずるように波の中を泳ぎながら、彼は竜骨の一部らしい長い木へと腕をのばす。三本の木を継いで作った竜骨は、継ぎ目から割れていた。
太い木材にしがみつき、右手をのばしてクウォンの襟首を引きよせた。クウォンは喉が裂けるような咳をたてながら、竜骨に両腕を回して、青ざめた顔をリガージェへ向けた。
「東はどっち?」
子供が素朴な疑問をたずねるような口調にリガージェは思わず笑い出しそうになったが、それだけの余力はなく、口から出たのはかすれた溜息だけだった。
こいつを死なせたくないな、と思う。だがもうどれほどの力が互いに残っているのか彼にはわからなかった。荒波に揺れる船の名残りにしがみつきながら、体が削られていくようににぶく冷えきっていくのを感じる。海に落ちればあっというまに体力を消耗するしかないのだ。たとえ嵐が去っても、力尽きれば終わりだ。
「東は‥‥」
ぼんやりと呟きかかった時、荒波とはちがう引きが体にかかって、体が流されはじめたのを感じた。海流だ。
不安そうにリガージェをうかがうクウォンへ、リガージェは口のはじを持ち上げて笑う。
「俺たちの進んでる方だよ」
リガージェの言葉にクウォンはほっと安心した顔を見せ、ぐったりと頬を伏せて竜骨にしがみついた。海の中で切ったのか、額の傷に血がにじんでいたが、青白い唇にはかすかな微笑があった。リガージェの言葉を信じた様子だった。嵐が来ることも見抜けず、怒りのままに沖へ出て彼の命を危険にさらし、船までも失ったリガージェを、まだ信じている。
──こいつを死なせたくない。
リガージェは歯を噛んで、黒い雲が押しあう空を見上げた。トーア、と胸の内で名を呼んで祈る。トーア。お前がまだ海にいるのなら。力を貸してくれ。
これが探していた海流であることを祈りながらリガージェは体から力を抜き、できるだけ体力を温存するようにつとめた。まるで木の葉のように波に押し上げられては泡の中に落とされ、合間をぬって息をするのもやっとだった。クウォンは赤子が親にしがみつくように木材にしがみついて顔をぐったり伏せていたが、時おり名を呼ぶと返事をしてリガージェを安心させた。
波と風にもてあそばれながらどれほど時間がたったか、叩きつけるようだった雨粒は小さくなり、風の向きが変わったのを感じた。水平線遠くにかすかに陽がさしはじめている。
嵐が去りつつあるのがわかったが、海はまだ荒々しく彼らの体をゆさぶって丸呑みにしようとしていた。リガージェはこわばった首を動かして顔をあげ、いつのまにか見えてきた岩の群れをまっすぐに見すえた。
岩礁のひろがりの、ほんの一部だけが海面から無数の牙のようにつき出ている。波の下にはさらに多くの岩が尖り立ち、押しよせる波を砕いて白いしぶきを高くたてていた。岩が囲いこんだ内側の海はこの嵐の中でも驚くほどおだやかに見えたが、流れは早く、奥にある細い洞窟へと流れこみながら入口で大きな泡をたてていた。洞窟へ波が押しよせるたびに風と波が打ちあって獣の咆哮のようなひびきが鳴りわたる。
黒々とした岩礁に波が叩きつけられ、ずたずたに切り裂かれて散るのを見ながら、リガージェは小さく笑った。目の前にある岩礁は、彼らの体を砕くためにずらりと並んだ牙のようにしか見えなかった。もう少し潮が満ちている時ならまだ望みがあったかもしれないが、今となってはどうしようもない。このまま岩に叩きつけられて木っ端微塵になるのが彼らの運命のようだった。
「洞窟だ──」
ほそい声でクウォンが呻く。嵐の間にやつれた顔に目ばかりが大きく、その目は岩礁の向こうにある洞窟だけを見ていた。手前にある岩礁には目もくれない。気付いていないのかもしれない。
「助かったんだ、リガージェ?」
その声にあふれた喜びがリガージェの胸につき刺さって、彼は一瞬返事ができなかった。わずかな望みにすがっているクウォンに何を言っても残酷な答えになりそうだった。
「‥‥リガージェ?」
少し不安そうにまなざしをくもらせて、クウォンは竜骨にしがみつく手を動かす。もう両手が痺れてきているだろう、時おりに指をひらいたりとじたりするのだが、その動きがぎこちないことにリガージェは気付いていた。何度も海水を飲んだ喉はひりつき、全身は冷えてにぶく、竜骨にしがみついている肩は大きく揺すられるたびに痛んだ。
彼らのどちらも限界だ。リガージェはちらっと沖を見、岩礁と、その奥にある洞窟を見た。岩礁に砕ける波の音があっというまに大きくなってくる。さすがのクウォンも怯えた様子で岩礁の方へ目をはしらせてから、リガージェを見て、うなずいた。
どういう意味をこめてうなずいたのかわからなかったが、クウォンのうなずきでリガージェはふっと腹の底の塊が溶けたような気がした。この岩礁まで2人でもがくようにしてたどりついた、それ自体が奇跡のようなものだ。
岩礁に向かって流れに押されながら、2人と竜骨は波に揉まれ、上下左右に揺すられて、一気に岩へ向かって叩きつけられた。心臓がちぢみあがった瞬間、波は岩に砕け、彼らはぎりぎりで岩をかすめるようにして次の波に押し上げられた。
足が、目に見えない水中の岩をかすめ、ざっくりと肉に岩の切尖がくいこんでリガージェは悲鳴をあげた。痛みが鮮烈に足の中心を抜けていく。ずるりと木材から手がすべって、あっと思った時には波の中に放り出されていた。
間をおかずにクウォンが手を離して海へとびこみ、リガージェの体にしがみついて海面へ引き上げようとした。互いの腰に巻いた縄でつながっているのを感じながら、リガージェは痛む足で水を蹴り、クウォンの体を逆に抱きこむ。波の中で、離ればなれにならないよう、きつく。
船の中でクウォンを抱いた時に感じたのと同じ、奇妙な高揚が体の奥から背骨を通ってぞくりとのぼってくる。このまま水の奥へクウォンを引きずりこんでしまいたいという破滅的な衝動を押しやって、リガージェはクウォンとともに水面へ顔を出した。
目の前に、見たこともないほど巨大な波が迫っていた。襲いかかるように海面からつき出た波の表面はすべり落ちる無数の泡で覆われ、海面が波に吸い上げられるように次々と呑みこまれていく。凄まじい轟音が耳を叩いた。
「つかまってろ!」
声を限りにそうわめいて、リガージェはクウォンの体を抱きしめたまま波に向かって身を投げ出した。痛みを無視して両足で水を蹴り、巨大な波に巻き上げられるままに波に体をまかせる。
ぐうっと全身が持ち上がり、まるで宙をとぶような浮遊感に背すじがぞわりと戦慄した。真下に無数の岩の牙があるのを感じながら、大波に押し上げられた体が充分に岩礁を越えることを祈る。クウォンの腕がリガージェの背を抱きしめ、2人はまるで対になったかのように絡まったまま波の中をころがるように流れた。
次の瞬間、体が砕けたかと思う衝撃に息がすべて叩き出され、リガージェはクウォンの背に指先をくいこませてすがりながら、意識を失っていた。