肌にねっとりと染みこんでくるような暗闇の奥に、獰猛な気配がうずくまっているのを感じとった。陽光のさす外界がほとんど白に焼けて見えるほど、塔の闇は深く濃密で、手にした油燭のかぼそい炎など、今にも呑みこまれてしまいそうだ。
自分の足音までもが遠く深くへ消えていく。そうしてたてる足音のひとつひとつ、衣擦れのひとつ、鼓動のひとつまでもが闇の奥に聞こえている気がした。
「鍵をおとしてもよろしいですか」
背後から、ひっそりと抑えた衛士の声がした。彼らの1人として、戸口から塔の中へと一歩たりとも入ろうとはしない。光さす場所が、彼らの領分だった。ただものものしい武器を手にそこに佇み、痩せた呪法使いが塔の暗闇へのぼっていくのを見送ろうとしている。
「‥‥いいよ」
ギンジャシャは低い声で答えたが、狭い階段の壁に反響した声はいつまでも消えず、石の間で鳴っていた。
やがて背後からは重い扉が二重にとじられ、陽光のすべてが失せるた瞬間、わずかに聞こえていた外の風の気配が完全に断ちおとされる。鍵が回されれば、もう衛士はギンジャシャが決められた合図をするまで扉をひらかない筈だった。誰かが入ってくることもない
もっとも、入りたがる者もいないだろう。ここは石積みのひとつに至るまで呪を練りこんで作りあげられた呪法の塔。街の中心部にある城の、さらに中央から、まるで牙のようにまがまがしくそそりたった巨大な塔であった。塔の周囲30歩に渡って砂を敷きつめられた上に高い塀で囲われ、城の者すら塔に近づくことを許されていなかった。
城の支配者とそれにつらなる者、呪法師、それに塔の外に立つ見張りの衛士は塀の内側へ入り、塔の足元にある巨大な扉の表に重ねられた、無数の呪の紋様を見ることができる。だが、塔の中に足を踏み入れる者はさらに限られており、もうこの数年、ギンジャシャと、時に生きた獣をかついで運ばされる不運な衛士だけだった。
闇が深い。息をひとつ吸うたびに、体の内側にひんやりとした漆黒が染みこんでいくようだった。塔の空気はかすかにあたたかいほどなのに、骨がしんと冷えていく。一歩ずつ、石段をのぼっていく足音が静寂に反響してはどこかから木霊のように戻り、ギンジャシャはじっとりと湿った手を握りしめた。
塔はかつて高貴な囚人をとじこめるためにあったと言う。複雑な織物のように入りくんだ歴史を持つこの街には、様々な囚われ人がいた。他国の王、時には自国の王すらもこの街に虜としてとらわれ、牙のような塔の最上階で丁寧にかしづかれながら囚人としてすごした。
通りで放射状に区切られた円形の街の中心にあるこの城と塔は、街の核──そしてこの街が持つ力の核であった。だがそれは、ひどくいびつな、闇を内に呑んだ核でもある。その闇は歴史の闇でもあり、そして、塔そのもののたたえる闇でもあった。
増築をくり返された塔はそれ自体が城のように巨大であったが、正面のひとつを除いて、入口は決して作られることがなかった。窓もまたひとつもなく、塔の内部は夜ならずともつねに闇である。
──いや、今は、窓はある。
ただ一つの道である狭い石段をひたすらにのぼりながら、ギンジャシャは押されるように苦しい肺に息を吸いこみ、吐き出した。肌が呪法の濃密な気配にちりちりと総毛立った。
最上階の部屋の壁には窓がうがたれ、今や室内には陽光が燦々と浴びせかけられている。窓はご丁寧に南へ向けてある。窓にはめこまれた格子にも大量の呪法がかけられ、塔の封じは固い。数百年という年月、ただ何かを封じるためだけに重ねられてきた呪法が網目のように塔全体に覆いかぶさって、もはや呪法はひとつの生き物のように年経て息づき、育ちつづけていた。
この中に封じられるというのはどういう気持ちのものなのだろう、とギンジャシャは思う。こうして歩いているだけで肌から呪法の気配が入りこんできて、魂をからめとられそうになる。通常の人間ならばもうすでに意志が弱り、闇に呑まれていることだろう。まだ子供の時から塔に通いはじめ、10年以上たつギンジャシャでさえ、守りの呪法をまとっていなければ心を喰いつくされかねない。
闇の奥には無数のうごめきがあった。生きるものは虫1匹たりとも入りこまないこの呪法の塔で、闇の内側を動き回るのは、死者の魂ばかりだ。この塔にとらわれ、塔で死んだ囚人たちの魂が今でも呪法の呪縛にとらわれたまま、そうして闇の中を這い回っている。隙あらばギンジャシャの生気にたかろうと。
彼らの存在はもはや塔に融けこんで、呪法の力の一部となっている。そんなふうに人の魂を喰いながら、塔の呪法はここまで強大に育ってきたのだった。
空気のひとつひとつ、踏む石のひとつひとつに呪法が染みこみ、石段を踏んでいくギンジャシャの肌はそのたびに呪法に反応して服の下で震える。圧倒的な力に、今にも自分が呑みこまれてしまいそうだった。
そして今、その呪法は最上階の部屋に向けて、獲物を狩るがごとく引き絞られていた。そこにいる存在に向けて。この10年、そこに封じられている魔物へ向けて。
長い時間をかけて石段をのぼりきった。
体中が闇にまみれたような気がした。肌の内側がじっとりと湿っている。息が喉につまって吐き気がした。
油燭の黄色っぽい灯りで鉄の掛け金を探しあて、こわばった手でつかんだ。ギンジャシャの左掌に紋様の形で彫りこまれた呪法が鉄の輪と反応し、体の中に激しい炎のような力がはじける。塔全体が無音のざわめきをあげて、塔の呪法はその一瞬、封じこめた相手ではなくギンジャシャを凝視した。何者が入ろうとしているのかと。
体の中にある呪法と扉がぴたりと反応すると「鍵」の呪法が扉から外れ、闇の匂いを巻き散らしながら、ギンジャシャの体内にある呪法のさらに内側へとするりとすべりこんだ。体の奥に闇がひとつとぐろを巻く、それを感じて、ギンジャシャはゆっくりと息を吐き出した。
こうして呪法を体におさめるすべを学ぶ、それが城の「扉番」の役目でもある。はじめての時はのたうち回るほどの苦痛とおぞましさがあったが、すでにもう慣れていた。痛みを感じないわけではないが、それはを受けとめ、たじろがないすべを体が覚えこんでいる。呪法を使う者は痛みに耐えるすべをも学ぶのだ。
扉の隙間からあふれ出してきた白い陽光の方が、余程たえがたかった。塔の呪法になじんでしまった体は陽光の圧力を稲光の直撃のように感じ、ギンジャシャは唇を噛みしめると、呪法が外れて軽くなった扉をあけはなった。
そこは、調度のととのえられた部屋であった。かつて多くの高貴な客人を封じこめた名残りで、そのすべてが古いが、風が動かず虫の寄らない塔の奥で部屋はきれいにととのえられたままの姿を保っていた。綴れ織りの絨毯、壁にかかったタペストリー、豪華な浮き彫りの柱で天蓋を支えた美しい寝台、持ち物をおさめる櫃には細かな細密画を描いた貝殻と宝石が埋めこまれている。
陽光に涙がにじんだ目をしばたたき、ギンジャシャはからの寝台から顔をそむけて窓の方を向いた。格子がはめこまれた巨大な窓はほとんど部屋の壁の半分近くをしめ、黒い格子の向こうには光にあふれた青い空がひろがっている。
だが風ひとつ室内にはそよがず、部屋は、塔の濃密な空気をとじこめたままであった。塔は幾重もの呪法で外界から切り離され、陽光以外のいかなるものも通しはしない。
ここは、陽の光にあふれた檻であった。
格子の間からふりそそぐ白い光を全身に浴びながらも、ギンジャシャは体の奥底にある重い影のようなものがうごめくのを感じた。ギンジャシャの体に染みこんでいる呪法が、ここにある闇の気配を嗅ぎとって目覚めようとするのだ。陽光に照らされる部屋には、塔の闇よりもなお濃密な闇の気配がたちこめていた。
その闇の中心で、ひとりの男が、上半身を窓にもたせかけた体勢で格子に両手を吊るされていた。背を格子に向け、両腕と首を鎖で格子にくくられ、うつむいた顔は見えない。長い黒髪が肩から胸元へ垂れ下がり、床で蛇のように渦を巻いていた。もし目をひらけば闇のように黒い瞳でまるで人の魂を見通すように見つめるのが常であったが、この10年、「それ」が目をさましていることはほとんどなかった。
青光りする黒鉄の鎖に巻かれた手首は、背後からさす日に照らされて、焼けただれていた。まるで炎にあぶられているような、肌が煮えたぎった火傷の内側から、色のない血のような液が染み出して裸の腕から体へしたたっていた。
ギンジャシャからは見えないが、背中全体がただれているだろう。陽光に無防備に焼かれるよう上半身は裸にむかれており、首すじにまでめくれあがった無残な傷が見えた。もう10年、こうしてここにとらえられ、時おりに獣の血肉を与えられて命だけを保たれているのだった。
だらりと格子にもたれて崩れた体は動く気配を見せなかった。髪に隠れて見づらい首すじに目をこらし、ギンジャシャはそこに打ちこまれた傀儡の針がまだ刺さっていることをたしかめる。用心のために新たな針を指の間にはさみ、彼は油燭を床に置くと、息をひとつ呑んで男に──いや、塔の虜とされた魔物へと、近づいた。
陽光あふれる部屋だというのに、男へと1歩進むごとに闇の気配がみっしりと体をつつむ。塔の呪法の闇とはまるで質がちがう。人のものではない、人のつくり出したものでもない、魂の奥底に刻まれた、原初の、無慈悲で獰猛な闇。汗が背すじをすべり落ちた。
死体のように格子にくくりつけられた体は動かなかった。ろくな食事も与えられないというのに、少し痩せただけの体はしなやかで、裸の胸についた筋肉も締まった盛り上がりを見せている。枷にくくられていてものびやかな四肢は、猛々しいばねを内に秘めていた。その肌は異様なほど白く、首すじから胸元にかけて陽光がつけた傷が赤黒く散っていた。陽光につけられた無数の傷の斑点がなければ、きっと美しいだろう。
いや、傷があってもなおその姿は美しかった。それも息を呑むほど。そうしてとらえられた身だというのに、傷だらけの肢体には高貴さすら漂い、誰にも屈さぬ傲慢さをまとっている。
だがギンジャシャはそう考えることを自分に禁じていた。闇に属するものはたしかに度外れて美しいこともあるが、それはまやかしであって、人の欲望をうつしたものにすぎないのだ。彼らの美しさは人の心の弱さのあらわれだった。たとえどれほど美しく見えても、偽でしかない。師は彼にそう言いきかせた。
まるで闇を呼吸しているかのように喉をつまらせながら、ギンジャシャは魔物の足元に膝をつく。黒い下衣を与えられてはいるが靴はなく、骨ばった長い足の指にはやはり陽光のすじが赤くついていた。下衣を少しめくりあげ、ギンジャシャは骨ばった踝に正確に針を刺し入れた。足首を横に刺しつらぬく。
体が一瞬こわばり、すぐに弛緩した。ギンジャシャはひとつ息をつき、左手に下げていた小さな袋から骨の短剣と骨の器を取り出す。針を刺した足首をつかみ、血管の位置をたしかめてからゆっくりとふくらはぎに刃先をすべらせた時、ふいに深い声がささやいた。
「首から取らないのか?」
総毛立った。その声は一体どこからひびいてきているのか、まるで耳の中から直接囁いているようだった。
「もっと新鮮だぞ」
「‥‥‥」
まさかと顔を上げると、魔物の首があがり、黒い瞳がまっすぐギンジャシャを見つめていた。顔の半分近くを黒髪で覆われているが、まなざしはくいこむようにギンジャシャの中へ入りこんでくる。塔の闇のように。
咄嗟に意識を引きしめ、自分の心を殻で覆った。つけ入れられてはならない。闇の生き物に何かをゆるしてはならない。たとえどんなに美しくても、これは邪悪な生き物でしかない。
「王はまだ長生きしているか?」
まるで歌うように、それは言った。ギンジャシャの骨をじかに撫であげるようなやさしい声で。
「もっと長く生かしてやろうか。あの男が望むだけ長く。お前が望むだけ長く」
彼らは人を誘惑する。闇の底から、腕をのばして人間を引きずりこむ。耳をふさいでしまいたかったが、ギンジャシャはこの存在から使えるだけの血を絞り取らねばならなかった。左手に器、右手に刃を持ち、傀儡の針で封じた足にまた傷をつける。
血の色は人と同じように見えた。それまで気づかなかった匂いがむっと口元にたちのぼって、ひどい吐き気がした。恐怖感に指先が痺れる。執拗に聞こえてくる声は、10年もただここで屍のように飼われ、傷がただれるほど陽光にさいなまれているものの声には聞こえず、優雅で絹のようになめらかだった。
「それともお前を生かしてやろうか、ギンジャシャ」
全身がぞうっと冷えた。名前など教えたことはない。ここで彼の名が呼ばれたとすれば、前の扉番である師匠から一部始終のやり方を教わった時だけだが、あれはもう7年も前であり、この相手はまるで意識などなく呪縛によって昏倒していた筈だった。
白い肌に赤いすじがついた。刃先がふるえて魔物の肌を血で汚しているのを、ギンジャシャは唇を噛んで見つめた。象牙のような白い肌の下に、こんなに兇々しく赤い血がひそんでいるとはまるで信じられない。この血に、人の手では作れない呪法がひそんでいることも。
言葉を聞く必要はない、と心に何度も言いきかせた。ただ必要なものを取って下がるだけだ。かつて無数の拷問を受け、全身の骨を砕かれても何の秘密も洩らさなかったこの存在が、今になっていきなり何かをつたえようとする筈がなかった。ただ陽光からのがれるために甘いことを言おうとしているにすぎない。
枷は外れない。枷には無数の呪縛がこめられ、魔物の首には傀儡の針も打ちこまれている。このあふれる陽光の中で、彼には何もできない筈だ──
がしゃ、と重い金属の音が鳴る。目のすみで何かが動いて、ギンジャシャは骨の短剣を握った手を大きくふるわせた。刃はざくりと男の肌にくいこんで、匂うほどに赤い鮮血が傷を押しひらいてあふれ出す。
はっと息を呑んだギンジャシャの目の前で、長い指がその傷を拭った。肌からは一瞬にして傷が失せていた。陽光のつけた赤黒い斑点さえも。
こわばった顔をあげると、息がかかるほどの近くからギンジャシャに微笑する顔があった。美しい、闇色の目が彼を見つめ、一瞬にしてとらえていた。
枷にくくられていた筈の両腕が、やすやすとギンジャシャの首にかかる。
「それとも、それ以上のものをお前にやろうか」
「‥‥‥」
恐怖が全身を這いのぼり、誰も助けには来ないと知りつつもギンジャシャは叫ぼうとした。その唇を魔物が己の唇で覆う。氷のような唇の感触にわなないたギンジャシャを、魔物は、蜘蛛が獲物をたぐるようにたやすく腕の中へ抱きこんだ。
何がおこっているのかわからなかった。どうやって呪縛をのがれたのか。針を、枷を、陽光を。だがこの塔の10年に渡る封じをはねのけて、今や魔物は自由になっている。
幻を見せられているのかと思ったが、体にふれてくるのはたしかに人ではないものの存在であり、ギンジャシャの全身がその異様な感触に反応して震えた。唇を舐め回されて鳥肌が立つ。冷たい、死者のような指がギンジャシャの首すじをなで、彼の長い黒髪をつかんで後ろに引き、口をあけさせようとする。こみあげてきた恐怖と息苦しさに思わず喘ぐと、歯をこじあけるようにして舌が入りこんできた。それもひどく冷たく、彼の舌の温度を奪おうかというように絡めて唾液の音をたてる。
鼻腔をつく血の匂いでギンジャシャは我に返った。取り落とした器から血がこぼれ、あたりにその匂いがたちこめている。塔の呪法がその血に惹かれて、塔全体がぞわりとうごめくのを感じた。
重なった唇の間から荒い息をつきながら、ギンジャシャは抱きすくめられた体を左右にもがいて腕を動かすだけの隙間をつくり、左腕を上げた。手のひらを男の胸に押しあてる。
瞬間、唇が離れ、ギンジャシャは息苦しい肺へとがむしゃらに息を吸いこんだ。目の前の顔が苦痛に歪むのを見つめながら歯をくいしばる。魔物の体にふれた左の掌には紋様の呪が刻みこまれ、そこから強い呪縛が発動していた。
ギンジャシャの体の奥に深く刻みこまれた、無数の呪法が一気に魔物の中へはじけると同時に、塔の呪縛がギンジャシャを通して魔物へと襲いかかっている。圧倒的な力がギンジャシャの体を通り抜け、魔物へ牙を剥く。
だが刹那、ギンジャシャは魂が粉々に打ち砕かれるような激痛によろめいた。
呪法には必ず返しがある。術者が己の能力以上の法術を発動できないのは、術を起こす力が足りないのではなく、その返しに耐えることができないからだ。そしてギンジャシャの術は体の奥に刻まれている分、その返しは直接彼に叩きつけられる。ギンジャシャは術を起こした術者でもあり、この瞬間、術そのものですらあった。
術を起こす苦痛に耐えるため、彼の師匠は徹底してギンジャシャに痛みの存在を叩きこんで彼を鍛えた。だが今や、この痛みに耐えられるかどうかギンジャシャにはわからなかった。体からすべてが吸い出されていくような異様な感覚に臓腑がねじれ、全身の細胞ひとつひとつに見えない牙がつきたてられ、彼から何かをむしりとっていく。塔の闇がまるで、魔物ではなくギンジャシャを獲物とさだめて襲いかかっているかのようでもあった。
術が次々と身の内にはじけた。発動させたものだけではない、ギンジャシャの内側にある呪法が連鎖的に動きはじめ、覚醒し、方向も目的もなく荒れ狂い出している。ただ震えながら立ちつづけていたが、それは倒れることができないだけで、痛みをこらえることも術をとめることもできなかった。叫べるならば叫んだだろうが、もはやギンジャシャの体は彼の思いどおりにならない。ただの術の媒介だ。
いずれギンジャシャの力が尽きれば、術は術者を喰いつくす。それももう遠いことではなさそうだった。
「面妖な仕掛けをするものだな」
煮えたぎるような苦痛と意識の歪みの中で、その声だけが不思議とはっきり聞こえた。夜の闇そのものをすくいとったような、しんと深い声。ほとんど同時に氷柱のような冷たさが体の内に刺し入ってきて、ギンジャシャは喉から声を出せないまま無音の絶叫に全身を引きつらせた。痛みよりも、全身の血という血を凍らせるその冷気が耐えがたい。術が滾る体のすみずみが一気に冷え、発動途中で中途半端に瓦解した術が、彼の意識を砕きながら散った。
激しく喘ぎながら、ギンジャシャは床に崩折れた。すべての術が一気に失せていた。彼を守っていた術までもが霧散する。今や無防備な獲物となった彼の存在を塔の闇がかぎつけ、無数の呪法と無数の呪詛が彼の魂へむらがりよってきたのを感じた。虫が死体にむらがり、むさぼり喰うように。
ギンジャシャは、一瞬前まで術者であった。だが今や喰われるのを待つ獲物にすぎない。
ひくひくと痙攣する指先で古びた絨毯をむしり、爪をくいこませ、ギンジャシャはどうにか陽光のさす窓へと這っていこうとした。このまま塔の闇に呑まれてしまう前に、わずかなりと光を体に感じたかった。塔の闇に落ちれば、2度とふたたび光にふれることはない。
だが指に力は入らず、いたずらに絨毯の表面をすべる。舌が口蓋に貼りついたようで声も出ない。息は喉に焼け、自分の肉体や精神の隙間から何かが入りこんでくるおぞましさに震えた。
痛みよりも、闇が体を満たしていく異様な感覚にのたうった。意識が明瞭なままどんどん己の存在がせばまり、喰いつくされていく。ギンジャシャはただもがきつづけた。あらがうこともできないまま、暗闇がせまる。
魂を喰いつくされる恐怖とあきらめと、塔の闇の中で永遠に這い回りつづけることへの絶望。声のない絶叫をあげながらのたうつ。力のない手を光へとのばし、救いを求めた。